28 mai 2010

5月27日 le jeudi 27 mai 2010 公定歩合 le teaux directeur

Le 27 mai 2010, jeudi
快晴。微風。

コンゴ中央銀行が公定歩合の引き下げを発表した。
日銀は公定歩合という名称を使わなくなって久しいが、その基準割引率および基準貸付利率は0.3%である。アメリカが0.75%。
BCC(コンゴ中銀)の公定歩合が70%から48%に引き下げられた。2006年にRDCの民間銀行の貸出し金利をきいたとき、既に驚くべき数値がでていた。今、公定歩合がたとえ48%になったところで、民間銀行の貸出しが増えるとも思えない。つまり投資が増えるとはいえない。金利の高さは、闇経済が跋扈する要因のひとつである。預金金利がでは高いかというとそうでもない。金融市場はなきに等しい。
確かにここ6ヶ月、為替市場は比較的安定している。1ドル=900フラン前後で推移していた。外貨準備金が1700万ドル。これはないよりましというだけ。経済成長率は年換算3~3.5%だそうだ。この成長も、ベースが低いのだから低迷もいいところだ。
海外からの投資を呼び込み、関税を引き下げ、税収を上げ、雇用を促進しない限り早期経済回復はない。ドル・リンクは危険だと思う。アルゼンチンの例がある。為替管理をして、中国の成長をみならうことだ。世銀やIMFに牛耳られていては将来はない。
世界的にみても地下資源だけではなく、耕作可能面積も広大で、人口だって7000万人以上あるのだ。それでアフリカの、いや、世界の大国になれないのは政治が悪い。しかし、政治が悪いなんていってられないだろう。自分の頭で考えよ。そして各々が各々の分野でチャレンジしていかないといけない。RDCの国歌はこんなフレーズで始まる。
『立て、コンゴの民よ!Debout Congolais !』

L’économie congolaise en progression prudente à l’approche du 30 juin

Le secteur minier est parmi les bien cotés ces derniers mois
La Banque centrale du Congo (BCC) vient de baisser à nouveau son taux directeur de 70 à 42% en l’espace de deux mois. L’inflation annualisée est de 12%, contre 50% au mois de janvier. C’est ce qu’indique la toute dernière note de conjoncture économique de la RDC publiée par la BCC.
Avec un taux directeur qui baisse, cela peut encourager la consommation et donc toute l’économie.
Cela montre que l’augmentation des prix des biens de consommation ralentit de manière générale.
A part l’inflation, qui semble être maîtrisée, le taux de change est resté constant ces six derniers mois à environ 900 FC pour un dollar.
La première moitié de l’année pourrait connaître une fin heureuse, estime un analyste.
Excédent budgétaire
Les mines et les hydrocarbures, selon la BCC, affichent une croissance de presque 3,5% et le secteur manufacturier fait un tout petit peu moins.
Par contre, dans le secteur énergétique, la cote est encore négative.
Jusqu’à la mi-mai, la caisse de l’Etat était excédentaire avec 17 millions de dollars. En d’autres termes, il y a eu moins de dépenses et plus de recettes.
C’est sur ce point que les institutions financières internationales ont toujours insisté auprès du gouvernement congolais.
Risque de dérapage
Si cette tendance perdure, estime la BCC, ceci faciliterait l’annulation de la dette extérieure, prévue après le 30 juin 2010.
Les experts craignent que les festivités du cinquantenaire de l’indépendance de la RDC éloignent ce point d’achèvement du processus Pays pauvres très endettés (PPTE).
Leurs inquiétudes portent surtout sur les dépenses qui pourraient être engagées pour assurer la sécurité des nombreux invités attendus à cette fête.
Au moindre dérapage, estiment-ils, plusieurs acquis de la stabilité économique s’envoleront.
Certaines banques commerciales ont commencé à anticiper une pression pour ne pas chanceler à l’approche du 30 juin.
Le gouvernement ferait mieux d’utiliser les excédents réalisés au cours des mois passés et de ne pas recourir à la planche à billet, conseillent certains banquiers.
(Copyright Radio Okapi、国連の放送局)

5月26日 le mercredi 26 mai 2010 ゴリラのこと/小説『万難を排して』他 gorille/roman≪Contre vents et marées≫, etc

Le 26 mai 2010, mercredi
快晴。のち晴。

5月26日は僕の友人の誕生日だ。彼は40代で他界した。胃癌だった。第一回目のアルジェ時代の友人。当時、二人でワインを毎日浴びるように飲んでいた。大変な美男だった。女性にもてたことは勿論である。夢は服飾デザイナーだった。その夢は実現しなかった。服飾業界の人間関係に失望したようでもあった。しかし、家庭をもってからは子煩悩で、長男の野球の相手をよくしていると云っていた。僕は彼が亡くなったことを暫く知らなかった。奥さんは「だって、言えなかったのよ」と、スイスから電話したとき泣いていた。彼の子どもたちはもうとっくに成人している。どうしているかな。
ゴリラのことを話そう。
コンゴの話題というと内戦かゴリラのことしか日本では報道されない。クジラとゴリラは動物の間でも特別扱いで、ゴリラが一頭死んでも話題になる。
僕はこの国でまだゴリラをみたことがない。ルブンバシ動物園にもいなかった。ゴリラには低地ゴリラと山岳ゴリラがあるが、山岳ゴリラの生息地はルブンバシから遠く数千キロ離れた東部山岳地帯である。ルワンダとの国境。ゴリラに国境はないから両国に跨って生息している。そこにはカリシンビKarisimbi休火山がある。標高4507メーターというから富士山よりもかなり高い。ビルンガVirunga山脈の最高峰である。万年雪というよりも、雹・霰(あられ)などが年間を通じて降る。カリシンビ山は世界遺産でもあるビルンガ国立公園(79万ヘクタール、静岡県全体より広い)の中にある。そこで母子4頭のゴリラが凍死した。それがAFPのニュースになった。WWFや世界中のNPOが約700頭のゴリラの観察・保護を行っている。
AFP報道は隣国ルワンダの首都キガリから発信されている。
Rwanda: 4 gorilles des montagnes meurent de froid dans le parc des volcans
(AFP)
KIGALI — Quatre gorilles des montagnes, une femelle et trois bébés, sont morts, vraisemblablement de froid, dans le nord-ouest du Rwanda, dans la région des volcans, frontalière avec la République démocratique du Congo (RDC), a-t-on appris jeudi de sources concordantes.
Le Fonds mondial pour la nature (WWF) "a appris avec tristesse la mort de quatre gorilles des montagnes dans le Parc national des Volcans au Rwanda", indique un communiqué de cette organisation de défense de l'environnement.
"La cause exacte de leur décès n'est pas encore connue, mais il semble que les gorilles sont morts en raison du froid et des pluies diluviennes", explique le WWF.
"Les gorilles sont actuellement installés à une haute altitude sur les flancs du mont Karisimbi (qui culmine à 4.507 mètres), et les températures y sont encore plus froides", souligne le texte.
Il n'y avait aucun indice de violences ou de présence de poison laissant penser à une mort non-naturelle, selon le WWF, qui précise que les cadavres des quatre primates seront autopsiés.
Les quatre gorilles, une femelle et trois bébés, appartenaient à un groupe baptisé "Pablo". Il ont été retrouvés en début de semaine par des rangers du centre de recherche de Karisoke, dans les montagnes du nord-ouest du Rwanda.
"La mort soudaine de ces quatre gorilles n'est pas seulement un choc, c'est aussi une énorme perte pour le Rwanda et pour toute l'équipe de conservation" des gorilles des montagnes, a commenté Rica Rwigamba, en charge du tourisme au sein du Bureau de développement du Rwanda.
Près de 700 gorilles des montagnes, une espèce menacée d'extinction, vivent dans cette région des volcans, à cheval entre le Rwanda, l'Ouganda et la RDC.
昨日買った小説≪Contre vents et marées、万難を排して≫(Bernard Ilunga kayombo著、2006年)を読み終えてしまった。著者は1966年ルブンバシ生まれ。サレジア会神父。
神父さんが書いたものだからということではなく、「コンゴの小説がこれでは駄目だ」と思わせる作品だ。Kisimba青年とその恋人Yolandeの恋物語だが、時代は一体いつなのだと思わせる。Kisindaは家が貧しく、Yolandeは比較的豊かな過程で身分がつりあわない。その「社会的制約」を乗り越えてハッピー・エンドに終わる。ハッピー・エンドが悪いわけじゃない。貧富の差などどこにでもある。コンゴ社会には、まだまだ古い習慣が因習がある。その因習と戦わずしては「万難」を排したことにはならない。たとえば、部族groupes ethniquesの問題。ルバLubaだ、バントゥbantouだと250以上の部族に分けられている。そんなことを云っているから近代的統一国家ができないのだ。コンゴ国境は所与の、ベルギーが1885年にベルリンのアフリカ分割会議で決めた所与のものだろう。しかし、所与としても、既に独立50年なのである。他人に責をきせてはいられない。またたとえば、結婚のときの持参金la dot問題である。アフリカの場合、男が妻となる女の家に支払う。現金であったり、山羊や羊であったりするが、これは大家族と大家族のネゴによる。それに小説ではでてこなかったが、一夫多妻polygamieの問題もある。これらの問題を乗り越えるどころか、結婚に反対していたYolandeの父親が重病に罹り遺言として結婚を許すという結末である。作者が保守的なキリスト者としても納得がいかない小説である。
伝統、文化と因習は区別されねばならない。

久しぶりに扇風機をつけた。午後3時ごろになって室内温度が上昇したからだ。でも冷房はいらないな。

26 mai 2010

5月25日 le mardi 25 mai 2010 ルブンバシのゴルフ場他 terrain de golf de Lubumbashi, etc


(ルブンバシのゴルフ場の風景)
Le 25 mai 2010, mardi
快晴。

建築家Joseph氏の事務所で、凡その見積もりをきいた。フランシスコ会の産院の建設費である。前の建築家Clotaire氏が$786.90/m2であったが、工法を変えてJoseph氏が、まだ正式の見積書はできていないが、手書きの図面と見積もりによれば$350/m2前後である。ただ、産院の規模が1600m2と大きい。総額が$560 000になる。簡単なアイデアだけの図面から作ってもらったが、設計の詰め、見直しをする必要がありそうだ。無駄を省き$400 000あたりで収めたい。
土曜日に正式の見積もりがでる。その後資金の手当てだ。

