le dimanche 1er mars 2020
6時、晴れ、24℃、72.5%。
le lundi 2 mars 2020
6時、曇り、24℃、72.5%。
6時、ネット不通。
ネットが不通だと何も出来ない時代になった。8時、回復。
le mardi 3 mars 2020
6時半、雨、24℃、70%。
激しい雨で、サテライトTVが切れる。
7時25分、停電。暗い。
『断腸亭日乗』巻之一。荷風。39歳の日記というが数え年に違いないから、満では三十七八だ。それでもう老年と荷風自身が云っている。そうなのかな。時代が時代としても、僕が38の時は、ジュネーヴ時代が始まったばかりで、年寄りとは全く思ってもみなかった。花鳥風月、飯のことしか書いていない。
『断腸亭』巻之二。「五月 四日。 築地 けいこ の 道すがら 麴町 通 にて 台湾 生蕃 人 の 一行 を 見る。 巡査 らしき 帯剣 の 役人 七 八 名 之 を 引率 し 我 こそ 文明 人なれ と 高慢 なる 顔 し たり。 生蕃 人 の 容貌日本 の 巡査 に 比すれ ば いづれ も 温和 にて 隂険 なら ず。 今 の 世 には 人 喰 ふも のより 遥 に 恐る べき 人種 ある を 知ら ず や。」 生蕃 人(せいばん人)というのは、台湾の先住民、その中で漢民族に従わなかった住民、いわばルベルrebelleだ。荷風の印象、面白い。官憲が嫌いなのだ。
「八月 十 五日。 残暑 甚 し。 晩 間 驟雨 来ら む として 来ら ず。 夜 に 至り 月明 かに 風 涼し。 市中 打壊し の 暴動 いよ 〳〵 盛 なりと 云 ふ。 但し 日中 は 静穏 平常 の 如く、 夜 に 入り てより 蜂起 する なり。 政府 は 此日 より 暴動 に関する 新聞 の 記事 を 禁止 し たり と 云 ふ。」
1918年の米騒動。
「何となく イスパニヤ の 女 を 思出 さし むる 顔 立 なり。 予 この 頃 何事 に つけ ても 再び 日本 を 去り たき 思ひ 禁ず べから ず。 同じく 病み て 路傍 に 死する なら ば、 南欧 の 都市 を さま よ ひ 地中海 の ほとり の 土 になり たし。」
欧州は遠かった。日本に僕の墓はいらない。遺灰はコンゴ河と地中海に分けて撒いて欲しいと思う。
le mercredi 4 mars 2020
6時半、曇り、22℃、70%。寒い。
『断腸亭』巻之三。荷風の西欧「、特にフランスへの憧れが強い。クロワッサンを朝食のパンに選んだり、チョコレートchocolatを飲んだりと。ところが、どれほどフランスの文化を理解していたのかは疑わしい。たとえば、
「五月 十日。 去年 の 夏 も 初袷 きる 頃 には 身一つ の さびしさ 堪えがたき 事 あり し が、 今年 も また わけ も なく 心 淋しく 三味線 ひく 気 も 出 ぬ ほどなり。」と日記に書くとき、その「さびしさ」は日本人特有のものではないかと思うのだ。勿論フランス人ないし欧米人に「さびしさ」がない、「さびしさ」が分からないというのではない。
「さびしさ」が何処からくるのか、その「さびしさ」にどう対応するのかが違うのではないか。
le jeudi 5 mars 2020
6時、曇り、22℃、75%。
フランシスコ女子修道会FMMのフランソワーズ管区長がキプシの家にみえた。あらいざらい、全ての家具調度を買ってくれ、チーコちゃんも引き取ってくれることになった。500ドルも現金でいただいた。有り難い。作成した譲渡証に署名してフランソワーズ・シスターに渡した。
『断腸亭』巻の三。西欧および中国大陸文化を景仰してやまず、比して現代日本文化を嫌悪するという荷風は、日頃親しんでいるいる江戸文化(清元、浄瑠璃、端唄、狂歌、俳諧、浮世絵、歌舞伎等々)を不真面目と決めつけながら、「晩年」(といってもまだ数え41歳)を生きるよすがとしている。「さびしさ」をまぎらわす手段でもある。
「七月 二十日。 暑 さ きびしく なり ぬ。 屋根 上 の 物 干 台 に 出 で 涼 を 取る。 一目 に 見下す 路地裏 の むさ くろし さ、 いつも ながら 日本人 の 生活、 何等 の 秩序 も なく 懶惰 不潔 なる こと を 知ら しむ。 世人 は 頻 に 日本 現代 の 生活 の 危機 に 瀕する 事 を 力説 すれ ども、 此 の 如き 実 况 を 窺 見れ ば、 市民 の 生活 は 依然として 何 の し だら も なく 唯 醜陋 なる に 過ぎ ず 個人 の 覚醒 せ ざる 事 は 封建時代 の むかし と 異 る ところ なき が 如し。」
