21 mars 2011

3月20日東日本大震災 séisme de la Côte Est du Japon du 11 mars 2011

Le dimanche 20 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。

ネット不調。繋がっているようないやいような。ホームページが更新できない。いや2日分をuploadするのに5時間かかった。

昼近く晴れたと思ったら、14時、にわか雨。

昨夜から英米仏によるリビア空爆が始まった。フランス放送では、リビア人がこの空爆を歓迎している様子を伝えた。アラブの民主革命を支援するためのカダフィ攻撃だが、果たしていつまでリビア国民の支持がえられるだろうか疑問である。イラクのようなことになる前に手を引いたほうがいい。

僕は仙台生まれである。大学卒業まで仙台にいた。しかし、仙台には親も親戚もない。両親の疎開先が仙台だった。大学を含め学校時代の友達が仙台にはいる。今回の東日本大震災では今のところみな無事なようである。

ところが、3月5日まで一週間ほどルブンバシに来ていたフリーランサーのジャーナリストSさん、ザンビアに出ていたが、3月11日の大震災のニュースを受けて急遽日本に帰国した。それもそのはず、彼の両親が陸前高田にいるのだ。この町は三陸海岸に位置し、震災で壊滅的な被害を受けた。
以下の記事は『岩手日報』の電子版である。Sさんの父上は勤務先で津波に会ったが命拾いしている。それどころか病院勤務なので救助に大活躍をした。けれども、ご母堂は行方不明だそうだ。心中察するに余りある。Sさんはまだ28歳の青年。帰国後直ぐに震災復興NPOを設立し、現場に入っている。そのダイナミックな積極性は頼もしいが、どれほど辛い思いをしていることか。
落ち着いたらRDCコンゴのこともきっと果敢に取り組んでくれるだろう。

引用開始(『岩手日報』記事)
「不眠不休で使命感貫く 県立高田病院の佐藤副院長」
 
「患者に笑顔を見せることができなくなってしまった」。16日夜に盛岡市の県立中央病院に入院した県立高田病院の佐藤敏通副院長(57)は涙ながらに語った。妻淳子さん(54)の行方が分からないまま、患者や被災者を守り続けた5日間。食事も睡眠も不十分な中、医師としての使命感と信念で診療していたが「体力的にも、精神的にも限界だった」。被災地では同じ境遇の仲間がぎりぎりの状態で診療を続けている。不眠不休の医療現場の疲れはピークに達している。

 「ゴォー」。地震後の大津波はすさまじい音で県立高田病院を襲い、濁流は4階まで流れ込んだ。同病院に入院中で奇跡的に助かった津波災害史研究者、山下文男さん(87)の病室にいた佐藤副院長は、山下さんの「写真を撮れ」の言葉で、その様子を必死にカメラに収めた。

 医師や看護師らは石木幹人院長の指示で組織的に活動。病院の機能維持のための班と救護班に分かれ、患者を守った。屋上に患者を上げ、ドアや棚などを燃やして暖を取り、夜を過ごした。

 淳子さんの行方不明を知ったのは地震発生の翌日だ。外部との連絡手段は、同病院の事務局長が命を投げ出して残してくれた衛星電話のみ。情報がないまま、とにかく目の前の患者を救うことに力を注いだ。
 13日から米崎コミュニティーセンターを拠点に診療活動を開始。竹駒、下矢作、長部の3地区を各チームが回った。「眠れない」「薬がなくて不安だ」などと訴える被災者たち。佐藤副院長は、一人一人の心に寄り添うように「大丈夫ですよ」と優しく声を掛け、肩に手を置いた。

 食事も睡眠も十分ではなく、地震なのか、目まいなのかも分からない。そんな状態を支えたのは「自分にできることはこれしかない」という医師としての信念だった。

 県立中央病院に入院して2日目。抗不安薬を飲んでやっと眠ることができた。しかし、まだ震災を受け止めることができず、悲しみも現実的ではない。20年前に息子、10年前に娘を亡くしている佐藤副院長は「今回も。何も言葉にできない。考えられない」とうつむき、「仲間には申し訳ないという思いがある。院長をはじめ全員が本当にぎりぎりの状態だ」と打ち明ける。

 被災地では病院内で寝泊まりしている医師、津波で自宅が流されたり、家族の安否が不明のまま勤務している看護師もいる。「医師や看護師も被災者。とにかく休ませてほしい」と強く訴える。

【写真上=県立高田病院に流れ込む濁流。建物も車ものみ込まれた=11日午後、佐藤敏通副院長が同病院の4階から撮影】

【写真下=疲れ切った表情で「医師や看護師も被災者。とにかく休ませてほしい」と訴える佐藤敏通副院長=17日夜、盛岡市・県立中央病院】

(2011/03/19)
引用終了

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