Le lundi 31 janvier 2011
曇。7時、気温22℃、湿度70%。
八重のハイビスカスが咲いた。僕の好きなハイビスカスは深紅の一重だが、致し方ない。苗を買ったときにはわからなかった。蕾が6つ以上ある。まだ小さなハイビスカスだが、大きく育てよう。
南京豆とビスケットを買いにキプシ村に出た。街中の店で干したイモムシchenillesを見つけた。蛋白質が豊富だそうだが、ちょっと食べるには勇気がいる。スカラベ(カブトムシ)の幼虫ときいているが、そんなにいるものなのかな。カタンガ州では東のモエロ湖とタンガニーカ湖に挟まれた森の方が産地なのだそうだ。キプシで売っていたのはザンビアからの輸入と思われる。
南京豆は炒ってから皮をむいて、バターに絡ませてバタピ。
建具屋のセバスチャンが部屋のペンキ塗り替えの見積りをもってきた。僕の部屋の隣室、元チーコの部屋が75ドル。16M2、天井の高さ3M。そんなものかな。調査してみよう。この部屋のペンキをぬりかえれば、お客さんを泊められる。
家の外壁を塗り替えると230ドルだという。
ブログを今日まで更新。
チュニジアの民主化を「ジャスミン革命」と呼んでいる。しかし、まだ民主化を達成したわけではない。エジプトに民主化の要求が飛び火した。コート・ジボワールはまだ二人大統領のままだ。しかし、今年はポジティヴな方向で大きな変化がアフリカ大陸でありそうだ
このブログには、ありとあらゆるテーマが書かれている。特にタイトルにあるように、アフリカに関しては大概のことを話題にしている。検索機能がついているので、精々利用していただきたい。 tanabe.yoshiharu@ gmail.com アット・マークの後ろをつめてください(迷惑メイル対策のため空白が挿入されています)。
31 janvier 2011
1月30日 le dimanche 30 janvier 2011 マーゴちゃん petite Mago, déjà 3 semaines depuis
Le dimanche 30 janvier 2011
曇のち晴のち小雨。7時、気温22℃、湿度72,5%。
隣家の黒山羊が毎日侵入してきて庭の芝を食べている。あの黒山羊をこちらが育てているよなものだ。マドンナを放しても頼りにならない。
(画像は隣家の黒山羊なのだが判りにくいかもしれない)。
15時10分、停電。すわ、25日の再現かとひやりとしたが、15時35分回復。一安心。
18時45分。夕焼けがきれいだ。今日は星空がダイナミックかもしれない。ところが、夜は小雨がぱらついた。移ろいやすいは、男心と雨季の空ということか。
曇のち晴のち小雨。7時、気温22℃、湿度72,5%。
隣家の黒山羊が毎日侵入してきて庭の芝を食べている。あの黒山羊をこちらが育てているよなものだ。マドンナを放しても頼りにならない。
(画像は隣家の黒山羊なのだが判りにくいかもしれない)。
チーコちゃんとマーゴちゃん、すでに3週間の付き合いである。チーコが母親代わりのようだ。姉妹ではない。まるでレスリングのようにじゃれあう。爪をたてて、目を汚したらと心配するのは僕だけで、彼女たちはそれなりに手加減をしているようなのだ。マーゴの積極果敢さには驚き入る。(画像はチーカの顔に飛びついたマーゴ)。
15時10分、停電。すわ、25日の再現かとひやりとしたが、15時35分回復。一安心。
18時45分。夕焼けがきれいだ。今日は星空がダイナミックかもしれない。ところが、夜は小雨がぱらついた。移ろいやすいは、男心と雨季の空ということか。
1月29日 le samedi 29 janvier 2011 建具屋 menuisier
Le samedi 29 janvier 2011
曇のち晴。7時、気温22℃、湿度70%。
建具屋Sébastienから13時に家具を取りに来て欲しいと電話があった。ベッドの敷板sommierと食卓である。敷板は前回より厚めの機を使っている。それでも、折れそうな気がするが、また折ったら数週間待たされるだろうから、一応使ってみることにした。板を渡して、シングルのマットレスを載せた。バリッといくかと思ったがなんとか持ちこたえている。夜は久しぶりにベッドでねることができた。セミダブルのマットレスを買うことにしよう。
曇のち晴。7時、気温22℃、湿度70%。
建具屋Sébastienから13時に家具を取りに来て欲しいと電話があった。ベッドの敷板sommierと食卓である。敷板は前回より厚めの機を使っている。それでも、折れそうな気がするが、また折ったら数週間待たされるだろうから、一応使ってみることにした。板を渡して、シングルのマットレスを載せた。バリッといくかと思ったがなんとか持ちこたえている。夜は久しぶりにベッドでねることができた。セミダブルのマットレスを買うことにしよう。
(画像はベッドにとりつけた横木(「すのこ」と日本語ではいうようだ)、この上にマットレスを置く)。
食卓の出来は、まぁまぁ。僕の技術では作れそうにないテーブルだからいいだろう。仕上げのニスもみっともないけれども、丈夫そうではある。テーブルにクロスをかければ、食卓としてまともに使えそうだ。フランスの三ッ星レストランに行くと、立派なテープルクロスで食事ができるけれども、そのクロスの下は意外と安物の木のテーブルであることが多い。あまり、クロスを上げてその下のテーブルを見る僕のような人はいないからそれでいいのだろう。
1月28日 le vendredi 28 janvier 2011 ケン・ブグル『狂気と死』 «La Folie et la Mort» de Ken Bugul
Le vendredi 28 janvier 2011
曇。7時、気温22℃、湿度72,5%。11時から15時まで快晴。
昨日CCFでセネガルの女性作家ケン・ブグルKen Bugul『La Folie et la Mort 狂気と死』を借りた。『Riwan』の翌年、2000年の刊行。ケン・ブグルの作品2作目である。
『ラワン』と違って、かなり政治哲学的な作品のようだ。文庫本ではないのに、文字が細かくて目が疲れる。セネガルというよりも、アフリカ大陸の国々を抽象化した理念型国家をモデルとして、アフリカの病を痛烈に批判していく。勿論まだ読み始めたばかりだが、まるでRDCコンゴを批判しているのかと思うほど想像上のモデル国家との共通点がある、その方法は、コンゴの破天荒な作家ソニ・タブ・タンシのように狂った独裁者を登場させるのではなく、市井の若い女性を主人公として、内面的な抵抗を描くようである。
曇。7時、気温22℃、湿度72,5%。11時から15時まで快晴。
昨日CCFでセネガルの女性作家ケン・ブグルKen Bugul『La Folie et la Mort 狂気と死』を借りた。『Riwan』の翌年、2000年の刊行。ケン・ブグルの作品2作目である。
『ラワン』と違って、かなり政治哲学的な作品のようだ。文庫本ではないのに、文字が細かくて目が疲れる。セネガルというよりも、アフリカ大陸の国々を抽象化した理念型国家をモデルとして、アフリカの病を痛烈に批判していく。勿論まだ読み始めたばかりだが、まるでRDCコンゴを批判しているのかと思うほど想像上のモデル国家との共通点がある、その方法は、コンゴの破天荒な作家ソニ・タブ・タンシのように狂った独裁者を登場させるのではなく、市井の若い女性を主人公として、内面的な抵抗を描くようである。
1月27日 le jeudi 27 janvier 2011 ケン・ブグル『リワン』 «Riwan» de Ken Bugul
Le jeudi 27 janvier 2011
曇時々雨。7時、気温22℃、湿度75%。
灯油を3L購入。去年石油コンロを買ったときに1.5L買っている。これが6ヶ月以上もった。一昨日の停電が長かったので、万一に備えて3Lにした。またこんな長い停電はないかもしれないけれども。
洗った車は、見事に汚れた。キプシ街道の悪路、水溜りの所為だ。
15時、左後輪がパンクしているのを発見。Ivon君のオープン・ガレージまで持ちそうもない。ルブンバシの街中のガレージで修理した。4000フラン(310円)。久しぶりのパンクだった。原因は2cmの釘。
ケン・ブグルKen Bugul『リワンRiwan』を読み終えた。文庫本で223ページ。面白かった。ストーリーはセリーニュの奥方たちのそれぞれの生き様である。セリーニュSerigneはアラブでいうシェイク。セネガルの伝統的地方名士、土着宗教の象徴的存在でもある。テーマはポリガミー(一夫多妻制)。小説のナレータ自身、セリーニュの28番目の妻になる。現代小説でありながら、描かれる世界はまるで中世。読みながら時折時代を錯覚する。この歴史
灯油を3L購入。去年石油コンロを買ったときに1.5L買っている。これが6ヶ月以上もった。一昨日の停電が長かったので、万一に備えて3Lにした。またこんな長い停電はないかもしれないけれども。
洗った車は、見事に汚れた。キプシ街道の悪路、水溜りの所為だ。
15時、左後輪がパンクしているのを発見。Ivon君のオープン・ガレージまで持ちそうもない。ルブンバシの街中のガレージで修理した。4000フラン(310円)。久しぶりのパンクだった。原因は2cmの釘。
ケン・ブグルKen Bugul『リワンRiwan』を読み終えた。文庫本で223ページ。面白かった。ストーリーはセリーニュの奥方たちのそれぞれの生き様である。セリーニュSerigneはアラブでいうシェイク。セネガルの伝統的地方名士、土着宗教の象徴的存在でもある。テーマはポリガミー(一夫多妻制)。小説のナレータ自身、セリーニュの28番目の妻になる。現代小説でありながら、描かれる世界はまるで中世。読みながら時折時代を錯覚する。この歴史
的時間のギャップが興味深い。女権運動の闘士が語るポリガミーではなく、ケン・ブグルは現実のポリガミーがどう機能しているのかを淡々と語る。女性でなければ分からない世界(男子禁制の世界)をも教えてくれる。結婚の意味、初夜における処女性の重視等々アラブ世界ないしはイスラム政界と共通項も多いが。特殊アフリカ文化を開示していく。
「結婚とは人生の選択であり、相手の男を選ぶことや環境や地位を選ぶことではない。人生のある選択」。と結論付けている。これは現代の西欧的価値観からすれば、選択ではなく「運命の受容・甘受」に過ぎないのではないか。結婚とは契約であると僕は思うのだが、契約と選択との関係を作者に明らかにして欲しかった。彼女への提言である。
ケン・ブグルの文章は、リズム感がある。短く、単語の繰り返し、体言止めなどを駆使して無駄がない。全体の構成も上手い。彼女はこの作品で1999年の「ブラック・アフリカ大賞Grand Prix de l’Afrique noire」を受けている。
29人目の妻を迎えてから、この小説『リワン』のセリーニュは他界するが、どうも妻たちは新しいセリーニュ、亡くなったセリーニュの息子が相続するらしい。若いセリーニュも既に結婚して数人以上の妻がいるだろう。加えて30人近い妻を相続するのは容易ではなさそうだ。悲劇的結末を読みながら、ふとそんなことを想像した。この作品の続きを書いたら面白いだろう。
なお、題名のリワンRiwanとは、セリーニュに仕えるがセリーニュの命令なく奥(セリーニュの妻たちの住む区域)を自由に行き来でき、妻たちが外出できないので代わりに外での用事をこなす役割を担う男子の雇い人である。宦官ではなく、不通の男である。セリーニュとの信頼関係の上に成り立つ特殊な立場といえよう。この小説の中では、リワンとセリーニュの妻たちとの不倫関係などは出てこない。
(画像は今日のケン・ブグル。1月20日のブログの画像は若いときの彼女だった)。
「結婚とは人生の選択であり、相手の男を選ぶことや環境や地位を選ぶことではない。人生のある選択」。と結論付けている。これは現代の西欧的価値観からすれば、選択ではなく「運命の受容・甘受」に過ぎないのではないか。結婚とは契約であると僕は思うのだが、契約と選択との関係を作者に明らかにして欲しかった。彼女への提言である。
ケン・ブグルの文章は、リズム感がある。短く、単語の繰り返し、体言止めなどを駆使して無駄がない。全体の構成も上手い。彼女はこの作品で1999年の「ブラック・アフリカ大賞Grand Prix de l’Afrique noire」を受けている。
