le mardi 1er octobre 2019
6時半、曇り、25℃、45%。
6時10分、停電。ルブンバシから昼帰ってきたら回復していた。
le mercredi 2 octobre 2019
7時、曇り、24℃、60%。
今日も6時10分、停電。7時50分、回復。昨日は8時半に外出したときもまだ停電していた。ともかく不規則。これはコンゴ。
サテライトTVの契約をCanal+社としているが、先月中旬から一部の局が見られなくなった。昨日Canal+に電話で抗議したところ、僕のデコーダーdécodeurが古いからだと云われた。古かろうが新しかろうが、提供すべき局数が減るのは契約違反だと迫ったが、馬耳東風。新しいデコーダーにすれば見えるようになるという。馬鹿らしい。新しいデコーダーを買わざるを得ない。27000フラン(1800円)だそうだ。キプシのCanal+でそれを注文。午後2時まで待てと。
このことはSamsungのバッテリー問題と似ている。僕のスマホが古いから、もう正規のバッテリーはないとSumsungが云ってのけた。古いといったって4年しかたっていないのだ。4年もすれば技術革新で新しいスマホが出ている。結局闇市でバッテリーを買ったが、40%も消費すると、急速にバッテリーの残量が数パーセントに落ちてしまう。朝完全に充電しても夕方までもたない。アビジャンでHuaweiのY7機種を買う羽目になった。メーカーは「ずるい」。従来の乾電池のように単1とか単3とか規格化する意思がないのだ。機種によってバッテリーが違うのだ。
昔は味の素をいれた食卓用の容器があった。料理に振りかけるのである。味の素社は、消費が頭打ちになった時に、容器の穴を大きくして味の素を余計に消費できるようにしたと聞いた。なるほど、ものすごい考え方だと感心すると同時に「ずるい」と思った。
資本主義の利点に競争原理がある。しかし、この競争原理が必ずしも機能しない。味の素のパテントがきれて、だれでも製造することができるようになり、今や中国やインドが似たようなものを作っている。グルタミン酸ソーダなのだから元から誰でも作れそうなものだったけれど。
丈夫で長持ちする車Voitureを作ったら良さそうなものだが、10年も20年も同じ車を運転されてはメーカーは新車が売れない。人口が増え、所得が増える成長社会ならいいが、そうでなければ、廃車してもらわないと売り上げがたたない。ハイブリッドになろうが、電気自動車になろうが、馬車から自動車に代わったほどの技術革命ではない。なのに、2、3年で車を買えかえるようにしむける。メーカーの陰謀にちがいない。
PCなども同じだ。Windows95(1995年)からいままで、PCがそんなに進歩したわけではない。
携帯電話からスマホも革命的とはいかない。ま、スマホのお陰でPCの役割が減ったけどね。
le jeudi 3
octobre 2019
6時、快晴、24℃、58.5%。
乾季はあと30日は続く。マンゴー雨は終わった。
6時10分、停電。6時からの10分でコーヒーのお湯を沸かしてしまった。今日の停電が何時まで続くのか興味あるところ。午前8時、回復。
昨日買ったデコーダーはHD(Haute définition)だそうだ。確かに画像が以前よりはっきりした(net)ような気がするが、受像機が変わらないのにHDとは。全局全画面表示になった。
le vendredi 4 octobre 2019
5時半、快晴、24℃、55%。
今朝は6時5分前に停電。10時30分、回復。ルブンバシに行きそびれた。壊したのに壊れたと云った庭師に植木ばさみを買うためだった。明日にする。
今日午後は僕の髪を切る。
le samedi 5 octobre 2019
5時半、快晴、24℃、50%。
今朝5時半に目覚ましを鳴らしたのは「オー、ミステイク」。
「オー、ミステイク!」というのは戦後1950年に起こった「日大ギャング事件」を思い出した表現だ。勿論僕も当時そんな言葉が流行ったことは、インターネットで21世紀になってから知った。面白い事件なので記憶に残った。
