16 janvier 2014

1月1日 帰国の途に retour au Congo commence

Le mercredi 1er janvier 2014
7時、快晴。
元旦。
あけましておめでとうございます。

正月とはいえど余り祝いたい気分ではない。去年亡くしたS君やNちゃんのことが頭をよぎる。このアフリカに来て欲しかったなぁ。今年は誰を失うのかと思うと安らかではいられない。それが僕自身であるならそれはそれでいいが。

今日夕方から、ルブンバシに戻る。
17時半、数分遅れて出発。ケープタウンを離れると渓谷に入る。東西を1000メートルを山々が屏風を作る。ミクロ気候ができるが、土地があまり豊かでないのかブドウ畑が延々と続く。
西ケープ州のブドウ畑
ピントが合わせ合わせられなかった
夕日に映える西ケープ州の農園
バスの席が2階になった。車掌は黒人男性。怠け者だ。小まめに働こうとなどしない。2階席は眺めがいいが多少揺れがあるように思う。事実子供や女性が酔っていた。

バスが立ち寄るサービスエリアは清潔であるけれども、公共施設らしいバスターミナルになると不潔になる。私営のサービスエリアは金をかけて掃除をしているからだ。公共になると掃除の頻度が落ちるととたんにゴミがたまり不潔になる。と考えたが、写真を撮ったブルームフォンテーンのターミナルは、年末年始の休暇シーズンで清掃係が休みだったのかもしれない。南アの最高裁があるこの都市で、しかしトイレもメンテナンスが行き届かなくなっていた。これはヨーロッパ先進国と同じ現象である。ここでも一般大衆の公衆道徳、規律などには期待してはいけないということだ。イタリア人は高速道路で飲み物のボトルや紙屑を平気で車の窓から捨てる。パリの街も清掃職員のストがあるとたちまち悪臭を放つようになる。例外はチューリッヒだ。
ともかく南アは欧州並みに清潔である。それは掃除清掃に金をかけているということで、金をかける余裕があるということに違いない。
ちょっと油断すると直ぐにゴミの山があちこちにできる
(ブルームフォンテーンのバス・ターミナルで)

車窓から眺められる景色はケープタウンの東部、ブドウ畑の渓谷を過ぎてからはフラット、高原が続く。牧畜地帯といえよう。灌漑さえすれば耕地になるとみた。広大な土地がひろがっている。都市近郊は別として農業牧畜業の単位規模がとてつもなく大きい。

RDCコンゴのカタンガ州の土地も広い。投資さえすれば南アに負けない農業生産がカタンガ州だけで得られるだろうに。70年代は南アに全ての面でひけをとっていなかったコンゴ(ザイール)が、いまや全ての面で南アにかなわなくなってしまった。南アは30年で一大成長を遂げたのだ。

15 janvier 2014

12月31日 ゴールド博物館:南アに金の文化はなかった Gold Museum - Cape Town

Le mardi 31 décembre 2013
7時、快晴。

ケープタウンの街にまたまた出た。ウォーター・フロントは僕たちの趣味に合わない。古い建物を残す駅前の中心街の方がずっと興味を引く。今日はカメラをもってきたので街並みを写す。
ケープタウンも一生住みたいなと思わせる街である。僕はいろいろところでそう思った。ルガノもそうだし、ジュネーブ、バルセロナ、カナリア諸島、アルジェ、ダカール、神戸、バンコク、マルガリータ島などだ。思い出の場所ということではなく、家を買おうと思ったり、仕事を探したりしたところだ。それぞれ事情があって実現しなかった。