29人目の妻を迎えてから、この小説『リワン』のセリーニュは他界するが、どうも妻たちは新しいセリーニュ、亡くなったセリーニュの息子が相続するらしい。若いセリーニュも既に結婚して数人以上の妻がいるだろう。加えて30人近い妻を相続するのは容易ではなさそうだ。悲劇的結末を読みながら、ふとそんなことを想像した。この作品の続きを書いたら面白いだろう。
なお、題名のリワンRiwanとは、セリーニュに仕えるがセリーニュの命令なく奥(セリーニュの妻たちの住む区域)を自由に行き来でき、妻たちが外出できないので代わりに外での用事をこなす役割を担う男子の雇い人である。宦官ではなく、不通の男である。セリーニュとの信頼関係の上に成り立つ特殊な立場といえよう。この小説の中では、リワンとセリーニュの妻たちとの不倫関係などは出てこない。
(画像は今日のケン・ブグル。1月20日のブログの画像は若いときの彼女だった)。
1月25、26日 les 25 et 26 janvier 2011 停電 coupure de courant
Le mardi 25 janvier 2011
晴、8時、気温22℃、湿度70%。湿度が多少下がったのは夜中に雨が降らなかった所為か。
夜明け前4時に停電。断水も。断水は何時始まったのか分からない。昨日の断水は昼ごろから夜21時までだった。
しかも、かてて加えてネット不通。
携帯電話も不通、勿論SMSも使えない!
水は9時に出始めたが、茶色い。昼、携帯電話回復。ネットも接続可。しかし停電が続く。
サンダルの鼻緒が切れた。履きつぶすことができたサンダルだが、ついていない日、今日になって切れた。
Le mercredi 26 janvier 2011
曇。7時、気温22℃、湿度75%。
停電はついに24時間を越えた。キプシに来てから初めてのことである。石油コンロの灯油が残り僅かになってきた。冷蔵庫の食品が困るなぁ。
23時半になってやっと回復。実に43時間半ぶり。
晴、8時、気温22℃、湿度70%。湿度が多少下がったのは夜中に雨が降らなかった所為か。
夜明け前4時に停電。断水も。断水は何時始まったのか分からない。昨日の断水は昼ごろから夜21時までだった。
しかも、かてて加えてネット不通。
携帯電話も不通、勿論SMSも使えない!
水は9時に出始めたが、茶色い。昼、携帯電話回復。ネットも接続可。しかし停電が続く。
サンダルの鼻緒が切れた。履きつぶすことができたサンダルだが、ついていない日、今日になって切れた。
Le mercredi 26 janvier 2011
曇。7時、気温22℃、湿度75%。
停電はついに24時間を越えた。キプシに来てから初めてのことである。石油コンロの灯油が残り僅かになってきた。冷蔵庫の食品が困るなぁ。
23時半になってやっと回復。実に43時間半ぶり。
1月24日le lundi 24 janvier 2011 ヴィルンガ国立公園石油開発 exploitation pétrolière dans le Parc National de Virunga
Le lundi 24 janvier 2011
曇。7時、気温23℃、湿度72,5%。
Virunga国立公園をご存知だろうか。ヴィルンガ国立公園は、コンゴはもとよりアフリカでもっとも古い歴史ある国立公園である。1925年の創設。RDCコンゴの北キヴ州に位置する。高地ゴリラで有名である。ユネスコの世界遺産にも早くから指定されている。その国立公園内で原油発見された。世界が注目する中で、先ずは英国の石油開発会社の説明
Virunga国立公園をご存知だろうか。ヴィルンガ国立公園は、コンゴはもとよりアフリカでもっとも古い歴史ある国立公園である。1925年の創設。RDCコンゴの北キヴ州に位置する。高地ゴリラで有名である。ユネスコの世界遺産にも早くから指定されている。その国立公園内で原油発見された。世界が注目する中で、先ずは英国の石油開発会社の説明
会から始まった。
自然保護、野生動物保護、環境問題と開発、いつも微妙な問題である。
Le pétrole du parc national des Virunga au centre d’une polémique
Soco international, une société britannique veut exploiter le pétrole dans le bloc 5 du rift albertin Est, dans le parc national des Virunga, au Nord-Kivu. Une délégation de cette société séjourne cette semaine à Goma pour vulgariser le projet. Mais ce dernier rencontre des résistances, notamment de la part de l’Institut congolais pour la conservation de la nature (ICCN) et des ONG locales.
自然保護、野生動物保護、環境問題と開発、いつも微妙な問題である。
Le pétrole du parc national des Virunga au centre d’une polémique
Soco international, une société britannique veut exploiter le pétrole dans le bloc 5 du rift albertin Est, dans le parc national des Virunga, au Nord-Kivu. Une délégation de cette société séjourne cette semaine à Goma pour vulgariser le projet. Mais ce dernier rencontre des résistances, notamment de la part de l’Institut congolais pour la conservation de la nature (ICCN) et des ONG locales.
Une étude de l’impact environnemental de ce projet sur l’écosystème du parc des Virunga a été menée au mois d’août 2010 par un comité institué par Soco international et le ministère des Hydrocarbures.
Le directeur général Afrique de Soco international, Serge Lescaut a déclaré que son entreprise attend que le gouvernement congolais valide les résultats de cette étude pour lancer l’exploitation pétrolière. Les résultats de cette étude n’ont pas encore été rendus publics, selon des sources concordantes.
« Pour l’heure, Soco international n’a pas accès au parc des Virunga, » a affirmé Serge Lescaut à l’issue d’une séance de vulgarisation du projet auprès des ONG environnementales de Goma. Mais il s’est dit optimiste puisque l’entreprise dispose d’un contrat d’exploitation acquis sur ordonnance présidentielle.
Expertise
L’ICCN estime que le bureau qui a mené l’étude d’impact environnemental n’a aucune expertise. L’administrateur délégué général adjoint de l’ICCN, India Omari est plutôt favorable à la mise sur pied d’un bureau d’études indépendant pour « ne pas sacrifier les trois quarts du parc menacés par le projet. »
« Les études menées par ce bureau n’étaient pas allées en profondeur pour déterminer les conséquences à court et à long terme de cette exploitation, » ont indiqué des responsables de l’ICCN. « Personne ne sait comment ils ont procédé ni quelles ont été les conclusions de cette étude,» ont affirmé les mêmes sources.
Certaines ONG locales affichent aussi leur opposition à ce projet. Le gouverneur du Nord-Kivu Julien Paluku suggère qu’il soit organisé à Goma, dans les prochains jours, un forum qui pourra réunir Soco, l’ICCN et les ONG de conservation de la nature.
Solution alternative?
Au cours d’une réunion entre l’Unesco et le gouvernement congolais, la représentante spéciale adjointe du secrétaire général de l’Onu en RDC, Mme Leila Zerrougui avait aussi exprimé son inquiétude sur ce projet qui concerne 60 % de la superficie de cette aire protégée. Elle a invité le gouvernement à explorer les solutions alternatives, estimant que la mise en œuvre de ce projet affecterait grandement la biomasse du parc.
Le site d’exploitation pétrolière querellé couvre une superficie de 7 mille km², allant de Rumangabo, en territoire de Rutshuru jusqu’à Kasindi port au Nord en territoire de Beni, en longeant le lac Edouard au cœur du Parc national des Virunga.
« Les études menées par ce bureau n’étaient pas allées en profondeur pour déterminer les conséquences à court et à long terme de cette exploitation, » ont indiqué des responsables de l’ICCN. « Personne ne sait comment ils ont procédé ni quelles ont été les conclusions de cette étude,» ont affirmé les mêmes sources.
