le
mercredi 1er janvier 2020 元旦
6時、曇り、25℃、70%。
新年おめでとうございます。
子年。
『L’Étranger』。母が施設で死んだ日を知らない、今日であったか昨日であったかというが、通夜に間に合っているし、埋葬まえに施設に行っているので、結局は母の死を電報を受け取って知っているということだ。
Meursaultは棺に納まった母の顔を見ることを拒否する。僕も1985年に父が他界したとき、スイスのルガノから帰国、父の棺を東京の家でみたが、やはり父の顔を見るのを拒んだ。特に父が葬儀屋が用意した死出の旅装をしていると聞いて余計見たくなかったのだ。父とは同じ年スイスから客を連れて帰国したとき、帝国ホテルの寿司屋で会った。その時父は元気だったが、その姿を最後にしたかった。葬式などになるとしゃしゃり出てきて段取りをする弟子たちを僕は憎んだ。葬式で飯をくらい酒を飲み、型通り故人の思い出を話し、僕に「お父さんそっくりですね」などという連中を憎んだのである。どんなに葬式をぶち壊してやろうと思ったか知れない。
施設で通夜をあかし、村の教会、墓地まで日照りの中を歩く。5年いた施設で、母と仲がよく、フィアンセとまで揶揄されたペレスさんと歩く。が、特にペレスさんと会話はない。
母親の施設があったマレンゴMarengoはアルジェリア独立後ハジュトHadjoutと名前を変えた。首都アルジェから西に正確には75km。ローマというよりはフェニキアだとおもうが、遺跡があるティパザTipazaの南に位置する。海岸にあるティパザにはモザイクも残っており、観光地になっている。僕も何回も行っている。近くにクレオパトラの墓があった。クレオパトラ・セレネ2世のことのようだ。眺めがよく、「邦はまほろば」という言葉を思い出していた。
アルジェ港で海水浴。当時1930年後半、海が汚れてなかったんだ。そこで元同じ会社でタイピストをしていたマリー・コルドナ嬢と偶然あう。彼女と夜に映画に行く。フェルナンデルという喜劇俳優の映画だ。フェルナンデルの映画は面白いが下らない映画が多い。時間をつぶすための映画かな。いまでもフェルナンデルの映画がよくTVで流れる。同じ喜劇俳優ルイ・ド・フュネスと双璧だろう。
le jeudi 2
janvier 2020
6時、小雨、24℃、70%。
『L’Étranger』。主人公Meursaultの住んでいるところはBelcourt地区にちがいない。リヨン通りが近いとあった。ベルクールはAlgerの中心から空港に向かう途中だから、アルジェの南南西にあたる。海岸から遠くない。平地にできた街並みである。中流の下といった階級が住む地区だ。
僕はその通りにあったドイツ人がやっている歯医者に行ったことがある。独立前からアルジェにいたと思われるかなり年老いた歯医者だった。診療室も古く陰気だった。その医者は直ぐに「抜きましょう」。そこで僕は這う這うの体で逃げ出した。そのドイツ人に直してもらおうと思った歯は、数年後ジュネーヴで治療した。勿論抜かなかった。
一方、僕がホテル住まいを引き揚げて、部屋を借りたのはテレムリーであった。テレムリーは街の中心からひたすら丘を登ったところにある住宅街で、事務所のある通りから階段が何百段もあったろう。借りている途中で部屋が変わって、山側から港の見える部屋に移った。絶景だった。大家さんは母子家庭で、障害のある16歳くらいの少年がいた。多分小児麻痺のために這ってしか動けなかった。1年もいただろうか、テレムリーから事務所がとてもちかいディドシュムラトDidouche Mourad 99番地に引っ越した。旧ミシュレMichelet通りである。事務所は同じ通りの72番地。Blue Noteという飲み屋のある建物の屋根裏部屋を借りた。2部屋+台所、バスルーム、トイレ。自炊ができるようになったのが嬉しかった。
閑話休題。Meursaultが隣人レイモンの部屋でブダンを食べながらワインを1本あけてしまい、浮気をしているらしい隣人の女友だちに、レイモンに頼まれて手紙をしたためる場面がある。思わず笑ってしまった。こんな挿話があったことを僕は全く忘れていた。ムルソーは相変わらず「どうでもいいや」と思っているのだが、レイモンは感激して「君は僕の友だちだ」。Vous(あなた)からTu(君、お前)への勝手な転換をする。
ラテン語系言語で「あなた」(Vous, Lei, Usted)と「君」の違いは、基本的には上下の身分関係ではない。勿論、植民地時代、フランス人がアフリカ人にたいしてTuを使えば、多くは、親しみよりも、相手を卑下した言い方であった。しかし、同じフランス人同士なら、人間関係の距離を表す。従い、社長と社員、先生と学生の間でTuをお互いに使うことができる。日本語では、先生に「君」と呼びかけるのは難しい。その昔、フランス貴族の家庭では親子でもVousを使ったようだが、普通は親に向かって子もTu(Toi)と云う。