ケープタウンの郊外電車をメトロレールMetrorailという。地下鉄でなくてもメトロポリタンであるケープタウンを走るのだからメトロでいい。このメトロにクラスがある。ムイゼンバーグ駅の窓口でメトロ・プラスかメトロの切符かどうか聞かれて初めて認識した。以前は1等車、3等車といったらしい。僕はそのどちらにも乗ってみた。殆ど内装が変わらない。メトロ・プラスの方が白人が多く、メトロはほとんど黒人ばかりの乗客であった。窓口で切符を買うときに黒人以外だとメトロ・プラスの切符を自動的に発行してしまうようだ。自動切符販売機は何処にもなかった。そういえば、5ランド(50円)までコインがあるのにコーラの自販機さえ南アにはなかった。コインまたはカードでかけることができる公衆電話があったが、壊れていない電話機の方が珍しいようだ。携帯電話の時代だから公衆電話をかけている人をみかけなかったことも確かである。
メトロレールには必ず少年が手を引いた盲人が乗ってきた。少年と二人で賛美歌を歌い少年が空き缶に寄付を募る。クリスチャンはいつも小銭を用意していて空き缶に入れていた。
大声で説教をする牧師も乗り合わせる。彼らは無心をすることもあるし、只説教をするだけの場合もある。
メトロレール
(ムイゼンバーグ、ケープタウン)
セントラル地区の一角に小さなゴールド博物館Gold Museumがある。28日の市内ツア・バスのときにこの博物館の前を通って時間があったら来ようと思っていた。入り口からして金ぴかなのであるが、入り口の金ぴかはペンキだった。主として西アフリカ、ガーナやトーゴ、コート・ジボワールの金文化の品々が展示されていた。南アフリカのズールー、ホッテントット、ブッシュマンたちは金に関心がなかった。ヨハネスバーグは金鉱から始まった都市だが、これは19世紀に入って西欧人が金を掘り出したためであって、先住民にとっては与り知らぬ開発だった。金細工の仮面や装飾品、さらに王冠などが権力の象徴として珍重されたのはマリを始めとした地方だったことを習った。植民地時代に入る以前、欧州ではマリが黄金の国だといわれていたことは知っていたが、金産出世界トップだった南アでは先住民たちに無視された金だったとは。
ゴールド・ミュージアム
(ケープタウン)
ランチは再び「Fuji Yumi」へ。一昨日のケープ・ポイントのツアに参加していた男性がいたので目で挨拶したが、それだけで言葉を交わすことはなかった。ツアには新婚さんらしい日本のカップルもいたがどうもよそよそしい。

グリーン・マーケット広場のメソジスト教会隣にあるThe Old Town HouseでMichaelis Collectionとあったので入った。この建物は由緒あるもので1755年にケープタウンで初の公共施設(市役所)として立てられた。それが1914年にMax Michaelisの寄贈したコレクションを展示する美術館になった。ケープタウン初の美術館でもある。Max Michaelisは1876年に南アに入ったドイツ人実業家(投資家)。ケープタウンの美術館に寄付したコレクションはほんの一部で、他にキンバリーやヨハネスバーグの美術館にも彼の蒐集した作品を寄贈しているそうだ。The Old Town Houseにあるのは17世紀のオランダ絵画である。この具象画に20世紀の抽象画を取り混ぜて展示していた(『バロックと近代の顔合わせBaroque Meets Modern』)。それがちょっと異様に感ぜられた。初期オランダ絵画だけの展示の方がまとまりがあるように僕には思える。
 
ロココ建築(1755年)の旧市役所
Old Town House
1914年から美術館
(ケープタウン)

カメルーンでナイジェリアのボコ・ハラムに11月13日誘拐されたジョルジュ神父が解放された。カトリック教会にとって朗報である。ナイジェリア政府およびカメルーン政府が人質解放交渉をした由だが、例によって詳細は不明だ。