Certaines ONG locales affichent aussi leur opposition à ce projet. Le gouverneur du Nord-Kivu Julien Paluku suggère qu’il soit organisé à Goma, dans les prochains jours, un forum qui pourra réunir Soco, l’ICCN et les ONG de conservation de la nature.
Solution alternative?
Au cours d’une réunion entre l’Unesco et le gouvernement congolais, la représentante spéciale adjointe du secrétaire général de l’Onu en RDC, Mme Leila Zerrougui avait aussi exprimé son inquiétude sur ce projet qui concerne 60 % de la superficie de cette aire protégée. Elle a invité le gouvernement à explorer les solutions alternatives, estimant que la mise en œuvre de ce projet affecterait grandement la biomasse du parc.
Le site d’exploitation pétrolière querellé couvre une superficie de 7 mille km², allant de Rumangabo, en territoire de Rutshuru jusqu’à Kasindi port au Nord en territoire de Beni, en longeant le lac Edouard au cœur du Parc national des Virunga.
1月23日 le dimanche 23 janvier 2011 コルウェジ大学 UNIKOL
Le dimanche 23 janvier 2011
晴。7時、気温22℃、湿度75%。
久しぶりの晴である。
16時、気温25度、湿度60%。快適。
チーコちゃんが、蛾を捕まえて食べてしまった。猫族は狩猟族なのか。しかし、蛾なんか食べてお腹をこわさないのかなぁ。
10時半、停電。15後回復。
昼間、水着を着て車を洗った。ついでに本人石鹸をつけてホースの水でシャワーをしてしまった。天気さえよければ、水は気持ちがいい。
コルウェジKolwezi市に大学ができた。コルウェジはカタンガ州第二の都会である。人口も100万人と越していると思われる。大学はルブンバシ大学の支部を独立させたものである。総合大学で法学部、経済学部、文学部、理学部、医学部等々2400名の学生をかかえる。
晴。7時、気温22℃、湿度75%。
久しぶりの晴である。
16時、気温25度、湿度60%。快適。
チーコちゃんが、蛾を捕まえて食べてしまった。猫族は狩猟族なのか。しかし、蛾なんか食べてお腹をこわさないのかなぁ。
10時半、停電。15後回復。
昼間、水着を着て車を洗った。ついでに本人石鹸をつけてホースの水でシャワーをしてしまった。天気さえよければ、水は気持ちがいい。
コルウェジKolwezi市に大学ができた。コルウェジはカタンガ州第二の都会である。人口も100万人と越していると思われる。大学はルブンバシ大学の支部を独立させたものである。総合大学で法学部、経済学部、文学部、理学部、医学部等々2400名の学生をかかえる。
コルウェジもルブンバシ同様、鉱山の都市で、銅、コバルト、ウラニウムを産する。1978年、4000人の欧米人を人質としたカタンガ反乱軍とフランス外人部隊や欧米の軍との「コルウェジの戦い」も有名である。
RDC - L’Université de Kolwezi est née
Kinshasa le 19 Janvier 2011 – (D.I.A.) – La ville de Kolwezi située au Sud-Est de la République Démocratique du Congo est désormais dotée d’une Université. La cérémonie de la remise officielle de l’autonomie de l’Université de Kolwezi « UNIKOL » et l’investiture de son recteur s’est effectuée le 13 Janvier 2011 dans la grande salle du Collège Bienheureux Jean XXIII.
Pour annoncer, la naissance de cette université nouvellement détachée de l’Université de Lubumbashi, le Professeur Ipanga Tshibwila, recteur de cette nouvelle institution universitaire a rappelé qu’il n’y a pas de grande ville sans Université. Avec un effectif de 2.400 étudiants, l’UNIKOL organise plusieurs filières d’études. Il s’agit notamment des Facultés de Droit ; des Sciences Economiques et de Gestion ; de Médecine ; de Géologie ; d’Agronomie ; des Lettres (Sciences de l’Information et de la Communication) ; de la Psychologie et Sciences de l’Education ; des Sciences Sociales, Politiques et Administratives ; de Polytechnique et de l’Ecole de Santé Publique. Il est à noter que la faculté de Médecine a été fermée par le Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire depuis l’année 2009 pour manque de Laboratoires.
L’histoire de l’Université de Kolwezi remonte à 1997, sur demande des notabilités et de la Société Civile de Kolwezi, d’ouvrir l’Extension de l’Université de Lubumbashi dans cette ville minière. Une demande qui se concrétise par l’Arrêté Ministériel du 27 septembre 2010 du Ministre de l’Enseignement Supérieur et Universitaire, Leonard MASHAKO MAMBA. A cette occasion, le Gouvernement Provincial du Katanga a octroyé à l’UNIKOL la somme de 750 000 dollars américains qui sera confiée à l’Entreprise minière locale «Kamoto Cooper Company» (KCC) pour entamer les travaux de construction de ses propres bâtiments. (De notre correspondant Alain Kalenda Ket Agence catholique D.I.A. www.dia-afrique.org
RDC - L’Université de Kolwezi est née
Kinshasa le 19 Janvier 2011 – (D.I.A.) – La ville de Kolwezi située au Sud-Est de la République Démocratique du Congo est désormais dotée d’une Université. La cérémonie de la remise officielle de l’autonomie de l’Université de Kolwezi « UNIKOL » et l’investiture de son recteur s’est effectuée le 13 Janvier 2011 dans la grande salle du Collège Bienheureux Jean XXIII.
Pour annoncer, la naissance de cette université nouvellement détachée de l’Université de Lubumbashi, le Professeur Ipanga Tshibwila, recteur de cette nouvelle institution universitaire a rappelé qu’il n’y a pas de grande ville sans Université. Avec un effectif de 2.400 étudiants, l’UNIKOL organise plusieurs filières d’études. Il s’agit notamment des Facultés de Droit ; des Sciences Economiques et de Gestion ; de Médecine ; de Géologie ; d’Agronomie ; des Lettres (Sciences de l’Information et de la Communication) ; de la Psychologie et Sciences de l’Education ; des Sciences Sociales, Politiques et Administratives ; de Polytechnique et de l’Ecole de Santé Publique. Il est à noter que la faculté de Médecine a été fermée par le Ministère de l’Enseignement Supérieur et Universitaire depuis l’année 2009 pour manque de Laboratoires.
L’histoire de l’Université de Kolwezi remonte à 1997, sur demande des notabilités et de la Société Civile de Kolwezi, d’ouvrir l’Extension de l’Université de Lubumbashi dans cette ville minière. Une demande qui se concrétise par l’Arrêté Ministériel du 27 septembre 2010 du Ministre de l’Enseignement Supérieur et Universitaire, Leonard MASHAKO MAMBA. A cette occasion, le Gouvernement Provincial du Katanga a octroyé à l’UNIKOL la somme de 750 000 dollars américains qui sera confiée à l’Entreprise minière locale «Kamoto Cooper Company» (KCC) pour entamer les travaux de construction de ses propres bâtiments. (De notre correspondant Alain Kalenda Ket Agence catholique D.I.A. www.dia-afrique.org
27 janvier 2011
1月22日 le samedi 22 janvier 2011 採取産業透明性イニシアティヴ EITI/ITIE
Le samedi 22 janvier 2011
曇時々雨。7時、22℃、湿度75%。
採取産業透明性イニシアティヴ(EITI:英、ITIE:仏)のフランス語圏部会がルブンバシで先週開かれていた。採取産業とは原油・天然ガス、鉱物資源の採掘産業である。この産業と資源国政府の資金の流れの透明性を図る枠組みがEITI/ITIEである。日本は米国、英国、フランス等とともに支援国になっている。候補国は27カ国。候補国とは2年以内にEITIのリクワイアメントをクリアして遵守国と認められる可能性のある国という意味である。RDCコンゴは候補国。アフリカで遵守国となっているのは、リベリアとガーナのみ。日本の外務省のサイトではガーナだけが遵守国となっていた。サイトが更新されていないだけの話だが、日本は支援国ではないのか。外務省の関心が低いのはどうしたことか。
詳しくはEITIのホームページを参照されたい。
Industries extractives : la Francophonie s’en tient aux principes et règles de l’ITIE
(Le Potentiel 22/01/2011)
C’est avec beaucoup d’intérêt que les participants au deuxième forum international de l’ITIE (Initiative sur la transparence des industries extractives) organisé, du 12 au 14 janvier 2011 à Lubumbashi, ont suivi le message de M. Abdou Diouf, secrétaire général de la Francophonie.
Outre la présence de M. Peter Eigen, président de l’ITIE Internationale, et autres personnalités tant du gouvernements central que provinciaux de la République démocratique du Congo, le deuxième forum international de l’ITIE a également connu la participation d’un délégué de la Francophonie représentant M. Abdou Diouf, secrétaire général de cette institution.
Le secrétaire général de la Francophonie a, dans son message, mis l’accent sur les principes de l’ITIE. Il s’agit de la crédibilité, assurée par différentes formes de certification des données communiquées par l’Etat et les producteurs. De la fiabilité, assurée par un administrateur indépendant, choisi pour sa réelle liberté d’action et de son professionnalisme mais aussi de l’exhaustivité dans l’identification des revenus.