もっとも、現代では若者の間では、さして親しくなくても初めからTuを使うようになっている。
le
vendredi 3 janvier 2020
6時、小雨、26℃、67.5%。
母は妹の世話になっている。アルツハイマーは進行している。妹が下の世話をしないといけないようになった。妹のストレスがたまるわけである。不実な僕は妹に任せっきりで申し訳なく思う。
『L’Étranger』。ムルソーMeursaultが働いている小さな会社は、初め船会社かと思ったが、船の運行をしていない。乙仲(海運貨物取り扱い業者)ないしフォワーダーだ。
僕が大学卒業後初めて入った会社は船会社であった。日本の船会社K-Lineはコンテナ時代に入ったばかりで、大変な競争にさらされていた。国内外の熾烈な競争を経て現在も生き残った。経営陣がしっかりしていたと思う。大手の山下新日本、ジャパンライン、昭和海運も消えてしまった。
この乙仲のオーナーがパリ支店を開設したらムルソーにパリ勤務をしなかと誘う。普通なら小躍りするところだ。ムルソーは「別にどうでもいい」と思う。パリの印象を女友だちに訊かれて「汚いところだよ」と応えている。
「どうでもいい」というのは投げやりな意味ではないようだ。「わからないje ne sais pas、どっちでもいいんだça m’est égal」という科白が何回も繰り返されるけれども。女友だちに世辞を云うことも出来るし、隣人と自宅で語らうこともしている。
アラブ人をピストルで殺してしまうわけだが、アラブ人がレイモンやムルソーの後をつけていた原因は、レイモンが女友だちに仕置きをした、暴力をふるった、その復讐であった。アラブ人は女友だちの兄弟だった。アラブ人は短刀をもっていた。既に穏やかではない。灼熱の太陽の下、ムルソーは「不幸の扉を叩くように」4発の銃弾をアラブ人に浴びせた。
le samedi 4 janvier 2020
6時、うす曇り、25℃、70%。
『L’Étranger』。裁判所Palais de
Justiceが登場する。以前は街中の旧アレティ・ホテルからPort Said広場に通じる道にあったが、今はフセイン・デイ地区に移ったようだ。
元の裁判所には僕も被害者として出廷したことがある。街中で夕食後、いつものように酔ってテレムリーの家に帰る途中、旅券などが入っていた僕のバッグを掠め取った少年が被告だった。後日、盗んだ少年の名を不良少年の仲間の一人が僕に告げた。そこで、その少年を警察に訴えたのである。少年が逮捕された日、母親が事務所に来て、大声で泣きわめいて、事務所でちょっとしたスキャンダルを起こしてくれた。身振り手振りよろしく、息子の罪をゆるしてくれというのである。どうせ常習犯だと思ったから、僕は彼を許さず、裁判になった。裁判は即日判決で少年は刑務所送りになった。ところが、裁判所を出たところで、少年の兄と称する男が、僕に頭突きを与えた。ナイフで刺されなくてよかった。その男は直ぐに警備員に拘束された。この男については、更に訴えることはしなかった。
男は、Camusの小説風にいえば、「アラブ人」である。しかし、顔つきからいえば、カビリー人だったと思う。植民地時代のアルジェリア人はみんな「アラブ人」にされてしまっている。アルジェリアにはいわゆるアラブ人の他に、金髪や青い目もいるカビリー人、南部のトアレグ人など様々な人種がいる。アラブ人は目つきが悪いというのは偏見で、犯人の少年は中々の美少年だった。
le dimanche 5 janvier 2020
6時、曇り、25℃、67.5%。
『L’Étranger』。ムルソーは裁判で、非常識な生活態度を指摘されて、死刑を宣告されてしまう。フランスはミッテラン時代の1981年になってやっと死刑を廃止している。最後に執行された死刑は1977年マルセイユだそうだ。死刑になったのはチュニジア人。この死刑もギロチンである。
僕が1972年パリで初めて住んだ場所は、Square Port Royalでトマ夫人がオーナーの屋根裏部屋だった。その広場Squareの真向いが有名なサンテ刑務所である。そこには死刑囚もいたらしい。死刑執行は刑務所の前で公開されていたというが、僕はみたことがなかった。サンテ刑務所は2014年に改築されて2019年には再び受刑者を収容している。
ギロチンが置かれているのは地上で、断頭台にのっかって、階段や梯子を昇ってギロチンに首を差し出すのではないとMeursaultが気が付く。台の上じゃないと見物人からよく見えないじゃないかと思うが、地上なのだと。
ついに出て来たCamusのキーワード。『L’Étranger』の末尾で「この不条理な人生cette vie absurde」。不条理Absurdeというのは、何か難しい言葉のようだが、Absurdeの翻訳を「不条理」とした翻訳者の仕業である。Absurdeとは単に「阿保らしい」ということで、それ以下でもそれ以上でもないのである。
