26 janvier 2010

引越まで jusqu'au déménagement (3)

Le 15 janvier 2010, vendredi
Cartierの革カバンを失くした。失くしたことに気付いたのは「Super Luxe」という店の前で車を駐車してからだ。気付く前に行った店は「Jambo」と「Megastore」だけ。「Jambo」に二回目に缶切りを探しに行ったときに、ついでにコップも買おうとしたが、機械が値段を読み取れず長いこと待たされたため、コップを買わずに出た。そのときにいらいらしていたので忘れて来てしまったのだと思う。それとも車の中に置いておいてやられたのか。そういえば、「Super Luxe」でドアをロックする時に右手のドアが半ドアだったためにロック出来なかった。いずれにせよカバンは見付からなかった。不幸中の幸いは、カバンの中にクレジット・カードも現金もいれていなかったことだ。とくに現金はATMで引き出してから一旦カバンに入れたが、一回目にJamboで支払ったときに、ポケットに移していた。またカードは前日はカバンに入れていたが、カバンをひったくりにあったりしたら危ない、身に着けておいた方が安全だと思って今日はジーンズのポケットに入れていた。旅券はDGMがキンシャサに送っているので所持していない。中に家の契約書コピー、仮滞在許可書、スイスの運転免許証など書類だけ。これらは再発行が可能なペーパーだ。Alain君がくれた2010年のダイアリーもあった。しかし、うっかりしていた。もう見付かることはないだろう。カバンはスイス時代からだから30年持っていたもの。残念だが、いたし方ないかもしれない。天の警告だ。そう思ってこれから気をつけることだ。

台所用品、食品、掃除道具、湯沸しポット等々をそろえた。

組み立て式の勉強机を買い、組み立てをする職人を伴ってKipushiの家へいった。サレジア会のアトリエで買ったベットの組み立てもする条件で30ドルを承知した。払いすぎだろうな。だって、一月の 給与が100ドルの世界なんだから。しかもこの職人、名前はBienvenuといったが、組み立てに3時間半もかかったのである。

マットレスはQuin Matという高級家具店にあった。206ドル。ヨーロッパ人がよく利用する店だそうである。

冷蔵庫にビール、コーラ、トニックをいれた。

家に電気は通じていたが水道はまだ。家のドア、窓、バスタブ、トイレ等のチェックをして修理を要請した。

Le 16 janvier 2010, samedi
暗殺された大統領LD Kabilaの記念日、国民休日。今の大統領の父親である。休日のため買い物が出来ずにKipushiへ。水道屋(鉛管工)に来てもらい給水工事依頼。見積もりを作成し、大家代表Mlapo神父のところに行く。今日を含め、月曜日も休日なので、火曜日から工事を開始することになった。さて、これで来週中に入居できるのか。

床屋、Coiffeur Rafael。ママ・イェモ(独裁者モブツの母の名)通りにあり宿舎に近かった。21時まで営業。2006年に行ったところより床屋らしかった。高級店か。5500FC(550円)はここでは高い方。しかし洗髪の設備はない。インド系の客も来ていた。もっと高くて15ドルもするところがあるのだという。Patrick君の紹介。スポーツ刈をしたモデル(韓国俳優Won Bin)の写真を携帯にいれておいて、こんな風に刈ってくれと頼んだ。理容師は「わかった、わかった、まかせてくれ」と全てバリカンで刈ってくれた。つまり鋏をつかわなかった。Dar es Salaamほど虎刈りではない。なかなかの出来。

Le 17 janvier 2010, dimanche
Kipushiの家は庭が広いから犬を飼おう。番犬にもなる大型犬がいい。と思ってAlain君に相談したら、丁度獣医さんが彼の犬に予防注射をしにくるから聞いてみるとのこと。そうしたら、夕方、早速犬を一緒に見に行った。1軒目の犬は獰猛そのもので、その仔犬たちは可愛いけれど、親犬を見ると尻込みする。警備会社が買うという犬は、余りにも攻撃的すぎる。2軒目はドーベルマン。この種はよく知らない。シェパード、グレート・デン、ボクサーの仔犬はいないかな。
ドーベルマンをネットで調べてみると、番犬にもよく、また通常の家庭での愛玩にもいいとある。ドイツ起源の犬である。しかし、今日見たドーベルマン、母犬も父犬もみたが、どちらも純粋種とは思えない。第一ドーベルマン自身純血ではない。
名前は「タロー」だろうな。昔、アルジェリア大使館からもらった雑種中の雑種の雑犬と同じ名前にしよう。タローの運命は酷かった。僕が82年にアルジェリアを去ってから、近所の悪ガキに噛み付いて当局から処分されてしまったときく。兄弟犬は、三菱商事の駐在員にもらわれ日本まで連れて行ってもらったというのに。

ルブンバシ動物園。2006年の記事を読んで欲しい。今日行ったら同じ動物園が様変わりであった。あのみすぼらしい動物園が生まれ変わっていた。モイーズ知事もがんばったが、在ルブンバシの企業、それも大企業ばかりではなく中小も協力して素晴らしい動物園になっていた。入場料は外国人が3000FC(300円)、ローカルの大人が1500、子どもは500だから妥当といえよう。かなりの人出である。中国人の姿もみえた。これでは先週行ったMuyamba Parkが流行るわけがない。動物の種類はまだまだ少ないが、それでもライオンやトラが追加された。それぞれの住処が大きく動物たちものびのびとしている。ベルギー時代の彫刻も磨かれ、噴水も機能していた。さらに密猟されたチンパンジーが広い山に保護されていた。象やキリン、カバはいなかった。しかし、カタンガ州では絶滅したと考えられていた象がこの州内の自然国立公園で2008年に生存が確認されたそうだ。カタンガ州、確実に正常化の道を歩んでいる。

Le 18 janvier 2010, lundi
ルムンバが暗殺された日で今日も休日。コンゴ民主共和国の初代首相ルムンバがここルブンバシで暗殺されてから49年たっている。ルムンバの理想は高かったが、行政的実績は、在任時間が短かったこともあり、殆どない。格調高いナショナリズムを高揚する演説だけだ。だから英雄になったのかもしれない。

台所用の机と棚を郊外で買った。Alain君にネゴしてもらったが値をなかなか下げない。机などは粗大ゴミで捨てられたような使い古しの机だというのに20ドル、棚は新しいようだが出来の悪い粗末なベニヤ板張り棚で25ドル。ニスも塗っていない。しかし、日本のサイトでみたら、学習机が50 000円以上している。知らなかった。パソコン机で安いものが10 000円。シングル・ベッド(マットレス別売り)も30 000円で低い価格の方。左様ですか。日本も家具は安くないんだ。先祖代々使えるような家具でなくてもね。僕は畳に布団が大嫌いだ。いや寝るのに妨げにはならないけれど、布団を押入れに入れるのが面倒。横着か。それに床(畳)に直に寝るのが慣れない。ついでに日本の家賃を調べてみた。高い、高い。でも国民の購買力がコンゴとは違う。世界のトップ・クラスと世界のラスト・クラスを比較しても意味がないか。Patrick君の収入は200ドル程度だったろう。1DK+サロンの家賃が80ドル。先ず妥当か。Alain君は家族と広い家に同居。
ルブンバシの家賃が高いのは外人用の物件の場合だ。外国の鉱山会社、国連、巨大NPOが家賃を吊り上げる。一部の金持ち以外、かなりみすぼらしいところに住んでいる。最近はレンガ造りになったものの、壁が塗っていないし、屋根はトタン板。大きなVillaに住んでいても、室内に金をかけているとはいえないところが多い。田舎に行くとパヨット(藁葺き屋根、土壁)の家もまだまだみかける。それはそれで貧しいのではなく、気候に適した建物と僕は考えている。レンガ作りがいいわけではない。


