17 juin 2007

suspension

諸般の事情により、
このBlogを一時非公開といたします。

Pour des raisons inattendues, je suspends ce blog provisoirement.

18 mai 2007

Skikda (2) plage de Jeanne d'Arc

Skikda港の東側は石油公団の輸出基地だが、その更に東には延々と砂浜が続く。
Jeanne d'Arc海岸である。海岸に沿う道路の陸地側には別荘が立ち並ぶ。この日は風が強く
白波がたっていた。
Jeanne d'Arc海岸からSkikdaを遠望する。
僕の後ろに見えるのは難破船。もう錆びきっている。

Skikda, le 18 mai 2007

久しぶりに地中海に接した。Skikdaというと一大港湾都市のイメージがある。確かに港および郊外には保税地域が広がっていて、コンテナが所狭しと置いてある。しかし、旧市街はフランスの町であったころを偲ばせる。町の中心はやはり中央郵便局Grande Posteである。

文化会館の壁が面白い。
県庁La Mairieである。右手にある塔からモスケかと思った。休みなので内部を見学できなかったが、
由緒ある建造物である。
県庁前の広場。港に向かった広場は余計な噴水などもなく広々としている。
右手がStoraから見たSkikda。正面がJeanne d'Arc海岸。朝方の曇り空がすっかり青空に。

Hammam Meskoutine/Guelma

Guelma温泉公園にある岩、なにやら言い伝えがある。僕と運転手君。

源泉から流れ出た湯の石灰分が堆積して出来た岩山? 源泉は98度という。
温泉公園の横にある新しい環境施設。おかげで古いHammamの町は淘汰された。
5月11日、主として国内の観光客でごった返していた。
なだらかな、たおやかな丘が続く。Guelmaへの道。

bain maure (hammam classique)

スイカSouika地区の歴史的ハマムHammamの入り口

真ん中の大理石の台で、垢すりよろしく身体を洗ってくれる。
丸い井戸のようなのは水の貯水槽。右手に見えないがお湯の槽がある。
中は全て大理石作り。大理石を貼っているのではない。
ここは通常であれば水蒸気が立ち込めている。

15 mai 2007

Hammam

ほぼ毎日日記をつけているのだが、これまでも、またこれからもブログにはその抜粋を載せていく。

Le 11 mai 2007, vendredi
このところ3日続けて快晴。雲ひとつない。

朝9時15分出発。駅でW君と落ち合いBobakar君のTaxiでGuelmaへ。1時間半でHammam Meskoutine(Hammam Chellala)に着いた。昔から湯治場として有名なところらしいが、今は巨大な観光センターが出来ていて休日とあって大変な込み具合であった。ホテルやバンガローが立ち並んでいる。なんの面白みもない建物である。現在は国立ではないらしいけれどもサーヴスは最低である。昼食をとってから近くの源泉を見にいった。これも写真の方が奇怪な岩や崖の風景を伝えている。実物はただゴミだらけで何ら感激もない。つまらん。Hammam(蒸し風呂)もプールも満員で入れなかった。昔(いにしえ)の温泉町の風情は全く破壊されていた。

同行したW君の悪いところは、「分かっていたんだ」という科白だ。Guelmaの温泉は休日で人が一杯だと「分かっていたんだ」という訳だ。なら何故Telegma(Constantine近くのもっと鄙びた温泉)に行かずにGuelmaを僕がproposeしたたときに云わなかったのだよ。頭はよさそうだが可愛げげがない。この手の人が男女を問わず西欧には多い。アラブ系は殊更である。

Bobakar君は9時15分から15時までつきあってくれて1500DA(2400円)。昼飯をおごったにせよ安い。ガソリン車ではなくシボレーのLPG車である。この国のタクシーには珍しく清潔で手入れが行き届いている。

日本で温泉地に行くことは殆どない。温泉旅館に風情を見出せないからだ。旅館の食事も大嫌いだ。どこも似たり寄ったりで、山間地で刺身などが出てくる。山菜も口に合わない。

Guelfaから15時にはConstantineに帰った。そこで、Souikaの伝統的Hammamに行った。ついていないことに今日は水が出ないので休みだと管理人さんがいう。中の写真を撮らせてもらっただけ。いつか週日でもいいから来てみよう。大理石の蒸し風呂はとても優雅でオスマントルコ時代を偲ばせる。

