27 décembre 2009

vers Lubumbashi ルブンバシへ (3日目)

Le 19 décembre 2009, samedi
朝8時過ぎ運転手が呼んだ通関業者Fredがやってきた。小型の若い男である。国境は24時間開いているのではなく(ケニヤとの国境は24時間あいているらしい)、8時半から18時ころまでだという。通関費用については、前日運転手が300ドルだというので、高いと思いChansa氏に連絡して裏をとっておいた。通関業者に明細をきくと総計215ドルにしかならない。午前中のクイック通関を依頼し250ドル渡し、領収書をかかせた。昼過ぎまでかかった場合罰金として1時間当たり50ドルとるぞ、と宣言したものの効果はないだろうな。昼になると、後2時間、それが迫ると、後1時間等々、ついに17時半まで国境まえで待たされた。14時ころスコール。通関業者の軒先で雨宿りしていると事務所の中まで招き入れてくれた。親切。K&Kという通関業者。僕が使ったFredの店とは違う。運転手はTundumaで2泊目を主張したが、僕はあきらめなかった。17時半になり、FredがZambia側の書類がととのったことを知らせに来た。するとFredの上司がやってきて、「今日はもう遅い。タンザニア側の役人がofficeを閉める時間だ。明朝国境を越えるようにしろ」という。僕はそこでどなりちらした。「早朝から待っているんだぞ、冗談じゃない、昼までに通過させてくれるというから多めに払ってやったのじゃないか」。この上司がTanzania側の役人と交渉したのか20ドルのsweetを払ったら今日中に通過出来るようにするというので、宿に泊まっても同じような額になるので、一日も早く国境通過をするためにドルを渡した。
通関の遅れはザンビア人が怠け者だからとタンザニア人はいう。ザンビアの道は悪く、道路上で警察官や兵隊にsweetなりdrinkという名の賄賂をしょっちゅう要求される。タンザニア人のいうザンビア人の評価は最低だ。
タンザニア側でポケットにあったタンザニア通貨(シリング)を全てザンビア通貨(クワチャKwacha)に交換した。10 000Tshが35 000K。両替所だと38 000になるようだがbureau de changeは既に閉まっていた。150 000Tsh(10 500円)ほど持っていた。
とも角、こうして国境を通過しようとしたときに、コンゴ人の青年がやってきて、「兄とトラックを運転してここまできたが、今日中に国境を越えられない、何時になるかも分からない、貴方の車に乗せてくれ」という。悪い人間でもなさそうだったし、運転手とはザンビアのKapili-Mposhi市までなので、その後の道案内も助けてくれるだろうからと思い承知した。ペピPepi君である。敬虔なクリスチャンだった。フランス語で会話が出来るのも気が楽だ。携帯のアクセサリーをルブンバシで商っているそうだ。Dubaiに仕入れに行った帰り道。がっしりした体つきで精悍な顔つき。その後、彼と同室で3泊したわけだが、不快な思いをしたことは一度もなかった。就寝初めにちょっと鼾をかくぐらいだ。一応気をつけてはいたけれども、一銭も盗られていないし、なくなったものもない。
国境を越えるとザンビアはコンゴのカタンガ州と同じ時間帯、タンザニアと一時間時差がある。18時半にタンザニアを出たから、ザンビアに17時半に入ったことになる。
国境からしばらく行ったところで、検問があり、「シャーシー番号が書類と違う、国境までもどって直して来い」と若い兵隊がいう。確かにタンザニア上陸のときからシャーシ番号の一文字、4が1になっている。理由はわかったし、相手に理由がある、しかし、ごねているとsweet。 50 000 Kachas(10 000Kが180円)というのを20 000K(360円)に負けてもらった。これからいちいち検問のチェックで同じことが繰り返されても困るというと、B/Lのシャーシ番号は車と一致しているから、B/Lのコピーをみせれば大丈夫だと教えてくれた。それがわかっているなら何故国境まで戻れなどといったのか。抗弁しても仕様がない。その後コンゴ国境までシャーシ番号を調べることはなかった。またsweetをとられることもなかった。笑顔でいくつもあった検問所の兵隊や警官と接すると彼らもまた笑顔で応えくれて、直ぐに開放してくれた。友好作戦である。
この検問を通ってから暫くすると激しい雨が降り出した。小ぶりになったところで運転手と運転を交代。すると悪路が始まった。メンテが悪くて、穴だらけ。しかも大きくて深い穴もところどころにある。スピードがだせない。しかもずっと悪路が続くというのではなく、ときどき申し分のないいい道になる。そこでスピードを出すと突然悪路にさしかかる。その繰り返しであった。二度大きな穴凹に突っ込んで車体に大きなショックを与えた。運転手を叱っても無駄だ。ライトに照らされた範囲では穴凹を避けようがない。昼間明るいうちに走行するべきだった。急がずTundumaで泊まればよかったのだ。しかしそれはもう遅い。交通量はタンザニアに比して少なくなったが、時折バスや乗用車が猛スピードでこちらを追い越していく。タンクローリーが突進してくる。雨によるスリップだって怖い。慎重な運転をしなければならない。運転手は交差するときに右折ランプをつける。車幅を相手に報せる為だという。そういえば相手側も右折ランプをつけるときが多い。僕なら本当に右折するのではないかと吃驚してしまう。Mpikaまで休みなく走った。着いたときには24時を回っていた。駐車場のあるGuest Houseをみつけて、そこに泊まることにした。3人で二部屋とり、僕とPepi君がTwinに入り、運転手は別の部屋にした。80 000 Kwachas(1 440円)。安いけど、蚤や蚊がいなかったのだから正解である。蚊帳のあるベットとないベット。蚊帳の有る方に寝させてもらった。とはいえこの蚊帳も大きな穴がいくつか開いていた。トイレット・ペーパーとよれよれの、しかしちゃんと洗ったバスタオル、石鹸ももらった。一流ホテルを除いてトイレット・ペーパーがアルジェリアやアラブの国ではないことが多い。レストランのトイレには先ずない。それにトイレがそれらの国では不潔だ。幸い、タンザニア、ザンビアで汚いトイレを使用することはなかった。ホテルのレストランは既にしまっており、食事が出来なかった。途中まともなレストランもなかったので空き腹で就寝。車の中にあったバナナは運転手がちゃっかり食べてしまっていた。僕はTundoumaで昼食に、いつ通関できるかわからず、スーパーでビスケットを買って齧っただけ。
Mpikaも高原の町でエアコンがいらない。この町から北に折れて一時間半ほど走ると温泉がある。ネットでみると北ローデシア時代からの瀟洒な老舗旅館がそこにあるようだ。今は孫が経営しているが、祖父が理想郷だと惚れこんで館を建てたところから始まったという。いつか訪れてみたい。北ローデシアは、南ローデシアと違って紛争や内戦がなかった。南ローデシアはジンバブエZimbabweとして1980年になってやっと独立した。北ローデシアがZambiaとして英国から独立したのは1964年のことである。

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