わんちゃんは楽しみだなぁ。高校生のころペペルモコ(コリー)がいた。アルジェ時代には「タロー」がいた。タローのイメージがあるから、名前は「チコ」にしようかな。チコはサハラ沙漠で買ったキツネの名前だった。チコはパルマ島のプールに飛び込んで水死してしまった。

Le 19 janvier 2010, mardi
晴れ。

電球。欧州では普通の電球が禁止になり、省エネ電球しか売っていない。ここもそれに習ったのかPhilipsか中国製の怪しい省エネ電球しかない。Kipushiの家には蛍光灯が付いていた。これは家を借りるときに珍しい。通常電球や蛍光灯は入居時に付いていない。切れている蛍光灯、電球があったので購入し付け替えた。わんちゃんの茶碗を含めてまたJamboで買い物。Jamboで買う理由は、いちいち値段のネゴをしなくてもいいからだ。昼過ぎにKipushiに向かうことにする。中国製の脚立(4段)が110ドル。これは買っていない。誰かに借りるかな。しょっちゅういるものではないし。

家に来るはずの鉛管工plombierが来ない。16時まで待ってこないので、鍵をJustinさん(教会の事務をしている人)に預けてルブンバシにもどった。僕の部屋と台所は家具が揃ってきて、生活の匂いがしてきた。あとは机にスタンドをのせ、ベット・メイキングをすればいい。水だけが問題。水と風呂のお湯が出さえすれば住める。ルブンバシにも勿論キプシにも風呂屋がない。森鴎外はドイツから帰ってきてからというものシャワーも風呂も浴びず、身体は水を絞ったタオルで拭くだけにしたと聞いているが、僕はそうはいかない。熱い風呂は苦手だけれども、たとえ風呂がなくても、シャワーは欲しい。

Le 20 janvier 2010, mercredi
朝また警察にとめられた。今度はルブンバシの街中。うるさいなぁ。駐車許可証についてまた問題になった。Tchimengaに連絡すると、従業員がでてきてTchimengaは南アに出張中とのこと。参ったな。Alainが交渉して、10 000FCを警官に渡しその場は見逃してもらった。Alainの知り合いの市役所の責任者のところで駐車許可証をとることになった。30 000FC。Tchimengaもいい加減だから、やはり払わざるをえない。警官のチェック項目にのっているのだから、いちいち指摘されても面倒だ。

アスンタさんにsucré(小額の賄賂)について愚痴をこぼした。
シスターのところで無料医院dispensaireの計画がある。土地は既にGolf地区(高級住宅地区、どんどん郊外に延びている)に確保した。病院建設が出来ない。資金がないからだそうだ。クリスチャンの曽野綾子が会長をしている日本財団にも頼んだが、金額が大きく採用になっていないという。そこで、建設業者に発注するのではなく、自分たちで建築する計画に切り替えて建設費を大きく抑えた案を作成した。それでも資材費が教会からもどこからもまだ出てこない。果たして「日本カタンガ協会」として何かできるだろうか。ひとつのプロジェクトとしてとりあげることはできないか、Kyungu氏に相談してみよう。

Kipushiの家では鉛管工が新たな水道管配管工事を終えていた。壊れたトイレの貯水槽の工事も始めてくれた。ところが、Kipushi全体が停電だという。停電がない町だと言っていたくせに。Likashiからの配電が止まったらしい。最低だ。明日に期待するしかない。いつも明日、明日だ。

インタネット接続をmobile modemで解決することにした。VodaphoneではUSBモデムを値下げして65ドルになっている。先月は75ドルだった。さらに使い放題が月60ドル。これがつかえれば、速度は遅くても経済的。PCが1台か2台しかないのに企業向けのシステムはいらない。使い放題が60とは知らなかった。危なく800ドル近くするシステムを買う決心をするところだった。このUSBモデムを買ってきて早速テストした(18時)。その時には上手くいかずがっかりしたが、プログラム(Mobile Partner)を再インストールしてトライしたらあっさりとネットに繋がったのだ(21時)。スピードは遅いけれどメイルには支障がない。Skypeの音声通話の方は難しいかもしれない。

Le 21 janvier 2010, jeudi
既に木曜日。
鉛管工は15時半になってやってきた。水が出ない。配管工事は昨日終わっている。バス・ルームに洗面台を設置。鏡がない。計算するのを忘れたという。
庭のゴミを拾った。大きなゴミ袋がいっぱいになった。手でゴミを拾い集めたが、その手を洗えない。

Corruption Perceptions Index(腐敗認識指数)というのをドイツのNGOであるTransparency Internationalが毎年発表するようになって15年がたつ。批判、批評はかなりある。しかし、国家の大まかなクリーン度の評価である。腐敗(収賄)の定義を「公務員が職務職権を利用して私腹を肥やす」としている。コンゴ民主共和国の実績は2009年のランクでいくと180カ国国中162位でアンゴラ、コンゴ共和国(首都Brazzaville)、ギネ・ビサウ、キリギスタン、ヴェネスエラと肩を並べている。他国はいざ知らず、昨年12月22日にルブンバシについてからというもののRDCongoの実態はこの日誌に見る通りである。腐敗から脱出しようという試みもこの国にないわけではない。国家に入るべき収入として関税や諸手数料があるわけだが、それらを銀行振り込みにさせて、直接公務員が現金を受け取れないようにするという建前がある。ところが、あくまで「建前」で実態が伴わない。だから腐敗指数で不名誉なランク付けを一貫していただいている。上は大統領、大臣から、下は警官までということである。この腐敗を解決しなければ、どんなに資源が豊富でも先進国から相手にされない。
最もクリーンな国々はニュージーランド、北欧、スイス。日本は17位。ドイツ14位、米国19位、ベルギー21位、フランス24位。アルジェリア111位。最悪はアフガニスタン、ソマリアとなっている。しかしこれら最低の国とRDCongoの差は殆どない。
http://en.wikipedia.org/wiki/Corruption_Perceptions_Index

引越まで jusqu'au déménagement (2)

Le 8 janvier 2009, vendredi
公証人notaireのところにNPOの定款を提出。

銀行ATMで700ドルを引き出した。初め一度に1 000ドルを下ろそうとしたら駄目で、100ドルづつ下ろすことにしたが、400ならと試してみたら可能だった。今日は新札ではなかった。

交通局で「駐車許可書」は幾らと訊くと、30 000FCだという。その場で支払いせず、先ずはTchimengaと街中で会った。彼は「払うな、俺が処理するまで待て」という。昨日の警察官への恫喝の効果をみているので、「分かった、問題があったらまた電話するぞ」といって別れた。

車の中に敷くタピtapisを、旧モブツ通りの新しいオートパーツショップで購入(25ドル)。泥道を走るので、乗り降りの際に車の中が汚れる。

Kyugu氏と宿で打ち合わせ。ともかく僕の滞在許可と協会の銀行口座開設と免税措置を急がねばならない。遅々としている。

Le 9 janvier 2010, samedi
Kipushi。支払いが滞っていたというVillaの借主は昨日あっさりと払ったという。従いこの家は借りられない。外観は一番よかった。もう一軒、2月に空くという家にPatrick君が目をつけていた。これが有望かもしれない。庭が広く、こじんまりとした家屋も悪くない。設備はどうなのか月曜日にみるが、手直しをするだけの価値がありそうだ。家賃をどんどん値上げして200から250になりそうだが、それなら条件をつけないといけないだろう。605番地。これ以外の物件は3月ということになり、ちょっと時間がかかりすぎる。

