16 août 2012

8月16日流行歌・演歌について chansons japonaises et/ou Enka



Le jeudi 16 août 2012
快晴。7時、21℃、45%

快眠だった。朝は忙しいのが常。マドンナやチーコちゃんたちの食事に始まって、自分の朝食、洗濯、掃除。掃除といっても全部屋を掃除していられないから、部分だけれども、モップを使う。一昨日Canal+の技師たちには土足で家に入ってもらったので土埃が少し溜まっていた。昨日車のパーツを買うついでに中国製の安いサンダルと買い求めた。2足で2500フラン(250円)。外から家に入るときこのサンダルに履き替えてもらおうという僕の魂胆だ。今日は木曜日断水の可能性の高い日だから作業を急いだ所為もある。
ついでにマセドニア(フルーツサラダ)の最近デザートに採用しているゼリーを作ってしまった。今日のセリーはチェリーの香りと色。だから色は赤だが、これは固定観念による赤だろう。欧州製品だから着色が毒ではないだろう。まぁ、毒だとしてももう僕は構わない。もう充分長いこと生きてしまっている。
次のデザートにはクレーム・カラメルを作ってみたい。

今日予定していた車の修理は明日に延ばした。修理はまだ続く。昨日の修理(シリンダ・バネの取り付けゴム交換)に付き合っていて疲れちゃった(同時に飽きてしまった)。シスタ・アスンタさんからディロロ(アンゴラ国境の町)まで行けるかどうかという話があった。600Km位しかないけれど、2日か3日かかる。ルブンバシから450Kmのムチャチャまでは何とかアクセスできる道だが、あとはかなり酷い悪路だという。ディロロにはフランシシコ会の学校、診療所、修道院などがある。休暇に来ていたディロロのシスタたちが任地に帰るのである。僕は25日以降なら行ける。それでは第一陣のシスタには遅すぎるようだ。でも25日以降にも機会を作っていただけそうだ。となると車は完全に修理しておかなければ行けない。

三波春夫
僕はこういう姿を見るとカッコいいというよりも
笑いがこみ上げてくる。
彼が真剣に歌えば歌うほど
「止してくれ」と思うのである。
先日facebookのコメントで次のような質問を僕が何時も世話に案っている猪野修二さんから戴いた(814)。「東京オリンピックの歌は嫌いだった。歌手いたのは下品そのものの歌手だった」という僕の発言に対する質問である。
先ず質問を下記に引用する。
「それから、東京オリンピック嫌いで東 京音頭を歌った
南春夫が下品とおっしゃる。それで加藤周一に同感する。加藤はともかく田辺さ んのいう演歌歌手の下品さを、私がわかるようにわかり やすく説明してくださ いませんか。ほんとうにそう思う。私は演歌はどれも嫌いではない。いいじゃあ りませんか。「ああ上野駅」「別れの一本杉」な ど。そういえば、斉藤深爾が 『美空ひばり伝』講談社のなかで、演歌が好きか嫌いで、インテリかどうかの別 れ目と、見られた時代があったと。これは おかしいね。ねつ造文化です。おそ らくこれは誰も田邊さんには、その毒舌と存在の大きさゆえに、聞けない質問だ と思う。だから私が泥をかぶって 買って出て聞いています。つまり上品、下 品ってなんですか。下品、下品とおっしゃるが、では、上品なるものを具体的に
挙げてほしいとも思う。あま り聞いたことがない。長くなってごめんなさい」