ゴルフ場を見学した。そうゴルフ場がルブンバシにある。さぞかし荒れたゴルフ場だろうと想像しながら行ってみると、想像を絶したグリーンであった。僕はゴルフが出来ない。日本やスイス等の国でゴルフ場を脇にみても、入ったことがない。アルジェのゴルフ場は砂漠だときいたことがある。ルブンバシのゴルフ場はまもなく開設100年になる伝統を誇っている。18ホール。ヴィジターのプレーを認めない。会員はプレーヤーを3回だけ招待することができるけれど、それ以上は規則で不可能。メンバーは60名ほどしかいない。ほぼ全員が外国人。しかし別天地の様相。しかし、会費さえ払えばメンバーになれる。今のところ人数制限がない。年会費は1 000ドル。夫婦のカップルなら1 400ドル。メンバーになればプレー費用はかからない。この敷地の中にスカッシュsquashのコートとサッカーのコートもある。こちらは年会費それぞれ400ドルと300ドルである。昔は乗馬も出来たはずであるが、それは今ない。

今日のアボカドは旨かった。外見は凸凹でとても中身がクリーム色で痛みが全然ないとは察せられなかった。
メインは鳥カレー。鳥は一羽を買ってきて、先ず圧力釜で水煮にする。マドンナと分けるためだ。マドンナには塩味もいけないそうで、水煮にしてから半分をマドンナにやる。丁寧に鳥の骨を取り除く。鳥の骨は刺さるからワンちゃんには上げられない。ブイヨンも分け分け。僕の分はスープやカレー、トマトソースになる。地鶏は冷凍の倍の値段。焼き鳥にするのじゃないから、冷凍で充分だろう。一羽3 000FC(300円)もしない。

5月24日 le lundi 24 mai 2010 『とりかへばや』他 Chico est une fille,etc

Le 24 mai 2010, lundi
快晴。

『とりかへばや物語』。チコ(ネコちゃん)は女の子だった。貰うときに男の子だといわれて家につれてきたのに。スペイン語のチコChicoは少年の意。チカちゃんはChica(少女)と千佳をかけていた。仕方ない。チコは日本語の「ちい子」ちゃんとしようか。

日中断水。

一週間以上前、11日にファンタやコーラを買ったときに、トニックがなかった。代金だけ払っておいたが、店から音沙汰がない。家の向かいの店なのに愛想がないことだ。電気代金を払いに行ったついでに、寄ってみると「あるよ」という。携帯会社Vodacomのエリック君に手伝ってもらって家までケースを運んだ。

バナナを土曜日に買った。バナナを買うと日持ちがしないので数日後には傷んでしまう。冷蔵庫にいれて保管すると黒ずむ。裏技はないかと、ネットで検索した。あった。プチプチ・シートで包めばよいという。そんなシートはコンゴでは一般的じゃない。しかし、どこかで見た記憶があった。そう、先月自作のCDを送ってくれた友人が、CDの梱包に使ってくれていた。早速そのシートにバナナをくるんで冷蔵庫に入れておいた。成功。バナナが黒ずまない。しかし、原理が分からない。ま、シートを捨てないでよかった。

湧水があるというので、庭師アンドレさんと見に行った。カメラまで用意した。湖と反対側に確かにあった。おばさんが二人脚を洗っていた。久米仙人も空から堕ちないような方々だったので、写真も止した。湧き水は乾季も絶えないのだそうだが、流量はさほどなく飲料には適さないという。ちょっとがっかり。

過日、Norbertさんと見に行って、大家が不在で中に入れなかった家を、アンドレさんと行った。寝室4部屋。サロンも大きく、内部は清潔。ガレージもある。庭もここほどではないが広い。問題は風呂の湯沸し器が機能するかどうか確かめられなかったことだけか。場所は表通りからちょっと入っているので、今いるところより静か。とわいえ、ここも煩いほど交通量がないから夜は静かである。あとは価格。それとスムーズに大家である教会と問題を起こさず引っ越せるかどうか。

5月23日 le dimanche 23 mai 2010 安息日 sabat

Le 23 mai 2010, dimanche
快晴。微風。

安息日である。コンゴでは日曜日である。最近話題にのせたアドヴェンチストでは土曜日。イスラムでは金曜日。しかしいずれも7日周期になっている。sabatは、たとえばスペイン語のsabado、イタリア語のsabatoとしてヘブライ語起源だろうが、言葉が残っている。土曜日だ。なら、何故日曜日が安息日なのか。調べれば薀蓄を傾けることができるだろうが、ともかく何にもしない、休息のひである。

昨日16時過ぎ、水がちょろちょろと出た。前々日の勢いはない。今朝もそうだ。出るだけいいじゃないかと云われればその通り。
新藤兼人『裸の島』を思い出した。電気も水もない瀬戸内海の小島で暮らす夫婦の物語だ。1960年の作品だけれども無声映画。この映画では夫婦に子どもが二人しかいない。コンゴには電気がなく水がないところなど、都会ルブンバシの外に出ればいくらでもあるが、子どもたちが何と多いことか。日本でも「貧乏人の子沢山」と昔は言ったようだ。どこからか、川や他家の井戸から水を汲んでくるのは子どもの仕事である。映画では子どもたちが小学校に通っている。彼我の差を感じさせられる。

本はひとつ読み出すと癖になる。昨日は露伴の随筆『骨董』、今日は『風流仏』と読んでしまった。『五重塔』は何回か既に読んでいる。露伴の文章は、歯切れがよくリズミカルで、和漢の教養が滲み出ていて安心して読める。日本で自然主義と呼ばれる作家たちの作品は、時代の証言としては面白いかもしれないが、あれは小説ではない。戦後の作家たちと同じで世界が狭く読むに耐えない。勿論例外はある。しかし、大概は鴎外などと比すべくもない。僕の考える作家とは荷風までで、後は時間の無駄である。
『風流仏』は面白かった。ま、恋物語である。若い仏師の話だが、予測はつくとしても綺麗に読ませる。物語として日本だけではなく世界に通用する。
コンゴの作家はどうか。僕は数作品しか読んだことがない。これから読みすすんでいきたいが、いまのところ感動するような作に会っていない。知らないだけかもしれない。

23 mai 2010

5月22日 le samedi 22 mai 2010 カタンガ料理キカンダ他 Kikanda, cuisine katangaise, etc

(写真はキカンダ、別名ブダン)

Le 22 mai 2010, samedi
快晴。

昨夜遅くからついに断水。しばらく快適だったのに。乾季の節水という政策的断水なら、日本の大都会の夏季節水など慣れているから仕方ないと思うのだが、そうではなさそうだ。

蚊帳の中に蚊がいて2ケ所刺された。僕の敵No.1が蚊である。No.2は蝿。痛恨。僕の血を腹一杯に吸った蚊を叩き潰せなかった。蚊にも命がなどといっていられない。

電気蚊取りのマットのメーカーを変えてみた。スイスやフランスで買ったマットはよく効いた。バリやサント・ドミンゴ、タイなどで使ったとき、窓を開けておいてさえ蚊が入ってこなかった。蚊帳もいらなかった。キプシに来てから今まで中国製のShankeというメーカーのマットだった。どうも効き目が悪そうだ。今回はベルギー製Vapora。聞いたことがないメーカーではある。効果や如何に。

アスンタさんのところで、キカンダをご馳走になった。キカンダとピーナツの粉を混ぜて焼いてつくるのだそうだ。味はピーナツ入りのソーセージ。ちょっと不思議な味と食感である。キカンダはイモ類。乾燥させて粉にする。別名ブダンともいうらしい。カタンガのスナックだそうだ。ブダン(ジュネーヴが有名だと思うが、豚の血で作ったソーセージ)に色が似ているからだろう。ただ、キカンダの場合、茶色い色はピーナツから来る。
Katanga Livingというサイトに詳しい説明がある(英文)。

5月21日 le vendredi 21 mai 2010 ウラン鉱山シンコロブウェ他 mine d'uranium Shinkolobwe, etc

Le 21 mai 2010, vendredi
快晴。風やや強し。

昨日買い求めたジャージを洗濯。買ったばかりのものを洗濯したのは、店で埃をかぶっていたからである。一体ここの店、専門店に限らずスーパーでも、商品に埃がたかっていても気にしない。鷹揚というよりは怠惰である。もっともそれはコンゴだけではない。セネガルでもタンザニア、アルジェリアでも同じことだ。

昨日ADRAに行っている。一昨日「Reach Italia」の項で書いたアドヴェンチスト教会の慈善団体である。Adventist Development & Relief Agency。手広く活動している。学校運営、食料・医療援助、教育養子縁組、井戸掘り等々。資金はアメリカから豊富に送られてくるようだ。彼らの詳しい資料を来週火曜日にもらうことにしたが、「Adra日本」以外のパートナーを仕事をするには不適切かもしれない。

「雲は天才である」という言葉を思い出して、チコをみながら「仔猫は天才である」と思った。そこで、石川啄木の「雲は天才である」を青空文庫(ネットで無料で読める図書館、基本的に著作権の切れた作品)で読んだ。前半の方が面白い。漱石の『坊ちゃん』のような仕立てで代用教員が「校歌」を作った話。後半は、父親が他界し乞食をして故郷にいる母の元に返る青年の話で、展開が前半ほどなく、涙なみだで、表現が直截的過ぎてよい出来とはいいがたい。ついでに『我等の一團と彼』という小説も読んだ。旧仮名遣いは苦労にならないが、要は啄木が新聞記者の時代の話だ。別の云い方をすればサラリーマンの呟きだ。僕の好きな小説ではない。私小説というジャンルはどうもいただけない。
加藤周一は啄木が長く生きていたら無政府主義者に近づいたかもしれないと云うが、『A letter from prison』(大逆事件で殺された幸徳秋水の獄中で書いた「陳弁書」に啄木が感想を書き加えたもの)を書いたからといって彼が、もう一人の大杉栄となっていたとは考えすぎだと思う。