L’ITIE, a-t-il poursuivi, ne prend pas position sur l’usage de revenus, les choix de différents acteurs : elle les rend simplement clairs et appréciables par tous. C’est pour ces raisons que la Francophonie s’est appropriée l’Initiative, explicitement mentionnée aux paragraphes 39 et 40 de la Déclaration du Sommet de Québec d’octobre 2008, en référence à la Déclaration de Saint-Boniface de 2006, qui stipule : « - § 23 : Nous (chefs d’État et de gouvernement des pays membres de la Francophonie) nous engageons à collaborer à la réalisation des initiatives prises notamment par les Nations unies pour surveiller et empêcher l’exploitation et le transfert international illégal de ressources naturelles, ainsi qu’à appuyer les mesures de contrôle volontaires, comme le processus de Kimberley et les principes directeurs pour les entreprises multinationales de l’Organisation de coopération et de développement économiques, et à encourager l’adoption volontaire des principes de responsabilité sociale des entreprises par ceux qui participent à l’exploitation des ressources naturelles; Incitons en outre à plus de responsabilité et de transparence ceux qui participent à l’importation ou à l’exportation de ressources naturelles provenant de zones de conflit. »
L’ITIE EST AINSI DEVENUE UN ELEMENT SIGNIFICATIF DE LA DEMARCHE
Francophonie en faveur de la prévention des crises, de la paix, de la démocratie et de l’état de droit. Car la transparence dans les ressources de l’Etat et des opérateurs économiques est un élément essentiel pour que les citoyens comprennent et contrôlent les choix faits par leurs gouvernements.
ENGAGEMENT
A l’issue des travaux, les participants ont pris l’engagement de faire respecter les principes, les critères et règles de l’ITIE; veiller à la déclaration régulière et crédible des flux financiers par l’ensemble des entreprises identifiées pour participer à l’Initiative ainsi que par l’ensemble des régies financières nationales et provinciales. De promouvoir la mise en place d’une structure ad hoc associant les autorités provinciales par l’installation des comités provinciaux ITIE.
D’encourager la formalisation de l’industrie minière par un encadrement approprié de l’exploitation artisanale dans toutes les provinces du pays. De tout mettre en œuvre afin d’accéder à la faveur des rapports 2009-2010 au statut de pays conforme à l’ITIE.
Comme souligné à la cérémonie de clôture des travaux, ce forum s’est réjoui des avancées enregistrées par le pays dans la mise en place du processus ITIE-RDC. Au nombre desquelles on peut retenir la vision partagée de l’ITIE, comme outil tendant à favoriser la transparence et la bonne gouvernance dans les ressources naturelles. Ajouter à cela la définition claire des paramètres, la large adhésion des entreprises du secteur extractif ainsi que leur détermination à déclarer régulièrement et exhaustivement les flux financiers, l’implication de la société civile dans l’accomplissement du processus ainsi que l’élaboration et la publication du premier rapport ITIE 2007.
Par Véron-Clément Kongo
曇時々雨。7時、22℃、湿度75%。
採取産業透明性イニシアティヴ(EITI:英、ITIE:仏)のフランス語圏部会がルブンバシで先週開かれていた。採取産業とは原油・天然ガス、鉱物資源の採掘産業である。この産業と資源国政府の資金の流れの透明性を図る枠組みがEITI/ITIEである。日本は米国、英国、フランス等とともに支援国になっている。候補国は27カ国。候補国とは2年以内にEITIのリクワイアメントをクリアして遵守国と認められる可能性のある国という意味である。RDCコンゴは候補国。アフリカで遵守国となっているのは、リベリアとガーナのみ。日本の外務省のサイトではガーナだけが遵守国となっていた。サイトが更新されていないだけの話だが、日本は支援国ではないのか。外務省の関心が低いのはどうしたことか。
詳しくはEITIのホームページを参照されたい。
ダイヤモンドのキンバリー・プロセス同様、密輸を含む不透明な取引についての国際的監視が日に日に有効になってくるということで、内戦問題を抱えているRDCコンゴとしては透明性を確保して国際信用を獲得して、遵守国とならなければならない。
Industries extractives : la Francophonie s’en tient aux principes et règles de l’ITIE
(Le Potentiel 22/01/2011)
C’est avec beaucoup d’intérêt que les participants au deuxième forum international de l’ITIE (Initiative sur la transparence des industries extractives) organisé, du 12 au 14 janvier 2011 à Lubumbashi, ont suivi le message de M. Abdou Diouf, secrétaire général de la Francophonie.
Outre la présence de M. Peter Eigen, président de l’ITIE Internationale, et autres personnalités tant du gouvernements central que provinciaux de la République démocratique du Congo, le deuxième forum international de l’ITIE a également connu la participation d’un délégué de la Francophonie représentant M. Abdou Diouf, secrétaire général de cette institution.
Le secrétaire général de la Francophonie a, dans son message, mis l’accent sur les principes de l’ITIE. Il s’agit de la crédibilité, assurée par différentes formes de certification des données communiquées par l’Etat et les producteurs. De la fiabilité, assurée par un administrateur indépendant, choisi pour sa réelle liberté d’action et de son professionnalisme mais aussi de l’exhaustivité dans l’identification des revenus.
L’ITIE, a-t-il poursuivi, ne prend pas position sur l’usage de revenus, les choix de différents acteurs : elle les rend simplement clairs et appréciables par tous. C’est pour ces raisons que la Francophonie s’est appropriée l’Initiative, explicitement mentionnée aux paragraphes 39 et 40 de la Déclaration du Sommet de Québec d’octobre 2008, en référence à la Déclaration de Saint-Boniface de 2006, qui stipule : « - § 23 : Nous (chefs d’État et de gouvernement des pays membres de la Francophonie) nous engageons à collaborer à la réalisation des initiatives prises notamment par les Nations unies pour surveiller et empêcher l’exploitation et le transfert international illégal de ressources naturelles, ainsi qu’à appuyer les mesures de contrôle volontaires, comme le processus de Kimberley et les principes directeurs pour les entreprises multinationales de l’Organisation de coopération et de développement économiques, et à encourager l’adoption volontaire des principes de responsabilité sociale des entreprises par ceux qui participent à l’exploitation des ressources naturelles; Incitons en outre à plus de responsabilité et de transparence ceux qui participent à l’importation ou à l’exportation de ressources naturelles provenant de zones de conflit. »
L’ITIE EST AINSI DEVENUE UN ELEMENT SIGNIFICATIF DE LA DEMARCHE
Francophonie en faveur de la prévention des crises, de la paix, de la démocratie et de l’état de droit. Car la transparence dans les ressources de l’Etat et des opérateurs économiques est un élément essentiel pour que les citoyens comprennent et contrôlent les choix faits par leurs gouvernements.
ENGAGEMENT
A l’issue des travaux, les participants ont pris l’engagement de faire respecter les principes, les critères et règles de l’ITIE; veiller à la déclaration régulière et crédible des flux financiers par l’ensemble des entreprises identifiées pour participer à l’Initiative ainsi que par l’ensemble des régies financières nationales et provinciales. De promouvoir la mise en place d’une structure ad hoc associant les autorités provinciales par l’installation des comités provinciaux ITIE.
D’encourager la formalisation de l’industrie minière par un encadrement approprié de l’exploitation artisanale dans toutes les provinces du pays. De tout mettre en œuvre afin d’accéder à la faveur des rapports 2009-2010 au statut de pays conforme à l’ITIE.
Comme souligné à la cérémonie de clôture des travaux, ce forum s’est réjoui des avancées enregistrées par le pays dans la mise en place du processus ITIE-RDC. Au nombre desquelles on peut retenir la vision partagée de l’ITIE, comme outil tendant à favoriser la transparence et la bonne gouvernance dans les ressources naturelles. Ajouter à cela la définition claire des paramètres, la large adhésion des entreprises du secteur extractif ainsi que leur détermination à déclarer régulièrement et exhaustivement les flux financiers, l’implication de la société civile dans l’accomplissement du processus ainsi que l’élaboration et la publication du premier rapport ITIE 2007.
Par Véron-Clément Kongo
1月21日 le vendredi 21 janvier 2011 銀行ラッシュ rue bancaire
e vendredi 21 janvier 2011
曇。7時、気温22℃、湿度75%。
ネット不通。9時に回復。
銀行ラッシュ。下記の記事はフランスのアフリカ関連雑誌で最も影響力が大きい『ジュンヌ・アフリク Jeune Afrique』誌ネット版からであるが、確かにRDCコンゴでは銀行の進出ラッシュである。ルブンバシでもATMがBIAC銀行だけでなく、RAWバンク、TMBでも使えるようになった。銀行付属のATMだけでなく、ホテル・カラヴィアやガソリン・スタンド(ラ・ボエム)、ショッピングセンタ(チョンベ・プラージュ)にも設置された。この一年で随分と便利になった。またエコ・バンクを初め外国銀行が支店を建設中である。ただ、HSBCやバークレイズがまだ来ていない。
曇。7時、気温22℃、湿度75%。
ネット不通。9時に回復。
銀行ラッシュ。下記の記事はフランスのアフリカ関連雑誌で最も影響力が大きい『ジュンヌ・アフリク Jeune Afrique』誌ネット版からであるが、確かにRDCコンゴでは銀行の進出ラッシュである。ルブンバシでもATMがBIAC銀行だけでなく、RAWバンク、TMBでも使えるようになった。銀行付属のATMだけでなく、ホテル・カラヴィアやガソリン・スタンド(ラ・ボエム)、ショッピングセンタ(チョンベ・プラージュ)にも設置された。この一年で随分と便利になった。またエコ・バンクを初め外国銀行が支店を建設中である。ただ、HSBCやバークレイズがまだ来ていない。
「日本カタンガ協会」の口座はBIACに開設した。アラン君はBICとRAWバンクが取引銀行である。
La ruée bancaire
21/01/2011 à 13h:17 Par Muriel Devey
Le pays recense 350 000 comptes, mais le potentiel est estimé à 13 millions de clients. De quoi attiser l’imagination commerciale des établissements de la place, de plus en plus nombreux, qui diversifient les produits et les services offerts à la clientèle.
