08 octobre 2014

10月8日 エイズ世界蔓延はキンシャサからだというが、、、 est-ce vrai que le SIDA a répandu de Kin ?

Le mercredi 8 octobre 2014
5時、快晴、26℃、42.5%。

地元フォステム校の創立者ステファン氏が昨日午前亡くなった。マラリアが原因だという。RDCコンゴやアフリカではまだまだマラリヤで死亡する。マラリアはキニーネで治療できる。それはとっくの昔から知られたことだ。しかし、幼児ではなく大人がマラリアで死ぬ。殆どが医療ミスといっていい。だが、マラリアというものの、本当にマラリアなのかどうかわからない。医者は高熱が出るとマラリアだというし、周りの人々も、それが風邪でも、コレラでも、他の病気でもマラリアというのだ。
ステファンさんはイタリアに移民、イタリア料理を修業、自分で店を持った。評判がよく繁盛し、そのお金で生地キプシの子供たちのために学校を開いた。学校は、一度に建設されたわけではなく、一クラス、また一クラスと生徒が進級する度に増やしていった。いま中学2年までのクラスがある。教室は3年生分も出来ている。
授業料は公立学校よりも安くした。公立学校の建前は無料だが、実際は国から金がでないので有料になっている。
フォステム校には何回も世田谷のままさんバレーチームの方々が応援の寄付を届けている。また「日本カタンガ協会」も微力ながら校庭に井戸掘りをするなど協力をしている。

ステファンさんはイタリア国籍を取得したが、一昨年キプシ(コンゴ)に戻ってきた。イタリアが不景気で店の経営が悪化したためらしい。ルブンバシのゴルフ地区(高級住宅街)に今年イタリア料理店を開く準備をしていた。
ステファンさんは「日本カタンガ協会」の会長キュング氏の夫人マリ・ジャンヌの兄である。マリ・ジャンヌさんは今大変だ。夫のキュングさんが去年高血圧で倒れ、ヨハネスバーグ(南アフリカ)に治療、リハビリのために行った。一旦コンゴに帰国したが、今年再度南アフリカでリハビリを受けていた。彼女はいつも横について看病に専念。10月、キュングさんの病状が悪化、目下サレジア会(カトリック)のドン・ボスコ病院に入院中。兄弟の通夜には出られず、病院で寝泊りしている。
ステファンさんの埋葬は明日9日(14時)、今日は炭2俵をステファンさんの兄ノルベールさんに持参した。昨日今日と通夜で、夜中のカタンガは寒いので暖をとるのに必要なのである。
ステファンさんの冥福を祈る。

Pdfファイルをワードに直す無料ソフトをダウンロードしたら、ワードのピクチャーしか変換できなかったが、余計なソフトが付いてきた。勝手にPCをスキャンしてビールスがいるのいないのと云う。なるほど、こうしたトリックで人を騙すわけか。汚い。PCを掃除しないといけないな。

以下は毎日新聞電子版が7日(火)に伝えたものである。毎日はナショナルグラフィックニューズの記事をソースとしていると明示している。
ナショナル・グラフィックスの記事としても、ちゃんと精査してから記事にして欲しい。
コンゴ民主共和国の首都はキンシャサだが、記事がいう1960年当時、すなわち独立した当時はまだレオポルドビルと呼ばれていた。書くなら現在のコンゴ民主共和国の首都ということになる。第一、コンゴ民主共和国の名称は植民地時代はベルギー領コンゴ、独立してコンゴ共和国となり、ザイールとモブツが国名を変えたのは1971年である。コンゴ民主共和国と「民主」をつけて隣国コンゴ共和国(首都ブラザビル)と呼称を区別したのは現大統領の父親ローラン・デジレ・カビラ大統領で1997年になってのことだ。
レオポルドビルは1966年に既にキンシャサとなっている。
さて、キンシャサを中心として交通網が整備されたためにエイズが爆発的に広がったというのだが、交通網を整備したのは、道路、水路、鉄道にしてもベルギー植民地時代である。それから独立後の交通網整備の成果は極めて乏しい。水路はキンシャサからコンゴ河を遡ってオリエンタル州のキサンガニ(旧スタンレービル)と、キンシャサから西カサイ州イレボ港までだ。とてもコンゴ中に水路が巡らされているとはいえない。
また鉄道は、ベルギー時代に「死の工事」といわれ、多くのアフリカ黒人が犠牲になったキンシャサ=マタディ(バ・コンゴ州)間しかない。あとはカタンガ州が割と鉄道網があるがキンシャサからは遠い。
道路にしても現在でさえキンシャサから11州ある州都を結ぶ整備された道路などない。国土がフランスの5倍と広いこともあるが、現在まで高速道路は全く存在しない。それはモブツがザイール時代に投資を怠ったからだ。高速道路があると、キンシャサに地方から反政府軍が攻め込むから高速道路は作らない方針だったといわれる。フランスは1970年代になってやっと高速道路網を整備しはじめた。ドイツにはアウトバーンがヒトラー時代に出来ていた。スペインはフランスよりももっと遅い。ヨーロッパでさえこんな状態だった。
キンシャサの人口は1970年代になって、100万を超えた。とても何百万の賃金労働者がキンシャサに鉄道等で出入りしたとは考えられない。現在推定1000万人超というキンシャサとは異なる。「数百万の賃金労働者」が男性だったから性産業がキンシャサで発達した? だからエイズが先ずキンシャサで蔓延した? これも眉唾だなぁ。産業革命時のロンドンと事情を間違えているのではないか。キンシャサに生産業(多分曖昧宿、安キャバレーの類か)がなかった、ないとは云わない。しかし、それはパリやロンドンの方が遥かに発達していたのではあるまいか。ザイールの賃金労働者は全員独身だったというのだろうか。
エイズの発祥地がコンゴだとしても、80年代になった米国のゲイ社会ではなかったかと記憶している。
ザイールからエイズを持ち帰ったのはアメリカ人じゃないのかと思う。梅毒を南米からヨーロッパに広めたのはスペイン人やポルトガル人だ。かといって、インカ帝国のクスコが槍玉にあがっていない。
キンシャサを勝手な推量で貶めるのはよして欲しい。しかも歴史的時間を混同している。
独立前夜のレオポルドビルLéopoldville(現在のキンシャサ)
引用開始
「エイズ拡大のきっかけは交通網の整備
20141007