Global Witnessの『Ruée et ruine』という2004年9月のレポートを読んだ。意訳すると『廃墟に殺到する者たち』。副題として『コンゴ民主共和国カタンガ州南部の鉱物資源を荒廃させる貿易』(Le commerce dévastateur des ressources minières dans le Sud du Katanga en République démocratique du Congo)とある。
Global Witnessはワシントンに本部があるNGOである。2003年のノーベル平和賞を受けている。受賞対象ワークは『ダイアモンド戦争』(アンゴラ、シェラレオーネそしてコンゴから産出されたダイアモンドが如何にこれらの国の内戦の戦費になっているのかをレポートしたもの)である。レポートは一回出されたきりではない。よくフォローされている。
http://www.globalwitness.org/index.php
『廃墟に殺到する者たち』の廃墟とは閉山した鉱山である。しかし、閉山と云っても鉱物資源が枯れたわけではない。手掘りの採掘exploitation artisanaleは続いている。このことは児童労働の項で書いた(5月13日)。レポートの格調は極めて高い。援助国、世銀、IMFおよびコンゴ(RDC)政府に対してリコメンデイションを発信している。当然のことながら日本政府もきく耳を持たねばならない。このレポートに特に日本にとって無関心でいてはならないことがレポートされている。それはシンコロブウェShinkolobwe鉱山である。この鉱山で採掘されたウランが広島・長崎の原爆製造に使用されたことは余りにも有名である。Shinkolobwe鉱山は1960年に閉鎖された。しかしながら、それは建前である。いかなる鉱山会社もその後採掘事業をShinkolobweで行っていない。けれども2004年7月、二つの竪坑が落盤事故を起こしている。誰もいないのに? 冗談ではない。7 000から13 000人の手掘り労働者が毎日ひしめいていたのである。その中には7歳の子どもたちもいた。少なくとも9名の犠牲者が出たというが詳しいことは明らかにされていない。その後、鉱山に入る監視が厳しくなったという。それも建前である。確かに軍隊や警察が監視しているだろう。しかし、その監視員に多少、たとえば10ドルも握らせれば、簡単に入山できることは間違いない。
Shinkolobwe鉱山で1939年、従ってコンゴがベルギーの植民地だった当時、鉱山の持ち主であったUnion Minière社(現Gecamines社)から12 000トンのウランがUSAに売却された。その頃、採掘した労働者、また閉山後営々と手彫りで、違法とはいえ労働していた人々が、放射能で汚染されたことも事実だが、ベルギーもコンゴも口を閉ざしている。広島・長崎の原爆は単なる新型爆弾、恐ろしい破壊力をもった爆弾ではなかった。被爆者、その子、その孫までが放射能radioactivitéの犠牲者である。日本は原爆の最初の犠牲者である。多くの苦く深刻な経験を持っている。その日本がコンゴの犠牲者に経験を生かすことができないのか。被爆者の発見、治療に手を貸せないのか。60年以上前のことはベルギーの責任、不法採掘は自己責任またはコンゴの責任だから知らない、さらにコンゴ(RDC)政府から要請がないから知らない、と決め込んでいていいのか。

21 mai 2010

5月20日 le jeudi 20 mai 2010 薬草売り他 herboriste, etc

ジャージー(trainingとフランス語では云っている)を買った。安物。12 500FC(1250円)だから勿論中国製。縫製が悪いけれど致し方ない。夜中に門を閉めに出るときに寒いのと、パジャマは半袖のものしかもっていないから、パジャマ代わりにしてやろうという魂胆だ。トレーニング・ウェアーをジャージーというのは比較的最近ではないだろうか。メリヤスというと古すぎるかもしれないが、ジャージjerseyとは布の織りを指して、製品のことは云わなかったように思う。英語では、jerseyといえば織物の一種だし、スポーツウェアとしてはtracksuitという。

ジャージーを探していたときに、たまたま薬になる植物を売っている人に出会った。出された木片のようなものの匂いを嗅いでみると、何かにそっくりである。咄嗟に名前が出て来なかったが、サロメチールやサロンパスの匂いだ。サルチル酸(acide salicylique)かぁ。サロメチールはもともとフランスの「ボーム・バンゲBaume Bengué」 という軟膏のコピーだそうだが、サルチル酸が主原料である。植物にサルチル酸があることは知らなかった。植物の名前はカマナンパーダ。フランス語でどういうかこの薬草を売る男は知らなかった。ジャングルの中には様々な薬草があるという。そこで、プロスタート(prostate、前立腺)に効く植物はないかときいたら、カサルムナなるユリの根のようなものを出してきた。そうか、なんでもあるんだなぁ。マラリアの治療にいい植物も、キニーネではなく他にもあるという。薬草治療phytothérapieはフランスにも現存する。魔術ではない。彼は、通称をUSSRだといった。随分と古い名前である。単なる薬草販売業者herboristeではないそうだ。
サルチル酸は今化学的に合成できるから、この植物の需要はないだろう。しかし、天然植物には、栽培されていない薬草で日本に知られていないものもあるかもしれない。迷信は危険だが、日本でも疲労回復、滋養強壮剤としてアマゾンのガラナが売れているときく。カタンガ州から密林は遠いが、同じコンゴである。新しい発見があるやもしれない。

Alain君が弟がドイツから出したという小包を探しに中央郵便局に行った。弟は詩人で、数年まえからドイツに留学している。小包は18ヶ月前に出した書籍類である。2006年以来はじめて郵便局の内部に入った。中国が携帯会社を運営しいるが、郵便局のホールが携帯の売場になっていた。混雑している。ホールの左手に窓口がまだあった。そこで郵便の受付をしている。しかし、客は誰もいない。建物の横にEMSの事務所が入っていた。DHLよりも安く海外に郵便物を送付出来るらしい。Alternativeなサーヴィスというわけか。裏に回って小包の到着如何をきいた。裏は倉庫状態で、多くの小包が山と積まれていた。NPO「Vision Mondiale」宛の小包が目立った。Alain君は既に一度今年に入ってから小包をドイツから受け取ったことがある。それも12ヶ月以上前に出されたものである。しかし、小包は届いたのだ。残念ながら二つ目の小包はまだ来ていなかった。郵便局員に聞いてみると、現在郵便制度正常化に向かって努力しているという。私書箱を修理しているのも見た。郵便物は、週に2回ルブンバシからザンビアに出され、ザンビアから目的地に発送されるようになった。つまり、郵便物は首都キンシャサに集められていたが、その集貨を止めて、キンシャサよりずっと近くまた安いザンビア経由とした。これは考えてみれば名案である。1700km離れたキンシャサに送るためにはAirを使う以外ない。陸上輸送は不可能。とすれば、100kmしかないザンビアとの国境で、ザンビア側に郵便物を渡す方が合理的である。これはトライしてみる価値がありそうだ。

5月19日 le mercredi 19 mai 2010 「ALBA」他 ALBA Projets scolaires

Le 19 mai 2010, mercedi
快晴。

僕の妹は舞台俳優である。TVタレントではない。地道といえば地道であるが、好きな道を選び、一人芝居もこなしているから人生をエンジョイ出来ているのではないか。今、パナマにいる。旦那さんがシルバーなんとかでJICAから彼の地に派遣された。彼女は芝居があるから、今度やっとパナマに渡れた。ブログに日々の生活を書いている。日本では芝居の他に高齢者介護の仕事もしている。東京で機会があったら是非彼女の芝居を観賞あれ。Merci.
http://blog.goo.ne.jp/satsuki555may/

隣でゴミを燃やしているようだ。もうもうたる煙が風によっては家の庭に漂ってくる。

実は昨日、「Reach Italia」の後でもうひとつのChild Sponsor NPO「Alba」を訪ねた。1992年創立。「Association Laique pour les Bambins d’Afrique(アフリカの子らのための非宗教系協会)」のGabrileさんが会ってくれた。責任者はミラノ出身のイタリア人Gabriele SALMIさん。奥様はコンゴの人だそうだ。2004年からルブンバシに来ている。
http://www.albacongo.org/
たいしたサイトじゃないとGabrieleさんは謙遜していたが、どうしてなかなか良く活動が説明されている、
教育養子縁組は個人単位並びに学校単位で実施している。対象地域はルブンバシとキプシである。年齢は6歳から20歳まで、スポンサーとなるのはミラノだけではなくイタリア各地のイタリア人。子どもとの連絡は、殆どの費用を食ってしまうがDHL。インターネットは、イタリア側のサポーターの多くが50歳以上なので、ネットになれていないので使えない。子ども一人当たりの教育養子費用は年間€180。靴額€15だから現行レートで1 700円程度。世界的不況で、サポータの数も昨年から減ってきているというが、約10 000人の生徒・学生が恩恵を受けている。大学生でもコンゴには奨学金制度がない。
経費捻出のために国連の運送関連のmangaementおよび米系TFM社(Tenke Fungurume Mining、Free Port Mc MoRAN COPPER & Gold社傘下)が従業員用に建設した学校(3校、生徒900名)の運営もまかされてしているという(TFMの学校には職業訓練も含む。ルブンバシは建設ラッシュで専門職技能者が不足しており、TFMは2000名の専門職を海外から調達している!)。
僕は今後、教育養子を進めていくに当たり、「ALBA」のアドヴァイスを貰おうと思う。「ALBA」の信頼性は高いと判断するからである。

エマンタールemmental(スイスのチーズ)で湯上りのビールを一杯やっていると、チコが飛んできて膝に乗っかった。しかたないから、欠片をやると嬉しそうに食べた。氏より育ちなんだよ。ペルシャが欲しかったけれど、君は十分に可愛いよ。
エマンタールは僕の好きなチーズの一つである。チーズは高蛋白。肝臓にいいのだ。ジュネーヴの主治医がそういっていた。

19 mai 2010

5月18日 le mardi 18 mai 2010 リーチ・イタリア Reach Italia

Le 18 mai 2010, mardi
快晴。無風。

教育養子制度を進めている「Reach Italia」を訪問。責任者のBernard DECHYさん及び会計責任者、計画責任者と話した。
http://www.reachitalia.it/_home.php
彼らの話では、
「Reach Itallia」は「Reach International」(USA)のイタリア支部である。その「Reach Italia」の現地事務所でコンゴ本部がルブンバシにある。キンシャサ、キブ、カサイそしてカタンガ各州で教育養子縁組をイタリア人サポーターと結ぶ。対象は5歳から10歳の子どもたちであるが、中には大学卒業までサポートし続けるサポーターもいる。子どもたちの両親を助けるため、micro financeもしている。食料援助もWFP(フランス語はPAM)と一緒に実施している。これまで49 000人の子どもたちの援助をした。現在4 500人が就学している。
ということである。しかし、これは僕の直感だが、どうもコンゴ側の組織がまともに機能していないのではないか、どこかでお金が消えているのではないかと思う。「Reach Internationa」の背景には、アドベンチスト教会(Seventh-day Adventist Church)があることが知られている。この教会は米国で19世紀半ばにできたプロテスタント教会である。世界で1 600万の信者を数えるという。このアドベンチスト教会には人道NGOとして世界的規模のADRA(Adventist Development and Relief Agency, Agence Adventiste du Développement et de l’Aide Humanitaire)がある。ADRAの事務所もルブンバシにある。そのADRAと「Reach Italia」コンゴ事務所は一緒に活動していたが最近袂を分かったらしい。そのことを彼らは云わず、自分たちはいかなる宗教団体とも関係ないと明言した。これはおかしい。また、ルブンバシには他に教育養子縁組を支援しているNPOがないとも云った。これも不思議である。さらに、しきりに日本から金がでるのかどうか聞かれた。
教育養子縁組の契約書の雛形が欲しいと申し込んだが直ぐに出てこない。明後日木曜日までに用意することになった。