ルブンバシにもどり、Jambo Martで買い物。このスーパーはインド人系。ギリシャ人系Sparoやベルギー人系Megastoreにとって手ごわい競争相手か。商品が豊富。さらに南ア系でアフリカ各地に店を出しているShopriteが、土地を既に確保して進出を窺っている。ルブンバシの周りには、マーケットがたくさんあるが、いずれ淘汰されていくのだろう。遠い将来には欧州系の大資本が来るに違いない。グローバリスムmondialisationの波はもうそこまで来ている。

ルブンバシの並木は素晴らしい。ベルギー時代に植えられたのだろうが大きな木に育った。コンゴの「杜の都」である。ルブンバシは自ら「Capital de Cuivre(銅の都)といっているが、「杜の都」といっても相応しい。日本で「杜の都」といえば、仙台だけれども、仙台以上に木々が多いのである。

Le 10 janvier 2010, dimanche
ルブンバシの近くに自然動物園ができたとKyungu氏からきいていたので出かけてみることにした。ルブンバシから北へ15km、Likashi街道をいったところにその動物園があった。入場料は外国人が15、ローカルが10、駐車料金5ドル、計30ドル。高い。Muyambo Parkという。Muyamboはオーナーの名前、元社会事業省の大臣だそうだ。オーナーにちらっと挨拶する機会があったが、大臣だっただけで100 haの土地を購入して、動物園を開園できるとは。いわくこの国で大臣の椅子にすわると儲かるのだそうである。日本では大臣も給与取り。ま、役得はあるだろうがそう儲かる商売とは思えない。園内には人口湖もあった。キリン、シマウマ、孔雀、らくだ、サル等が園内に放し飼いにされている。
Patrick君が駱駝に気に入られて追いかけられた。彼の背中に鼻を押し付けて親愛の情を示す。Patrick君が逃げ回ると、僕の方に向かってきた。僕も逃げる。ところが滑って転んで、あやうく駱駝の脚に蹴られそうになった。園の人が駱駝を宥めてことなきを得た。
当初曇り空でキリンの姿が見えなかったが、晴れ間がでてきてシマウマの一群のなかに4頭のキリンがいた。近づいても逃げない。でも、駱駝のように気に入られては敵わないので、5Mほど距離をおいた。写真をとったが、写真で見る限り、公園内ではなくアフリカの大草原にいるキリンのようにみえるだろう。
檻のなかにいたのはニシキヘビとハイエナだけ。あとは放し飼い。ライオンもお目見えするのだそうだ。勿論ライオンは檻にいれられる。
人口湖を舟でまわった。ペダル式。一人3 000FC(300円)。こぎ手は二人。一人は髭の生えた女性。30メートルも掘った人口湖で、海水と同じ濃度にして海の魚が飼われているのだそうだ。釣りも可。釣った魚は、目方に応じて料金を支払って持ち帰ることができる。

ここの女性は毛深い。アフリカの女性が全て毛深いわけではないけれど、本当に毛深い女性の場合、胸毛まである。南アフリカの短距離女性選手の性が問題になったことがあった。彼女の声は声変わりした男性の声だった。しかし、僕は女性に違いないと思う。そうでないと既に女性選手の仲間たちからクレームがでていたろう。

動物公園を出てから、湖に行こうということになった。Patrick君が近くに湖があるというからそうしたのだが、いけどもいけども行き当たらない。それもそのはず、ルブンバシから210kmのKasengaという町があるが、湖はその先だとういうことが途中の村人に聞いてわかった。173km行った村Kasomenoで引き返した。悪路になって来ていてKasengaまで行き着いてもルブンバシに今日中に帰れないと判断したからだ。13時に出発してからもう16時。この街道は中国人がまだ工事中。日曜日にも拘わらず工事を進めていた。中国の会社はCREC。

Le 11 janvier 2010, lundi
朝起きられない。眠気ではない。腰が痛いのだ。昨日悪路を3時間走った所為だろうか、それとも駱駝に追いかけられて転んだ所為だろうか。ぎっくり腰状態。車の運転もPatrick君に代わってもらった。
夕方アスンタさんのところで膏薬と痛み止めをもらった。ありがたい。腰を暖めてから貼るのだそうだ。シスター・アスンタは看護士資格ももっている。

DGMでレジデント申請書をみてもらいその場で修正するものは修正して提出。Yellow Cardのコピーもいるという。受領書recepéを発行してもらうのに更に30ドルとられた。レジデント・カードは653ドルもする。持ち合わせがないので明日銀行で引き出してから支払うことにした。ONG「日本カタンガ協会」の公証人判つきの定款も必要。

Kipushiで例の605番地の家の大家と面談。借家人がごねて出て行かないのが問題だという。家賃も200から250に値上げ。依然として鍵がないので内部を見られない。
一方亡くなった司祭が住んでいたというVillaを訪ねた。幹線道路に面しているが、教会が貸しているという薬屋の裏。広い庭。菜園まである。庭は1 500M2はあろう。家の日当たりは悪いが、庭が広いので太陽は庭で十分浴びられる。明日教区長との会合があるので、貸してもいいといわれたら内部も見せてくれると。前に軍の将校が貸してくれと来たが、断ったのだそうだ。教会が平和主義で軍人嫌いというわけではなく、軍人は払いが悪いかららしい。Assuntaさんにもサポートの電話をしてもらうことにした。Patrick君も気に入った物件のようだ。

車を洗った。5 000FC(500円)。ジェットがこわれていて全て手で洗っていた。1時間もかけて丁寧に洗ってくれた。これで料金を負けろとは云えないよ。サレジア会Imaraの宿舎にもどったところで雷雨。

Patrick君もサレジア会の食堂で一緒に食事。誰も部外者が食事をしていることに文句を言わなかった。それどころか歓迎してくれた。いいことだ。そう、Patrick君も同じ神の子なんだから。といって、ここは慈善bénévoleのレストランではない。僕が連れてきた友人として歓迎してくれたのだろうと思う。

Le 12 janvier 2010, mardi
銀行で600ドルをおろしてからDGMに行ったら、レジデントカードは653いや700ドルだがその他書類作成があるから総計1 200ドルだという。口論しても仕様がないから再び銀行に行き、更に600ドルをおろしてDGMに支払った。領収書なし。これで、用紙代だ、なんだかんだでDGMに払った金が1 300ドル。どうなっているんだ。キュング氏に連絡しても何ら打つ手なし。こっちは企業が後ろについているわけじゃないんだ。でかいONGが後ろ盾でもないんだ。金をぶんどるのは止めて欲しい。悲鳴をあげるぜ。さらに担当のNyemboが「俺の分も考えてくれよな」などという台詞を口走っていたんだから嫌になる。
パスポートを預けた。これは居住許可証とは別に滞在Visaの延長のためだという。要は移民局(内務省)と外務省の両方が金をとるということだ。代わりに写真つきの滞在証明書が発行された。正式滞在許可証が2週間でできるというが、書類もパスポートも首都キンシャサに送られる。不安だね。

