Le 29 avril 2010, jeudi
快晴。すがすがしい。
朝から断水。そういえば今日は木曜日だ。と思ったら、8時半に水が出始めた。気まぐれ水道。
チコは昨夜ずっと僕のベッドの中にいた。蚤やダニがいるかと心配して、明るいところでよく調べたがいなそうだったので招きいれたのである。昼間太陽光線で消毒、要するに日光浴してもらったけれど、昨日まで決して清潔な環境にいたとは思えない。
トイレは砂場で昨日からちゃんとしてくれた。とくに躾をしていないというのに。
9時、キプシのVodashopでネット使い放題$60の払い込み。直ちにネットが通じた。初めて迅速。当然といえば当然だが、やはりオリヴィアさんに頼むのが一番。
サレジア会のジャンポール神父に面談。2008年、日本大使から職業訓練所建設に寄付をもらっている。その経緯、手続きを知りたかったからである。当時の担当が同神父ではなかったようだ。調査して連絡してくれることになった。
東北大学柔道部にメイルを出した。果たして無視されるかどうか。若い学生さんに期待する。
このブログには、ありとあらゆるテーマが書かれている。特にタイトルにあるように、アフリカに関しては大概のことを話題にしている。検索機能がついているので、精々利用していただきたい。 tanabe.yoshiharu@ gmail.com アット・マークの後ろをつめてください(迷惑メイル対策のため空白が挿入されています)。
30 avril 2010
29 avril 2010
4月28日 le mercredi 28 avril 2010
やっと追いついたというべきか、28日の日誌を掲載する。これからはネットが通じるときは同時進行的に日誌をuploadしていきたい。
Le 28 avril 2010, mercredi
快晴。気持ちがいい。
HPを更新した。とくに「寄付・寄贈のお願い」のページである。日本からの送金手数料が高すぎる。送金ごとに6500円もかかる。これでは善意の方々も送金を躊躇する。それをおしてご寄付をしてくださったMさん、本当に申し訳ない。大いに勇気を与えられた。
HPでは便宜的に日本にある僕の個人口座への振込みを提案した。これは信頼ベースでしか成り立たない。しかし個人口座となると繰り込め詐欺みたいで嫌だなぁ。果たして、皆さんが許容してくれるかどうか。
気づいてみるとHPのアクセス数が450なっていた。ここ1ヶ月以上更新していないからびっくりした。ありがたいことである。 http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/dons.htm
チコが隠れ家から出てきた。ちょこまんとタオルの上に座っている。僕が触れるのも許してくれた。少しづつ慣れてきたようだ。チコと呼ぶと返事をする。そんなに早く自分の名前をおぼえるものかなぁ。ま、なんと呼ぼうと返事をするのだろう。
5月末に予防注射をしよう。写真をブログにのせてやろう。
そのチコ、体長15cmくらいしかないのに、僕のベッドに手をかけて、爪を思い切り伸ばして、エイヤッと上ってしまった。そして机にむかっている僕の膝に飛び乗ってきた。これはチャンピオンだ。呆れてしまった。チカはこんなことをしたことがない。女の子と男の子の差なのだろうか。チコもマドンナに劣らず末恐ろしい。
パナソニックの電池をスーパーMegastoreで求めた。4個のパックで3850FC(385円)。スペイン製だそうだ。中国製の電池は長持ちしない。壁掛け時計に使用しても一ヶ月と続かない。リチウム電池も作れる技術を中国にはある、製造量世界一の電池メーカーも中国だが、沸く質な製品を作っているメーカーも多く、結局中国製品の評判を落としている。もっとも、安いからという理由だけですうごく製品を輸入する国がアフリカには多い。
東北大学の柔道部にメイルを出そうとしているところでネットが切れた。17時。クレジットが尽きたという。かもしれない。明日翌月分60ドルを払うことにしよう。
東北大学の柔道部をとくに知っているわけではない。けれど、ルブンバシ大学の柔道部のことを知って欲しいからだ。若い学生たちならば、アフリカに偏見がないかもしれない。コンゴと交流したいと思ってくれるかもしれない。そんな淡い望みを託す。
僕が学生のころは法学部に女性が二人しかいなかった。今は多くの女学生が学んでいる。この大学は帝大時代に既に女性に門戸を開いた伝統がある。柔道部にも女性が入部している。マネージャーではなく選手として入部、活躍している。
Le 28 avril 2010, mercredi
快晴。気持ちがいい。
HPを更新した。とくに「寄付・寄贈のお願い」のページである。日本からの送金手数料が高すぎる。送金ごとに6500円もかかる。これでは善意の方々も送金を躊躇する。それをおしてご寄付をしてくださったMさん、本当に申し訳ない。大いに勇気を与えられた。
HPでは便宜的に日本にある僕の個人口座への振込みを提案した。これは信頼ベースでしか成り立たない。しかし個人口座となると繰り込め詐欺みたいで嫌だなぁ。果たして、皆さんが許容してくれるかどうか。
気づいてみるとHPのアクセス数が450なっていた。ここ1ヶ月以上更新していないからびっくりした。ありがたいことである。 http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/dons.htm
チコが隠れ家から出てきた。ちょこまんとタオルの上に座っている。僕が触れるのも許してくれた。少しづつ慣れてきたようだ。チコと呼ぶと返事をする。そんなに早く自分の名前をおぼえるものかなぁ。ま、なんと呼ぼうと返事をするのだろう。
5月末に予防注射をしよう。写真をブログにのせてやろう。
そのチコ、体長15cmくらいしかないのに、僕のベッドに手をかけて、爪を思い切り伸ばして、エイヤッと上ってしまった。そして机にむかっている僕の膝に飛び乗ってきた。これはチャンピオンだ。呆れてしまった。チカはこんなことをしたことがない。女の子と男の子の差なのだろうか。チコもマドンナに劣らず末恐ろしい。
パナソニックの電池をスーパーMegastoreで求めた。4個のパックで3850FC(385円)。スペイン製だそうだ。中国製の電池は長持ちしない。壁掛け時計に使用しても一ヶ月と続かない。リチウム電池も作れる技術を中国にはある、製造量世界一の電池メーカーも中国だが、沸く質な製品を作っているメーカーも多く、結局中国製品の評判を落としている。もっとも、安いからという理由だけですうごく製品を輸入する国がアフリカには多い。
東北大学の柔道部にメイルを出そうとしているところでネットが切れた。17時。クレジットが尽きたという。かもしれない。明日翌月分60ドルを払うことにしよう。
東北大学の柔道部をとくに知っているわけではない。けれど、ルブンバシ大学の柔道部のことを知って欲しいからだ。若い学生たちならば、アフリカに偏見がないかもしれない。コンゴと交流したいと思ってくれるかもしれない。そんな淡い望みを託す。
僕が学生のころは法学部に女性が二人しかいなかった。今は多くの女学生が学んでいる。この大学は帝大時代に既に女性に門戸を開いた伝統がある。柔道部にも女性が入部している。マネージャーではなく選手として入部、活躍している。
28 avril 2010
4月26日~4月27日 du 26 avril et 27 avril 10
Le 26 avril 2010, lundi
うす曇。霧雨が降っているではないか。肌寒い。午後4時頃、日がさしてきた。
朝11時から停電。珍しい。19時回復。でも、これは長い停電だ。冷蔵庫のアイスクリームが半ば溶けていた。残り少なかったので全部食べてしまった。
Le 27 avril 2010, mardi
HP「日本カタンガ協会」を久しぶりに更新した。actualな情報提供はブログ「日本カタンガ協会」でしているので、HP更新は頻繁には行わない。「活動方針」ページを追加したのである。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/activites.htm
ちょっと慌てているのでデザインの統一性が他のページととれていない。それは追って修正するつもり。
今日も結構寒い。もっともランニングとショートパンツでいるから余計に肌寒く感じるのだろう。
建具やmenuisierのセバスチャンがやってきて、洋箪笥の中に棚を追加、本棚の脚の修理、僕の部屋の窓に網戸を設置した。
サレジア会ドン・ボスコで車の燃料を補給することにしているが、そこで仔猫ちゃんをみつけた。少年が箱に入れて持ってきたのである。雄と雌。こんどは雄だけを選んだ。雌はチカのイメージが強すぎて遠慮した。ペルシャかアンゴラが欲しかったが、サレジア会に住んでいたころ(今年1月)、親猫を知っているから、雑種としても可愛いいので手をうった。
仔猫の名前はチコである。Chico、スペイン語で少年という意味だ。初代チコはサハラ砂漠のキツネだった。アルジェリアのオアシス、エル・ウェドで買った。全くの野生でちっとも慣れなかった。カルメンが手提げバッグに入れてマヨルカの家に持っていった。しかし、そこで、ロッキー(ボクサー犬)に追われてプールに飛び込み溺れてしまったという。可哀想な運命だった。
一ヶ月のチカをもらって、スイスはルガノの家に初めて連れてきたとき、彼女はかくれんぼをした。どこに隠れたのか全く分からなかった。当時4階のアパルトマンに住んでいたが、ベランダから飛び降りたのかと思って、外も探し回った。結局ベッドの下の抽斗にもぐりこんでいただけだった。こんどのチコも慣れない家で、やはりかくれんぼしている。台所に行ったり、自分の居場所を探している。今は、僕の部屋の洋箪笥の裏にいる。
街でトイレの砂を探したがない。箱トイレも売っていない。ここでは、ダンボール箱に本物の砂を入れておくのだそうである。スイスや日本のネコちゃんとは待遇が大分違う。ヨーロッパ人の家で飼われているネコ以外、ここでは野良同然だ。
ルブンバシ市から仙台市と姉妹都市関係を結びたいとラブ・レターが「日本カタンガ協会」あてにきた。並木の多い緑のルブンバシと「杜の都」仙台とがもし結ばれれば本当に嬉しい。さて、これからどのようにしてこの恋の物語を進めていったらいいだろう。仙台はアフリカの都市とまだ姉妹都市になったことがない。父でもいきていれば、今の仙台の都市計画に学者として参加していたのだから、なんとかコネもあるだろうが、今は雲をつかむような半紙である。仙台市の国際協力センターに3週間前にメイルをだしているが、ナシの礫である。
昼過ぎ、Biac銀行のATMで200ドル引き出した。「日本カタンガ協会」担当の行員がたまたま傍をとおりかかり、「日本から入金があったよ」とひとこと。送金のメイルを誰からも受け取っていなかったので、一体誰からと気になった。
帰宅後メイル・ボックスに以前カタンガ州ムソシ町(Sodimiza現Sodimicoの鉱山がある)にいらっしたM氏から連絡があった。コンゴのことを懐かしんでくださっている。感激である。キンシャサに駐在していた僕の友人である商社マンはコンゴにいい印象を抱いていなかった。カタンガはやはり違う。しかし、日本からの送金が極めて難しいことが判った。僕の書いたホームページの送金方法も不親切すぎる。早速明朝訂正しよう。しかし手数料が高い。とてつもなく高い。スイスの僕の口座から送金の場合、電話で担当者に依頼するだけでいい。手数料は日本よりずっと安い。なにかもっとよい日本からの送金方法を考えなければいけない。元バンカーUさんにきいてみよう。
水の出がいい。水のあるときはともかく風呂にはいる。僕は風呂がそんなに好きではない。シャワーで十分。でもここではシャワーができるほど水圧があること自体が珍しい。ま、1000Lのタンクを用意するまでは現状せっせと風呂に入るか。
実は今日も停電があった。また何か直しているらしい。帰宅後19時、昨日と同様に回復。
うす曇。霧雨が降っているではないか。肌寒い。午後4時頃、日がさしてきた。
朝11時から停電。珍しい。19時回復。でも、これは長い停電だ。冷蔵庫のアイスクリームが半ば溶けていた。残り少なかったので全部食べてしまった。
Le 27 avril 2010, mardi
HP「日本カタンガ協会」を久しぶりに更新した。actualな情報提供はブログ「日本カタンガ協会」でしているので、HP更新は頻繁には行わない。「活動方針」ページを追加したのである。
http://www.saturn.dti.ne.jp/~davidyt/katanga/activites.htm
ちょっと慌てているのでデザインの統一性が他のページととれていない。それは追って修正するつもり。
今日も結構寒い。もっともランニングとショートパンツでいるから余計に肌寒く感じるのだろう。
建具やmenuisierのセバスチャンがやってきて、洋箪笥の中に棚を追加、本棚の脚の修理、僕の部屋の窓に網戸を設置した。
サレジア会ドン・ボスコで車の燃料を補給することにしているが、そこで仔猫ちゃんをみつけた。少年が箱に入れて持ってきたのである。雄と雌。こんどは雄だけを選んだ。雌はチカのイメージが強すぎて遠慮した。ペルシャかアンゴラが欲しかったが、サレジア会に住んでいたころ(今年1月)、親猫を知っているから、雑種としても可愛いいので手をうった。
仔猫の名前はチコである。Chico、スペイン語で少年という意味だ。初代チコはサハラ砂漠のキツネだった。アルジェリアのオアシス、エル・ウェドで買った。全くの野生でちっとも慣れなかった。カルメンが手提げバッグに入れてマヨルカの家に持っていった。しかし、そこで、ロッキー(ボクサー犬)に追われてプールに飛び込み溺れてしまったという。可哀想な運命だった。
一ヶ月のチカをもらって、スイスはルガノの家に初めて連れてきたとき、彼女はかくれんぼをした。どこに隠れたのか全く分からなかった。当時4階のアパルトマンに住んでいたが、ベランダから飛び降りたのかと思って、外も探し回った。結局ベッドの下の抽斗にもぐりこんでいただけだった。こんどのチコも慣れない家で、やはりかくれんぼしている。台所に行ったり、自分の居場所を探している。今は、僕の部屋の洋箪笥の裏にいる。
街でトイレの砂を探したがない。箱トイレも売っていない。ここでは、ダンボール箱に本物の砂を入れておくのだそうである。スイスや日本のネコちゃんとは待遇が大分違う。ヨーロッパ人の家で飼われているネコ以外、ここでは野良同然だ。
ルブンバシ市から仙台市と姉妹都市関係を結びたいとラブ・レターが「日本カタンガ協会」あてにきた。並木の多い緑のルブンバシと「杜の都」仙台とがもし結ばれれば本当に嬉しい。さて、これからどのようにしてこの恋の物語を進めていったらいいだろう。仙台はアフリカの都市とまだ姉妹都市になったことがない。父でもいきていれば、今の仙台の都市計画に学者として参加していたのだから、なんとかコネもあるだろうが、今は雲をつかむような半紙である。仙台市の国際協力センターに3週間前にメイルをだしているが、ナシの礫である。
