15 février 2018

1月8日~31日 ルワンダ Rwanda

le lundi 8 janvier 2018
6時、晴れ、23℃、70%。


熱は引いたが、鼻水が出る。
薬局で咳を抑えるStrepsilsと鼻水écouolement nasalを抑えるActifedを買った。いずれもフランス製。
効果は覿面だった。あまり効果があり過ぎると副作用があるのではないかと心配になる。
急降下する飛行機の中のように耳がおかしくなった。


le mardi 9 janvier 2018
6時、晴れ、24℃、65%。


電力会社Snel支払い。36150フラン(23ドル)。来月は4万フラン以上になるかもしれないが、
ドル換算ではメーター設置前よりも少ないだろう。tant mieux !


le mercredi 10 janvier 2018
6時、雨、23℃、65%。


le jeudi 11 janvier 2017
6時、曇り、24℃、70%。


8時、ルワンダに向けて出発した。休暇。今回は一人旅である。クリスチャンの旅券が今年3月に切れる
。ザンビアもルワンダも有効期間が6か月以上ないと入国ビザを発行しない。6か月前に実質的に失効し
ていまうも同然なのである。新しいパスポートを得るには申請後3か月待たねばならないし300ドルもか
かる。クリスチャンには旅行を諦めてもらった。


当初は昨年9月に行ったザンジバールの北の島、ペンバ島にタンザニアとケニアの国境の町タンガから
フェリーで渡る予定だった。島の浜辺でゆっくりしたいと思ったのだ。しかし、いつものようにバスで
行くとなるとともかく日数がかかる。


計画を立てているうち、ダルエスサラムまで行くなら、念願のルワンダに行きたくなった。ところが
調べてみるとダルエスサラムからキガリ(ルワンダの首都)までは意外と距離がある。1425km。ビク
トリア湖畔のムワンザや、キリマンジェロの麓アルーシャからならキガリ行きのバスが出ていた。ダル
エスサラムからだと場合によって3日かかるようだ。
ネットでダルエスサラムからのバスを調べたら評判が悪い。直通だというのに実は3回も乗り換えが
あったり、時間が矢鱈とかかる。ロンリープラネットの情報では飛行機が安いとあった。なるほど、
バスでも150ドルかかるところが、飛行機でも165ドルとわかった。


ルワンデールRwandairのホームページをみたら、ルサカ(隣国ザンビアの首都)から2時間半で200ドル
だ。ならば、ダルエスサラムまで行かず、ルサカからキガリに飛ぶのがよさそうだ。


RDCコンゴは国内線料金が高い。国際線もヨハネスバーグ往復で1000ドル以上かかる。ナイロビまで
ケニア航空の直行便があるが1200ドル以上だ。
ンドラ(ルブンバシから一番近いザンビアのカッパーベルト州の州都)からルサカまでは往復264ドル
。ルサカまでバスを利用すると15ドル。ルサカには11日中に着く。


ルサカに21時に着いた。ルサカに泊まったのだが、ルワンデールは夜中の1時過ぎに出るフライトが
実はあった。それに乗った方が良かったが、翌日12日19時のフライトにしてしまった。これは失敗
だったと思う。


ルサカのホテルはミカ・ロッジ。今回もすべての宿泊をBooking.comで予約した。悪くないホテル
だったが、夕食のビーフが硬かった。ザンビアは酪農国で良質のビーフがある筈なのに、ヒレ肉とは
云い難い肉だった。


le vendredi 12 janvier 2018
ルサカ、晴れ、キガリ、小雨。


空港に11時に着いた。8時間も過ごせる空港ではなかった。首都の空港にしては貧しい建築だ。今、
中国がすぐ隣にターミナルビルを建築中で、ほゞ完成している。今年中にオープンするだろう。
そうなると首都の玄関として相応しいと思われる。


Rwandairは定刻に到着、出発した。食事内容も良く、乗務員もフレンドリーであった。ルワンダ入国
ビザはインターネットでとれる。僕もネットでビザ申請、OKをもらっていた。査証料金30ドルも
ネットで支払えるが、到着後空港で払う選択をした。入国手続きは非常にスムーズで賄賂請求など
全くなかった。
空港もこじんまりとしているが機能的である。ATMも空港ビルと出たところにあった。