事件を起こした当時19歳の少年山崎啓之、今や88歳、生きているのか亡くなったのかネットで検索するも不明。強盗傷害罪で服役したが、20代で出所しているはず。時代の寵児になったが、メディアを利用して「ふてぶてしく」その後を生きる才がなかったのかなぁ。更生して社会復帰などしてしまったのだろうか。つまらない。
le dimanche 6 octobre 2019
6時、快晴、25℃、47.5%。
昼、日光浴をしていたとき停電。開始時間が分からないので13時半としておく。14時半、回復。
16時半からまた停電。16時50分、回復。
テニス北京オープンはティエムがチチパス君を破って優勝。女子はナオミちゃんが優勝。とくにナオミちゃんの優勝が嬉しい。日本オープン(大阪)での優勝も目出度いが、「ナオミちゃんには漂白剤が必要だ」などと云われて叩かれたのに、云い返しもうまかったし、なにより本業のテニスで2回連続優勝は嬉しい。
でもね、ナオミちゃん、やっぱり国籍はアメリカがいいぜ、自由だもの。オリンピックなぞ出場する必要ない。
『Untouchable』をサテライトTV Canal+の10月ボーナスのお陰でTF1で観た。初めてこの映画をみたのは南ア航空で日本に帰国する飛行機の中だった。良い映画だ。セネガル出身のオマール・シが素晴らしい。
le lundi 7 octobre 2019
6時、快晴、26℃、42.5%。
クリスチャンが夜になって帰ってきた。
またウソでかためた話をする。
21時ちょっとまえ、家から追い出した。今回こそと毎回思うが、何度許せばいいのか。
le mardi 8 octobre 2019
6時、快晴、26℃、42.5%。
le mercredi 9 octobre 2019
6時、快晴、26℃、42.5%。
26℃で朝から暑いかというと、湿度が低くむしろ涼しい。
シルバン氏にAirtel
moneyで$100を送った。クリスチャンのサッカーチームの医師によるチェックアップ費用である。
6時5分、停電。アッ、また始まった。初動が悪く、お湯が湧かせず。8時半、回復。
このあとも短い停電が断続的に1日中あった。
le jeudi
10 octobre 2019
6時、快晴、27℃、42.5%。
停電なし。
先月のブログを更新した。毎月のブログへのアクセス数をみると非常に低い。記事内容が悪いのかと思ったが、最近のブログにはタイトルとして日付しかなかった。タイトルに月のトピックを揚げるとアクセスが10倍以上になる。そこで、先月のタイトルを「ヤムスクロ」としてみた。
僕のブログ『アフリカの星』は2300ページ以上ある。2017年7月ごろまで毎日更新していた。それが半月になり、月ごとになった。月ごとにする理由が今はない。僕が怠けているだけだ。日誌は書いているもののブログを毎日更新する意欲に欠けている。
le vendredi 11 octobre 2019
6時、曇り、28℃、40%。
停電なし。
久しぶりに髪を染めた。「ビゲンA 黒」を使用。粉を溶かす量を忘れてしまったので適当に小皿で溶かしたが多すぎたようだ。短髪なので地肌が染まる。あれれ。
でも20歳くらい若返るなぁ。勝手にそう思うだけか。心は二十歳代なので、それでも爺さんだ。
テニスの試合をTVでよくみる。今週は上海。
テニス選手というと、日本では脚が短く、腿が太く、走りが安定しているのが相場だった。ところが世界標準は、上背があり、手脚が長く、筋肉質だがマッチョタイプではなく、スラリとした体格が多い。ドイツのズベレフ君が典型。
中国でもスイスは人気があるようだ。上海にスイス人の居住者が多いとは思われない。フェデレルの試合があった日、中国人の応援団が組織されていた。昨日のことだ。相手はベルギーのゴファン。フェデレルが得点する度に大騒ぎ。フェデレルの個人的人気だけではないだろう。中国人もスイスが好きなのだ。
日本人にも人気のスイスだが、イメージが良すぎる、誤解が多いのではないか。
le samedi 12 octobre 2019
6時、快晴、28℃、50%。
