27 avril 2007

photo(5) les voisins

近所にこんな凝った家があります。
大きな庭のある邸宅ではありませんが、この街の新興高級住宅街といって
過言ではないでしょう。




photo(4) nos gardiens

僕たちの宿舎を守ってくれる守衛さんたちです。
果たして差し迫った危険があるのかどうか疑問ですが、
ソヴィエト(ロシア)製の銃を持っています。弾も入っていますよ。

photo(3) Grande Poste

先週書いたGrande Poste界隈の画像を載せる。右手がGrande Poste、
左手が国立劇場である。白亜の殿堂でしょう!


Grande Poste



近くに県庁もある。















photo(2) Musé National de Cirta

金曜日(即ちここでの祭日、西欧の日曜日に相当)は、店もなにも閉まっているというと、
そうでもない。Muséも絶対閉館だとのたまわったconstantinoiseがいたが、どっこい
国立シルタ博物館は開いていた。そうだろう。祭日の翌日が閉館日であるのが地中海の
向こう側では常識なのだし、ここの博物館もそんなに意地悪じゃなかろうと思って行ってみた。

やはり開いていた。もっとも入場者は僕が見学している間数人しかいなかったが。
素晴らしいMuseumである。特に先史時代、フェニキア、ローマ時代が素晴らしい。
バッカスの彫刻、勝利の女神像などは珠玉である。モザイク壁画もかなりある。
世界に誇ってよいMuséといえる。
アルジェリア人の画家たちのタブロも面白かった。印象派、キュービスム、ダリらの
影響をもろにかぶったタブロはやはりフランスが近いのだなぁと思わせる。
館内は撮影禁止だった。
付属のキオスクや図書館は休みであった。
館内をvirtuelに訪れたい方は次のURLをクリックされたい。
http://www.cirtamuseum.org.dz/

photo(1) ma chambre

些かprivateな領域で恐縮であるが、コンゴでも牢名主的映像を
公開したのでここでは先ずconfortableな生活環境をお知らせしたいと思う。
元はキッチンであったところらしいが、なかなか快適である。




21 avril 2007

Le 20 avril 2007 Vendredi à Constantine

時差ボケはかなり解消。
朝、宿舎の周りを散歩。宿舎の大体の位置をつかんだ。坂を下っていくと10分ほどで市場marchéに着く。高級品はないが物品はかなり豊富。敵対的な人はいなかった。挨拶すれば必ず笑顔で答えてくれた。オレンジよりもリンゴが多い気がする。バナナは輸入だろうがよく売っている。大粒のイチゴまであった。香辛料も豊か。

フランス語の新聞を探したが手に入らなかった。
政府系新聞『El Moudjahid』から良心的なジャーナリストが飛び出して90年代初めに作った『El Watan』(愛国者)がフランス語新聞で最も発行部数が多く10万部を越す。『El Moudjahid』紙は読者の大部分を失ったそうだ。

昼食後T君を誘って旧市街に。
歩いて行こうとしたが距離がありそうなので、土地の人に訊いてバスで行くことにした。鉄道の駅まで10DA(16円)。ところが、丁度イスラムの祈りの時間にさしかかってしまい、運転手が敬虔なイスラム教徒なのだろう、乗客を置いたままモスケに行ってしまった。直ぐ終わるだろうと待っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。それでも辛抱強く30分待った。そこで諦めてtaxiを拾った。駅まで80DA(128円)。
切り立つ断崖絶壁に建つフランス時代の建物群は矢張り見事である。スイカSouikaやカスバと呼ばれるアラブ、オスマン・トルコ時代の古い街quartierも崖に迫っている。
フランスの作った市街の中心には必ず中央郵便局Grande Posteがある。Constantineも例外ではない。駅舎も古い建物なので見たいと思ってtaxiをそこまで走らせた。なるほど趣のある駅であったけれども殆ど人影をみなかった。列車の本数が一日数本しかない所為だろう。駅を後にしてGrande Poste目指して歩いた。駅は渓谷の右岸だから橋を渡らねばならない。橋の欄干が低く谷は80メートル以上の深さがあるから眩暈を起こさずには通れない人も多かろう。Grande Posteへの道を知っていたわけではない。けれど町並みから判断して見当はつく。坂を上っていくと果たして白亜のGrande Posteがあった。左隣は国立劇場Theatre Nationalである。右はというと裁判所Palais de Justice。Constantineの象徴ともいえる彼らの建物は汚れていなかった。よかった。薄汚れていたら寂しい限りだからだ。

Grande Poste広場には、噂のとおり、闇で外貨を買い取るディーラーたちがうろついていた。100米ドルが約7000DA。ほぼ銀行のレートである。持ち出しが禁止されているDAにしてこのレートは強気である。いずれにせよ、手持ちのドルを交換することは危険であるので体よく断った。