アスンタさんの紹介で交通省の人が家を2軒見せてくれた。1軒目はGuset House付属のStudio。暗く不潔な結構式場が隣で五月蝿そう。部屋も一つだけ。それでもいいけど部屋も汚い。大家は汚いと思っていないようだ。30ドル/日で貸している部屋だという。月極めなら450ドルにすると。冗談でしょ。一昨日来いってんだ。2軒目は、Golfの外れ、新築。寝室3部屋。ほぼ家具付。保証金なし。悪くはないが、600ドル/月で12ヶ月前払い。高い。一遍に7200ドルは払えない。アクセスも悪路で芳しくない。更に住宅街の外れで安全sécurité面でも問題がありそう。止めておこう。

Kipushiの神父Mlapoから賃貸承諾の電話が18時半にあった。明日9時から10時の間に来て欲しいと。そのとき家賃について話そうと言葉を濁した。なるだけ安く決めたい。女中を雇うと100ドル。それだけ奇麗に家をつかうと約束しよう。男所帯では汚される、荒れると思うかもしれない。本当に女中は雇ったほうがいい。掃除は下手だし、料理は知らないだろうけれど、多少面倒さが省ける。家に女がいるのもいいことだ。しかし通いにする。夜の面倒までみてくれとはいわない。欧州人家庭で働いたことがある女性がいい。

Le 13 janvier 2009, mercredi
Kipushiの家は180ドル/月。週末には引越しできることになった。明日木曜日6か月分を支払う。保証金なし。部屋をみたが、司祭の残した本がたくさんまだあった。台所にシャンパン、赤ワイン、リキュールなど酒類がおいてあった。司祭さん、結構呑み助だったのかな。司祭が亡くなってから13ヶ月誰も住んでいない。埃だらけだが、本や書類は直ぐにも片付けてくれるという。水道と電気についてルブンバシよりも問題がないという。日本では電気・水道があるのは当たり前だろうが、これは重要なポイント。2006年の『ルブンバシ日誌』を読んでいただけるとよく分かると思う。電気・水道が安定供給されるのは、Kipushiにもある鉱山会社Gécaminesとその大部分を買収したForest社(カタンガ最大の建設会社だが多角化している)のお陰である。ルブンバシでもGécaminesの工場の従業員社宅がある地域は停電がない。Gécaminesはコンゴ最大手の鉱山会社(今、ちょっと斜陽)。
ペンキを塗り替えたり、カーテンをかえたりと、僕の住処らしくなるのは大分先の話だ。しかし、それだけの労力と投資をするだけの価値のある家とみえた。一戸建ての家に住むのは、中学一年のときまでの仙台は北山以来だ。

ルブンバシで冷蔵庫をみて歩いた。Jambo Martが一番安そうである。タイ製のSharpの冷蔵庫があった。家具はサレジア会の職業訓練学校で作って売っているというから、ベット、机などはそこで手に入れたい。Cite des Jeunesにあるそうだ。2006年に郊外の木工工場で作らせたベットは直ぐに壊れてしまった。このサレジア会の宿舎の家具は大部分そこで作られたときく。飾り気はないが、頑丈に出来ている。

床屋にいかないといけない。Dar es Salaamで整髪したのは11月の15日頃だったろうか。殆ど坊主頭にしてくれたには違いないが、2ヶ月は長い。Patrick君の行きつけの床屋か,
2006年に行った店か、その店の見当は難しいが、ともかく髪を切ろう。家を移ってからはバリカンをアスンタさんに預けてあるので、家で床屋をしよう。

明日、家の契約を記念にどこか外で食事をしよう。この宿舎の食事も悪くはないけど、variationがない。殆どいつも同じ。ワインも飲みたいなぁ。

Le 14 janvier 2010, jeudi
冷蔵庫をJamboで買い、荷台に乗せて走った。しっかりと留めてくれたので悪路でも荷崩れしなかったのは幸い。冷蔵庫はタイ製Sharp、190L。365ドル。
家賃支払い。ちゃんと領収書がでてきたのは流石教会できちんとしている。本や書類は運び出してくれたが、掃除がされていなかった。掃除は大家である教会がしてくれと頼んだ。電気・水道がまだきていない。

Cité des Jeunes(青少年センター)の家具を見にいった。Cité はサレジア会の経営で、若者たちの手に職をつけるための訓練所と学校がある。家具職人、溶接工、靴職人などの養成だ。学校は男子生徒のみ。広大な敷地に広い運動場が2箇所ある。
シングル・ベッド150ドル、サロン・テーブル200ドル、勉強机385ドル。机は椅子も付いていないのにこの値段。しっかりした作りだが高過ぎ。ベッドは安物を買うと痛い目にあうので、150ドルもしかたない。サロン・テーブルは街中でガラスの洒落たものを買いたいが、高いから諦めよう。スイス時代は最高級家具を一生ものだとして買ったけど、今度はそうはいかない。家具に保険までかけたなぁ。バブルの頃である。いや、過去は問うまい。

シーツ、枕、タオルもJambo Mart。いいお得意さんになった。毛布は化繊のものしかなかった。これはいけない。コットンか純毛がいいけど売っていない。アクリルの毛布は蕁麻疹がでる。贅沢かなぁ。

夜はGolf地区のレストラン「Piccolo」へ。初めて入った店だが悪くない。Piccolo(イタリア語で「小さい」)というからこぢんまりとした店かとおもったら、案に相違して広い敷地にテーブルの数も沢山ある一流のイタリア・レストランであった。メニューもイタリア本国並み。ワインをいれて120ドル。高いには違いないが、まぁ、そんなところだろう。しかし、一体誰がこんなところを利用するのだろう。客は極めて少なかった。パトロンも挨拶にでてきたが、普通のひとは来られないレストランに違いない。

引越まで jusqu'au déménagement (1)

頌春2010年
引越すまでの経緯を一挙に掲載予定でしたが、意外とのびのびになっているので、途中経過をお伝えします。

Le 1er janvier 2010, vendredi
7時15分に下におりて(僕の部屋は2階)、食堂にむかったがドアに鍵がかかっている。普通朝食は7時10分からなのだが、昨日大晦日Saint Sylvestreの夜、かなり酒が遅くにでたようだから、朝食が遅く始まるのかもしれない。
隣の教会Eglise Imaraで8時から新年のミサがあった。8時すぎにいってみるといつものように信者でいっぱい。Saint Paulよりも静かなミサ。しかしスワヒリ語中心。フランス語は次回のミサ、9時半からのようだ。

昼食に骨付きのヤギ肉。ポークかと思ったが骨が細い。よく焼けていたのでヤギ特有の臭(にお)いと味がしなかったのは幸い。鶏肉は2種、ポテト、ほうれん草などバランスよくできている。ま、ここの食事に飽きることもあろう。

昼間、車で土地勘を得るために街中(まちなか)をドライヴ。ゴルフ地区にトライ。行けるにはいけたが、数回道をきいた。後で地図で確認。
そう、3年前にはなかったルブンバシ市街地図ができていた。Alain君が僕にくれた。Forrest社などスポンサーをつけて市当局が2年前に作ったのだそうだ。

Le 2 janvier 2010, samedi
食堂に通じる廊下のドアが閉まっていたが、鍵がかけてあるわけではなく単にドアの具合が悪く取っ手を数回上下して引っ張れば開くことが分かった。
朝食はコンチネンタル。コーヒーがポットにいれてあった。薄いアメリカンだが、インスタントではない。よかった。パンは四角いブレッドではなく、petit pain。ジャム、ピーナツ・バタその他+サラミ。軽い朝食としては十分だ。

インタネットの部屋がまだあいていない。はやくネットに接続したい。

部屋にTVがないから、携帯電話に組み込まれているラジオを聞く。FM局が少なくとも20局以上とらえられた。国連の運営するOkapi放送、スポーツ、宗教団体の局、BBC英語放送もある。