En RDC, les banques poussent doucement, mais sûrement. Elles seront près de vingt-cinq à la fin de 2010 contre une douzaine seulement en 2002, année de l’adoption d’une nouvelle loi bancaire, et début de la restructuration et de la recomposition du paysage financier. La plupart des grands groupes bancaires panafricains, de Standard Bank à Ecobank en passant par Bank of Africa, s’y sont depuis installés, convaincus par le potentiel d’un pays qui compte quelque 65 millions d’habitants et d’importantes richesses minières. Cette inflation bancaire ainsi que la confiance retrouvée des Congolais dans leur système financier ont permis de porter le nombre de comptes de 30 000, il y a cinq ans, à 350 000 aujourd’hui. Le volume des dépôts a quant à lui grimpé de 835 millions de dollars en 2007 à 1 milliard de dollars en 2009 (environ 700 millions d’euros à l’époque).
Les nouveaux arrivants ont bousculé les habitudes, diversifiant les produits et les services offerts à la clientèle. L’allemand ProCredit Bank a ainsi ciblé les « petits », dont aucune banque ne voulait auparavant, en s’implantant dans les quartiers populaires de la capitale et en introduisant la monétique. Les autres ont suivi, et, aujourd’hui, les retraits de cash aux guichets automatiques sont entrés dans les mœurs, tandis que le paiement par carte bancaire est de plus en plus accepté par les commerces, les hôtels et les restaurants.
SÉDUIRE LES PME
Pour augmenter leurs parts de marché, les banques n’ont d’autres moyens que d’explorer le gisement de clients non encore bancarisés. Alors que le marché des salariés est déjà largement couvert, et celui des grands comptes aussi, cette nouvelle manne pourrait venir des acteurs de l’informel et surtout des petites et moyennes entreprises (PME). Traditionnellement peu enclines à entrer dans le système bancaire, certaines de ces PME disposent pourtant d’épargne, qu’elles « capitalisent sous forme de stocks ou investissent dans la construction », explique Louis-Odilon Alaguillaume, administrateur délégué de la Banque internationale de crédit (BIC), l’une des cinq premières banques du pays. Cette situation pourrait être bouleversée « si le gouvernement prenait des mesures pour obliger les PME à exécuter leurs transactions via les banques, ce qui permettrait à ces dernières d’augmenter leurs parts de marché et d’abaisser le taux du crédit, très élevé », remarque un banquier.
De leur côté, les banques devront faire un effort en matière de crédits. Si en 2009 le stock des crédits octroyés (504 millions de dollars) représentait la moitié de celui des avoirs, les prêts à l’économie restaient principalement des crédits documentaires, de caisse et commerciaux à court terme, avec des montants limités. Même si elles peuvent parfois se regrouper pour un crédit, les banques prêtent en général à peine l’équivalent de six mois de salaire pour les particuliers et de 15 000 à 50 000 dollars pour les commerçants ou les petits industriels, avec des délais de remboursement excédant rarement trente-six mois. Pas de quoi financer les investissements sur le long terme et, incidemment, le développement économique d’un pays.
Où trouver les ressources qui permettraient de satisfaire cette demande ? Les déposants semblent réticents à laisser leur épargne auprès du système financier pour des durées longues. Seules cinq banques proposent des comptes épargne, et les comptes courants représentaient toujours 82 % du total des comptes en 2009. Du coup, des montages sont étudiés par des bailleurs de fonds comme la Banque européenne d’investissement, l’Agence française de développement, l’Agence des États-Unis pour le développement international ou la Banque mondiale, qui envisagent d’accorder des lignes de crédit aux banques congolaises pour financer les PME. Avec, en accompagnement, une formation de ces dernières à la culture bancaire. L’implantation de banques d’investissement est également appelée de leurs vœux par de nombreux chefs d’entreprise.
COURSE À L’OUVERTURE D’AGENCES
Pour développer l’activité commerciale, les banques visent les petites villes de l’intérieur. Deux provinces, le Bandundu et le Maniema, ne comptent en effet aucune présence bancaire. Une autre, l’Équateur, ne compte qu’une agence. Et, excepté Kinshasa, le Bas-Congo et le Katanga, les autres provinces sont sous-bancarisées. Malgré des problèmes sécuritaires, les deux Kivus et la province Orientale offrent de larges potentialités. Du coup, la course à l’ouverture d’agences à l’intérieur du pays a commencé. Les banques anciennement implantées, qui disposent d’un réseau en province, ont l’avantage sur les nouveaux arrivés, dont la connaissance du pays reste à bâtir.
Les banques étrangères ont quant à elle beaucoup de chemin à parcourir pour se faire une place sur un marché dominé par des établissements rattachés à des investisseurs, principalement des groupes, opérant en RD Congo : ils représentent quasiment la moitié des banques du pays et totalisent plus des trois quarts des dépôts et des crédits (voir graphique). Parmi les leaders figure la Banque commerciale du Congo (BCDC), doyenne des banques congolaises, acquise à la fin de 2009 par la famille Forrest auprès du français BNP Paribas, qui avait lui-même repris les parts de Fortis-Belgolaise en mai 2008. La BIAC appartient quant à elle au groupe Blattner, tandis que le groupe indien Rawji, actif en RD Congo depuis près d’un siècle et très diversifié, a créé Raw Bank en 2002, désormais numéro un du pays. Autres exemples : les diamantaires israéliens Dan Gertler International et Beny Steinmetz Group, qui contrôlent la BIC, ou l’homme d’affaires Robert Lévi, qui a ouvert la Trust Merchant Bank (TMB), à Lubumbashi.
Ce lien capitalistique entre banques et groupes privés laisse-t-il planer un danger sur la stabilité du système financier ? Ces banquiers d’un nouveau genre se sont-ils lancés dans le métier pour capter l’épargne locale et financer leurs affaires ? Rawji s’en défend. « Nous avons créé une banque pour diversifier nos activités. D’ailleurs, la Banque centrale du Congo est vigilante en matière d’octroi de crédits aux entreprises et aux administrateurs d’un groupe. En ce qui nous concerne, il n’y a pas de conflits d’intérêt », informe Michel Notebaert, directeur commercial de Raw Bank. De plus, la taille encore modeste du système bancaire congolais, avec un total de bilan équivalent à 11,9 % du produit intérieur brut à la fin de 2009, contre une moyenne africaine de 32 %, limite fortement les risques.
La ruée bancaire
21/01/2011 à 13h:17 Par Muriel Devey
Le pays recense 350 000 comptes, mais le potentiel est estimé à 13 millions de clients. De quoi attiser l’imagination commerciale des établissements de la place, de plus en plus nombreux, qui diversifient les produits et les services offerts à la clientèle.
En RDC, les banques poussent doucement, mais sûrement. Elles seront près de vingt-cinq à la fin de 2010 contre une douzaine seulement en 2002, année de l’adoption d’une nouvelle loi bancaire, et début de la restructuration et de la recomposition du paysage financier. La plupart des grands groupes bancaires panafricains, de Standard Bank à Ecobank en passant par Bank of Africa, s’y sont depuis installés, convaincus par le potentiel d’un pays qui compte quelque 65 millions d’habitants et d’importantes richesses minières. Cette inflation bancaire ainsi que la confiance retrouvée des Congolais dans leur système financier ont permis de porter le nombre de comptes de 30 000, il y a cinq ans, à 350 000 aujourd’hui. Le volume des dépôts a quant à lui grimpé de 835 millions de dollars en 2007 à 1 milliard de dollars en 2009 (environ 700 millions d’euros à l’époque).
Les nouveaux arrivants ont bousculé les habitudes, diversifiant les produits et les services offerts à la clientèle. L’allemand ProCredit Bank a ainsi ciblé les « petits », dont aucune banque ne voulait auparavant, en s’implantant dans les quartiers populaires de la capitale et en introduisant la monétique. Les autres ont suivi, et, aujourd’hui, les retraits de cash aux guichets automatiques sont entrés dans les mœurs, tandis que le paiement par carte bancaire est de plus en plus accepté par les commerces, les hôtels et les restaurants.
SÉDUIRE LES PME
Pour augmenter leurs parts de marché, les banques n’ont d’autres moyens que d’explorer le gisement de clients non encore bancarisés. Alors que le marché des salariés est déjà largement couvert, et celui des grands comptes aussi, cette nouvelle manne pourrait venir des acteurs de l’informel et surtout des petites et moyennes entreprises (PME). Traditionnellement peu enclines à entrer dans le système bancaire, certaines de ces PME disposent pourtant d’épargne, qu’elles « capitalisent sous forme de stocks ou investissent dans la construction », explique Louis-Odilon Alaguillaume, administrateur délégué de la Banque internationale de crédit (BIC), l’une des cinq premières banques du pays. Cette situation pourrait être bouleversée « si le gouvernement prenait des mesures pour obliger les PME à exécuter leurs transactions via les banques, ce qui permettrait à ces dernières d’augmenter leurs parts de marché et d’abaisser le taux du crédit, très élevé », remarque un banquier.
De leur côté, les banques devront faire un effort en matière de crédits. Si en 2009 le stock des crédits octroyés (504 millions de dollars) représentait la moitié de celui des avoirs, les prêts à l’économie restaient principalement des crédits documentaires, de caisse et commerciaux à court terme, avec des montants limités. Même si elles peuvent parfois se regrouper pour un crédit, les banques prêtent en général à peine l’équivalent de six mois de salaire pour les particuliers et de 15 000 à 50 000 dollars pour les commerçants ou les petits industriels, avec des délais de remboursement excédant rarement trente-six mois. Pas de quoi financer les investissements sur le long terme et, incidemment, le développement économique d’un pays.
Où trouver les ressources qui permettraient de satisfaire cette demande ? Les déposants semblent réticents à laisser leur épargne auprès du système financier pour des durées longues. Seules cinq banques proposent des comptes épargne, et les comptes courants représentaient toujours 82 % du total des comptes en 2009. Du coup, des montages sont étudiés par des bailleurs de fonds comme la Banque européenne d’investissement, l’Agence française de développement, l’Agence des États-Unis pour le développement international ou la Banque mondiale, qui envisagent d’accorder des lignes de crédit aux banques congolaises pour financer les PME. Avec, en accompagnement, une formation de ces dernières à la culture bancaire. L’implantation de banques d’investissement est également appelée de leurs vœux par de nombreux chefs d’entreprise.
