快晴。7時、気温23℃、湿度57,5%。
復活祭、Lundi Pâque。
ネット不調。
ブレットboulette(肉団子)を作った。挽肉の中に生卵、パン後、玉ネギ、ニンニク等を入れる。面倒。でも、とっておけるから便利である。
Le mardi 26 avril 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度60%。
復活祭の休暇があけて、隣の小学校の子供たちが登校してきた。五月蝿い。でも、元気なことはいいこにちがいない。ゴミを散らかしてくれるのはいただけない。
19日と20日のブログを更新するのに3時間もかかった。
ネットが午後から全く不通になった。丁度一ヶ月のネット契約も切れる時期なので、キプシのVodashopで$60を払った。しかし、相変わらず不通。どういうことかね。
「コロンゴ航
空」というエアラインが出来るというのはきいたことがあった、カタンガ州で最大の民間会社であろうフォレスト社と2001年に破産したサベナ航空(ベルギー)から出発したブラッセル航空との合弁会社が運営する。旅客機はブラッセル航空が提供するが。この飛行機に対してRDCコンゴの航空運輸当局(ACC)が運行許可をだした。ところがEUの官報にコロンゴ航空の飛行機はEU内運行禁止、つまりブラック・リストに載った。コンゴの保証なんて信用できないというわけだ。世界20各国の269航空会社がこのブラック・リストにのっているそうだ。コロンゴ航空はこの結果を意に介していない様子で、コロンゴ航空の飛行機はEUには入らない、RDCコンゴの国内だけの運行であること、ACCの保証だけでなくベルギーのAOC(Air Operator’s Certificate)を受けていることから問題ないとしている。
コロンゴ航空は、ここ数週間のうちにルブンバシとカタンガ州だけでなく国内各地の航空路線サーヴィスを開始する。
しかし、なにか誤魔化されている印象を拭えない。「ヨーロッパの空港に来てもらっては困るが、コンゴ国内なら、どうぞご勝手に」ということなのか。
国土が広く、高速道路がなく、また鉄道も壊滅状態だから、飛行機で移動せざるをえないRDCコンゴである。地方空港の整備が悪く、航空機の整備も悪いとなれば、事故がおこらないのが不思議ではないか。
もっとも、僕がカラカス(ベネスエラ)やパペーテ(フランス領南太平洋)で乗った飛行機はドアが取れていてなかったし、操縦室との仕切りもなくなっていたが、無事に目的地まで僕を運んでくれた。そう神経質になることはないのかもしれない。
Korongo Airlines, filiale de Brussels Airlines, déjà sur la liste noire
La nouvelle compagnie aérienne Korongo Airlines, filiale conjointe de Brussels Airlines et du groupe George Forrest International (GFI), figure, avant même le début de ses opérations, sur la liste noire des compagnies aériennes interdites d'exploitation dans l'Union européenne pour des raisons de sécurité, indique le Journal officiel de l'UE dans son édition datée de mercredi.
Le JO publie la liste révisée des transporteurs aériens auxquels la Commission européenne impose des restrictions d'exploitation. Cette liste a été révisée mardi par l'exécutif communautaire pour inclure de nouvelles compagnies congolaises et mozambicaines ainsi que deux avions d'Air Madagascar. Elle comprend désormais 269 transporteurs aériens de vingt pays.
Selon la Commission, "tous les transporteurs aériens certifiés en République démocratique du Congo font l'objet d'une interdiction d'exploitation dans l'Union et figurent à l'annexe A (de la liste)".
"Il existe des informations avérées attestant que les autorités congolaises compétentes ont délivré un certificat de transporteur aérien au transporteur aérien Korongo Airlines le 7 janvier 2011".
"Dans la mesure où il n'est pas établi de changement dans la capacité des autorités compétentes de la RDC d'assurer la surveillance des transporteurs aériens titulaires d'une licence dans cet État conformément aux normes de sécurité applicables, il est estimé, sur la base des critères communs, que Korongo Airlines doit être ajouté à l'annexe A", ajoute le règlement européen.