12月30日 ケープタウン・セントラル quartier Central du Cap

Le lundi 30 décembre 2013
6時、快晴。

朝、洗濯をした。宿の洗濯機が古い。欧州式に熱湯で洗濯できる筈が最低の機能を残して他は全て壊れている。ドライヤーも動かない。天気が良いのが幸いした。

昼はケープタウンで買い物。2014年の日誌、クリスチャン君のシャツ等。僕はもう着るものに興味がないが、若い人たちはやはりファッションが気になるのも無理はない。

新興地区であるウォーターフロントには行かず、中央駅前のセントラル地区で買い物をした。店の構えはヨーロッパである。デパートに類する大型店やスーパーもある。僕は郊外型ショッピング・モールよりもこうした商店が立ち並ぶ街並みが好みである。パリならラファイエットのある通りだ。広い通りでは露天も並ぶ。露店を出しているのはアフリカ諸国からのい移民である。コンゴだけでなくガーナ、セネガルなど西アフリカからも来ている。許可を得ていると思われる露天だけでなく、道端に商品を並べている無許可営業もある。そんな露天でダチョウの羽と思しきハタキを買った。例のごとく値切ったのだが20ランド(200円)。Google日本語版で調べたら体裁はさすが日本で売るのだからずっといいには違いないが楽天市場で1000円から3000円で売っていたのにはびっくりした。
南アではよくダチョウを飼育している。牛に続いて食肉市長でもダチョウが多いのだそうだ。昨日もケープ・ポイントに行く途中多くのダチョウをみた。ヨハネスバーグに向かう車窓からもダチョウの群れが見られた。野生ではなく牧場で飼育されているのだ。
閑話休題。ルブンバシだと露天の商品は野菜や果物は別として粗悪な中国製雑貨が多いが、ケープタウンでは高級品ではないにしても見栄えのするシャツ、サングラス、ハンカチ、サンダルなどを並べている。通りに椅子テーブルを出したカフェやレストランも多い。街頭ミュージシャンやサーカスのパフォーマンスをするグループもいる。
通りに席をもうけたカフェ、レストラン
チャーチ通り
(セントラル、ケープタウン)
南アには日本料理店がある。ヨハネスバーグにもケープタウンにも数件以上の日本料理店が開店している。ケープタウンのセントラル地区にも何件が店を出している。その中で「Fuji Yumi」という店でランチをとった。ネットではカジュアルな店として紹介されていた。変に日本趣味なデコレーションでメニューが高価であるよりも大衆的な日本料理で僕は結構である。確かにどんぶり物もある普通の店だった。僕は材料がないので日本料理をほとんど家で作らないのでクリスチャンに日本料理を食べさせたかった。彼は豆腐の味噌汁が気にいったようだが、これは家では作れない。味噌がない。また僕は味噌があまり好きではない。クリスチャンには生憎だった。ランチメニュー以外に揚げだし豆腐を注文した。日本でIさんの奥様に作っていただいて以来20ヶ月ぶりである。美味しかった。

夜はスーパー「チェッカーズ」でサーロインを仕入れて焼いた。宿には大きな台所があって宿泊者が利用できるようになっている。400グラム以上あるステーキだ。ザンビアの「ザン・ビーフ」(ブランド名)も美味いけれど南ア・ビーフも悪くない。バスで通った南アの街道の右左、牧場には太った牛がたくさん草を食んでいた。アルジェリアの牛は痩せている。昔、スイスの牛をみて丸々と肥えていたのでその差に驚いたことがある。南アの牛も痩せていない。

ヨハネスバーグもケープタウンもネットの接続が圧倒的に早く安定している。僕は音楽ファイルをダウンロードするソフトをもっているが、RDCコンゴでは1曲ダウンロードするのに数ヶ月掛かる場合もある。今日思い出したので、これまでペンディングになっていたダウンロードを実施した。30曲以上を瞬く間にダウンロードしてしまった。

13 janvier 2014

12月29日 ケープ・ポイント Cape Point

Le dimanche 29 décembre 2013
6時、快晴。

喜望峰ツアのバスが迎えに来る約束の8時15分に間に合わせるために早起きした。5時半起き。ムイゼンバーグまでは来てくれないので、ケープタウン市中のサザン・サンホテルでの待ち合わせにした。ムイゼンバーグの電車の駅の窓口が6時半時点では開いていなかった。ホームには入れたが切符なしで電車に乗ることになった。到着駅のケープタウンで払ったが、いつもより安かった。窓口が開いていないことを誰しもが知っているということだ。それも乗客の申告によるのだからのんびりしたものだ。
8時15分の待ち合わせ。それがまさに予定で、南アもアフリカらしく30分も遅れた。このツアを予約したのはヨハネスバーグからインターネットだったが、オペレータの名前を忘れていたし、電話番号も控えていなった。うろ覚えの会社名で多分「ヒルトン・ロスHylton Ross」だったかなぁ、という程度だったのである。切符はなし、来るバス来るバスの名前を読みながら、「いや、この会社だったかな、いや違う、覚えがない」などと不安だった。
やっと来た「Hylton Ross」も自信がなかったけれども、訊ねたらリストに僕たちの名前があった。それにしても30分遅れとは。この遅れはどんどん広がって行き、ツアの終了時間が2時間以上遅れる結果を齎した。

昨日市内ツアバスでも寄ったクリフトン・ビーチやキャンプス・ベイなど高級リゾート地を通った。南仏のカンヌを思わせる街並みである。ハリウッドの有名俳優などもここに来て夕日を眺めるのだそうだ。ケープタウンは風が一年中吹いている街だ。だから特に冬場(7月、8月)に風から守られる場所が珍重される。そこが住宅地でも高級住宅地になる。リゾート地は地形上理想的な場所になっている。地中海と違うところは海水温度が低いことである。大西洋は冷たい。だから僕はフランスのノルマンディーやブルターニュに殆ど行っていない。ポルトガルもアルガルベで懲りて行っていないのである。もっと偏見なしに行けばよかったとも思うが後悔はしていない。

