25 octobre 2010

10月24日 le dimanche 24 octobre 2010 «Histoire de la femme cannibale», etc

Le 24 octobre 2010, dimanche
快晴。

7時半ネットがダウン。日曜日に不通になると普段でもクレームの仕様がないのに余計にフラストレイションだ。

庭に落ちえていた犬の糞(ふん、crotte)を拾ったら袋いっぱいになった。やはり先日書いたようにプラスチックの袋が混じっているのが多くみつかった。小一時間かけて拾い集めた。ドリ君にやってもらう作業だが、ちょっと集めるともう終わり。なかなか庭全体の分が終わらないから僕が自分でやった。ドアの取っ手やビンの王冠などもまだ残っていた。ジャカランダ花やマンゴの木の枯葉はかまわない、いずれ土に返る。しかしプラスチックは駄目だ。

昼はニンジンのサラダ。といっても生ではなく、塩で茹でて、オリーヴ・オイル、ヴィネガー、ガーリック・ソースで和えた。それと昨夜炊いて余ったご飯でチャーハン。ま、上手くいった。ニンジンは南アからの輸入。ニンジンも作れない農業ではRDCも困るなぁ。家の裏庭でさやインゲン、トウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、ジャガイモ、唐辛子、トマト、ナス等を作る予定。ドリ君が栽培するといっているが果たして雨季になったら芽がでてくるのかな。

夕方6時15分、雨が降り出した。空の半分は雨雲だが、遠くは夕焼け。でもこれで涼しくなる。ところが家は断水中。雨は15分で止んでしまった。

アボカドのいいのに当たらない。まだシーズンではないとはいえ、出回りはじめて見つけるのに苦労しなくなったが、固かったり、半分腐っていたり、最近全然いいものがない。値段もまだ一個1000フラン(100円)。最盛期の倍だ。家にはアボカドの木がない。今月初めから食べる度に種をとっておいて、芽がでたら植えようと思っているのに芽がでない。アボカドを育てるのは簡単だときいているのだけど、不可思議だ。


Maryse Condé『Histoire de la femme cannibale』を読了。今回はちょっとインチキをして読んだ。というのは、主人公Rosélieが20年連れ添った夫Stephenが殺される。舞台は南アなので、頻繁にある強盗殺人事件かと思われたが、どうもそうではない。そんな風に物語の仕立てがスリラーにもなっている。だが、なかなか原因がわからない。14章まで進んでも夫とのエピソードがめんめんと続く。そこで、最後の20章を読んでしまって、そこから19、18章と戻ることにしたのだ。夫が殺された原因は僕の想像を超えていた。だが、戻りながら読むとよくわかる。なるほど、複線がいろいろとあったのだ。
この小説は、しかし、スリラーというよりも極めて質の高い教養小説である。普通ではローラン・バルトRoland BarthesとかサルトルSartreとかモンテーニュMontaigne、セゼールCésaireなど簡単には出てこない。芸術(文学、映画、演劇、絵画、音楽)の趣味も高く読み飛ばすのは難しい。別の言葉でいえば西欧の中産階級インテリ世界がグアダループ、パリ、NY、ケープ・タウンを背景に描かれているのである。アパルトヘイト廃止後の南ア社会の現実もある。多少東京も出てくる。夫が大学の文学部の先生、主人公は画家という家庭。単なる白人の夫と黒人の妻という人種ミックスではない。
コンデは『セグ』を初め歴史小説を書いているが、この小説は現代、21世紀における彼女の集大成ではなかろうか。自伝的要素も否めない。
各章の書き出しは本当に上手い。コンデが60代後半に入ったときの作品で彼女の人生観がよくでている。かといって老成した嫌らしさはない。回想場面にはプルースト的感性がある。次のノーベル賞作家ではないかと思う。
さて、どうして「Histoire de la femme cannibale」なのか。これを頭にいれてずっと読んできたが、どうもよくわからない。主人公ロゼリーが食人cannibaleということだが、第5章でフィエラという見知らぬ女性が最愛の夫を殺害してその肉を食すという事件を新聞で読み、この女性と自分とを同一視する。フィエラに語りかける文章が何回もでてくる。そして終章で自分の描いたタブロに向かって「Fiéla, est-ce toi ? Est-ce moi ? Nos deux figures se condondent. フィエラ、これは貴女なの、それとも私、私たちは一つになるのね」というのである。さらにそのタブロに「Femme cannibale(人食い女)」とタイトルをつける。極めて哲学的な終焉である。
日本でこの小説は翻訳されえないだろう。小説が子供の作文のような単純な作家、たとえば近年の芥川賞作家たちによって書かれる時代になって、膨大な注釈をつけないとコンデのこの作品はちんぷんかんぷんだろう。辞書や注釈がひつような小説は書くなといったのは石原慎太郎だが、そりゃ、慎太郎の小説ではすらすら読めるに違いない、だが無教養、無知蒙昧で「日本、日本」と叫ばれてはたまらない。日本は文化的に沈没してしまう。高校生で鷗外が読めない教育なら、大学などいらない。
もっとも、ルブンバシのCCF(フランス文化センタ)の貸出し記録をみると、コンデのこの本を借りたのは今年になって僕が初めてだから、多くの読者をコンデがもっているともいえない。「食足りて」の食できゅうきゅうしているのだから、コンゴ人が読書をしないのは致し方ない。でも、中にはコンデを紹介してくれたアラン君のような若者もいる。それが希望だ。

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