今年は溝口健二(16・5・1898-24・8・1956)没後50年にあたるそうだ。
そこで溝口の映画が再上映される機会が日本でも増えた。
小津安二郎(12・12・1903-12・12・1963)の場合は数年目に生誕100年
を記念して再上映がなされた。
小津の写生は退屈である。溝口の幽玄はesthetiqueである。
掲題の映画『山椒大夫』は僕が最も尊敬する森鴎外の作品が原作。
再三鴎外の日本人とは思えない文章の論理性について僕のHP
『Jardin d'Epicure』で述べた。
1954年Mostra de Venise(Mostra Internazionale d'Arte
Cinematografica)で銀獅子賞(第2位)を受けた。脚本は八尋
不二と依田義賢の二人。
映画と原作を比べてみる。
先ず、原作では厨子王姉弟の母は三十を超えたばかりとあるから、
溝口の三五六歳の設定とは異なる。三十が満年齢ではないとすれば
更に母は若いのである。それでなくば原作にはないけれど遊女には
売れないだろう。何故年齢を上げてしまったのか不可解である。
母親を遊女にしたことに対して、いかにも溝口らしいとコメント
した映画評論家がいるらしい。そうなのですか。僕はそこに現実性
を特にみない。
また姉ではなく妹にしている。
親子を騙すのが山岡大夫ではなく巫女。野宿しようとしたのは応化橋
の下であって山中ではない。越中境の方角の岩陰に人買いたちが待って
いた。波打ち際で別れ別れになったのではない。「安寿は守本尊の
地蔵様を大切におし。厨子王はお父うさまの下さった護り刀を大切
におし」と母親に云われる。厨子王に観音像が渡されたのではない。
姥竹は入水する。船頭に突き飛ばされたのではない。母も入水を試
みるが買った商品をみすみす二人も失う船頭ではなかった。
溝口は「慈悲を持たぬものは人ではない」と父が厨子王に言ったことに
している。これが溝口のモチーフで、何度も繰り返されるが原作にはない。
名を名乗らぬ子供たちに名をつけるのは、大夫の子(映画では一人しか
いないが、人情ある長兄は焼印を嫌って早くに出奔、二郎、三郎の三人
がいる)ではなく、大夫その人である。
焼き鏝を当てられた安寿と厨子王の傷が地蔵尊の奇跡で治る場面を溝口は
採用しない。焼き鏝も奇跡も夢なのだが、それが鴎外では大事な場面で、
このときを境として姉安寿の様子が変わる。安寿は十四、厨子王が十三の
とき、山椒大夫のところに来てから翌年、そこを抜けだす。大人になるまで
待っていたのではない。地蔵尊は山を抜け出すときに姉から弟に渡される。
厨子王が病気の奴婢を担いで山寺まで駆け走るとした溝口のリアリティー
とは何だろう。無理なことをさせる。
関白に直訴するという筋立てを考えたのは誰か。これでは江戸期の直訴
だ。おかしい。鴎外の関白が守本尊を貸してくれと厨子王に頼む話の方
が自然。溝口のやり方ではまるで四十七士の仇討ちだ。または山椒大夫
を追放することによって、奴婢を解放することによって、厨子王を革命
の志士にしてしまった。奴隷解放で、山椒大夫一家は、その思いとは別に
motivationを与えられた使用人たちのお蔭で一層栄えたとする鴎外と
どちらが想像力があるか明々白々である。
佐渡から山椒大夫のところに売られて来た女という溝口の創作、姉弟の母を
遊女に仕立てしまった溝口、納得がいかない。
母の目も開かない。奇跡を葬り去った溝口は、かえって物語のリアリティーを
失わせてしまったのである。
いい加減嫌になるほど、溝口は鴎外の論理的構成・設定をぶち壊した。それ
が別の論理を生むならまだしも、溝口の脚本は敗戦直後という時代背景に
振り回されたと考えられる。いや、それ以上に僕からみれば鴎外に対する
侮辱である。原作鴎外とせず、「民話『安寿と厨子王』から」とでもして
欲しい。
溝口の審美性、映像の美しさは疑いないが、ではその哲学は何か。
彼の哲学、あるいはその欠如についてもっと議論されても良い。
溝口の他の作品『近松物語』、『雨月物語』等、そのほとんどを
僕は1970年代にパリのシネマテーク(映像博物館)でみている。
フランスは文化に金を使うなぁ、と思った。その状況は今も余り変わって
いない。当時日本国内では映画は一過性の娯楽でしかなかった。
今はvideoやDVDで、はたネットでdownloadできるようになって
ライブラリーを構成できるようになった。
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