昼過ぎ、Biac銀行のATMで200ドル引き出した。「日本カタンガ協会」担当の行員がたまたま傍をとおりかかり、「日本から入金があったよ」とひとこと。送金のメイルを誰からも受け取っていなかったので、一体誰からと気になった。
帰宅後メイル・ボックスに以前カタンガ州ムソシ町(Sodimiza現Sodimicoの鉱山がある)にいらっしたM氏から連絡があった。コンゴのことを懐かしんでくださっている。感激である。キンシャサに駐在していた僕の友人である商社マンはコンゴにいい印象を抱いていなかった。カタンガはやはり違う。しかし、日本からの送金が極めて難しいことが判った。僕の書いたホームページの送金方法も不親切すぎる。早速明朝訂正しよう。しかし手数料が高い。とてつもなく高い。スイスの僕の口座から送金の場合、電話で担当者に依頼するだけでいい。手数料は日本よりずっと安い。なにかもっとよい日本からの送金方法を考えなければいけない。元バンカーUさんにきいてみよう。
水の出がいい。水のあるときはともかく風呂にはいる。僕は風呂がそんなに好きではない。シャワーで十分。でもここではシャワーができるほど水圧があること自体が珍しい。ま、1000Lのタンクを用意するまでは現状せっせと風呂に入るか。
実は今日も停電があった。また何か直しているらしい。帰宅後19時、昨日と同様に回復。
26 avril 2010
4月21日~4月25日 du 21 avril au 25 avril 10
le 21 avril 2010, mercredi
普通は日付をフランス語で書くとき、le mercredi 21 avril 2010となる。それは知っている。しかしこの日誌で曜日を最後にもって来たのには理由がある。僕の意識の中で曜日は括弧でくくられている。だから最後なのである。
今朝パンツを洗濯したとき、ポケットに米ドル札をいれたまま洗ってしまった。洗濯機はないから、あっても水が出なければ役に立たない、もみ洗いをしただけだった。紙幣はまったくそのままの形でポケットに残っていた。色落ちもしていなかった。ぬれた札を乾かした。紙幣の質が痩せても枯れてもmade in USAだったということ。流石としかいいようがない。日本のお札も丈夫だ。国力の反映に違いない。12枚で49ドルあった。助かった。
電気代の請求がきた。21 530FC(2 130円)。3月分である。メーターではなく包括forfaitだそうだ。だが、根拠がわからない。コンロ、風呂の湯沸しが電気であることを考えると安いように思う。
黒土を取りにキプシ市のちょっと外に出た。肥沃な黒土を花壇のために欲しいとフランシスコ会のシスターに頼まれたのである。庭師アンドレさんに案内されていったところは、かねて気にかかっていたキプシ街道の脇道であった。雨季には泥濘(ぬかるみで通れそうもない。実際通ってみようと思って途中で諦めた経緯がある。Mimbulu村とはちがうchef coutumier(伝統的地方リーダー)の家まで続く小道。途中に国際NGOが身障者のために開いた農園もある。
黒土を取った場所の近くに小川が流れていて、蝶やトンボがいっぱいいた。昆虫採集に趣味があるひとにとっては垂涎であろう。モンシロチョウ、アゲハ、シジミぐらいしか知らない僕は、唯々その種類の多いこと、多様な色の配合に驚くばかりだ。携帯で写真をとったが、はっきりと写らない。
黒土を取ってから、更に奥にすすんだ。20分程で伝統的地方リーダーの家のある部落に着いた。ベルギーがリーダーの家、彼の事務所、裁判所、小さな刑務所、家の前の並木などを作ったそうである。60年以上前の話である。リーダー、ヤング・カポンダ氏は家族ともどもルブンバシに住み、週に一度部落に帰って来るか来ないかだという。Mimbulu村にいるchef coutumierもカポンダというので、区別してヤング・カポンダjeune Kapond aといわれている。彼らは伝統的に支配する地方で、鉱山会社が採掘をする場合、採掘権料10から15%を受け取るのだそうである。それを村や部落のために使うかどうかはリーダーの胸三寸。Mimbulu村のカポンダ氏とヤング・カポンダ氏は仲が悪いという噂である。
お湯がなかなか出てこない。待つこと30分。漸くちょろちょろと。兎も角湯を浴びなければ。明日は木曜日。もしかしたら先週、先々週のように断水かもしれない。
断水、断水と書いてきたが、水道代金は無料なのである。無料ほど始末におえない。キプシ市の水道代が全ての市民に無料というわけではない。大家である教会が当局と特別契約をしているからだ。ロハだから断水しても仕様がないというわけにはいかない。
Le 22 avril 2010, jeudi
水が17時半頃に出始めた。断水の曜日だと思っていたらこうだ。しかし、出るに越したことはない。
空港に行く道の店にあった。看板がなく、表は中国人の経営する金物屋。裏手に回ると食料品の店があった。そこで醤油を買った。僕はほとんど醤油を使わない。アルジェリアでは小瓶を一回買ったけれど、ほとんど使わず仕舞いで月日が経ったので捨ててしまった。でも海苔をいただいたからにはお醤油がないとね。
アスンタさんから貴重なお蕎麦をいただいてしまった。蕎麦を庭に植えるのもいいかもしれないけれど、粉にして蕎麦がつくれない。蕎麦の達人になった友人もいたなぁ。日本にいると昼は大抵蕎麦である。もりとかざるとか。冷たいほうがいい。蕎麦の湯で加減が分かるのは日本人とイタリア人だ。フランス人の茹でたパスタは食えない。
柔道家たちのために日本語教室を土曜日の16時からすることにした。関心の度合いによるが、簡単な会話程度で終わるだろう。優秀な生徒が出てきたら留学も考えてあげたい。柔道を教えることはできないからせめてもの貢献である。
「芋の子を洗うよう」という表現がある。夏の湘南海岸の人出をいうときなどに使うけれど、この芋はなに芋だろうと辞書をみた。サトイモの親芋についた小芋だそうだ。先日、Mimbulu村で買ったジャガイモに土がこびりついていた。それをかき回して洗いながら、この表現を思い出した。なるほどね。小さなジャガイモでも成り立つ表現だなぁ。
うちの庭のアボカドの木から実をもいでもらって食べた。種が普通のアボカドより大きかったが美味かった。2個だけとっておいて、あとは庭師アンドレにもたせた。
Le 23 avril 2010, vendredi
建具屋を呼んで、司教が残していった本棚の修繕、箪笥の棚、僕の部屋の窓の虫除け用の金網設置などを頼んだ。全部で30ドル(2700円)だそうだ。
サロンに葦簀(よしず)を敷いてみた。使用人小屋boyerieの囲いは一部できているが、まだ全部は司教の許可がないので葦簀がベランダに置いたままになっていたので、マドンナが悪戯するし、雨に濡れて腐ってきても困るので、乾燥させるためにも家の中にいれたのだ。アフリカの椅子とあわせ、ちょっとアフリカ・ムードが漂うようになった。
キュング夫人が家に来た。特に用事はなかったようだが、ミニバスの変わりにDar es SalaanやNairobiで走っているオート三輪がいいと言い出した。バンコクではトクトクといっていた。しかし、タイでは一昨年行ったらトクトクをみかけなくなった。生活水準が上がったからだろう。昨日ルブンバシで初めて乗ったのだそうだ。同夫人の家の近くに販売店があり$2 500。これなら数台買って危険分散ができる。ルブンバシでは走りになる。燃費がいいし、経費が安い。いいアイデアかもしれない。保険、営業登録等を調査してみよう。インド製の車だが、なぜインド人がこれでtaxi会社をルブンバシで営業しようとしないのか。その理由も調べてみなければいけない。車高が低く、タイヤも小さいので悪路に向かないのか。テスト・ケースで2台買ってみるか。
Le 24 avril 2010. samedi
貯水タンクの価格を調べた。安くはないがアンドレさんが云うほど高くはなかった。500LでKin MartのMr Tankが146ドル(13 000円)、1000Lで219ドル(19 700円)前後である。今日の勢いがよく東京並み。しかし、こんな日が長く続かないのは確かだろう。
Le 25 avril 2010, dimanche
午前中、全く断水なし。奇跡だね。
こんな記事をネットで読んだ。茨城新聞である。
コンゴ大使・北澤寛治氏に聞く 「日本との関係増進」
2009/12/27(日) 本紙朝刊 県内総合 A版 16頁
ODAが存在感上げる アフリカ中部のコンゴ(旧ザイール)大使を務める北澤寛治氏(62)=龍ケ崎市出身=が一時帰国した。当地に赴任して間もなく2年。北澤氏は「さらなる日本との関係増進と日本のプレゼンス(存在感)の拡大に努めたい」と語った。 コンゴは約15年にわたる内乱を経て2007年、選挙による民主的政権が誕生。それとともに政府開発援助(ODA)が再開、国際協力機構(JICA)事務所も開設された。 北澤氏が赴任したのは08年。赴任当時、同国における日本の相対的な地位は低下しており「少しでも日本をPRしたい」と決意。赴任から2年たち、道路整備や浄水場拡張などの援助も活発化し「ODAというPR材料ができ、日本のプレゼンスが上がってきた」と語る。 経済援助にとどまらず、「日本料理の宣伝が外交の一要素になっている」と北澤氏。意外に思えるが、アフリカでもすし、てんぷらは人気。大使公邸でのレセプションも中心は日本料理で「アフリカでも日本料理の存在感は高い。文化紹介の点から重要視している」という。 また、スポーツでは柔道人気が高まり、国内大会の実況中継が行われるほど。9月には日本人講師3人を招き柔道教室を開催し、日本国大使杯も創設して今月第1回大会が開かれた。北澤氏は「現地テレビのインタビューも受け、広報の面でも良かった」と、効果に手応えを感じている様子だ。 来年はコンゴの独立50周年と、日本とコンゴの外交樹立50周年が重なる。「記念の年であることを踏まえ、大使館でも企画を考えている」と北澤氏。独立記念日の6月30日にカビラ大統領が出席して開かれる道路整備のテープカットに、日本の要人を招く計画を立てている。 このほか、三味線や太鼓など伝統芸能の巡回公演団によるイベント、柔道のデモンストレーションなどを企画。北澤氏は「さらなる日本との関係増進とプレゼンスの拡大に努めたい」と語った。【写真説明】北澤寛治氏
ほぼ3ヶ月ぶりでPatrick君が家にやってきた。昨日電話で来ると云っていたときから目的の想像はついていた。無心である。昨日Alain君には115ドル貸した。VodashopでインタネットのUSBモデムと一ヶ月の使い放題の申し込みをしたのである。僕のノートに一札書かせた。USBモデムは僕が1月に買った時と比べると何とまた5ドル値下がりしていた。それはそれとしてPatrick君の借金申し込みは断るつもりだ。何故なら僅かであるが既に6000FC(600円)を貸してある。それも返さないで、または忘れてしまって新たに借金を5月末に返すからといわれてももう信用できないからである。
水は昼間もよく出た。15時半にシャワーを浴びてしまった。
一昨日、家の隣の薬屋で消毒アルコールを買った。今日ビンを開けてみたら、ラム酒の匂いがする。虫刺されにつけたけれど、スーとしない。サトウキビはここにいくらでもある。それからアルコールを作ればラム酒になる。そうなのかなぁ。それとルブンバシの薬屋でコットンを買ったら、直径8センチほどの筒状になったものをくれた。今日包みをあけたら、布団の綿がでてきた。おいおい、消毒棉じゃないのか。カット綿をどこかで探そう。
普通は日付をフランス語で書くとき、le mercredi 21 avril 2010となる。それは知っている。しかしこの日誌で曜日を最後にもって来たのには理由がある。僕の意識の中で曜日は括弧でくくられている。だから最後なのである。
今朝パンツを洗濯したとき、ポケットに米ドル札をいれたまま洗ってしまった。洗濯機はないから、あっても水が出なければ役に立たない、もみ洗いをしただけだった。紙幣はまったくそのままの形でポケットに残っていた。色落ちもしていなかった。ぬれた札を乾かした。紙幣の質が痩せても枯れてもmade in USAだったということ。流石としかいいようがない。日本のお札も丈夫だ。国力の反映に違いない。12枚で49ドルあった。助かった。
電気代の請求がきた。21 530FC(2 130円)。3月分である。メーターではなく包括forfaitだそうだ。だが、根拠がわからない。コンロ、風呂の湯沸しが電気であることを考えると安いように思う。
黒土を取りにキプシ市のちょっと外に出た。肥沃な黒土を花壇のために欲しいとフランシスコ会のシスターに頼まれたのである。庭師アンドレさんに案内されていったところは、かねて気にかかっていたキプシ街道の脇道であった。雨季には泥濘(ぬかるみで通れそうもない。実際通ってみようと思って途中で諦めた経緯がある。Mimbulu村とはちがうchef coutumier(伝統的地方リーダー)の家まで続く小道。途中に国際NGOが身障者のために開いた農園もある。
黒土を取った場所の近くに小川が流れていて、蝶やトンボがいっぱいいた。昆虫採集に趣味があるひとにとっては垂涎であろう。モンシロチョウ、アゲハ、シジミぐらいしか知らない僕は、唯々その種類の多いこと、多様な色の配合に驚くばかりだ。携帯で写真をとったが、はっきりと写らない。
黒土を取ってから、更に奥にすすんだ。20分程で伝統的地方リーダーの家のある部落に着いた。ベルギーがリーダーの家、彼の事務所、裁判所、小さな刑務所、家の前の並木などを作ったそうである。60年以上前の話である。リーダー、ヤング・カポンダ氏は家族ともどもルブンバシに住み、週に一度部落に帰って来るか来ないかだという。Mimbulu村にいるchef coutumierもカポンダというので、区別してヤング・カポンダjeune Kapond aといわれている。彼らは伝統的に支配する地方で、鉱山会社が採掘をする場合、採掘権料10から15%を受け取るのだそうである。それを村や部落のために使うかどうかはリーダーの胸三寸。Mimbulu村のカポンダ氏とヤング・カポンダ氏は仲が悪いという噂である。
お湯がなかなか出てこない。待つこと30分。漸くちょろちょろと。兎も角湯を浴びなければ。明日は木曜日。もしかしたら先週、先々週のように断水かもしれない。
断水、断水と書いてきたが、水道代金は無料なのである。無料ほど始末におえない。キプシ市の水道代が全ての市民に無料というわけではない。大家である教会が当局と特別契約をしているからだ。ロハだから断水しても仕様がないというわけにはいかない。
Le 22 avril 2010, jeudi
水が17時半頃に出始めた。断水の曜日だと思っていたらこうだ。しかし、出るに越したことはない。
空港に行く道の店にあった。看板がなく、表は中国人の経営する金物屋。裏手に回ると食料品の店があった。そこで醤油を買った。僕はほとんど醤油を使わない。アルジェリアでは小瓶を一回買ったけれど、ほとんど使わず仕舞いで月日が経ったので捨ててしまった。でも海苔をいただいたからにはお醤油がないとね。