5月17日 le lundi 16 mai 2010 ロラン・デズィレ・カビラ Laurent Désiré Kabila

Le 17 mai 2010, lundi
快晴。風あり。

今日は現大統領JosephKabilaの父親、前大統領Laurent Désiré Kabilaが首都キンシャサに入城した日として旗日である。モブツ独裁時代の終焉である。Laurent Désiré Kabilaは、政治家、革命家というより商売人と云われたことがある(チェ・ゲバラはコンゴで革命運動に参加したことがあるが、LDカビラを称して「反逆者というよりは密輸業者だ」と云ったという)。けれども、今振返ると、なかなか厳しい政策、公平な政策でモブツと対照的であったようである。「あのときコンゴに光が射した」という国民も少なくない。2001年1月に暗殺されて、元の木阿弥というわけである。
LD Kabilaはカタンガ州出身である。生まれは1939年。モブツに反抗すること30有余年。しかし、モブツを追い出すのに隣国ルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ジンバブウェ等の力を借りた。政権奪取後、これら外国の影響を払拭するのに懸命だった。LD Kabilaの暗殺の背景に誰がいたのか不明である。
はっきりしているのは、LD Kabilaの跡を継いだのが、その息子Joseph Kabilaであることだ。大統領職を継いだが、家長ではないらしい。Josephが確かにLDの息子であるのかどうか、それまた不明な要素である。ともかくJosephは2006年の大統領選挙で選出されて国内外での禊は済んだ。
それにしても、この国の独立は、僕にいわせれば、未だない。Josephの裏にいるのはIMFと世銀と考える。何故なら、国の財政を真に握っているのは、これら国際機関だから。コンゴ中央銀行は発券銀行に違いないが、500フラン(50円)以上の札を印刷できない。米ドルが流通通貨である。株式市場もない。
息子Joseph Kabilaと2006年に大統領選挙を争い、落選してJosephの副大統領におさまり、今はハーグ国際刑事裁判所で審理中のベンバは、非人道的戦争犯罪者として有罪判決を受けるかも知れないが、Josephの父Laurent Désiréも五十歩百歩である。
LD Kabilaの歴史的評価にはまだまだ時間がかかろう。

一昨日、ベッドから落ちた。初めてのことである。狭いベッドにチコが潜り込んできて、寝返りをうつのに、潰してはいけないとチコを避けて失敗したのである。怪我はない。

Twitterを始めた。どうもまだどう利用したらいいか検討がつかない。僕のブログに誘導するようなメッセージを発信したとして、それからどうなるのだろう。鳩山首相がTwitterに登録しているのは確認したが、では彼にメッセージが出せるのか。

17 mai 2010

5月16日 le dimanche 16 mai 2010 ヤマハ発動機 Yamaha Motor

Le 16 mai 2010, dimanche
快晴。

ヤマハ発動機のショー・ルームがLomani通りに出来た。ルブンバシの中心街である。キンシャサやゴマには既に開店しているそうだ。RD Congoにヤマハが直接入っているわけではない。ヤマハのホーム・ページを見るとアフリカ大陸には支社も合弁会社もない。ここではインド系商社Prodimpex社(Groupe Rawji)が代理店である。
http://www.prodimpex.com/
小型発電機、船外機、オートバイ、トラクターなどが展示されていた。大型発電機はイタリアのIveco社製だった。責任者はNikhil Gandhi氏。ショー・ルームの奥がなお建設中で倉庫、2階・3階が住居だそうだ。ヤマハ製品は純日本製だという。Prodimpex社経由のように、日系企業が先ずは代理店方式でコンゴに進出するのはいいことだが、直接進出する勇気も持って欲しい。

16 mai 2010

5月15日 le samedi 15 mai 2010 日本人墓地 cimetière japonais

Le 15 mai 2010, samedi
晴れ。多少雲あり。

日本人墓地に行った。日本人墓地といっても市営の広い墓地の一画である。ルブンバシで一番古い墓地「モミの木墓地Ⅰsapin-Ⅰ」である。当初Sodimiza(現Sodimico)の従業員で亡くなられた方の墓地と聞いていったのだが、墓碑に書かれた享年(昭和年号がつかわれていた)から、Sodimiza関係の方ではない可能性が高い。1967年から1973年にかけてなくなられた6名の墓であった。全員とても若い。26歳から37歳。どういう経緯でルブンバシで、あるいはカタンガ州で亡くなられたのか不明。墓石は日本語(漢字)でかなりの達筆で名前が彫られていた。戒名はない。この墓地には、キリスト教、ユダヤ教、回教等宗教の異なった人たちが埋葬されているから、仏式があっても不思議はないのだが、宗教色がない墓石であった。全て同じ型の墓石であった。従って、1973年以降に一括して誰かが墓石を建てた可能性もある。習慣だけでなく、ルブンバシに施設がないから火葬はない。周り中雑草に覆われていて、この国では毎年8月1日が墓参り、先祖の日だが、訪れる人が全くないのに違いない。といっても、この墓地全体がぼうぼうの草の中なのであるが。名前と出身地を頼りに、全員をネットで調べてみたが、それらしい記事はなかった。
亡くなられた方々のフル・ネームはここでは公開しないが、出身地、享年、命日を下記する。
京都 KSさん 26歳 昭和48年2月3日
福島 ENさん 27歳 昭和47年3月4日
東京 KKさん 29歳 昭和46年10月8日
高地 OTさん 36歳 昭和46年9月28日
香川 KYさん 37歳 昭和43年9月29日
山口 HTさん 36歳 昭和42年3月10日
万が一、本誌をご覧になった方の中で、連絡を望まれる場合は、小生にメイルをください。またはブログのコメント欄をご利用ください。
(写真はブログ『日本カタンガ協会』に掲載した。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/2010/05/cimetiere-japonais-lshi.html
(修正追記:亡くなられた方々がSodimiza関連である可能性もある。というのは、確かに開所式は1973年だが、それ以前に1967年には既に探鉱、さらに工場の付帯施設、学校、病院、道路等々の工事が始まっていた。追記して訂正する、5月17日)。

15 mai 2010

5月14日 le vendredi 14 mai 2010 フランシスコ会産院見積書他 devis estimatif d'une construction de la maternité, etc

Le 14 mai 2010, vendredi
快晴。風やや強し。

チコがころころしてきた。家に来たときは、がりがりに痩せ衰えていたのに。よかったね。昨日からビスケットも食べている。チカはシェバのチーズ入りビスケットしか食べなかったが、チコはそんな贅沢を云っていられない。ま、遠いベルギー製のWiskasだから我慢しなさい。差別しているわけじゃない。これしかここにはなかった。あるだけ大したもんなんだから。

前回作ったワッフル(フランス語はgaufre)に半分カビが生えたため、もったいないが捨ててしまった。そこでまた焼いた・今度は生地をかなり濃くした。お好み焼きのようなゆるい生地よりも上手く出来そうだ。試行錯誤。

キュング会長の紹介で建築家がフランシスコ会の診療所、産院予定地を訪問したことは既に書いた。そこから見積もりがでてきた。産院の方が先に欲しいのに、診療所だけの見積もりになっている。しかも他社が見積もったと同様に高い。診療所面積が610M2として480 000ドルは、$786.88=73 966円/M2とは。日本の場合、木造でこの値段はありうるだろう。鉄筋コンクリートで160 000円/M2なら安いほうか。プレハブ仮説住宅で30 000円/M2
かな。しかし、ここでは、基礎はコンクリートとしても、レンガ積み、屋根はトタン板、窓枠は木、それで7万円台はないぜ。価格はネゴできるという。1/3に値切るか。もうひとつ違う見積もりをとる。近くの小学校を建てた建築家Josephさん。

雀が二羽、バス・ルームで騒いでいた。鳥が家に入って来て、まるで聖フランシスコの住いのようで嬉しいが、悪戯をしてくれるので追い出した。

全日本柔道連盟からメイルの返事がこないから、講道館に出した。こんどはどうだろう。

昼ごろから16時まで断水。また始まったか。

5月13日 le jeudi 13 mai 2010 ベルギーのNGO「Groupe ONE」他 ONG belge Groupe ONE, etc

Le 13 mai 2010, jeudi
快晴。

チコが見えなくなった。と思ったら机の引き出しに椅子を伝って潜りこんでいた。サロンの戸を開けておいたから、外に出たのかと慌てた。彼を自由に外に出す積もりはない。まだ予防注射をしていないし、捕まえられて食卓に供されても困る。ネコや犬を食べてしまうのは、コンゴに限らない。イタリア北部やスイスのティチノ州ではネコを食していた。ベトナムや中国、古くは日本でも犬を食べていた。

アボカドを選ぶのは難しい。どうも皮の硬いアボカドの方が柔らかいものより良さそうだ。そして買う前にアボカドを振ってみる。カラコロと音がするほうがいい。しかし、皮が柔らかくて、ぶよぶよするアボカドでも切ってみると痛んでもいず、旨かったこともある。当たり外れがある。