夜なのでホテルに至る街の様子はよく分からなかったけれども、道は極めて良く整備されていた。


「2000ホテル」は中国人経営だった。従業員はルワンダ人。ビルの7階以上がホテルで、2階にスーパー
や薬屋がある。キガリの商業区に建っている。部屋も広く、バスタブがあった。ツイン・ベッド。
スリッパもバスロブも備わっていた。空調がない。ほぼ赤道直下だがむしろ肌寒いのだからエアコンが
いらない。


問題は僕の健康だった。今週初めにルブンバシで直した筈の風邪がぶり返した。呼吸困難で眠れなかった
。「キガリで死す」、それも致し方ないと思った。しかし苦しい。死んじゃうなら矢張りアルジェで
の友人のりちゃん(上田忠彦、通称うえちゅうさんの奥さん)のように心臓cardiaqueがいいなぁ。


le samedi 13 janvier 2018
キガリ、曇りのち晴れ


ルワンダに来たかったのは、ジェノサイドの現場、フツ人とツチ人の現状を知りたかったからである。
それにカガメという国際的には悪評の高い独裁者の国をこの目で見たかったからである。
もう一つ理由がある。それは隣国RDコンゴのゴマ市に行きたいのだ。ルブンバシから飛行機で行け
ないことはない。しかし高額。キガリから北キヴ州は近い。ルワンダ側の国境の町はジセニGisenyi
だ。キヴ湖に面している。


キガリにジェノサイド・メモリアル・センターがある。バイクタクシーで早速訪問した。ホテルの
向かいの丘の中腹の建物はなかなか瀟洒である。音声ガイドをかりてじっくりと館内を回った。
ルワンダの現代史と世界のジェノサイドを案内してくれる。ジェノサイドを如何に避けるかの示唆
もあった。ただ殺伐なジェノサイドを語るだけでなく、客観的にジェノサイドを語っているように
みえる。しかし、現政権(ツチ人)の宣伝であることも確かだ。


ツチ人、フツ人の区別をして植民地統治の道具としたのはベルギーである。もともとフツ、ツチの
区別がルワンダにあったとは思えない。身体的特徴をもって二つの人種に分けた。ツチ人の典型は
現大統領カガメである。ツチは上背があり、小鼻が大きく開いていないなどバントゥ系のフツ人と
違うというわけだ。しかし、これは相対的ではっきりと区別できるものではない。それを無理やり
区別して、身分証明書に人種欄をもうけて統計としてツチ人を少数民族だが優秀だと決めつけた。
ツチ15%、フツ85%とした。


センターの土産物売り場の責任者と話をした。日本に行ったことがあるという彼の身分証明書を見せ
てもらった。今の身分証明書にはフツ、ツチの区別欄がない。国籍としてルワンダ人とあるのみで
ある。国内の人種差別をなくすためには当然の措置だ。ただ、出生地、苗字などから人種を特定でき
るのかもしれない。RDCコンゴの選挙人カードには部族名が記入されている。日本人との混血児たち
の場合、母方の部族名が記されている。その意味でルワンダのカードは前進といえる。部族で就職
活動も制限されるコンゴでも部族名記載を止めるべきだ。


ジェノサイドはナミビア、ドイツのナチ、アルメニア、バルカン半島、カンボジア等であった歴史的
事実である。何時また世界の何処かでジェノサイドが起こるかもしれない。コンゴでは内戦で300万が
殺されたという。バントゥーによるピグミー攻撃も絶えない。人類とは驕った情けない動物である。


le dimanche 14 janvier 2018
キガリ、小雨のち曇り。


呼吸困難の原因の一つに便秘もあると思われた。朝食後ホテルの2階にある薬屋でDucolaxの座薬を
求めた。


ホテルの2階のスーパーは中国からの物産が多いが、そこでルワンダのコーヒーを買った。Gollira’s CoffeeとKivu Bourbonである。ザンビア、タンザニア、コンゴ、ルワンダは良質のコーヒーを産するにも拘わらずホテルに泊まると朝のコーヒーがネスカフェであることが多い。国民にコーヒーを飲む習慣がないのは不思議だ。2000ホテルは紅茶が主流だったがコーヒーもあったのは幸いだった。
このスーパーに中国製の海苔があった。コンゴでは売っていない。海苔の色が緑であったが2袋買い
求めた。寿司の絵が描いてある。


肩で息をしながらホテルのある商業地区を散歩した。高層ビルがいくつもあるが低層も多い。
ホテルで観光地図をもらった。観光地図があるようなアフリカの都市は珍しい。街中でフランス人
夫妻から声をかけられた。通りで地図を開いていたのを認めて、「地図をどこで手に入れたの」と
きいてきたのだ。
フランス人は僕に「フランス語を話すか」と初めにきいた。