アスンタさんから貴重なお蕎麦をいただいてしまった。蕎麦を庭に植えるのもいいかもしれないけれど、粉にして蕎麦がつくれない。蕎麦の達人になった友人もいたなぁ。日本にいると昼は大抵蕎麦である。もりとかざるとか。冷たいほうがいい。蕎麦の湯で加減が分かるのは日本人とイタリア人だ。フランス人の茹でたパスタは食えない。
柔道家たちのために日本語教室を土曜日の16時からすることにした。関心の度合いによるが、簡単な会話程度で終わるだろう。優秀な生徒が出てきたら留学も考えてあげたい。柔道を教えることはできないからせめてもの貢献である。
「芋の子を洗うよう」という表現がある。夏の湘南海岸の人出をいうときなどに使うけれど、この芋はなに芋だろうと辞書をみた。サトイモの親芋についた小芋だそうだ。先日、Mimbulu村で買ったジャガイモに土がこびりついていた。それをかき回して洗いながら、この表現を思い出した。なるほどね。小さなジャガイモでも成り立つ表現だなぁ。
うちの庭のアボカドの木から実をもいでもらって食べた。種が普通のアボカドより大きかったが美味かった。2個だけとっておいて、あとは庭師アンドレにもたせた。
Le 23 avril 2010, vendredi
建具屋を呼んで、司教が残していった本棚の修繕、箪笥の棚、僕の部屋の窓の虫除け用の金網設置などを頼んだ。全部で30ドル(2700円)だそうだ。
サロンに葦簀(よしず)を敷いてみた。使用人小屋boyerieの囲いは一部できているが、まだ全部は司教の許可がないので葦簀がベランダに置いたままになっていたので、マドンナが悪戯するし、雨に濡れて腐ってきても困るので、乾燥させるためにも家の中にいれたのだ。アフリカの椅子とあわせ、ちょっとアフリカ・ムードが漂うようになった。
キュング夫人が家に来た。特に用事はなかったようだが、ミニバスの変わりにDar es SalaanやNairobiで走っているオート三輪がいいと言い出した。バンコクではトクトクといっていた。しかし、タイでは一昨年行ったらトクトクをみかけなくなった。生活水準が上がったからだろう。昨日ルブンバシで初めて乗ったのだそうだ。同夫人の家の近くに販売店があり$2 500。これなら数台買って危険分散ができる。ルブンバシでは走りになる。燃費がいいし、経費が安い。いいアイデアかもしれない。保険、営業登録等を調査してみよう。インド製の車だが、なぜインド人がこれでtaxi会社をルブンバシで営業しようとしないのか。その理由も調べてみなければいけない。車高が低く、タイヤも小さいので悪路に向かないのか。テスト・ケースで2台買ってみるか。
Le 24 avril 2010. samedi
貯水タンクの価格を調べた。安くはないがアンドレさんが云うほど高くはなかった。500LでKin MartのMr Tankが146ドル(13 000円)、1000Lで219ドル(19 700円)前後である。今日の勢いがよく東京並み。しかし、こんな日が長く続かないのは確かだろう。
Le 25 avril 2010, dimanche
午前中、全く断水なし。奇跡だね。
こんな記事をネットで読んだ。茨城新聞である。
コンゴ大使・北澤寛治氏に聞く 「日本との関係増進」
2009/12/27(日) 本紙朝刊 県内総合 A版 16頁
ODAが存在感上げる アフリカ中部のコンゴ(旧ザイール)大使を務める北澤寛治氏(62)=龍ケ崎市出身=が一時帰国した。当地に赴任して間もなく2年。北澤氏は「さらなる日本との関係増進と日本のプレゼンス(存在感)の拡大に努めたい」と語った。 コンゴは約15年にわたる内乱を経て2007年、選挙による民主的政権が誕生。それとともに政府開発援助(ODA)が再開、国際協力機構(JICA)事務所も開設された。 北澤氏が赴任したのは08年。赴任当時、同国における日本の相対的な地位は低下しており「少しでも日本をPRしたい」と決意。赴任から2年たち、道路整備や浄水場拡張などの援助も活発化し「ODAというPR材料ができ、日本のプレゼンスが上がってきた」と語る。 経済援助にとどまらず、「日本料理の宣伝が外交の一要素になっている」と北澤氏。意外に思えるが、アフリカでもすし、てんぷらは人気。大使公邸でのレセプションも中心は日本料理で「アフリカでも日本料理の存在感は高い。文化紹介の点から重要視している」という。 また、スポーツでは柔道人気が高まり、国内大会の実況中継が行われるほど。9月には日本人講師3人を招き柔道教室を開催し、日本国大使杯も創設して今月第1回大会が開かれた。北澤氏は「現地テレビのインタビューも受け、広報の面でも良かった」と、効果に手応えを感じている様子だ。 来年はコンゴの独立50周年と、日本とコンゴの外交樹立50周年が重なる。「記念の年であることを踏まえ、大使館でも企画を考えている」と北澤氏。独立記念日の6月30日にカビラ大統領が出席して開かれる道路整備のテープカットに、日本の要人を招く計画を立てている。 このほか、三味線や太鼓など伝統芸能の巡回公演団によるイベント、柔道のデモンストレーションなどを企画。北澤氏は「さらなる日本との関係増進とプレゼンスの拡大に努めたい」と語った。【写真説明】北澤寛治氏
ほぼ3ヶ月ぶりでPatrick君が家にやってきた。昨日電話で来ると云っていたときから目的の想像はついていた。無心である。昨日Alain君には115ドル貸した。VodashopでインタネットのUSBモデムと一ヶ月の使い放題の申し込みをしたのである。僕のノートに一札書かせた。USBモデムは僕が1月に買った時と比べると何とまた5ドル値下がりしていた。それはそれとしてPatrick君の借金申し込みは断るつもりだ。何故なら僅かであるが既に6000FC(600円)を貸してある。それも返さないで、または忘れてしまって新たに借金を5月末に返すからといわれてももう信用できないからである。
水は昼間もよく出た。15時半にシャワーを浴びてしまった。
一昨日、家の隣の薬屋で消毒アルコールを買った。今日ビンを開けてみたら、ラム酒の匂いがする。虫刺されにつけたけれど、スーとしない。サトウキビはここにいくらでもある。それからアルコールを作ればラム酒になる。そうなのかなぁ。それとルブンバシの薬屋でコットンを買ったら、直径8センチほどの筒状になったものをくれた。今日包みをあけたら、布団の綿がでてきた。おいおい、消毒棉じゃないのか。カット綿をどこかで探そう。
21 avril 2010
ルブンバシ大学柔道部 Club de Judo UniLu
大学の柔道場の入り口は寮の一階であった。タタミといっても、柔道用のマットのことを指すようだが、ここにはそれもなく「おが屑」を敷いてその上にシートをかぶせていた。怪我をしない工夫はされているけれども、埃というか、おが屑が舞う。下の写真のシャボン玉のごとき玉はおが屑ならむ。
それでも彼らは一所懸命練習をしていた。
ルブンバシ柔道連盟Entente de Judo de Lubumbashiから手紙をもらった。師範や用具の支援要請である。
カリブニ アマス一行 キプシの小学校訪問 Karibuni Amaz visite une école à Kipushi
キプシ市フォステム小学校にて。École primaire Fostem à Kipushi
東京世田谷のママさんバレーチームの一行がフォステム小学校を訪問した
写真でみると立派な建物のようだが、6年生の教室はまだない。これからの建設である。壁のレンガが運送費、建設費を除いて1個150FC(15円)。ポートランドセメント一袋(50kg)で22ドル(2000円)、砂が1M3、11250FC(1125円)。皆様の暖かいご支援を期待する。
アフリカの椅子 chaise africaine
(4月14日の記事参照)
Ruashiの土産店で購入。従業員が座っていた椅子である。売り物であったのかどうかは確かではない。力の配分をよく考えてある。セネガルでも見たからコンゴだけのものではなさそうだ。アフリカの知恵の一つか。フィットネス・クラブにあるベンチの発想はこの椅子から来たのかもしれない。木はかなり重い。
Ruashiの土産店で購入。従業員が座っていた椅子である。売り物であったのかどうかは確かではない。力の配分をよく考えてある。セネガルでも見たからコンゴだけのものではなさそうだ。アフリカの知恵の一つか。フィットネス・クラブにあるベンチの発想はこの椅子から来たのかもしれない。木はかなり重い。
テニス・ボール無残 une balle de tennis détruite
(4月17日の記事参照)
庭でボール投げ遊びをしているときは、マドンナちゃん、投げたボールを走ってとりに行き、得意そうに銜えて僕のところに帰ってきた。大いに褒めた。部屋の中でもボールで遊んでくれると思って、ボールを差し入れした。その結果がこれである。鋭い歯、ずば抜けた顎の力。末恐ろしいどころか、既に恐ろし哉。、
庭でボール投げ遊びをしているときは、マドンナちゃん、投げたボールを走ってとりに行き、得意そうに銜えて僕のところに帰ってきた。大いに褒めた。部屋の中でもボールで遊んでくれると思って、ボールを差し入れした。その結果がこれである。鋭い歯、ずば抜けた顎の力。末恐ろしいどころか、既に恐ろし哉。、
20 avril 2010
4月16日~4月20日 du 16 avril au 20 avril 10
Le 16 avril 2010, vendredi
昨夜水が出たらしいが、24時以降のようだ。今朝は既に断水。
ネットは接続されているのに、ブログ更新もWEBメイルもアクセスできない。アクセス混雑なのかもしれないがいらいらする。
欧州の空港閉鎖はさらに南欧州までひろがっているとか、Tさん一行ご無事だろうか。ナイロビでのんびりすごされているならいいが、ナイロビ空港で2泊するような混乱では困りはてるだろう。KLMが気をきかして南周りで日本帰国便を出すようなことは無理かな。パリにいるというTさんのお嬢さんもさぞ心配しているだろう。天変地異とはいえ、航空会社の対応が適切であることを、彼女らの健康を祈るばかりである。
犬小屋がほぼ完成。入り口のベランダに置いた。屋根を開けて中の掃除を出来るようにしているのが工夫。マドンナは珍しいので中に入ったり出たりしている。トイレの躾が出来てから引越しだ。そうしないと小屋の中でトイレをしてしまう。屋根は波型トタン。13 800FC(1 380円)。結局大工の手間賃をいれて80ドル以上かかった。
マドンナに蚤がいた。さっそく殺虫財のスプレー。庭の草叢で転げまわるから蚤がつくのは致し方ない。しかし、蚤が媒介する病気が怖い。
Le 17 avril 2010, samedi
Liveメイルへのアクセスが今朝もできない。
断水継続。夜中に一滴も水が出た気配がない。これで72時間。やはり書水タンクを設置しなければならないか。
13時半、「日本カタンガ協会」の会合をキュング邸で開催。これからの方針を決めなければならない。事業は、
1)フランシスコ会診療所建設
2)Fostem小学校を「カリブニ・アマス」のママさんたちと協力して支援
3)日本の都市との姉妹都市
4)ルブンバシ大学と日本の大学の提携
5)日本人の柔道の先生探し
6)ルブンバシ市5ヵ年計画検討と支援
7)カタンガ州新5ヵ年計画検討と支援
8)カタンガ州に進出する日本企業への応援
情報提供、通訳、アコモデイション手配、他
9)その他
プラスチックごみ処理事業を行うNPO Umoja支援
公害告発NPO ADIDHとの連携
地雷除去プログラムの
協会でtaxibusを運営して、協会の諸経費を賄おうと副会長キュング夫人が提案。それはいいとしても、誰がファイナンスするんだ。3年で使い切るミニバスが12 000ドルもするというのに。結局僕におんぶに抱っこじゃないか。$60/jourで月1800ドルの収入が期待できるのだというが、車のメンテとガソリン代を引いて、更に保険代金もある。安易に賛成はできない。第一NPO法人が事業主体となれないとおもう。
Kさんが犬はボールが好きだから、それで遊ばせたらどうかとおっしゃった。そこでテニス・ボールを街中で購入。早速マドンナに与えてみた。庭でボールを投げると全速力で追いかけて僕のところに持ってくる。褒めてやると嬉しそうだ。いいことを教わったと思った。ところが部屋にボールと一緒にマドンナをいれたら、たちまちボールをずたずたに破壊してしまった。マドンナはケロッとしている。「何かまた悪いことしたかしら」てなもんだ。これからは、僕がみているときだけ、ボール投げ遊びをしよう。ボールを壊されてしまう前に取り上げなければならない。タイミングが難しそうだ。
WEBメイルlive.jpが家からアクセスできないので、アスンタさんのところに行ってインタネットをお借りし、2通だけメイルをした。僕のところは検索エンジンgoogleがなんとか時間をかけて可能。それ以外は全くネットナヴィゲイションができない。接続が極めて不安定。
久しぶりにアボカドを食した。Minbulu村ではアボカドがしばらく見つからなかった。今日はルブンバシのLa Briocheの前で行商していた小母さんから手に入れた。割ってみると、断然品質がいい。旨い。バナナも小母さんから買った。300FC(30円)とやや高めだがこれも品質が良かった。Minbulu村で買うのは、地元だから新鮮だろう、値打ちだろうという幻想に惑わされた結果だ。考えてみれば、世界中どこでもそうだが、むしろ品質の良いものは都会に出されてしまうに違いない。もう、あの村で買い物は止す。
とにかく痒い。両足首にそれぞれ20ケ所以上虫に食われた痕がある。小さな痕。蚊ではない。蚤でもない。では、何なのか、不明。蟻? 何処で? 不明。
Le 18 avril 2010, dimanche
午前1時ころポタポタと水が落ちる音がして目が覚めた。それから2時間水汲み、いや汲めるほど水がでないから水集めをした。Norbertさんによれば、木曜日と土曜日にポンプのメンテをするので断水になるという。眉唾。
マドンナを外の犬小屋に入れることにした。トイレの躾はまだ成功したとはいえないが、マドンナはいくら広いサロンがあるとはいえ家の中で飼える犬ではない。家の窓という窓を開けて通気、彼女いた部屋をjavel溶液(次亜塩素酸)で掃除した。サロンももう普段はマドンナを入れないから、ここも掃除。疲れたなぁ。
アフリカの椅子をでんと置いた。サロンの壁は白としても、天井はアフリカ趣味の布を張りめぐらすか。それも一興。マドンナが引き裂いてしまったカーテンは司教さんが残していったものをランドリーに出して再利用したが、今度はどんな柄のカーテンにするか。
猫を飼いたい。猫は清潔だ。ネズミを捕ってくれるよりも、猫がいるというだけでネズミが引っ込むかもしれない。毛の長いペルシャかアンゴラがいい。
チカちゃんはペルシャだった。スイス生まれ、スペインで母親となり、日本まで僕と一緒に来たが、僕の母が東京から引っ越してから行方不明。13歳。もしかしたら寿命を悟ったのかもしれない。問題はマドンナにしても、次に来るネコちゃんにしても僕より長生きするだろうことだ。父と同じならばあと数年、長くても10年だろう。10年も長生きしたら大変だ。いずれにせよ、マドンナやネコちゃんの引き取り手を考えておくことだ。マドンナはアラン君が欲しがるだろう。ネコちゃんは誰に?