サイトウ君が家に来た。キプシに奥さん側の家族がいるのだという。「日本人を父親として生まれ、コンゴに置いてきぼりにされた子どもたちの会」の活動活性化を話しあった。今月または来月、総会を開いて子どもたちの結束を図る。もっとアグレッシブに日本大使館および日鉱に迫る。子供たちの年齢もすでに50近くになる。僕は常々孫の世代こそが問題で、孫たちの生活、教育が中心になると云ってきた。子どもたちに日本国籍を要求してもらう。日本国憲法による国民としての権利保障を求める。月1500ドルとして12か月で1万8000ドル、50年で90万ドル。50人いるとして4500万ドル。更に母親(日本人の妻)への補償を同額として、小計9000万ドル。90億円ならインパクトがあるだろう。孫の数を確定してさらに請求額を上乗せする。子供たちのことは金銭問題ではない、というのは誤りだと思う。父親探しもテーマだが、コンゴに「置き去り」にされたということを強調すべきだ。
le dimanche 13 octobre 2019
6時、快晴、27℃、40%。
上海のテニスは今日ファイナル、ズベレフ君(ドイツ)とメドベデフ君(ロシア)の試合だ。二人とも25歳にもならない。ズベレフ君はハンブルグ生まれだが、両親ともロシア人。メドベデフ君は、モンテカルロ(モナコ)住まいで、もしかしたらモナコ市民権を得てフランス国籍を将来取得するかもしれない。こうなると国籍など関係なくなるね。二人とも地球人でいいじゃないか。
le lundi 14 octobre 2019
6時、快晴、26℃、45%。
le mardi 15 octobre 2019
6時、快晴、27℃、42.5%。
le mercredi 16 octobre 2019
6時、快晴、28℃、45%。
10時半、停電。14時半、回復。
2006年、初めてRDCはルブンバシに来て住居を構えたとき、毎日ある停電や断水に驚いた。しかし、停電や断水があることによって、電気や水の有難味がわかるようになったと書いた記憶がある。けれでも、ルブンバシでは2019年になっても、電気・水とも、改善するどころか益々状況が悪くなっている。市民は諦めた羊であり、改善せよなどという声も上がらない。僕は、これは酷いと思う。僕も諦めている。電気が回復すれば、有り難いとおもうけれども、停電が電気の有難味を教えてくれるから停電や断水が貴重だとはもはや思わない。どうしようもなく酷い体制、最低の社会だと考えるようになった。
le jeudi
17 octobre 2019
6時、快晴、26℃、38.5%。
6時、停電開始、7時15分、回復。
8時45分、停電。10時半、回復。
11時05分、停電。回復は何と19時だった。Snelに連絡したところコルウェジで工事があり遅くとも18時15分には回復すると明言。これはいつも通り「ウソ」だった。良く解釈すれば、キンシャサ時間の18時で、カタンガでは19時となる。「18時15分とはウソじゃないか」といえば、口からでまかせで、いろいろ釈明するだろう。喉元過ぎれば熱さ忘れるで僕も「まぁ、いいや」となる。その毎日である。
le vendredi 18 octobre 2019
6時、快晴、26℃、40%。
6時、停電。10時半、回復。
漱石『こころ』をKindle本で読むことにする。1914年の朝日新聞連載。高校1年か2年の時に読んだ本である。当時は友情について考えていたから共感を覚えたはずだ。今は予感として、劣等感で満ち、また文章としてロジックがない(飛躍、主語の喪失)漱石と思っているから、どう読めるかな。
『こころ』の主人公は「先生」である。
先生というのは、尊敬、敬愛を込めた表現である。戦後、先生を「先に生まれた」とか「先ず生きている」として貶めた。そして先生らしい先生もいなくなったようだ。