と、荷風は日本批判をするのだけれども、じゃ、夢に見る、あるいは荷風が生活した十余年まえのパリやリヨンはどうだったか。決して清潔な街ではなかったと思う。現代だって、「個人の覚醒」があるかどうか知らないが、ひとたびストがあれば、パリは至る所ゴミだらけだし、フランス人にスイス人ほど公衆道徳が高いとも思えない。チューリッヒはの清潔さを見よ。もっともスイス人だって、ゴミ処理の費用が高いからと、国境を越えてフランス側でゴミを不法に捨てる輩が後をたたないようだ。
上記以外にも、「一日もはやく家を棄てて外国に往きたしと思うなり」というような文章が随処にでてくる。同時代の谷崎潤一郎と似た外国、西欧コンプレックスだなぁ。この日記を読むまで、『フランス物語』を読んだ時とは別に、荷風にこんなに憧れと表裏一体になったコンプレックスがあるとは想像できなかった。
le vendredi 6 mars 2020
6時、曇り、24℃、75%。
電力料金をキプシSnelで支払い。20900FC。来月はもうここにいないので、3月25日になったら、大家にArtel Moneyで、手数料および毎月の若干の値上げを見込んで53000FCを振り込む予定。
ルブンバシで久しぶりに豆腐を購入。
サイトウ君と待ち合わせ、彼の書いた日本大使宛ての手紙をプリントアウトして、DHLで送付。ルブンバシ=キンシャサの料金31ドルは僕が負担した。手紙は若干僕が綴りの間違いなどを修正した。月曜日に手紙到達予定。
手紙のないようは、ムソシの子どたちの会から、日本人の子どもたちに日本国籍を付与依頼。日本鉱業(現JX Energy)が、子どもたちの存在を認めていないので、日本大使館は無視か、民事だという立場で「とんでもない」と云うだろう。
それからが勝負。Twitterを使い、小どもたちのことを書くつもり。
le samedi 7 mars 2020
6時、晴れ、24℃、75%。
9時5分、停電。快晴。9時半、回復。
『断腸亭』巻之四。しきりに「風月堂」がでて来る。食事をとっている。僕は風月堂に行ったことがないだろう。デパートなどで名前を見た気がするだけだが洋菓子専門店だと思っていた。上野精養軒はある。特に精養軒に感心したことはない。風月堂は、調べてみると、江戸時代からある店だ。発祥は和菓子屋。伝統ある店で今や全国展開している。荷風が築地に家を借りた時代に食事をしたのは築地店だろうか、銀座店だろうか。今でも銀座店では食事ができるとサイトにあった。まぁ、ちょっとプチブル趣味。プチブルでなければ、貴族趣味かなぁ。
『断腸亭』巻之四。但し、荷風42歳の年の正月、Anatole Franceの『L’anneau d’amethyste』を読むとある。この400ページに余る小説中に、確かに仔犬の話がでて来るようだが、これは小さな挿話であって、アナトール・フランスの主要テーマは例のドレフュス事件であろう。荷風はドレフュスに言及せず、仔犬のことだけ自分の経験に比して書いている。荷風はよくフランス語の本を買っている。しかし、どうもパラパラとめくって眺めているだけかも知れないなと思う。
12月31日にキユイラツソオを飲んで寝たとある。キユイラツソオとは何だろうと思った。どうもcuraçaoのこと。フランス語でcuirasseauとも云うらしい。初耳だった。
『断腸亭』巻之五。「日本の子供は犬を見れば撲ち、花をみれば折らざれば已まず。寧悪山猿の如し」(4月9日)。荷風は子どもが嫌いなんだろうね。ま、乱暴な子が、前年引っ越した麻布、いや市兵衛町辺りでも多かったのだろうか。下町ではないのに。荷風はしかしこれら乱暴な子に会って、彼らを叱らない。フランスだったら大人が説教するに違いない。どこでも子供たちは「山猿」だ。
「六月 二日。 大久保 辺 にて 運転手 李 某 と よべる 韓人 乱酒 なし、 刀 を 振 つて 道路 を 行く もの 十 七人 を 斬り し と いふ。 我 政府 の 虐政 に対する 韓人 の 怨恨、 既に 此 の 如し。 王化 は 遂に 雞林 に 及ぼす 事 なし。」と朝鮮人を非難するよりも日本の朝鮮に対する植民地政策の失敗を書く。雞林 とは朝鮮のこととネットで知った。
André Gideの『 Paludes』を読んで(7月4日)、「感歎措く能わず」と云う。Gideを久しぶりに読んでみようと思ってネットを検索すると、PDFがあったのでダウンロードしておいた。ローラン・バルトなどが再評価している小説である。
『断腸亭日乗』を読み終えてみると、やはり文章がいいと思う。日本の小説はここまでかな。後は読むに耐えないといつも思っている。どの小説家も偉そうなことをいっているが鴎外から荷風でお仕舞だ。
le dimanche 8 mars 2020
6時、快晴、24℃、70%。カタンガ晴れ。
平野啓一郎が3月2日に荷風の『断腸亭』を引いて、日本人が当時も今も変わらないと書いていた。それが僕が『断腸亭』を読む切欠となった。
