29 octobre 2011

10月24日富永日本大使歓迎! Bienvenu en RDC, S.E.Monsieur l'ambassadeur Tominaga !

Le lundi 24 octobre 2011
快晴。7時、26℃、52.5%。
昼間はかなり暑い。15時、室内32℃、但し湿度は30%。扇風機をつけると涼しい風

新しい日本大使がキンシャサに赴任している。富永純正(とみなが よしまさ)大使。青年海外協力隊OBだそうだ。大使が毎日新聞の記者に対して「大使館に閉じこもっているつもりはない。どんどん地方に出向いて草の根、現場主義を貫きます」とおっしゃったらしい。「らしい」というのは、記事そのものが検索で出てこなかったためだ。見出し記事にそう書いてあった。これはコペルニクス的に前大使とは違うご仁が赴任された可能性がでてきた。初志貫徹されんことを祈る。
(画像は富永大使であろうと思われる。ネットでひろった在モロッコ大使館勤務公使の姿である。今年2月のもの。もし違っていたらご指摘いただきたい)。

今日は脚が痛いだろうと思ったらそうでもない。むしろ腕が痛い。これはロフォイ瀑布に通じる細い道でハンドルを右左にしょっちゅう切らなければならなかった所為だろう。でも、よく寝た。疲れがどっとでた。

10時半、ネット不通。電話も不通。11時15分、回復。
11時半、断水。14時半、回復。

カタンガ州の鉱山のいくつかな出水で休止している。出水そのものが必ずしも休止の原因ではない。出水したら排水すればいいのである。しかし、その作業ができない。下記の記事でキプシの休止もとりあげられているが、キプシはジェカミン社の鉱山である。キプシは出水した鉱山をスイスの会社にまかせたが、スイスが最終的には権利放棄し、現在南アの会社が鋭意排水作業を今年夏からしている。記事の中心はサカニア(ルブンバシから南東に170キロ、ザンビアとの鉄道の国境)の鉱山の出水について批判している。日本がムソシで銅鉱山開発をしたSodimiza(現Sodimico)がロンシ鉱山(サカニア地区)の所有権を巡って訴訟でカナダのクアンタムに勝訴したのはいいが、採掘続行がされず休止しているというのである。Sodimicoは借金だらけの会社で、引き取り手がない会社である。Sodimicoには資本もないし、技術もない。いずれどこかの海外企業にロンジ鉱山を任せなければならないが決定が遅い。ムソシ鉱山も出水している。ムソシは韓国の企業が再開発するとの期待もあったが、契約までにはいたっていない。Gecamines社もSodimico社も去年12月民営化されたが、民営化の成果が全く上がっていない、と僕は考える。以下の記事の論調は厳しさに欠ける。

Noyade de la mine de Lonshi à Sakania au Katanga une année après avoir été cédée à la société Sodimico

La liste des carrières minières noyées sous les eaux ne fait que s’allonger dans la province du Katanga où est signalée actuellement, après la mine de Kipushi, celle de Lonshi située dans le territoire de Sakania et qui subit le même et triste sort d’une déplorable noyade
Après la mine de Kipushi, Lonshi, une autre mine du Katanga dans le territoire de Sakania, vient d’allonger la liste des mines noyées de la RDC. Une année après l’avoir héritée de la Comisa, par un arrêt de la Cour suprême de justice, la Sodimico n’a pas pu faire plus pour sauver ce patrimoine. Après l’arrêt rendu en juin 2010 par la Cour suprême de justice attribuant à la Société de développement minier et industriel du Congo les deux mines de Kishiba et de Lonshi dans le territoire de Sakania, au Katanga, un drame s’abat actuellement sur la mine de Lonshi, jadis gérée par la Compagnie minière de Sakania (Comisa), l’une d’anciennes filiales de la canadienne First Quantum Minerals. Aujourd’hui, la mine de Lonshi n’est plus que l’ombre d’elle-même. Pourtant, il y a quelques mois, la mine était vouée à un avenir prometteur.

Mais, une décision judiciaire a vite compromis ce bel élan. L’on pensait alors que le nouvel acquéreur, à savoir la Sodimico pouvait rapidement insuffler une nouvelle dynamique. Malheureusement, cette ex-entreprise publique, passée depuis janvier 2011 sous statut de société commerciale, a tout l’air de battre de l’aile, malgré la création de la Sodifor, entreprise minière née sur les cendres de Frontier et de la Comisa. La mort à petit feu de la mine doit donc interpeller plus d’un. C’est la preuve de plus de la persistance des pesanteurs institutionnelles qui bloquent la relance de l’appareil minier congolais. Et, c’était d’une certaine manière, une mauvaise publicité sur l’environnement des affaires en RDC.

Les inquiétudes de la Grande Bretagne

De passage fin septembre au Katanga, l’ambassadeur de la Grande Bretagne, Neil Wigan, est largement revenu sur le sujet. Le diplomate a déclaré durant son séjour dans la province minière du Katanga que le climat des affaires au Katanga n’incite pas les hommes d’affaires britanniques à investir dans cette province. Selon Neil Wigan, le climat des affaires n’y est pas attrayant, ce qui explique, pense-t-il, le peu d’investissements britanniques au Katanga. Pourtant, affirme-t-il, certains investisseurs britanniques veulent investir dans le secteur minier.

«C’est important qu’ils [Ndlr : les investisseurs] puissent avoir les exemples des sociétés qui ont réussi pour les encourager à faire de grands investissements», a indiqué l’ambassadeur britannique, ajoutant que certaines entreprises étrangères qui ont investi dans le secteur des mines en RDC ont connu des difficultés. Il a, ensuite, cité le cas de l’entreprise First Quantum à qui le cadastre minier congolais avait retiré les permis d’exploitation.

La mine de Lonshi noyée, la liste des mines perdues dans cet état en RDC, faute certainement d’un management approprié, ne fait que s’allonger. L’on se souvient notamment de la perte de la mine de Kipushi, presque irrécupérable après sa noyade. En sera-t-il également le cas pour la mine de Lonshi. C’est en tout ce qu’il ne faut pas espérer. Cependant, il faut un sursaut d’orgueil de la part de la Sodifor pour rouvrir la mine à l’exploitation. Sinon, la mine de Lonshi sera une mine de plus perdue par la RDC. Car, noyée et irrécupérable à jamais.

Ainsi, à la veille de dix ans du Code minier de 2002, il est temps que le Gouvernement repense sa politique dans le secteur minier. Au cas contraire, le secteur minier ne sera jamais à mesure de servir, comme il se devait en être le cas, de moteur du développement de la RDC. Pour rappel, c’est en septembre 2010 que le Tribunal de grande instance de Kipushi, au Katanga, a procédé, à Sakania, à la récupération des mines de Lonshi et de Kishiba, exploitées alors par Frontier et Comisa Sprl, toutes filiales de la firme canadienne, First Quantum Minerals. C’est la conséquence d’un arrêt de la Cour suprême de justice, rendu en juin dernier. Pour la haute juridiction du pays, les deux mines précitées faisaient désormais partie des zones minières de la Sodimico.