先ず、前提として父健一のことを書かなければならない。僕が流行歌ないし演歌が好きではないのは父の影響だろうと思われるからである。そして健一が流行歌を嫌った理由は加藤周一が流行歌を毛嫌いした理由と同じであったろうと考える。前にも書いたが健一は1917年生まれ、加藤周一は1919年生まれである。僕は家でラジオからも、他の家からみれば遅くなって接したTVからも、あるいは、父が時々つれてきた大学生たちから流行歌を聞いたことがない。例外的な歌はあったかもしれないけれども、健一が流行歌を口ずさむのを聞いたこともない。僕も、音痴だが、先ずラジオから流れる歌で歌ったといえば『笛吹き童子』の類だけだったろう。『炭坑節』などを夏休み過ごした東京で習っても仙台の家で歌ったことがない。流行歌を歌って怒られたことがあるわけでもない。歌ったことがなかったのである。年末の紅白歌合戦も日本で僕は見たことがない。ある日系の会社のスイス法人で働いていたとき、一度ジュネーヴで「紅白」をスクリーンで見たが感動は全くなかった。今でも見たいと思わない。
健一の子供に対する教育はスパルタで小学校の6年生までよく尻を打たれた。しかし、頭を殴られたことはない。それも父の教育方針だったのだろう、僕が中学生になったその日から同じ悪さをしても父はもう手を出さなかった。中学生になって僕の方が力が強くなって父が仕置きを諦めたということではないとはよく僕にも分かった。
健一は戦争に行っていない。戦時中、「日本は負ける」とよく研究室や友人たちに話していたそうである。健一は東京帝大理学部地理学教室の研究員だった。兵隊にとられたくなかった。だから体重を落とした。当時は結核がまだ死の病だった。彼が結核に罹ったとはきいていないが極端に痩せて結核を疑われるところまでいって、甲乙どころか兵役検査に失格するようにした。父は府立五中から浦和高校に行き、サッカー部に入っている。だから学生のときは腺病質な青瓢箪の秀才というわけではなかった筈だ。僕が小学校のころは、友達の父親たちはみんな戦争に行った経験があった。僕の父にはそれがなく、不思議だったし、また友達や学校の先生とも戦争の話はできなかった。父が戦争を回避した、戦地に行くことを消極的に拒否した行動をとっていたとは知らなかった。ぼくはそんな健一を尊敬する。よくぞ戦争の行く先を見極めたと思う。世間や軍、いや一億総反米のときに、親米ではないにしても、米国と戦争をする愚かさを知っていたのだから。
健一は軍歌も嫌いだった。その歌は、小学校や中学校、さらに高校、大学の友達たちの戦死を思い出させたろう。戦地に若者を駆り立てた政府や軍のことを、無責任な先輩たち、同輩たちを思い出させたに違いない。
敗戦後、19458月、俄かに1億総民主主義者になった日本では、誰が戦争を始めたのか全く反省されなかった。軍部、関東軍が悪かった。国民は真実を知らされなかった。等々の声が聞こえたが、兄弟を戦場に送ったのは他ならぬ国民自身であったとは認めたくなかった。
全てが同じ方向を向いたときに、何か胡散臭い、おかしいと思うのがインテリである。日常、真実が何かを求めるのが学者である。発見したと思った真実が、果たして本当に真実なのかを疑うのがインテリである。その意味で健一はインテリであった。
流行歌はまさにみんなが歌いやすく、感動し、共感しなければ流行歌にならない。しかし、多くの日本の流行歌は感情の吐露、流れに身を任せる。そこからは個人の「抵抗」のエネルギーは出て来ない。左翼のデモのときに歌われる闘争歌にしても、集団心理の鼓舞か扇動である。ナショナリズムを煽った戦前にあって、流行歌が果たした役割も自ずと見えてくる。多くの流行歌が軍部によって禁止されたのも事実である。しかし、軍部が禁止したのは、戦意を高揚しない、戦意を殺ぐという理由で禁止にしたのであろう。ある歌が反戦的であるとして差し止めたのではなかろう。
流行歌の背景にあった、もしかすると尚ある日本のメンタリティー、日本の精神構造がインテリにあって流行歌を忌み嫌わせたのだと思うのである。その精神構造の担い手がほかならぬ流行歌手なのだ。無反省な追随のために起こった戦争、それには何も好戦的な歌詞などいらない、無情な人生、母親の無垢な愛でもいい、なにかをがんばろうでもいい、とにかくみんなで同じ方向を向いてくれればいいのだ。
この考えには「大衆」に対する、「民衆」に対する抜きがたい不信がある。しかし、それがインテリである。「大衆」に迎合する学者もとくに戦後は左翼系に多かった。その迎合を下品という。流行歌を歌う歌手は下品なのが多いということになる。
上品、下品については別の事情が僕にある。それは次回に検討する。


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