オットセイかセイウチのいる島を船で回るツアが追加費用で用意されていたが、オットセイに触れるわけでもないと知っていたので、港のカフェでゆっくり朝食をとることにした。カフェ・オ・レではなく何故かカフェ・ラッテだった。そのカフェ・ラッテがほとんどカプチーノ。致し方ない。カフェに付属して土産物の店があった。世界中どこの土産店も同じようなものを売っている。僕は南アの土産ならダイヤモンドか金細工以外ないだろうと思うが、その何れも今はお金がないから買えない。だから何も買わないということになる。

ランチはサイモンズ・タウンのレストランだった。レストランは指定されているけれど払いは別だ。サイモンズは宿舎のあるムイゼンバーグに行く電車の終点で喜望峰半島の東側だ。

この半島沖にはクジラが出没するらしいが、この日は運悪く姿を見せてくれなかった。

南アペンギンが集まっているビーチBoulders Beachも別料金だが見学した。見ているとひょうきんなペンギンは飽きない。南アペンギンは小型であるが、突かれると怪我をするらしい。ペンギンの巣というのを初めて見た。一日何千人というヒトを見ているペンギンたちは嘔吐しないのだろうか。
ペンギン海岸
まるで白黒写真のようだがカラーである
いよいよ半島の先端に向かった。灯台に登るケーブルカーは乗ろうとしたが満員で結局乗れず、歩いて上るには時間がないし、走って上る元気がなかったので諦めた。窓口で並んでいた僕らの一人手前の人までケーブルカーに乗れたのである。ここがケープ・ポイント(先端)だという場所は波が荒く、便宜上右が大西洋、左がインド洋だというが見た目の差がなく、ただ、この先で2000隻以上の船が沈んだというのが頷けだだけである。実際のアフリカ大陸南端はここからまだ200km南東だそうである。
ケープポイントに佇む
もう夜だというのに最後の見学予定地国立植物園に19時を過ぎて立ち寄った。閉園間際で料金こそ払わなかったが庭の一部と人込みを見ただけに終わった。ケープタウンの植物は在来渡来を含め極めて多種に渡るという。見学もいいが、例えもっと前に着いたとしてもここまで来る行程で疲れてしまっているだろうな。

ツアが終わったのが20時半。出発地サザン・サン・ホテルにいたタクシでムイゼンバーグに帰る破目になった。南アで初めて乗ったメータ・タクシになった。メータで走るタクシが少ないのである。いくつかの代表的な無線タクシ会社の名前は出発前に調査済みだったが、使用したことがなかった。ケープタウンとムイゼンバーグ間が250ランドと聞いていたが、メータ・タクシでは370ランド(3700円)掛かってしまった。しかし道路は極めてよく整備されている。哀れな鉄道とは比べ物にならない。


夜は昨夜に続いて『プリミ』へ。他のレストランは9時には閉まってしまう。そんな信じられないような店がここには多い。

10 janvier 2014

12月28日 テーブル・マウンテン(ケープタウン) Table Mountain (Cape Town)

Le samedi 28 décembre 2014
6時、小雨。

ムイゼンバーグからケープ・タウン市中に電車で出て、2階建てバスのケープタウン市内ツアに参加した。1日乗降り自由なツアである。出発地がWaterfront地区。そのWaterfrontがかなり広い。鉄道駅から歩いたが道を間違えたこともあってかなり距離があった。しかし、タクシを利用しても5ドル程度の距離なのだ。
レッド・ルートを選択してバスに乗った。ガイドはイアフォンで聞く。16ヶ国語の中に日本語もあった。
国鉄駅前を通って市内をぐるりと回る。テーブル・マウンテンに上るケーブルカーの駅で一旦降りた。天気は回復して来ていてが頂上は初めのうちは霧に囲まれていた。
昼食はテーブル・マウンテンの上でとった。このテーブル・マウンテンが新「世界の7不思議」だというのだが、何でそんなに珍しいのかその方が不思議である。
ケーブルカーの駅はかなり丘の上にある
その駅に行く途中
ケープタウンの街をのぞむ

出発地点の「ウォータフロント」に戻ってから音に聞くウォータフロントを見学した。要は旧倉庫街を再開発した地域ということだろう。確かに綺麗にできているが特になんということはない。横浜や東京にもこんな場所があったように思う。アフリカ民芸パビリオンでマンデラがプリントされたTシャツと南ア国旗のTシャツを買った。130ランド(1300円)。南ア国旗のシャツを売っていた女性はRDCコンゴの北キヴ州出身だった。