F.K./Le Potentiel

28 octobre 2011

10月19日~23日 秘境ロフォイ瀑布 Chute de la Lofoï

Le mercredi 19 octobre 2011
快晴。7時、26℃、60%。

いままで忙しくて行けなかった床屋で短髪に。

車のナンバーをとったり、車検などの手続き一切を運輸省のアントワンヌさんにしてもらうことにした。彼はフランシスコ会が車検などを任せているいるひと。今年書き換えだった僕の免許証も安く引き受けてくれた。

ICCN(Institut Congolais pour la Conservation de la Nature、自然保護協会)に行って、今週末にロフォイ瀑布に行く手続きをとった。ロフォイ瀑布はク
ンデルング国立公園の中なので、ICCNが管轄。国立公園入園料は外国人が40ドル。コンゴ人は20ドル。車は15ドル。公園内の宿泊施設が一泊20ドル。C君に自分の国を知ってもらいたいので連れて行く許可を学校に申請した。許可が直ぐ出たので、二人分で105ドル支払った。

Le jeudi 20 octobre 2011
快晴。7時、26℃、62,5%。

車のナンバー。プレートがもうとれた。1台あたり160ドル。車検等手続きは3台分で170ドル。保険は1台当り458ドル。これはあしたかける。

運輸省のア ントワーヌさんが、僕がロフォイ瀑布を見に行くというと、自分も行きたいと言い出した。ICCNの申請は明日するという。断る理由はないので一緒に行くことにした。

Le vendredi 21 octobre 2011
晴れ。7時、25℃、60%。

クンデルングの宿舎にはレストランがないことがはっきりしたので、トリを2羽、その他食料品を急遽調達した。車の燃料を入れるポリタンク4個も買った。

Le samedi 22 octobre 2011

今日は念願のロフォイ瀑布を見るための週末旅行の出発日である。
朝4時半起床。マドンナちゃん、チーコちゃん、マーゴちゃんの食事の用意。今夜は帰れないので量を多めにしたが、一晩だけだから多少のひもじさは我慢してもらおう。
7時にC君と待ち合わせの「マゴネ」へ。7時半には街中で運輸省のアントワーヌさんと彼の女友達のRさんをひろって目的地に急ぐ。
空港の近くで右手に折れてカセンガ街道に入る。この街道は中国が舗装して
くれた。去年はカセンガKasengaの手前のカソメノKasomenoまでさえまだ舗装されていなかった。今回はルブンバシから90kmのミンガMinga村で左折して国立公園クンデルングKundelunguの入り口であるゴンベラGombelaに向かう。この道は舗装こそされていないが、赤土の広い道である。クンデルングの北東に現大統領カビラの農場があるので道が整備されたという。約50キロの走行でゴンベラに着く。
途中『La Terra(大地)』と名付けられたインド系鉱山会社Somicaが経営している広大な農場を左手にして走った。1万ヘクタール。その内2000ヘクタールでトウモロコシを作っている。世銀の融資も受けているとネットに書いてあった。
ゴンベラの公園入り口でチェックがはいったが、ICCNの許可証があるのでスムーズに通過。ここから33kmで今日の目的地カトウェKatweに着く。公園内の道はミンガからゴンベラまでの道ほど広くはないが凸凹はない。よほどキプシ街道よりましな道であった。カトウェまでなら四駆は必要ない。普通の乗用車で来ることができる。
カトウェはICCNの駐屯地である。ここから先はガイドがつく。ガイドはICCNの職員。猛獣もいるということで武
装している。11時半についたので、宿舎によってから近くの滝を見学することにした。マサンサMasansaの滝とルチプカLutshipukaの滝である。二つとも同方向にある滝でロフォイほど壮大ではないが美しい滝らしい。カトウェから20km。
カトウェから数キロでピスト(細道)に入った。滝が近くなると山道である。スピードは出せない。滝の近くに駐車場があった。マサンサの滝は数段になって水が流れ落ちているようだが、その一番上の滝が落差80メートル。滝つぼまで降りることができる。みんなで下mで降りた。それはいいが、帰りの登りがきつかった。息がゼイゼイいう。滑り落ちないのが不思議なくらい坂が急である。やっとの思いで上まで這い上がった。C君はサッカーで毎日鍛えているからスイスイ、アントワーヌさんもまだまだ若いから疲れをみせない。Rさんはちょっと体重があるからアントワーヌさんに手を引いてもらっていた。
マサンサの滝にはベルギーのNPOの一行があとからやってきた。
ルチプカの滝も駐車場から近かった。一段目の落差は小さい。向かい側から数段になった滝を見ると壮観らしい。

クンデ
ルング国立公園は7000km2以上の広さだ。そこに監視員は25名しかいない。ルブンバシ刑務所を抜け出した武装強盗集団「マイマイ」の首領ジェデオンが潜んでいても不思議はないと思うのだが、また北キヴ州の国立公園ビルンガVurungaではICCNの職員が襲撃されたりしているが、クンデルング国立公園は幸いにして、これらの危惧とは全く無縁だという。ぼくたちも安全に公園内を縦横に走り回ることができた。
マサンサの滝の登りで疲れ果てて宿舎に帰ったときはまだ16時だったが、持参の軽食をとって寝付いてしまった。しかし、海抜1700メートルの高原で蚊がいないといわれていたけれど、実際は蚊だらけだ。蚊取り線香を持ってきていたので早速焚いた。おかげで蚊に食われずに済んだ。昼間の暑さと下水などの設備がないことから、また昨夜雨が降ったというから、蚊が出ないはずがない。寒いとも聞いていていたのでセーターまで用意していたが、全く必要なかった。宿舎は停電していたが、泊まっていたベルギーのNPOが小型発電機をもっていて18時半ころから電灯が暫くともっていた。
電気・水道だけでなく、この宿舎は貧弱すぎる。キャンプをする気で全て用意して来ないといけない。
宿舎は塀に囲まれているわけではなく、大平原にぽつんと建っている。夜はICCNの夜警が焚き火をして警戒して
いる。しかし、ものものしさはなく、のんびりと料理をし、パヨット(小屋)で寝ていたようだ。

ところで、この公園には保護されている動物たちがいるはずである。今日、僕たちは殆ど動物をみなかった。明日は、動物が見られるように早朝6時にロフォイ瀑布目指して出発することになった。

La dimanche 23 octobre 2011

5時半起床。6時10分出発。ロフォイに向かう道も60kmのピストだった。林を抜けたり、一面見渡す限り緑の草原だったり、逆に一面茶色の枯れ草地帯だったりしながら、ロフォイの森に入る。途中見かけた動物は大型の鷲、遠くに鹿のようなアンテロープ、目の前を疾走して去ったハイエナ、森の猿くらいなもので、この公園に来なければ見られない動物たちではなかった。森の中を1時間以上かけてロフォイの駐車場についた。カトウェを出発してから2時間半以上かかった。瀑布はこれから徒歩で30分いかなければならないことをこのとき初めて知った。前もって言って欲しかった。昨日のマサンサの滝のようにアクセスが簡単だと思っていたのだ。ガイドはスワヒリ語で同行のコンゴ人たちには説明していたようだった。川を向こう岸に渡って歩く。昨日ほどの坂がないのは助かった。しかし、ロフォイ瀑布は秘境といっていいところにあるのだと実感した。これでがっかりさせるような冴えない滝だったらどうしよう。ガイドにゆっくり歩いてもらって、45分かけてロフォイ瀑布の対岸に着いた。コの字になった断崖絶壁
の向かいに落差380メートルを越える瀑布が出現した。見事だ。来てよかった。一同息を呑む。まだ乾季なのに水量も豊富だ。滝つぼまで降りることもできるようだが、片道2時間必要だという。僕にとてもそんな勇気はなかった。現在の絶景で十分であった。
C君、アントワーヌさん、Rさん、みんな大満足であった。RDCコンゴに、カタンガにかくも見事な瀑布があることを誇りに思ったようだ。なにしろ名前だけは知られているものの実際にロフォイ瀑布を訪れたひとはそうまだ多くないのだ。観光はこの国のこれからの課題である。
帰りはカトウェまで2時間、カトウェからルブンバシまで3時間しかかからなかった。ポリタンクに燃料を入れていたが、これを使わずにルブンバシからロフォイ幕府まで往復することができた。計算上は満タンにしておけば、ポリタンクは不要だと分かっていたが万が一に備えたのである。