ルワンダはドイツが大戦で負けたあとベルギーの植民地になった。ベルギーはフランス語とフラマン
(オランダ語)の国だが統治した国ではフランス語を導入した。1980年代までフランス語が主流だ
った。1984年のジェノサイド後政権をとったカガメ大統領が国語の英語化をはかった。現在の
ルワンダは英語を第二言語にしている。学校ではフランス語授業が義務ではあるが、数学、理科、
歴史等々は英語で教えられている。たしかに通りで、店で、フランス語は通じにくくなっている。
ルワンダは2009年英連邦に入った。フランス語は完全に追いやられた感がする。これにはジェノ
サイドの最中(1984年4月)も、フランスがフツ政権を軍事的に援助した事実が大きく影響している
と思う。フランスはジェノサイドに加担したと判断されたのだ。カガメはアメリカのアフリカ政策の
優等生である。


ルワンダでもRDCコンゴでは街中での移動にはバイクタクシーに乗った。ルワンダでは運転手が
ヘルメットをかぶっている。客は1人しか乗せず、客用のヘルメットを必ず用意していた。安全運転
で事故は1件もみなかった。コンゴでは前に子どもを乗せ、後ろに二人ということも稀ではない。
ヘルメットをかぶった運転手も殆どいない。


le lundi 15 janvier 2018
キガリ、ジセニ、曇り。


9時、バスターミナルに行きジセニGiwenyi行きのバスに乗った。
ジセニはRDCコンゴとの国境の町である。キヴ湖畔。
ネットでは2時間半で着くとあったが、4時間かかるのが普通のようだ。バスは大型もあるが、大半は
トヨタ・コースター。コンゴで使われているハイエースより大きい。座席数しか乗客を乗せない。
コンゴではハイエースに20人乗せてしまう。
道路は極めて整備されていて、排水溝もきちんと出来上がっていた。センターラインも引いてあるし、
左右のラインも引いてあった。高速道路こそないようだが、道路は完璧にメンテナンスされている。
これだけ整った道はザンビア、タンザニア、ケニア、セネガルにも北アフリカ(モロッコ、アルジェ
リア、チュニジア)にもない。


道すがら多くの自転車選手の練習風景に出会った。丘また丘、山また山のルワンダである。これは優秀
な選手が排出しそうだ。いや輩出しているだろう既に。


ホテルは「ビーチガーデン」。新しい建物だがBooking.comに乗った写真が良すぎた。ビーチはホテル
の目の前だ。プライヴェートではない。ビーチに沿ってバーやレストランが並んでいる。部屋は簡素
というよりもプアだった。ベルギーにいたというオーナー、ジャンピエールは親切。しかし、Wifiに
も部屋の調度にも金をかけられない。


キヴ湖は湖水の透明度がなかった。体調が良くても泳ぐ気がしない。砂のビーチにデッキがなくサン
バシングsunbathingが出来ない。天気も優れず太陽が隠れていた。雨季だがルブンバシのように昼間
太陽が顔を出してくれなかった。
キヴ湖の地下から天然ガスが採掘されている。いまのところルワンダ側だけで採掘。コンゴ側は未着手
だ。
マラウィ湖にいるバタフィッシュはキヴにはいず、鯛のようなティラピアと雑魚が漁業の対象。大湖
帯でも魚の種類が違う。タンガニーカ湖には熱帯魚が豊富にいる。
ティラピアはよくルブンバシで養殖している。昼、湖岸のレストランでティラピアを焼いてもらった。
悪くはなかったが特に感激はなかった。


le mardi 16 janvier 2018
ジセニ、曇り。


午前、ジセニからRDCコンゴのゴマに渡った。国境の手続きは簡単だったが、ルワンダへの再入国に
$30がかかる。ルワンダは、僕の準備が悪くマルチビザをくれなかった。
国境の出入国管理事務所の建物がルワンダ、コンゴともに新しいビル、しかも同一建築様式、双子に
なっている。ザンビアとコンゴの国境、カスンバレサも2006年と2010年では様変わりして立派に
なっていたが、ゴマ・ジセニ国境はもっとモダンだ。調べてみるとこれらの建物建設に米国のNPO
がファイナンスしたとあった。