Pas une surprise
Une porte-parole de Brussels Airlines, interrogée par l'agence Belga, a indiqué que cette décision n'était "pas une surprise" et n'empêcherait pas le lancement de la nouvelle compagnie - prévue dans les prochaines semaines ou mois - qui sera de droit congolais. D'où l'obligation de disposer d'une autorisation délivrée par l'Autorité de l'Aviation civile (AAC) congolaise.
Toutes les compagnies basées en RDC figurent sur la liste noire - notamment en raison des déficiences de l'AAC -, mais Korongo opérera avec un AOC ("Air Operator's Certificate", certificat de transporteur aérien) belge et respectera les normes internationales en vigueur en matière de sécurité, a ajouté la porte-parole.
Des avions de Brussels Airlines
Ses appareils, deux BAe 146-200 et un Boeing 737-300, proviendront de la flotte de Brussels Airlines, qui les utilise ou les a utilisés jusque tout récemment.
Et ces appareils ne voleront pas à destination de l'Union européenne, Korongo n'assurant que des vols domestiques au départ de Lubumbashi, le chef-lieu de la province du Katanga et deuxième ville de la RDC, dans l'attente de liaisons régionales.
Le capital de la compagnie est détenu à 50% par Brussels Airlines - née des cendres de la Sabena, qui avait fait faillite fin 2001 - et à 50% par le groupe GFI de l'homme d'affaires George Forrest, actif dans divers secteurs congolais, en particulier minier où il emploie 15.000 personnes, principalement au Katanga, et dans le secteur des travaux publics.
南キヴ州の州都ブカブ出身。1973年生まれ。甘ったるい声で、コンゴのまたアフリカのセックス・シンボル的歌手といえようか。僕は下品な感じがしてあまり好きではない。僕の歌姫はダリダに尽きる。初めてダリダの『ジジ・アモローゾ』を聞いたとき、僕は地中海を見下ろすアルジェの丘の家に下宿していたが、「これだ、僕の求めていた歌は」と思った。歌の舞台はアルジェではなく、ナポリだったが、ナポリも地中海のエッセンスのような港町で大好きだった。バルバラ・カナンの『恋の庭 Jardin d’amour』、『ジャラビ Djarabi』、『マライカ Malaika』、『白と黒Noir & Blanc』、『お金がお金を呼ぶ L’Argent appelle l’Argent』等いずれを聴いてもぐっとくるものはない。「ちゃらちゃら」しているようにみえる。しかし、デビュ以来20年のベテラン、国連からRDCコンゴ大使に選ばれているようだ。