アフリカの有名な瀑布といえば、ビクトリア瀑布であろう。ザンビア側とジンバブウェ側とがある。壮大な拡がりを見せるのは雨季の終わり、4月ころであろうか。僕は雨季が既に始まっていた11月に行ったけれども水量がなくザンビア側は黒い崖ばかりだった。しかし、インフラは整っている。リビングストンには一流のホテルがあるし、瀑布へのアクセスも簡単。それに比してロフォイ瀑布は秘境を訪ねることになる。しかし、それだけの価値はある。ビクトリア瀑布とセットで是非ロフォイ瀑布を訪れていただきたい。僕がルブンバシからご案内します。
(画像はアルバム『秘境ロフォイ瀑布』としてPicasaにまとめて掲載する予定)

26 octobre 2011

10月8日~18日 日仏翻訳 traduction en français

Le samedi 8 ocotobre 2011
快晴。22℃、45%。

7時から24時まで翻訳。

昨夜半水が出たようだ。今朝はちょろちょろ。

Le dimanche 9 octobre 2011
快晴。7時、23℃、45%。

7時から24時まで翻訳。

Le lundi 10 octobre 2011
晴れ。7時、24℃、45%。

7時から24時まで翻訳。

Le mardi 11 octobre 2011
曇り、7時、25℃、50%。
15時、
雷をともなう夕立のような雨。雨はいいが、停電しないでくれ。翻訳作業中なんだから。

23時、携帯電話、ネットともに不通。Vodacomのみ。Airtelは通じていた。

サント・ベルナデット病院の眼科とのアポイントは電話して来週に延ばした。

Le mercredi 12 octobre 2011
晴れ、7時、23℃、60%。

大家のアガータさんが家に来た。目つきの悪い友人と称するおば様と一緒。昨日、上カタンガHaut Katanga県(キプシは県庁所在地)の住宅局から所有権者に呼び出し状が家に来たのだ。どうせ金のことあろうが、直ぐにアガータさんに電話した。旦那さんが丁度キプシにいて、呼び出し状を受け取りに家に来た。旦那さんに合ったのは初めて。15時ころでにわか雨が振っていた。
アガータさん、わりと遠慮がない。コーラでもと一応きいたら、「シンバ(ビール)ないの」。生憎いえにはシンバがない。「プリムスしかありませんが」、「そう、それでいいわ」。なにもつまみを出さなかったら、「なにかないの、オイル・サージンでもなんでもいいのよ」。

7時から24時まで日仏翻訳。大家の相手で30分ロス。

Le jeudi 13 octobre 2011
快晴。7時、24℃、57,5%。
昨日の夕焼けはみごとだった。夕焼けの翌日は晴れが多い。これは世界中どこでも同じなのだろうか。

今週はルブンバシに出られない。そこで、キプシの「ビッキー」で買い物。蚊取り線香がたりなくなりそうだったのででかけたのだ。一箱だけ置いてあった。探し回る面倒は避けられた。家でみると黒い蚊取り線香。中国製。点火してみると匂いは緑の蚊取り線香と変わらない。蚊取り線香や蚊帳が緑だというのは先入観なのだろう。

木曜日とて10時から断水。24時になっても回復せず。

7時から24時まで日仏翻訳。

Le vendredi 14 octobre 2011
快晴。7時、24℃、60%。

朝6時半に水を確かめたが、断水継続。15時、水が出始めた。水の有難さを毎回知る。

7時から24時まで日仏翻訳。最後のページから遡って翻訳することにした。終わりの方は短文が多いので仕事が捗った気がする。こうでもしないと先が見えず、仕事を途中で投げ出したくなってしまう。

Le samedi 15 octobre 2011
晴れ、7時、26℃、50%。

7時から24時まで日仏翻訳。まだまだ量がある。果たして全て訳しきれるかどうか不安になった、

Le dimanche 16 octobre 2011
快晴。7時、26℃、52.5%。
右手の親指と人差し指の股がいたい。昔は中指にタコができていた。鉛筆を握って書いていたからだ。今はPC時代。

23時半ネット不通。30分で回復。

7時から24時まで日仏翻訳。24時過ぎに就寝するころは、足元がふらついた。

Le lundi 17 octobre 2011
快晴。7時、26℃、45%。
14時、30度、30%。体感温度は30度でも暑くない。湿度が低い所為だ。

7時から24時まで日仏翻訳。一応全ページの翻訳を終えたが、不明店も残った。ネットで明日調査する。

Le mardi 18 octobre 2011
快晴、7時、26℃、52,5%。
今月10月初めに雨が降り、雨季に入ったと誤解した。あの雨は、マンゴー雨というのだとシスタ・アスンタ・佐野さんから教えていただいた。マンゴーの花が咲き、実をつけ始めるころに降る雨で、まだまだ本格的雨季はやhり11月末にならないと始まらない。そして8月に比べて、僕のブログの記録でもそうだが、一日の気温が上昇する。

サント・ベルナデットSainte Bernadette病院の眼科に行った。10時のアポイント。経営は「アフリカ伝道師教会Missionnaires d’Afrique」である。病院のあるのはカニア地区に隣接するカトゥーバKatuba地区。下町である。ここの眼科はさる篤志家の遺志により建てられたときく。建物も機器もまだ新しい。最新の設備だ。そこで右目の不調を診断してもらった。ソクラテス先生。結果は僕の予想通り白内障であった。年齢のなせる業。しかし、まだ十分に「熟して」いないので、手術は6ヵ月後か12ヶ月後に改めて診断してから決めようということになった。白内障の手術は短時間で済む。この病院で手術してもいいし、日本に帰国して他の病気(虫歯、前立腺肥大)と合わせて手術してもよさそうだ。


聖女ベルナデットは19世紀の修道女。フランス人。彼女を有名にしたのは、ルールドLourdesで聖母マリアの出現に出会ったため。ルールド巡礼は欧州カトリック信者の間では人気の高い巡礼である。僕も2度ルールド参りをしている。スイスから特別列車が仕立てられているが、僕は車で訪れている。

聖女ベルナデット病院は「アフリカ伝道教会」が経営している。「アフリカ伝道教会」は修道会ではなさそうだが、ローマ法王庁直轄の団体である。創立は19世紀のアルジェリアに赴任したフランス人司教シャルル・ラビジュリCharles Lavigerieである。サハラ以南のアフリカの人々に伝道すべく有志を派遣した。しかし、当初はイスラム教徒に殺害されるなど非常な困難を伴った。「白人神父さんたち Pères blancs」と呼ばれてアフリカ黒人社会で親しまれるのはすっと後のことである。今では2000名ちかくの神父がアフリカ各国で活躍している。

今月8日から今日までの日仏翻訳は、東京のエイジェントさんからいただいた仕事である。本来なら、数人以上の翻訳者に分けて翻訳し、最後にスーパヴァイズするひとが訳を統一するような仕事である。3万字を超えていた。研修所の先生たち用のマニュアルである。それを欲張って一人で翻訳させてくださいと頼んでしまった。この仕事の間、停電がなく、またネットも順調に繋がってくれていたのは幸いだった。フランス語の表現によってはGoogleのフランス語版で検索して、表現の妥当性をチェックしないと安心できないからだ。

夜になって腹痛。尾籠な話だが、便がホウレン草のように緑色だった。これにはショックをうけた。早速ネットで原因を調べた。肝臓なら、便は灰色だし、尿は濃い紅茶色だということは経験して知っているが緑とは