ウォータフロント地区の大洋水族館Two Oceans Aquariumに入った。ここにも学割があった。インド洋と大西洋が交わる喜望峰らしい企画の水族館である。僕は水族館が好きで、モンテカルロでもシンガポールでも見学している。ケープタウンの海水は冷たい。熱帯魚の水槽もあったが地元の魚ではない。熱帯魚には淡水ならタンガニーカ湖、海水ならケニアのモンバサに行かないと会えなそうだ。

市内観光ツアのバスに再び乗って鉄道駅前で降り、電車に乗ってムイゼンバーグに帰った。
ムイゼンバーグ海岸
風が常に吹いていて波がある
サーファーには都合がいいのだろう
しかし今真夏の水温が11度と低い

夜はムイゼンバーグに新しくできたイタリア料理店『プリミ』でイタリア式の食事をした。アンティ・パスタ、パスタ、ペッシェ(魚)、ドルチェ(デザート)である。チェーン店(フランチャイズ)だと思うが、なかなかイタリアの雰囲気を出している。少なくともフランスで食べるイタリア料理よりもましな味を出していた。マニュアルにそっててきぱきと仕事ができている。フランス語が多少わかるというジンバブウェから出稼ぎの青年が僕らのテーブルの給仕をした。

ビールと赤ワインを飲み、慣れないクリスチャン君を飲み倒してしまったのは拙かったかな。翌日のケープ岬ツアは二日酔いでそうとうしんどかったようだ。

12月27日 ムイゼンバーグ海岸(ケープタウン市) Muizenberg (ville du Cap)

Le vendredi 27 décembre 2013
6時、晴れ。ケープタウン到着。

ケープ・タウンの手前300キロあたりから、それまでのサバンナの荒地からブドウ畑が現れ始めた。右手も左手も高い山である。荒地といったが単に耕作されていない土地、灌漑されていない土地といった方がいいかもしれない。見渡す限りのブドウ園である。

14時、ケープ・タウンに到着した。長距離バスの駅が鉄道の駅と隣接しているのはヨハネスバーグと同じだったが、駅の周辺の雰囲気は全く違った。ヨハネスバーグの方は駅周辺が危険信号を発していた。ケープ・タウンは余程安全そうである。
ケープタウンに到着したIntercape社の
スリープ・ライナー号
Scania社製マルコポーロ
2階建て車でリクライニング・シートも快適
道がいいので揺れがなく鉄道よりも速い
ローカル線、郊外電車でムイゼンバーグMuizenbergに向かった。ケープ・タウン市の中だが市の南南東の海岸地帯である。波が荒い海岸でサーファーたちが1年中エンジョイしている。この街までケープタウンから21も駅があった。駅と駅の間隔が狭く隣の駅が見える距離にある。電車はグラフィティを消していないので、外も内側も汚い。料金は12ランド(120円)。ケープタウン鉄道駅は何本もの鉄道が入ってきているターミナル駅だ。滞在中何回もこの駅を利用することになった。ケープタウンの中心街のホテルが年末で全て満員だったためムイゼンバーグに来ることになったのである。
宿は駅から歩いて100メートルもないところ、警察署の隣の民家だった。Amberley Travellers Lodge。オーナーさんは白人ロバートさん、マドンナよりも大きいだろう黒いワンちゃんが家の中にいた。ここもインタネット環境が抜群だった。
 
ムイゼンバーグ
(宿の部屋からの眺め)
一棟だけ高い建物があるが、これは住宅と学校
サーフィンの街である
夜は宿舎近くのスーパーで調理した品々を買ってきて部屋で食べた。その買い物の時間が18時を過ぎていたのでアルコール類が買えなかった。南アでは18時を過ぎると酒屋が閉まる。スーパーのアルコール・コーナーも閉鎖される。

これは英国圏(英語圏)に共通なデマゴジーである。18時で酒屋が閉まったからといってアル中が減るわけがない。英国では21世紀に入っても法律によってパブが23時までしか営業できなかった。80年代はもっと閉店時間が早かった気がする。しかし抜け穴があって、ホテルのバーや会員制のクラブでは24時を過ぎても飲めたという記憶がある。南アも馬鹿な伝統を英国から背負い込んだものである。

