09 mars 2010

3月7日~9日まで du 7 mars au 9 mars 10

Le 7 mars 2010, dimanche
Mlapo師の私設秘書Justinさんが、ふらっと訪ねてきて四方山話をしていった。どうもビールが飲みたいようだったが、あいにく僕の冷蔵庫に冷えたビールがなかった。コーラで我慢してもらった。

予約した玉子をポルトガル人の農場の店にとりにいった。広い農場でパトロンに云えば見学させてくると店のアンゴラ人Prospère君がいうので、今度許可をもらおう。農場は、ルブンバシの中心モエロ通りにレストランを開店している。またキプシ街道で僕が「峠茶屋」と呼んでいる店も持っている。Prospère君は「峠茶屋」の店員である。峠というのは、Kipushiの僕の家からルブンバシに行くにはいくつも峠を越すが、Mimbulu村を過ぎて次の峠の丁度頂にその店があるからだ。農場の入り口になっている。
有機農法かどうかは知らないが、農場には乳牛、豚、鴨、鶏等がいるそうだ。そこでとれた新鮮な野菜、牛乳などを使って、パン、パイ、菓子、ベーコン、ハム等を店に出している。

「峠茶屋」の帰り道、これまで見つけていた他の農場、ranchやfermeと看板が出ているところで立ち寄って行こうとしたが、どこもぬかるみと水溜りが多い道で、行きかけて途中で諦めた。いくら四駆でも一人で立ち往生してしまっては困る。乾季になってから訪問してみよう。

Le 8 mars 2010, lundi
今日は「女性の日 Journée de femme」。ルブンバシの目抜き通りは交通規制となり、多くの女性がデモ。お祭りである。お陰で遠回りをさせられた。デモに参加するという女性警官Françoiseをキプシから車に乗せたが、彼女は「男の日はないわね。だって今日を除いて毎日が男の日なんだもの」。

2月15日に引き続いてSodimicoを訪問。
Songasongaさんからお墓のことを聞いた。日本鉱業がSodimizaを運営していた10年間に日本人従業員で亡くなった方が10名ほどおられるという。彼らがルブンバシ市の墓地に埋葬されている。今は訪れる人もなく荒れ果てているという。なんとかならないものだろうかというのである。これは全く新しい事実で、日本鉱業は存続会社があるものの、当時の関係者は、既に30年前のこととて、リタイアされているだろうし、世代も大きく交代している。亡くなられた方たちの家族はどうされたのだろう。分骨して日本にお墓をつくられたのだろうか。調査しますとSangasongaさんに答えたものの、どこから手を突ければよいものか。とりあえず、市の許可をとって墓地をみることにする。

その後、Sodimico社の社長チソラ氏(Laurent Lambert Tshisola)にお会いした。彼からSodimicoの現状を聞いた。Musoshi現場を見学するのはいいが、現在殆ど動いていない。採掘もしていないし、加工もしていない。パートナーがいて、Kisendaに重点をおいている。Musoshiの工場を解体してKisendaに移設しようとしている。Sodimicoはこれに必ずしも賛成していないが、一部実行されている。従って見学してもノスタルジーの意味しかないかもしれない。

2006年当時ここの柔道家たちが練習をしていたジム(柔道だけの練習場ではないので道場とはいえない)を訪ねた。既にそこにジムはなく、同じ建物が倉庫になっていた。柔道家たちは、Gecaminesの運動施設に移ったのだそうだ。

ポルトガル人の経営するキプシ街道の農場見学は乾季だけだとわかった。来月か再来月見学することにする。確かに雨季はぬかるみが多いから、たとえ四駆でも立ち往生しないとは限らない。