故が子供たちを襲った。昨日のことだ。ゴマ市(北キヴ州の州都、ルブンバシから北東に2600 km)郊外で24名の命が失われた。その多くが子供たちである。家に水道がないため、水を汲みに水源に並んでいた。そこにトラックが突っ込んだのである。水汲みはどこの家庭でも子供たちの仕事である。事故は8時半のことだから、普段なら学校に言っている時間である。しかし、春休み(復活祭を挟んだ休校)で学校がなかったという事情も不運だったといえよう。原因は、トラックの整備不良。ブレーキが坂道で効かなかったためらしい。
本からバイクで旅行中です。キンシャサにいます。アンゴラに向かう予定でしたが、ビザがまだ取れないためキンシャサからルムンバシ、ザンビアへの陸路を考えています。非常に厳しい状況のようなので情報を頂ければと思います。よろしくお願いします」
職追放はアフリカ諸国で政策課題になっている。先週ボツワナの大統領府でも汚職追放ポスターをみた。ポスターを作ったということは、評価の高いガヴァナンスのボツワナでも汚職があるということである。RDCコンゴにいたっては汚職天国といえなくもない。カビラ大統領は「tolérance zero(ゼロ寛容)」といって、「汚職絶対許すマジ」と看板は上げたものの、大統領の側近、家族が国際ビジネスに口をだしてくるようでは、看板倒れである。
シャサのNPO「JED(Journaliste En Danger、危険に晒されたジャーナリスト)」によれば、11月の大統領選挙に立候補している反政府派のカメレ氏(元下院議長、元現大統領側近)を取材していたルブンバシのTV局の記者が警察にカメラをとられ取材を妨害された。4月11日のことである。ルブンバシ警察ではなく、取材先のマニエマ州(カタンガ州の北東に接する州、南キヴ州の西)の警察の暴挙であった。
ヨハネスブルグ空港の免税店は充実している。本屋に立ち寄った。店員に南アの作家でリコメンドはないかと訊いたが、返事ができない。本好きが本屋の店員になるわけでもないだろうが、店員教育はした方がいい。アフリカ・コーナーにあった『They Fight Like Soldiers, They Die Like Children』(Romeo Dallaire著、2010年)を買った。RDコンゴの少年兵の問題ではなくその東隣の国ルワンダでのレポートである。著者ロメオ・ダレールは『悪魔と握手Shake Hands with the Devil』の作者として有名。カナダの軍人でルワンダには国連平和維持軍の責任者としてキガリに赴任。ジェノサイドの危機を声高に叫んだが、誰も耳をかさなかった。それを告発した本が『悪魔と握手』である。現在はカナダ上院議員。1945年生まれ。
夕飯を外で食べたかった。レセプションでは日本食もスペイン料理の店も全然知らない。それでもネットで調べてくれて、Greenstoneというショッピングセンタ内にあるCape Town Fish Marketなる店で寿司や鉄板焼きをしているというので、そこにでかけることにした。歩いていけるところにはレストランはないというので、タクシをつかった。10キロ以上離れているのにそれは近いという。約20分もドライヴしてショッピングセンタについた。規模は大きい、ジ
寿司は、ヌーヴェル・クイージーヌの寿司といったらいいのだろうか、西欧人にあいそうなカラフル且つわりとしつこい味の寿司が多かった。回転寿司だが、プレゼンテイショ
Le mercredi 13 avril 2011
テルの周りを散歩していて、中華料理の店をみつけた。ガソリン・スタンドとスーパーやクラブ(ディスコ)などがある小規模なショッピングセンタに「中国飯店」というのがあったのだ。18時半から22時まで営業。
午後家に帰ると溶接工トントンさんが工事をしていた。大した工事ではないが、塀の目隠しと補強である。マドンナが外に出られないようにする。そうすれば、番犬として夜中は庭に放す。
ゴの歌手
フランス国際ラジオ)によると、RDコンゴの東部では、なお反乱軍との戦闘が行われているが、18歳未満の子供たちが戦闘員として軍に参加している。少年兵による戦闘行為はこの国でも法律により禁止されている。しかし、実際には兵員の60%が、少年兵で構成されているようだ。UnescoやNGOがこの少年兵問題にとりくんでいるが、根が耐えない。モブツ独裁政権を倒したLDカビラ(現大統領J.カビラの父)は、大勢の少年兵を伴ってキンシャサに入城していることは有名である。彼の少年兵たちは極めて規律がとれていて大人の兵隊たちよりも評判がよかったと聞く。しかし、少年兵を雇うことは犯罪に違いない。彼ら少年兵に普通の生活にもどりなさいと云ったところで、兵隊であれば食料が確保できるのかもしれない。戦争をなくし、平和をとりもどせば、彼らは村に帰るか都会に出るだろう。少年兵問題だけを切り離しては解決がない、と僕は思う。