僕が覚えている先生らしい先生は、高校1年の時に漱石の存在を教えてくれた国語の先生片岡氏である。非常に厳しい先生で初めての試験、学期の中間試験でクラス全員に落第点をつけた。僕はそれまで学校で落第点などもらったことがなかったからビックリした。試験問題は忘れてしまったが、ともかく記憶がよかった僕は、先生が授業で話したことを反復して回答した。先生の云うことをよく覚えていてそのまま回答したのだからそれでいいだろうと思っていた。それが通じなかった。自分で考えて回答しろということだったのだろう。また考える前によく調べてから書けということだったに違いない。論文試験だった。次の試験では、当時の流行作家だった松本清張を取り上げ、けちょんけちょんにやっつけた論文を提出して、まぁまぁの採点を得た。実は清張も余り知らずただ多分『砂の器』あたりを読んで、その文章の粗雑さを攻撃したものと思う。
片岡先生が、当時の歌舞伎を批判したことも新鮮だった。『勧進帳』で弁慶が富樫の前で勧進帳を読む場面がある。役者が誰であったか、あのような読み方では嘘がばれてしまう、役者は嘘がばれないように勧進帳を読み上げなければならないというのが先生の主張だった。富樫はしかし、嘘と知りながら、あっぱれな弁慶の心根に感心して弁慶、義経が関所を通ることを許してしまうのである。
僕は片岡先生を確かに畏敬したが、先生と個人的な関係を持とうとはしなかった。先生の家を訪ねたこともなければ、先生と立ち話をしたこともなかったのである。ただ遠くから偉い人がいるものだなぁと思っていた。年齢がお互い違い過ぎたのかもしれない。
大学に入って、2年生の時に樋口陽一先生と知り合った。樋口先生がフランス留学から帰ってきたばかりの時だ。購読の授業だった。樋口先生の最初の学生が僕たちだったのである。若い先生とやんちゃ坊主たちだったわけだ。Duvalierの文章を読んだ。僕の番がきたとき、plus ou moinsをリエゾンせずにプリュス・ウ・モワンと読んだら、「それはプリュズモワンだよ」と注意された。新鮮だった。
樋口先生とは教室以外でも付合いがはじまった。米が袋の家にもたびたびお邪魔した。
いまどきは、小学生でも海外に行く。ましてや大学生ともなれば、大学を休んでアメリカや南米、東南アジア、欧州に遊ぶ。海外留学生も珍しくない。いいことだ。だが当時のフランスは、荷風がいうほどなお遠かった。「あゝ、フランス、フランス」である。樋口先生も次は何時フランスに渡れるか分からなかった。10年後か20年後になるだろうと予想された。そういう時代だったのである。
樋口先生の書斎にコニャックがおいてあった。大切にとっておいたものらしかった。それを僕たちは、酒の勢いで、「ナポレオンですね、飲みましょう」といってみんなで飲み干してしまった。
『こころ』、たまらなく侘しい小説だ。なんで、高校生の時は意味ありげに読めたのだろう。酷く狭い世界が描かれている。
アセックスでもある。「恋は罪悪ですよ、そうして神聖なものです」などというのは正気ではない。漱石自身、恋amourを知らないのではないかと思う。彼のコンプレックスである。容貌もとしてあるだろうし、会話能力の不足も原因としてあったろう。コンプレックスはあってもいい。それが藝術の、小説の原動力になることもあるから。この小説、実際はありうべくもない人間関係、夫婦関係、語り部の青年と先生の関係を書いた観念小説なのかなぁ、漱石の独り相撲だ。
le samedi 19 octobre 2019
6時、快晴、26℃、35%。
6時半、停電。週末も停電かぁ。
回復は昨日よりも遅く20時半。
クリスチャンに炭を買ってきてもらって、鍋をあたため、夕食をとってしまった後だ。
le dimanche 20 octobre 2019
6時、快晴、26℃、45%。
『こころ』。観念小説ね。登場人物たちの「気持ち」が小説の流れなのだ。「気持ち」が。自分の気持ち、相手の気持ち、回りの気持ち。それは心理なのか、ちょっとそれとは違うように思う。
16歳の僕が、この小説を自分のものとして理解したとは思えない。倉田百三『出家とその弟子』を読んでいたはずで、実体験が全くないのに、頭の中で恋愛とは、性とは、異性とは等々を納得し、漱石や百三、三島由紀夫、川端康成などを評していたのだから不思議極まる。
小説の時代と今とでは、時代が違うといえばそれまでだが、僕は時代の問題ではないと思う。主人公の先生に潜むコンプレックス、ひいては漱石のコンプレックスがこうした小説を書かせたのだと思うのである。