ナンバプレートを今朝車につけよう。そうすれば警官、兵隊に気兼ねなく路上を運転できる。昨日は元旦で店が休みだった。泊まっているサレジア会のホテルの受付をしているHubert君が教会の運転手に電話かけてくれて、その運転手が道具箱をもって昼ごろ現れた。それからプレートをつけるのに2時間。工具の不具合があったり、なかなか手際よくとはいかなかったが、ともかく形がついた。車後部のナンバプレートが曲がっているのは愛嬌。手間賃をはらおうとしたら、いくらでもいいという。これが困る。5ドルにしておいた。

昨日はゴルフ地区で婦人警官が、いきなり「コーラ」という。免許証をみせろというわけでもない。分からない振りをして「中国語ができるか」ときいて、車の窓を閉めてしまった。「コーラ」といえば誰だって意図していることは分かる。500か1 000フラン、つまり50円か100円せしめたいだけなのだ。それなら「新年おめでとう!悪いけど、コーラ分のお小遣いくれない?」とでもいえばいいのに、ぶっきらぼうに「コーラ」というからこちらが憮然としてしまうのだ。前にいた車はなにがしか払っていたが、多分保険証がなかったのだろう。保険を払っていない車がたくさん走っている。そんな車と事故をおこしたら堪らない。保険を払わないのは、検問されるたびに100円払っていたほうが安いからだ。ここに年間400ドルも払えるひとはそういない。保険に加えて納税証明vignetteをフロント・ガラスに貼っておく。アスンタさんによれば、納税証明vignetteは一昨年導入されたばかりだけれど、古い車は2005年から遡って払えといわれていて現在教会が当局と交渉中だそうだ。納税が遡及するとは。

今日は朝から雨。スコールのような短時間の雨と違って、しとしとと降っている。珍しい。

アスンタさんに北原亜以子「おひで 慶次郎縁側日記」を借りた。これまで北原の作品を読んだことはない。名前も知らなかった。僕が活字に飢えていることは確かだ。日本語で持っている本は加藤周一「日本文学史(下)」だけだ。「おひで」は読みやすい。現代を江戸時代を借りて表現する。その手法は山本周五郎に似る。北原は直木賞をとった作家とカバーにか書いてある。山本は直木賞、いや一切の賞を拒否した。しかし、何故直木賞が大衆文学で、芥川賞が純文学と色分けするのだろうが、文学を純文学と大衆文学に分け上下関係に置くのは間違いである。

携帯電話(Zain社)が通じなくなった。かけもできなければ受けることもできない。SMSはかろうじて出せる。原因は、携帯電話契約をしていないことと分かった。SIMは何処でも手に入る。SIMを買ったときに契約の必要がない。無秩序だと思ったが、SIMを買ってからできるだけ速やかに契約をしろということらしい。Appel interdit(通話禁止)と画面に出てきて、誰にも電話できなくなって初めて気付いた。

Le 3 janvier 2010, dimanche
ルブンバシは赤とんぼが飛び、鈴虫が鳴く季節である。日本の初秋のようだが、カタンガ州の雨季ということである。去年の師走から始まった今年の雨季は例年になく雨が多いという。今日は晴れ。日差しは流石に強い。しかし、ルブンバシは高原地帯にある。海抜1 500M2だ。こんな高原地帯がカタンガ州には4箇所ある。カタンガ州は日本より少し大きい。

昨日夕方家の候補を3軒回った。ルブンバシに不動産屋の看板を掲げた店はない。しかし仲介をする連中がたくさんいる。一癖も二癖もあるような連中である。どこの国でも不動産屋には気が障る。商売に倫理がなさすぎる。勝手に家賃の高くとれる物件を押し付けてくる。Patrick君のいっていたKipushiの家をみたいのだが、彼と連絡がうまくとれない。

Le 4 janvier 2010, lundi
祭日。独立運動の犠牲者martyrsを記念する日。

北原「おひで」を読み終えた。山本周五郎との違いは、北原の場合、森口慶次郎というある種スーパーマンのヒーローがいること。北原によれば主人公はスーパーマンではないというけれど、北原の理想の男であり、東映でいえば、母の世代が夢中になったいい男、大川橋蔵のような美男、剣術が強く、家柄も悪くなく、人情家で、勘がいい。しかし、問題の解決が超法規的であり、裁判沙汰を好まず、事件をうやむやにしてしまうのは如何であろう。いわゆる腹芸だ。伝説的大岡裁判とは根本的に違う。

昨日に引き続きアパート見にいった。湖の近くでアメリカのNGOやUNの職員が住んでいるところを見た。700ドル/月。ちょっと高いな。場所はいいところだけど、500ドルなら何とかなるかもしれないけれど。700は無理と思う。やはりKipushi に期待してしまうなぁ。明日Patrick君とKipushiに行く。そこでいい物件があれば、ルブンバシから30kmと多少遠いけど車の燃料を勘定しても割りに合う。

ネットが通じた。僕のプロヴァイダである東京のDTIに溜まっていた3 000通もあった迷惑メイルを吐き出した。接続はWifi。ところが、吐き出されたのは去年の年末までの分で、溜まりすぎたメイルのため受信箱がブロックされていて、新規のメイルは全く入っていなかった。これはDTIに連絡、Webメイルとしてサイトにアクセスし、受信箱を本当に全部空にしてしまい、やっと解決した。

Le 5 janvier 2010, mardi
ルブンバシに隣接するKipushi市でPatrick君と家探し。四五軒みて一日が暮れた。疲れた。案内してくれたのは携帯電話会社に勤めるEric君、そしてまたまた図図しい不動産屋。1軒目が一番よかったが既に貸されていた。しかし、家賃を既に未払いで保証金を食いつぶしているということで来月には空くかもしれない。今週の土曜日にもっとはっきりすると。
Zainとの契約を朝提出したが直ぐには回復しない。KipushiでVodacomと契約した。ついでに安い携帯を買った(25ドル)。Vodaphone。こちらにZainのSimを入れて、使い慣れたSamsunにVodacomを入れた。

Le 6 janvier 2010, mercredi
Zainは未だに通じない。致し方ない。SIMを買ったはいいが、携帯会社と契約していない連中が沢山いるからなぁ。

Kyungu氏と話をして、やっと明日入国管理局に明日朝行くことになった。

日本大使館に在留届をネットで今日出すことにする。アルジェリアでは在留届をしていない。Cojaal(2007年4月から2009年10月中旬まで僕が働いていたアルジェリアの高速道路建設コンソーシアム)が、または各キャンプが届出をしてくれていたかどうか疑わしい。新年会の招待状も大使館から一度ももらったことがない。70年代の下田大使のときは、ことある毎に大使館に呼んでくれた。スイスでも公邸に招かれた。カナリアの領事館も気をつかってくれていた。アルジェリアは全く音沙汰なし。キャンプに大使館員が時折来ていたようだが会ったこともない。

Le 7 janvier 2010, jeudi
入国管理局で居住許可申請の説明をきいた。1年も2年も同じ料金だという。2年を申請することにする。申請用紙が35ドル。申請番号取得がやはり35ドル。これはその場で払った。さらに許可が下りたら650ドルいる。引越した場合、引越し先の町村当局へは届出だけでいいそうだ。

