18 mai 2007

Skikda (2) plage de Jeanne d'Arc

Skikda港の東側は石油公団の輸出基地だが、その更に東には延々と砂浜が続く。
Jeanne d'Arc海岸である。海岸に沿う道路の陸地側には別荘が立ち並ぶ。この日は風が強く
白波がたっていた。
Jeanne d'Arc海岸からSkikdaを遠望する。
僕の後ろに見えるのは難破船。もう錆びきっている。

Skikda, le 18 mai 2007

久しぶりに地中海に接した。Skikdaというと一大港湾都市のイメージがある。確かに港および郊外には保税地域が広がっていて、コンテナが所狭しと置いてある。しかし、旧市街はフランスの町であったころを偲ばせる。町の中心はやはり中央郵便局Grande Posteである。

文化会館の壁が面白い。
県庁La Mairieである。右手にある塔からモスケかと思った。休みなので内部を見学できなかったが、
由緒ある建造物である。
県庁前の広場。港に向かった広場は余計な噴水などもなく広々としている。
右手がStoraから見たSkikda。正面がJeanne d'Arc海岸。朝方の曇り空がすっかり青空に。

Hammam Meskoutine/Guelma

Guelma温泉公園にある岩、なにやら言い伝えがある。僕と運転手君。

源泉から流れ出た湯の石灰分が堆積して出来た岩山? 源泉は98度という。
温泉公園の横にある新しい環境施設。おかげで古いHammamの町は淘汰された。
5月11日、主として国内の観光客でごった返していた。
なだらかな、たおやかな丘が続く。Guelmaへの道。

bain maure (hammam classique)

スイカSouika地区の歴史的ハマムHammamの入り口

真ん中の大理石の台で、垢すりよろしく身体を洗ってくれる。
丸い井戸のようなのは水の貯水槽。右手に見えないがお湯の槽がある。
中は全て大理石作り。大理石を貼っているのではない。
ここは通常であれば水蒸気が立ち込めている。

15 mai 2007

Hammam

ほぼ毎日日記をつけているのだが、これまでも、またこれからもブログにはその抜粋を載せていく。

Le 11 mai 2007, vendredi
このところ3日続けて快晴。雲ひとつない。

朝9時15分出発。駅でW君と落ち合いBobakar君のTaxiでGuelmaへ。1時間半でHammam Meskoutine(Hammam Chellala)に着いた。昔から湯治場として有名なところらしいが、今は巨大な観光センターが出来ていて休日とあって大変な込み具合であった。ホテルやバンガローが立ち並んでいる。なんの面白みもない建物である。現在は国立ではないらしいけれどもサーヴスは最低である。昼食をとってから近くの源泉を見にいった。これも写真の方が奇怪な岩や崖の風景を伝えている。実物はただゴミだらけで何ら感激もない。つまらん。Hammam(蒸し風呂)もプールも満員で入れなかった。昔(いにしえ)の温泉町の風情は全く破壊されていた。

同行したW君の悪いところは、「分かっていたんだ」という科白だ。Guelmaの温泉は休日で人が一杯だと「分かっていたんだ」という訳だ。なら何故Telegma(Constantine近くのもっと鄙びた温泉)に行かずにGuelmaを僕がproposeしたたときに云わなかったのだよ。頭はよさそうだが可愛げげがない。この手の人が男女を問わず西欧には多い。アラブ系は殊更である。

Bobakar君は9時15分から15時までつきあってくれて1500DA(2400円)。昼飯をおごったにせよ安い。ガソリン車ではなくシボレーのLPG車である。この国のタクシーには珍しく清潔で手入れが行き届いている。

日本で温泉地に行くことは殆どない。温泉旅館に風情を見出せないからだ。旅館の食事も大嫌いだ。どこも似たり寄ったりで、山間地で刺身などが出てくる。山菜も口に合わない。

Guelfaから15時にはConstantineに帰った。そこで、Souikaの伝統的Hammamに行った。ついていないことに今日は水が出ないので休みだと管理人さんがいう。中の写真を撮らせてもらっただけ。いつか週日でもいいから来てみよう。大理石の蒸し風呂はとても優雅でオスマントルコ時代を偲ばせる。

癪なので家の近くのhammamに行こうとしたら16時というのにまだ女性の時間。通常は女性が午前、午後が男性が入浴する時間割になっているのに。そこで床屋に行って髪を短く切ってもらった。どんどん短くなる。バリカンもつかったが、鋏をあんなにつかっては疲れるだろうに。80DA。洗髪はしてくれない。してくれる高級なところもあるらしい。髭を剃ってもらっている青年はいた。パーマだ、カラリングだといったメニューはない。

やっと17時を過ぎ近所のhammamに入った。シャワーがなく、大きなプラスチックの盥に熱湯に近いお湯と水をバケツで汲んで適当な温度にして、それをプラスチックのコップで汲んで身体にかけるのである。システム自体はSouikaのhammamも同じだろうが蒸し風呂の天井の高さ、部屋の大きさ、ムードが違う。