児童労働をなくす運動をしているNPO「Groupe One」を訪ねた。ベルギーのONGである。その現場事務所がルブンバシにある。
http://www.groupeone.be/ (英語のページもある)
ルブンバシ事務所のFifiさんに会った。カタンガ州における児童労働は主として鉱山で行われている。確かに他にも例えば靴磨きをしていたり、物を行商していたり、洗車したりといった労働に子どもたちがいる。しかし、集中して子どもたちが働いているのはGroupe Oneの云うように鉱山、しかもartisanal exploitaionである。ここでartisanaltというのは辞書にある「職業的、手工業的」というよりも「前近代的」、「手仕事の」という意味である。子どもたちは、ストリート・チルドレンではない。親が子どもたちを鉱山に送っているのである。理由は、親が失業、老齢、病気など様々であるが、子どもが一家の稼ぎ頭であることが多い。Groupe Oneでは、年齢を16歳で分けて、16歳未満は学童として学校に通わせ、16歳以上は職業訓練所にいかせる、また両親の再教育をして手に職をつけさせるという3方面の活動をしている。子どもの学資支援をしただけでは、親としては、いや一家としては収入が途絶えるから就学に賛成しない。大部分の子どもたちは学校に行きたい。それを可能にするためには親が働くようにしなければ解決しない。こうして、過去4年間で児童600名、16歳以上については250名の少年少女たちを児童労働から救ったそうである。16歳以上というと日本では義務教育年齢以上であり、救済の対象とはならないと思う。中学を卒業して、集団就職した少年たちを雇った企業は児童労働をさせたということになってしまう。16歳以上では鉱山に残りたいという向きさえある。しかし、欧州の標準は、学齢というと18歳以下のようである。カタンガ州で、どれだけの子どもたちが鉱山で働いているのか具体的数字はつかめない。2006年、Groupe OneとUnicefがルブンバシ大学の協力も得て調査したレポートがある。しかし、これはカタンガ州の3地点(ルブンバシ、コルウェジ、リカシ)で18歳以下692名の少年少女労働者にアンケート調査しただけである。実際にはもっともっと多くの児童が鉱山で働いている。このNGOではそれぞれ活動の地の小学校や中学校、また職業訓練所と提携している。事務所には図書館、勉強部屋もあった。Groupe Oneの事業はまだまだ続けられる。

学校の授業料を調べた。サレジア会のイマラ校(ルブンバシ市)は、小学校が10ドル/月、中学校が20ドル/月。小中男女共学。フランシスコ会のルイシャ校(ルイシャ村、ルブンバシ市から北に90km)は、195ドル/四半期である。ルイシャ校は小学校は共学。中学からは女子のみ。ルイシャは全寮制。両校とも制服、靴、体操服は別。いずれもカトリックのミッション・スクール。勿論恵まれた子どもたちが通う。
シスター・アスンタ佐野さんに僕が教育里親となる子どもの候補を依頼した。僕としてはイマラ校に通わせたい。

ルブンバシ市役所の都市計画課課長さんと面談。かねて依頼していた5ヵ年計画の現在における評価(進捗状況)の表を入手した。課長だ自ら作成した表である。
カタンガ知事の参事官の電話を柔道のフランクラン君がくれた。連絡するとなかなか通じなかったが、やっと数回目に出てきたとおもったら、「手紙を書け」だって! ちょいと胡散臭い参事官らしいので、というのはモイーズ知事の衣を借りて利権を漁っているかに見える人物なので注意したいからだが、面倒なことをいう。そんな奴に手紙を書けるか。

5月12日 le mercredi 12 mai 2010 日焼け他 bronzage

Le 12 mai 2010, mercedi
快晴。

僕が大学卒業後初めて就職した会社(本社神戸)の同期生にして友人O君がメイル・アドレスを変更したので、僕の旧アドレス…@saturn.dti.ne.jpにお知らせメイルが入った。お陰でまたメイルのやりとりが出来るようになった。彼はコント(笑話)と近況を配信している。元気でなによりだ。

教育里親制度スキームの詳細をつめなければならない。『日本カタンガ協会』の事業ページにこの制度を追加した。支援を受けたい子どもたちはいくらでもいる。しかし教育里親との契約書、また会計を「日本カタンガ協会」の会費、寄付とは別にしなければならない。その公開報告も別途にしなければ混同してしまう。先ず一人、二人を例として学校を決める必要がある。サレジア会の運営するイマラ校Imaraやフランシスコ会の全寮制ルイシャ校Lwishaは一流。学費、入学手続きを調べよう。イマラ校はアラン君の出身校だ。僕が教育里親になる子にはイマラ校に行かせたいなぁ。でもそれは自宅との距離も関係する。ちょっとエリート意識の高いところだから嫌がるかもしれない。

僕は日焼けが好きだ。コンゴに今回来る前、車のことでドバイに11月4日から12日、タンザニアのDar es Salaamにはなんと12月17日まで一ヶ月以上とどまったが、ドバイのホテルの屋上には小さなプールがあり、Darのホテルは海岸のリゾートだったから毎日のように日焼けしていた。それが、Lubumbashiについてから、雨季の所為もあるがsun bathingが出来なかった。キプシの家に来て初めて日光浴を再スタートできたが、ドバイ、ダルでの日焼けを取り戻すには相当日数が必要だった。アフリカだからといって、ほっておいて日焼けするわけではない。最近は日本に限らず日焼けを避ける傾向にある。いわく、紫外線は発ガン、皮膚癌になる云々。そうかもしれない。しかし、個人差が大きいと思う。太陽が好きな僕はスイスにいるときも毎年春から初秋まで週末はラゴ・マジョーレの湖畔で肌を焼いていたし、カナリア島に3年いたが、そのときもweekendは海岸だった。日光浴しながら本を読む。それが僕の楽しみだ。太陽光線が危険だというのは化粧品会社の宣伝だと思っている。
日焼けしたいという僕の願望は、しかし、深層心理として、小さいときに海にいけなかった反動ではないか。仙台では、野蒜海岸が有名だったが、家では連れて行ってもらえなかった。小学校の夏休みは上京して母方の親戚のところに行くのが毎年だった。上京しても湘南海岸に行くことはなかった。僕の当時の性格としては、親に何かをせがむことは常に憚られた。「腹が減った」などとは云った試しがない。武士は食わねど高楊枝。武家の出身では決してないが、そういう環境だった。

12 mai 2010

5月11日 le mardi 11 mai 2010 児童労働/教育里親他 travail des enfants/parrainage humanitaire d'enfants, etc 

Le 11 mai 2010, mardi
快晴。

カタンガ州は鉱山の州である。鉱山労働者が多い。大抵の鉱山は露天掘りである。農業に適する土地も広大だが、生産した農産物を都会に運ぶインフラが退化して、農業で生活できるのは都会の周辺だけになった。カタンガ州が日本の総面積よりも広いことを念頭にいれて欲しい。至る所に鉱脈があり、地表に露出している鉱物を、機械ではなく手掘りすることが可能である。フランシスコ会の学校があるLwisha周辺の事情については既に書いた(本ブログ1月30日の記事参照)。記事では鉱山から出た水を汲みにきている子どもたちのことを書いたが、実は露天掘りをしている労働者の中に少なからず子どもたちがいた。これは、両親、保護者が子どもたちを働かせているのだ。ところが、中小鉱山会社が子どもたちを働かせている、または子どもたちが構内に入るのを(積極的に)黙認している例も多々あるようだ。たとえばRwashi Mining(レバノン系)。露天掘りが多いと書いたが、地上からそれほど深くないところに坑道(縦穴、横穴)を掘って鉱石を採掘している場合もある。その坑道が異常に狭い。大人が入れないような低い天井、狭い幅の坑道である。明らかに子どもたちが坑夫として初めから予定されている例だ。Lwishaの鉱山跡地でこの目でみた。しかし、それは過去の話かと勝手に想像していた。しかし、どうもそうではない。この国に義務教育を定める法律はない。就学させない親の責任は問われない。子どもたちの労働力を親が当てにしている。水汲みだけではない。
アラン君(「協会」の会計総責任、学生だが文法具を商っている)のところに土埃まみれの少年がノートを買いにきた。不審に思ってアラン君がきいた。Rwashiの鉱山で働いているという。どうみてもまだ学童年齢だ。勉強が好きだけれど、鉱山で仕事もしなければいけないという。鉱山の仕事の見入りは、この歳の少年にとって他の仕事(あれば)よりもいいらしい。今度詳しくその少年にきいてみよう。連絡はつく。なんと携帯をもっているのだ。
教育里親制度というのがある。有名なのはフォスタープランであろう。『文芸春秋』によく広告がでていた。しかし、このフォスタープランからも、サイトをみるとアフリカ諸国の中でコンゴは外されている!
http://www.plan-japan.org/kodomo/index.html
「日本カタンガ協会」でもそのスキームを援用して、教育里親制度をつくろう。先ず「隗より始めよ」である。僕自身が里親になることにする。そんなに多数の子どもたちを養える資力はないが、100ドル(9 000円から10 000円)あれば、小学校の年間の学費が払える。決めた。シスター・アスンタ佐野さんも何人かの教育里親だ。中には看護学校まで卒業した少女もいるそうである。それからできれば日本のONGと提携して教育里親をカタンガ州でひろめる。郵便制度が破壊されたままのカタンガ州では、子どもたちの成長を見たいという教育里親に近況を伝える手段はインターネットだ。
里親というのは、実は語弊がある。英語ではchild sponsorship、フランス語は表題に書いたが、説明的な用語だけれども、parrainage humanitaire d'entants即ち「子どもたちへの人道的後援」である。子どもたちを助ける方法に養子縁組adoptionもあるが、それでは多くの場合子どもを両親から、国から、その文化から離してしまう。子どもとある絆を保ちながら後援していくのが教育里親ということになる。

5月10日 le lundi 10 mai 2010 岡田外務大臣アフリカ訪問他 visite du Ministre des A.E. japonais en Afrique, etc

Le 10 mai 2010, lundi
快晴。

フェア・トレードのSNT社から返信をいただいた。フランシスコ会のコーヒーの件である。先ずはサンプルを送らなければならないだろう。炒った豆と炒る前の豆とを。日本の輸入規制を調べることも必要だが、送る手段を選ばなければならない。DHLは高いからなぁ。サレジア会のシステムを借りて、ベルギー経由で送ろう。
STN社からのご回答を得て、これで最近のメイルで返信がないのは全日本柔道連盟だけになった。

マドンナにまた蚤を発見。早速スプレー。週に一度はスプレーしないといけないかな。蚤は病気を媒介する。予防注射だけでは安心できない。

HP旧『Hebdofrance』にある掲示板の迷惑書き込みを削除した。去年9月から整理していなかったので10ページ以上の迷惑投稿があった。消す作業に時間がかかる。