Kyungu氏の奥さんはKikushi(ルブンバシから南西に30km、ザンビアとの国境)出身だそうだ。そこで、昨日家を探して欲しいと頼んだところ、早速今朝いい物件があると連絡があった。14時発で車をとばすことにする。
ところが行ってみると、既に一昨日見てしまった物件だった。しかも酷く荒れていて手入れをするのに時間も金もかかろうというところで、無駄骨を折らされた結果になった。

それどころか、Kipushi市の入り口の検問で、今度は「駐車許可証がない、罰金50 000フランを払え」と署に連れて行かれて調書に署名を迫られた。間一髪、僕が「そんな許可証の存在を知らなかった、それがないと路上を走れないなら、通関業者に請求するから領収書を出してくれ、その前に今通関業者の責任者に電話するのでちょっと待て」と、例のマフィア的親分Ben Tchimengaに連絡した。幸い一昨日通じなかったVodacomの携帯が通じた。Benが「何も払うな、署名もするな、俺が処理する」といい、結局警察の責任者と彼が直接話をつけた。Kyungu氏はKipushiの司令官に電話したというが、効果はBenの方がdirectで絶大だった。Benの押しの強さに警察の責任者は怒っていたが、何もなかったことにしようというのだから、嫌なBenだけれどこれからも付き合っておいた方がいいのだろうか。ちょいと無念だね。本を糾せば、この男のいい加減さで、書類が不備だったのに、その男に助けられたのだからなぁ。

今村昌平「楢山節考」を僕のPCの中にみつけて、夜、全篇をみた。以前見た筈だが、そのときは木下恵介と比較して面白くないと書いたと思う。今村の作品らしくはあり、今村リアリスムは確かにあった。でも木下に比べて哀歓が足りないのではないか。

13 janvier 2010

paysage 沿道の景色




ダル・エス・サラムからコンゴ国境、そしてコンゴに入ってからも上の写真のような景色の連続。ライオン?キリン?象? 彼らの姿は見えませんでした。


11 janvier 2010

2009年年末 fin d'année 2009

ルブンバシに到着してから、年末までを下記する。
このあと、写真を掲載する。

Le 23 décembre 2009, mardi
ルブンバシの夜があけた。
朝9時にBen Tshisenga氏(通関業者社長)とアポイントがあり、持っていたなけなしの「日本円50万をデポするので、通関手続きをすすめてくれ、東京にはドル送金を頼んでいる。円はドルが到着するまでの保証金である」と交渉、通関を進めてもらうこととした。Ben氏は今日明日中にも通関できるかもしれないと期待をもたせた。Ben氏はBiacに為替レートを問い合わせたが、マーケットがないからレートは出せないと回答されている。ネットで1ドルが91円であることを確認、やっと会社のレターヘッドつきの保証書(預り証)にサインし社判を押した。マーケットがないといっても、どこでどうドル転されるかわからない。Ben氏よ、この金は使ってくれるなよ。

Biac銀行のATMでVisaカードでの引き出しをトライするも、カードを拒否しなかったけれども、最初現金がでてこなかった。VisaではなくBiacのカードで引き出そうとした人もできていなかった。窓口できいてみるとメンテ中だから、後でまたトライしてくれという。なんで真昼間メンテナンスをするんだ。信じがたい。銀行の向かいにある喫茶レストランLa Briocheでクレープを頼み軽い昼食とする。満員。そのクレープが出てくるのに1時間かかった。その間、日誌をノートしていたので時間をもたせることができた。食事後近くのベルギー系スーパーMegastoreで水、ハム、パンなどを購入。再びBiacのATMに挑戦。テストケースなので小額である50ドルを引き出すことにした。そしてついに成功!真新しい50ドル札が出てきた。
コンゴ民主共和国(RDC=仏語、DRC=英語)の通過はコンゴフラン(FC)である。しかし、その通貨の信用力はゼロに近い。今年6月コンゴに来たときのレートは1米ドルが700FCであったが、現在900FC。2006年1月に来たときは500FCだったのだから、ここ数年で50%を遥かに超える現地通貨の下落。ATMで自国の通貨が出てこず、外国通貨が出てくるのは多分この国だけだろう。タンザニアではTシリング、ザンビアではクワチャ(ZMK)がちゃんと出てきていた。コンゴの紙幣ではATMも紙幣を勘定できないほど汚れてよれよれであることが多いのではないか。ドルがどの店でも通用する。
FC紙幣は500FC(50円)がメインで、それより大きな紙幣はない。200および100FC紙幣があるが500FC札よい更に汚い。長い間新しい紙幣を印刷していないためだろう。硬貨がない。

シスター佐野アスンタさんと連絡がとれた。午後来てくださいとの言葉に甘えて、彼女の修道院にTaxiをとばした。Chef Katanga通り713番地。
いつもの笑顔で迎えてくれたアスンタさん。この修道院にくると心が落ち着く。今日は朝から断水だそうだ。それでも出してくれたコーヒーがインスタント。これまでは教会の農園で出来たコーヒーだったのに。訊いてみると豆を挽くミルが壊れてしまって、町で探しているがまだ見つからないそうである。世界で一番美味しいアスンタさんのコーヒーだったのに残念。豆は炒って修道院に山ほどとってあるという。挽けないのである。

夕方Patrick君が修道院に迎えにきてくれた。一緒にホテルまで帰ったが、彼はイヴの準備のため忙しくKipushiの家の話など出来ず早々に帰ってしまった。日を改めてクリスマス後の週末Kipushiに一緒に出かけることにした。

ネットがダルエスサラムからルブンバシ到着まで通じなかったので、その間の日誌を少しづつ入力している。いろいろなことがあったので長くなってしまう。

Le 24 décembre 2009, mercredi
朝、停電。発電機が動いてからネットで、宇野兄が送金してくれたことを確認。友達はありがたい。銀行家だったから手続きには慣れているとはいえ、余計な仕事をしてもらうのだから恐縮である。猪野さんから宇野兄に連絡確認もとってもらった。インタネットでしか安い連絡方法がないので二重三重に連絡する。煩いだろうが勘弁してくれ。

11時、中央郵便局やPark Hotelのあるルブンバシの中心までtaxi(2000FC=200円)で行き、ギリシャ系スーパーSparoでシャンプー等を購入、Ben氏の事務所近くを通り、電話したが、また今日中にも通関できるかもしれないというだけ。明日は祭日。年末手当を要求して先週ストまでした税官吏が溜まった書類を早くこなすだろうか僕には疑問。ただ送金されたドルが既にBiac本店までとどいていることを確認。Ben氏の口座には来週火曜日に入金になるだろうことが判明した。

ホテルにもどり軽い食事。14時半からAlain君を交えてKyungu氏とホテルで打ち合わせた。雨が降り出し、彼らは足止め。

20時。シスター・アスンタさんから紹介された聖ポール教会Eglise Saint Paulまで歩いてミサに参加。雨が降ったあとのぬかるみと水溜りを夜道でさけながら歩くのは至難。やっとついた教会は満員状態。それでも中に入ってミサに参加したが、言葉がスワヒリ語。賛美歌もちんぷんかんぷん。以前参加したカテドラルでのミサと違いコンゴ人ばかり。賛美歌に合わせて身体をゆらして、アラブの女のような叫び声をあげ、手を打ち鳴らす。映画でみたアメリカの黒人教会のシーンに似ていた。もっとおごそかで神聖なミサがいいなぁ。