夜は予ねてU君(当地で知り合った医学生、さずが利発な青年)からきいていたAin SmaraのレストランShouderに行こうとした。が、ここも金曜日で閉店。散々他を探したが適当なところがなく、ConstantineのZone Industrieleまで戻りLe Palm(Eddin)なるを見つけて入った。同僚のT君と一緒。ここは隠れ家的なところでバーがある。ビールもワインも出る。ホテル以外で酒が飲めるのはここだけかもしれない。食事はgrillade。しかし、久しぶりにartichautを優雅に食べた。こんなところでartichautにお目にかかれるとは思わなかった。確かに市場で目にはしていたが。ここで、下請けのE社のSさんから声をかけられた。彼も戒律を破りにこんな場所に来ているのだ。遅くに僕の専属taxiになってきた感がある運転手君Bobakarに来てもらい帰宅。

あちこち飛び回ったように見えるが、朝が早いのでゆっくりとした一日であった。

01 mai 2007

Tiddis, une ruine ruinée

le 1er mai 2007
fête natinale des travailleurs

RDC(コンゴ民主共和国)の記事をAlerte Googleで読んでいるが、今日の記事の中に『キンシャサでは水/電気が贅沢品』と出ていた。その通りだろう。ルブンバシでの生活体験でも水や電気は貴重品だった。ここConstantineでは少なくとも僕の今住んできる住宅地で水なり電気なりが贅沢品というわけではない。キンシャサのことを考えると心が痛む。全ては内戦に続く内戦の所為なのだが何とか早く解決して欲しいものだ。しかし、破壊されたインフラをもとに戻すのは至難の業なのである。

http://www.algerieautrefois.com/Ressources/Constantine/FichiersConstantine/ConstRegPict.php
このサイトを参考に午前中Constantineから十数キロ北にあるHammam Bouzianeに行った。サイトには『Hammam Bouziane, avec ses nombreuses sources thermales, verdure, fraîcheur』(新鮮な空気と緑に囲まれた温泉の村)とある。ところが行ってみると、ハマン・ブジィアヌはConstantineの衛星都市と化していた。確かに1980年代まで温泉らしきものがあったそうであるけれども現在は家内工業的家具屋が目立つぐらいで、村とはいえない雑踏の町になっている。この町の裏手に出れば果樹園が昔の面影を忍ばせないではない。しかしそれもところどころ建設中の住宅に侵食されている。Taxiは約2時間貸切りで500DAであった。運転手君はなかなか愛想のよい青年だったので携帯番号を控えた。

昼食をSNTV ouest(西バスターミナル駅)隣にあるレストラン『Mizania』でとった。今のところConstantineでベスト。破顔しつつ入り口で迎えてくれたのがアセンAhcen氏で、ドアマンと思いきやこのレストランが入っている建物(スーパーなどもある)のオーナーであった。メニューはクラシックであったがサーヴィスもいい。やはりサーヴィス業は民間が受け持つセクターである。パトロンに中華料理や日本料理の店を開くように勧めておいた。土地として高い店なので昼の客はあまりいなかった。サラダ、ステーキ、デザートと飲み物はガス入りのミネラルで1250DA(2000円)は悪くない値段。

午後熱湯の滝Hammam Meskoutineに出かけたかったが114kmと遠いのでローマ遺跡ティディスTiddisに向かった。ローマ遺跡はConstantineのまわりにいくつかある。僕はこの遺跡を知らなかったので行ってみることにした。Jijelに行く国道を左に折れて数キロいった丘陵地帯の一角に遺跡があった。遺跡の前の駐車場にはバスが数台ならんでいた。休日の所為で見学者が多いのかと思ったら、そうではなく、地元のNPO:Association Tiddis(電話054-18-39-54) が文化祭を遺跡の中の空き地で催していたのであった。踊りあり、音楽あり、空手のデモありと多彩なお祭りであったが、ただ祭りというだけではなく、電気がまだ来ていない村Tiddis、道が狭く、遺跡の放置され忘れ去られていることを県に訴える意味もあるのだと村長も兼ねているNPO会長から聞かされた。珍しい日本人だということで、マイクを持たされ会場をとりまく観衆の前で演説を要請されてしまった。致し方ない。民間日本大使くらいのつもりで、ひとくさり外交辞令を述べた。明日の新聞の一面を飾るようなことはないだろうが開発の裏で取り残された村のために一役かうことができれば望外である。遺跡自体は破壊されつくしていた。残念なことだ。いつか再生できることを祈るばかりである。歴史を葬る者は自らを葬るものである。
TaxiはConstantineから数十キロあるので、3時間貸切りで2.500DA。運転手はその道22年のベテランであった。


(その他の画像は追って掲載予定です)。