僕の糸は次に鏡花に繋がる。荷風が『断腸亭』で読み返したい本の一冊にあげていたからである。
『照葉狂言』。泉鏡花。いつもながらリズムがある文章。いいなぁ。
le lundi 9 mars 2020
6時、晴れ、24℃、70%。
昔の住所録を見ていたら、桜井淳史が出て来た。写真家になったときいていた小学校同期の人物。ネットを調べたら「著名な」写真家、という記事があった。ほう、嬉しいじゃないか。自然写真家なのだそうだ。水中写真家でもあるらしい。偉い人がいるなぁ。元気で活躍しているようでよかった。
Canal+のRDC本社に今月のグレードアップについて質問。差額だけを払えば良いことを確認した。当たり前だと思うが、ルブンバシに再度行き、本社の云うことをきけと談判。ようやくグレードアップが実施された。差額$15。新たに払えば$40。諦めないでよかった。
しかし、Canal+(サテライトTV)のルブンバシの従業員の質が悪い。Canal+だけじゃないけどね。この件でも時間と金(電話代)を損した。
金曜日に出したDHL利用の手紙もまだキンシャサに届いていない。
le mardi 10 mars 2020
6時、曇り、24℃、70%。
le mercredi 11 mars 2020
6時半、曇り、24℃、70%。
先週金曜日に出したDHL便による手紙が5日目の今日やっと宛先(キンシャサの日本大使館)に到着するようだ。31ドルもかけたのに遅いなぁ。RDCコンゴ国内の手紙だよ。
le jeudi 12 mars 2020
6時、雨、24℃、70%。
アビジャン行きのフライトのうち、アジスアババ=ロメ(トーゴ)間が運行キャンセルになったとエチオピア航空から報せが来た。えっ、ロメ=アビジャン間は運行するのかい。でもロメに行くフライトがないから30日中にアビジャンに付けない。困った。
le vendredi 13 mars 2020
6時半、曇り、24℃、75%。
朝さっそくルブンバシのエチオピア航空に行った。ところが、ルブンバシ発ではなく、ンドラ(ザンビア)からの行程予約だから、ルブンバシでは変更できないという。ンドラのエチオピア航空支店の電話をきいて、帰宅後交渉した。メイルもその支店に出して置き、その後電話で事情説明をした。いずれにせお僕の方からキャンセルしたわけではない。結果、31日のエチオピア航空機でロメに行き、続いてアビジャンのフライトに乗ることになった。アビジャン到着が1日遅れるが、これは仕方ない。30日の他社航空機には乗り換えられなかった。でもNdolaのエチオピア航空のお姉さんは親切丁寧だった。ザンビアは英語圏。
le samedi 14 mars 2020
6時半、曇り、24℃、75%。
17時半、週末だというのに朝から断水。電気はあるからまだましか。でも水も欲しいなぁ。今年に入って断水が多い。ほぼ毎日だ。通常は16時ころから水が出始めるが今日は出てこない。
サテライトTV、Ushuaia局でグレタさんGreta
Thunbergを紹介する番組を見た。スウェーデンの少女グレタさんの行動力には驚かされる。演説も上手い。メディアに利用されているのは確かだろうが、それを逆手にとっているようにも見える。厳格な菜食主義者。飛行機に乗らない。
グレタさんの云うことはもっともで、老人である僕には実行できないことばかりである。でもね、グレタさん、電気は使っている。多分スマホも。
僕たちは悪魔の世界で生きている。たとえば、電気は原発で発電されているし、スマホにはコンゴの希少金属が使われている。悪魔と妥協して生きているんだよね。そして人間は不条理な存在なのさ。とはいえ、グレタさんを貶めるわけじゃない。環境運動家としていい大人になってくれ。僕は、僕らは世の中から間もなく消えゆくのみなのだから。なんにも出来なかった大人なんだ。グレタさん、反抗しなきゃね。
le dimanche 15 mars 2020
6時、晴れ、24℃、75%。
アビジャン到着が1日遅れとなるので、宿舎(Airbnb)の予約を1日ずらそうとしたら、40ドル近くの差額支払いを請求されることが分かった。馬鹿らしいので予約はそのままとして翌日到着とした。キャンセルや変更が簡単で余計な費用がかからないというのは真っ赤な嘘だねぇ。
日曜日に断水はなかったのに、今日は7時から断水。17時、回復。
隣の床屋、エスドラス君のところで散髪。
le lundi 16 mars 2020
6時半、小雨、24℃、72.5%。
コロナヴィールスが引き起こすのは肺炎pneumonieだ。肺炎なら良く知られた病気ではないか。老人がインフルエンザにかかり、落命するのは肺炎になるからだろう。呼吸困難になるか、弱い心臓が耐えられず心臓が止まるか、いずれにせよ死にいたる。若い人が肺炎で死ぬることもあろう。
