le 5 avril 2010, lundi
明日午後、今家を借りている教会の責任者Gaston司教とアポイントをとった。手紙も用意した。この家のごたごた、菜園はジャック神父が管理するとか、使用人小屋は出て行かないとか、通用門を新たにあけるとか、契約を交わしたムラプ神父は本来この土地の管理責任がないとか、種々の問題を解決したい。
水がやっと夕方ちょろちょろと出始めた。僕のところだけが断水だったわけではないようだ。14時、アンドレさんに外に水を採りに行こうと云ったとき、彼はこの町で水の出るところを探しに先行して出て行ったがどこにも水がなかった。それじゃ、待つよりしようがない。
Word2003を使って僕は文章をかいているのだが、これが今朝から調子が悪い。ネットで原因を調べても分からない。ワードパッドなら書ける。MS wordをワードパッドで開くことができたので、今、パッドの方で書いている。それをsaveするとき、word2003でsaveしたファイルに上書きすると、wordとしてsaveされる。なるほどね、しかし、訳がわからない。Wordとワードパッドは同じ穴のムジナか。
Le 6 avril 2010, mardi
Gaston司教に会うためにKafuvuに向かった。ルブンバシの南15km。ルブンバシの郊外は都市が肥大していく中で整備がされていないごみごみした地区になっている。市は区画整理をしたいらしが金がない。郊外を過ぎるととたんに道がよくなってKafuvuまで続いている。15時の約束の前にカテドラルのあるKafuvuに到着した。司教の館で面談した。Gaston司教には1月中旬家の契約時にほんの数分挨拶をしただけだったので顔を覚えていない。私服であらわれた司教は40代後半のはずだが若い。用意した説明書を渡し、賃貸の事情を話した。教会としては家とガレージ敷地を貸したが庭は予定外だという。それでも僕が庭師をいれて整備していることは認識、将来隣の敷地から教会施設を延長するまでは庭を使わせてもらえそうである。また使用人小屋からの出入りには、隣接する教会敷地へ直接アクセスを設ける予定だという。ま、釈然としないが、この家にとどまってもいいかな、引っ越すのも面倒だ。
市役所に日本の市との姉妹都市関係を考えてみようという提案の手紙を出した。「日本カタンが協会」が考える候補地に秋波を送ってはどうかということだ。宇都宮市と仙台市。日本にミッションを送れたらいいのだが、そんな金はルブンバシ市にも僕の協会にもない。どう進めていったらいいのか当惑する。それでも、国の外交では得られない「草の根」の外交が都市間ではできる。しかし、アフリカの、しかもコンゴ民主共和国に対する偏見が日本にはあるだろうから、たとえルブンバシ市から正式文書がでても、日本側が真面目に検討してくれるか全く不明である。
台所にネズミが出た。小さな可愛いネズミだ。とはいえ放ってはおけない。毒はつかえない。マドンナが食べてしまうかもしれないからだ。ネズミ捕りを設けるか。先ずは逃げるのに使った流し台の下の穴を塞ぐことにしよう。
一昨日お会いしたKさんのNGO事務所を訪ねた。大統領官邸の横。広い敷地に2階建ての事務所兼宿舎。雇い人も多く経費が相当かさむと思われる。やはり大きなNGOの財力は違う。僕の協会は手弁当。とても事務所など借りられない。
水は出るには出たがちょろちょろだ。
Le 7 avril 2010, mercredi
塀の修理。レンガを積んでセメントでくっつけるだけ。これで隣から背伸びでもしなければ覗かれない。
ワッフルを作ってみる。卵を泡立てて、そこに小麦粉と砂糖、ベーキング・パウダ、バニラのエッセンス、ミルクをいれて生地をつくる。勘で硬さを調節したが果たして?ワッフル・メーカーから水蒸気が立つ。この蒸気が出なくなったら出来上がりのようだ。自動的に電気が切れてくれるのかどうかわからない。
一応それらしきものが出来た。15個作った。最後の方になると慣れて、プレートに流す生地の量も焼き加減もわかるようになった。うむ、僕も鯛焼き屋ができる。これで朝のコーヒーのときの菓子ができたということだ。フレーバーを変えたり、卵の数を増やしたり工夫ができそうだ。
蟻がいる。どうも彼らが僕を夜中に噛んでいるらしい。ところどころ皮膚の柔らかいところを狙われている。蚊にも時々刺されているが、蚊に刺された痕は明確。ダニなんかにやられるのは嫌だなぁ。Dar es Salaamの虫はダニに違いなかった。
ネズミを一匹抹殺した。子ネズミだ。
水は17時ころに出始めたが勢いがない。しかし昨日よりは圧力がある。22時ごろには相当の水量になった。バスに入れるかもしれない。
夜半になって、凄い勢いで水が出るようになった。湯沸かし器のお湯の温度が上がるのを待って23時半に入浴。久しぶりで快適。
これからの「日本カタンが協会」の作戦をねらなければならない。大学と市役所は様子をみる。スポーツ交流もしなければ。
Le 8 avril 2010, jeudi
また知人が一人亡くなった。日本に帰任したS氏からのメイルで知った。ショックだなぁ。Tさん! 胃癌のためアルジェリアで倒れて、日本で手術、転移もなく癌は克服したらしい。ところが3月末に肺水腫で永眠。あっけなく他界。いかにも土建屋さんの親分という剛毅な雰囲気だけれど、気配りができる暖かい人だった。キャンプをSさんと作っていたときに、Sさんに向かってあることで「それは出来ません」とはっきり断ったのを覚えている。「へいへい、やらせていただきます」と云うかと思いきや、すっぱり断った。いい加減なことを云わない。だからSさんも彼に一目おいていたのだ。
彼の仲間と一緒にアンナバの海に泳ぎにいったなぁ。ウニの上を歩いて棘にさされた部下の足から一生懸命棘を抜いてあげていた。
チュニジアにも、ローマにも行きました。スキクダのジャンヌ・ダルク海岸のレストランも行きましたね。アルジェリア国鉄のランタンを骨董屋で見つけたのは僕です。あれを直して使ってくれたでしょうか。
知人と書いたけど知人以上だった。彼を想って、ワインをあけた。コンゴに来て初めてのことである。
先日はYSさんが逝った。占領史研究家。とくに米軍占領下での日本側の原爆調査について執拗に時間をかけて調べていた。ああいう執念が僕にはない。執念とは持続する力のことだ。『米軍占領下の原爆調査 原爆加害国になった日本』は読ませてもらった。
彼のアパートによく自転車でいって一緒に部屋で飲んだ。2007年4月、僕がアルジェリアに渡ってからは没交渉だった。
人の運命はわからない。
Le 9 avril 2010, vendredi
