27 juin 2010

6月23日 le mercredi 23 juin 2010 コンゴの歴史(3) 1histoire du Congo (8)

Le 23 juin 2010, mercredi
快晴。

コンゴの歴史(8)
コンゴ人はよく「昔はよかった」という。年寄りばかりではなく、若い人たちも同じことをいう。何がよかったといって、その昔は独裁者モブツ時代であるが、インフラが少なくともいまよりずっと整っていた、というのだ。ルブンバシには、Kasai州から質のいい農産物(マニョック、バナナ、パイナップル、トウモロコシ等)が豊富に届いていた。魚はモエロ湖から毎日来た。肉はモエロ湖とタンガニーカ湖との間には牧場がたくさんあった。輸入品ではないので物価も安かった。鉄道や道路が機能していた。郵便もそうだ。それに、国営鉱山会社Gecaminesが従業員宿舎を建て、病院を作り、学校を建設運営、水道、電気設備の供給されていた。「昔はよかった」。内戦がすべてを破壊したのである。
しかし、内戦を隣国からの侵入に帰し、モブツ政権の後半の独裁と腐敗に原因を求め、LD カビラの暗殺による短命政権を残念がっていても仕様がないではないか。
民主主義教育は今の若い人たちに徹底している。民主主義とは効率の悪い体制である。しかし、多数決原理を受け入れたかぎり、一歩一歩国家再建に向かうしかないではないか。
閑話休題。
ポルトガルがコンゴに上陸して以来の歴史、16から19世紀半ばまでの歴史が解明されていない。フランス文化センターやルブンバシ大學歴史学教室の図書館などを訪ね、この空白の歴史を埋めてみようと試みたが、刊行されている適当な本がなかった。日本の江戸時代といえば、武士社会から町人社会の文化が花開く重要な時期である。ところが、コンゴの諸王国の歴史も、年代を追って記述できるほどの資料がみつからない。
従って、今のところ、19世紀まで、すなわち探検家スタンレーまで時間を飛ばさざるをえないのである。いずれ資料が入手できたら都度植民地時代以前のコンゴを語ることとする。
スタンレーHenry Morton Stanley(1841-1904)は英国人である。19世紀の英国はリビングストンDavid Livingstone(1813-1873)とスタンレーという二人のアフリカ探検家を輩出した。ただしリビングストンはスコットランド人である。
スタンレーの生涯はドラマチックである。生まれから少年時代、アメリカに渡ってからも不通ではない、南北戦争で捕虜にもなっている、彼を助けたのは筆であった。ジャーナリストとして頭角をあらわした。だからスタンレーがアフリカに行ったのは、英国女王の命令でもなんでもない、ポルトガルやスペインが遠征した大航海時代とはちがう。それは400年も昔の話だ。アメリカの新聞社が、当時アフリカでナイル川の源流を求めて1866年から行方不明になっていた「リビングストンを探せ」とヨーロッパで取材していたスタンレーに打電したのだ。しかしスタンレーは直ぐにアフリカには向かわなかった。出発したのは1870年になってからで、インドのボンベイからザンジバール経由タンザニアに入ったのだ。190名の大捜査隊を編成している。アメリカの新聞社の投資も尋常ではない。そしてついに1871年11月、タンガニーカ湖畔の小村ウジジでリビングストンに遭遇する。そのときの台詞が「Dr Livingstone, I presume ? (Docteur Livingstone, je suppose ?)」。フランス人はこの言葉を、いかにも英国流の慇懃というが、ともかくこのリビングストンとの出会いを書いた本は大ベストセラーとなり、スタンレーは一躍英国でも有名人になった。リビングストンとスタンレーは全く正確を異にする。リビングストンはアフリカにプロテスタントの伝道師として来ていたし、アフリカをこよなく愛し、彼らの言葉を話した。スタンレーは「金と名誉」が目的だったし、アフリカを忌み嫌っていた。そのスタンレーを利用したのがベルギー国王レオポルドⅡ世だった。しかし、それは後のことで、スタンレーは先の成功をもとに、再びコンゴに挑戦する。1874年のことである。今度もアメリカの新聞社がスポンサーについた。タンガニーカ湖からコンゴ川を下り、大西洋岸に着いたときには1987年8月になっていた。これは確かに冒険、探検の名に相応しい。コンゴ川は途中滝があり、ただ船に乗って下っていけば海に出るというような生易しいものではない。キサンガニ(旧スタンレイヴィル)の手前100km、またキンシャサからマタディまでの350kmは滝の連続である。
(続く)

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