老人はコロナヴィールスでなくても死ぬのだ。肺炎にかかって、抗生物質が効かなければ臨終。当然のことだ。
熱帯アフリカにはマラリアがある。マラリアには億単位で罹患者が毎年いるのである。死者は、僕のいるRD Congoコンゴだけで50万に迫る。多くが幼児、児童だ。老人もコロナヴィールス感染で肺炎になって死ぬよりも多い。
それなのにコロナヴィールス、コロナヴィールスと大騒ぎしている。それは先進国、中国、韓国、日本、欧州各国がヴィールスが「蔓延」していて、メディアが四六時中騒ぐからに違いない。
インフルエンザではこんなに騒がない。どうも政治的動きの匂いがする。フランスではレストラン、劇場まで閉鎖になった。集会もデモもできない。メディアも政府も「パニックになるな」といいながら、実はパニックを煽っている。
コロナヴィールス感染が陽性だっていいじゃないか。予防は頻繁に手を洗うしかないのだろう。罹ったら自宅待機していればいいじゃないか。いい加減騒ぐのは止めたらいい。
先週土曜日に1000ユニット($10)も買ったのにAirtelがもうユニットが足りないから電話出来ないという。そんな馬鹿な。データ通信にユニットを使っていないし、不思議なことだ。と思ったら、Airtel Moneyに$10が入っていた。電話Unitsに使われていなかったのだ。
早速、通話側にAirtel
Moneyでunitsを買った。
le mardi 17 mars 2020
6時、うす曇り、24℃、72.5%。
今朝の水道、昨夜から勢いよく水が出ている。どうしたのだ。ま、水が出るにはこしたことがないけれど。
le mercredi 18 mars 2020
6時、曇り、24℃、72.5%。
今朝も水の出がいい。う~む。どこかで水道工事が終わったのだろうか。情報は一切ない。
コロナヴィールス騒ぎ。
フランスは全国民に外出禁止、個人に外出許可証まで発行している。連帯solidaritéの名のもとにみんなが協力している。しかし、ま、やり過ぎの感があるなぁ。英国は、蔓延させて免疫の壁を作る方が賢明と今のところ考えているようだ。この方が合理的な気がする。重症患者が極めて少ないのだから、免疫人口を増やして、1年後あたりにのワクチンが出来るのを待つのがいい。アビガンが治療に役立つならTant mieuxだろう。
le jeudi 19 mars 2020
6時、曇り、24℃、52.5%。
昨日Tsitterでメッセージを流したのだが、10件中6件しか表示されていないような。
僕のHPに一旦記事を載せ、それをツイートで関連させるようにしないといけないのか。
記事の書き直しをしてみる。
「日本の皆さま、
コンゴ民主共和国(DRC)ご存じですか。
アフリカ第2の面積がある国です。面積がトップなのはサハラ沙漠のあるアルジェリアです。DRCは地下資源に恵まれた国で、銅、コバルトを初め、金、ダイヤモンド、レアメタル、ウラン等々を産出します。
日本からは1970年代頭に日本鉱業(現JX金属)が、DRCの南端の州、旧カタンガ州のムソシというところで銅鉱山を開発しました。
1983年に日本鉱業はここを閉山し撤退しましたが、一時600余名に昇る日本人従業員がムソシ鉱山で働いていました。
ムソシを中心として、日本人を父親としコンゴ人母親との間に50名以上の子供たちが生まれました。コンゴの慣習に従って結婚した方々の子供たちです。
閉山の結果、父親たちは日本に帰国しました。中には、帰国後もコンゴ人妻と連絡を取り合い、生活資金を送ったり、衣類や子供たちへの玩具を送った父親もいらっしゃいました。
年月が経ち、コンゴの郵便制度が破壊され、音信が不通になってしまいました。
子供たちは学校でムズング・ンブジ(白いヤギ)と呼ばれ、仲間はずれにされました。家が貧しく学校に行けなかった子供たちも多くいます。
中で恵まれた子供たちは、幸いにして母親たちよりも高い教育を受けることができ、大人となってから、コンゴ人社会から受けた偏見を日本人の子であるという誇りにかえて団結、「ムソシの子供たちの会」をつくりました。
当初は「日本人を父親とし、コンゴ人女性の母親から生まれ、コンゴに置き去りにされた子供たちの会」という名前の会でした。2014年に僕が名誉会長をしている「日本カタンガ協会」に組み入れる際に「ムソシの子供たちの会」に名称変更をしてもらったのです。
「ムソシのこどもたちの会」の現会長はサイトウ君です。サイトウ君からキンシャサ(DRCの首都)にある日本大使館、その代表たる日本大使(現大使は軽部洋大使閣下)宛てに先週手紙が出されました。「日本国籍を下さい」という内容です。日本の国籍法によれば、両親の一方が日本国籍を有している場合、子は日本国籍が取得できるとなっています。