日本の外務大臣岡田克也さん、ゴールデン・ウィークにアフリカに来ていた。南ア、タンザニアは彼のブログに出ていた。タンザニアでTICADⅣのフォローアップ会議に出席。場所はアルーシャ。アルーシャの町はキリマンジャーロの登山口だ。観光地。そこから日本のODAで隣国ケニアのナイロビまでの道路拡張工事が進められている。この会議で共同議長をして「アフリカ向けODAを2012年までに倍増する」と宣言したんだって! 朝日新聞報道では「重点的に取り組む分野としては、(1)経済危機からの回復(2)ミレニアム開発目標の達成(3)気候変動の三つを提示。円借款の積極活用で今後2年間で最大20億ドル(約1900億円)相当のインフラ整備を実施することや、世界エイズ・結核・マラリア対策基金に今年も2億4千万ドルを拠出することを表明した」。その通りになって欲しいものだ。行く先々、会う人ごとに国連改革、日本の常任理事国入りをお願いしたようだ。その国連での票とバーターとしてもODAや円クレが増額されるに越したことはない。しかし、本質は、日本の企業がアフリカに、コンゴに進出してくれることである。そのための魅力作りはコンゴ側にも必要なことである。特に通関、行政許認可の簡略化が望まれる。
岡田さんのアフリカ訪問は僕たちに希望を持たせてくれる。ゴールデン・ウィークに欧米に行かず、普天間基地問題で大変な中、アフリカまできてくれたのだから。

HP『エピクロスの園』(旧『フランスのWEB』)をメイル・マガジン『週刊フランスのWEB』のアーカイヴとした。234ページの中にテーマがたくさんある。哲学、政治、経済、社会、歴史等々。未だに検索エンジンで飛んでくる訪問者がいる。だからアーカイヴとしての意味があろうと考えた。しかし、メイル・マガジンはもう出さない。ブログがそれにとってかわった。

10 mai 2010

5月9日 le dimanche 9 mai 2010 FC2, etc

Le 9 mai 2010, dimanche
快晴。

7時起床。休日も一緒。アルジェリアでは毎日6時。8時に始業だったからだ。何か始める前に2時間は余裕が欲しい。だから6時。朝は結構忙しい。自分の朝食を用意。一杯目のコーヒーはミルクを入れ、二杯目はコーヒーだけ。作りおきのワッフル2枚。シンプルである。チコの食事、ミルクと今日はビーフ。マドンナの食事、オムレツとミルク+ビスケット。ベランダの掃除(マドンナがまだ夜のうちに汚すから)。食器洗い。フィルターで濾した水の移し変え(フィルターの水は飲料には使わない、あくまで料理用)。トイレ掃除。あれば洗濯。勿論洗濯機も掃除機もない。量がないから不必要。掃除機は欲しい気もするが、ベランダではゴミが大きく使えない)。女中(何故メイドさんとかお手伝いさんと云わねばならないのだ)やボーイはいくら給与が安くても(8000円/月)、質が悪そうだから遠慮。メイルのチェック。急ぎがあれば返信。ブログの更新。

最近市のポンプが直ったらしく一日中水がでる。電気と水さえあれば文明生活だ。

ブログ『アフリカの星』に日付だけではなく副題をつけることにした。テーマで検索されることが多いから、日付だけでは内容がみえないと判断したからである。

13時半から2時間ほど停電。お陰で、ネットが電気が来ても不通。しばらく復旧にかかるかな。10分でネット回復。よかった。

HP『Jardin d’Epicure』(旧『週刊フランスのWEB』)にカウンターを修正した。サイトを創設したのはメイル・マガジンが溜まってきてからだから、2001年ころだろう。サイトの名前を変更したのは2005年だ。当時、来日したフランスの哲学者Michel Onfrayに傾倒していたのでこうなった。
無料サイトを利用したが、ユーザー登録がいらないと称するカウンターの提供者は、とんでもないエログロ・サイトにリンクするようになっている。設置前にソースを読んでみて驚いた。インチキだなぁ。騙しじゃないか。危ないところだった。そこでユーザー登録をしてなお無料のサイトを探した。見つけたのはFC2。http://counter.fc2.com/fr/index.html 日本語の検索でヒットした会社だ。ところが、登録確認メイルの返事がRDCからと判断して、IDをいれてサイトにアクセスしたらフランス語ページで説明書きがでてきた。余りにも正しいフランス語なので、日本の会社にしては珍しいと思って調べたらラスベガスにある会社だった。でも責任者の名前はフランス系。ブログにもカウンターを設置できるらしい。新たしいアクセス数は一から始めるのも詰まらないので10年間の推計で決めた。『日本カタンガ協会』HPの方は開設されてまだ一年とたっていないしアクティヴになったのは今年からである。

09 mai 2010

5月8日 le samedi 8 mai 2010 西サハラ問題他 Sahara occidental, etc

Le 8 mai 2010, samedi
快晴。

西サハラ問題についてブログ「日本カタンガ協会」に書いた。スペイン領だった西サハラ(モロッコの南、モーリタニアの北)からスペインが引き上げたとき、1975年11月のことであるが、そのとき「緑の行進marche verte」といってモロッコから多くの住民が西サハラにむかって行進した。当時僕はアルジェにいた。新聞報道でこの行進を知ったが、モロッコ側の歓喜を伝える示威運動と受け取った(ずっと後で、マラケシから行進した友人に聞いてみると、過酷な条件下での行進だったようだ)。西サハラ独立運動があり、アルジェリアが後押しするようになるとは考えてもみなかった。アルジェリアは、自分が独立を戦争をしてフランスから勝ち取った歴史から、西サハラの独立運動派Plisalioを援助するのだといっている。米国がアルジェリア独立を支持した原則と同じである。しかし、西サハラの場合、アルジェリアの政治的思惑がちらつく。スペインは領土をモロッコとモーリタニアに返せばことは済むと思っていた。まさかアルジェリアが横槍をついてくるとは考えもしなかったようだ。75年以降、スペインは知らぬ顔である。西サハラ問題は35年を経た今日なお未解決である。国連は住民投票で決めようとしている。ところが、その投票者名簿作成で10年以上モロッコともめている。住民投票。聞こえはいい。しかし、名簿作成段階で結果が既に見えるだろう。1885年のベルリン会議で、アフリカ分割を欧州が決めたときの後遺症である。
コンゴはこの会議でベルギー王の私領になった。その領土の境界線が今の国境である。コンゴ人が決めたわけではない。シャバ州(現カタンガ州)独立戦争がコンゴ独立直後勃発、1963年までシャバはいわば独立していた。この歴史、また現在アンゴラと国境問題があるにはある。そこでモロッコに加担する宣言をコンゴの外務大臣がした。他人事ではないというのだろうが、西サハラは遠く、実質的に軍を派遣するわけでもなく、リップ・サーヴィスの域をでない。それでいいい。
国境問題などは、後進国の問題だといったのは、僕の国際法の先生である。彼は国際司法裁判所の判事になったが、きっとさまざまの国境問題にとりまかれることになったはずだ。日本は韓国や中国と領海や島の領有権で争っている。フランスだって英国と国境問題がある。スペインは例えばブラルタル問題を英国とかかえている。国境問題は後進国だけの問題ではない。ただ、EUのような新しい地域連合ができ、国境問題は薄れていく世界的傾向はあると思う。アフリカも遠い将来AUがEU並みになっていけば歴史が変わるかもしれない。
いずれにせよ、西サハラ問題にもどれば、アルジェリア独立戦争の英雄の一人だったブートフリカが大統領をしている限り、問題はまだまだ解決には向かわないだろう。

ネット検索でたまたま僕が2007年1月講演をしたときの原稿がでてきた。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/lumumba.doc
コンゴの初代首相ルムンバについて書いたものである。『アフリカ現代史の殉教者』という副題がついている。映画『ルムンバ』を上映した。懐かしい。我ながら、なかなかいいことを書いている。

3月12日以来床屋に行っていなかった。Coiffeur Rafaelにいった。いつもの理髪師だったが、髪型を覚えていない。まるでレオナルド藤田画伯のようなカットになったので、携帯中にあった短髪の写真をみせて修整を頼むと、GIカットになった。ま、いいでしょ。

ルブンバシ大学医学部の柔道家フランクランが、知事の参事官ソロモン氏に関心のある業種をいってくれれば、どんな業種でも投資許可を取得してやるという。この参事官はモイーズ知事の側近中の側近らしい。しかし、僕はカタンガに投資するためにいるのではない、「日本カタンガ協会」の趣旨説明、宣伝をするためなら参事官にあおうと返事をした。来週初めにアポを設定するとフランクラン君は意気込んでいる。

高校時代の親友STからメイルの返信あり。また元上司にして友人のNNさんからも返信がとどいた。STは一昨年病気をしたという。会社のトップとしての重責を担いながらリハビリ中だという。高校時代は水泳部、大学では確か拳法とスポーツマン。がんばってくれ。NNさんは元気そのもののようで大慶。

5月7日 le vendredi 7 mai 2010 姉妹都市他 jumelage, etc

Le 7 mai 2010, vendredi
快晴。

仙台とルブンバシの姉妹都市をと考えている。ルブンバシ市長MG タンビラ女史から先月受け取った手紙を翻訳した。仙台に直接この送る方法がなかった。(財)自治体国際交流協会が仲介してくれる。ありがたい組織である。
quote
「RE:日本の都市との姉妹都市

ルブンバシ市と日本の都市との姉妹都市関係を築くアイデアを提案していただき感謝申し上げます。

候補都市としてご提案いただいた都市から仙台を選択したいと存じます。(注1)
それは仙台市とルブンバシ市にある相似関係があると想定されるからです。いただいた資料(注2)は絵葉書のようなもので、もっともっと詳しく仙台のことが知りたいと念願いたします。仙台市民の方々のノウ・ハウを得られるのではないかと期待する次第です。しかし、仙台市との相互理解によるダイレクトなパートナーシップを結ぶことは、平和とお互いの尊重を伝え合うことでで、両都市にとって意義深いものとなると考えます。