風呂場の方が水位が低いので、台所より先に水がでることが分かった。そこで風呂場で水をバケツに溜める。食器も洗うことができた。バスタブにも後で溜めておくが、いっぱいになっても栓から水漏れで朝には水がないだろう。
マドンナは今夜から犬小屋。不安そう。可哀想だが仕方ない。夜10時に小屋の戸を開け放った。まだ番犬としては頼りないけれど、少しずつ彼女にも夜に慣れてもらわなければいけない。大人になるってことは辛いことだね、マドンナちゃん。引越し祝いにビーフの缶詰を出した。トイレはベランダの外でたした。
Le 19 avril 2010, lundi
アイスランド火山噴火の影響で欧州空港閉鎖が続く。Tさん一行はどうしたろう。旅慣れしているとはいうものの、ナイロビでは不安にちがいない。
ワッフルをまた作った。今度はベイキング・パウダーの量を増やした。それに、ワッフル・メーカーに生地を入れるとき全体に生地を伸ばす必要がなく、中央に生地を流せば勝手に広がることも分かった。うまくいきそうである。
ネットの具合が悪いので、Vodashopにクレームに行った。家の向かいにあるのは便利。
片瀬貴文著『国鉄マンのキンシャサ日記』を読み終えた。Tさんからいただいた本。1970年代後半のキンシャサの様子がわかる。
仕事の傍らナンテイ(軟式庭球)を日本文化の普及としてコンゴに持ち込んだ。当時はある程度成功したようであるが、今はその影も形もなさそうである。少なくともカタンガでは誰も軟式テニスをスポーツとして親しんでいない。僕はこの普及に無理があると思う。テニスは硬式が当たり前で、軟式では世界的な広がりがない。今や硬式ボールも中国製で3個が395円でここでも手に入る。
コンゴの70年代と今日。片瀬氏が書いている当時の行政機関、政治とあまり変わりがないように見えるのは不幸だろう。だが誰にとって不幸なのか。彼の視点はごく普通の日本人のそれであり、彼我の相違を鮮明にして一喜一憂するのである。
僕はコンゴ人も日本人もフランス人も同じく愚かであり、いいかえればコンゴ人も日本人もフランス人も同じように賢いと思っている。差異ではなく同質性を見る。それでは異文化が分からずつまらないのか。
日本国鉄王国からコンゴに来て、ボーイを雇い、街中の高層住宅に住み、日本から足りないものは何でも送ってもらえる環境は誰でもが享受できるものではない。商社駐在員よりも恵まれている。その人が、ベルギーが作ったとはいえ、やはり王国であるコンゴ国鉄の病は診断、治療できない。国鉄がJRとなって久しいが、競争にもまれている民間会社とは違う。これから海外にでるなら、コンゴ国鉄(SNCC)の部分買収でも考えてみたらどうか。カタンガ州の国鉄買収を提案する。キンシャサとバナナまたはキンシャサとイレボ間の路線建設は儲からない。採算が合うのはカタンガ州の鉄道だけであろう。既に南アはそれを考えた。出来なかったのは、SNCCの借金と年金問題である。これを日本国鉄が民営化した方式を採用すれば買収可能かもしれない。
Le 20 avril 2010, mardi
ネットのつながりが悪いと、再び向かいのVodashopでクレーム。「全国的みたいよ」オリヴィアさんの言葉に致し方ないと諦め。夕方帰宅してリトライしたら、快調。クレーム効を奏したのかなぁ。昼間アスンタさんのところでネットをやらしてもらったが、明日また行く必要はなくなったかもしれない。
ルブンバシの柔道家連盟から手紙をもらった。先生(師範)を送って欲しい等々の要望である。これを関係先に配ることにする。反応やいかに。
昨日、HDの中にあった映画「ベン・ハー」を久しぶりに見た。ベン・ハーがガレー船送りになる途中、水をイエスからもらう。そのとき差し出された柄杓が、正に僕がザンビアの街道筋で買った瓢箪のような植物の柄杓であった。それを見て感激。
昨日より水の出がいい。やはり木曜日から週末が鬼門なのか。
昨夜水が出たらしいが、24時以降のようだ。今朝は既に断水。
ネットは接続されているのに、ブログ更新もWEBメイルもアクセスできない。アクセス混雑なのかもしれないがいらいらする。
欧州の空港閉鎖はさらに南欧州までひろがっているとか、Tさん一行ご無事だろうか。ナイロビでのんびりすごされているならいいが、ナイロビ空港で2泊するような混乱では困りはてるだろう。KLMが気をきかして南周りで日本帰国便を出すようなことは無理かな。パリにいるというTさんのお嬢さんもさぞ心配しているだろう。天変地異とはいえ、航空会社の対応が適切であることを、彼女らの健康を祈るばかりである。
犬小屋がほぼ完成。入り口のベランダに置いた。屋根を開けて中の掃除を出来るようにしているのが工夫。マドンナは珍しいので中に入ったり出たりしている。トイレの躾が出来てから引越しだ。そうしないと小屋の中でトイレをしてしまう。屋根は波型トタン。13 800FC(1 380円)。結局大工の手間賃をいれて80ドル以上かかった。
マドンナに蚤がいた。さっそく殺虫財のスプレー。庭の草叢で転げまわるから蚤がつくのは致し方ない。しかし、蚤が媒介する病気が怖い。
Le 17 avril 2010, samedi
Liveメイルへのアクセスが今朝もできない。
断水継続。夜中に一滴も水が出た気配がない。これで72時間。やはり書水タンクを設置しなければならないか。
13時半、「日本カタンガ協会」の会合をキュング邸で開催。これからの方針を決めなければならない。事業は、
1)フランシスコ会診療所建設
2)Fostem小学校を「カリブニ・アマス」のママさんたちと協力して支援
3)日本の都市との姉妹都市
4)ルブンバシ大学と日本の大学の提携
5)日本人の柔道の先生探し
6)ルブンバシ市5ヵ年計画検討と支援
7)カタンガ州新5ヵ年計画検討と支援
8)カタンガ州に進出する日本企業への応援
情報提供、通訳、アコモデイション手配、他
9)その他
プラスチックごみ処理事業を行うNPO Umoja支援
公害告発NPO ADIDHとの連携
地雷除去プログラムの
協会でtaxibusを運営して、協会の諸経費を賄おうと副会長キュング夫人が提案。それはいいとしても、誰がファイナンスするんだ。3年で使い切るミニバスが12 000ドルもするというのに。結局僕におんぶに抱っこじゃないか。$60/jourで月1800ドルの収入が期待できるのだというが、車のメンテとガソリン代を引いて、更に保険代金もある。安易に賛成はできない。第一NPO法人が事業主体となれないとおもう。
Kさんが犬はボールが好きだから、それで遊ばせたらどうかとおっしゃった。そこでテニス・ボールを街中で購入。早速マドンナに与えてみた。庭でボールを投げると全速力で追いかけて僕のところに持ってくる。褒めてやると嬉しそうだ。いいことを教わったと思った。ところが部屋にボールと一緒にマドンナをいれたら、たちまちボールをずたずたに破壊してしまった。マドンナはケロッとしている。「何かまた悪いことしたかしら」てなもんだ。これからは、僕がみているときだけ、ボール投げ遊びをしよう。ボールを壊されてしまう前に取り上げなければならない。タイミングが難しそうだ。
WEBメイルlive.jpが家からアクセスできないので、アスンタさんのところに行ってインタネットをお借りし、2通だけメイルをした。僕のところは検索エンジンgoogleがなんとか時間をかけて可能。それ以外は全くネットナヴィゲイションができない。接続が極めて不安定。
久しぶりにアボカドを食した。Minbulu村ではアボカドがしばらく見つからなかった。今日はルブンバシのLa Briocheの前で行商していた小母さんから手に入れた。割ってみると、断然品質がいい。旨い。バナナも小母さんから買った。300FC(30円)とやや高めだがこれも品質が良かった。Minbulu村で買うのは、地元だから新鮮だろう、値打ちだろうという幻想に惑わされた結果だ。考えてみれば、世界中どこでもそうだが、むしろ品質の良いものは都会に出されてしまうに違いない。もう、あの村で買い物は止す。
とにかく痒い。両足首にそれぞれ20ケ所以上虫に食われた痕がある。小さな痕。蚊ではない。蚤でもない。では、何なのか、不明。蟻? 何処で? 不明。
Le 18 avril 2010, dimanche
午前1時ころポタポタと水が落ちる音がして目が覚めた。それから2時間水汲み、いや汲めるほど水がでないから水集めをした。Norbertさんによれば、木曜日と土曜日にポンプのメンテをするので断水になるという。眉唾。
マドンナを外の犬小屋に入れることにした。トイレの躾はまだ成功したとはいえないが、マドンナはいくら広いサロンがあるとはいえ家の中で飼える犬ではない。家の窓という窓を開けて通気、彼女いた部屋をjavel溶液(次亜塩素酸)で掃除した。サロンももう普段はマドンナを入れないから、ここも掃除。疲れたなぁ。
アフリカの椅子をでんと置いた。サロンの壁は白としても、天井はアフリカ趣味の布を張りめぐらすか。それも一興。マドンナが引き裂いてしまったカーテンは司教さんが残していったものをランドリーに出して再利用したが、今度はどんな柄のカーテンにするか。
猫を飼いたい。猫は清潔だ。ネズミを捕ってくれるよりも、猫がいるというだけでネズミが引っ込むかもしれない。毛の長いペルシャかアンゴラがいい。
チカちゃんはペルシャだった。スイス生まれ、スペインで母親となり、日本まで僕と一緒に来たが、僕の母が東京から引っ越してから行方不明。13歳。もしかしたら寿命を悟ったのかもしれない。問題はマドンナにしても、次に来るネコちゃんにしても僕より長生きするだろうことだ。父と同じならばあと数年、長くても10年だろう。10年も長生きしたら大変だ。いずれにせよ、マドンナやネコちゃんの引き取り手を考えておくことだ。マドンナはアラン君が欲しがるだろう。ネコちゃんは誰に?
風呂場の方が水位が低いので、台所より先に水がでることが分かった。そこで風呂場で水をバケツに溜める。食器も洗うことができた。バスタブにも後で溜めておくが、いっぱいになっても栓から水漏れで朝には水がないだろう。
マドンナは今夜から犬小屋。不安そう。可哀想だが仕方ない。夜10時に小屋の戸を開け放った。まだ番犬としては頼りないけれど、少しずつ彼女にも夜に慣れてもらわなければいけない。大人になるってことは辛いことだね、マドンナちゃん。引越し祝いにビーフの缶詰を出した。トイレはベランダの外でたした。
Le 19 avril 2010, lundi
アイスランド火山噴火の影響で欧州空港閉鎖が続く。Tさん一行はどうしたろう。旅慣れしているとはいうものの、ナイロビでは不安にちがいない。
ワッフルをまた作った。今度はベイキング・パウダーの量を増やした。それに、ワッフル・メーカーに生地を入れるとき全体に生地を伸ばす必要がなく、中央に生地を流せば勝手に広がることも分かった。うまくいきそうである。
ネットの具合が悪いので、Vodashopにクレームに行った。家の向かいにあるのは便利。
片瀬貴文著『国鉄マンのキンシャサ日記』を読み終えた。Tさんからいただいた本。1970年代後半のキンシャサの様子がわかる。
仕事の傍らナンテイ(軟式庭球)を日本文化の普及としてコンゴに持ち込んだ。当時はある程度成功したようであるが、今はその影も形もなさそうである。少なくともカタンガでは誰も軟式テニスをスポーツとして親しんでいない。僕はこの普及に無理があると思う。テニスは硬式が当たり前で、軟式では世界的な広がりがない。今や硬式ボールも中国製で3個が395円でここでも手に入る。
コンゴの70年代と今日。片瀬氏が書いている当時の行政機関、政治とあまり変わりがないように見えるのは不幸だろう。だが誰にとって不幸なのか。彼の視点はごく普通の日本人のそれであり、彼我の相違を鮮明にして一喜一憂するのである。
僕はコンゴ人も日本人もフランス人も同じく愚かであり、いいかえればコンゴ人も日本人もフランス人も同じように賢いと思っている。差異ではなく同質性を見る。それでは異文化が分からずつまらないのか。
日本国鉄王国からコンゴに来て、ボーイを雇い、街中の高層住宅に住み、日本から足りないものは何でも送ってもらえる環境は誰でもが享受できるものではない。商社駐在員よりも恵まれている。その人が、ベルギーが作ったとはいえ、やはり王国であるコンゴ国鉄の病は診断、治療できない。国鉄がJRとなって久しいが、競争にもまれている民間会社とは違う。これから海外にでるなら、コンゴ国鉄(SNCC)の部分買収でも考えてみたらどうか。カタンガ州の国鉄買収を提案する。キンシャサとバナナまたはキンシャサとイレボ間の路線建設は儲からない。採算が合うのはカタンガ州の鉄道だけであろう。既に南アはそれを考えた。出来なかったのは、SNCCの借金と年金問題である。これを日本国鉄が民営化した方式を採用すれば買収可能かもしれない。
Le 20 avril 2010, mardi
ネットのつながりが悪いと、再び向かいのVodashopでクレーム。「全国的みたいよ」オリヴィアさんの言葉に致し方ないと諦め。夕方帰宅してリトライしたら、快調。クレーム効を奏したのかなぁ。昼間アスンタさんのところでネットをやらしてもらったが、明日また行く必要はなくなったかもしれない。
ルブンバシの柔道家連盟から手紙をもらった。先生(師範)を送って欲しい等々の要望である。これを関係先に配ることにする。反応やいかに。
昨日、HDの中にあった映画「ベン・ハー」を久しぶりに見た。ベン・ハーがガレー船送りになる途中、水をイエスからもらう。そのとき差し出された柄杓が、正に僕がザンビアの街道筋で買った瓢箪のような植物の柄杓であった。それを見て感激。
昨日より水の出がいい。やはり木曜日から週末が鬼門なのか。
Karibuni Amaz 4月12日~4月15日 du 5 avril au 11 avril 10
Wa Mama Watunzi Supporting Group (Karibuni Amaz)
Le 12 avril 2010, lundi
日本からMarie-Jean(「日本カタンが協会」キュング会長夫人)を尋ねて4人のお客様がみえた。Tさん、Iさん、Kさん、Yさんの一行だ。東京は世田谷のママさんバレーボールチーム「カリブニ・アマスKaribuni Amaz」の方々。だが、唯のママさんバレーボールチームではない。前日成田を出発、Amsterdam-Nairobi経由、今朝10時半にルブンバシ空港に着かれた。大変な強行軍。
僕はあつかましく海苔を買ってきていただいた。数条というところ、沢山いただいた。極上の焼き海苔であった。恐縮。
昼食後お疲れの4人をつれてシスター・アスンタ佐野さんのところへ。いつものように世界一のコーヒーをいただいた。このコーヒー、フェアトレードを扱うNGOなどで日本販売を考えてもらえないものだろうか。
国立ミュゼ(美術館、博物館)にいってみたが15時で閉館。交渉するも不可。
スーパーSparoでミネラル・ウォータを購入してもらってMarie-Jeanの家に4人を送り届けた。みなさん、ご苦労様。バレーボールを通して、当時外交官として東京に赴任していたキュング一家と知り合いになった。IさんはMarie-Jeanの裁縫の先生でもある由。
果たしてMarie-Jeanの夕食はどうだったろう。僕はコンゴの地元料理があまり好きなではない。それは2006年の賄いのおばさんの所為もあるかもしれない。
Le 13 avril 2010, mardi
Tさん一行にキプシのフォステムFostem小学校で合流。Marie-Jean(「日本カタンが協会」副会長兼事務長)の長兄でイタリアに移民しているStéphane Musengeさんが援助して6年前に設立した小学校。FostemとはFondation Stéphane Musengeの略称。運営は地元にいる次兄のNorbertさん(「協会」の参事でもある)。キプシ市の中でも最も貧しい地区の外れに学校がある。
子供たちが校庭にあつまり合唱で歓迎。可愛い寸劇などもあった。月謝は3500FC(350円)。この授業料は公立(4500FC)やカトリックの学校(30ドル、2900円以上)に比べても安い。しかし、その3500FCすらも子沢山の家庭にとってはかなりの負担になり、支払えない家庭がでてきているという。生徒80余名のうち、十数名は両親がいない環境。祖父母の家から通っている。先生は6人。音楽とか算数とか教科ごとに分かれているのではなく、それぞれの先生がすべての教科を教える。この先生たちの給与も滞りがち。
鋼鉄製の椅子、机は州政府からの寄付。黒板は壁をペンキで黒く塗っただけか、板切れ。トイレがまだない。