10月7日 カテベ・カトト Katebe Katoto

Le vendredi 7 octobre 2011
曇り。7時、23℃、55%。

またまたガチャガチャと後輪の方で音がしたので、昨日Yvon君にみてもらった。板バネがまた割れていた。一昨日買った最初の店(ンジャンジャ地区)の10000フランの板バネだ。今朝、Yvon君と再びケニア地区へ。店のパトロンが30000フランだと値上げした。Yvon君がそんなら他の店に行こうと店を出ると、パトロンが追いかけてきた。僕に25000にしてくれと嘆願する。勿論断った。結局前回と同じ20000フラン(2000円)で折り合った。それから板バネの取り付け作業。今日は14時で終了。
運転手ジョゼフさんと面談。旧知のチチさんの紹介。チチはアランもよく知っている人物。ジョゼフさんは52歳。子供は10人。さすが。全員結婚して独立しているそうだ。

18時に帰宅したら断水していた。電気は大丈夫。

カタンガ州の知事モイーズが大金持ちであることは何回も書いた。彼の兄、カテベ・カトトはその上をいく資産家である。いま、RDCコンゴは11月28日の大統領選挙投票日にむけて選挙運動の真っ最中。勿論トップを行くのはジェゼフ・カビラ現大統領。しかし、野党の地せけディも超有名人。独裁者モブツに反対した歴史上の人物でもある。このチセケディを応援してファイナンスしているのがカテベ・カトトという構図。弟の知事はカビラ派。兄弟で与党と野党に別れた。カテベは今回初めてチセケディに肩をいれているのではない。2006年、前回の選挙でもチセケディ派だった。前回チセケディは最終的に選挙をボイコットした。不公平な選挙、不正が横行しているという理由からだった。今回は、なんとか公平性がたもたれそうだと判断した。
カテベの狙いは何なのか。目が離せない選挙戦になった。
(画像はカテベ・カトト。モイーズ知事の兄。どうみてもモイーズの方がかっこいいが。モイーズに輪をかけて大資産家。ベルギーに在住)

RDC: Katebe Katoto finance l’élection de Tshisekedi
Publié par La Rédaction, le 4 octobre 2011 dans Actualité, La une, Politique, Spécial Elections • 4 Commentaire •
Les choses s’éclaircissent maintenant au sujet de l’engagement à fond d’Etienne Tshisekedi dans le marathon électoral ; lui qui vilipendait l’organisation des élections générales de 2006 affirmant qu’elles étaient un simulacre d’élections dont le vainqueur était connu d’avance.

En se lançant pour la présidentielle de 2011, le leader de l’Union pour la démocratie et le progrès social (UDPS) le fait assurer de son élection à la magistrature suprême, étant soutenu par les milieux conservateurs occidentaux, eux aussi convaincu du fait que seul Etienne Tshisekedi a le profil requis parmi les leaders congolais le plus en vue. A en croire des informations recoupées et croisées, le leader de l’UDPS est flirté, outre par les milieux conservateurs occidentaux (notamment les Belges, Allemands, Anglais, Français et Néerlandais), mais aussi par des puissants groupes financiers canadiens, sud-africains et … des institutions chinoises.

Mais, l’appui le plus sérieux et actif lui est apporté par le richissime katangais d’origine belge Katebe Katoto, le frère aîné de Moïse Katumbi Chapwe, gouverneur du Katanga. Celui-ci ne jure que par l’élection d’Etienne Tshisekedi; il est même le missi dominici du leader de l’UDPS à l’occident. Il utilise en plein régime son carnet d’adresses et ses puissantes relations d’affaires pour arriver à ses fins au profit de son «poulain». L’on se rappelle qu’en 2006 déjà, les deux personnalités politiques étaient très rapprochées ; leur collaboration politique avait suscité bien des inquiétudes au gouvernement 1+4. A cette époque, ils avaient formé un gouvernement de transition en vue de combler la vacance créée par la fin de la première tranche de la période de transition instaurée par le Dialogue intercongolais de Sun City. Dans la formation gouvernementale qu’ils avaient formée, Tshisekedi était désigné président de la République et Katebe Katoto, premier ministre mais c’était sans compter sur JP Bemba, Azarias Ruberwa et d’autres détenteurs du pouvoir qui avaient tôt fait d’étouffer leurs velléités.

Il y a eu par la suite une sorte de chasse aux sorcières par la traque de tout partisan de cette équipée ; des journalistes avaient même fait les frais de cette intolérance politique (NDLR: notamment l’éditeur de Les Finances, à l’époque reporter au journal Forum des As, et l’éditeur du journal Alerte-Plus étaient assignés à comparution par l’avocat de la République à la demande du gouvernement 1+4, pour avoir publié des articles de presse à ce sujet). Le refus de Tshisekedi de s’aligner au processus électoral de 2006 avait marqué la fin du flirt entre les deux personnalités. En 2011, les deux politiciens ont décidemment senti que l’occasion est bonne pour prendre démocratiquement le pouvoir. Et la stabilité du climat politique renforcé par l’appui des Nations Unies est un gage de sécurité et de transparence du scrutin (le clergé catholique lui aussi vient d’ajouter une énième garantie pour la transparence avec le déploiement, au moment opportun, des 30.000 observateurs dans les 62.000 bureaux de vote). Rassuré par la garantie de transparence et d’élections crédibles, le Katangais Katebe Katoto entre avec assurance dans l’arène politique ; il le fait après avoir évalué mûrement la situation. Il n’est pas stupide pour prendre des décisions irréfléchies.

KATEBE KATOTO TRACTE TSHISEKEDI

Les pas effectués par Katebe Katoto dans cette arène sont aussi éclairés comme un lampadaire au milieu de la nuit. Le premier acte est relatif à la tournée de Tshisekedi au Katanga le mois de juillet dernier. Les leaders locaux qui attendaient rendre gorge au président de l’UDPS lors de son arrivée se sont étonnamment assagis, aucune action de contrer l’événement, aucun discours hostile : Tshisekedi est entré et sorti de Katanga et de Lubumbashi, la ville la plus tribale du pays, comme Daniel dans la fosse aux lions. Deuxième acte signé Katebe Katoto l’accueil à Lubumbashi le leader de l’UDPS a reçu un bain de foules comme nul autre avant lui. Et ce n’était pas factice puisque la mobilisation s’était faite par téléphone arabe, de bouche à l’oreille. Et de la manière où cette mobilisation s’était opérée, il faut être aveugle pour ne pas voir qu’elle a été l’oeuvre d’une personne ou des personnes respectées et écoutées de la ville. Depuis cet accueil, l’on comprend l’éloignement de la scène politique de certains leaders politiques katangais qui semblent vouloir ne plus ouvertement s’afficher, craignant l’éventualité du changement du pouvoir après le 28 novembre prochain. Leur logique est simple : ne faisant aucun bruit, on est oublié ; et mieux cela vaudra.

Troisième acte de Katebe Katoto, les fréquents voyages de Tshisekedi en Europe. D’aucun mal inspiré s’imagine que c’est pour villégiaturer. Qu’on se détrompe : Tshisekedi y renforce ses appuis extérieurs. Et c’est dans ce contexte et dans les perspectives de partage des responsabilités dans le futur gouvernement, une fois leur candidat élu, que Vital Kamerhe, JP Bemba, Léon Kengo wa Dondo et les autres acceptent finalement de cautionner Etienne Tshisekedi comme le candidat commun et unique de l’opposition. Là encore, les sources soutiennent que ce changement subit de position de ces leaders politiques réfractaires au début est le résultat des efforts croisés de Katebe Katoto et des milieux occidentaux ; les mêmes efforts qui ont aussi poussé Etienne Tshisekedi à développer depuis le début du processus électoral un discours rassembleur et fédérateur, un discours qui tranche avec sa personnalité jadis acariâtre et vindicative. Tout cela a un coût, payé rubis su l’ongle par le richissime katangais. Cependant, le soutien des milieux affairistes occidentaux affiché en faveur d’Etienne Tshisekedi porté par les milieux belges, est une entorse aux tractations politiques fort engagées avec les Anglo-saxons qui eux lui préféraient Léon Kengo wa Dondo. Cet ancien procureur générai de la République et actuel président du Sénat est perçu comme élément régulateur des situations structurelles de la RDC.