COURSE À L’OUVERTURE D’AGENCES
Pour développer l’activité commerciale, les banques visent les petites villes de l’intérieur. Deux provinces, le Bandundu et le Maniema, ne comptent en effet aucune présence bancaire. Une autre, l’Équateur, ne compte qu’une agence. Et, excepté Kinshasa, le Bas-Congo et le Katanga, les autres provinces sont sous-bancarisées. Malgré des problèmes sécuritaires, les deux Kivus et la province Orientale offrent de larges potentialités. Du coup, la course à l’ouverture d’agences à l’intérieur du pays a commencé. Les banques anciennement implantées, qui disposent d’un réseau en province, ont l’avantage sur les nouveaux arrivés, dont la connaissance du pays reste à bâtir.
Les banques étrangères ont quant à elle beaucoup de chemin à parcourir pour se faire une place sur un marché dominé par des établissements rattachés à des investisseurs, principalement des groupes, opérant en RD Congo : ils représentent quasiment la moitié des banques du pays et totalisent plus des trois quarts des dépôts et des crédits (voir graphique). Parmi les leaders figure la Banque commerciale du Congo (BCDC), doyenne des banques congolaises, acquise à la fin de 2009 par la famille Forrest auprès du français BNP Paribas, qui avait lui-même repris les parts de Fortis-Belgolaise en mai 2008. La BIAC appartient quant à elle au groupe Blattner, tandis que le groupe indien Rawji, actif en RD Congo depuis près d’un siècle et très diversifié, a créé Raw Bank en 2002, désormais numéro un du pays. Autres exemples : les diamantaires israéliens Dan Gertler International et Beny Steinmetz Group, qui contrôlent la BIC, ou l’homme d’affaires Robert Lévi, qui a ouvert la Trust Merchant Bank (TMB), à Lubumbashi.
Ce lien capitalistique entre banques et groupes privés laisse-t-il planer un danger sur la stabilité du système financier ? Ces banquiers d’un nouveau genre se sont-ils lancés dans le métier pour capter l’épargne locale et financer leurs affaires ? Rawji s’en défend. « Nous avons créé une banque pour diversifier nos activités. D’ailleurs, la Banque centrale du Congo est vigilante en matière d’octroi de crédits aux entreprises et aux administrateurs d’un groupe. En ce qui nous concerne, il n’y a pas de conflits d’intérêt », informe Michel Notebaert, directeur commercial de Raw Bank. De plus, la taille encore modeste du système bancaire congolais, avec un total de bilan équivalent à 11,9 % du produit intérieur brut à la fin de 2009, contre une moyenne africaine de 32 %, limite fortement les risques.
1月20日 le jeudi 20 janvier 2011 ケン・ブグル Ken Bugul
Le jeudi 20 janvier 2011曇。7時、気温22℃、湿度75%。
再三の電話に建具屋セバスチャンがベッドの横木をもってやってきた。食卓はまだできていないという。横木をみて、これは「折れるそ」と宣言。ベッドに横木を渡して実際折ってみせた。こんな子供だましの仕事では困るとセバスチャンを追い返した。27日までにまともな横木とテーブルを持ってこない限り、前金を返却するとノートに書かせて署名させた。
CCFで11日に借りたヴェイエルガンス Francois Weyergansの『母の家で3日間Trois jours chez ma mère』を返却した。正直いって、これがゴンクール賞をとった作品なのかと疑問を抱いた。衒学的であるが新味はない。インテリでブルジョワの主人公の女性関係なんてこちらは興味がない。可也の親日家のようで、布団を愛用、座禅を試み、焼物(陶器)に詳しいけれど、そんなことで僕のこの作品に対する評価は変わらない。日本の私小説と同じで、イマジネイションがない、創作がない。どうみても「老人のつぶやき小説」としか評価できないのである。
今日はやはりアフリカに戻って、セネガルの作家ケン・ブグルKen Bugul の『Riwan ou le chemin de sable(リワン、砂の道)』を借りた。「ケン」といっても女性である。1947年生まれ。ベナン人の医者と結婚したが死別している。夫の診療所があったポルト・ノヴォPorto Novo(ベナンの首都)に在住。
ケン・ブグルはペン・ネーム。ウォロフ語(セネガルの言葉)で「誰にも望まれない者」という意味だそうだ。
再三の電話に建具屋セバスチャンがベッドの横木をもってやってきた。食卓はまだできていないという。横木をみて、これは「折れるそ」と宣言。ベッドに横木を渡して実際折ってみせた。こんな子供だましの仕事では困るとセバスチャンを追い返した。27日までにまともな横木とテーブルを持ってこない限り、前金を返却するとノートに書かせて署名させた。
CCFで11日に借りたヴェイエルガンス Francois Weyergansの『母の家で3日間Trois jours chez ma mère』を返却した。正直いって、これがゴンクール賞をとった作品なのかと疑問を抱いた。衒学的であるが新味はない。インテリでブルジョワの主人公の女性関係なんてこちらは興味がない。可也の親日家のようで、布団を愛用、座禅を試み、焼物(陶器)に詳しいけれど、そんなことで僕のこの作品に対する評価は変わらない。日本の私小説と同じで、イマジネイションがない、創作がない。どうみても「老人のつぶやき小説」としか評価できないのである。
今日はやはりアフリカに戻って、セネガルの作家ケン・ブグルKen Bugul の『Riwan ou le chemin de sable(リワン、砂の道)』を借りた。「ケン」といっても女性である。1947年生まれ。ベナン人の医者と結婚したが死別している。夫の診療所があったポルト・ノヴォPorto Novo(ベナンの首都)に在住。
ケン・ブグルはペン・ネーム。ウォロフ語(セネガルの言葉)で「誰にも望まれない者」という意味だそうだ。
(画像はケン・ブグル。大分若いときの写真のようだ。しかし、気にいっているのかネットにはこの写真が多い)。
21 janvier 2011
1月19日 le mercredi 19 janvier 2011 民営化20社 privatisation des 20 entreprises nationales
Le mercredi 19 janvier 2011
曇時々雨、7時、22℃、湿度75%。午後15時過ぎにやっと晴れ間。19時、雨。
昨日、僕の寝室で雨漏り。雨は夜中のうちずっと振っていたが、雨漏りは不思議なことに地中で止まった。部屋が洪水になったらどうしようかと思った。雨漏りの形跡は以前からあった。しかし実際に雨漏りの事実を確認したのは初めてであった。しかし、この雨漏りを最初に発見したのはマーゴちゃんだった。
アンドレさんが、今日屋根に上がって雨漏りの原因らしい場所を探して塞いでくれた。
国営企業の民営化が固まってきた。去年12月31日までに主要20企業が株式会社化されるという基本が決まり(既にこの日までに社名変更済、旧社名にSARL-株式会社-をつけただけだが)、あとは国会の承認を待つばかりとなったようだ。
20企業のうち主な企業は次の通りである・
a) Gecamines社(RDC最大の鉱山会社だったが、放漫経営のため殆ど倒産。ただ膨大な採掘権を持っている。
b) SNCC社(国鉄、ここも放漫経営。気位だけが高い)
c) Regideso社(水道)
d) SCPT社(郵便、テレコム事業)
e) Sodimico社(前身はSodimiza、日本が鉱山開発をしていた会社)
f) SONAS社(自動車保険、その他保険)
g) SNEL(電力会社)
いずれも問題山積み会社ばかりであるが、民営化されるからには倒産も、海外企業に身売りもあるということだ。上記の会社群は全て会社訪問もしたことがあるが、今のところ、煮ても焼いても食えない、どうしようもない会社群である。
海外企業はこれから資本参加、経営参加を求められるだろうが、おいそれと資本参加などしないことだ。しかし、たとえばGecamines社の一部の事業を買い取るなど、自ら経営することが望ましい。間違えてもGecamines社の、SNCC社の経営再建などは考えないことだ。しかしながら、この民営化は日本企業にとってもチャンスであるともいえる。RDCコンゴはインフラの近代化、輸出促進、要は税収を上げたいのである。民営化された各社とネゴをし、いかに有利な条件を引き出すかは、それぞれの手腕である。
Il a fallu y croire pour le voir enfin réalisé. Le processus de réforme des entreprises du portefeuille de l'Etat vient de prendre une tournure décisive avec la transformation effective des entreprises publiques en sociétés commerciales. Concrètement, ces entreprises sont devenues des sociétés par action à responsabilité limitée (SARL) inscrites au registre du commerce. L'objectif pour le ministère du portefeuille est atteint du moment où les dispositions pertinentes du décret du premier ministre fixant la période transitoire de la transformation arrivée à échéance le 31 décembre 2010, ont été respectées.
C'est important que ce processus arrive à son terme pour protéger les entreprises concernées qui risquaient de se retrouver en marge de la loi. La recherche du profit comme dans les entreprises du secteur privé, est désormais le leitmotiv de ces nouvelles sociétés commerciales. Cela exige, entre autres, des changements dans le management de ces sociétés gérées souvent comme des biens sans maître. Le nouveau cadre juridique mis en place par le gouvernement a cette ambition. Faut-il encore que cela soit traduit dans les faits. C'est sur ce terrain que la réforme sera notamment jugée et évaluée. Du côté de l'Etat et des mandataires, il est attendu une autre façon de concevoir et de gérer ces sociétés. Au-delà, il faut améliorer la gouvernance au niveau de l'Etat et de ses sociétés commerciales. Sinon, la réforme n'aura été qu'un leurre.