Grande Posteからエール・アルジェリー(アルジェリア航空)の建物までの大通りの突き当たりにホテル・シルタHotel Cirtaがある。アラブ建築を模して20世紀初めに建てられた。内部もエキゾチックである。Cirtaとはローマ時代のConstantineの名前だ。Constantineの人々はこのCirtaという名前にとても誇りを抱いている。
このホテルから渓谷に向かう道の左側がスイカである。中に入ってみた。迷路のように狭い道が交差している。しかし、アルジェのカスバと同じで坂道を上っていけばこの地域を抜け出せるから迷うことはない。モロッコのフェズとは違う。
スイカの中にハマンHammanがあったので中を覗いてみた。ハマンとはムーア人の共同蒸し風呂のことだ。15時ちょっと前でまだ男たちが入る午後の部が始まっていなかったが、親切な管理人さんが中を案内してくれた。パリのモスケMosquéeに付属していたハマンやアルジェのドイツ大使館前のハマンにはよく行ったが、ここはそれらよりもずっと伝統がある。いつか入浴してみたいものだ。
スイカに肉屋が多いのは何故だろう。羊の頭がでんと置いてある店もあった。
この地域の出窓が張り出した建築は絵になる。保存団体もあるが資金がないので苦労しているようだ。
スイカの入り口近くに映画館があった。映画館は斜陽である。いくつもあった映画館が閉鎖されて、今やこの映画館しかConstantineになくなったとパトロンらしき男が説明してくれた。上映されている映画は、名画から内容のなさそうな裸の踊り子の映画まで。Séanceは一日4回。それぞれ掛かっている作品が違う。映画館がなくなっていくのは時代の趨勢だが残念なことである。パリにはなお映画館がたくさんある。それは政府が文化に金を出しているからだ。Constantineでは、かなり貧しいと思われるような地域でも各戸がサテライトで送られてくるTV電波を捉えるパラボラアンテナを持っている。TVが安いそしておそらくは唯一の娯楽なのだ。最後に残ったこの映画館も何時か消える運命になりそうだ。

スイカを出て再びGrande Posteに戻り、Hotel Cirtaと同じ格のホテル・パノラミックに入ってコーヒーを注文した。ボーイがRavazzaにするかというのでオーダーすると一杯100DAであった。なるほど高い。僕たち以外客がいなかったのも頷ける。

T君がこのホテルに携帯電話を忘れてしまった。ホテルを出てから暫くたって気がついたので、もう無くなっているのではと心配したが携帯を見つけることができた。客がいなかったのが幸いしたのか、Constantineの人々が正直なのか。

治安は表面上悪くは無い。警官も人にたかるようなことはない。しかし、見られることに慣れないと怖気づいてしまうだろう。それはConstantineに限ったことではないが、外国人が少ない都市では、特にアジア人は目立つ。Chinoisといわれても東洋人と云われているに過ぎないのであるし、彼らにとって、僕たちを目撃することはその日の事件évènementなのである。手を振って挨拶する彼らに笑顔を振りまかなければならないのは疲れることだ。しかし、彼らに悪気は無い。挨拶を返せば、彼らは有頂天である。といって僕らも気を抜けば、アルジェで何回も被害にあったようにバッグを掠め盗られるかもしれない。掏り取るような技術はない。そのバランスが難しい。
スイカに限らず、金曜日は祭日だがところどころ店が開いている。宿舎に帰ってから近くのスーパーに行ったがそこも開いていた。ヨーロッパほど品物の種類が豊富ではないが、それでも必需品は輸入物を中心にしてなんでもある。品質も悪くなさそうだ。ヒゲ剃り用ムッス(EU製)、300DA(480円)を購入。また、開いていたキオスクで地元の新聞『El Acil』も手にいれた。

いずれ自分で撮影した我がコンスタンティーヌの画像をUPしよう。

Le 17 avril 2007 Redécouverte de l'Algérie

 朝4時10分にCHG空港に到着。ターミナルBが次の出発ゲートだた、そこまではバスを利用しなければならない。ところが時間表がなく何時バスがくるのかわからない。アナウンスもなかった。2時間近く待合室でただ待っていた。
 8時35分。Alger着。新しいターミナルHouari Boumediene空港が出来ていた。2年ほど前に完成したのだという。世界でも一流の空港に生まれ変わった。スーツケースを開けられることもなかった。外貨申請も強いてせよとは云われなかった。様変わりである。国内線は古い建物の方を使用していた。しかし、その建物にカフェやキオスク、床屋までが出来ていた。カフェやレストンに酒類がなかった。イスラム化の影響に違いない。
 一銭も現地通貨DA(アルジェリア・ディナール)を持っていなかったので空港に出迎えに来てくれていた運転手経由会社から1000DA(約1600円)を借りた。コーヒーが30DA、新聞が10DA、雑誌が100DA。コーヒーは相変わらず不味かった。粉っぽい。匙はアルミの鍛造、粗悪品である。男子トイレにマダム・ピピがいた。掃除をしてくれるおばさんである。出口に小銭をいれる皿が置いてあった。パリのカフェにはいなくなったところが多いがここでは新たな職業になったようだ。