教会を出てからギリシャ・レストランに。車をひろったら、なんとDavid君という運転手。神の引き合わせだ。レストランのボーイたちは僕のことを覚えていてくれて、「よく帰ってきた。今度は何時までいるんだ」と大騒ぎ。典型的なギリシャ料理、大好きなムサカがなく、ミネストローネ、ペッパー・ステーキ、小瓶のワインを注文。44ドルはやはり高い。ま、クリスマス・イヴの食事だからちょっと贅沢もしかたないか。
このレストランの一部が中国人に貸されて、中華料理もでるようになったことを初めて知った。
帰りもDavid君に送ってもらった。しかし、ホテルから教会のあったルムンバ通り、ルブンバシ大学、ギリシャ・レストランがわりと近いことがわかってきた。まだルブンバシの全体の地理が記憶にもどってこない。

Le 25 décembre 2009, vendredi
外に出ず、ダルエスサラムからの日誌を完成させた。
ホームページがこのホテルのprovidorの所為でrenewできない。この日誌をGoogleのblogに載せることにする。

15時半から2時間の散歩。歩いてみないと地理がわからない。Avenue Révolution(ホテルのあるところ)から、昨夜の教会があるルムンバ通りまで出た。そこにベルギー・サークルがあった。2006年に一度入ったことがあった。そこからRévolution通りを引き返し、通りが尽きるところまで歩く。さらに右折してGolf通りを数百メートル進んだ。そこで開いているスーパーをみつけたのでウエハースなど菓子類を求めた。この通りをまっすぐ行けばあと1000Mくらいでゴルフ場に行き着く。乗馬もできる。既に5時をまわっていたので、taxiを止めてホテルに帰着。2 000FC(200円)。
歩いている途中で雨が降ってきたので雨宿りしていると、バナナを頭に載せて売っているお姉さんがきた。雨が小降りになったところで、「いくら?」「一本200だよ」「じゃ5本ちょうだい」、バナナ一本20円だ。安いようだが良く考えてみると日本と変わりない。日本でバナナが高級果物だった時代は過去の過去である。バナナの叩き売りなど知っている人ももう少ないだろう。200FCという価格も外人価格かもしれない。

何とルブンバシにカジノが数箇所できた。なんということだ。中にはいっていないので分からないが、エビアンやDivoneのような格式はないだろう。中国人が作ったのだそうだ。中国人は賭け事も輸出するのか。Dar es Salaamにもカジノがあった。

17時過ぎCercle Belgeに行き食事。昨日はイヴで100ドルのメニューが今日はMagret de canardとクリスマスケーキで28ドル。ビールを飲んで31ドル。久しぶりのカナール(鴨)が美味かった。2006年当時のこのレストランの印象は悪かったのに今日は逆に極めてよかった。食事中に雷を伴う雨が降ってきたのでDavid君を呼んだが、30分待ってこなかったので小雨の中を走ってホテルに帰った。10分もかからずにホテルに着いてしまった。

明日土曜日税関は半日仕事をするのだそうだ。だが期待できそうにない。

家の方もはやく探さなくては。

Le 26 décembre 2009, samedi
11時、Alain君来室。通関見通しを聞いた。業者のところに寄って最新情報を訊いてくれたものの、目新しい情報がない。
Kyungu 氏は警察に僕の居住許可について聞きに行くといっているが、腰が重い。

15時過ぎ、シスター・アスンタさんのところに、6月来たときに預かっていただいた荷物のうち懐中電灯を取りにいった。日本でネットで買った地震など災害時用の懐中電灯だ。電池交換がいらない。

夕方、家の候補を探した。最初に行ったところは、塀でかこわれているものの敷地の中にコンゴの人たちの家が数軒あり、賃貸対象物件である離れもみすぼらしい。僕たちが行ったときには、まさに借り手が決まってしまった直後だという。よかった。ここは住めない。次のところは、ゴルフ地区。高級住宅街。見学できなかったが、新築に近く、securityもよさそうな物件があり、大家を直接訪ねた。ベルギー人の夫人が出てきて、保証金は3ヶ月。ただし、家賃は1 000ドルだという。家賃は500と当初聞いていた物件である。Studioで1 000ドルは高い。Alainが交渉。僕は話の外にいた。中国人とみられたかもしれない。ここの大家たちから中国人はよくみられていないようだ。値段交渉もせず、賃貸契約をしてから数十人が押し寄せてきて住み始めるらしい。コンゴ人と中国人(僕)をみて、咄嗟に1 000ドルといったのではないか。もう一度、車が出たら大家を訪問する価値があるとおもう。

夜はAlain君とベルギー協会のレストラン。ポークソテー。二人で40数ドル。Alain君に街中でPall Mallを買ってきてもらった。一箱700FC。ホテルの近所の店で1500、このCercle Belgeのバーで2800である。この価格差は説明できない。10箱で21 000フランだから23ドル以上の差がでる。

レストランから帰るとまた大雨。僕は既にホテルの部屋にいた。

Le 27 décembre 2009, dimanche
ブログ「アフリカの星」に載せる原稿を修正。Darからのドライヴィングの5日目までを公開し終えた。

昼は、雨で出られないのでホテルの食堂にトリとポテトを注文。部屋で食事。7 300FC(730円)。悪くはなかったがトリ位しか食べるものがない。

雨がやっと上がって、夜はベルギーでボロネーゼ。どうして冷えたパスタなんだろう。懐中電灯のおかげで水溜りにはまらずに歩けた。

Le 28 décembre 2009, lundi
快晴。気持ちがいい。
通関の進展が心配。
心配性かなぁ。

17日から22日までの日誌、最終号掲載終了。

11時過ぎ、Ben Tchimenga氏のオフィスのドアをたたいた。今日中に通関、3時間後には車をルブンバシの彼のオフィスの前までもってくるという。16時になっても何の知らせもない。やはりね。調子が良すぎる。カスンバレサからの高速でスピードを出されて事故でも起こされては敵わない。誰もここでは20 000ドルを保証できる奴がいない。

午後、またにわか雨。

18時、Ben氏に連絡すると、「一部サイナーがカスンバレサに不在で遅れた。16時に来たそうだから、まもなくカスンバレサを出るだろう。出たら報せる」と見え透いた御託を並べる。「夜になっても、ミリタリーのエスコートを頼んで車を送るよ」、いい加減にしろ。

ビールの値段。Simbaビールがこのホテルで1500FC(150円)、ベルギー・クラブが3 000FC。タンザニアのホテルで2 000Tsh(140円)。しかし、タンザニアのビールは500CC。コンゴは日本と同じ大瓶730CCだから、コンゴの方が安い。
ビールは地ビールのSimba(スワヒリ語でライオンの意)、Tempo(象)と、キンシャサ系のPremiumが主。2006年のときは、PremiumビールがSimbaよりも高かった。空輸していたからだろう。今はルブンバシで生産されているのでSimbaなどと同値になった。

ルブンバシで僕の食費が上がっているのは、欧州並みのレストランに行っているためだ。Dar es Salaamには一流ホテル(Moevenpicなど)かSlipwayにしかフランス料理やイタリア料理がない。食文化が英国圏なのだ。英国の貧しい食文化の尾をひいているといえよう。フランス語圏ルブンバシにはいいレストランがいくつもある。アルジェリアでまともなレストランがなくなったのはイスラム化の影響である。昔のアルジェリアには、レストランでも家庭でもデリケートな伝統料理があったのにもう激辛か又はしつこく甘い料理しか作れなくなっていた。

Alain君から電話で明日朝カスンバレサに車をとりに行くことになった。Alain君の友人の話では手続きは終了したらしい。Ben氏のいうことを聞いて夜走ってもらうより、僕がとりに行って運転、それで事故を起こすなら諦めがつく。他人には任せられない。行きのTaxi運転手にはTchitchiさんを指定した。彼は安全運転で料金もふっかけない。本当に車を明日引いて来られることを祈ろう。

