29 janvier 2013

1月28日 ポート・サイド(エジプト)の暴動 Egypte - Les (vraies) raisons de la colère


Le lundi 28 janvier 2013
6時、曇り、23℃、70%

RDCコンゴのレジデント・ビザが来月半ばに切れる。延長手続きを18日から始めていた。やっと今日要求された書類を整えてDGM(出入国管理局)に提出できるまでになった。仲介は運輸省の既知のアントワーヌさん。車関連だけでなく通関からDGMまで当局との書類関係を一切彼に任せている。彼は顔がひろいので、シスタ・アスンタ佐野さんがアントワーヌさんを信頼していて、彼女を含めて修道院の人々の公的書類関連を全て依頼している。それに僕もならったのである。今回のビザでも、直接DGMに行けばいくら請求されるかわからない。キプシのDGMでは1150ドル以上かかるといわれた。アントワーヌさん経由で総額875ドルである。内訳も一応はっきりしている。3年前は1600ドル以上DGMに払った。宗教関係者は500ドルで5年のビザを受け取れる。僕は「普通滞在ビザvisa de l’établissement ordinaire」で700ドル+キンシャサへの旅券送料100ドル+申請書類(2通)代金50ドル+銀行手数料25ドルだ。何処までが真実か不明。でも3年前のほぼ半額になった。
サレジア会のマゴーネ校でボランティア授業をしているドミニクさんは、半年ビザを伸ばそうとして900ドルといわれたそうだ。タリフはあってなきが如し。ドミニクさんは校長に相談してサレジア会からビザを申請してもらうこととし500ドルになった。
滞在ビザに法外な料金がかかり、しかも透明性がない現在の状態は改めねばなるまい。タリフを明らかにし、DGMの事務所入り口に貼りだすなり、パンフレットにして外国人に渡すなりといった行政サービスをすることが当り前にならなければならない。

13時半、アントワーヌさんから電話で、NPOの定款、設立許可状等NPO関連の書類の写しが必要だという。そんなことは前からわかるはずじゃないか。いまどきになって。仕方ないから家でそれらをコピーした。今日午後か明日朝彼の事務所に持って行こう。
ところが更にDGMは無犯罪証明書を出せといっているらしい。日本大使館では作成できないと再三アントワーヌさんに説明したではないか。しかし、DGMルブンバシによると、その無犯罪証明書はルブンバシの検事局で作成できるのだという。それなら、僕の住居地であるキプシ市にも検事局がある。そこに聞いてみることにした。
キプシの検事局に行くと「無犯罪証明書は勿論ルブンバシではなくキプシで作成しなければならない」ときた。早速司法官が僕の調書を作り出した。写真は正面と横顔がいる。家の契約書、NPOの定款等々のコピーもまたいるということになった。そして調書代金が50ドル。持ち合わせがなかったのでふたたびルブンバシにもどり、ATMでお金を引出した。無犯罪証明書の代金は10ドル。しかし、これは銀行振込み。なるほど、調書作成費用は司法官の小遣いとなるが、無犯罪証明書発行代金は国庫に入るので銀行振込みなのだ。また余計な出費だ。この無犯罪証明書に数日が浪費される。

RDCコンゴはインド、ブラジル、インドネシアに続いてハンセン病の新規患者数が多い。毎年45000人に上る。ハンセン病は治る病気でかつ伝染性が弱い。しかし、世界どこでも偏見が強いから病気を隠蔽しようとする傾向がある。カタンガ州の2011年の新規患者数は1600名を越えていた。特に東北部のタンガニーカ県に患者が多い。