16時半、『こころ』読了。読み終えたが、苦痛を伴った。文章は平易であるが、味わいがない。リズムがない。美文調では勿論ない。苦痛なのは何故か。感情移入ができないからである。教えられることが何もない。有閑。
いちいち文句がつけられるが、つける気がしなくなる。
le lundi 21 octobre 2019
6時、快晴、26℃、45%。
5時50分、停電。19時25分、回復。今日の停電も長かった。
電力会社Snelによれば、今度はインガダム発電所の修理だそうだ。原因がコルウェジどころではなく、キンシャサの東のコンゴ河の発電所の所為になった。次は水、金と大幅停電するという。そうかい、勝手にしやがれ。
バケツを買った。薄いプラスチックのバケツが壊れた。肉厚のバケツを探したがない。多少丈夫に見えるバケツをジャンボ・マートで求めた。
le mardi 22 octobre 2019
6時半、快晴、27℃、38.5%。
6時に目が覚めたら停電していた。「畜生!」、嘘つきSnelだった。
10時半、回復。昼飯に間に合った。
野間秀樹『ハングルの誕生』読了。「音から文字を創る」という副題。15世紀中葉に世宋(セジュン)が創った文字だ。今日のハングル。ひらがな、カタカナは漢字から創られたが何時だれがというのははっきりしない。野間氏には相当の思い入れがあり、文字を音から創ったなどというのは革命的だと云う。そうかもしれない。だが文字とは話されている言葉を表記する手段として発明されたのであり、驚異驚異と騒ぐこともなかろうにとも思う。また、その文字が美しいかどうかは受け取り手の問題だ。ともかくハングルが成立した経緯は面白かった。ヒトの叡智として感心する。
僕はソウルの友だちを尋ねるときにちょっとハングルを習ってみたことがある。アルファベットという理解だったので、ハングルの組文字には参った。地下鉄の駅の名前ぐらい読めた方がいいだろうと思ってハングルを習った。
言語は生きているので時代とともに変化する。ハングルが万能で、全ての言語を書き表せるというのはどうかな。確かに子音文字があるので、仮名よりも正しくフランス語をも書き現せそうだけれど。
PC時代に入って、朝鮮語にも日本語同様に漢語から来た単語が多い筈で、これを漢字変換するのも簡単に出来るようになった。漢字交じりのハングルが普及していいのではないか。漢字は「読んで字の如し」という便利さがある。アルファベットでは無理なのだ。いくらABCを眺めても、知らない単語は分かりようがない。
アフリカでハングル(正音)より古い文字をもっていたのはどうもエジプトとエチオピアしかない。調べてみるとンコ文字などあるにはあるが、ハングルのような体系性がなかったと思う。近代国家成立前に植民地化されてしまったという事情がある。言語の植民地化である。朝鮮は日本が植民地化したが、朝鮮の歴史文化は日本よりも古くから発達しており、いわば先達で、朝鮮語は日本語によって消されなかった。駆逐されなかった。よかったと思う。
ルブンバシでは、スワヒリ語が庶民の言葉だ。だが、ローカルで話されているスワヒリ語の中にフランス語が混じって入ってくる。特に数字がフランス語になってしまう。成句としてのフランス語も混じる。中学校以上では教科が全てフランス語だ。しかし、間違いだらけのフランス語しか大学生でも書けない。つまり、フランス語もスワヒリ語も正しく話せない、書けない市民になってしまった。同じことが、リンガラを話しているキンシャサ市民にもいえる。フランス語圏で最大の人口がある国がここRDC(コンゴ民主共和国)である。だから、言語による植民地支配は終わっていないともいえる。しかし、正しいフランス語が浸透しているかというとそうは云えないのだから、RDCの国語がフランス語であるとはいえない。文化果つる国で、フランス語による小説、詩、戯曲が殆どここでは作られていない。小説家がいるにはいるが、読む市民がいない。本屋がない。映画館もない。
le mercredi 23 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、42.5%。