Ainsi, au terme de la période transitoire ces entreprises sont désormais dotées des statuts notariés dans lesquels figurent les capitaux sociaux respectifs. Le respect des règles et des statuts doit être un point d'honneur pour l'Etat-propriétaire et les mandataires. Le changement des mentalités et des méthodes de gestion est inéluctable. La processus mené doit avoir servi à quelque chose. Le chemin parcouru par ces entreprises pour arriver là où elles sont aujourd'hui, aura été un véritable parcours de combattant parsemé d'embûches et écueils. Au cours des évaluations faites à mi-parcours et à certains moments durant la période transitoire, il est apparu souvent des réelles difficultés, notamment en ce qui concerne l'établissement de bilan d'ouverture et la fixation du capital social. A la décharge des entreprises et des mandataires publics, il y a eu certes l'insuffisance des moyens financiers, logistiques, matériels,…La dispersion de l'exploitation à travers tout le pays pour certaines. D'autres entreprises étaient en situation de quasi arrêt d'activités. L'absence des titres immobiliers et la difficulté d'en disposer auront compliqué la tâche d'inventaire du patrimoine immobilier… Autant des problèmes rencontrés.
Pour surmonter ces difficultés d'ordre technique, les experts du Comité de pilotage de la réforme des entreprises du portefeuille, du Conseil permanent de la comptabilité au Congo, du Conseil supérieur du Portefeuille et des ministères sectoriels ont été appelés à la rescousse du processus. Des experts indépendants étaient associées aussi à ce travail délicat. Au niveau de chaque entreprise, il a fallu mettre certains responsables devant une obligation des résultats (ADG, ADF, chef comptable et auditeur interne). Les documents de travail utilisés furent : la dernière balance, les états financiers certifiés par un auditeur indépendant, les états financiers des entreprises où l'entreprise détient des actions,…Il y a eu la valorisation des actifs et des passifs au cours des échanges afin d'envisager après la fixation des capitaux sociaux dans la sérénité. Il a été examiné la cohérence et la réalité du montant proposé pour chaque entreprise. L'objectif ici était de tomber sur un capital de départ réaliste.
En d'autres termes, l'éclaircissement sur la situation financière et patrimoniale des entreprises au cas par cas était incontournable. A ce niveau, la tâche était difficile car nombre d'entreprises n'avaient pas d'états financiers fiables et à jour. L'état détaillé du passif et de l'actif découlant d'un inventaire certifié n'était pas disponible pour la majorité des entreprises à l'approche du délai buttoir. Pour éviter l'immobilisme au regard de grands défis qui se posaient, il avait été levé l'option de voir dans un premier temps les entreprises concernées déterminer leurs capitaux sociaux minima qui seront revus à la fin des études initiées. C'est au terme de ces études spécifiques que devait intervenir la fixation définitive des capitaux sociaux et la tenue des assemblées générales.
L'échéance du 31 décembre devait être respectée pour éviter de tomber dans les incertitudes et un vide juridique. En ce début de l'année 2011, le Copirep a publié la liste de 20 sociétés commerciales constituées régulièrement après la tenue des assemblées générales pour adopter les statuts et les formalités administratives. Dans tous les cas, le grand défi pour ces SARL reste l'amélioration de la gouvernance et des méthodes de gestion, afin de marquer la rupture avec les pratiques qui prévalent dans ces sociétés depuis des lustres. Ci-après la liste en question.
Didier Munsala Buakasa
1. CAISSE GENERALE D'EPARGNE DU Congo " CADECO " (SPRL)
2. LA CONGOLAISE DES HYDROCARBURES " COHYDRO " (SARL)
3. ENTREPRISE MINIERE DE KISENGE MANGANESE " SCMK-Mn " (SARL)
4. HOTEL KARAVIA SARL
5. LA GENERALE DES CARRIERES ET DES MINES Société par Actions à Responsabilité Limitée en abrégé " Gécamines Sarl "
6. LIGNES AERIENNES CONGOLAISES Société par Actions à Responsabilité Limitée en abrégé " LAC " (SARL)
7. LIGNES MARITIMES CONGOLAISES " L.M.C. " (SARL)
8. REGIE DE DISTRIBUTION D'EAU DE LA REPUBLIQUE DEMOCRATIQUE DU Congo"REGIDESO " (SARL)
9. REGIE DES VOIES AERIENNES " R.V.A. " (SARL)
10. SOCIETE DES CHEMINS DE FER UELE-FLEUVE "CFUF" (SARL)
11. SOCIETE COMMERCIALE ET INDUSTRIELLE D'EXPLOSIFS "SOCIDEX " (SARL)
12. SOCIETE COMMERCIALE DES TRANSPORTS ET DES PORTS " SCTP " (SARL)
13. SOCIETE CONGOLAISE DES POSTES ET DES TELECOMMUNICATIONS " S.C.P.T." (SARL)
14. SOCIETE CONGOLAISE DES VOIES MARITIMES (SARL)
15. LA SOCIETE DE DEVELOPPEMENT INDUSTRIEL ET MINIER DU Congo "SODIMICO" (SARL)
16. SOCIETE MINIERE DE KILO-MOTO " SOKIMO " (SARL)
17. SOCIETE NATIONALE D'ASSURANCES " SONAS SARL "
18. SOCIETE NATIONALE D'ELECTRICITE " SNEL " (SARL)
19. SOCIETE NATIONALE DES CHEMINS DE FER DU Congo (SARL)
20. SOCIETE SIDERURGIQUE DE MALUKU "SOSIDER" (SARL)
(L'Obserbateur/MCN, via mediacongo.net)
曇時々雨、7時、22℃、湿度75%。午後15時過ぎにやっと晴れ間。19時、雨。
昨日、僕の寝室で雨漏り。雨は夜中のうちずっと振っていたが、雨漏りは不思議なことに地中で止まった。部屋が洪水になったらどうしようかと思った。雨漏りの形跡は以前からあった。しかし実際に雨漏りの事実を確認したのは初めてであった。しかし、この雨漏りを最初に発見したのはマーゴちゃんだった。
アンドレさんが、今日屋根に上がって雨漏りの原因らしい場所を探して塞いでくれた。
国営企業の民営化が固まってきた。去年12月31日までに主要20企業が株式会社化されるという基本が決まり(既にこの日までに社名変更済、旧社名にSARL-株式会社-をつけただけだが)、あとは国会の承認を待つばかりとなったようだ。
20企業のうち主な企業は次の通りである・
a) Gecamines社(RDC最大の鉱山会社だったが、放漫経営のため殆ど倒産。ただ膨大な採掘権を持っている。
b) SNCC社(国鉄、ここも放漫経営。気位だけが高い)
c) Regideso社(水道)
d) SCPT社(郵便、テレコム事業)
e) Sodimico社(前身はSodimiza、日本が鉱山開発をしていた会社)
f) SONAS社(自動車保険、その他保険)
g) SNEL(電力会社)
いずれも問題山積み会社ばかりであるが、民営化されるからには倒産も、海外企業に身売りもあるということだ。上記の会社群は全て会社訪問もしたことがあるが、今のところ、煮ても焼いても食えない、どうしようもない会社群である。
海外企業はこれから資本参加、経営参加を求められるだろうが、おいそれと資本参加などしないことだ。しかし、たとえばGecamines社の一部の事業を買い取るなど、自ら経営することが望ましい。間違えてもGecamines社の、SNCC社の経営再建などは考えないことだ。しかしながら、この民営化は日本企業にとってもチャンスであるともいえる。RDCコンゴはインフラの近代化、輸出促進、要は税収を上げたいのである。民営化された各社とネゴをし、いかに有利な条件を引き出すかは、それぞれの手腕である。
(画像はGecaminesのロゴとルブンバシにある本社、画像は立派だが廃墟に近い本社である)
20 entreprises publiques devenues sociétés commerciales: le défi reste l'amélioration de la gouvernance
20 entreprises publiques devenues sociétés commerciales: le défi reste l'amélioration de la gouvernance
Il a fallu y croire pour le voir enfin réalisé. Le processus de réforme des entreprises du portefeuille de l'Etat vient de prendre une tournure décisive avec la transformation effective des entreprises publiques en sociétés commerciales. Concrètement, ces entreprises sont devenues des sociétés par action à responsabilité limitée (SARL) inscrites au registre du commerce. L'objectif pour le ministère du portefeuille est atteint du moment où les dispositions pertinentes du décret du premier ministre fixant la période transitoire de la transformation arrivée à échéance le 31 décembre 2010, ont été respectées.
C'est important que ce processus arrive à son terme pour protéger les entreprises concernées qui risquaient de se retrouver en marge de la loi. La recherche du profit comme dans les entreprises du secteur privé, est désormais le leitmotiv de ces nouvelles sociétés commerciales. Cela exige, entre autres, des changements dans le management de ces sociétés gérées souvent comme des biens sans maître. Le nouveau cadre juridique mis en place par le gouvernement a cette ambition. Faut-il encore que cela soit traduit dans les faits. C'est sur ce terrain que la réforme sera notamment jugée et évaluée. Du côté de l'Etat et des mandataires, il est attendu une autre façon de concevoir et de gérer ces sociétés. Au-delà, il faut améliorer la gouvernance au niveau de l'Etat et de ses sociétés commerciales. Sinon, la réforme n'aura été qu'un leurre.
Ainsi, au terme de la période transitoire ces entreprises sont désormais dotées des statuts notariés dans lesquels figurent les capitaux sociaux respectifs. Le respect des règles et des statuts doit être un point d'honneur pour l'Etat-propriétaire et les mandataires. Le changement des mentalités et des méthodes de gestion est inéluctable. La processus mené doit avoir servi à quelque chose. Le chemin parcouru par ces entreprises pour arriver là où elles sont aujourd'hui, aura été un véritable parcours de combattant parsemé d'embûches et écueils. Au cours des évaluations faites à mi-parcours et à certains moments durant la période transitoire, il est apparu souvent des réelles difficultés, notamment en ce qui concerne l'établissement de bilan d'ouverture et la fixation du capital social. A la décharge des entreprises et des mandataires publics, il y a eu certes l'insuffisance des moyens financiers, logistiques, matériels,…La dispersion de l'exploitation à travers tout le pays pour certaines. D'autres entreprises étaient en situation de quasi arrêt d'activités. L'absence des titres immobiliers et la difficulté d'en disposer auront compliqué la tâche d'inventaire du patrimoine immobilier… Autant des problèmes rencontrés.