ゴマにはフランシスコ会の孤児施設ツリゼニTulizeniがある。そこのジョルジェット・シスターSoeur
Georgetteに会った。子どもたちは90名、乳児から18歳まで。施設に来た理由は様々だが、コンゴ
東部の今も続く長期戦争(30年以上)が原因だ。乳児のひとりはプラスチックの袋に入て捨てられて
いたそうだ。
フランシスコ会だからローマ教会から豊富な資金を頂いて慈善活動をしているかと思う人があるかも
しれない。しかし、それは間違いである。中世の伝道とは違う。それぞれの宗派、フランシスコ会、
サレジオ会、イエズス会等々、みな独立採算なのである。だからここでは特に学校など教育施設を
運営して資金を作り出す。フランシスコ会の本部ローマからもお金は来ない。ゴマの「ツリゼニ」も
例外ではなく、ゴマの篤志家からジョルジェットさんが寄付を仰いでいる。施設の家賃が700ドルも
する。子どもたちの頭数90人で割れば高くないというが本当は大変な負担だと思う。一つのベッドに
6人以上が寝る。孤児施設というと貸してくれる大家も少ない。自前の施設を建てるために土地を手
に入れたが、建設費がまだ集まらない。長期計画にならざるを得ない。何時できるか見通しがたたない
。追立てを感じながらの毎日という。
独立採算のために10歳以上の子どもたちが、学業の傍ら農園で働いたり、端切れでバッグを作ったり、
木の板を彫ったりして土産物として販売し始めた。なかなか良くできた可愛い品物なので僕も20ドル
分買ったけれど、それでどれだけ生活の足しになるか、これも長い道のりである。
母親が性暴力にあって生まれた子も多い。そういう子を家族は受け入れない。母も子も悪くはない
のに。
子どもたちは出生の経緯を知らない。
僕が「ツリゼニ」に着いたとき、2歳以上の子どもたちがタムタムに合わせてダンスをしていた。
子どもたちの顔は明るい。
賄いや洗濯、掃除のおばさんたちもいた。ジョルジェットさんは彼女たちの給与も払う。ボラン
ティアの人たちだけに頼ってはいられない。ときどきボランティアのひとが来てくれる。事務所の
後ろにボランティアの人のためのベッドルームがあった。僕もボランティアで来たいがこの老体では
かえって足手まといかもしれない。ルブンバシのシスター・アスンタ佐野浩子さんは、実は僕より
3つ年上だが、3か月「ツリゼニ」にボランティアで活動した。
「ツリゼニ」は、ルブンバシのサレジオ会施設「バカンジャ」と違って、乳児から18歳までの男女を
受け入れている。「バカンジャ」は男子だけである。男子のストリートチルドレンが対象だ。去年
今年とルブンバシにはストリートチルドレンがあふれている。カタンガ州の北隣のカサイ州で戦闘が
ありカタンガ州に逃れてきたのだ。サレジオ会は彼らを説得して「バカンジャ」につれてくる。実は
うちのクリスチャンも「バカンジャ」出身者である。10歳の時に母親を亡くしてストリートで寝て
いたのだ。父親は彼が生まれた時に亡くしていた。もう15年も前のことだ。モイーズが知事だった
ころルブンバシではストリートチルドレンを殆どみかけなかった。サレジオ会だけに任せず彼が
ルブンバシの郊外カサパ地区に施設を作ったからだ。首都キンシャサでは少年窃盗強盗団が今も
暴れている。ところが、せっかく「バカンジャ」に入れてもらっても逃げ出す子どもたちも多い。
路上で寝ていてもそこには「なにもしない」という自由があるかららしい。「バカンジャ」では
朝起きればベッドメイキングをし、自分で使った食器を洗ったり、学齢なら授業にでたり、ある程度
規律を守らねばならない。難しい。
ゴマにもサレジオ会が孤児たちの施設を持っている。広大な土地になんと4000人、誇大ではなく
4000人もの孤児の面倒をみている。東部の戦争はもう20年以上続いており、全く無政府状態なので
ある。
サレジオ会は、ルブンバシでも教育に熱心で、多少裕福な家庭の子が行く小中高一貫校「イマラ」、
工業高校「サラマ」、職業訓練校「青年村」等々多数の学校経営をしている。ルブンバシで一番の
病院「ドンボスコ」もサレジオ会に属する。ドンボスコはサレジオ会の創始者である。農園「ジャカ
ランダ」もある。アスンタ佐野シスターのいるフランシスコ女子修道会はルイシャで女子寄宿学校を
経営、ルブンバシの貧しいタバコンゴ地区には施療院や小さな職業訓練所を開いている。ルブンバシ
のゴルフ地区で小学校も始めた。
世界のメディアに載らないからアスンタ佐野シスターのことも誰も知らない。教会のシスターだから、
アスンタさん、ジョルジェットさんの活動は当たり前なのだろうか。アスンタさんはこの世界の果て
コンゴにザイール時代からもう35年も「前線」で奉仕しているのだ。ノーベル賞をいただいたマザー
テレーザに勝るとも劣らないと僕は大いに尊敬している。僕が尊敬しても一銭にもならない。
たまたまルブンバシに来ていただいた日本のA紙のM記者がアスンタさんのことを書いてくれた。小さ
な記事だが心がこもっていたいた。彼はブカブで毎年ノーベル賞候補になるムクウェゲ医師に会って
いる。いつかまたコンゴにいらしたら、ゴマのジョルジェット・シスターも取材して欲しいものだと
思う。センセイショナルな事件じゃないから記事にできないのだろうか。「小さな親切」などと官僚
養成所大学の総長が云えば大きな記事になる。「そうじゃないだろう」と僕は叫びたい。
アスンタさんはコンゴに置き去りにされた日本人を父親とする子どもたちや孫たちに「小さな」手を
毎日差し伸べてもいるのである。
ゴマの話から脱線してきたかもしれない。この項は撮った写真とともにまた改めて書くことにしたい。