ムルソーはギロチンにかかる自分を見に多くの見物人が来ることを望む。それは、一人でも多く来れば「淋しくない」からだという。
畢竟、ムルソーは無情な男、感情のない男、異邦人Etrangerでもなんでもない。絶望なんかしていない。
母親のことを思い出して、何故彼女が施設で「フィアンセ」をこしらえたかを理解した。母は死にむかって、新しい人生を歩みたかったのだとムルソーはいう。新しい出発である。ムルソーも死刑をとおして、新しい生を意識している。その新しい生がまた当然Absurdeであることも承知している。
教誨師との問答も、教誨師を拒否したという現象のみを取り上げるきらいがあるが、実際には教誨師と哲学的会話を展開している。ムルソーは無神論者というけれども、彼はむしろ復活を信じているのだと僕は思う。
フランスは政教分離laîcutéを現憲法にも規定してているし、1789年の革命後の人権宣言でも既に信教の自由がうたわれている。1905年の政教分離法がある。しかし、一般社会の道徳は別で、カトリックなりキリスト教の影響が極めて強い。
Meursaultが検事に神を信じないのかと問われるようなことは、Meursaultの信教の自由を犯しているわけである。
23時半、落雷で停電。
le lundi 6 janvier 2020
6時、晴れ、25℃、65%。
8時現在停電中。
le mardi 7 janvier 2020
6時半、小雨、24℃、65%、
なお停電中。雷が落ちて、ショートした場所が特定できない。電線は地下埋蔵だ。こりゃあ、時間がかかりそう。今日中に回復しないかも。
22時、2日ぶりに回復。あゝ、有り難い電気。
21時には回復と云っていたマルタンさん、ま、1時間の遅れなら、キンシャサ時間の21時だからいいか。
午前中、10時から12時まで、PCおよびスマホの充電のためにサイバーカフェにいた。PCが2台しかおいていない小さなオフィス。2000フランと良心的値段にしてくれた。
le
mercredi 8 janvier 2020
6時、快晴、26℃、65%。
7時50分、停電。洗濯の途中。
回復は17時半だった。さらに20時10分、再び停電。
1時に起きたら通電していた。
le jeudi 9 janvier 2020
6時半、曇り、24℃、65%。
湯沸しポットbouilloireが壊れたようだ。これも3か月に一度買わなきゃいけないのか。
エリック神父さんと、別件でお会いした時に出た話。
「モイーズ知事が辞任してから、ストリートチルドレンがルブンバシに増えましたね。モイース知事のころは、サレジオ会だけでなく、知事も家のない子どもたちを施設で世話をしていましたが、2018年ころからチルドレンがあふれています」
「そうなんだよ、サレジオ会では男の子しか収容できないんだ。いま、女の子がいっぱい通りで寝ているようになった。女の子を収容する施設建設を計画中なんだ」
エリック神父は僕より6年下だが、現役で子どもたちの世話をルブンバシの中心にある「バカンジャ」という施設でしている。コンゴ40年のベテラン神父さんである。
毎週、火曜と金曜日にルブンバシの街中や郊外を夜中まで見回るのだそうだ。女の子がそちこちにいる。幼い10歳から15歳の子が買春をして生活していると。客はバイクやタクシーの運転手だったり、普通のオジサンだったり。カラビアの橋の下で買春している。あそこがたまり場になっている。カタンガ州はまだ家族の結束が固いともいえるが、カサイ州から来る子どもたちは、家族から見放されて、ルブンバシまではるばる流れてきている。早く施設を女の子用にも建てたい。今、新しい知事に街中の物件を提供してくれるよう頼んでいるけれど返事がない。
サレジオ会はルブンバシで優秀な子を集めた小中高一貫校「イマラ校」や郊外に職業訓練校「青年村Cité des jeunes」を経営、広大な農園もあるお金持ちの修道会だが、あふれたストリートチルドレンをさらに収容できるほどの余力がなくなってきた。
僕は、日本のサレジオ会、ここにいたアスンタシスターの所属するフランシスコ会、さらには日本大使館にも声をかけてはいかが、と多少無責任ながら提案した。
le vendredi 10 janvier 2020
6時半、晴れ、24℃、65%。
le samedi 11 janvier 2020
6時、晴れ、24℃、70%。
le dimanche 12 janvier 2020
6時、小雨、23℃、72.5%。
今日はアビジャン行きのために先ずエチオピアのアジスアババへ飛ぶ。1泊後、明朝アビジャン向けフライトに乗り昼過ぎに着く。
毎度のことだが、ルブンバシ空港が一番やっかいで、警察や税関が賄賂請求で煩い。