HA

10月6日 RDC投資環境整う RDC, pays fréquentable

Le jeudi 6 octobre 2011
晴れ。7時、24℃、60%
19時、雨。

朝も停電と断水が続いていた。電話も通じない。勿論ネットも。
18時、帰宅すると全て回復していた。昨夜はキプシ街道の入り口にあるインド系銅精錬工場でも電気がとまったというから深刻な事故が電力会社のどこかで発生していたにちがいない。通常工場への電気供給がストップすることはない。
そういえば、今日は断水の日だったのに、素晴らしい勢いで水が出ている。


『ビジネス好転:投資家をひきつけるコンゴ鉱山』
たしかに、普段車でキプシ街道やカスンバレサ街道を走っていても、重量トラックがひっきりなしに行き来しているのを目にする。RDCコンゴからの輸出、外国からは消費財だけでなく、鉱石処理のための化学製品や機械の輸入である。
記事では、コンゴが投資にふさわしい国になってきたと自賛しているが。先ずは鉱物資源(銅、コバルト、金など)の国際市場価格の上昇が好調な輸出を支えているのである。投資を呼ぶには、平和であることも大切。この平和については、一部即ち南北キヴ州とオリエンタル州の一部でなお戦闘がみられるものの、国土の大半は戦争の危険がないようになってきた。さらに法律・行政環境も国際常識にあわせるように努力しているそうだ。
日本に限らず、欧米も11月28日の大統領選の結果を待っているむきがある。それはそれで理由があるが、選挙後をにらんで着々と投資準備をして欲しいと思う。

Amélioration du climat des affaires : les mines congolaises attirent les investisseurs
(Le Potentiel 04/10/2011)

Le Congo est un scandale géologique. Mais que faire pour que la population bénéficie réellement des retombées de l’exploitation de ses ressources minières ? Gouvernement et partenaires s’activent pour installer un climat des affaires plus apaisé dans le secteur des mines. Durant deux jours, à Kinshasa, la 7ème édition de la conférence sur le Partenariat pour l’Infrastructure et le Développement en Afrique (IPAD/RDC) rend hommage à cette économie congolaise émergeante.

Il se tient les 3 et 4 octobre 2011, la 7ème édition de la conférence sur le Partenariat pour l’infrastructure et le développement en Afrique (iPAD) RDC. La conférence qui réunit d’importants délégués au Grand Hôtel Kinshasa, est l’événement international consacré aux industries extractives organisé depuis longtemps en RDC. Au moment où le pays tient à améliorer le climat des affaires, cette 7ème édition de l’IPAD/RDC rend hommage à cette économie émergeante passionnante. Elle fournit ainsi une plateforme pour que les financiers internationaux, les sociétés minières, énergétiques et les fournisseurs de premier plan de l’industrie y participent et s’unissent avec le gouvernement et les représentants des entreprises publiques afin de découvrir des solutions pour les investissements et le développement industriel de la nation.

RDC, pays fréquentable

Les assises ont été ouvertes par le vice-Premier ministre, ministre des Postes et des Nouvelles technologies de communication, Louis Koyagialo, en présence du ministre du Plan, Olivier Kamitatu et de celui des Mines, Martin Kabwelulu. Au nom du gouvernement, le vice-Premier ministre a rassuré les investisseurs. « N’ayez plus peur, le pays a retrouvé la paix (…) il n’attend que vous », a-t-il dit. Cependant, M. Koyagialo a insisté sur la transparence, car, selon lui, « les mines existent partout en RDC, mais il faut que les richesses minières de notre pays puissent profiter au peuple ».

Cette appel aux investisseurs a été bien répercuté par le modérateur du jour, le professeur Matthieu Buabua wa Kayembe. Le DG de l’Agence nationale pour la promotion des investissements (ANAPI) a avoué que la RDC lave son image et tient à demeurer un « pays fréquentable par les investisseurs ». Les efforts se multiplient en ce sens pour une flexibilité des textes et une législation qui faciliteront l’ascension du pays dans le classement du monde des affaires.

Pour la première journée, l'un des grands sujets débattus était l'importance de la création d'un climat d'investissement favorable. Et, l'accent a été particulièrement mis sur les questions fiscales et juridiques affectant désormais la prospection, l'extraction et le développement industriel.

Le programme de deux journées inclut un éventail d'intervenants impressionnants, notamment le ministre congolais du Plan, Olivier Kamitatu Etsu, le ministre des Mines, Martin Kabwelulu Labilo et le ministre des Hydrocarbures de la RDC, Célestin Mbuyu Kabango. Les autres intervenants et panélistes incluent, entre autres, Dr Mark Bristow, Président-directeur général, Randgold Resources, Royaume-Uni ; Jean Félix Mupande, Directeur général du Cadastre minier (RDC) ; Robert La Vallière, vice-président - Affaires sociales, Anvil Mining, Canada ; Karen Hayes, Conseiller technique principal iTSCI, PACT (RDC) ; Mbala Musanda, Directeur général, Société Nationale d’Electricité (SNEL/RDC), et Jean Coppens, Chef de projet RDC, BHP Billiton, Afrique du Sud.

L’intérêt pour la RDC

Pourquoi la RDC ? Nicole Smith, la directrice de l'événement pour l'iPAD RDC et le Briefing minier du Katanga, a déclaré que l'intérêt pour la RDC dans son ensemble s'était développé depuis le lancement de l'iPAD RDC en 2005. « La RDC, entrant dans une phase de post crise économique, caractérisée par des perspectives saines pour les métaux, est un pays à suivre de près. La RDC a la réputation d'être une zone à risque élevé et un lieu difficile pour les affaires, et nous avons espoir qu'avec l'iPAD RDC, nous inciterons les gens à venir découvrir ce pays et juger par eux-mêmes, ceci constituant dans le même temps une opportunité pour les investisseurs potentiels de faire leur recherche sur le terrain et de profiter de l'opportunité unique de rencontrer directement le gouvernement ».

L'intérêt suscité par la RDC est tel que le Briefing minier du Katanga a été ajouté à l'événement. «En 2010, nous avons ajouté une journée supplémentaire à Lubumbashi afin de consacrer un espace particulier à cette région, et l'intérêt s'est avéré tel qu'en 2011, nous avons prolongé le Briefing qui durera maintenant deux jours et avons inclus des visites de sites miniers dans la province », a précisé Nicole Smith.
Par RICH NGAPI

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10月5日 サイト復活 réactivation des sites

Le mercredi 5 octobre 2011
曇り。7時、24℃、60%。多少の晴れ間あり。
19時、雨が降り出した。

国際電話料金が安くなっている。今朝日本にかけたとき、確かに会話も短かったが、円高もあり10円以下だった。「国際通話料金は高い」というのは昔の話なのだろう。スカイプをつかえば、無料または有料でも相手国国内通話料金しかかからない。ただ、僕のUSBモデムでは音声通話がほとんどできない。シスタ・アスンタさんのところでは音声会話ができるそうだ。午後2時は日本時間21時。それくらいまで音声通話ができるということである。

『日本カタンガ協会』のホームページは無料HPサイトであるFC2で復活させた。
http://katangajapon.web.fc2.com/

僕にはもうひとつ大きなサイトが失われた。旧『週刊フランスのWEB hebdofrance』である。メイル・マガジンとして1999年11月20日から2005年11月23日まで234号発行した。知の貴重な資料である。フランスのネット・サイトを紹介しながら文化を語った。紹介したサイトは引越してしまったり、中止・廃止された場合も多くある。しかし、毎週のテーマが僕の考え方の実践的公開である。復活にあたっては無料サイト、忍者ホームページを活用させてもらった。
http://hebdofrance.masa-mune.jp/
二つのサイトともGoogleで拾ってくれるようになるためにはかなり日数が必要だろう。それまでは旧アドレスがでて、「サイトが見当たりません」となる。いたしかたない。