それでも全生徒が制服を着ていた。しかし、東京の私立の生徒のような立派な制服ではない。中には半ズボンの裾が縫われていない子もいた。一張羅にちがいない。リュックも鞄も持てず、ビニール・サックにノートをいれている子が多かった。
近所からこの学校の生徒ではない子供たちが、何が起こったのだろうと見物にたくさん現れた。裸足の子が多い。この小さな学校、近所の学校にすら通えない子供たちがいっぱいいるのだ。
小学校というけれど幼稚園もある。小学校は今のところ5年まで。来年6年生ができる。そこで教室を増設しているところだ。土台だけが出来ていた。
小学校の歓迎と見学が終わったのが14時。Tさんたちが乗っていた車、『日本カタンガ協会』会長のキュングさんがどこからか借りてきて運転していた車がバッテリー・トラブル。これで昼抜きになってしまった。さらに保険証に問題ありとキプシ入り口で免許証などを取り上げられていたため、ルブンバシに同じ車で帰れない。Tさん一行に僕の車に乗り換えてもらって、僕の家にも立ち寄っていただいた。そしてマドンナと対面。マドンナは日本女性から撫でてもらって大興奮。お腹を出してあられもない姿をさらしてしまった。
UniLu(ルブンバシ大学)で柔道見学。大学の寮の一角に柔道とボディービルディングの部屋があった。Tさんたちにもご同行願った。
10名ほどが柔道の練習。指導者は隣国コンゴのブラザビルで柔道2段を取得した先生。一応みんな柔道着を着ていた。タタミはなく、おが屑を六七センチ敷いて、その上にシートカヴァーを載せている。おが屑が飛び散って髪の毛につく。汗をかいた体にも引っ付く。それでも熱心に稽古をしている。規律がよくとれていて見事である。若者たちの真摯なそして熱心な意気が伝わってくる。小さな体躯で加納治五郎の綽名をもつ青年もいた。
僕は「日本からなんとか師範を呼べるように努力したい。まだその工作の端緒で果たしてどうなるか分からないが、いつか国際試合に出られるようにがんばろう」と挨拶、Tさんも「自分がフランスに留学した当時は、フランス人の柔道家は少なかった。けれど、フランスはその後世界チャンピョンを輩出するまでになった。これからの精進できっと皆様の中からチャンピョンがでることでしょう」と激励。
Le 14 avril 2010, mercredi
朝、ネット不調。夜には回復していた。
10時からTさん一行と一緒。
ルブンバシ郊外のRwashiに土産物を買いにいった。マラカイト(仏語、malachite、マラキット)等の土産である。価格交渉に疲れる。僕はセネガルで見たと同じ2枚板の椅子を30ドルで買った。アスンタさんのフランシスコ会にあるようなマラカイトの壁掛け十字架が欲しかったが売っていなかった。特注だそうだ。
昼はギリシャ・サークル。中華も同じ店で出す。僕はラーメンをご馳走になった。本来なら遠来のお客様に奢っていただくのではなく、僕なり「日本カタンガ協会」でお誘いしたい。けれども、僕にも「協会」にもお金がない。本当に辛い。すみません、Tさん。
博物館閉館10分前に寄ったが、入場を断られた。ラストチャンスは明日朝。
街中にアフリカ・デザインの生地見に行った。70年代は日本の商社がろうけつ染めを大量にアフリカに輸出していたが今は中国なのだろうか。正札にはオランダろうけつと書いてある。一体、アフリカ女性の洋服のデザインは原色を使っていて派手であるが、彼女たちによく似合っている。
Le 15 avril 2010, jeudi
断水。昨夜風呂に入っておいてよかった。
ドルが安定通貨としてこの国で通用していることは既に述べた。ところがすべてのドル札が使えるわけではないことが、ここにきて初めてわかった。つまり2004年以降のドル札でないと使用できないのだ。米ドル札の表にseriesXXXXと年号がふってある。どこの店でもこの番号を調べているようだ。2003年を含めそれ以前の札はこの国では使用できない。ではそうした札を持っているときにそうするか。銀行で換えてくれるのか、要チェックである。
3度目の正直、駆け足で国立博物館を見学。Tさんたちと一緒。2006年に僕が来たときからみると展示が情実しているので驚いた。ルブンバシ動物園もそうだったが、この改善は嬉しい。時間がなく一部しか見られなかったが、文化面も疎かにされていないことを認識した。ガイド付き入場料が1 000FC(100円)である。
ママさんバレーボール、「Karibuni Amaz」のTさん一行が帰国の途についた。ケニアのナイロビからの飛行機が3時間遅れた。疲れましたでしょう。パリで英気を養ってください。
Tさん、Iさん、Kさん、Yさん、本当に遠いところルブンバシまで来ていただいてありがとうございました。毎日が予測しない出来事でお疲れになったと思います。でも、子供たちの笑顔はいい思い出としてお忘れにならないでしょう。
ママさんたちが欧州へ旅立って、穴がぽっかり僕の心に開いたようだ。素晴らしい人たちだった。コンゴに対する偏見の「へ」の字も出てこない。コンゴの、カタンガの人々を同じ地球市民として平等にみてくれた。同情じゃない、それは正に連帯の精神だった。日本も捨てたもんじゃない。こうした「草の根」が確実に育っているのだ。今後ともよろしくお願いいたします。
ところが、アイスランドで火山が爆発、その火山灰で欧州路線が混乱している。多くの航空便がキャンセルされたそうだ。果たしてご一行はナイロビで足止めになったのだろうか。15日の欧州は6000便が欠航となったと報道されている。空港で待つことなくホテルを航空会社が用意してくれていれば多少とも疲れをほぐすことができるだろうが、心配なことである。
Le 12 avril 2010, lundi
日本からMarie-Jean(「日本カタンが協会」キュング会長夫人)を尋ねて4人のお客様がみえた。Tさん、Iさん、Kさん、Yさんの一行だ。東京は世田谷のママさんバレーボールチーム「カリブニ・アマスKaribuni Amaz」の方々。だが、唯のママさんバレーボールチームではない。前日成田を出発、Amsterdam-Nairobi経由、今朝10時半にルブンバシ空港に着かれた。大変な強行軍。
僕はあつかましく海苔を買ってきていただいた。数条というところ、沢山いただいた。極上の焼き海苔であった。恐縮。
昼食後お疲れの4人をつれてシスター・アスンタ佐野さんのところへ。いつものように世界一のコーヒーをいただいた。このコーヒー、フェアトレードを扱うNGOなどで日本販売を考えてもらえないものだろうか。
国立ミュゼ(美術館、博物館)にいってみたが15時で閉館。交渉するも不可。
スーパーSparoでミネラル・ウォータを購入してもらってMarie-Jeanの家に4人を送り届けた。みなさん、ご苦労様。バレーボールを通して、当時外交官として東京に赴任していたキュング一家と知り合いになった。IさんはMarie-Jeanの裁縫の先生でもある由。
果たしてMarie-Jeanの夕食はどうだったろう。僕はコンゴの地元料理があまり好きなではない。それは2006年の賄いのおばさんの所為もあるかもしれない。
Le 13 avril 2010, mardi
Tさん一行にキプシのフォステムFostem小学校で合流。Marie-Jean(「日本カタンが協会」副会長兼事務長)の長兄でイタリアに移民しているStéphane Musengeさんが援助して6年前に設立した小学校。FostemとはFondation Stéphane Musengeの略称。運営は地元にいる次兄のNorbertさん(「協会」の参事でもある)。キプシ市の中でも最も貧しい地区の外れに学校がある。
子供たちが校庭にあつまり合唱で歓迎。可愛い寸劇などもあった。月謝は3500FC(350円)。この授業料は公立(4500FC)やカトリックの学校(30ドル、2900円以上)に比べても安い。しかし、その3500FCすらも子沢山の家庭にとってはかなりの負担になり、支払えない家庭がでてきているという。生徒80余名のうち、十数名は両親がいない環境。祖父母の家から通っている。先生は6人。音楽とか算数とか教科ごとに分かれているのではなく、それぞれの先生がすべての教科を教える。この先生たちの給与も滞りがち。
鋼鉄製の椅子、机は州政府からの寄付。黒板は壁をペンキで黒く塗っただけか、板切れ。トイレがまだない。
それでも全生徒が制服を着ていた。しかし、東京の私立の生徒のような立派な制服ではない。中には半ズボンの裾が縫われていない子もいた。一張羅にちがいない。リュックも鞄も持てず、ビニール・サックにノートをいれている子が多かった。
近所からこの学校の生徒ではない子供たちが、何が起こったのだろうと見物にたくさん現れた。裸足の子が多い。この小さな学校、近所の学校にすら通えない子供たちがいっぱいいるのだ。
小学校というけれど幼稚園もある。小学校は今のところ5年まで。来年6年生ができる。そこで教室を増設しているところだ。土台だけが出来ていた。
小学校の歓迎と見学が終わったのが14時。Tさんたちが乗っていた車、『日本カタンガ協会』会長のキュングさんがどこからか借りてきて運転していた車がバッテリー・トラブル。これで昼抜きになってしまった。さらに保険証に問題ありとキプシ入り口で免許証などを取り上げられていたため、ルブンバシに同じ車で帰れない。Tさん一行に僕の車に乗り換えてもらって、僕の家にも立ち寄っていただいた。そしてマドンナと対面。マドンナは日本女性から撫でてもらって大興奮。お腹を出してあられもない姿をさらしてしまった。
UniLu(ルブンバシ大学)で柔道見学。大学の寮の一角に柔道とボディービルディングの部屋があった。Tさんたちにもご同行願った。
10名ほどが柔道の練習。指導者は隣国コンゴのブラザビルで柔道2段を取得した先生。一応みんな柔道着を着ていた。タタミはなく、おが屑を六七センチ敷いて、その上にシートカヴァーを載せている。おが屑が飛び散って髪の毛につく。汗をかいた体にも引っ付く。それでも熱心に稽古をしている。規律がよくとれていて見事である。若者たちの真摯なそして熱心な意気が伝わってくる。小さな体躯で加納治五郎の綽名をもつ青年もいた。
僕は「日本からなんとか師範を呼べるように努力したい。まだその工作の端緒で果たしてどうなるか分からないが、いつか国際試合に出られるようにがんばろう」と挨拶、Tさんも「自分がフランスに留学した当時は、フランス人の柔道家は少なかった。けれど、フランスはその後世界チャンピョンを輩出するまでになった。これからの精進できっと皆様の中からチャンピョンがでることでしょう」と激励。
Le 14 avril 2010, mercredi
朝、ネット不調。夜には回復していた。
10時からTさん一行と一緒。
ルブンバシ郊外のRwashiに土産物を買いにいった。マラカイト(仏語、malachite、マラキット)等の土産である。価格交渉に疲れる。僕はセネガルで見たと同じ2枚板の椅子を30ドルで買った。アスンタさんのフランシスコ会にあるようなマラカイトの壁掛け十字架が欲しかったが売っていなかった。特注だそうだ。
昼はギリシャ・サークル。中華も同じ店で出す。僕はラーメンをご馳走になった。本来なら遠来のお客様に奢っていただくのではなく、僕なり「日本カタンガ協会」でお誘いしたい。けれども、僕にも「協会」にもお金がない。本当に辛い。すみません、Tさん。
博物館閉館10分前に寄ったが、入場を断られた。ラストチャンスは明日朝。
街中にアフリカ・デザインの生地見に行った。70年代は日本の商社がろうけつ染めを大量にアフリカに輸出していたが今は中国なのだろうか。正札にはオランダろうけつと書いてある。一体、アフリカ女性の洋服のデザインは原色を使っていて派手であるが、彼女たちによく似合っている。
Le 15 avril 2010, jeudi
断水。昨夜風呂に入っておいてよかった。
ドルが安定通貨としてこの国で通用していることは既に述べた。ところがすべてのドル札が使えるわけではないことが、ここにきて初めてわかった。つまり2004年以降のドル札でないと使用できないのだ。米ドル札の表にseriesXXXXと年号がふってある。どこの店でもこの番号を調べているようだ。2003年を含めそれ以前の札はこの国では使用できない。ではそうした札を持っているときにそうするか。銀行で換えてくれるのか、要チェックである。
3度目の正直、駆け足で国立博物館を見学。Tさんたちと一緒。2006年に僕が来たときからみると展示が情実しているので驚いた。ルブンバシ動物園もそうだったが、この改善は嬉しい。時間がなく一部しか見られなかったが、文化面も疎かにされていないことを認識した。ガイド付き入場料が1 000FC(100円)である。
ママさんバレーボール、「Karibuni Amaz」のTさん一行が帰国の途についた。ケニアのナイロビからの飛行機が3時間遅れた。疲れましたでしょう。パリで英気を養ってください。
Tさん、Iさん、Kさん、Yさん、本当に遠いところルブンバシまで来ていただいてありがとうございました。毎日が予測しない出来事でお疲れになったと思います。でも、子供たちの笑顔はいい思い出としてお忘れにならないでしょう。
ママさんたちが欧州へ旅立って、穴がぽっかり僕の心に開いたようだ。素晴らしい人たちだった。コンゴに対する偏見の「へ」の字も出てこない。コンゴの、カタンガの人々を同じ地球市民として平等にみてくれた。同情じゃない、それは正に連帯の精神だった。日本も捨てたもんじゃない。こうした「草の根」が確実に育っているのだ。今後ともよろしくお願いいたします。
ところが、アイスランドで火山が爆発、その火山灰で欧州路線が混乱している。多くの航空便がキャンセルされたそうだ。果たしてご一行はナイロビで足止めになったのだろうか。15日の欧州は6000便が欠航となったと報道されている。空港で待つことなくホテルを航空会社が用意してくれていれば多少とも疲れをほぐすことができるだろうが、心配なことである。
4月5日~4月11日 du 5 avril au 11 avril 10
le 5 avril 2010, lundi
明日午後、今家を借りている教会の責任者Gaston司教とアポイントをとった。手紙も用意した。この家のごたごた、菜園はジャック神父が管理するとか、使用人小屋は出て行かないとか、通用門を新たにあけるとか、契約を交わしたムラプ神父は本来この土地の管理責任がないとか、種々の問題を解決したい。
水がやっと夕方ちょろちょろと出始めた。僕のところだけが断水だったわけではないようだ。14時、アンドレさんに外に水を採りに行こうと云ったとき、彼はこの町で水の出るところを探しに先行して出て行ったがどこにも水がなかった。それじゃ、待つよりしようがない。
Word2003を使って僕は文章をかいているのだが、これが今朝から調子が悪い。ネットで原因を調べても分からない。ワードパッドなら書ける。MS wordをワードパッドで開くことができたので、今、パッドの方で書いている。それをsaveするとき、word2003でsaveしたファイルに上書きすると、wordとしてsaveされる。なるほどね、しかし、訳がわからない。Wordとワードパッドは同じ穴のムジナか。
Le 6 avril 2010, mardi
Gaston司教に会うためにKafuvuに向かった。ルブンバシの南15km。ルブンバシの郊外は都市が肥大していく中で整備がされていないごみごみした地区になっている。市は区画整理をしたいらしが金がない。郊外を過ぎるととたんに道がよくなってKafuvuまで続いている。15時の約束の前にカテドラルのあるKafuvuに到着した。司教の館で面談した。Gaston司教には1月中旬家の契約時にほんの数分挨拶をしただけだったので顔を覚えていない。私服であらわれた司教は40代後半のはずだが若い。用意した説明書を渡し、賃貸の事情を話した。教会としては家とガレージ敷地を貸したが庭は予定外だという。それでも僕が庭師をいれて整備していることは認識、将来隣の敷地から教会施設を延長するまでは庭を使わせてもらえそうである。また使用人小屋からの出入りには、隣接する教会敷地へ直接アクセスを設ける予定だという。ま、釈然としないが、この家にとどまってもいいかな、引っ越すのも面倒だ。
市役所に日本の市との姉妹都市関係を考えてみようという提案の手紙を出した。「日本カタンが協会」が考える候補地に秋波を送ってはどうかということだ。宇都宮市と仙台市。日本にミッションを送れたらいいのだが、そんな金はルブンバシ市にも僕の協会にもない。どう進めていったらいいのか当惑する。それでも、国の外交では得られない「草の根」の外交が都市間ではできる。しかし、アフリカの、しかもコンゴ民主共和国に対する偏見が日本にはあるだろうから、たとえルブンバシ市から正式文書がでても、日本側が真面目に検討してくれるか全く不明である。