5時40分、停電。なんと6時に回復。tant mieux ! その後停電なし。
もともとわけの分からない国だから、定期性はない。
親鸞 |
倉田百三『出家とその弟子』読了。この本は初めて読んだ。若い時に読んだというのは誤りだろう。そのころ読んだのは『愛と認識との出発』に違いない。『出家とその弟子』は戯曲。親鸞とその弟子唯円の物語。非常に面白く読んだ。『歎異抄』は学生の時に齧った気がするが覚えていない。戯曲中の親鸞の言葉には聖書からとった表現があると思う。親鸞、しかし、面白い人物だ。他力本願だよね。法然から来たのか。倉田百三の「他力本願」の解釈は正しそうだ。
カトリックの世界で親鸞は同時代のイタリアはアッシジの聖フランチェスコだなぁ。僕はフランチェスコの方が好きだ。
le jeudi
24 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、50%。
5時55分、停電。5時半に起きているのはコーヒーのお湯を沸かすため。
『愛と認識との出発』。文章の格調が高い。当時のインテリ青年たちに洋の東西の必読書とされた哲学者、文学者、芸術家が縦横にでて来る。衒学的なのか常識だったのか。
僕の苦手な或いは嫌いな形而上学的思考がちりばめられている。
スマホでゲームを楽しんでいる現代の若者たちの頭は空っぽなのだろうか、いや、それでも悩み多き青春を過ごしているのだろうか。大学人ではない僕には、青年の実態がわからない。
ショーペンハウエル、ニーチェ、ゲーテ、ダンテ、ユーゴ等をそして、倉田が書いている時代より後のサルトル、ジュネ、フーコー等が青年の常識として棒にとっても作品を読む動機になっていた。
倉田百三 |
アフリカに来たいという若者が増えているのだそうだ。アフリカにNPO活動や国際機関に入ったり、起業しようとやってくるという。「アフリカが好き」だと。どうして?
le vendredi 25 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、47.5%。
今のところ停電なし。明日はあるそうだ。
le samedi 26 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、40%。
5時20分、停電。湯沸し間に合わず。と思ったら6時5分回復。そして6時40分、再び停電。その前にコーヒーを飲んでしまった。次に回復したのは20時10分。あゝ~あ。昼間PCのバッテリーが切れ、インターネットモデムのバッテリーも切れてしまう。最低の国だ。
西田幾太郎『善の研究』、倫理学の諸説一。善悪は直覚で判断できるという直覚説の否定。これは全く同感である。ま、当たり前だ。しかし西田はここでは「科学的に」書いている。何が善で何が悪が直覚説では「証明ができない」というのはよろしい。
倫理学の諸説二。権威説の否定。この説ではわれわれの「道徳的動機」を説明できないからと退ける。ま、いいだろう。だが、「動機」を持ち出すならば、その「動機」の説明がなければならない。
倫理学の諸説三。自律的倫理学(合理説、快楽説、活動説)の分類。論理の判断と意志の判断を別として、理性だけで善悪は判断出来ないとする。では意志の判断とは何かを西田はまだ言及しない。
倫理学の諸説四。快楽説。利己的と公衆的快楽説を分けるが、快楽を求めるために善をなす説を一部認める。我々には「他愛の本能」があるとして、善をなすことが快楽であるとの快楽説の説明を原因と結果を混同していると云う。さて、では「他愛の本能」に西田が帰すのが善をなす原因(動機)なのだろうか。突如出て来た本能とは果たして証明できるものなのか、ここまでではわからない。
le dimanche 27 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、40%。
