Le 9 février 2010, mardi
10時にルブンバシ大学ポリテク学部副学部長カニキArthur Kaniki Tshamala氏と面談した。大学間交流に関しては担当教授が別にいる。別途アポイントを取ることにした。
しかし、Kaniki教授はカタンガ州の鉱山関連公害の研究者である。
「公害研究についてフランスおよびベルギーの大学との協力関係が深い。言語の問題と歴史上の背景がある。その他言語の国の大学とかねてから交流したいと考えていた。カタンガでは鉱山開発を始めて100年がたつ。やっと公害問題について認識し始めたところである」。カニキ教授は、博士、修士ともにベルギーのリエージュ大学(Université de Liège)で取得している。しかも論文はカタンガの公害問題で、博士論文タイトルは「Caractérisation environnementale des rejets minéro-métallurgiques du Copperbelt congolais(コンゴ・ コッパーベルトに於ける鉱物・金属廃棄物の環境的特色)」。ここでCopperbelt congolaisというのはカタンガ州のことである。通常コッパーベルトというとZambia国コッパーベルト州を指すが、カタンガとザンビアの銅鉱床はつながっている。
「2002年7月11日法第007/2002号(鉱山法)及び2003年3月26日勅令第038/2003号(鉱業規則)に則って鉱山開発会社は政府に公害対策レポートを提出しなければならないが、正しいレポートがでているとは思えない。形式的であるし、賄賂をつかった虚偽報告が多いと推定される。そこにNGOがメスをいれ監視して欲しいが、専門的NGOはない。ごく局部的にはNGO活動がみられる」
カタンガには銅、コバルト、ウラン等々の鉱山があり、世界中から鉱山会社が集まっている。中には小規模な手工業的開発もある。公害問題にカタンガはもっとsensitiveになる必要があると思われる。
次は更に他の教授や大学当局にあたろう。
Le 10 février 2010, mercredi
大家である教会の本件賃貸責任者L’abbé Mlapoムラポ師に今朝直接水問題を始めてとして諸問題を訴えた。かなり厳しい調子でしかし多少は外交的に訴えた。彼が家に来て、といっても教会の事務所から20Mしか離れていないが、実地検分してくれた。問題解決に少しは前進したろうか。一応、「問題点がクリアになった、解決に努力する。しばしの辛抱だ」というが、既に彼のアシスタントからレポートが出ているはずなのに、今更しらばっくれてるわいな。「悪いのは俺(ムラポ師)じゃない」といいたいのか。
ルブンバシの助役maire adjointと金曜日10時半にアポイントがとれた。こういうアポイントでは背広を着る。コンゴの人たちは服装にうるさい。市長は病気療養中。おそらく南アで入院しているものと思われる。
水道問題が一部解決。台所には水がでるようになった。圧力の上がる夜半を待たなくても16時ごろから翌朝7時までは水がでそうだ。一日中水が出る為にはまだ時間がかかろう。バス・ルーム、トイレは配管が間違っているのではないか。明日検討することになった。しかし台所で水が出ればあとはなんとかなる。お風呂は先の話だ。今のところ鴎外式に身体を拭くだけ。シャワーからお湯が出たら嬉しいだろうなぁ。2006年、モエロ通りの家では停電が毎日あった。通電したことを報せるモニター電球が灯ったときの嬉しさを思い出す。
ブログ『アフリカの星』および『日本カタンガ協会』を更新した。ホームページもできればする。
Le 11 février 2010, jeudi
一日家の掃除。入り口のベランダだけでもつかれてしまう。
Le 12 février 2010, vendredi
キュング会長とともにルブンバシ市助役(副市長)カプト氏(Kaputo Cando Benjamin)と面談。市長病気入院中で市長代理を務める。助役といっても官吏上がりではないから副市長というのが妥当。カプト氏は現役の弁護士でもある。不幸なことに同氏の弟の葬儀があり、時間が殆どとれなかった。執務室は絨毯が敷き詰められており、事務机もそれなりのステータス。TVがつけっぱなし。僕らが部屋に入ってからも、ソファーも置いてあった。緊急の用事か、ひっきりなしに事務官が署名や意見を求めに入ってきた。手短に「日本カタンガ協会」の紹介をし、姉妹都市案件の推進を依頼。市長顧問が担当することとなった。彼は大いに乗り気。
Kaputo氏の事務室に通されるまえに寄った市長秘書官ムヤ氏(Muya)の部屋に魚市場の絵がかかっていた。署名を見るとMakikaとある。どんな画家だろう。市庁舎の入り口ホールには、僕が2006年に数枚買ったMbayaの絵が飾ってあった。市で買い上げたのか、Mbayaから寄贈されたのかはわからない。
市役所の駐車場でまたMuya氏に会った。そしたら「あの絵に興味があるのか、なら売ってもいいよ」ときた。大きすぎるからと断ったが、市役所の絵を何故売れるのだろう。市の財産だろう。画家から売ってくれと頼まれているとも考えられないことはないが、僕はむしろMuya氏の小遣いになるのだろうと推測する。
僕の車の燃費がまた悪くなっている。496km/54L。9.18km/Lとは。冷房を出来るだけ避けていたのに。来週はオイル交換。5000km。悪路の所為か、運転が拙いのか。
Le 13 février 2010, samedi
今日は台所とバス・ルームを集中的に掃除。台所の壁にこびりついた油を落とすのが一苦労。14ヶ月前にこのVillaの住人だった司教さんは女中を雇わず料理人だけを雇っていたそうだが、そのコックはこの台所で何を作っていたのだろう。汚れ放題じゃないか。料理人は調理場が命、清潔さを保ち調理器具はぴかぴかに磨くのが当たり前ではないか。どこで教育を受けたコックなのだろう。