癪なので家の近くのhammamに行こうとしたら16時というのにまだ女性の時間。通常は女性が午前、午後が男性が入浴する時間割になっているのに。そこで床屋に行って髪を短く切ってもらった。どんどん短くなる。バリカンもつかったが、鋏をあんなにつかっては疲れるだろうに。80DA。洗髪はしてくれない。してくれる高級なところもあるらしい。髭を剃ってもらっている青年はいた。パーマだ、カラリングだといったメニューはない。

やっと17時を過ぎ近所のhammamに入った。シャワーがなく、大きなプラスチックの盥に熱湯に近いお湯と水をバケツで汲んで適当な温度にして、それをプラスチックのコップで汲んで身体にかけるのである。システム自体はSouikaのhammamも同じだろうが蒸し風呂の天井の高さ、部屋の大きさ、ムードが違う。

夜は予ねてU君(当地で知り合った医学生、さずが利発な青年)からきいていたAin SmaraのレストランShouderに行こうとした。が、ここも金曜日で閉店。散々他を探したが適当なところがなく、ConstantineのZone Industrieleまで戻りLe Palm(Eddin)なるを見つけて入った。同僚のT君と一緒。ここは隠れ家的なところでバーがある。ビールもワインも出る。ホテル以外で酒が飲めるのはここだけかもしれない。食事はgrillade。しかし、久しぶりにartichautを優雅に食べた。こんなところでartichautにお目にかかれるとは思わなかった。確かに市場で目にはしていたが。ここで、下請けのE社のSさんから声をかけられた。彼も戒律を破りにこんな場所に来ているのだ。遅くに僕の専属taxiになってきた感がある運転手君Bobakarに来てもらい帰宅。

あちこち飛び回ったように見えるが、朝が早いのでゆっくりとした一日であった。

01 mai 2007

Tiddis, une ruine ruinée

le 1er mai 2007
fête natinale des travailleurs

RDC(コンゴ民主共和国)の記事をAlerte Googleで読んでいるが、今日の記事の中に『キンシャサでは水/電気が贅沢品』と出ていた。その通りだろう。ルブンバシでの生活体験でも水や電気は貴重品だった。ここConstantineでは少なくとも僕の今住んできる住宅地で水なり電気なりが贅沢品というわけではない。キンシャサのことを考えると心が痛む。全ては内戦に続く内戦の所為なのだが何とか早く解決して欲しいものだ。しかし、破壊されたインフラをもとに戻すのは至難の業なのである。

http://www.algerieautrefois.com/Ressources/Constantine/FichiersConstantine/ConstRegPict.php
このサイトを参考に午前中Constantineから十数キロ北にあるHammam Bouzianeに行った。サイトには『Hammam Bouziane, avec ses nombreuses sources thermales, verdure, fraîcheur』(新鮮な空気と緑に囲まれた温泉の村)とある。ところが行ってみると、ハマン・ブジィアヌはConstantineの衛星都市と化していた。確かに1980年代まで温泉らしきものがあったそうであるけれども現在は家内工業的家具屋が目立つぐらいで、村とはいえない雑踏の町になっている。この町の裏手に出れば果樹園が昔の面影を忍ばせないではない。しかしそれもところどころ建設中の住宅に侵食されている。Taxiは約2時間貸切りで500DAであった。運転手君はなかなか愛想のよい青年だったので携帯番号を控えた。

昼食をSNTV ouest(西バスターミナル駅)隣にあるレストラン『Mizania』でとった。今のところConstantineでベスト。破顔しつつ入り口で迎えてくれたのがアセンAhcen氏で、ドアマンと思いきやこのレストランが入っている建物(スーパーなどもある)のオーナーであった。メニューはクラシックであったがサーヴィスもいい。やはりサーヴィス業は民間が受け持つセクターである。パトロンに中華料理や日本料理の店を開くように勧めておいた。土地として高い店なので昼の客はあまりいなかった。サラダ、ステーキ、デザートと飲み物はガス入りのミネラルで1250DA(2000円)は悪くない値段。