08 janvier 2014

12月26日 ケープタウンへ1400キロ 1400km pour le Cap

Le jeudi 26 décembre 2013
7時、曇り。ヨハネスバーグ。

今日は夕方ケープタウンにバスでシフトする。それまでの時間を午前中は動物園、午後はサントンSandtonを見学予定。

Taxiで動物園の中央口まで連れて行ってもらった。150ランド(1500円)。動物園もクリスチャンには学生割引が適用された。僕のための高齢者割引はなかった。
ここは上野動物園のように世界の動物たちが集められているわけではない。しかし、殆どの動物たちは檻の中にはいない。柵はあるが野天である。ピューマもトラも芝や木々に囲まれてのんびりとしている。ゾウ、カバ、キリン、ライオンに加えてマダガスカル島特有の動物たちもいた。見かけなかったのがカンガルーをはじめとしたオーストラリア大陸の動物たちであった。広大な土地と整備された庭園は見事である。
かつてルブンバシの動物園はアフリカ一の評価を得ていたそうだが、2006年に行ったときは廃墟だった。それが2011年に大幅な改善をみせた。モイーズ知事とフォレスト家のお陰である。しかし、今やヨハネスバーグ動物園が完全にアフリカのトップだろう。いやアフリカだけでなく欧州でもこれだけの規模は数少ないに違いない。嘗てのThe Zoo(ロンドン動物園)は1991年閉鎖の危機を乗越えたが、ヨハネスバーグの動物園も以前の英国式動物園からコンセプトを大幅に変えたと考えられる。「旧ゾウの館」や「旧猛獣の館」が残されているが、それらの館は閉鎖的な、猛獣は檻の中に入れるという考え方に沿って作られたといえる。昨日見た動物たちも自由度からいうと、この動物園の動物たちと五十歩百歩である。
ヒョウ(レオパール)はRDCコンゴの
サッカーのナショナル・チームの名前でもある
(ヨハネスバーグ動物園で)
動物園を出てタクシを探した。タクシが全くこない。ヨハネスバーグほどの大都市に地下鉄がない。最近世界で見直されている市電もない。優先車線を走る市バスのネットが出来つつあるけれども、やはり地下鉄が必要だろう。ミニバスのタクシがあるらしい。しかし、これを乗りこなすのはツーリストには無理だと思う。結局宿舎から車を回してもらった。

一旦宿に戻ってからサントン地区に行ってみることにした。そこにマンデラ広場がある。マンデラの6mの銅像が建っている。サントンというのは新しい高級地域のようだ。マンデラ広場からサントン・シティなるショッピング街に入れる・そのショッピング街のデラックスなことこの上もない。まるでドバイのショッピング・モールだ。周りにはインタコンチを初めとして五つ星のホテルがいくつも並んでいた。これがサントンなのか。まぁ、来て見なければわからない。マンデラ広場というけれど、マンデラに所縁があるとも思えない。広場のカフェには黒人がいない。観光客だけではないだろう、白人ばかりで黒人が入りにくい雰囲気を醸しだしていた。

マンデラ広場
(サントン、ヨハネスバーグ)
画像を縦にしたいがブログにアップすると
もとにもどってしまう
16時半、バス・ターミナルにタクシで到着。インターケイプ社のバスは2階建ての150°リクライニング。僕たちの席は下の敬老シートだった。乗車手続きにちょっとした混乱があって、南アフリカも「アフリカ」のうちだなぁと思った。乗客係は白人だったが、小まめに忙しくよく働く青年だった。17時45分出発予定が1時間遅れた。ケープタウンまで1400キロとも1600kmともいう。経由地によって異なるのだろう。

12月25日 ライオンと戯れる jouer avec les lionceaux blancs

Le mercredi 25 décembre 2013
7時、小雨。寒い。
イエス・キリスト生誕。

午前中は予定通りライオン・パークに行った。広大な公園に動物たちが放し飼いにされている。白ライオン、ピューマ、チータ、ハイエナ、水牛、キリン等々がいた。ゾウ、カバ、サイ、サルがいなかった。