日本国籍は、子供たちにとって一つのアイデンティティの確保ということです。
日本国籍取得に関しては、フィリピンの旧軍属の子供たちが、戦後70年を経て日本国籍が認められたという例があります。日本語を全く解しない、日本語の読み書き会話が出来ない方でした。
実は、ムソシの子供たちによる国籍取得のお願いは、今回が初めてではありません。2007年、当時の会の会長ケイコさんが、キンシャサの日本大使館を訪問して要求書を提出しています(今回はお金がないので、物理的にキンシャサには行けずDHLの手紙にしました。キンシャサの大使館に行くには交通費だけでも500ドル以上かかります)。
日本大使館は、ケイコさんの事情を聞いて、日本の外務省本省に問い合わせをしました。外務省は日本鉱業に連絡しています。日本鉱業は「子供たちのことは聞いていない。そんな子供たちなどいない」と子供たちの存在そのものを否定しました。外務省は、それに基づき「民事案件であり、日本国家は関与しない、できない」と大使館を通じてケイコさんに回答しました。
さて、サイトウ君も今年50歳、一番若い会のメンバー、チーちゃんことモリタ・ケン君にしても37歳になります。日本人の父親たちも高齢者で亡くなっている方々も多いと思われます。もう後がないというのが正直なところ。新たに国籍取得願いがだされた理由の背景がここにあります。
子供たちもさることながら、孫たちが200名以上います。孫たちからも僕のところにお祖父ちゃんに会いたいと希望が寄せられています。母子家庭で育った子供たち、大方の貧しい家庭の孫たちは学校にもろくに行けずにいます。僕や、カトリック教会、フランシスコ女子修道院で一昨年まで35年間もDRCにいらっしゃったアスンタ佐野シスターが学費を応援しているのは数名の孫たちだけです。残念ながら、それぐらいしか出来ません。
日本大使から、今日(2020年3月19日)までご返事をいただけていません。本当に善処していただけないものでしょうか。大使にお願いするとともに、皆さまに訴えたいと存じます。
le vendredi
20 mars 2020
6時半、小雨、24℃、72.5%。
enfants de Musoshi 2
ジュベ君が僕のキプシの家にやってきた。
ジュヴェナルというのが正式の名前だ。母親アヤコさんがが「ムソシの子供たちの会」のメンバーである。祖父はフルカワさんといい、鹿児島出身とまではわかっている。
ジュベ君には僕が学資支援を個人的にしている。授業料を払ったら、WhatsAppで領収書の写真を送ってもらう。別のことに使ってもらってはこまるからである。
クラスで成績が一番になったら自転車をご褒美に買ってあげるよと去年云ったら、ついに今年になって、2学期の成績で一番になった。おめでとう。
ジュベ君の父親は警察官、母親アヤコさんはリカシ大学の入口で屋台の飲食店を営んでいる。公務員の給与は何時払われるかわからない。しかも驚くほど安い。それなのに上司にピンハネされる。ジュベ君には8人兄弟姉妹がいる。小学校は何とか終えたが、中学に行く学資をアヤコさんがだせなくなった。そこで僕が助け舟を出して4年になる。僅かな学費で月1800円ほどに過ぎない。
ムソシの子供たちは今年50歳が最年長、若くても37歳になる。学校に行けなかったブルース君初め、彼らの世代は失業者でいっぱいだ。孫の世代には200以上と多い。「貧乏人の子沢山」とはよくいったものだ。産児制限をするのにだって、教育と金がいるのだ。
後がない。
le samedi 21 mars 2020
6時半、曇り、24℃、77.5%。
【ムソシの子供たち 3】コンゴでの結婚とは
日鉱のムソシ鉱山には多くが単身赴任者だった。本社員の中には奥さまを同行してコンゴに来ているが少数だった。日鉱は本社員には立派な宿舎を現地に建設している。
単身赴任者、独身者はどうしたか。週末、彼らは近くの村や、現地コンゴ人宿舎街にできたキャバレーや飲み屋で遊んだ。
コンゴ人女性と結婚した日本人従業員も多い。ここで結婚するには、先ず女性の親に贈り物をすればよい。ドットdotという。現金(数10ドルから数100ドル)、ヤギ、酒類、反物などがドットになる。いわば結納である。
日本での既婚者もドットを女性の両親に払って、結婚した人もいる。重婚だが、コンゴ側は気にしなかった。お金持ちのコンゴ人男性が複数の女性を妻にするのは、今でも権力の象徴である。コンゴ人妻の年齢を見て欲しい。大多数が14、5歳であった。日本でいえば、中学の女生徒だ。既婚の40代日本人のオジサンが中学生の少女を娶った例もある。20代の若い日本人でも、日本で中学生を相手にしますか。「現地妻」だからという思いが日本人にあったに違いない。