Le 29 décembre 2009, mardi
9時半すぎBenの車でカスンバレサに向かった。途中、知事が土地を買い上げることに決めたため大金持ちになったという農家によった。Benはどんな関係かその取引で10 000ドルが入ると有頂天。11時にはカスンバレサに到着。輸出入品質検査機関Bureau de Contrôleで最後の判子をもらうべく待機。
16時半まで粘って、やっと車を保税地域から出すことが出来ることになった。しかしナンバプレートなし、保険証は見当たらずという体たらく。カスンバレサでナンバプレートも保険証も直ぐ手続きが出来るというのにBenが「ルブンバシでせよ、車は自分が運転するから途中で警察の取締りがあっても大丈夫だ」と強引に車のキーを僕に渡さない。Benは来たときと同様、有料道路の代をAlain君に払わせる。細かい金がないからだって?調子が良すぎるぜ、この男。さらにあつかましく、僕のピックアップの荷台にヤギを2頭乗せ、ルブンバシの将軍に土産として持っていくのだという。確かに1頭は、将軍の館に持っていった。もう1頭は自分用で、家には犬がいるので、今殺すといって業者を探し、1件目が10ドルというと高いからと他を探しだして屠殺することに。僕は路上でヤギが殺される場面を見たくなかったので、Benから鍵を受け取ってホテルまで車を運転した。途中ポリスの尋問がなかったのは助かった。

Le 30 décembre 2009, mercredi
10時にBenの事務所。預けた50万円を返してもらった。一安心。マーケットのない円だからといって安心はできない。近くでは南アメリカでは円を売ることができる。ともかく取り返すことが出来て一安心。Benは肌身離さず円を持っていたので、金をいれた封筒が切れたといっていた。そうかねぇ。まぁ、変な気をおこさなかったのは、預り証をとっておいた効果かもしれない。

ナンバプレートの取得に120ドルと5 000FCが必要というのでAlain君に渡した。ところが1時間ほどしてvignette(納税証明チケット)が必要だ、それに200ドルかかるという。しかし、それはまもなく総額と判明。差額80ドルをAlain君にもたせた。しかしこれまでvignetteのことはきいていない。しかも、200ドルは結局、早期にナンバプレートを取得するためのsucré(飴玉、つまり賄賂)を含んでいることも分かった。
今日中にプレートを取得できると当局が約しているという。
しかし、実際にプレートを取得したのは、シスターAssuntaさんのところから帰ってきてからだった。18時半。何故途中経過を報告しないのだ。情報の重要さを全くAlain君も認識していない。結果がよければいいじゃないかということには必ずしもいかないのだよ。
で、保険証? これがまだカスンバレサから届いていない。まだ車に乗れないじゃないか!

シスターAssuntaのところで、教会の宿泊施設を明日見学することになった。40 eurosだが三食付。明日から、新年また4日の独立犠牲戦士の日と休みが続き、外での食事もままならない。引越しを考える。
Assuntaさんとベルギー人隣人宅を訪問。ご主人は近距離小型機のパイロット。かなりのお歳だろうと思われる。数日前、知事モイーズMoiseを乗せて彼の生地に送ったのだという。生地でモイーズは女房の誕生会を盛大に開いたそうだ。
このベルギー人の屋敷に猫ちゃんが2匹。黒猫とトラ。親子だそうだ。可愛い。東京まで僕と一緒にスイスから来た僕のチカちゃんは今頃どうしているのだろう。東京から佐倉に引っ越してから失踪してしまった。元気でどこかの家に飼われていればいいが。

昼、あるONGの責任者と話す。ONG設立はかなり面倒である。いくつもの機関に登録しないといけない。しかも免税措置の多くはキンシャサの機関。キンシャサに誰かいないと難しいという。しかも、早く手続きを遂行するにはsucréが必須。参るね。どこでも金だ。

Le 31 décembre 2009, jeudi
午前中、シスター・アスンタさんとサレジアンの経営するホテルとフランシスカンのそれとを訪問、サレジアンの方に決めた。50ドル。ただし3食付。静かなところで姦しい音楽がない。庭の中に、売店とガソリン・スタンドがある。駐車場も大きい。
サレジア会は日本でも有力なキリスト教の会派である。日本各地にあるサレジア高校がある。教育に熱心なイタリアのDon Boscoが19世紀に立てた会だ。名前の由来は、しかしフランスはサヴォワ地方生まれの、宗教改革時代のカトリック側の英雄、後聖人デ・サルFrançois de Salesである。

昼、ホテルにとって帰って、荷物をまとめサレジアンのところに引っ越した。車も移動。保険のことはまだ解決していなかった。

昼過ぎ、保険会社に出向いた。午前中のKyunguさんの調査でカスンバレサではそれまで付保されていなかったことが判明。Benは保険代金をごまかそうとしたようだ。通関業者への再三の催促に仕方なく今朝になって付保したことが判明。しかし、ルブンバシの保険屋は国境で作った保険証と支払い領収書がないと年間保険契約が出来ないという。なんとかしてくれという僕の嘆願に、担当のJean-Pierreさんが、カスンバレサに電話してくれて、支払い事実を確かめ、上記書類なしに保険を受け付けてくれた。賄賂なし。アランやついてきた通関業者に任せていたら今日保険契約をすることが出来なかったろう。カスンバレサでの短期(30日)契約分を差し引いて、309ドルの支払い。
外国人をみれば賄賂の額が高くなるというのも場合によりけりなのだ。税官吏の賄賂体質を決して是認しているコンゴ人ばかりではない。恥ずかしいことだと考えているコンゴ人も沢山いるのだ。それは賄賂の恩恵に浴していない立場だからという理由ではない。Alain君は賄賂に甘すぎる。

ともかくこれで安心して車を運転出来るようになった。今日保険のことが解決しないと、元旦の休み、続いて1月4日の祭日となり来週火曜日まで解決が延ばされるから後5日間少なくとも車は眠っていなければならないところだった。

15時15分、サレジアンで給油してから、アスンタさんのところに車ででかけた。彼女に車をみてもらいたかったから。彼女の修道院の前でスコール。激しかった。雨のやむまで門を開けるのを待ってもらった。車をみて、アスンタさんは喜んでくれた。

夕飯はサレジアンの宿舎の食堂。18時45分に始まる。19時過ぎに行くと誰もいなかった。その後3人ほど来た。みんな神父さん。今日は子どもたちのサッカーの試合があって教会付属の学校の生徒たちが参加したという。盛んに雨にも拘わらずいい試合だったと評価していた。食事は簡素だが割りと美味。途中でビールまででてきた。イスラムではないから種類もいいのだが、神父さんたちも飲んでいた。更に信者からワインの最入れまであったのである。神父さんたちは結構飲む。これは新発見。

部屋は、極めて清潔。このサレジアンのホテル宿舎には、デラックスな部屋もある。100から250ドル。僕の部屋は、50ドルだけれど、かなり広く大きな机が二つもある。トイレ、シャワーもついている。同じ50ドルでもトイレ、シャワーがついていない部屋もある。このぐらいの広さでコーナーに炊事施設があるstudioがみつかればそれで僕は満足だ。水もお湯も出る。電気がきれない。さすがサレジアンだなぁ。彼らはルブンバシでトップのドン・ボスコ病院、小学校と中学校も経営している。

新たな気持ちで新年をむかえることが出来そうである。