20時10分、停電。21時、ネット不通。断水。どうも今夜の停電は長引きそうだ。性質が悪い。

国際森林会議をキンシャサで開催すると以下の記事にある。
RDCコンゴの森林がアマゾンについで広大であることは既に当ブログでとりあげてきた。しかし、地球環境問題の一環として、コンゴの森林が話題になるとき、RDCコンゴが森林を売り物にしようと躍起になる姿が僕には気になる。働かないで、努力をしないで金をえようという魂胆だ。

Kinshasa va accueillir un forum sur la forêt et le changement climatique en RDC

Un forum de haut niveau va se tenir du 10 au 11 octobre à Kinshasa sur la forêt et le changement climatique pour le développement en République démocratique du Congo. Son organisation est assurée notamment par le Programme des Nations unies pour le développement (Pnud), le Programme des Nations unies pour l’environnement (PNUE) et l’Union européenne (UE), sous le haut patronage du Président de la République.
L’objectif de ces assises est de permettre aux dirigeants congolais et à la société civile de se mobiliser et de renforcer leurs connaissances sur le rôle que joue la forêt sur le changement climatique.
Il s’agit aussi mobiliser les partenaires au développement afin de coordonner leurs actions pour une participation financière effective.
La forêt, dans son ensemble, est un immense réservoir de biodiversité. Elle soutient l’agriculture, participe à la sécurité alimentaire, atténue les aléas climatiques. Mais au-delà des flux de carbone, les services rendus par les forêts sont multiples et primordiaux pour l’humanité.
Et avec ses 145 millions d’hectares des forêts tropicales, la RDC dispose d’un levier considérable pour participer à l’atténuation de ce changement climatique et bénéficier des financements internationaux.
Les forêts congolaises constituent également l’un des derniers poumons naturels de la planète. Les zones forestières du pays abritent un patrimoine animal et végétal exceptionnel. On y trouve près de dix mille espèces de plantes, dont trois mille trois cents propres à la RDC et plus de quarante espèces de mammifères.
Les forets constituent aussi, pour la population locale, une source de richesse qu’il faut protéger et développer. Ainsi près de 40 millions de la population congolaise dépendent directement de la forêt pour leur alimentation, leurs plantes médicinales ou leur approvisionnement en énergie.
Et la RDC a compris cet enjeu, notamment à travers sa participation active aux négociations climatiques et l’élaboration d’une stratégie REDD+ (Réduction des émissions résultant du déboisement et de la dégradation des forêts et dans les pays en développement). Celle-ci vise à récompenser les pays forestiers qui réduisent la déforestation et la dégradation de leurs forêts.
«A cet égard, le pays est reconnue pour son leadership et souvent présenté comme modèle au niveau international avec à son actif des résultats probants qui doivent être davantage valorisés auprès des acteurs et leaders nationaux, et des partenaires au développement présents en République démocratique du Congo», indique un document publié par le Pnud dans le cadre des préparatifs de ce forum.
La lutte contre le changement climatique a été dressée au rang de priorité mondiale par la communauté internationale toute entière. C’est dans cet optique que l’Onu a décrété 2011, année internationale des forêts, parce que leur gestion a lien direct sur le réchauffement climatique.

05 octobre 2011

10月4日 Jicaキンシャサ JICA à Kinshasa

Le mardi 4 octobre 2011
曇り。7時、24℃、65%。

「日本カタンガ協会」名で車を3台購入した。トヨタのコルサである。エンジンはカリーナなどと同じらしい。
運転手との契約書作成を考えた。ところが、ベテランのtaxi運転手によると文書で契約を交わす人はいないのだそうだ。仕事を終えてガレージに車を置いて帰る。そのときに走行キロ数もチェックしない。毎日20ドルをパトロンに渡せば、あとはある程度自由だということらしい。しかし、こんな管理でいいのか。アラン君に頼むにしても、キュングの息子に頼むにしても、会計上だけでなく、自動車のメンテもあるから、走行キロなども毎日チェックさせることにする。

コンゴ人を親とするが、フランス生まれのカクタ選手のことを書いた。カクタ君、RDCコンゴのナショナル・チームで試合をする気は更々ないそうだ。既にフランス代表に選ばれている。(9月21日の記事参照)

新華社xinhuaがRDCコンゴのニュースとしてJicaの活動を伝えている。この通信社の記事は必ずしも信用ができないが、というのは正確さに欠けるからだが、RDCコンゴに関するニュースもよく追っていることはたしかである。日本はAFPやBBC等が伝えるニュースの翻訳でしかRDCをフォローしていない。
記事によれば、日本のJICAはRDCコンゴに事務所開設以来1億7000万ドルの貢献をした。そのうち1億2000万が無償、5000万ドルは多分野での技術協力だという。
しかし、JICAは外務省の方針通り「カタンガ州には一銭も落としていない」のである。また、南の隣国ザンビアでは青年協力隊が80名以上活躍しているが、カタンガ州どころか、他州でも、即ちRDCコンゴにボランティアの協力隊員は皆無である。何故か。RDCコンゴは「危険な国、命があぶない国」と外務省の評価が下されているからである。
この外務省の評価が如何にいい加減なものであるかをここ2年間声を大にして叫んできた。いつになったら外務省は態度を改めてくれるのだろうか。
RDCコンゴはJICAの無償援助なぞあてにしてはいない。無償で援助で雇用が増えるわけではない。輸出産業が育つわけでもない。
日本の企業に投資してもらい、日本の企業に進出してもらうことがよほど期待されるのである。円高のいまこそ真剣に海外企業買収、海外進出を実現するときではないか。

170 millions USD, investissement de la JICA dans des projets de développement en RDC
Le 03/10/2011 (sinhua)

M. Yonezaki Eiro, représentant résident de l'Agence japonaise de coopération internationale (JICA) en RDC, M. Yonezaki Eiro, a évalué à environ 170 millions de dollars américains, dont 120 millions d'aide financière non remboursable et 50 millions de dollars pour la coopération technique, les activités de cette agence en RDC depuis la réouverture de son bureau à Kinshasa, dans un entretien lundi avec la presse.

Il a cité, parmi les actions marquantes, la formation de 16.000 (seize mille) policiers congolais, le projet de « justice de proximité » au Bas-Congo, l'élaboration du « plan de développement de la ville de Kinshasa » et de sa carte topographique numérique à l'échelle de 500 km2 sur une superficie totale de 9.965 km2, la construction du boulevard Luemba (9 km ), dans la commune de N' Djili.

M. Yonezaki a également aligné sur cette liste deux projets pilotes sur l'éducation civique et la campagne d'assainissement, ainsi que le projet d'étude sur le développement communautaire dans le district des Cataractes, au Bas-Congo (Sud-ouest de la RDC) , où deux projets pilotes ont été réalisés sur l'établissement d' un comité de développement communautaire et l'entretien des routes sous la direction du comité de développement communautaire.

En ce qui concerne les projets en cours financés en RDC par la JICA, il a noté le développement des ressources humaines pour la santé, la formation professionnelle, le renforcement des capacités des formateurs de l'Institut national de préparation professionnelle, la formation pour l'accès à la justice de proximité, l'entretien du Pont OEBK (ex-Maréchal Mobutu) à Matadi et la formation du personnel chargé de l'entretien de ce pont.

Dans le même cadre, la JICA s'est employé au renforcement des capacités de la Police nationale congolaise, à l'aménagement de la direction provinciale de l'INPP à Goma, dans l'Est de la RDC, à la réhabilitation et à la modernisation de certaines avenues à Kinshasa, à la réhabilitation et l'extension de l'usine de traitement d'eau de Ngaliema, à Kinshasa, ainsi qu'à l' aménagement en équipements des Cliniques universitaires de Kinshasa (CUK) et de l'Institut d'enseignement médical (IEM) de la capitale.