庭師を雇うことにした。Andréさん。中年の男。Kyungu氏の親戚筋。Kipushi在住。月間80ドル。週給にして20ドルで毎土曜日支払い。当面は仕事量が多いので日曜日を除く毎日8時間労働。何しろ庭が広いから僕だけではとても無理。町で暇にしている若者たちを雇おうとも一時考えたが、素人で遊んでばかりいても困るので、プロに任せることにした。来週月曜日から仕事開始。草刈。追って植木、花壇などを設計、実施しよう。
ここのForrest工場で働いている日雇いが一日8時間労働で3000FC(300円)だそうだ。時間給ではない。日当だ。当初1時間1000フラン(100円)としようかと思ったけれど、相場と乖離しても具合が悪いので申し出の額とする。
部分停電。この家の配線はどうなっているのだろう。昨夜はどの部屋も照明がついたが、台所のコンロのコンセントだけが機能、他のコンセントは軒並みダウンしていた。今日の夕方は天井の照明がどこも点かず、台所の冷蔵庫脇のコンセントは機能したものの、昨日のコンセントは機能せず、しかしサロンもバス・ルームも僕の部屋のコンセントも機能した。ところが20時にばバス・ルームと僕の部屋の照明は点いたが相変わらず台所の照明は点かない。一体何系統になっているのだ。それとも天井のネズミの所為か。
Le 14 février 2010, dimanche
ルブンバシ大聖堂の帰りに、昨日スタンドを倒して壊してしまったので、開けていた小さな店で電球を買った。100Wしかない。
今日はバレンタイン・デー。駆け込みでプレゼントを買う人がいるのだろう一部の店が開いていた。
快晴でかなり暑い。僕の地元となったキプシKipushiのプールは子どもたちでいっぱいだった。ルブンバシから来ている家族連れも多くいるそうだ。
このプールもとなりのテニス・コートも、鉱山会社Gecaminesが全盛時代に出来た施設だ。70年代、80年代の話である。往時が偲ばれる。
モップで床を掃除。モップをつかったのは小学校以来か。小学校では教室やトイレの掃除は当番制で生徒が掃除をした。今でもそうしているのだろうか。小使いとか用務員なんていなかったような気がする。自分たちのことは自分たちでするという教育だったのだろう。
マドンナにプレーン・オムレツ(玉子焼き)を作った。ミルクから多少卒業させてやらないと。かりかりのビスケットもミルクに浸けないで食べることが出来るようになったのだから。
夕飯。ルブンバシからの帰り道の途中でアボカド2個買った。カタンガのアボカドは大きい。アントレで1個食べてしまった。中の種も大きい。しかし、美味い。僕の家の庭にもアボカドの木がある筈なんだがなぁ。
Le 15 février 2010, lundi
扇風機をJamboで買い込んだ。組み立て30分。なかなか良くできている。40ドル(3600円)。リモコンまでついている。2006年の滞在の時、僕は扇風機を買わなかった。同僚は買っていた。昨日暑かったので扇子で扇いでいたが疲れちゃうので扇風機を買うことにした。エアコンは高いし、この高原では今のところ必要がない。でも89月は暑いらしいから悲鳴を上げるかもしれない。それまで様子見。扇風機をつけて、チーズを齧りながら冷えたPrimusビールを傾ける。ちょいとした贅沢ではないか。
Primusビールって、キンシャサ資本でルブンバシでも一昨年あたりからカタンガでも生産されだしたビールだけれど、残念ながら地元のSimbaビールより美味いなぁ。Simbaは薄味すぎる。またTempoビールは濃すぎる。
庭師は確実に仕事をしてくれたようだ。家の敷地の門の前がさっぱりしてきた。Andréさん、がんばってくれ。
協会の銀行口座開設のためBiacに行った。担当は営業のRoddy Mlalelamaさん。整えた書類に更に加えて幾つか提出しなければならないが、今週中には口座番号がきまりそうである。
日本鉱業がカタンガで鉱山開発をしていたが、1983年に契約解除、1 000人以上いた日本人は全て帰国してしまった。日本鉱業が業務を開始したころ合弁会社Sodimizaに入社したSongasongaさんにお会いした。ルブンバシのSodimicoの責任者である。SodimizaのzaはZaïresのzaである。国名が本のCongoにもどったので会社名もSodimicoになっている。彼は青春時代を日本人上司と過ごしたことになる。かれにとって栄光の時代だったようだ。日本の手をはなれてからオーナーはカナダ、ポーランド、南アと移っているようだ。
MusoshiにあるSodimicoの鉱山見学を申し込んだ。日本人との間に生まれた子供たちが相当数いると聞いた。既に三十路を過ぎた子どもたちである。僕はここでモラルを語ろうとは思わない。コンゴの女性との間に子どもができていても不思議ではない。父親探しに協力するつもりはない。しかし、identityを求める子らの気持ちは分からる。どうしたらいいのであろう。答えはそう簡単には見つからない。
ネットで日本語サイトを調べてみると、Sodimiza/Sodimicoに関する記事は日本政府の資料の中と僕の「ルブンバシ・リサーチ2006」しかなかった。
カタンガ州政府に『カタンガは今』という広報誌がある。2008年から不定期ではあるが発行されている。知事モイーズの宣伝といえないこともないけれども、安物ではない相当金をかけた広報誌である。ここに次回「日本カタンガ協会」の紹介記事が載るよていである。
Soude caustique(苛性ソーダ)を買ってきたが、使い方がわからない。水の通りの悪い下水管(バスタブの排水)の塞がりを除くためだが、そのまま配水管に落とせばいいのだろうか。ソーダと水との反応は激しそうで躊躇される。
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