午後熱湯の滝Hammam Meskoutineに出かけたかったが114kmと遠いのでローマ遺跡ティディスTiddisに向かった。ローマ遺跡はConstantineのまわりにいくつかある。僕はこの遺跡を知らなかったので行ってみることにした。Jijelに行く国道を左に折れて数キロいった丘陵地帯の一角に遺跡があった。遺跡の前の駐車場にはバスが数台ならんでいた。休日の所為で見学者が多いのかと思ったら、そうではなく、地元のNPO:Association Tiddis(電話054-18-39-54) が文化祭を遺跡の中の空き地で催していたのであった。踊りあり、音楽あり、空手のデモありと多彩なお祭りであったが、ただ祭りというだけではなく、電気がまだ来ていない村Tiddis、道が狭く、遺跡の放置され忘れ去られていることを県に訴える意味もあるのだと村長も兼ねているNPO会長から聞かされた。珍しい日本人だということで、マイクを持たされ会場をとりまく観衆の前で演説を要請されてしまった。致し方ない。民間日本大使くらいのつもりで、ひとくさり外交辞令を述べた。明日の新聞の一面を飾るようなことはないだろうが開発の裏で取り残された村のために一役かうことができれば望外である。遺跡自体は破壊されつくしていた。残念なことだ。いつか再生できることを祈るばかりである。歴史を葬る者は自らを葬るものである。
TaxiはConstantineから数十キロあるので、3時間貸切りで2.500DA。運転手はその道22年のベテランであった。


(その他の画像は追って掲載予定です)。

27 avril 2007

photo(5) les voisins

近所にこんな凝った家があります。
大きな庭のある邸宅ではありませんが、この街の新興高級住宅街といって
過言ではないでしょう。




photo(4) nos gardiens

僕たちの宿舎を守ってくれる守衛さんたちです。
果たして差し迫った危険があるのかどうか疑問ですが、
ソヴィエト(ロシア)製の銃を持っています。弾も入っていますよ。

photo(3) Grande Poste

先週書いたGrande Poste界隈の画像を載せる。右手がGrande Poste、
左手が国立劇場である。白亜の殿堂でしょう!


Grande Poste



近くに県庁もある。















photo(2) Musé National de Cirta

金曜日(即ちここでの祭日、西欧の日曜日に相当)は、店もなにも閉まっているというと、
そうでもない。Muséも絶対閉館だとのたまわったconstantinoiseがいたが、どっこい
国立シルタ博物館は開いていた。そうだろう。祭日の翌日が閉館日であるのが地中海の
向こう側では常識なのだし、ここの博物館もそんなに意地悪じゃなかろうと思って行ってみた。

やはり開いていた。もっとも入場者は僕が見学している間数人しかいなかったが。
素晴らしいMuseumである。特に先史時代、フェニキア、ローマ時代が素晴らしい。
バッカスの彫刻、勝利の女神像などは珠玉である。モザイク壁画もかなりある。
世界に誇ってよいMuséといえる。
アルジェリア人の画家たちのタブロも面白かった。印象派、キュービスム、ダリらの
影響をもろにかぶったタブロはやはりフランスが近いのだなぁと思わせる。
館内は撮影禁止だった。
付属のキオスクや図書館は休みであった。
館内をvirtuelに訪れたい方は次のURLをクリックされたい。
http://www.cirtamuseum.org.dz/

photo(1) ma chambre

些かprivateな領域で恐縮であるが、コンゴでも牢名主的映像を
公開したのでここでは先ずconfortableな生活環境をお知らせしたいと思う。
元はキッチンであったところらしいが、なかなか快適である。




21 avril 2007

Le 20 avril 2007 Vendredi à Constantine

時差ボケはかなり解消。
朝、宿舎の周りを散歩。宿舎の大体の位置をつかんだ。坂を下っていくと10分ほどで市場marchéに着く。高級品はないが物品はかなり豊富。敵対的な人はいなかった。挨拶すれば必ず笑顔で答えてくれた。オレンジよりもリンゴが多い気がする。バナナは輸入だろうがよく売っている。大粒のイチゴまであった。香辛料も豊か。

フランス語の新聞を探したが手に入らなかった。
政府系新聞『El Moudjahid』から良心的なジャーナリストが飛び出して90年代初めに作った『El Watan』(愛国者)がフランス語新聞で最も発行部数が多く10万部を越す。『El Moudjahid』紙は読者の大部分を失ったそうだ。