Il a émis le vieu de voir la RDC, qui a bien géré la période de l'après-guerre, se stabiliser pour atteindre son développement dans un climat de paix et d'unité.

M. Yonezaki Eiro a promis de renforcer la coopération japonaise en RDC, où la présence de la JICA date d'avant la rupture de la coopération entre les deux pays en 1991, indiquant que son agence avait déjà financé, à l'époque de l'ex-Zaïre, les installations de la Régideso à Kimpese, dans le Bas-Congo en 1980, et la réalisation du Pont Maréchal Mobutu, à Matadi, dans le Bas-Congo en 1983.

04 octobre 2011

10月3日 中国五矿集团公司 China Minmetals

Le lundi 3 octobre 2011
快晴。7時、24℃、60%、
14時、俄か雨。ぱらぱらと。18時45分、雷。夜半、雨。

電力会社Snelの請求書が一昨日土曜日に来た。いつもより10日も早い。今まで遅れ遅れに来ていたが、それが修正されてきているというのだ。請求書をよく見ると、今年4月から電気代が未払いになっている。そんな馬鹿な。Snelのインプットがそれだけおくれているということだ。

昨日書いた、コンゴに置き去りにされた日本人の子供たちの親探しをするというと、30年も経ったいまさら、日本人の父親には妻も家庭もあるというのに、波風を立てるとはという声がきこえてくる。一応もっともな意見の用である。では、父を探したいというコンゴに残された子供の方はどうなるのか。彼らは黙っていろというのか。それでは片手落ちだろう。波風がたとうが、父親を見付けて、生まれてからこの方の責任をとってもらうのも必要かもしれない。

Teamviewerというソフトがある。
このプログラムをDLして、お互いに納得してパスワードを交換すると、相手のコンピュータを遠隔操作することができる。ダル・エス・サラムの友人でPCに詳しいJ君が、僕のPCの問題を解決しようとして、僕のPCを遠隔操作した。結局は僕が陥った問題と同じ罠に彼もかかってしまい、助けにはなたなかったけれども、Teamviewerなるものの存在を知った。


中国のMinmetals(中国五矿集团公司)がでカタンガ州で銅鉱山開発をしているカナダ系Anvil Miningにbidをかけた。12億8000万ル。Anvilの株主はハッピーだといっているそうだ。Anvil Miningの直近の株価からすると39%上回った買取価格らしい。今後の動向が注目される。しかし、中国五鉱集団の目の付け所は確かである。GecaminesやSodeimicoではなく、現に生産し成長著しい企業を買収しようというのだから。

さて、日本の企業は静かに静かに潜行しているのだろうか。

Le chinois Minmetals à l’assaut de la RDC

Le géant minier chinois fait une offre amicale sur le canadien Anvil qui détient une importante mine de cuivre au Katanga, au cœur de la région cuprifère de la République démocratique du Congo.

Cinq mois après s’être fait ravir les alléchants gisements zambiens du canadien Equinox Minerals par le mineur d’or Barrick gold, le chinois Minmetal Resources démontre qu’il n’a pas renoncé à investir la Copper Belt. Il vient de faire une offre en numéraire de 1,28 milliard de dollars pour acquérir un autre junior canadien, Anvil Mining. Outre des projets d’exploration, ce groupe possède une mine en République démocratique du Congo, Kinsvere. Il s’agit de la première incursion en Afrique du groupe chinois, déjà présent en Australie et au Laos.

L’offre de Minmetals, valorisant sa cible à un niveau supérieur de 39% à sa dernière cotation, a été reçue favorablement par le conseil d’administration d’Anvil, déclarant à l’Australian Securities Exchange, que « cette offre était dans le meilleur intérêt des actionnaires ». Selon Minmetals, des actionnaires contrôlant 40,1% d’Anvil sont déjà favorables à l’opération. Parmi eux, le trader de matières premières Trafigura Beher qui, en août dernier, s’interrogeait sur le moyen de valoriser une participation de 39% qui n’était pas au cœur de son activité. L’offre d’une prime importante démontre la volonté de Minmetals de ne pas subir un nouvel échec. Toutefois, le niveau actuel relativement bas de la cotation d’Anvil pourrait attirer des contre-offres.

Minmetals Resources, qui est la filiale cotée à Hong Kong de l’entreprise d’Etat Minmetals Group, avait cette fois-ci préparé minutieusement son opération. « Nous avions préalablement visité la RDC », a indiqué le directeur financier du groupe, David Lamont, lors d’une conférence de presse téléphonique, vantant les bonnes relations diplomatiques entre les dirigeants chinois et ceux de la RDC. Dans ce pays où la législation minière est à géométrie variable, de bonnes relations avec les autorités sont en effet indispensables.

De plus petite dimension que le gisement de Lumwana, pour lequel Barrick avait dépensé 8 milliards de dollars, la mine de Kinsevere a produit en 2010 16 538 tonnes de cuivre sous forme de concentrés. Un nouvel investissement de 400 millions de dollars devrait multiplier sa production par quatre à 60 0000 tonnes de cathodes. Dès cette année, la première phase d’expansion devrait amener une production de 36 000 à 38 000 tonnes de métal rouge. Cette mine, ainsi que les deux projets d’exploration, servira de plate-forme à Minmetals pour poursuivre son développement dans la Copper Belt. Le groupe est prêt à investir dans de nouveaux projets d’un prix unitaire compris entre 1 et 6,5 milliards de dollars a précisé David Lamont.

La part du cuivre dans la production de Minmetals sera de 33% pour l’année financière 2012. La réussite de l’opération porterait ce pourcentage à 44%. « Nous sommes intéressés avant tout par la création de valeur pour nos actionnaires. Il ne s’agit pas d’une stratégie d’acquérir des matières premières pour alimenter la croissance en Chine », a souligné Mike Nossal, en charge du développement de Minemetals, précisant que 80% de la production du groupe n’étaient pas expédiés en Chine. Malgré la forte correction que subissent actuellement les marchés des métaux de base, les gisements, notamment cuprifères, attirent toujours l’appétit des grands groupes miniers.

Daniel Krajka

03 octobre 2011

10月2日 日本人を父親とし、コンゴに置き去りにされた子供たち enfants japonais abandonnés au Congo

Le dimanche 2 octobre 2011
晴れ、7時、24℃、65%。
早朝雨が降ったようだ。水溜りがある。しかし、雨量はまだ少ない。

『日本カタンガ協会』のホームページの一部修正をした。メインおよびコンタクト・ページのメイル・アドレスである。しかし、VectorからdownloadしたHP作成プログラムが文字化けしていて、大体の見当でしか使えない。HTML表示ができたので、ページをHTML言語で直接いらうことになった。
http://katangajapon.web.fc2.com/