多くのアフリカの都市の中からルブンバシ市が仙台市と友好な関係を経済・開発プログラムの面でも推進できるようになるとすれば、それは大いなる栄誉であります。

ルブンバシ市は、コンゴ民主共和国(注:旧ザイール)カタンガ州の州都です。(注3)
市の面積763Km 2のうち140Km2だけが都市化されています。人口は約300万人、毎年の人口増加率は15,72%に達します。鉱業を中心として嘗てはとても豊かで(この国の)工業の中心地でした。しかし、正直、今日のルブンバシは、世界金融不況・経済停滞の波に呑まれ、都市整備の点で不当に低いレベルに追い込まれています。住民に提供せねばならない市のサーヴィスは、人口流入・増加を前にして極めて遅れています。

貧困にたいする私たちの戦いは多方面にわたります。上下水道、住宅、環境(河川の浄化)、市の文化遺産、交通、道路整備、市職員の教育訓練等々の戦線です。

中央政府とは別に地方自治体として日本の都市と協力関係を拓く端緒となることを、また仙台の方々がルブンバシをご訪問されることを切に願います。最後に仙台市の益々の発展と成功を祈ります。
ルブンバシ市長
マリー・グレゴワール・タンビラ・サンブウェ(注4)

注1 「日本カタンガ協会」から潜在的候補として仙台市と宇都宮市を例としてあげました。
   仙台市は同協会名誉会長田邊の生地です。
注2 ネットのWikipediaからフランス語版を印刷して当局におくりました。
   http://fr.wikipedia.org/wiki/Sendai
注3 「日本カタンガ協会」のHPをご参照ください。カタンガ州は日本の総面積よりも広             
   広いところです。 http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/
注4 女性市長です。年齢は仙台市長よりちょっと上のようです。」
unquote
異文化との接触。仙台にとってのメリットは何か。市民にどう説明するか。発展途上国などとマヤカシではいえない低開発国からのラブ・レター。仙台市長としては勇気がいるだろう。

ネットでタンビラ女史を検索したら、娘さん(Daiane、英語ではダイアナ)が2006年のミス・コンゴに選ばれていることがわかった。これはいよいよ市長さんにお会いしてみなければいけないなぁ。彼女が南アで病気療養中だったので、副市長さんにしか会っていない。

07 mai 2010

5月6日 le jeudi 6 mai 2010 タバ・コンゴ施設他 dispensaire de Tabac Congo, etc

Le 6 mai 2010, jeudi
快晴。

自治体国際交流協会交流親善課からルブンバシ市長の手紙の日本語訳を依頼された。今週中に送ろう。仙台市の意向を打診してくれるという。ありがたいシステムが日本にはあった。

「アフリカ日本協議会」というNGOにも昨日彼らのメルマガに「日本カタンガ協会」の紹介記事掲載をたのんだ。これも今朝返事をいただき、当方で紹介文を作成して送ればそのまま掲載してくれることになった。深謝。

チコに蚤が。昨夜発見。さっそくスプレー。今朝は一匹もいなかった。どこから蚤がきたのだろう。

昔の上司にして友人Nさんにメイルを出したが返事がない。電話魔の人だが電話もない。元気なのだろうか。ともかく顔の広い人だから、財界・官界の方々にコンゴの宣伝をしてほしい。とても精力的なひとだから、いつも超多忙。多忙ならいい。健康だけが心配だ。

Kyungu「日本カタンガ協会」会長の紹介になる建築家とフランシスコ会の診療所(産科)予定地(ゴルフ地区)を再訪。材料費(レンガ、セメント、砂など)で36万ドルとは。土曜日にもっとつめて正式の見積もりをだすというが、ちと高いのでは? M2あたりの価格を出してみよう。
このあと食事後、アスンタさんとタバ・コンゴ地区(近くにタバコ工場があるのでこう呼ばれている)にある、同じフランシスコ会の診療所、産院、修道院、女子裁縫中学学校を見学した。前もって云われたように途中から相当の悪路だった。施設はみなこじんまりとしていた。贅沢な作りではないが、しっかりとした建物である。シスター・アスンタさんはこの施設ができたころ、1987年から数年ここで看護師として働いていた。今は住宅が密集しているが、当時は周りに人家がなく、あっても藁葺きの家が多かったという。バスもなく、歩いてルブンバシの市中まで薬を買いに毎週通ったそうである。
井戸はVision Mondialeが井戸掘りと産院建設をした。電気のトランスが修道院の中にある。停電がほとんどない。水と電気が確保されているのは大きなメリット。
診療所にイタリア人グラツィエラ看護士がいた。在コンゴ15年。診療所といっても簡単な施設だ。受付、診察室、治療室(予防注射もここ)、ラボ、一時入院のベッド・ルーム、薬剤室と待合室。
産院は、診察室、産室、産後のベッド・ルーム。保育器はあったが故障していた。その他機器も使えなくなっているものが多い。しかし一応清潔。この清潔さ故にルブンバシの市中や遠距離からここで出産するために来る妊婦がかなりいる。
女子裁縫中学も小さい。ミシンがおいてあったが、足踏み式のシンガーもあった。注文生産もしているが、ここで仕立てて行商販売するおばさんもいる。裁縫だけでなく、一般教養(国語、数学等)も教えている。ただし授業は午前中のみ。教員室。実習室、4教室。2教室増設中。ひとクラス15名内外。(写真をブログ「日本カタンガ協会」の方にアップする)。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/

5月5日 le mercredi 5 mai 2010 フェア・トレード他 commerce équitable, etc

Le 5 mai 2010, mercredi
快晴。風が冷たいが陽射しは強い。
日本は子供の日。

お昼、日本の茶蕎麦を食べた。茶蕎麦は先日シスター・アスンタ佐野さんからいただいた。貴重な貴重な蕎麦に違いない。それを惜しげもなく下ったのである。フランシスコ会のかただなぁ、と思う。海苔は先月ここに見えられたTさん一行からの贈り物。有難く味わって食した。
アッシジの聖フランシスコは、冬空に着るものがなく震えている者がいると、自分の衣服を脱いでその者に与えたという。とても普通のひと、普通のキリスト者にも出来ないことを、いとも軽く実行した聖人である。所有ということに頓着しない、全ては神のものだとしたので、「開放の神学théologie de libération」では革命家とまでいっているが、ここではそれには詳しく踏み入らない。
僕はアッシジにルガノにいたときに2度行っている。日帰りは無理だが、ローマかシエナに泊まればいい。アッシジに行ったのは聖フランシスコに会いたかったこともあるが、ジョットGiottoのフレスコ画を見たかったからである。それ以前にパードヴァのジョットを何回か見ている。本で見るよりも実物はいずれも古ぼけており、正直あまり感激をもよおすものではなかった。アッシジの村は、静かで落ち着いて思索のできる場所である。

フランシスコ会の農園でとれたコーヒーを日本に出せないかと、フェアトレードについてネットを調べていて、極めて面白い会社を見つけた。名古屋のSNTである。社長さんも一風変わった信念のある方のようだ。残念ながらホームページでメイルアドレスがわからなかったが、社長さんのブログに書き込みをしてみた。リサイクル事業もしている。
http://www.s-n-t.co.jp/index.htm
まもなく創業100年! 僕はリサイクルもフェアトレードも採算が乗らなければ事業としては駄目だと思う。自治体や国の援助を当てにした事業では長続きしない。
フランス語でfairtradeはcommerce équitableだが、リヨン市がfairtrade townと認定されているとは知らなかった。

テニスのボールにチコが興味を示し始めた。買ってきた縫いぐるみの極彩色のネズミとも戯れる。チカはまるでふりむかなかった。性格の違いだ。マドンナはボールを投げると二三回は飛んでいって得意そうに咥えて帰ってくるが、直ぐに飽きてしまう。遠くに投げると知らん顔。

05 mai 2010

5月4日 le mardi 4 mai 2010 独立50周年他 cinquantenaire de l'indépendance, etc

Le 4 mai 2010, mardi
晴れから快晴へ。
シーツを洗ったら、忽ち乾いてくれた。

チコの手の爪を切ってしまった。意外と大人しく切らせてくれた。その後、また背中に飛びつかれたが、あまり痛くなかった。切られた爪でも僕のベッド登れるようだから、理不尽な虐待にはならなそうだ。成功。
仔猫用の食事、Wiskasの子羊肉を調理したもの1/5袋ほど与えてみたら、たちまちのうちに平らげてしまった。ミルクとチーズだけじゃものたりなかったんだね。君もどんどん大きくなるか。
フランシスコ会の診療所(タバ・コンゴ地区、まだ行ったことがない)にも仔猫がうまれたそうだ。乳離れしそうなときにもう一匹もらってチコの兄弟とするか。

ブログ『日本カタンガ協会』の「柔道大会」の項を仏訳した。国際柔道連盟の会長さんが読めるためである。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/2010/05/competition-de-judo-lubumbashi.html

ブログ『日本カタンガ協会』にコンゴ独立50周年記念公式サイトを紹介した。日本は外交いや宣伝が下手だ。国連の分担金だって、日本が一番払っている。ここRDCに派遣されているMonuc(在コンゴ国連軍、いわゆるcasque bleu)にしても、日本の自衛隊はいないけれど、日本が1/4以上を負担しているのではないか。そんなことをコンゴ人は誰も知らない。
独立50周年式典に日本は誰をだすのだろう。華々しく宣伝できるチャンスなのだが、期待できないなぁ。
旧宗主国であるベルギーは国王が出席する(ベルギー国内でこの出席に対しフラマン語圏とフランス語圏でもめているようだけれども)。フランスはSarkozy大統領か少なくともクシュネール外務大臣が来るだろう。日本はといえば、皇室とベルギー王室とはどうも親しいたしいから、皇室を担ぎ出せばいい。それとも安全、治安が問題でそんなことはとてもできないというのだろうか。

04 mai 2010

5月3日 le lundi 3 mai 2010 国際柔道連盟他 IJF, etc

Le 3 mai 2010, lundi
快晴。日本は憲法記念日。

家計簿をつけることにする。「日本カタンガ協会」の会計とは別だ。いつか「協会」に負担してもらう経費もあるかもしれない。しかし、今は全て僕のポケットから持ち出している。

国際柔道連盟IJFの会長秘書から返事がきた。ありがたい。もっと詳しく事情説明をしてくれという内容。そこで、長文のメイルをだした。僕はスイスに15年間いた。スイスのレジデントにもすぐなれる。EUも同様だ。だが、ここRD Congoにいたいのだ。それは兎も角、スイスはルガノの僕のイタリア語の先生は、タンガニーカ湖をはさんでRDCの隣国ブルンディに毎年休暇を利用してヴォランティア活動のためにでかけていた。それを授業中にひけらかしたことは一度もない。ヴァカンスの話のときにたまたま知っただけである。僕は「へぇー、スイスはアフリカはおろかどこも植民地化したこともないのに、アフリカくんだりまで、ご苦労様な」とそのときは思っただけだった。そんなスイス人もいる。スイスでもいい、国際柔道連盟会長の国オーストリアでもいい、勿論日本であることにこしたことはないが、ルブンバシの柔道たちに手を差し伸べて欲しい。祈ろう。