le lundi 13 janvier 2020
アジスアババ、5時、晴れ。
12時20分、アビジャン到着。
le mardi 14 janvier 2020
アビジャン、6時、曇り。
le mercredi 15 janvier 2020
アビジャン、6時、曇り。
le jeudi 16 janvier 2020
アビジャン、6時、曇り。
le vendredi 17 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le samedi 18 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le dimanche 19 janvier 2020
アビジャン、6時、曇り。
90km東のアシニへ。新高級リゾートだが、まだまだ開発中。ラグーンの水が汚いのがいつも気にかかる。
le lundi 20 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le mardi 21 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le mercredi 22 janvier 2020
アビジャン、6時、うす曇り。
le jeudi 23 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le vendredi 24 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le samedi 25 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le dimanche 26 janvier 2020
アビジャン、6時、晴れ。
le lundi 27 janvier 2020
アビジャン、6時、うす曇り。
le mardi
28 janvier 2020
le
mercredi 29 janvier 2020
le jeudi 30 janvier 2020
アジスアババ、晴れ。
アジスアババ空港を9時50分発。時差がルブンバシとは1時間あるので、ルブンバシ時間では8時50分。12時15分にはルブンバシ空港に到着。
運転手ルディさんに連絡。「えっ、もう着いたの」。ルディさんも慌ててたようだ。今回はスーツケースも早く出て来た。
アジスアババ空港にも、また機内にも中国人が多い。彼らはみなマスクをつけていた。武漢から流行し始めたコロナヴァイルスの所為だ。
機内で『Parasite』を観た。昨年カンヌでパルムドールを受賞した映画だ。日本映画は『コンフィデンスマンJP』もあったが、これは今回の出張でアジスアババからアビジャンに向かった飛行機の中で見てしまっていた。日本でも今月公開になった『パラサイト』、フランス語では同じ綴りで「寄生虫」のこと。
昨夜ホテルで寒くて眠れず、朦朧とした頭でみた『Parasite』は、英語吹替えで余計に内容がつかめなかった。機会があったらまた見たいと思う。
le vendredi 31 janvier 2020
6時半、曇り、24℃、72.5%。
カミュの『L’étranger』関して僕の思うところを書いて今月の〆とする。
主人公Meursaultに僕は同感するところが多い。Meursaultの考えに大まか賛成なのだ。これには時代背景があろう。21世紀、2020年の日本を思うと、反動的価値観に呆れるのである。
家族制度、家元制度、日本の伝統文化、価値にに反発したのが僕の青春であった。「何々道」、全てを「道」にしてしまう日本の価値も我慢ならなかった。
今や老いも若きも復古調、伝統の肯定、無条件での受け入れに傾いている。反動のグローバリゼイションといってもよい。
結婚式、卒業式、成人式、葬式など式が復活している。
結婚がもてはやされ同性でも結婚がよいとされる。減税になるなどの経済的理由による結婚ではなく、制度としての結婚が社会的に認められたことになる。「お互いに好きなら一緒にいたらいいじゃないか」では済まされない世の中になっている。
ヒッピーは何処かに消えてしまいアーチストや土産物屋になってしまった。
個人主義は利己主義に解消されて、「世間」は一般社会に昇華した。そうしてムルソーは今もまた「変わった奴Etranger」である。「反抗的人間」などとんでもない。
イヨネスコやベケットの戯曲、カフカは解釈されても、その哲学は遠くに追いやられた。
Camusの『Le Mythe
de Sisyphe』を再読しよう。カナダの電子図書館からPDF版をダウンロードできる。
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