次章で活動説が提示される。これが西田の善になる。即ち、意識の内面的要求より説明されるが、快楽説をとらず、「本能という如き先天的要求が快不快の感情よりも根本的である」という。しかも善は「かくある」という定義に満足せず「かくあらねばならぬ」という方向にむかう。こうしてみると西田は倫理に入り、哲学から離れると僕は思う。活動説は倫理学説となる。善とは自己の発展完成となってしまう。善は美と一致し、真と善も同一となる。
人格的善において、倫理から哲学にもどる。改めて善の定義である。ここで「本能」に修正が入る。即ち「意識活動がいかに本能的といっても、背後に観念活動が潜んで居らねばならぬ」となった。観念活動を支配するのが理性と既定するから、本能的意識活動は理性に還元されると思われる。それは「中庸」でもあると。次に「人格」が理性の上位としてでて来る。「人格」は自発的に活動する無限の統一力だとする。
人格の要求が善であるわけだ。なるほどね。わかったようなわからないような。大上段に構えるようなことかなぁ。ともかく「人格的要求に反したときはかえって悪となる」という。「至誠はそれ自身において善」ともいう。人格を発現する行為は、内面の要求に従った行為で、それが善行為であり、これは愛と述べる。だから「真 の 善行 という のは 客観 を 主観 に 従える のでも なく、 また 主観 が 客観 に 従う のでも ない。 主客 相 没し 物我 相 忘れ 天地 唯一 実在 の 活動 ある のみ なる に 至っ て、 甫 め て 善行 の 極致 に 達する ので ある。」
『善の研究』の欠陥はどこにあるか。僕は正に「ある」から「あるべき」を追及したことにあると思う。文章は上手い。洋の東西、古代ギリシャ哲学からデカルトまで自由自在に渉猟する。東洋哲学にも明るい。読んでいて楽しい。しかし、騙されてはいけないな、と思う。
『善の研究』は「研究」ではなく、倫理の教科書になってしまった。そして証明のできない人格に行きついた。これは批判ができないものを柱にしている。そこが形而上的なのだ。
西田幾多郎、伝説の人物だ。だが、純粋経験などと云って、例えばデカルトから何を学んだのだろう。先ず、全てを疑うのがデカルトじゃなかったかな。即ち、西田は現実世界を批判しない、できないのではないか。あるがままの受容。
四高を退学させられたようだが、それは自由を求めたのだろうか、とすれば僕の理解を改めねばならない。しかし、天皇制、軍部を批判できたかどうか、それは西田の良心の問題である。良心に従うのが善なのだから、訊いてみたいのだ。
僕は戦争は国家の犯罪だと思っている。それこそ「悪」なわけである。「善」なる戦争はない。戦争をせざるを得なかったというのは、外交の破綻であり正当化できるものではない。聖戦などというのは欺瞞、国民を騙すことだ。
コンゴ東部の戦争にしても、武器を買う資金源はなにか、武器を売っているのはどこの国なのだ、犠牲になって逃げ惑う住民がいる。命が軽い。どこに正義があるのか。
西田が軍部批判をしたかどうか知らないが、大東亜戦争を始めた世代は、旧制中学、高校、大学の時に西田を読み、善について西田に感銘した世代であろう。彼らは大東亜戦争を善行だと思ったのだろうか。そして敗戦後、掌をかえして総懺悔をしたのだろうか。そんなインテリを作ったのが西田哲学だと僕は思うのである。
le lundi 28 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、50%。
6時40分、停電。これも変則。今日から停電はないとSnelは云っていたがこれだ。
19時45分、回復。長い停電、もういやになる。
le mardi 29 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、50%。
今のところ停電せず。
今月は停電が多かった。月の初めは断続的、下旬は長時間停電が続いた。Snalが定期停電délestageと云い始めたのは22日ごろから。
緒方貞子さんが22日(火)亡くなっていた。享年92。今日の発表。彼女にはUHCR難民高等弁務官をされていた時、1990年代にジュネーヴでお会いしたことがある。かっこいい、と思った。改めてWikiを読むと、国連でも下積みから階段を登ったのではなく、大学人からの横滑りで、エリートだったなぁと思う。貴族で、国連などは相応しかったのではないか。