エジプトはポート・サイドPort Said(スエズ運河の北端の都市)で昨年2月、サッカーの試合を契機として暴動が起こり死者74名を出した。その暴動事件に関与参加したと看做された70名以上のうち21名がポール・サイド裁判所から死刑を宣告された。これに怒った市民が先週から騒ぎ出して32名の死者、300人以上のけが人を出している。さて、原因は裁判の結果だけなのだろうか。
去年2月のサッカー場の暴動は、カイロのチーム「アル・アハリ」であった。カイロとポール・サイドはライバル意識が激しいようで、何かというとカイロを目の敵にする傾向がポール・サイド側にあるとは下記の観測記事(サウジ・アラビアのサイト『アル・アラビア』)である。
そうかもしれない。しかし、カイロとポート・サイドではライバルといっても格が違うのではないか。カイロとアレキサンドリアならわかる。しかし、都市の歴史も規模もカイロとポート・サイドでは違いすぎる。「アラブの春」で逃げ出したモバラク元大統領が独裁者として現役のとき、ポート・サイドの住民が暗殺しようとしたということでモバラクから睨まれポート・サイドが種々の不利益を蒙るようになったというのだ。それは暗殺を計画したのではなく、武器も持たず只直訴しようとしたのが真相だとポール・サイドでは信じられているらしい。他にもポール・サイドのことをカイロが分かってくれないという心理がある。僕はライバルいしきというよりもポート・サイドの市民が抱くコンプレックスだと思う。
今回の暴動は戒厳令を敷いて収まるというものではない。なんらかの政治的調停が必要であろう。即ち社会正義として、小官吏(警察官)が責任を取らされ、去年の暴動を誘発した上層部の責任が全く問われていないこともコンプレックス以上に問題であるに違いない。
ポート・サイドPort Saidはスエズ運河の地中海側の都市
観光地だなぁ。でも今の体制では観光客も
遠のくのが当然だろう。エジプト経済は前途多難。
とすると、国民の目をイスラエルとの新たな戦争にむけるかもしれない。物騒な。

Egypte - Les (vraies) raisons de la colère
Slate Afrique

Port-Saïd meurtrie, mais pour quelles raisons? Le tribunal de Port-Saïd fut l’épicentre de violents affrontements entre forces de l’ordre et manifestants le 26 janvier 2013. Le verdict du procès proclamé, les proches des 21 condamnés à morts ont crié leur tristesse et leur colère à l’encontre d’un jugement jugé sévère, injuste et purement politique.

Le 1er février 2012, 74 personnes étaient mortes à Port-Saïd après un match entre le club cairote d'Al-Ahly et une équipe locale, Al-Masry. Plus de 70 personnes, dont neuf policiers, étaient jugées pour leur responsabilité présumée dans ces violences.

Mais qu’est ce qui a poussé les habitants de Port-Saïd à se révolter? Comment expliquer une explosion de violence aussi meurtrière? Dernier bilan: 32 morts et 300 blessés.

Pour le site d’information saoudien Al-Arabiya, il serait simpliste d’imputer ce bain de sang au seul verdict. Les tensions étaient déjà latentes depuis des années entre le Caire et la ville portuaire.

Port-Saïd, porte d’entrée sur le célèbre canal de Suez, a une forte identité. Le site saoudien rappelle que la ville fut le centre de la résistance égyptienne en 1956 et la cible d’attaques dans la guerre qui opposait l’Egypte à Israël en 1967.

Ville privilégiée par sa localisation et son histoire, Port-Saïd a le sentiment d'avoir été ensuite marginalisée, notamment après la présumée tentative d’assassinat contre Hosni Moubarak. L'assassin présumé était un pauvre homme qui voulait lui porter une lettre et non pas une arme, racontent des habitants de Port-Saïd.

Cette défiance à l’égard du Caire s’est également manifestée sur les terrains de foot. D’où la rivalité légendaire entre l’équipe al-Masry  et al-Ahly.

Le drame de Port-Saïd en février 2012 a été la triste démonstration de cette opposition larvée.

«Les habitants de  Port-Saïd ont souffert de l'injustice dans le passé et ils sentent qu'ils sont en train de payer pour un crime qu'ils n'ont pas commis», analyse Bashir Abdel Fattah, chercheur au Centre Al-Ahram pour les études politiques et stratégiques

 «Les habitants de Port-Saïd ne s’opposent pas au fait de punir les vrais criminels. Mais pourquoi les responsables restent impunis? », confie  Ahmed Awad, un résident de la ville.

Lu sur Al Arabiya

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