村役場に結婚を届け出たのはごく少数だ。当時ルブンバシにあった日本領事館に婚姻届を出した人は一人もいない。だから、日本の戸籍上の記載は全くない。まさか14歳の妻を入籍させるわけにも行かなかったろうが。
日本大使宛てにサイトウ君が出した手紙の返事は今日現在ない。
【ソシの子供たち 4】
ムソシの子供たちについてはフランスのニュース専門TV「France24」がレポートしている。酷い出来。日本の医者たちによる嬰児殺しあったと、まことしやかに語られて、それを信じるコンゴ人が多く迷惑千万なのである。
日本人フリージャーナリストも数人コンゴに来た。
一方、テレビ東京「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」が2015年晩秋に取材に来た。ムソシの子供たちのことを取材してもらったが、その部分は全面カットとなった。娯楽番組に相応しくないということだった。
NHK報道からも電話取材があったが、「事件性がない」とのことで本格取材にいたらなかった。TBSロンドンも取材が立ち消えになった。英国BBCはコンゴ人のいい加減な通信員のレポートを記事にした。
ただ一人、真剣に取材してくれたのが朝日新聞の南ア総局駐在三浦英之氏である。6回もルブンバシ、ムソシに足を運んで取材をされた。僕も取材に全面協力をした。いつか本になって「ムソシの子供たち」のことが、広く日本社会に知られることを僕は心から望んでいる。
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Youtubeで『100年の物語ー大正編 愛と憎しみの嵐』(TBS、2000年)を観た。上手く出来ている。描かれていることはよく分かる。感動しないこともない。だが、僕はこういうストーリーが嫌いだ。自由を求める女性の物語だ。しかし、自由とは犠牲を伴う。極めて利己
的なものだ。メロドラマじゃないんだよ。
le dimanche 22 mars 2020
6時半、曇り、23℃、75%。
le lundi 23 mars 2020
6時半、曇り、24℃、75%。
ルブンバシ空港でキンシャサからの乗客2人がCovid-19陽性とのことで知事が48時間の外出禁止令を発出。キプシからルブンバシへのバスもない。キプシのRawbank閉鎖。ATMにアクセス出来ず。
le mardi 24 mars 2020
6時半、晴れ、24℃、72.5%。
48時間が24時間になったらしく、ルブンバシのスーパーも営業。キプシの銀行も開いた。ATMで270ドル引き出した。
昨日陽性とした旅行者2人が実は陰性だったので直ちに外出禁止を解除したというのが真相と分かった。従いカタンガ州に患者はいないことになった。
le mercredi 25 mars 2020
6時、快晴、24℃、70%。
ルブンバシに買い物に。通常の賑わい。
le jeudi
26 mars 2020
6時、快晴、25℃、67.5%。
【ムソシの子供たち 4】②
テレビ東京「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝」が2015年晩秋に取材に来た。ムソシの子供たちを取材してもらったが、その部分は全面カットとなった。娯楽番組に相応しくないということで。
(サイトウ君が持っている父親の画像、亡くなったらしい)
(サイトウ君の父親 ○○○さん、亡くなったらしい)を修正した。
キプシ=ルブンバシの小型バスに定員が変わった。これまでハイエースだと運転手横に2人、前部座席に4x4=8人、後部改装座席に片側づつ5人、合計20人の乗客だった。Covid-19のお陰で、隣人との接触を避けるとのことで、1+3+3+4x2となり、15人に減らされた。知事命令。だから運賃が1500フランから2000フランに今日から値上げ。僕の家からルブンバシまでバイクタクシーとバスで片道2000フランが2500フラン。往復5000フラン(320円)となった。ともかく、ぎゅうぎゅう詰めのバスに余裕ができた。
【ムソシの子供たち 5】ケイコ フジモト
ケイコさんは「子供たちの会」の元会長だ。結婚した夫が保険会社Sonasの部長をしている。今年から民間の保険会社が運営するようになったが、それまでは国営のSonasだけだった。保険をかけても、保険の意味がないような、支払いの悪い会社である。民間が市場に参入して多少かわるかもしれない。
そんな保険会社の部長だが羽振りがいい。高級住宅街に大きな家を構えている。
ケイコさんの夫は大学で教鞭もとっており、文字も書けなかったケイコさんを学校に通わされてくれた。ケイコさんも向学心が強く、30歳半ばを過ぎて大学を卒業した。6人の子供がいる。