昼食後T君を誘って旧市街に。
歩いて行こうとしたが距離がありそうなので、土地の人に訊いてバスで行くことにした。鉄道の駅まで10DA(16円)。ところが、丁度イスラムの祈りの時間にさしかかってしまい、運転手が敬虔なイスラム教徒なのだろう、乗客を置いたままモスケに行ってしまった。直ぐ終わるだろうと待っていたが、待てど暮らせど帰ってこない。それでも辛抱強く30分待った。そこで諦めてtaxiを拾った。駅まで80DA(128円)。
切り立つ断崖絶壁に建つフランス時代の建物群は矢張り見事である。スイカSouikaやカスバと呼ばれるアラブ、オスマン・トルコ時代の古い街quartierも崖に迫っている。
フランスの作った市街の中心には必ず中央郵便局Grande Posteがある。Constantineも例外ではない。駅舎も古い建物なので見たいと思ってtaxiをそこまで走らせた。なるほど趣のある駅であったけれども殆ど人影をみなかった。列車の本数が一日数本しかない所為だろう。駅を後にしてGrande Poste目指して歩いた。駅は渓谷の右岸だから橋を渡らねばならない。橋の欄干が低く谷は80メートル以上の深さがあるから眩暈を起こさずには通れない人も多かろう。Grande Posteへの道を知っていたわけではない。けれど町並みから判断して見当はつく。坂を上っていくと果たして白亜のGrande Posteがあった。左隣は国立劇場Theatre Nationalである。右はというと裁判所Palais de Justice。Constantineの象徴ともいえる彼らの建物は汚れていなかった。よかった。薄汚れていたら寂しい限りだからだ。

Grande Poste広場には、噂のとおり、闇で外貨を買い取るディーラーたちがうろついていた。100米ドルが約7000DA。ほぼ銀行のレートである。持ち出しが禁止されているDAにしてこのレートは強気である。いずれにせよ、手持ちのドルを交換することは危険であるので体よく断った。

Grande Posteからエール・アルジェリー(アルジェリア航空)の建物までの大通りの突き当たりにホテル・シルタHotel Cirtaがある。アラブ建築を模して20世紀初めに建てられた。内部もエキゾチックである。Cirtaとはローマ時代のConstantineの名前だ。Constantineの人々はこのCirtaという名前にとても誇りを抱いている。
このホテルから渓谷に向かう道の左側がスイカである。中に入ってみた。迷路のように狭い道が交差している。しかし、アルジェのカスバと同じで坂道を上っていけばこの地域を抜け出せるから迷うことはない。モロッコのフェズとは違う。
スイカの中にハマンHammanがあったので中を覗いてみた。ハマンとはムーア人の共同蒸し風呂のことだ。15時ちょっと前でまだ男たちが入る午後の部が始まっていなかったが、親切な管理人さんが中を案内してくれた。パリのモスケMosquéeに付属していたハマンやアルジェのドイツ大使館前のハマンにはよく行ったが、ここはそれらよりもずっと伝統がある。いつか入浴してみたいものだ。
スイカに肉屋が多いのは何故だろう。羊の頭がでんと置いてある店もあった。
この地域の出窓が張り出した建築は絵になる。保存団体もあるが資金がないので苦労しているようだ。
スイカの入り口近くに映画館があった。映画館は斜陽である。いくつもあった映画館が閉鎖されて、今やこの映画館しかConstantineになくなったとパトロンらしき男が説明してくれた。上映されている映画は、名画から内容のなさそうな裸の踊り子の映画まで。Séanceは一日4回。それぞれ掛かっている作品が違う。映画館がなくなっていくのは時代の趨勢だが残念なことである。パリにはなお映画館がたくさんある。それは政府が文化に金を出しているからだ。Constantineでは、かなり貧しいと思われるような地域でも各戸がサテライトで送られてくるTV電波を捉えるパラボラアンテナを持っている。TVが安いそしておそらくは唯一の娯楽なのだ。最後に残ったこの映画館も何時か消える運命になりそうだ。

スイカを出て再びGrande Posteに戻り、Hotel Cirtaと同じ格のホテル・パノラミックに入ってコーヒーを注文した。ボーイがRavazzaにするかというのでオーダーすると一杯100DAであった。なるほど高い。僕たち以外客がいなかったのも頷ける。

T君がこのホテルに携帯電話を忘れてしまった。ホテルを出てから暫くたって気がついたので、もう無くなっているのではと心配したが携帯を見つけることができた。客がいなかったのが幸いしたのか、Constantineの人々が正直なのか。