 運転手さんに聞くと、空港からAlgerの市街に入る道は片側3車線の高速道路が既に建設されているそうな。以前は追越し車線を中央にした3車線道路だった。だから前の車を追い抜くときはかなりの冒険と度胸が必要であった。反対車線から何時無謀な運転手が追越し斜線に入ってくるか分からないからである。珍しい中央車線を追越し車線として共有する道路は改善された訳だ。

 13時の予定が14時になってほぼ満席でConstantine行きが出発。この位の遅れは日常茶飯であろう。滅多矢鱈とX-Rayによる機内持ち込み貨物の検査があったが、bagageの中身をあけろとまではいわなかった。

 空港待合室にガラス張りのEspace Prière(イスラムの祈りの場所で小さな絨毯がいくつか置いてあった)が設置されていた。これもイスラム化。
待合室にヒゲ(髭と鬚)を蓄えた若い男が何人かいたが圧倒的に少数派。この男たちが丁度一時の祈りの時間にEspace Prièreに入らなかったのは不思議。

 15時。Constantine空港に到着。HQに案内されて各部署の方々を紹介されたがとても名前を覚えきれない。16時に宿舎についた。狭い機内で殆ど眠れなかったので頭がボーっとしている。宿舎の部屋は極めて上等。ベットもマットレスも本物だ。とてもコンゴの時とは比べ物にならない。中小企業、それも三流どころと一流企業の差はだけではない。コンゴとアルジェリアの生活水準の差がでた。Constantineは地中海でも高度がある。3月末、20cmも雪が降ったという。部屋の暖房がスチームなので助かった。ありがたいことである。

 夕食時に久しぶりにこの国のワイン。cuve de presidentはなかったがMascaraがあった。半分ほど飲んで23時に床に入ったが、夜中の2時に目が覚めてしまった。4時、続いて5時にモスケから祈りの声がスピーカーでがなりたてられる。イスラム化顕著。このイスラム化はちょっと怖いなぁ。

15 avril 2007

Algérie過去と現在

Algérie過去と現在 (le 10 avril 2007)

25年ぶりにアルジェリアに行くことになった。僕の古巣である。
僕が初めてこの国に入ったのは1972年12月であり、翌年7月から1982年3月まで9年間過ごした。時はBoumediene大統領の時代である。72年の訪問は短く、首都Algerにも数日しか滞在していない。AlgerからTunisまで列車で旅をした。

今回Constantineに行くことになり、改めてその後のAlgérieをネットで調べた。また最近当地に滞在した方々の話も聞いた。
社会主義体制からなかなか抜け出られない、効率の悪い官僚の体質は殆ど変わっていない様子である。

しかしpénurieはかなり改善されているらしい。食料品、それが玉子であったり、馬鈴薯であったりしたものだが、これは流石改善されているときく。なにしろ日本から撤退したスーパーマーケットCarrefourがConstantineにもSétifにもあるというのだから驚きである。値段はしらない。しかし、スーパーというからには食料品もまともなものがあるに違いない。茹でると溶けてしまうスパゲッティが姿を消しBarillaがあるとすれば改善である。

人口は僕がいたとき1800万、現在3300万。90年代のテロはかなり影を潜めたらしい。それでも県を越えて移動するときは、警察のエスコートが必要であるとか、住居や事務所にgardiensがいるとか、以前は考えられなかった治安の問題が今も残る。

Constantineは通過したことしかなかった都会である。今は亡きK君がフランスで買ってきたAustin miniのmoteurに穴が開いてしまったのはConstantineの直前であった。ローマ時代からの古い町であることは知っていたが、近くのJemila遺跡は見学したものの、Constantineの町は観光していない。ビジネスもなかった。

イスラム化はarabisationよりも気にかかる。90年代のテロには理由があった。民主主義が踏みにじられたのだから。この国の若者たちは独立来政治化politisés していた。それは教育の所為であるが、islamisésとなると理性的ではない。社会主義、marxismeに凝り固まった連中よりも宗教に偏頗した連中の方が始末が悪い。laicité(政教分離)の原則をとりもどし、生活水準を向上させることが一刻も早く望まれる。