「ムソシの子供たち」のうち女性は夫に恵まれている例もある。そうでない場合は悲惨である。キミコさん、ナナさん、サツキさん等は貧困のさなかにある。
恵まれたのはケイコさん、キョウコさん、サクラさんの3人だろう。キョウコさんの夫は前大統領の親戚らしく鉱山会社のオーナー、サクラさんの夫は税務署の高級官吏である。
恵まれた理由は、日本人のハーフは色白ということだ。コンゴ人は肌の色が白い相手を好む。だから、たまたま社会的地位が高い夫(ここでは金持ち)に遭遇した女性は「玉の輿」となる。
そうでないと、France24で発言しているナナさんのように買春せざるをえなかった女性もいる。彼女はいま4人の母親で養鶏をしている。初めの2人の子については誰が父親であるかも知らない。養鶏を初めてから、軍人の夫と巡り会えた。
男たちはそうはいかない。東洋系にたいする差別は大きい。殆どみんな失業している。失業保険、生活保護もない国で、「なんとか生活している se débrouller」のである。
一人、ダイモン君だけが大企業に務めている。コンゴ最大の民間鉱山会社テンケフングルーメで働いている。前述キョウコさんと姉弟だからだ。
ケイコさんは、会長のとき、ルブンバシからキンシャサの日本大使館を訪問している。「子供たちの会」はこのとき初めて日本国籍を要求している。大使館は玄関払いなどせず、日本の外務省に問い合わせ、外務省は日本鉱業(現JX金属)に連絡している。日本鉱業は「子供たちの存在を知らない。日本鉱業がムソシ鉱山を運営していたとき、子供たちのことについてきいたことがない、日本人の子供などというのは言いがかりではないか、日本鉱業はタッチしていない、従業員と現地女性のと間に子供など出来ていない」と外務省に回答している。
この日鉱の態度は現在も変わっていない。全く「ムソシの子供たち」のことを無視するのである。彼らの存在そのものを否定するのだ。
外務省は、日鉱の否定的回答をえて、本件は民事であるので、国としては何もできないと在キンシャサ日本大使館に返答している。これが日本政府の公式見解で、今回のサイトウ君の手紙に正式な回答はまだ大使館からなされていないが、現在もそのままと思われる。
le vendredi 27 mars 2020
【ムソシの子供たち 6】牧師 pasteur
ムソシの子供たちは、ムソシにいるだけでなく、RDCコンゴのルブンバシ、リカシ等カタンガ州だけでなく、キンシャサに居住しているものもいる。また隣国ザンビアのキトウェやンドラに転居したもの、米国に渡ったものもいる。
米国に渡ったのはスズキ君である。メソジスト教会の牧師として派遣された。彼が最も戦闘的というか、僕たち日本人に反抗的である。父親に「捨てられたこと」を怨んでいるといえる。僕にも、「コンゴにいて子供たちのために何もできなかたではないか」と批判的だ。その通り、なにも出来なかった。子供たちのアイデンティティである国籍についても、父親探しについても、子供たちがまだ30代のときに職業訓練、再教育にも手をかせなかった。日本人の父親からみて孫の世代に入っていても、その孫たちの教育にも全く支援が届かない。
スズキ君以外にも牧師になった子たちがいる。ミチアキ君、ヨシミ君である。福音教会évengeristeだ。カトリックの神父になった子はいない。カトリック教会の神父になるには長い年月がかかる、高い教育が必要である。アフリカにはキリスト教系の新興宗教が山ほどある。バイブルをもとにしているが、聖書を本当に読んだことがあるのだろうかと疑うような牧師が軒並み。
「食うために」牧師になる。一種の詐欺師まがいの牧師が多い。大声を張り上げて、単純な語句を繰り返す。説教に悪魔を登場させ信者を脅かす。モラルは古く、超保守的である。信仰心la foiから牧師になったとは見えない。「神」を連呼する。批判はタブーになる。そして予言者を自称する。
教祖はテント張りの教会から、近代建築の教会へ、さらには大聖堂を建設するものもでてくる。メディアを利用し、ラジオ局、TV局を開局して布教。これは集金機構となる。
「子供たち」の中からも「予言者」が出ている。「子供たち」の団結、福祉、教育に役立っているかというとそうではない。自分のようにすれば、自らの才覚で「金持ち」になれることを誇っているだけのようだ。「清貧な」予言者を馬鹿にする。現代の「予言者」はアッシジの聖フランチェスコのようではない。
le vendredi 27 mars 2020
6時、曇り、24℃、70%。
6時20分、停電。久しぶりに長い停電で、14時20分やっと回復・
【ムソシの子供たち 7】日本大使館の対応