治安は表面上悪くは無い。警官も人にたかるようなことはない。しかし、見られることに慣れないと怖気づいてしまうだろう。それはConstantineに限ったことではないが、外国人が少ない都市では、特にアジア人は目立つ。Chinoisといわれても東洋人と云われているに過ぎないのであるし、彼らにとって、僕たちを目撃することはその日の事件évènementなのである。手を振って挨拶する彼らに笑顔を振りまかなければならないのは疲れることだ。しかし、彼らに悪気は無い。挨拶を返せば、彼らは有頂天である。といって僕らも気を抜けば、アルジェで何回も被害にあったようにバッグを掠め盗られるかもしれない。掏り取るような技術はない。そのバランスが難しい。
スイカに限らず、金曜日は祭日だがところどころ店が開いている。宿舎に帰ってから近くのスーパーに行ったがそこも開いていた。ヨーロッパほど品物の種類が豊富ではないが、それでも必需品は輸入物を中心にしてなんでもある。品質も悪くなさそうだ。ヒゲ剃り用ムッス(EU製)、300DA(480円)を購入。また、開いていたキオスクで地元の新聞『El Acil』も手にいれた。

いずれ自分で撮影した我がコンスタンティーヌの画像をUPしよう。

Le 17 avril 2007 Redécouverte de l'Algérie

 朝4時10分にCHG空港に到着。ターミナルBが次の出発ゲートだた、そこまではバスを利用しなければならない。ところが時間表がなく何時バスがくるのかわからない。アナウンスもなかった。2時間近く待合室でただ待っていた。
 8時35分。Alger着。新しいターミナルHouari Boumediene空港が出来ていた。2年ほど前に完成したのだという。世界でも一流の空港に生まれ変わった。スーツケースを開けられることもなかった。外貨申請も強いてせよとは云われなかった。様変わりである。国内線は古い建物の方を使用していた。しかし、その建物にカフェやキオスク、床屋までが出来ていた。カフェやレストンに酒類がなかった。イスラム化の影響に違いない。
 一銭も現地通貨DA(アルジェリア・ディナール)を持っていなかったので空港に出迎えに来てくれていた運転手経由会社から1000DA(約1600円)を借りた。コーヒーが30DA、新聞が10DA、雑誌が100DA。コーヒーは相変わらず不味かった。粉っぽい。匙はアルミの鍛造、粗悪品である。男子トイレにマダム・ピピがいた。掃除をしてくれるおばさんである。出口に小銭をいれる皿が置いてあった。パリのカフェにはいなくなったところが多いがここでは新たな職業になったようだ。

 運転手さんに聞くと、空港からAlgerの市街に入る道は片側3車線の高速道路が既に建設されているそうな。以前は追越し車線を中央にした3車線道路だった。だから前の車を追い抜くときはかなりの冒険と度胸が必要であった。反対車線から何時無謀な運転手が追越し斜線に入ってくるか分からないからである。珍しい中央車線を追越し車線として共有する道路は改善された訳だ。

 13時の予定が14時になってほぼ満席でConstantine行きが出発。この位の遅れは日常茶飯であろう。滅多矢鱈とX-Rayによる機内持ち込み貨物の検査があったが、bagageの中身をあけろとまではいわなかった。

 空港待合室にガラス張りのEspace Prière(イスラムの祈りの場所で小さな絨毯がいくつか置いてあった)が設置されていた。これもイスラム化。
待合室にヒゲ(髭と鬚)を蓄えた若い男が何人かいたが圧倒的に少数派。この男たちが丁度一時の祈りの時間にEspace Prièreに入らなかったのは不思議。

 15時。Constantine空港に到着。HQに案内されて各部署の方々を紹介されたがとても名前を覚えきれない。16時に宿舎についた。狭い機内で殆ど眠れなかったので頭がボーっとしている。宿舎の部屋は極めて上等。ベットもマットレスも本物だ。とてもコンゴの時とは比べ物にならない。中小企業、それも三流どころと一流企業の差はだけではない。コンゴとアルジェリアの生活水準の差がでた。Constantineは地中海でも高度がある。3月末、20cmも雪が降ったという。部屋の暖房がスチームなので助かった。ありがたいことである。

 夕食時に久しぶりにこの国のワイン。cuve de presidentはなかったがMascaraがあった。半分ほど飲んで23時に床に入ったが、夜中の2時に目が覚めてしまった。4時、続いて5時にモスケから祈りの声がスピーカーでがなりたてられる。イスラム化顕著。このイスラム化はちょっと怖いなぁ。