この公園のしかし目玉はライオンやヒョウの子供たちのいるクレシュ(託児所)である。子ライオンはしかも南アの白ライオンの子である。僕たちは一番小さなライオンのいるところに登録した。多分6ヶ月になってしまったら、子ライオンでもシェパードくらいの大きさになってしまうのだろう。小さなライオンたちに手を噛ませたり、彼らの手をとったりとコンタクトができた。これが楽しかった。自然保護公園などの野生ライオンの家族の子供たちに触れるわけにはいかない。こんな幼いときに見知らぬ人間たちと接触するのが子ライオンにとっていいことなのかどうかは分からない。でも子ライオン兄弟は無邪気に戯れていた。
子ライオンたちは雨が時おり降る中で
遊んでいたから背中が土で汚れていたが
とにかく可愛い
ライオンの赤ちゃんに触れたのは実は初めてではない。1990年代のことだ。フランスの紺碧海岸のフレジュス動物公園の出口に子ライオンを抱いて写真を撮らせる連中がいたのである。しかしそのときはほんのちょっと触れただけであった。

昼は「ライオン・パーク」のレストランでテイク・アウトのピッツァとパニニ。これがボリュームがありすぎて二人とも食べきれず夜食にまでなった。


「ライオン・パーク・ツア」は実は「ライオンとサイのパーク」だったが、サイがいなかった。クリスマスで家族づれで賑わっていた。一人850ランド(8500円)。昨日のソウェト・ツアは一人当たり620ランドだった。

12月24日 マンデラの家 house of Mandela

Le mardi 24 décembre 2013
6時、曇り。ヨハネスバーグ。
クリスマス・イヴ

ヨハネスバーグもルブンバシ同様高地である。海抜1750メーター以上ある。ルブンバシよりも500メーター高いところに位置する。僕には涼しいどころか年中寒いところといっていい。以前冬(6月から9月)に出張で来たときは震え上がった覚えがある。今は夏なのだけれども暑くない。

朝方ツアで「ライオン公園」に行こうと宿舎と出たが、運転手のクリスさんに、明日ソウェトに行きたいというと、マンデラ・ハウスもアハルトヘイト。ミュージアムも明日明後日と休館だという。そこで今日急遽ソウェト地区に行き、「ライオン・パーク」は明日に伸ばすことにした。
ソウェト地区に行く前に、ヨハネスバーグの中心にあるカールトン・タワーに上って上から街の様子を見ることになった。アフリカ一高い建物だそうだ。展望台に殆ど全く見学者がいなかった。このタワーのある場所が街の中心とはいえ、バス・ターミナルや中央駅があるところであまり安全な場所には見えなかった。

ソウェト地区はアパルトヘイト時代の黒人居住区である。いや、その時代から20年経過した現在も黒人居住区あることには違いがない。その一角にマンデラ・ハウスがある。マンデラが逮捕される1963年まで住んでいた家は小さなしかしレンガ造りの家であった。初めは最初の妻エリエンヌさんと、離婚後は2番目の妻ウィニーさんといた家だ。ガイドをしてくれたのはかなりお歳のマドンナさん。彼女が話す内容をクリスチャンにフランス語で同時通訳した。かなり長い話なので疲れてし合った。まぁ、彼が理解してくれればいい。マドンナさんはマンデラと同じ地方の出身でコサ語ができる。非常に面白い発音がある。舌をクリックする音だ。マンデラの名前を発音してくれたが、先ずカタカナには直せない。アルファベットで綴ってあるのだが意味をなさない。舌の先で上歯茎を激しく叩くのだと思うが、チェという音でもなし、馬の足音を出すときの音でもない。彼女に何回も聞きなおした。
House of Mandelaはミュージアム化している
塀の柵は監獄の鉄格子をイメージしているのだそうだ
家はかなり小さい
弾痕や焼け焦げもあった
ソウェト地区はかなり広いようだが、マンデラと同じくノーベル平和賞に輝いたツツ司教の家が同じ通りにあったし、2番目の奥さんのウィニーさんの邸宅も割りと近くにあった。貧しい黒人の住まいが立ち並ぶスラム街がソウェトにもあるのだろうが、そうした地域には立ち入らなかった。
アパルトヘイト・ミュージアムは極めてモダンな建物だがソウェトのオルランド地区を越えてFNBスタジアムの先の方にある。となりにジェット・コースターのある遊園地があった。
オルランドのサッカー・チーム「オルランド海賊軍」に今年ルブンバシのTPマゼンベが破れてアフリカ・トップの座を狙えなかった。そのオルランドもエジプトのチーム「アル・アハリ」にあっさり負けてしまった。今年の結果である。
閑話休題。ミュージアムは詳しくマンデラの足跡を追うが、それならば、マンデラの自伝なり、南アの現政権政党ANCの本を読めばいいのではないかと思った。AudioVisuelが各所に使われたミュージアムで、マンデラは国家の英雄となっている。しかし、アパルトヘイトに反対した活動家は彼だけでない。亡くなった活動家も数知れない。マンデラは運がいい方なのだ。たとえば、1976年の学生による言語アフリカーンスの強制に反対する運動に始まり、アパルトヘイト反対におよんだ全国運動で殺された少年ヘクトール・ピーターソンも英雄だ。マンデラは彼の名を冠したミュージアムをソウェトに建設する。
掘り起こせばまだまだ英雄が出てくるかもししれない。しかし、アパルトヘイト廃止後の現実問題をもっと見据えなければならないのではないか。マンデラ批判をタブー化するのは正しいことではない。マンデラを英雄にして現実を隠したい向きがどこかにあるのではないかと僕は危惧するものである。