現場主義とおっしゃるが、国連職員の宿舎は、ルブンバシでも高級住宅街にあって、$2000も$3000/月もする家賃のところにお住まいだ。僕の家は広い、敷地2000M2といっても$200ですぞ。桁違いだ。難民キャンプに行かれても、キャンプで泊まったことがあるのだろうか。世界の最貧国が集まるアフリカに来られても、どこの最貧国でもガイジン用のホテルやレストランがある。自衛隊のいた南スーダンだって同じだ。欧米のNGOだって、職員の給与は高いし、アコモデイションもいい。国連と違いはない。貧しいアフリカを助けるなんて冗談じゃない。
ま、緒方さんのことから口が滑った。この辺で止めておこう。緒方さんは偉い方でした。
le mercredi
30 octobre 2019
5時半、快晴、28℃、50%。
室内は28℃だが、朝、窓をあけると冷気が入る。多分5℃以上外が低い。しかし、直ぐ温度が上がっていく。週末には11月にはいる。雨季の到来が目の前だ。
今日も停電がないかなぁ、と思ったら、
10時、停電。長くないといいが。ふざけているよ、全く。
10時25分に通電、5分でまた停電。12時半、回復。
『善と研究』読了。前に書いた感想は第10章人格的善までのことである。その後、善から宗教に言及する。主観客観の合一、神と人の合一までくると、「もう、いいや」と思うようになる。「西田教」だね。
学生の頃、マックス・ウェーバーを中心に客観について学んだ。学問の客観性であった。西田は学者、宗教学者よりも宗教家だ。ウェーバーはあくまで学者で宗教家ではなかった。
5時半、夕立。大粒の雨。愈々、雨季の到来だ。暑さも峠を越す。
谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』。タイトルに惹かれて読むことにした。僕もどうも瘋癲老人の仲間入りをしているのではないかと思って。
小説の時代は読んで行くと戦後、それも1960年ころか。学生デモの話が書いてある。
主人公の老人、とてつもなく老人、年寄りだなぁ。77歳。そうなるのかな、不安になるじゃないか。芝居に詳しい。日本食のグルメ。僕も思い残すことはないので、本当に瘋癲になる前に、ぷっつりと逝きたい。
le jeudi
31 octobre 2019
5時半、快晴、26℃、55%。
6時15分、停電。18時20分、回復。ところが、21時に再び停電。
9時半、『瘋癲老人日記』面白く読了。瘋癲とはいうものの、それほど気がふれているわけじゃないなぁ。生に執着はないのかもしれないが、生きているのは性欲と食欲のお陰らしい。性欲と云っても他愛がないと思う。足フェチだ。マゾもある。女性に意地悪されて喜ぶとは。僕は嫌だね。
颯子という息子の妻に岡惚れしている。颯子は30代の女性。一人息子がある。女性の美しさは30代から50代中ごろまでがピークだろう。初産後は「親でも惚れる」という。小悪魔的魅惑の女性らしい。勿論、老いても美しい女性もいる。気品があった緒方貞子さんのような方もいる。しかし、艶なのは50代半ばまでだろう。
老人が血圧をあげて興奮するさまは可笑しくて笑い出してしまった。あとは病気の話ばかりでつまらない。菩提寺や墓のことも、ブルジョワ趣味で「へ~」っと思うが関心がない。
谷崎は1965年には79歳で没している。この作品、最晩年になる。薬に詳しいのは谷崎自身が処方されたためだろう。心不全で亡くなっているが、心臓がもたなくなったためで薬漬けの所為じゃないのだろうか。老衰ともいえる。だが、80歳で元気に仕事で世界を飛び回っている笹川陽平さんのような方もいる。79歳は運命か。
インターネット契約が切れたようだ。先月27日に12Gの契約をしているのに、そんなにメガを消費したかなぁ。切れても、「切れたよ」という報せがない。
ブログに今月号を出したいが、ネットが使えない。明後日プロバイダーのところに行ってみよう。
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