遺伝子解析の結果、HIVはまずコンゴ民主共和国の首都キンシャサに根付いたことがわかった。写真はエイズが流行し始めた1995年に撮影されたキンシャサの診療所。

 後天性免疫不全症候群(エイズ)の原因であるヒト免疫不全ウイルス(HIV)の歴史に関する新たな研究結果が、「Science」誌に102日付で発表された。それによれば、20世紀半ばのアフリカ、中でもコンゴ民主共和国(旧ザイール)の首都キンシャサの現代化が大きな役割を果たし、地球規模のまん延を引き起こしたという。

 オックスフォード大学の進化生物学者で、感染症を専門とするオリバー・パイバス(Oliver Pybus)氏は、「HIVがほかの種から人に感染した経緯についてはとても詳しく研究されている」と前置きした上で、「問題は、なぜ1つのウイルス株だけが世界的に流行し、ほかの株は局地的な流行にとどまったかだ」と説明する。

 パイバス氏らはこの謎を解明するため、中央アフリカで過去30年間に集められた814人分のHIVゲノムを解析した。DNAの全遺伝情報を比較して進化の系統樹を作成し、HIVがまん延する前のおぼろげな歴史をさかのぼってみた。

 その結果、当時ザイールの首都だったキンシャサの街がHIVの爆心地として重要な役割を果たしていたことがわかった。

 HIV20世紀の初頭に人に感染したことは周知の事実だ。中央アフリカの狩猟者たちがHIVに感染したチンパンジーなどの霊長類を食べたことが原因ではないかと考えられている。こうした感染が何度も起こり、HIV-1HIV-2などと呼ばれるさまざまなタイプのウイルスが現地の人々に広がった。

 HIV-1はさらにMOといったグループに分かれる。世界に分布しているHIV90%がグループMで、通常、HIVといえばグループMを指す。グループOHIV-2の感染も見られるが、中央アフリカと西アフリカに集中している。

 パイバス氏は、“アクセルを踏んだ”のはグループMのようだと話す。

 814人分のHIVゲノムは出どころがわかっていたため、パイバス氏らはHIVの地理的、進化的な経路をさかのぼることができた。そして、20世紀半ば、1960年ごろの極めて重要な分岐点を突き止めた。もともとグループOMは同じように拡大していたが、その地点を境にグループMが爆発的に流行した。

 間もなく感染者数は3倍に増加し、その範囲も広大なコンゴ盆地を出た。パイバス氏らによれば、流行の土台となったのは、当時のザイールで急速に整備されていた植民地の交通システムだという。

 ザイールの都市を結ぶ道路や水路、鉄道を利用していたのは何百万もの賃金労働者だ。その大部分が男性だったため、性産業が繁栄した。グループMウイルスも交通システムを利用し、商業の中心地であるキンシャサからコンゴ川河口の港、コンゴ盆地の都市へと拡大した。

ウイルスが国境を越えるのは時間の問題だった。1960年代前半にはハイチの労働者が帰国する際にウイルスを持ち帰ったと推測される。」

引用終了

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