ツアを終えた午後、宿舎から歩いて中華街に行った。中華街といってもレストランばかりではなく雑貨商、八百屋等々の店が道の両脇を占めている。それほど大きい街ではないが中国パワーを感じさせるには十分であった。南アの中国人は他のアフリカ諸国、特にフランス語圏に進出している中国人たちと違って古くから南アに殖民している。インド人、ユダヤ人とともに南アの重要な構成員である。

中華街をさらに東に進むとオリエンタル・シティがあったが。このアメ横のようなショッピング・センタは16時前に既に閉め始めていた。ここでDellのパワー・ケーブルを探した。Dell用はなくユニバーサルな変圧器を買うことになった。

オリエンタル・シティーからイースト・ゲイト・ショッピングセンタへ足を伸ばした。大きなショッピング・センタだが、ヨハネスバーグには幾つもあるショッピングセンターのひとつである。夜出歩くのは危険が伴うというから、イヴの食事は部屋でとることにする。しかし、食事を作るのは面倒だから、出来合いの料理を買いたいと思ったのだ。ショッピングセンタには何でもあった。サラダもデザートのケーキも。メインは寿司になった。純日本式の寿司ではないが見た目は悪くなさそうだ。スパークリング・ワインも買った。


夜中1時頃、脚がつって目が覚めた。痛かった。この脚の攣りが心臓まで行けば死んでしまうのだろうなと考えた。それはいいが、痛いのは敵わない。クリスチャンを起こして足の指を内側に強く押してもらった。悲鳴を上げる痛さがやっと遠のくのに30分もかかったろうか。

07 janvier 2014

12月23日 ジョバーグ到着 arrivée à Joburg (Johannesburg)

Le lundi 23 décembre 2013
6時、晴れ。

7時5分、ジンバブウェと南アとの国境ムシナMusinaについた。それからが長かった。年末の所為でザンビア人が多く南アに旅行するためだそうだが、通過に3時間半かかったのである。ザンビア側も混雑していたが南ア側の事務処理が遅すぎた。これは意外だった。南アともあろうものが。出入国管理官たちがのんびりとしている。人を待たせておきながら、勤務中「おやつ」を頬張る、コーラを飲む。空港ではこんなことはないのかもしれないが、仕事をぱっぱっと片付けようなどとは微塵も思っていないようだ。税関の検査も型どおりながら五月蝿い。2台のPCを持っていたが、これらを登録させられた。意味のある登録とは思えない。後日出国時にこの登録を無視したが何ら関係がなかった。

ジンバブウェと南アの国境の川がリンポポ川だ。リンポポ川はザンベジ河ほど長くはないが、南アに源泉をもち、ジンバブウェを通ってモザンビークのインド洋に流れ込む国際河川だ。
ジンバブウェと南アの国境
リンポポ川を通過
(ムシナ、南ア)
17時、プレトリア到着。

18時、ヨハネスバーグ到着。バス・ターミナルは混雑していた。ちょっと先入観で怖かったがタクシ乗り場で車に乗った。ホテルから出迎えが期待できたが、バスの到着は常にはっきりしないので、ターミナルに到着してから電話で無料出迎えを要請する仕組みになっている。これでは面倒なので結局タクシで直接宿舎に向かったのだ。18時だが緯度がルブンバシより高い。ルブンバシは南緯11度のあため、日の出日の入が一年中一定(午前6時と午後6時)なのにヨハネスバーグは南緯26度なので19時を過ぎてもまだ明るい。南半球では今が夏である。だから、タクシにも乗る気になったのだ。乗った車の運転手はちょっとヤクザ風体だったので怖かったが、話してみると親切な男であった。
19時、ホテル到着。ヨハネスバーグ市東部の住宅街にある。