台所にネズミが出た。小さな可愛いネズミだ。とはいえ放ってはおけない。毒はつかえない。マドンナが食べてしまうかもしれないからだ。ネズミ捕りを設けるか。先ずは逃げるのに使った流し台の下の穴を塞ぐことにしよう。
一昨日お会いしたKさんのNGO事務所を訪ねた。大統領官邸の横。広い敷地に2階建ての事務所兼宿舎。雇い人も多く経費が相当かさむと思われる。やはり大きなNGOの財力は違う。僕の協会は手弁当。とても事務所など借りられない。
水は出るには出たがちょろちょろだ。
Le 7 avril 2010, mercredi
塀の修理。レンガを積んでセメントでくっつけるだけ。これで隣から背伸びでもしなければ覗かれない。
ワッフルを作ってみる。卵を泡立てて、そこに小麦粉と砂糖、ベーキング・パウダ、バニラのエッセンス、ミルクをいれて生地をつくる。勘で硬さを調節したが果たして?ワッフル・メーカーから水蒸気が立つ。この蒸気が出なくなったら出来上がりのようだ。自動的に電気が切れてくれるのかどうかわからない。
一応それらしきものが出来た。15個作った。最後の方になると慣れて、プレートに流す生地の量も焼き加減もわかるようになった。うむ、僕も鯛焼き屋ができる。これで朝のコーヒーのときの菓子ができたということだ。フレーバーを変えたり、卵の数を増やしたり工夫ができそうだ。
蟻がいる。どうも彼らが僕を夜中に噛んでいるらしい。ところどころ皮膚の柔らかいところを狙われている。蚊にも時々刺されているが、蚊に刺された痕は明確。ダニなんかにやられるのは嫌だなぁ。Dar es Salaamの虫はダニに違いなかった。
ネズミを一匹抹殺した。子ネズミだ。
水は17時ころに出始めたが勢いがない。しかし昨日よりは圧力がある。22時ごろには相当の水量になった。バスに入れるかもしれない。
夜半になって、凄い勢いで水が出るようになった。湯沸かし器のお湯の温度が上がるのを待って23時半に入浴。久しぶりで快適。
これからの「日本カタンが協会」の作戦をねらなければならない。大学と市役所は様子をみる。スポーツ交流もしなければ。
Le 8 avril 2010, jeudi
また知人が一人亡くなった。日本に帰任したS氏からのメイルで知った。ショックだなぁ。Tさん! 胃癌のためアルジェリアで倒れて、日本で手術、転移もなく癌は克服したらしい。ところが3月末に肺水腫で永眠。あっけなく他界。いかにも土建屋さんの親分という剛毅な雰囲気だけれど、気配りができる暖かい人だった。キャンプをSさんと作っていたときに、Sさんに向かってあることで「それは出来ません」とはっきり断ったのを覚えている。「へいへい、やらせていただきます」と云うかと思いきや、すっぱり断った。いい加減なことを云わない。だからSさんも彼に一目おいていたのだ。
彼の仲間と一緒にアンナバの海に泳ぎにいったなぁ。ウニの上を歩いて棘にさされた部下の足から一生懸命棘を抜いてあげていた。
チュニジアにも、ローマにも行きました。スキクダのジャンヌ・ダルク海岸のレストランも行きましたね。アルジェリア国鉄のランタンを骨董屋で見つけたのは僕です。あれを直して使ってくれたでしょうか。
知人と書いたけど知人以上だった。彼を想って、ワインをあけた。コンゴに来て初めてのことである。
先日はYSさんが逝った。占領史研究家。とくに米軍占領下での日本側の原爆調査について執拗に時間をかけて調べていた。ああいう執念が僕にはない。執念とは持続する力のことだ。『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』は読ませてもらった。
彼のアパートによく自転車でいって一緒に部屋で飲んだ。2007年4月、僕がアルジェリアに渡ってからは没交渉だった。
人の運命はわからない。
Le 9 avril 2010, vendredi
ついてない日だ。朝40枚の書類(ルブンバシ市5ヵ年計画)をスキャンしていて20枚目にPCがダウン。スキャンした画像が消えた。夜、帰宅すると台所が水浸し。水道の蛇口を開けっ放していたからではない。フィルタ浄水器の蛇口が壊れて水漏れしていたのだ。修理が難しそう。さらにネズミ捕りの設置の際に過って手の甲に怪我をした。
Umoja。既報のペットボトルのリサイクルをするNGO。Julienさん。EUから派遣のヨーロッパ人。キンシャサではJICAと共同作魚をしたらしい。ルブンバシでもできないものだろうか。
ACIDHのEmmamuel会長。具体案をまとめて再度コンタクトしてくれることになった。
柔道事情。4月9日14時半、Franklinさんとルブンバシ大学医学部付属病院の内庭で会った。彼はUNILUの医学部眼科のインターン。柔道初段。木陰に椅子を持ってきてくれた。フランクランさんの他に数人が集まった。彼らいわく、3年前に初めてカタンガ柔道大会を開催した。そのときにカタンガ州の柔道クラブ(ルブンバシに6、Kolwezi、Likashiに各1クラブづつあり)を纏めて柔道組合(entente)を組織した。大学のクラブが25名。カタンガ州全体で125名ほどの柔道家がいる。大会のスポンサーを募ったが、ビール会社Brasimbaだけが手を上げてくれた。柔道は残念ながらまだカタンガではポピュラーなスポーツではない。大会会場を借りるお金がないので、街中の空き地を利用した。普段の練習は大学内の柔道場、といっても柔道だけにつかわれるのではなく、体育館の一角を利用しているという。毎週火曜木曜が練習日。タタミ(マット)もフランクランさんが個人負担。段はキンシャサのRDC柔道協会が認定してくれる。柔道にたいする情熱だけが資産。来週13日火曜日に見学することになった。僕は2006年に柔道場らしきところを見学しているが、そこが閉鎖されていたことは既に書いた。キンシャサには日本から柔道の先生が来ているという。なんとかルブンバシにもいらっしていただきたいものである。
午後15時半、シスター・アスンタとルブンバシのゴルフ地区に土地だけを確保して建設ができないでいるフランシスコ会の無料診療所(産科)建設予定地を見学。大使館のK氏はすでにご訪問済。ゴルフ地区といっても途中から悪路だ。かなり高級住宅街からは離れていた。しかし広い。13 000M2以上ある。
信者から10年以上前に土地を寄付されたが、建設できないでいたため、土地を国に接収されそうになった。そこでなんとか土地を塀で囲った。敷地を確定したおかげで接収は免れたが、建設の目処がたたない。資金不足である。先ず産科の診療所をたて、それから徐々に手術施設、病棟、事務所兼宿舎等を建てる計画。産科診療所だけで65万ドルの見積もり。フランシスコ会も自主経営である。本部(フランス)やヴァチカンからお金がでるわけではない。日本財団に申請したが色よい返事をもらっていないという。
見積もりが高い気がする。異なった業者ないしエンジニアに必要材料を見積もらせ、自分で現場監督を雇って施工する方法もある。「日本カタンガ協会」として協力したい。僕が現場に通ってもいいと思うが、それにしてもスポンサーが要る。これから探さなければならない。
出生率が高く、同時に乳幼児や母親の出産時の死亡率が高いこの国では産科の必要性は極めて大きい。ルブンバシ市の資料によれば、乳幼児死亡率は127‰に達する。ちなみに日本のそれは4‰。
Le 10 avril 2010, samedi
昨夜置いた3つのネズミ捕りの内の一つが機能した。小さなネズミが一匹朝死んでいた。他の2台のうち1台は餌においたチーズが手付かずのままだった。残りの1台は餌だけが食べられていた。
前歯が一本折れた。抜けたのか折れたのか。下の左の方。この歯の後ろに(横ではなく後ろに)別の歯があって、これは乳歯から生え変わるときに出てきた乱杭歯。ワッフルを食べているときにぐらっときた。出血はなし。でもこの前歯は乳歯だったのだろうか。いい年をして。いや永久歯なら、これからどんどん歳を経つつ抜けていくのか。嫌だね。
ルブンバシ市の『5ヵ年計画』(2008年10月30日~2012年)をスキャンしていたらまたPCが落ちた。今度はたった5枚スキャンを終わったところで起きた。しかたないから一枚一枚スキャンするごとにテータをsave。数時間後やっと全40ページをスキャンし終わった。ただスキャンするだけでも面倒なのに、連続スキャンができないと時間ばかりがかかる。
名刺印刷をしていたらインクがなくなった。
ガストン司教から電話で、木曜日に行けずごめん、今日午後15時はというから承諾。16時になってあらわれた。私服。よもやま話のついでに、Leonardo Boffの開放の神学についてきいてみた。フランシスコ会のBoffについては知っていた。否定的意見はでなかったが、共鳴もしていないようだった。彼はサレジア会(ドン・ボスコ)だからかもしれないが、ずっと保守的のようだ。
Le 11 avril 2010, dimanche
井上ひさしが亡くなった。4月9日、肺癌。発表は今日。
生前憲法9条の平和精神を一歩進めて「無防備地域宣言」運動を展開していた。
根拠はジュネーヴ諸条約追加第一議定書第59条。
以下に議定書本文を載せるが、翻訳は次にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%98%B2%E5%82%99%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%AE%A3%E8%A8%80
アイデアは面白いが、平和主義とこの条約に基づく無防備都市宣言は直接結びつかないように思う。日本特有のスイスやジュネーヴに対する、あるいはこの議定書の原案を書いた赤十字に対する憧れにも似た無知から来る誤解が原因と思われる。
(Protocole additionnel aux Conventions de Genève du 12 août 1949 relatif à la protection des victimes des conflits armés internationaux (Protocole I), 8 juin 1977.
CHAPITRE V - LOCALITES ET ZONES SOUS PROTECTION SPECIALEArticle 59 - Localités non défendues1. Il est interdit aux Parties au conflit d'attaquer, par quelque moyen que ce soit, des localités non défendues.2. Les autorités compétentes d'une Partie au conflit pourront déclarer localité non défendue tout lieu habité se trouvant à proximité ou à l'intérieur d'une zone où les forces armées sont en contact et qui est ouvert à l'occupation par une Partie adverse. Une telle localité doit remplir les conditions suivantes :a) tous les combattants ainsi que les armes et le matériel militaire mobiles devront avoir été évacués ;b) il ne doit pas être fait un usage hostile des installations ou des établissements militaires fixes ;c) les autorités et la population ne commettront pas d'actes d'hostilité ;d) aucune activité à l'appui d'opérations militaires ne doit être entreprise.3. La présence, dans cette localité, de personnes spécialement protégées par les Conventions et le présent Protocole et de forces de police retenues à seule fin de maintenir l'ordre public n'est pas contraire aux conditions posées au paragraphe 2.4. La déclaration faite en vertu du paragraphe 2 doit être adressée à la Partie adverse et doit déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue. La Partie au conflit qui reçoit la déclaration doit en accuser réception et traiter la localité comme une localité non défendue à moins que les conditions posées au paragraphe 2 ne soient pas effectivement remplies, auquel cas elle doit en informer sans délai la Partie qui aura fait la déclaration. Même lorsque les conditions posées au paragraphe 2 ne sont pas remplies, la localité continuera de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés.5. Les Parties au conflit pourront se mettre d'accord sur la création des localités non défendues, même si ces localités ne remplissent pas les conditions posées au paragraphe 2. L'accord devrait déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue ; en cas de besoin, il peut fixer les modalités de contrôle.6. La Partie au pouvoir de laquelle se trouve une localité faisant l'objet d'un tel accord doit la marquer, dans la mesure du possible, par des signes, à convenir avec l'autre Partie, qui doivent être placés en des endroits où ils seront clairement visibles, en particulier au périmètre et aux limites de la localité et sur les routes principales.7. Une localité perd son statut de localité non défendue lorsqu'elle ne remplit plus les conditions posées au paragraphe 2 ou dans l'accord mentionné au paragraphe 5. Dans une telle éventualité, la localité continue de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés).