「日本人を父親とし、コンゴに置き去りにされた子供たち」について整理しておきたい。この子供たちが2007年協会を作ってキンシャサの日本大使館に包括的に日本人を父親とする子供として認知を訴えた。大使館は外務省に報告。外務省はカタンガ州ムソシ鉱山で仕事をしていた日本鉱業に連絡をとった。日本鉱業は、子供たちの存在を否定しなかったが、個人の問題であり、会社としては介入しないと回答した。大使館は外務省から日本鉱業の回答をきき、そのまま子供たちの代表にその旨を伝えた。
2010年春、フラ
ンスのTVメディアFrance24 が子供たちの存在を取り上げたレポートを放映した。日本が子供たちを計画的に処分(殺害)して帰国してしまったという内容で、極めてセンセイショナルであるが、俄かには信じがたい。
僕は当初この子供たちのことにあまり関心がなかった。無知な母親の身から出た錆といえないこともなかろうと思ったからである。
しかしながら、何回かフリー・ジャーナリストの方たちの取材に同行したり、子供たちの「協会」の会長ケイコ・フジモトさんにお会いしているうちに、日本人の無責任さが見えてきたのである。
先ず、当時ムソシ鉱山に来た日本人はどうやってコンゴの女性と知り合い子供をもうけることになったかである。ムソシ鉱山には日本人村(コーヨー地区)が鉱山の隣に建設されている。仕事が終わってから、仲間をつのって近くの村に飲みにでかける人たちがいた。村まで2kmくらいある。村はまだ藁葺き屋根が主流だった。そこにシンバ・ビールをのませてくれるようなバーがあった。飲みに行ったのは夜のこともあるし、夜勤を終えて一寝入りしてから昼間に出かけたときもあった。村のバーで飲んでいる日本人が珍しく、顔を見に来る村人が大勢いた。そんな見物人たちの中に若い娘たちもいた。
村人たちは、白い東洋人に警戒心がなかった。風習では、持参金をくれる相手なら誰でも所帯をもつことを認めていた。
日本人たちは、日本人村に連れて帰れないけれども、村で娘たちの家族の近くで暮らすことができるよう、現金や山羊、反物、食料品を家族に贈った。家族はこれが結婚の申し込みであると解釈、娘との同居を許した。
娘たちの年齢は、そのとき14歳、15歳であった。これは日本では犯罪である。相手の日本人は若く20、21歳の男性もいたが、多くは30代、40代の男たちである。日本でも妻帯者である。コンゴ側にとっては日本に妻がいても違和感がなかった。一夫多妻がごく一般的に見られるコンゴ社会である。
日本の男たちの中で、村役場に婚姻届をだしたり、それを日本大使館に提出したひとは皆無である。ということは、はじめから、正式の結婚をするつもりがなかったということだ。ならば、子供をつくらなければいいものを、子供ができてから困惑した日本人はするなく、多くはその事実を喜んでいた様子が伺える。
子供たちが生まれるまえに、コンゴの奥さんが妊娠中に、帰国命令が会社からでて、急遽帰国しているケースも多い。父親の顔を知らない子供たちが多く、父親と遊んだ記憶がある子供たちはレアである。この帰国のタイミングも僕はある意図が隠されているように思えてならない。
帰国時に、日本人は何がしかをコンゴの妻に置いていった。現金だったり、不動産だったりである。日本人はこれで手が切れたと思っている。
これは虫が良すぎる。コンゴの妻にたいして、子供に対して扶養義務が発生している。コンゴの母親は、字が読めず書けない。手紙のやりとりもままならない。音信不通になればそれで「旅の恥はかき捨て」ということになる。
子供たちは最年少が28歳、上は39歳までいる。「協会」のメンバーは47名から50名に増えた。「協会」に入っていないメンバーがまだいるようだ。
掲載した画像はフリーランサーのカメラマン・ジャーナリスト佐藤慧さんのものだが、先日来た岡本ひろしさん(フリー)は子供たちを母親と一緒にカメラに収めた。これはいい企画だった。
子供たちのなかには日本人の父親に合いたいという人もいる。住所や写真があれば公開することも考えている。
日本人の父親の中に、コンゴに残してきた子供に会いたい、その安否が知りたいというひとはいないのか。

10月1日 ケニヤッタ Jomo Kenyatta

Le samedi 1e octobre 2011
小雨。7時、24℃、60%。
10月に入ったからといってこの天気の変わりようはなんとも著しいものがある。
朝の小雨は8時半には完全に止んでしまった。しかし、昼には快晴。そして16時には再び雨模様。

肉じゃがを作ってみたくなった。レシピをネットで調べる。シラタキはないが(中国人の店で売っているハルサメで代用可か)、基本的材料はある。やってみるか。
夕方調理開始。煮始めると灰汁が凄い。これを小まめにとらないときれいな料理にならないだろう。なるほど。できは中くらいの成功。

朝、おばさんがホウレン草や人参を売りに来た。ホウレン草というけれど、僕のイメージするホウレン草とは大分違う。昨日はシスタ・アスンタとベレー

ル地区の修道院で中国キャベツ(白菜)を見た。これも僕のイメージの白菜とは違っていた。

先月23日エンクルマについて書いた。1960年代に独立を獲得したアフリカの諸国には英雄が多い。
なかには独裁者になっていく英雄もあった。ケニヤ独立の父ケニヤッタJomo Kenyattaも晩年は独裁者といっていい。しかし、アミン・ダダ(ウガンダ)、ボカサ(中央アフリカ)、モブツ(ザイール、現RDCコンゴ)など有名な独裁者とは一線を画す。
ケニヤッタは親欧米の経済・政治政策でケニアをアフリカ大陸としては中産階級が育った社会にした。また一党独裁で国民から政治の自由を奪ったが、政治的成熟が民主主義には必要かもしれない。現在のケニアは民主主義の手本でもあろう。しかし、飢饉のため非常な困難に直面している。ケニヤッタについてもコンデ『幸福を待ちながら』、page44に出てくる


9月30日ロフォイの滝 chute Lofoï

Le vendredi 30 septembre 2011
快晴。7時、24℃、45%。
しかし、時間がたつにつれ雲が多くなり、夕方には雨雲。18時に帰宅したときに、数滴の雨粒が顔に当たった。けれども、ざっと夕立のような雨にはならなかった。夜中に雨になるのだろうか。6ヶ月ぶりの雨か。
明日は蚊と羽蟻の大群に見舞われるのだろうかなぁ

後輪左のショック・アプソーバ(但し板バネ)2枚の交換をした。8時半にはYvon君のところに到着。ケニア地区で板バネを探した。後輪右の板バネを買ったところには在庫なく、かなり探し回った。やっと見つけたところで先ず1枚目、10000フラン(1000円)、もう1枚は別の店で20000フラン。これらに修正を施し、取り付け修理が完了したのは15時半だった。

しかし、ショック・アプソーバの修理はこれだけでは済みそうにもない。後輪のシリンダ状のバネがキーキー音を立てる。このバネをかえなければならなそうだ。

タンガ州にはいくつか国立自然公園があるが、そのうちルブンバシに比較的近いクンダルングKundalungu公園に行ってみたいと思っている。雨季が始まる前に。間に合うかどうかわからないが、その情報集めにICCNの事務所を訪ねたら、16時前というのに既に事務所はしまっていた。この公園、とてつもなく広い。7600km2。
この公園の中にロフォイ瀑布がある。高さ384メータ。アフリカでもっとも高い滝である。東京タワーが333mである。それよりもまだ50mも高いところから水が落下する。日光の華厳の滝は97mに過ぎず、那智の滝で133mであることを考えれば、その落差がいかに壮大であるかが想像できよう。
ICCNとは自然保護協会Institut Congolais pour la Conservation de la Natureの略称であり、環境省が監督省になる。観光省ではない。

9月29日レンガ運搬 transport des briques

Le jeudi 29 septembre 2011
快晴。24℃、45%。

木曜日。断水がいつくるかわからない。朝、洗濯を急いだ。運動靴を洗いたくなってブラシで洗って陰干し。

家にあるレンガを車の荷台に積んでフォステム小学校に運んだ。校長先生が迎えてくれた。生徒は13時半だったので、既に一人もいない。生徒数は、Tさんが今月7日に訪問したときは20名もいなかったが、既に180人になったそうである。なるほど、新学年が始まるときはどこの学校でも生徒が数名しかいないとシスタ・アスンタさんも語っていた。そんなものなのか。ただ、中学校の一年のクラスが今年からできたのだが、まだ7名しかいないという。トイレの汚水処理層の工事が始まっていた。