le mercredi 17 janvier 2018
ジセニ、曇り。


24日(水)にルサカに帰る予定を19日(金)に早めることにした。体調が優れないことと、ジセニで
のんびりと日光浴を毎日楽しもうと思っていたが、天気があまり良くないしキヴ湖に惹かれる点が
ないことからそう決めた。ネットでRwandairのフライト変更手続きをしたが、ネットの具合が悪く
かなりの時間を要した。変更料金50ドルもネットで支払った。


キガリ一泊のホテルを「ミル・コリーヌ(千の丘)」にした。ネットで予約。映画『ルワンダ・ホテル
』の舞台となったところだ。135ドルと高いが、滞在日程を短くしたので、思い切って散財したのだ。
このホテルの責任者がジェノサイドのとき1000人以上を匿って命を助けたそうだ。


昼食はホテルの向かいにある湖畔のレストラン「タムタム」でとった。砂浜でサッカーを楽しんで
いた若者たちと同じレストランでとなり合わせになった。スワヒリ語を話していたことからコンゴ
から来たと思い話しかけた。30人以上の団体で来ていた。ゴマの携帯電話会社Airtelの社員たちだった。
今日は1961年ルムンバが暗殺された日でRDCコンゴでは旗日になっている。ちょっと国境をこえて
リクリエイションに来ていたのだ。皆明るい顔をしていた。ゴマ市は国連軍、世界中のNPOが集ま
っている。一応平和である。しかし、ゴマ市から100キロも離れれば、北キヴ州はウガンダやルワンダ
の反政府軍、規律のないコンゴ政府軍、マイマイ(武装強盗集団)等が跋扈する無政府無秩序戦闘
地帯である。


le jeudi 18 janvier 2018
ジセニ、キガリ、曇り。


9時、パスでキガリに帰った。


ホテル「ミル・コリーヌ」のプールサイドでランチ。クロック・ムシィユ。


ホテルのサービスは流石良く、レセプションの女性もよく訓練されている。このホテルで呆れたのは、
空港シャトルバスがなく、ホテル駐車場にいるタクシーで空港に行くと$45ということだ。ホテルの
前でタクシーを拾えば15000フラン($17)だ。何を考えているのだろう。予約したBooking.comに
投稿しておいた。