ついてない日だ。朝40枚の書類(ルブンバシ市5ヵ年計画)をスキャンしていて20枚目にPCがダウン。スキャンした画像が消えた。夜、帰宅すると台所が水浸し。水道の蛇口を開けっ放していたからではない。フィルタ浄水器の蛇口が壊れて水漏れしていたのだ。修理が難しそう。さらにネズミ捕りの設置の際に過って手の甲に怪我をした。
Umoja。既報のペットボトルのリサイクルをするNGO。Julienさん。EUから派遣のヨーロッパ人。キンシャサではJICAと共同作魚をしたらしい。ルブンバシでもできないものだろうか。
ACIDHのEmmamuel会長。具体案をまとめて再度コンタクトしてくれることになった。
柔道事情。4月9日14時半、Franklinさんとルブンバシ大学医学部付属病院の内庭で会った。彼はUNILUの医学部眼科のインターン。柔道初段。木陰に椅子を持ってきてくれた。フランクランさんの他に数人が集まった。彼らいわく、3年前に初めてカタンガ柔道大会を開催した。そのときにカタンガ州の柔道クラブ(ルブンバシに6、Kolwezi、Likashiに各1クラブづつあり)を纏めて柔道組合(entente)を組織した。大学のクラブが25名。カタンガ州全体で125名ほどの柔道家がいる。大会のスポンサーを募ったが、ビール会社Brasimbaだけが手を上げてくれた。柔道は残念ながらまだカタンガではポピュラーなスポーツではない。大会会場を借りるお金がないので、街中の空き地を利用した。普段の練習は大学内の柔道場、といっても柔道だけにつかわれるのではなく、体育館の一角を利用しているという。毎週火曜木曜が練習日。タタミ(マット)もフランクランさんが個人負担。段はキンシャサのRDC柔道協会が認定してくれる。柔道にたいする情熱だけが資産。来週13日火曜日に見学することになった。僕は2006年に柔道場らしきところを見学しているが、そこが閉鎖されていたことは既に書いた。キンシャサには日本から柔道の先生が来ているという。なんとかルブンバシにもいらっしていただきたいものである。
午後15時半、シスター・アスンタとルブンバシのゴルフ地区に土地だけを確保して建設ができないでいるフランシスコ会の無料診療所(産科)建設予定地を見学。大使館のK氏はすでにご訪問済。ゴルフ地区といっても途中から悪路だ。かなり高級住宅街からは離れていた。しかし広い。13 000M2以上ある。
信者から10年以上前に土地を寄付されたが、建設できないでいたため、土地を国に接収されそうになった。そこでなんとか土地を塀で囲った。敷地を確定したおかげで接収は免れたが、建設の目処がたたない。資金不足である。先ず産科の診療所をたて、それから徐々に手術施設、病棟、事務所兼宿舎等を建てる計画。産科診療所だけで65万ドルの見積もり。フランシスコ会も自主経営である。本部(フランス)やヴァチカンからお金がでるわけではない。日本財団に申請したが色よい返事をもらっていないという。
見積もりが高い気がする。異なった業者ないしエンジニアに必要材料を見積もらせ、自分で現場監督を雇って施工する方法もある。「日本カタンガ協会」として協力したい。僕が現場に通ってもいいと思うが、それにしてもスポンサーが要る。これから探さなければならない。
出生率が高く、同時に乳幼児や母親の出産時の死亡率が高いこの国では産科の必要性は極めて大きい。ルブンバシ市の資料によれば、乳幼児死亡率は127‰に達する。ちなみに日本のそれは4‰。
Le 10 avril 2010, samedi
昨夜置いた3つのネズミ捕りの内の一つが機能した。小さなネズミが一匹朝死んでいた。他の2台のうち1台は餌においたチーズが手付かずのままだった。残りの1台は餌だけが食べられていた。
前歯が一本折れた。抜けたのか折れたのか。下の左の方。この歯の後ろに(横ではなく後ろに)別の歯があって、これは乳歯から生え変わるときに出てきた乱杭歯。ワッフルを食べているときにぐらっときた。出血はなし。でもこの前歯は乳歯だったのだろうか。いい年をして。いや永久歯なら、これからどんどん歳を経つつ抜けていくのか。嫌だね。
ルブンバシ市の『5ヵ年計画』(2008年10月30日~2012年)をスキャンしていたらまたPCが落ちた。今度はたった5枚スキャンを終わったところで起きた。しかたないから一枚一枚スキャンするごとにテータをsave。数時間後やっと全40ページをスキャンし終わった。ただスキャンするだけでも面倒なのに、連続スキャンができないと時間ばかりがかかる。
名刺印刷をしていたらインクがなくなった。
ガストン司教から電話で、木曜日に行けずごめん、今日午後15時はというから承諾。16時になってあらわれた。私服。よもやま話のついでに、Leonardo Boffの開放の神学についてきいてみた。フランシスコ会のBoffについては知っていた。否定的意見はでなかったが、共鳴もしていないようだった。彼はサレジア会(ドン・ボスコ)だからかもしれないが、ずっと保守的のようだ。
Le 11 avril 2010, dimanche
井上ひさしが亡くなった。4月9日、肺癌。発表は今日。
生前憲法9条の平和精神を一歩進めて「無防備地域宣言」運動を展開していた。
根拠はジュネーヴ諸条約追加第一議定書第59条。
以下に議定書本文を載せるが、翻訳は次にある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%98%B2%E5%82%99%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%AE%A3%E8%A8%80
アイデアは面白いが、平和主義とこの条約に基づく無防備都市宣言は直接結びつかないように思う。日本特有のスイスやジュネーヴに対する、あるいはこの議定書の原案を書いた赤十字に対する憧れにも似た無知から来る誤解が原因と思われる。
(Protocole additionnel aux Conventions de Genève du 12 août 1949 relatif à la protection des victimes des conflits armés internationaux (Protocole I), 8 juin 1977.