ニアネDjibril Tamasir Niane『スンジャタSoundjata』を読了。153ページ。Mamadou Kouyateというグリオが語るスンジャタ王の叙事詩である。DT ニアネが書き留めた。12世紀末から13世紀初頭にかけての英雄スンジャタ王の物語だ。800年の間、グリオによって語り継がれた。グリオのことだから、歴史家といっても西暦何年という年代は出てこない。西欧の歴史家が、スンジャタ王の生年を1190年、没年を1255年としているだけだ。グリオが一弦楽器でスンジャタ王の物語を歌う、その伝統はよしとして、イスラムの影響が濃い地帯(サハラやサヘル、ギニアやマリ)なのだから、イスラムと同時に入ってきた文字で暦を記録しなかったというのが不思議である。いや、イスラムの歴史家が記録していたので、西欧の歴史家がスンジャタ王の生年を特定できたのだろう。しかし、コンデの『セグ』は18世紀後半から19世紀中葉までのマリ帝国であるが、なおグリオが歴史の語り部として残っている。即ち、アラブのイスラムとアフリカの文化は19世紀になるまで共存してきたのであった。
4)ジベ・ムピアナ JB Mpiana
バマ法」別名「Financial Reform Act」が予定(来年1月1日)より早く、法律の発行前に既に先週金曜日(4月1日)から実施され始めた。先頭地帯で正規のルートを通ぜず行われた鉱物資源取引(金、ダイヤモンド、レア・メタル取引)についての厳しい措置を意味する。RD Congoにあっては、従ってCEEC(鉱物剣先機関)の証明書をとって輸出すれば問題がないということである。これを嫌って、タンザニアやケニア等でコンゴの鉱物を買うことは、バイヤーにとって極めて危険な取引になる。
は独自の空路網をRDCコンゴにもっている。ルブンバシ空港にも、国連機が定期便を飛ばしている。国連はMunucの時代(2000年2月)から平和維持軍をこの国に駐留させている。去年MonucからMonuscoと名称が変わったが、活動は実質的に変わっていない。その国連が始めて航空機事故をキンシャサ空港で起こしたのである。犠牲者32名。1名だけ助かったが重傷。国連の航空機だが、国連職員や国連軍だけが利用しているわけでなない。日本大使館などは、民間虚空より安全であるということから、国連機を優先しているようである。キサンガニ(コンゴ第3の都市)からキンシャサに到着したところだった。今のところ原因不明。テロではなさそうだ。
の歌手。



オロミデ Koffi Olomidé
アフリカ大陸は「音楽の大陸」と呼ばれている。
家に来ていた。夕方になって帰った。彼をtaxi乗り場まで送った。そのとき、家の鍵(南京錠)をかけた。直ぐに帰ると思い錠前はかけなかった。それはいいとして、家の中に鍵を置いてきてしまったのだ。さて、家に入れない。窓は全て侵入防止のため鉄の格子が入っている。サロンから庭に出る戸の南京錠は特別製でちょっとやそっとでは壊せない。台所のとなりの玄関の南京錠は華奢だから壊せるかもしれない。だが道具がない。出入りの建具屋セバスチャンに来てもらおう。電話も家の中においてきたから電話はできない。彼の家は幸いにして知っている。彼の家に行くと、生憎不在。奥さんが彼は街中に仕事で出ているという。その仕事先を漸く見付けて、家に来てもらった。ドライバーとハンマーで玄関の南京錠はあっという間に壊れて床に落ちた。
たカボチャでポタージュを作ることにした。ネットのレシピを見ると生クリームを使っていないが、僕は使用することにする。結果は、まろやかな味で成功。
マリーズ・コンデ『わたし、魔女チトゥーバ Moi, Tituba sorcière,』を終わった。期待を裏切らない面白い作品だった。途中、歴史的事実である「セイラムの魔女裁判」の場面がかなり長く描かれている。作者の想像が制限されるところで、ちょっと退屈した。生まれ故郷のバルバドス島から、夫について清教徒の影響の強いボストンそしてセイラムに移住する、文庫本で278ページの小説だが、最初の50ページと最後の100ページが息をつかせない運びである。最後はコンデ得意の悲劇だ。なかなかハッピー・エンドは用意してくれない。バルバドス島に戻れたものの、黒人奴隷反抗の萌芽としてのマロン運動にかかわりつつ命を落とすのである。マロンについては、コンデ『セグ』第3巻のジャマイカの場面に触れたときに本ブログに書いた。ジャマイカのマロンは19世紀前半、『私は魔女、、、』のマロンは18世紀前半で100年の差がある。