マンガン鉱を採掘している国営企業EMK(Entreprise Minière Kisengei)の本社で、営業部長イルンガFaustin Ilunga氏と面談。ここもなにか幽霊会社のような雰囲気。カタンガの東部、アンゴラ国境から100kmの地点にあるKisengeでマンガン鉱を採掘しているものの、輸出する手段が今のところない。東部の港、タンザニアのダル・エス・サラムや南アのダーバンなどから輸出するには内陸輸送費が嵩み過ぎて、競争力が全くなくなってしまうので、これまで試みたことはあるが現在諦めている。Angoraの港ロビトLobitoから出せば競争力があるのだが、アンゴラ内戦が終わっても鉄道輸送ができない。コンゴ側の鉄道の老朽化とアンゴラ側の鉄道の復旧工事の目処が立っていないためである。トラックによる輸送は道路事情が悪く考えられない。輸出できないまま、採掘は進行しており、40万トンも輸出readyの形でKisengeサイトに溜まっている。Kisengeへのアクセスは陸路(ルブンバシから709km)で2日(KolwesiまたはMutchatchaで宿泊)あれば可能であるが、車は四駆。Kolweziから東の道はジープでのみ走行可能。従ってKolweziから出しているコバルトや銅などのようにトラック輸送はできない。空路のアクセスは可能。サイト内に空港がある。ただし、定期便はない。チャータ便のみ。マンガン鉱の質が高く、その意味でガボンのマンガン鉱山よりも評価されている。電池用にマンガン鉱を二酸化マンガンに現地で加工して、即ち付加価値をつけて輸出しようとの考えがある。しかし、僕の考えでは、付加価値をつけるのはいい、しかし、それで競争力ができてもインフラの欠陥分だけ利益率が下がるのであって、付加価値をつけるにしても、先ずインフラを整備することが先である。EMKはパートナー探しに懸命であるようだ。Kisengeでは金もとれるらしく、この金採掘ではUKのGold Fieldとリサーチ契約をした。
結論として、Lobito港から輸出する以外ない。そのための鉄道整備が出来るのは中国か日本か。

Mimbulu村を通って帰る途中、例の「伝統的リーダー」カポンダDamien Kaponda氏に会いにいった。突然のことなので、今週中か来週中のアポイントの申し込みをしようと思ったのである。ところが、10分ほどして、今会うとの返事。
家はコンクリの平屋。その庭に長方形の東屋があり、その中で接見ということになった。建物もシンプルだが、ご本人もとてもシンプルな方であった。酋長などというのはやはり失礼だ。普通のおじさんといった感じ。青い格子縞のシャツとベージュのズボン。前歯が抜けているのが愛嬌。にこやかに「よく来た。カタンガの生活をエンジョイしてくれ給え。伝統の祭りがあるときは招待するよ。是非一緒に踊ろうじゃないか」。キプシの僕の家の隣に飲み屋があるが、そこがカポンダ氏の所有する棟で、上がりが彼の小遣いになるのだそうだ。「そうさね、ザンビアのNdola(コッパーベルト州の州都、国境から南西へ150km)の人々も自分のことを伝統的リーダーとして敬ってくれるよ。国境は関係ないね」

Le 9 mars 2010, mardi
市役所でJean-Pierre Ilunga Ngwej 環境部長と2月8日に続き面談。市のゴミ処理について伺った。
公道は州が担当している。約750名の清掃員がいる。市の方はというと、清掃車は2台しかなく、あとはリヤカーで家庭のゴミを集めている。しかし市も州も集めたゴミは郊外の指定した場所に捨てているだけである。問題はゴミの選別ができていない。清掃手段が限られている。
汚水については、以前は3箇所の下水処理場があった(Av Pleine/Salama/Kenya)。しかし一箇所(Salama)を除いては再建も不可能。Salama下水処理場は修理可能。いずれにせよ汚水は結局のところ現在未処理で河川に垂れ流されている。
対策は如何。フルンバシ市はRDC最大の銅産出実績を持つAnvil Mining社(オーストラリア・カナダ系)の協力を得て2007年に5ヵ年計画を策定した。その環境プロジェクトの部分をコピーしてもらって入手した。計画は立てたものの、実施ができない。その最大の原因は資金不足である。資金の裏づけなしに計画を立てたわけではない。しかしたとえば家庭廃棄物に対する税金は廃止されてしまったし、第一個人で納税しているひとが少ない。企業の税金は国が吸い上げてしまって地方に約束された額(国税の40%)が返って来ない。従って計画は、その対策予算も地味で質素にも拘らず全く実施されていないといって過言ではない。

Colonel Kunda氏の事務所に行く。今日はベレーをかぶり制服をきていた。さすが貫禄。キプシのDGM(イミグレーション)で出国査証をとりたいので仲介して欲しいと頼みに行ったのである。快く引き受けてくれた。

マドンナの首輪を買った。家でつけてみるとまだマドンナには大きすぎた。しかし、身体は確実に大きくなっている。背伸びをするとかなりのところまで届く。今日はトイレに入り、トイレット・ペーパーを持ち出して歯で切り刻んでしまった。悪戯も度が過ぎるなぁ。

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