15 avril 2007

Algérie過去と現在

Algérie過去と現在 (le 10 avril 2007)

25年ぶりにアルジェリアに行くことになった。僕の古巣である。
僕が初めてこの国に入ったのは1972年12月であり、翌年7月から1982年3月まで9年間過ごした。時はBoumediene大統領の時代である。72年の訪問は短く、首都Algerにも数日しか滞在していない。AlgerからTunisまで列車で旅をした。

今回Constantineに行くことになり、改めてその後のAlgérieをネットで調べた。また最近当地に滞在した方々の話も聞いた。
社会主義体制からなかなか抜け出られない、効率の悪い官僚の体質は殆ど変わっていない様子である。

しかしpénurieはかなり改善されているらしい。食料品、それが玉子であったり、馬鈴薯であったりしたものだが、これは流石改善されているときく。なにしろ日本から撤退したスーパーマーケットCarrefourがConstantineにもSétifにもあるというのだから驚きである。値段はしらない。しかし、スーパーというからには食料品もまともなものがあるに違いない。茹でると溶けてしまうスパゲッティが姿を消しBarillaがあるとすれば改善である。

人口は僕がいたとき1800万、現在3300万。90年代のテロはかなり影を潜めたらしい。それでも県を越えて移動するときは、警察のエスコートが必要であるとか、住居や事務所にgardiensがいるとか、以前は考えられなかった治安の問題が今も残る。

Constantineは通過したことしかなかった都会である。今は亡きK君がフランスで買ってきたAustin miniのmoteurに穴が開いてしまったのはConstantineの直前であった。ローマ時代からの古い町であることは知っていたが、近くのJemila遺跡は見学したものの、Constantineの町は観光していない。ビジネスもなかった。

イスラム化はarabisationよりも気にかかる。90年代のテロには理由があった。民主主義が踏みにじられたのだから。この国の若者たちは独立来政治化politisés していた。それは教育の所為であるが、islamisésとなると理性的ではない。社会主義、marxismeに凝り固まった連中よりも宗教に偏頗した連中の方が始末が悪い。laicité(政教分離)の原則をとりもどし、生活水準を向上させることが一刻も早く望まれる。

17 janvier 2007

[『Lumumba』講演原稿

藤沢における掲題講演の原稿を次のURLに掲載しました。
RDC(コンゴ民主共和国)独立記念式典の演説の翻訳、
またルムンバの遺書の翻訳もつけました。
pdf版で見た方が、画像(地図や人物写真)を
簡単に拡大できるので便利かとおもいます。
一番末尾の第50回のところをクリックしてください。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/shonan/history.htm

09 janvier 2007

『Lumumba』-アフリカ現代史の殉教者 Lumumba, martyre de l'histoire africaine moderne

2007年 あけましておめでとうございます。

来る1月14日、藤沢の産業会館で僕が掲題の趣旨で講演を
することになりました。

講師: 田邊 よしはる (このblogの著者)
講演概要Patrice Émery Lumumbaは1961年1月17日カタンガ
(RDC、コンゴ民主共和国)で暗殺されその短い生涯を終えた
(享年36歳)。彼はアフリカ独立の象徴であった が、民主主義の
ユニヴァーサルな体現者であり、東西冷戦の犠牲者・殉教者に
もなった。いわば聖地となったカタンガはルムンバシ市に2006年
1月から5月にかけて居住する機会を得た。その体験からLumumba
を通してコンゴ民主共和国またアフリカの現代史を俯瞰する。補助
として映画『ルムンバ』(フランス語、字幕 なし、監督Raoul Peck)を
上映します。

1月14日(日)  午後2:00~5:30■場所 place 財団法人藤沢産業
振興財団(藤沢産業センター)〒251-0052 藤沢市藤沢109番6号
湘南NDビル 7階第2会議室小田急線・JR藤沢駅、徒歩5分  
電話 046-621-3811
■費用 fees 各回1,000円
■連絡先(事務局) contact 猪野修治(〒242-0023 神奈川県
大和市渋谷3-4-1)TEL & FAX : 046-269-8210
shujiino@js6.so-net.ne.jp

時間がございましたら、やや遠いところでごすが
是非ご参加ください。

皆様にお目にかかれるのを楽しみにしております。