午後、バイクタクシーでキガリを散策した。コンベンションホール、日本大使館、大使公邸、高級
日本料理店、大統領官邸、米国大使館、カテドラル等々。


ルワンダの印象。
キガリは街全体が公園のようだ。いや、見ることのできたルワンダのどこも公園のようだった。
ルブンバシで綺麗に整備されているのは動物園だけ。ルワンダの道端ではペットボトルが落ちている
こともない。警官の姿があちこちで見られたということもない。ルブンバシの方が警官が目立つ。
交差点で警官が金銭を「たかって」いる。
ルワンダは丘また丘、山また山の国。国の北西、ウガンダとの国境、ジセニの北方には富士よりも
遥かに高い山カリシンビがあるけれども、そちらには足をのばせなかった。
丘また丘の、丘の上まで耕作されている。豆、バナナ、マイース、、、。植林もされていている。
農業には厳しい環境にも拘わらず荒れた土地、山肌をさらしているところを見なかった。ルワンダ人
は勤勉なのだろう。そうでなければあんな急斜面まで耕せない。
ルガノ(スイス)でイタリア語を教えてくれたダーリオ先生は毎年夏休みにルワンダに来てボラン
ティア活動をしていた。90年代のことである。先生はルワンダは貧しいけれども「いい国だよ」と
云っていた。当時はフランス語圏だった。
ルワンダの大統領は、憲法を改正して長期政権。僕の会ったルワンダ人のカガメ大統領の評判はとても
良かった。人気がある。独裁には違いない。反対派を抑圧しているのも確かだ。言論の自由が制限
されていると「国境なき記者団RSF」はルワンダをRDCコンゴよりも低く評価している。ジャーナ
リスムが腐っているコンゴの方がましだとは驚きである。
しかし、カガメの政治はある意味で「哲人王」政治ではなかろうか。アフリカに珍しく腐敗
corruptionが少なく、官吏の腐敗は厳しく処分されている。
ルワンダのインフラは素晴らしかった。コンゴのインフラは、独裁者モブツ時代の方がずっと
よかったと云われる。鉄道、舗装道路、郵便、電気、水道が機能していたのだ。
ルワンダは貧困を隠しているともシスター・ジョルジェットからきいた。国境を越えてルワンダ人が
毎日何千人もコンゴにわたり、小さな商売をしたり、コンゴで働いているというのである。コンゴで
は米ドルで支払われるからルワンダ人は「得をする」というのだ。一方、コンゴ人はルワンダでは
働けない、商売(行商)ができないらしい。そうかもしれない。しかし、ルワンダではコンゴ人に
ビザを要求しない。自由に出入国できるはずだ。ゴマには数多の国際NGOや国際機関がひしめいて
いる。コンゴ人にとってそうしたNGOや国際機関で働くことが夢である。給与がコンゴの公務員や
民間と段違いにいいからだ。これらの外国勢がゴマの物価を引き上げている。NGO景気のゴマが隣国
の労働者を惹きつけるのは当然だろう。


ともかくルワンダは庭園だというのが僕が受けた印象だ。


le vendredi 19 janvier 2018
キガリ、ルサカ、キトウェ、 曇り。


キガリ空港はこじんまりとしているが清潔で機能的であった。出国手続きも欧州並みのスムーズさ。
Rwandairは、ブラッセルにも乗り入れている。ということは機体整備が出来ているということだ。
Congo Airはまだ欧州に行けない。Air Franceが機体整備をしているから何れブラッセルかパリに
行けるだろうが。


ルサカについてからパスターミナルまでタクシーでむかい、そのままバスでキトウェに行くことに
した。ルサカに泊まることもない。キトウェで友人パオラさんのところに一泊する。娘さんのタミカ
ちゃん(中学3年生)にはキガリでゴリラの置物をお土産に買って持参。マドンナの娘エリーは獣医
さんのところでお婿さんとお見合いに出かけて不在だった。ところが、エリーは気が強くお婿さんを
ふってしまったそうだ。エリーはロートバイラーとシェパードのハーフだ。
パオラさんの夫はザンビア黒人だ。イタリアも人種偏見が強い。パオラさんは大変な才女だが心が
広い。力強く生きている。
丁度、彼女が用意してくれた食事の最中、RDCコンゴでクーデタが起こったとニュースが入った。
「かもね」と思ったが、明日国境を渡れなかったら困るなと一瞬考えた。ソースはザイール時代の
独裁者モブツの親戚筋らしかった。
結局、フェイクで翌日何事もなく国境を通過することができた。





le dimanche 28 janvier 2018
7時、曇り、24℃、70%。9時には快晴。


オーストラリア・オープン決勝を10時20分からC8チャンネルで中継。フェデレル(スイス)と
チリッチ(クロアチア)。クロアチアもジョコビッチのセルビアも旧ユーゴスラビア。バルカン半島
から優秀なテニス選手が出ているんだなぁ。
試合はフェデレルが5セットフルに戦って優勝した。いい試合だった。


le lundi 29 janvier 2018
6時、曇り、24℃、70%。


le mardi 30 janvier 2018
6時、小雨、24℃、70%。


le mercredi 31 janvier 2018
6時、曇り、24℃、70%。

朝起きたら停電していた。8時、回復。ほっとした。

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