風呂あがりでビール。水圧は十分だったが、お湯の温度が上がるまで待てず、ぬるま湯だったが久しぶりでありがたかった。
明日午後、今家を借りている教会の責任者Gaston司教とアポイントをとった。手紙も用意した。この家のごたごた、菜園はジャック神父が管理するとか、使用人小屋は出て行かないとか、通用門を新たにあけるとか、契約を交わしたムラプ神父は本来この土地の管理責任がないとか、種々の問題を解決したい。
水がやっと夕方ちょろちょろと出始めた。僕のところだけが断水だったわけではないようだ。14時、アンドレさんに外に水を採りに行こうと云ったとき、彼はこの町で水の出るところを探しに先行して出て行ったがどこにも水がなかった。それじゃ、待つよりしようがない。
Word2003を使って僕は文章をかいているのだが、これが今朝から調子が悪い。ネットで原因を調べても分からない。ワードパッドなら書ける。MS wordをワードパッドで開くことができたので、今、パッドの方で書いている。それをsaveするとき、word2003でsaveしたファイルに上書きすると、wordとしてsaveされる。なるほどね、しかし、訳がわからない。Wordとワードパッドは同じ穴のムジナか。
Le 6 avril 2010, mardi
Gaston司教に会うためにKafuvuに向かった。ルブンバシの南15km。ルブンバシの郊外は都市が肥大していく中で整備がされていないごみごみした地区になっている。市は区画整理をしたいらしが金がない。郊外を過ぎるととたんに道がよくなってKafuvuまで続いている。15時の約束の前にカテドラルのあるKafuvuに到着した。司教の館で面談した。Gaston司教には1月中旬家の契約時にほんの数分挨拶をしただけだったので顔を覚えていない。私服であらわれた司教は40代後半のはずだが若い。用意した説明書を渡し、賃貸の事情を話した。教会としては家とガレージ敷地を貸したが庭は予定外だという。それでも僕が庭師をいれて整備していることは認識、将来隣の敷地から教会施設を延長するまでは庭を使わせてもらえそうである。また使用人小屋からの出入りには、隣接する教会敷地へ直接アクセスを設ける予定だという。ま、釈然としないが、この家にとどまってもいいかな、引っ越すのも面倒だ。
市役所に日本の市との姉妹都市関係を考えてみようという提案の手紙を出した。「日本カタンが協会」が考える候補地に秋波を送ってはどうかということだ。宇都宮市と仙台市。日本にミッションを送れたらいいのだが、そんな金はルブンバシ市にも僕の協会にもない。どう進めていったらいいのか当惑する。それでも、国の外交では得られない「草の根」の外交が都市間ではできる。しかし、アフリカの、しかもコンゴ民主共和国に対する偏見が日本にはあるだろうから、たとえルブンバシ市から正式文書がでても、日本側が真面目に検討してくれるか全く不明である。
台所にネズミが出た。小さな可愛いネズミだ。とはいえ放ってはおけない。毒はつかえない。マドンナが食べてしまうかもしれないからだ。ネズミ捕りを設けるか。先ずは逃げるのに使った流し台の下の穴を塞ぐことにしよう。
一昨日お会いしたKさんのNGO事務所を訪ねた。大統領官邸の横。広い敷地に2階建ての事務所兼宿舎。雇い人も多く経費が相当かさむと思われる。やはり大きなNGOの財力は違う。僕の協会は手弁当。とても事務所など借りられない。
水は出るには出たがちょろちょろだ。
Le 7 avril 2010, mercredi
塀の修理。レンガを積んでセメントでくっつけるだけ。これで隣から背伸びでもしなければ覗かれない。
ワッフルを作ってみる。卵を泡立てて、そこに小麦粉と砂糖、ベーキング・パウダ、バニラのエッセンス、ミルクをいれて生地をつくる。勘で硬さを調節したが果たして?ワッフル・メーカーから水蒸気が立つ。この蒸気が出なくなったら出来上がりのようだ。自動的に電気が切れてくれるのかどうかわからない。
一応それらしきものが出来た。15個作った。最後の方になると慣れて、プレートに流す生地の量も焼き加減もわかるようになった。うむ、僕も鯛焼き屋ができる。これで朝のコーヒーのときの菓子ができたということだ。フレーバーを変えたり、卵の数を増やしたり工夫ができそうだ。
蟻がいる。どうも彼らが僕を夜中に噛んでいるらしい。ところどころ皮膚の柔らかいところを狙われている。蚊にも時々刺されているが、蚊に刺された痕は明確。ダニなんかにやられるのは嫌だなぁ。Dar es Salaamの虫はダニに違いなかった。
ネズミを一匹抹殺した。子ネズミだ。
水は17時ころに出始めたが勢いがない。しかし昨日よりは圧力がある。22時ごろには相当の水量になった。バスに入れるかもしれない。
夜半になって、凄い勢いで水が出るようになった。湯沸かし器のお湯の温度が上がるのを待って23時半に入浴。久しぶりで快適。
これからの「日本カタンが協会」の作戦をねらなければならない。大学と市役所は様子をみる。スポーツ交流もしなければ。
Le 8 avril 2010, jeudi
また知人が一人亡くなった。日本に帰任したS氏からのメイルで知った。ショックだなぁ。Tさん! 胃癌のためアルジェリアで倒れて、日本で手術、転移もなく癌は克服したらしい。ところが3月末に肺水腫で永眠。あっけなく他界。いかにも土建屋さんの親分という剛毅な雰囲気だけれど、気配りができる暖かい人だった。キャンプをSさんと作っていたときに、Sさんに向かってあることで「それは出来ません」とはっきり断ったのを覚えている。「へいへい、やらせていただきます」と云うかと思いきや、すっぱり断った。いい加減なことを云わない。だからSさんも彼に一目おいていたのだ。
彼の仲間と一緒にアンナバの海に泳ぎにいったなぁ。ウニの上を歩いて棘にさされた部下の足から一生懸命棘を抜いてあげていた。
チュニジアにも、ローマにも行きました。スキクダのジャンヌ・ダルク海岸のレストランも行きましたね。アルジェリア国鉄のランタンを骨董屋で見つけたのは僕です。あれを直して使ってくれたでしょうか。
知人と書いたけど知人以上だった。彼を想って、ワインをあけた。コンゴに来て初めてのことである。
先日はYSさんが逝った。占領史研究家。とくに米軍占領下での日本側の原爆調査について執拗に時間をかけて調べていた。ああいう執念が僕にはない。執念とは持続する力のことだ。『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』は読ませてもらった。
彼のアパートによく自転車でいって一緒に部屋で飲んだ。2007年4月、僕がアルジェリアに渡ってからは没交渉だった。
人の運命はわからない。
Le 9 avril 2010, vendredi
ついてない日だ。朝40枚の書類(ルブンバシ市5ヵ年計画)をスキャンしていて20枚目にPCがダウン。スキャンした画像が消えた。夜、帰宅すると台所が水浸し。水道の蛇口を開けっ放していたからではない。フィルタ浄水器の蛇口が壊れて水漏れしていたのだ。修理が難しそう。さらにネズミ捕りの設置の際に過って手の甲に怪我をした。
Umoja。既報のペットボトルのリサイクルをするNGO。Julienさん。EUから派遣のヨーロッパ人。キンシャサではJICAと共同作魚をしたらしい。ルブンバシでもできないものだろうか。
ACIDHのEmmamuel会長。具体案をまとめて再度コンタクトしてくれることになった。
柔道事情。4月9日14時半、Franklinさんとルブンバシ大学医学部付属病院の内庭で会った。彼はUNILUの医学部眼科のインターン。柔道初段。木陰に椅子を持ってきてくれた。フランクランさんの他に数人が集まった。彼らいわく、3年前に初めてカタンガ柔道大会を開催した。そのときにカタンガ州の柔道クラブ(ルブンバシに6、Kolwezi、Likashiに各1クラブづつあり)を纏めて柔道組合(entente)を組織した。大学のクラブが25名。カタンガ州全体で125名ほどの柔道家がいる。大会のスポンサーを募ったが、ビール会社Brasimbaだけが手を上げてくれた。柔道は残念ながらまだカタンガではポピュラーなスポーツではない。大会会場を借りるお金がないので、街中の空き地を利用した。普段の練習は大学内の柔道場、といっても柔道だけにつかわれるのではなく、体育館の一角を利用しているという。毎週火曜木曜が練習日。タタミ(マット)もフランクランさんが個人負担。段はキンシャサのRDC柔道協会が認定してくれる。柔道にたいする情熱だけが資産。来週13日火曜日に見学することになった。僕は2006年に柔道場らしきところを見学しているが、そこが閉鎖されていたことは既に書いた。キンシャサには日本から柔道の先生が来ているという。なんとかルブンバシにもいらっしていただきたいものである。
午後15時半、シスター・アスンタとルブンバシのゴルフ地区に土地だけを確保して建設ができないでいるフランシスコ会の無料診療所(産科)建設予定地を見学。大使館のK氏はすでにご訪問済。ゴルフ地区といっても途中から悪路だ。かなり高級住宅街からは離れていた。しかし広い。13 000M2以上ある。
信者から10年以上前に土地を寄付されたが、建設できないでいたため、土地を国に接収されそうになった。そこでなんとか土地を塀で囲った。敷地を確定したおかげで接収は免れたが、建設の目処がたたない。資金不足である。先ず産科の診療所をたて、それから徐々に手術施設、病棟、事務所兼宿舎等を建てる計画。産科診療所だけで65万ドルの見積もり。フランシスコ会も自主経営である。本部(フランス)やヴァチカンからお金がでるわけではない。日本財団に申請したが色よい返事をもらっていないという。
見積もりが高い気がする。異なった業者ないしエンジニアに必要材料を見積もらせ、自分で現場監督を雇って施工する方法もある。「日本カタンガ協会」として協力したい。僕が現場に通ってもいいと思うが、それにしてもスポンサーが要る。これから探さなければならない。
出生率が高く、同時に乳幼児や母親の出産時の死亡率が高いこの国では産科の必要性は極めて大きい。ルブンバシ市の資料によれば、乳幼児死亡率は127‰に達する。ちなみに日本のそれは4‰。
Le 10 avril 2010, samedi
昨夜置いた3つのネズミ捕りの内の一つが機能した。小さなネズミが一匹朝死んでいた。他の2台のうち1台は餌においたチーズが手付かずのままだった。残りの1台は餌だけが食べられていた。
前歯が一本折れた。抜けたのか折れたのか。下の左の方。この歯の後ろに(横ではなく後ろに)別の歯があって、これは乳歯から生え変わるときに出てきた乱杭歯。ワッフルを食べているときにぐらっときた。出血はなし。でもこの前歯は乳歯だったのだろうか。いい年をして。いや永久歯なら、これからどんどん歳を経つつ抜けていくのか。嫌だね。
ルブンバシ市の『5ヵ年計画』(2008年10月30日~2012年)をスキャンしていたらまたPCが落ちた。今度はたった5枚スキャンを終わったところで起きた。しかたないから一枚一枚スキャンするごとにテータをsave。数時間後やっと全40ページをスキャンし終わった。ただスキャンするだけでも面倒なのに、連続スキャンができないと時間ばかりがかかる。
名刺印刷をしていたらインクがなくなった。
ガストン司教から電話で、木曜日に行けずごめん、今日午後15時はというから承諾。16時になってあらわれた。私服。よもやま話のついでに、Leonardo Boffの開放の神学についてきいてみた。フランシスコ会のBoffについては知っていた。否定的意見はでなかったが、共鳴もしていないようだった。彼はサレジア会(ドン・ボスコ)だからかもしれないが、ずっと保守的のようだ。
Le 11 avril 2010, dimanche
井上ひさしが亡くなった。4月9日、肺癌。発表は今日。
生前憲法9条の平和精神を一歩進めて「無防備地域宣言」運動を展開していた。
根拠はジュネーヴ諸条約追加第一議定書第59条。
以下に議定書本文を載せるが、翻訳は次にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%98%B2%E5%82%99%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%AE%A3%E8%A8%80
アイデアは面白いが、平和主義とこの条約に基づく無防備都市宣言は直接結びつかないように思う。日本特有のスイスやジュネーヴに対する、あるいはこの議定書の原案を書いた赤十字に対する憧れにも似た無知から来る誤解が原因と思われる。
(Protocole additionnel aux Conventions de Genève du 12 août 1949 relatif à la protection des victimes des conflits armés internationaux (Protocole I), 8 juin 1977.
CHAPITRE V - LOCALITES ET ZONES SOUS PROTECTION SPECIALEArticle 59 - Localités non défendues1. Il est interdit aux Parties au conflit d'attaquer, par quelque moyen que ce soit, des localités non défendues.2. Les autorités compétentes d'une Partie au conflit pourront déclarer localité non défendue tout lieu habité se trouvant à proximité ou à l'intérieur d'une zone où les forces armées sont en contact et qui est ouvert à l'occupation par une Partie adverse. Une telle localité doit remplir les conditions suivantes :a) tous les combattants ainsi que les armes et le matériel militaire mobiles devront avoir été évacués ;b) il ne doit pas être fait un usage hostile des installations ou des établissements militaires fixes ;c) les autorités et la population ne commettront pas d'actes d'hostilité ;d) aucune activité à l'appui d'opérations militaires ne doit être entreprise.3. La présence, dans cette localité, de personnes spécialement protégées par les Conventions et le présent Protocole et de forces de police retenues à seule fin de maintenir l'ordre public n'est pas contraire aux conditions posées au paragraphe 2.4. La déclaration faite en vertu du paragraphe 2 doit être adressée à la Partie adverse et doit déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue. La Partie au conflit qui reçoit la déclaration doit en accuser réception et traiter la localité comme une localité non défendue à moins que les conditions posées au paragraphe 2 ne soient pas effectivement remplies, auquel cas elle doit en informer sans délai la Partie qui aura fait la déclaration. Même lorsque les conditions posées au paragraphe 2 ne sont pas remplies, la localité continuera de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés.5. Les Parties au conflit pourront se mettre d'accord sur la création des localités non défendues, même si ces localités ne remplissent pas les conditions posées au paragraphe 2. L'accord devrait déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue ; en cas de besoin, il peut fixer les modalités de contrôle.6. La Partie au pouvoir de laquelle se trouve une localité faisant l'objet d'un tel accord doit la marquer, dans la mesure du possible, par des signes, à convenir avec l'autre Partie, qui doivent être placés en des endroits où ils seront clairement visibles, en particulier au périmètre et aux limites de la localité et sur les routes principales.7. Une localité perd son statut de localité non défendue lorsqu'elle ne remplit plus les conditions posées au paragraphe 2 ou dans l'accord mentionné au paragraphe 5. Dans une telle éventualité, la localité continue de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés).