サレジア会Jean-Paul神父に会った。2008年、日本大使館から援助を受けている。そのプロセスを先般からきいている。しかし、誰もその援助のことを知らないようだ。サレジア会が運営するサラマ校(高専のようなところ)もシテ・デ・ジューヌ(少年・青年対象の職業訓練施設)の責任者たちも覚えていないという。日本大使館から直接援助ではないのかもしれない。しかし、大使館のHPにある「草の根無償資金協力実施」リストには「ドン・ボスコ職業技術学校校舎建設計画」に466万円が提供されたと掲載されている。ドン・ボスコとはサレジア会の創始者である。キンシャサにはドン・ボスコ職業技術学校がないはず。不思議だ。

マドンナは手におえないなぁ。いけないということをわざとする。お仕置きしても無駄。まるで意にかいしない。平気の平左。有効な訓練はないのかな。

5月2日 le dimanche 2 mai 2010 東北大柔道部他 club de judo de l'Univ Tohoku, etc

Le 2 mai 2010, dimanche
快晴。

ネット回復。

東北大学柔道部のTさんからメイルの返事。関心をもっていただけたようだ。真に嬉しい。やはり若い人は違う。偏見がないのだろう。「えっ、アフリカ? とんでもないよ」ということにはならなかった。ありがとうございます。
大学の同窓会副会長は恩師のH先生。「先生!なんとかしてください」。
国際柔道連盟の会長さん(勿論面識のない方)にもメイルを今朝出した。全日本柔道連盟や日本大使にもメイルを出したいがアドレスがわからない。ホームページに出ていない。ま、迷惑メイルが自動的に送られてしまうから、HPにメイルアドレスを出さないのもわからないでもない。
ブログ『日本カタンガ協会』の柔道(2)の写真説明にフランス語を加えた。これは国際柔道連盟のため。国際柔道連盟はローザンヌ(スイス)にある。フランス語圏だ。しかし、2007年から会長はオーストリア人。国際オリンピックの本部もローザンヌだ。この間亡くなったサマランチ会長はバルセロナの人だったけど、フランス語が勿論上手かった。一度だけ会ったことがある。冬季長野オリンピックが決まった後のことである。

チコ・サスケ君はチーズがお気に入りの様子。どんどん食べて大きくなれ。先週火曜日に連れて来たときは痩せこけて栄養失調状態かなと思わせた。生きられないかもしれないと思ったけれど、今はもうイタズラっ子になりつつある。

チーズといってもvache qui rit(スペイン語ならvaca que rie、成城のスーパー「石井」でも売っていた。ただし英語でthe laughing cowとなっていた)。僕はこのチーズ(ヴァシュ・キ・リ、笑う牛)が好きだ。癖がない。柔らかい。子供用のチーズだろう。エマンタール、グリュイエール、パルミジャーノも好きで、ここのスーパーでも売っている。値段は日本よりも安い。

今日はマドンナの4ヶ月目の誕生日だった。写真を撮った。特大のオムレツを夜食に作ってやろう。コレステロール? ま、毎日じゃないからいいだろう。

姉妹都市の件で(財)自治体国際化協会交流親善課にメイルを出した。ルブンバシと仙台の姉妹都市推進をお願いするためである。仙台市のうまいアドレスが見つからない。

網戸をつけた効果か蚊が少ない。ともかく蛾は部屋に全く入ってこなくなった。バンザイ。だが油断は禁物。
台所の庭に通じる扉の下の隙間を鉄のバーを溶接してうめてしまった所為か、はた如何に仔猫とはいえチコの存在の故かネズミが出なくなった。これもバイザイだね。ネズミといっても小さなネズミで、驚くような大きさのドブネズミとは違ったけど、ネズミ捕りで死骸を見るのも気持ちのいいものではない。結局2匹しか捕まえられなかった。

02 mai 2010

マドンナ 4ヶ月 Madonna, 4 mois accomplis

5月2日、マドンナ4ヶ月目の誕生日である。毎月写真を載せるのは親バカちゃんりん。ご勘弁。
ともかく逞しい。筋骨隆々。粗相をして懲罰punitionを受けてもへいっちゃら。負けるねぇ。しかし、どうも内弁慶の嫌いがある。「君、番犬なんだぜ!」

5月1日 le samedi 1er mai 2010 柔道大会他 compétition du judo de L'shi, etc

Le 1er mai 2010, samedi
快晴。

メーデー。各地でデモ行進。デモといってもパレードだ。企業の従業員がそれぞれプラカードをもって行進するだけ。しかし、お陰でルブンバシに出るのが遅れた。家の目の前の通りを行進してくれたからだ。

PCが頻繁に落ちる。Overheatらしいけれど何故なのか不明。

柔道大会に招待されて、SNCCの道場で見学。13時開催が14時になった。州のスポーツ大臣は欠席。代理として参事官(女性)が来て試合開始となった。5チーム参加予定が、1チームは参加費用が捻出できず、またもう1チームは時期尚早との理由で不参加。3チームで試合が行われた。軽量級が圧倒的に多く20名以上。重量級は2名のみ。審判は柔道2段のふたり。
練習のときは、柔道着がない選手も半数ほどいた。試合のときは他の選手の柔道着を借りて望んでいたので、必ずしもサイズが合わず、試合にも影響したようだ。タタミはここもおが屑のマットと確認した。ともかく持っている手段の中で遣り繰りをして、情熱で戦っているという印象だ。
応援団が派手はでしい。試合中もアドヴァイスなのかどうなのか叱咤激励。応援する選手が勝つと大喜びで踊りだして大騒ぎ。賑やかである。
決勝戦は明日だそうだ。

帰宅してみるとネットが不通。

4月30日 le vendredi 30 avril 2010

Le 30 avril 2010, vendredi
このブログ『アフリカの星』と並行して『日本カタンガ協会』が逐次更新されています。重複する記事もありますが、独自の文章も載せています。是非ご訪問ください。

マドンナが珍しく自分の小屋の中で吐いたようだ。中身は庭の草。夜10時から庭に放しているが、木の葉や草を食べた。早速掃除。小屋の屋根が開閉式になっているので、掃除には便利である。

チコは昨夜も僕の寝床に侵入してきた。ヒッツキ虫collantである。まだ乳離れしていないのか、ミルクの中に小さなオムレツをいれたけれど食べられなかった。痩せこけていて、これで元気に育つのだろうかと心配だ。

コンゴRDCが2017年のCAN(Coupe d’Afrique des Nations、アフリカ杯)開催国として立候補するかもしれない。7年後だから、今から政治・経済状態がどうなるかわからない。慎重にRDCサッカー連盟も検討中というが、いずれにせよ、こうした話が俎上にのぼることは、平和、政治的安定、経済的自信の兆しであり歓迎すべきであろう。世界に冠たる犯罪王国南アで2010FIFAワールドカップが開催されるのだから、2017年RDCでCANが開かれても不思議はない。CANは2年ごとに開催。今年の開催国は、20年という長期にわたって内線で疲弊していた隣国アンゴラであった。

日本は昨日からゴールデン・ウィーク。多くのサラリーマンにとって7日間の休暇。

家の契約でごたごたしている。ムラプ神父とはなした。9時の約束で事務所に行くといない。電話したら、車がなくて事務所にいけないと。事情があるなら電話してこい。ふざけている。彼の宿舎に出向いた。庭は賃貸契約の対象外であるという。それはわかっている。しかし、庭を整備したのは僕である。隣のジャック神父は、口先だけでなにもしていない。そういうなら、もう庭に手をつけない。月曜から庭師は不要だ。可愛そうにアンドレは解雇せざるをえず。それとも週一にする。フランシスコ会にいいつけたのも気に食わないらしい。何を云っているのだ。わからずやの教会である。

チコ、チーコじゃなくてサスケにしようか。君、忍者だよ。

ブログ『日本カタンガ協会』にマラリヤの記事を書いていて思った。蚊帳を日本から送っているNPOがあったように思う。コンゴ宛ではなかった。しかし、日本製の蚊帳は高い。楽天でみたら、一番安い蚊帳が2415円。高いものは数万円もする。驚き桃の木である。安い蚊帳が24 150フラン相当とは。ここのスーパーではその1/10で買える。勿論中国製の安物だが蚊帳としての役には立つ。僕も使っている。この値段でも買えない層が圧倒的多数のコンゴ国民なのだ。「貧乏人は蚊に刺されて死ね」ということか。蚊帳を送ってくれることは親切だ。しかし、蚊帳の工場を作ることの方がもっと貢献する。人を雇うことにつながるし、蚊帳は消耗品である。しかし、蚊帳の工場なんて日本からはむりなのだろうなぁ。麻の高級品ではなくて、出来るだけ安い繊維で作らねばならないのだから。アイデアはないだろうか。ルブンバシでは日本の中古車が対活躍をしている。日本で蚊帳が未だにそう売れるとは思えない。僕が子供のころ、夏も夜が涼しい仙台でさえ蚊帳をつっていた。東京では必需品だったように思う。ところが、エアコン時代、アルミサッシの網戸の時代になって殆ど蚊帳を見かけなくなった。
調べてみると、住友化学が隣国タンザニアに2工場を建てている。コンゴにも来て欲しいものだ。ところが、住友化学だから唯の蚊帳ではない。蚊帳の繊維に農薬を混入させ、蚊が蚊帳に触れると頓死してしまうのだそうだ。その農薬が発癌物質だとして問題視しているNGOがある。ことは、乳幼児に使用する例が多いから深刻かもしれない。しかし、発癌物質としても、その実験証明は極めて短期間に集中的に実験動物に塗布した結果であろう。そうした結果をもって危険とは一概に判断できない。僕はむしろ価格だと考える。今のところ住友化学が生産している蚊帳の値段は700円前後。とすれば、UnescoやJicaは買ってくれるだろうが、タンザニアの一般庶民が買える値段ではない。中国でも生産するそうだから、もっと安い製品が市場に出回るかもしれない。期待しよう。