在コンゴ民主共和国日本大使はこの10年で北澤寛治氏、富永純正氏、牛尾滋氏、軽部洋氏と変わった。ケイコ元「ムソシの子供たちの会」会長が2007年キンシャサの日本大使館を訪れた時の大使は柳谷俊範大使だっと思われる。しかしケイコさんには会っていない。参事官の方が面接している。
北澤寛治大使は2008年の赴任であった。牛尾滋大使は2014年のご着任。現ポルトガル大使の牛尾氏だけが、「子供たち」にルブンバシで会っている。牛尾大使が外務省の「子供たちのことは民事である」という方針を変えたわけではない。しかしながら「子供たち」の窮状、事情を察せられたのだと思う。「なんとかしてあげたい」という温情である。
牛尾大使と野口参事官が、DRCのハンセン病患者施設を訪問のために来られた笹川陽平氏に「子供たち」の話をされた。笹川氏は財団が中に入ると時間がかかると、個人のポケットから1万ドルを寄付された。即断だった。ありがたいことである。
「子供たち」が話し合って、ご寄付を原資として食堂をルブンバシに開設することになった。食堂の利益から孫たちの学資を出そうと云うことだった。2015年8月開店。家賃が$500と高く、運営に難があった。2017年12月閉店。店をムソシ近くのカスンバレサ国境に移したが、それも同年7月に早くも閉店に追いやられた。運転資金に手をつけ、残ったのはテーブルや椅子、冷蔵庫、冷凍庫、食器、調理器具、TV等備品だけになってしまった。
日本大使館で「子供たち」のことを考えてくれたのは牛尾大使の時代だけである。しかし、今回サイトウ君が出した手紙を大使館は無視しているわけではないようだ。Covid-19対策で大使館は大忙しに違いない。だから、無暗と返信の催促はしない。しかし、思いやりのある回答が寄せられることを期待している。
大使館は子供たちの存在を否定してはいない。「ムソシの子供たち」の存在そのものを否定しているのは旧日本鉱業、現JX金属である。そこで、大使館に続いて、サイトウ会長名で「子供たちの存在を認めて、父親探しに協力して欲しい」旨の手紙をJX金属社長宛てに手紙を出すことにした。次回は、ことの元凶、日本鉱業、現JX金属(JXTGホールディングス)について書く。
le samedi 28 mars 2020
6時、曇り、24℃、67.5%。
15時20分、停電。丁度バスタブにお湯を流している時だった。16時15分、回復。
le dimanche 29 mars 2020
6時、快晴、24℃、70%。
欧州大陸は夏時間になった。ルブンバシとパリとでは時差がなくなった。
【ムソシの子供たち 8】元凶は日本鉱業(現JX金属)
日本の皆さま、
日本鉱業をご存じですか。
現在JX金属という名前になっています。大企業ですがあまり馴染みがないかもしれません。持株会社はJXTGホールディングスという名前で、傘下にガソリンスタンドのENEOSがあります。NISSEKI(日石)というブランドもあります。
サイトウ君がJX金属社長村山誠一氏にあてた手紙 |
JX金属は日本一の非鉄金属企業です。持株会社JXTGの社長は日石出身。JX金属は日本鉱業のプロパー。そのJX金属社長にサイトウ君が手紙を出しました。
1970年から1983年にかけてムソシ鉱山を実質経営していたのが日鉱でした。「子供たち」の父親はそこにいた日本人です。
サイトウ君は「ムソシの子供たちの会」のメンバー50人が日鉱グループ従業員の子たちであることを認めること、父親探しに協力することをJX金属社長村山誠一氏に訴えています。
日鉱にとって、ムソシ鉱山は最大のプロジェクトでした。だから600名を越える日本人を当時のザイール、現コンゴ民主共和国に投入したのです。女性は日鉱が建てたムソシ病院に勤務した看護士や本社からきた幹部の奥さんたちしかいなかった。完全な男性社会だ。そこでコンゴ人女性たちと交流があっても不思議ではない。
多くの日本人がコンゴ女性とカップルになりました。コンゴ式の結婚をして、子供たちが生まれたのです。「これがワシの子じゃ」と会社に自慢に来た父親もあったといいます。
日本鉱業はこの事実を認めません。2007年、外務省からの問い合わせに対して「従業員とコンゴ女性の間に子はいない」としました。元従業員にも緘口令をしいたもようです。
1983年の鉱山閉鎖まで、帰国した日本人と現地妻との間の通信の仲介を日鉱がしていたことが分かっています。便宜を与えていたのですね。子どもたちのことを思いやった父親たちは手紙や現金、衣服、おもちゃ等を日本から送っていました。
le lundi 30 mars 2020
6時、朝霞、24℃、70%。
ルブンバシは通常だった。
le mardi 31 mars 2020
5時、朝霞、24℃、70%。
間違えて5時に起きちゃった。
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