風呂あがりでビール。水圧は十分だったが、お湯の温度が上がるまで待てず、ぬるま湯だったが久しぶりでありがたかった。
07 avril 2010
キニアマ・アドヴェンチャー aventure Kiniama
奥の細道。Kiniamaに向かう最後の11kmが上の写真にあるような細道。しかも越すに越せない水溜りもあった。オートバイで1時間以上かかった。
やっとついたキュングさんの農園。キュング夫人(写真下)はインゲン豆を採りいれした。 日誌、4月2日(金)の項参照。
05 avril 2010
4月1日~4月4日 du 1er avril au 4 avril 10
Le 1er avril 2010, lundi
10時、市役所で都市計画局長カララBenze Kalala氏と面談。ルブンバシ市の5カ年計画の全文を入手した。首都キンシャサ市では今年から既にODAが入っていることを述べ、ルブンバシも考えるべきであると提言、局長は大いに乗り気であった。日本の企業が全く進出していないことに懸念をいだいていた。先ず、5カ年計画、といっても前回副市長と面談したとき、また環境部長と会ったときに知らされているように、この5ヵ年計画はほとんど進んでいないが、計画書にある項目で早急に日本として実現できるものがあるか日本の当局に調べてもらいたいと僕は思う。
11時、市の参事官ロバティKabela Lobati氏と面談。姉妹都市について聞いた。ベルギーのリエージュ市とのことは知っていたが、最近隣国ザンビアのNdola市と姉妹都市関係を結んだそうだ。Ndolaはザンビアのカッパーベルト州の州都。銅の鉱脈はコンゴのカタンガ州と隣のザンビアの州とに跨っているから、この両都市の関係は既に深かった。また、南アのヨハネスブルグ市との姉妹都市の話ももちあがってきており、ヨハネスブルグから使節団が今月来ることになっていると。
日本の都市との姉妹関係も出来ることなら推進したいと市当局は考えている。都市間の外交は国家間よりも話が早いし親密になれると期待している。僕から既に副市長に話している宇都宮市と、代案として仙台市に申し込みをしてみたらどうかと話した。正式に文書で提案をしてくれないかとのことなので、「日本カタンガ協会」としてアイデアをぶつけることにした。勿論日本のどの都市からも頼まれているわけではないから、あくまでアイデアを出すといにとどまる。しかし、姉妹都市というと派手な欧米、なたは流行の中国でないと日本の都市はなかなか相手にしてくれないかもしれない。
昨日、一昨日、家にハエが一匹いた。あまり多くはいないが、ハエは蚊に続いて僕の敵である。新聞紙を丸めて叩こうにも新聞紙がない。ルブンバシの中国系雑貨店なら売っているかと思って立寄ったが、ないという。しかし、テニスのラケットとバトミントンのラケットの中間くらいの大きさのラケット型の電気 ハエ取りを勧められた。電池は充電式。アルジェリアで散々中国製の充電式懐中電灯を買ったが、「安かろう悪かろう」で全て粗悪品だった。4000FC(400円)だから仕方ないか。試しに買うことにした。スイッチをいれて、ネットに何かが当たると「パチッ」といって火花が散る。ハエが感電するするんだって? しかし、これはマドンナの玩具になりそうだ。
16時に帰宅してみると、また停電ではないか。参ったなぁ。しかし、18時に回復。今日は夕食をつくれそうだ。
朝食にマドレーヌを買っているが、ゴッフルにしようかと思う。作り方は簡単。小麦粉、玉子、砂糖、水そしてベーキング・パウダーを混ぜて焼けばいいだけの話。道具はジャンボで売っている。とっておけるから作り置きができる。
Le 2 avril 2010,,vendredi
へとへとに疲れた。朝5時起きをしてKiniamaに行ったのである。Kiniamaは「キニヤマ」と聞こえる。日本の地名のようだ。丁度僕が住んでいるKipushiからルブンバシを挟んで対極にあるザンビアとの国境の村である。ルブンバシから北北東に125km。この村にキュング氏が83年に手に入れたという22haの農園がある。そこをキュング夫妻と彼らの親戚でもある僕の庭師アンドレさんと訪問見学するドライブだった。しかし、それはザンビアの山越えをした3月18日に続いて悪夢の紀行となった。
道は空港の裏手を回るようにして続く、舗装はされていないが比較的整備ができた道である。場所によっては120kmで走行できた。しかし、Kiniamaの手前11kmで、橋が壊れていて車でアクセスできない。オートバイの後ろに乗るか歩行しかない。壊れた橋の手前の部落でオートバイ2台を借りた。運転手つきである。運転手にしがみついていないと振り落とされる。以前はKiniamaまで車が通れたそうだが、橋が壊れてから10年以上経つ。道は最早オートバイがやっと通れるだけの幅しかない。雨季の所為で水溜りがところどころにある。オートバイの性能も悪く人が乗ったままでは越せない水溜りもある。その場合は水溜りの中を歩かなければならなかった。こんなことをしなければ行きつけないとは聞いていなかった。どんだaventureである。11kmを超えるのに1時間以上かかった。途中に部落が点在する。電気・水道がない。いかにも旧来のアフリカというイメージのパヨット(藁葺き屋根の四画や丸の家、壁は土)である。パヨットを僕は非近代的な未開の家とは思わない。気候にあった生活の知恵が生み出した家でもあるのだ。
Kiniamaにも修道院と教会、そして付属の小学校があった。教会は滔々と流れる川にかかる橋の真正面にあり、20世紀初めに宣教師が来た往時を偲ばせる。今は荒れ果てたその横の修道院でAbbee Godefroid Kilimba神父が教区を守っている。彼にはKiniama村に向かう途中の水溜りで会った。神父もヤマハのオートバイを運転していた。初めは神父さんとは分からず、村の若者かと思った。
Kiniamaに向かう途中にlodgeがある。8 000ha(間違いなく8千ヘクタールである)という広大な土地にホテル($150)、レストラン、遊園地、オーナーの自宅等が建設中。一部は完成していた。牛や豚、山羊等を飼っているだけでなく、ダチョウ、ワニなども飼育している。オーナーは在キンシャサのコンゴ警察のトップMumbi将軍(inspecteur général de la police nationale)。150名の従業員が働いているという。しかし、一介の将軍がどうしてこのような広大な土地を取得し開発できるのだろう。とても採算があうように出来ているとは思えない。
やっと20時に帰宅できた。降るほど星が奇麗にみえた。見事。入り口のランプがついていた。しかし水が出ない。それ以上に、マドンナが暴れていた。サロンのカーテンを全部引きちぎってしまった。彼女のヒステリーにも参った。朝からたった一人にされて、外にも出られなかったのだから、マドンナの気持ちはわからないでもない。それにしても気の強いrottweilerである。早く犬小屋を作ってあげないといけない。
le 3 avril 2010, samedi
ワッフル・メーカーを買いにルブンバシにでた以外、一日休暇。
le 4 avril 2010, dimanche
復活祭。paques。
フランシスコ会修道院でお昼をご馳走になった。
15時、在ルブンバシの加藤さんも修道院に来られた。米系NGOで活躍されている方。「The Center for Victims of Torture」(拷問犠牲者のためのセンター)のコンゴ責任者。初めはPwetoに、今はタンガニーカ湖畔の町モバMobaが中心でトラウマをかかえた戦争犠牲者たちのケアにあたっている。避難民というともっと北のゴマなどが有名だが、カタンガ州の東北端もにも戦争犠牲者が多い。それでも今年中に全て帰郷したり、他の土地に移住できるようにしたいと。ルブンバシに事務所を開設、現地には飛行機で通う由。加藤さんはアメリカの大学を出ているが、フランス語も堪能。頼もしい方の知己を得た。
10時、市役所で都市計画局長カララBenze Kalala氏と面談。ルブンバシ市の5カ年計画の全文を入手した。首都キンシャサ市では今年から既にODAが入っていることを述べ、ルブンバシも考えるべきであると提言、局長は大いに乗り気であった。日本の企業が全く進出していないことに懸念をいだいていた。先ず、5カ年計画、といっても前回副市長と面談したとき、また環境部長と会ったときに知らされているように、この5ヵ年計画はほとんど進んでいないが、計画書にある項目で早急に日本として実現できるものがあるか日本の当局に調べてもらいたいと僕は思う。
11時、市の参事官ロバティKabela Lobati氏と面談。姉妹都市について聞いた。ベルギーのリエージュ市とのことは知っていたが、最近隣国ザンビアのNdola市と姉妹都市関係を結んだそうだ。Ndolaはザンビアのカッパーベルト州の州都。銅の鉱脈はコンゴのカタンガ州と隣のザンビアの州とに跨っているから、この両都市の関係は既に深かった。また、南アのヨハネスブルグ市との姉妹都市の話ももちあがってきており、ヨハネスブルグから使節団が今月来ることになっていると。
日本の都市との姉妹関係も出来ることなら推進したいと市当局は考えている。都市間の外交は国家間よりも話が早いし親密になれると期待している。僕から既に副市長に話している宇都宮市と、代案として仙台市に申し込みをしてみたらどうかと話した。正式に文書で提案をしてくれないかとのことなので、「日本カタンガ協会」としてアイデアをぶつけることにした。勿論日本のどの都市からも頼まれているわけではないから、あくまでアイデアを出すといにとどまる。しかし、姉妹都市というと派手な欧米、なたは流行の中国でないと日本の都市はなかなか相手にしてくれないかもしれない。
昨日、一昨日、家にハエが一匹いた。あまり多くはいないが、ハエは蚊に続いて僕の敵である。新聞紙を丸めて叩こうにも新聞紙がない。ルブンバシの中国系雑貨店なら売っているかと思って立寄ったが、ないという。しかし、テニスのラケットとバトミントンのラケットの中間くらいの大きさのラケット型の電気 ハエ取りを勧められた。電池は充電式。アルジェリアで散々中国製の充電式懐中電灯を買ったが、「安かろう悪かろう」で全て粗悪品だった。4000FC(400円)だから仕方ないか。試しに買うことにした。スイッチをいれて、ネットに何かが当たると「パチッ」といって火花が散る。ハエが感電するするんだって? しかし、これはマドンナの玩具になりそうだ。
16時に帰宅してみると、また停電ではないか。参ったなぁ。しかし、18時に回復。今日は夕食をつくれそうだ。
朝食にマドレーヌを買っているが、ゴッフルにしようかと思う。作り方は簡単。小麦粉、玉子、砂糖、水そしてベーキング・パウダーを混ぜて焼けばいいだけの話。道具はジャンボで売っている。とっておけるから作り置きができる。
Le 2 avril 2010,,vendredi
へとへとに疲れた。朝5時起きをしてKiniamaに行ったのである。Kiniamaは「キニヤマ」と聞こえる。日本の地名のようだ。丁度僕が住んでいるKipushiからルブンバシを挟んで対極にあるザンビアとの国境の村である。ルブンバシから北北東に125km。この村にキュング氏が83年に手に入れたという22haの農園がある。そこをキュング夫妻と彼らの親戚でもある僕の庭師アンドレさんと訪問見学するドライブだった。しかし、それはザンビアの山越えをした3月18日に続いて悪夢の紀行となった。
道は空港の裏手を回るようにして続く、舗装はされていないが比較的整備ができた道である。場所によっては120kmで走行できた。しかし、Kiniamaの手前11kmで、橋が壊れていて車でアクセスできない。オートバイの後ろに乗るか歩行しかない。壊れた橋の手前の部落でオートバイ2台を借りた。運転手つきである。運転手にしがみついていないと振り落とされる。以前はKiniamaまで車が通れたそうだが、橋が壊れてから10年以上経つ。道は最早オートバイがやっと通れるだけの幅しかない。雨季の所為で水溜りがところどころにある。オートバイの性能も悪く人が乗ったままでは越せない水溜りもある。その場合は水溜りの中を歩かなければならなかった。こんなことをしなければ行きつけないとは聞いていなかった。どんだaventureである。11kmを超えるのに1時間以上かかった。途中に部落が点在する。電気・水道がない。いかにも旧来のアフリカというイメージのパヨット(藁葺き屋根の四画や丸の家、壁は土)である。パヨットを僕は非近代的な未開の家とは思わない。気候にあった生活の知恵が生み出した家でもあるのだ。
Kiniamaにも修道院と教会、そして付属の小学校があった。教会は滔々と流れる川にかかる橋の真正面にあり、20世紀初めに宣教師が来た往時を偲ばせる。今は荒れ果てたその横の修道院でAbbee Godefroid Kilimba神父が教区を守っている。彼にはKiniama村に向かう途中の水溜りで会った。神父もヤマハのオートバイを運転していた。初めは神父さんとは分からず、村の若者かと思った。
Kiniamaに向かう途中にlodgeがある。8 000ha(間違いなく8千ヘクタールである)という広大な土地にホテル($150)、レストラン、遊園地、オーナーの自宅等が建設中。一部は完成していた。牛や豚、山羊等を飼っているだけでなく、ダチョウ、ワニなども飼育している。オーナーは在キンシャサのコンゴ警察のトップMumbi将軍(inspecteur général de la police nationale)。150名の従業員が働いているという。しかし、一介の将軍がどうしてこのような広大な土地を取得し開発できるのだろう。とても採算があうように出来ているとは思えない。
やっと20時に帰宅できた。降るほど星が奇麗にみえた。見事。入り口のランプがついていた。しかし水が出ない。それ以上に、マドンナが暴れていた。サロンのカーテンを全部引きちぎってしまった。彼女のヒステリーにも参った。朝からたった一人にされて、外にも出られなかったのだから、マドンナの気持ちはわからないでもない。それにしても気の強いrottweilerである。早く犬小屋を作ってあげないといけない。
le 3 avril 2010, samedi
ワッフル・メーカーを買いにルブンバシにでた以外、一日休暇。
le 4 avril 2010, dimanche
復活祭。paques。
フランシスコ会修道院でお昼をご馳走になった。
15時、在ルブンバシの加藤さんも修道院に来られた。米系NGOで活躍されている方。「The Center for Victims of Torture」(拷問犠牲者のためのセンター)のコンゴ責任者。初めはPwetoに、今はタンガニーカ湖畔の町モバMobaが中心でトラウマをかかえた戦争犠牲者たちのケアにあたっている。避難民というともっと北のゴマなどが有名だが、カタンガ州の東北端もにも戦争犠牲者が多い。それでも今年中に全て帰郷したり、他の土地に移住できるようにしたいと。ルブンバシに事務所を開設、現地には飛行機で通う由。加藤さんはアメリカの大学を出ているが、フランス語も堪能。頼もしい方の知己を得た。