CHAPITRE V - LOCALITES ET ZONES SOUS PROTECTION SPECIALEArticle 59 - Localités non défendues1. Il est interdit aux Parties au conflit d'attaquer, par quelque moyen que ce soit, des localités non défendues.2. Les autorités compétentes d'une Partie au conflit pourront déclarer localité non défendue tout lieu habité se trouvant à proximité ou à l'intérieur d'une zone où les forces armées sont en contact et qui est ouvert à l'occupation par une Partie adverse. Une telle localité doit remplir les conditions suivantes :a) tous les combattants ainsi que les armes et le matériel militaire mobiles devront avoir été évacués ;b) il ne doit pas être fait un usage hostile des installations ou des établissements militaires fixes ;c) les autorités et la population ne commettront pas d'actes d'hostilité ;d) aucune activité à l'appui d'opérations militaires ne doit être entreprise.3. La présence, dans cette localité, de personnes spécialement protégées par les Conventions et le présent Protocole et de forces de police retenues à seule fin de maintenir l'ordre public n'est pas contraire aux conditions posées au paragraphe 2.4. La déclaration faite en vertu du paragraphe 2 doit être adressée à la Partie adverse et doit déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue. La Partie au conflit qui reçoit la déclaration doit en accuser réception et traiter la localité comme une localité non défendue à moins que les conditions posées au paragraphe 2 ne soient pas effectivement remplies, auquel cas elle doit en informer sans délai la Partie qui aura fait la déclaration. Même lorsque les conditions posées au paragraphe 2 ne sont pas remplies, la localité continuera de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés.5. Les Parties au conflit pourront se mettre d'accord sur la création des localités non défendues, même si ces localités ne remplissent pas les conditions posées au paragraphe 2. L'accord devrait déterminer et indiquer, de manière aussi précise que possible, les limites de la localité non défendue ; en cas de besoin, il peut fixer les modalités de contrôle.6. La Partie au pouvoir de laquelle se trouve une localité faisant l'objet d'un tel accord doit la marquer, dans la mesure du possible, par des signes, à convenir avec l'autre Partie, qui doivent être placés en des endroits où ils seront clairement visibles, en particulier au périmètre et aux limites de la localité et sur les routes principales.7. Une localité perd son statut de localité non défendue lorsqu'elle ne remplit plus les conditions posées au paragraphe 2 ou dans l'accord mentionné au paragraphe 5. Dans une telle éventualité, la localité continue de bénéficier de la protection prévue par les autres dispositions du présent Protocole et les autres règles du droit international applicable dans les conflits armés).
風呂あがりでビール。水圧は十分だったが、お湯の温度が上がるまで待てず、ぬるま湯だったが久しぶりでありがたかった。
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