Pour surmonter ces difficultés d'ordre technique, les experts du Comité de pilotage de la réforme des entreprises du portefeuille, du Conseil permanent de la comptabilité au Congo, du Conseil supérieur du Portefeuille et des ministères sectoriels ont été appelés à la rescousse du processus. Des experts indépendants étaient associées aussi à ce travail délicat. Au niveau de chaque entreprise, il a fallu mettre certains responsables devant une obligation des résultats (ADG, ADF, chef comptable et auditeur interne). Les documents de travail utilisés furent : la dernière balance, les états financiers certifiés par un auditeur indépendant, les états financiers des entreprises où l'entreprise détient des actions,…Il y a eu la valorisation des actifs et des passifs au cours des échanges afin d'envisager après la fixation des capitaux sociaux dans la sérénité. Il a été examiné la cohérence et la réalité du montant proposé pour chaque entreprise. L'objectif ici était de tomber sur un capital de départ réaliste.
En d'autres termes, l'éclaircissement sur la situation financière et patrimoniale des entreprises au cas par cas était incontournable. A ce niveau, la tâche était difficile car nombre d'entreprises n'avaient pas d'états financiers fiables et à jour. L'état détaillé du passif et de l'actif découlant d'un inventaire certifié n'était pas disponible pour la majorité des entreprises à l'approche du délai buttoir. Pour éviter l'immobilisme au regard de grands défis qui se posaient, il avait été levé l'option de voir dans un premier temps les entreprises concernées déterminer leurs capitaux sociaux minima qui seront revus à la fin des études initiées. C'est au terme de ces études spécifiques que devait intervenir la fixation définitive des capitaux sociaux et la tenue des assemblées générales.
L'échéance du 31 décembre devait être respectée pour éviter de tomber dans les incertitudes et un vide juridique. En ce début de l'année 2011, le Copirep a publié la liste de 20 sociétés commerciales constituées régulièrement après la tenue des assemblées générales pour adopter les statuts et les formalités administratives. Dans tous les cas, le grand défi pour ces SARL reste l'amélioration de la gouvernance et des méthodes de gestion, afin de marquer la rupture avec les pratiques qui prévalent dans ces sociétés depuis des lustres. Ci-après la liste en question.
Didier Munsala Buakasa
1. CAISSE GENERALE D'EPARGNE DU Congo " CADECO " (SPRL)
2. LA CONGOLAISE DES HYDROCARBURES " COHYDRO " (SARL)
3. ENTREPRISE MINIERE DE KISENGE MANGANESE " SCMK-Mn " (SARL)
4. HOTEL KARAVIA SARL
5. LA GENERALE DES CARRIERES ET DES MINES Société par Actions à Responsabilité Limitée en abrégé " Gécamines Sarl "
6. LIGNES AERIENNES CONGOLAISES Société par Actions à Responsabilité Limitée en abrégé " LAC " (SARL)
7. LIGNES MARITIMES CONGOLAISES " L.M.C. " (SARL)
8. REGIE DE DISTRIBUTION D'EAU DE LA REPUBLIQUE DEMOCRATIQUE DU Congo"REGIDESO " (SARL)
9. REGIE DES VOIES AERIENNES " R.V.A. " (SARL)
10. SOCIETE DES CHEMINS DE FER UELE-FLEUVE "CFUF" (SARL)
11. SOCIETE COMMERCIALE ET INDUSTRIELLE D'EXPLOSIFS "SOCIDEX " (SARL)
12. SOCIETE COMMERCIALE DES TRANSPORTS ET DES PORTS " SCTP " (SARL)
13. SOCIETE CONGOLAISE DES POSTES ET DES TELECOMMUNICATIONS " S.C.P.T." (SARL)
14. SOCIETE CONGOLAISE DES VOIES MARITIMES (SARL)
15. LA SOCIETE DE DEVELOPPEMENT INDUSTRIEL ET MINIER DU Congo "SODIMICO" (SARL)
16. SOCIETE MINIERE DE KILO-MOTO " SOKIMO " (SARL)
17. SOCIETE NATIONALE D'ASSURANCES " SONAS SARL "
18. SOCIETE NATIONALE D'ELECTRICITE " SNEL " (SARL)
19. SOCIETE NATIONALE DES CHEMINS DE FER DU Congo (SARL)
20. SOCIETE SIDERURGIQUE DE MALUKU "SOSIDER" (SARL)
(L'Obserbateur/MCN, via mediacongo.net)
1月18日大統領選挙に伴う憲法改正 révision de la Constitution sur l'élection présidentielle
Le mardi 18 janvier 2011
曇。7時半、気温23℃、湿度77,5%。
国会がいとも簡単に憲法を改正、大統領選挙は一回の投票で、決戦投票をしないことになった。国会は与党が大勢だから勝手ができることを示してくれた。政府提出の憲法改正案であった。2回の投票を行えば金がそれだけ金がかかる。日本の首長選挙(都知事など)は一回投票である。候補者が過半数を取得する必要がない。2006年の大統領選挙は2回投票だった。それが、選挙の年、2011年になって初めて憲法を改正して一回だけの投票にしたには、やはり、政権政党の思惑が働いている。姑息な手である。しかし、この憲法改正はカビラ現大統領にとって諸刃の剣かもしれない。野党側も候補者を絞って連合する可能性があるからで、全野党がもし纏まればカビラにとって強敵である。
コンゴの教会は、政教分離の建前にもかかわらず、いち早く憲法改正に反対、一回投票制に反対の声明をだした。フランスは2回投票制を採用しているが、コンゴに文句をいうどころか、憲法改正後も公平な選挙ができるように応援(資金援助)するとサルコジは声明。アメリカも憲法改正手続きに違法性がないことからフランスと同調した。これは、決戦投票で第一回投票の1位2位がひっくり返ってしまったギニアやコート・ジボワールのような選挙結果をフランスも米国も望んでいない、カビラに勝ってもらいたいのである。
以下の記事は、憲法改正案が国会を通過したしたということと、米国は選挙の公平性を見守るというルブンバシにおける米大使の記者会見。米国大使James Entwistleはよくカタンガ州に来る。キンシャサでじっとしているどこかの国の大使とは大違いである。
CONGO RDC: LA RÉVISION DE LA CONSTITUTION APPROUVÉE PAR LE PARLEMENT CONGOLAIS
La République démocratique du Congo (RDC) va réviser sa Constitution du 18 février 2006, ont décidé les députés et les sénateurs congolais, réunis pendant deux jours en congrès. Un projet de loi a été adopté samedi soir par le Parlement congolais, avec 485 voix pour, 8 voix non et 11 abstentions. Les députés et sénateurs membres de l'opposition ont refusé de prendre part aux travaux du congrès qui avaient débuté vendredi. Parmi les articles qui feront l'objet de la révision, c'est l'article 71 portant sur l'élection du président de la RDC à la majorité simple des suffrages exprimés en un seul tour qui divise les députés et sénateurs.
Les uns croient qu'il s'agit d'une manœuvre tendant à aider le président Joseph Kabila à remporter le prochain scrutin présidentiel, tandis que les autres évoquent les difficultés financières pour organiser une élection présidentielle à deux tours.
Les Etats-Unis prêts à soutenir le processus électoral en RDC
Radio Okapi - 17 janvier 2011
Les candidats doivent participer à ces élections librement et sans intimidations. L’ambassadeur américain a fait cette déclaration le week-end dernier lors d’une visite de travail à Lubumbashi (Katanga), dans le sud-est de la RD Congo.
James Entwistle n’a pas révélé le budget que compte allouer les USA aux élections de 2011, précisant que les discussions sont en cours entre l’ambassade américaine à Kinshasa et Washington à ce sujet.
Selon lui, Washington accorde une grande importance à la tenue des élections libres et équitables en RDC.
«Les détails du processus électoral sont bien sûr une question de politique intérieure. Toute fois les Etats-Unis, en tant qu’amis et partenaires de ce pays important, observeront la tenue des élections avec un grand intérêt,» a dit le diplomate américain.
La République démocratique du Congo a organisé, en 2006, les premières élections libres et démocratiques depuis l’accession du pays à l’indépendance en 1960. Fin 2011, les mandats des tous les élus (président, députés et sénateurs) arriveront à terme.
曇。7時半、気温23℃、湿度77,5%。
国会がいとも簡単に憲法を改正、大統領選挙は一回の投票で、決戦投票をしないことになった。国会は与党が大勢だから勝手ができることを示してくれた。政府提出の憲法改正案であった。2回の投票を行えば金がそれだけ金がかかる。日本の首長選挙(都知事など)は一回投票である。候補者が過半数を取得する必要がない。2006年の大統領選挙は2回投票だった。それが、選挙の年、2011年になって初めて憲法を改正して一回だけの投票にしたには、やはり、政権政党の思惑が働いている。姑息な手である。しかし、この憲法改正はカビラ現大統領にとって諸刃の剣かもしれない。野党側も候補者を絞って連合する可能性があるからで、全野党がもし纏まればカビラにとって強敵である。
コンゴの教会は、政教分離の建前にもかかわらず、いち早く憲法改正に反対、一回投票制に反対の声明をだした。フランスは2回投票制を採用しているが、コンゴに文句をいうどころか、憲法改正後も公平な選挙ができるように応援(資金援助)するとサルコジは声明。アメリカも憲法改正手続きに違法性がないことからフランスと同調した。これは、決戦投票で第一回投票の1位2位がひっくり返ってしまったギニアやコート・ジボワールのような選挙結果をフランスも米国も望んでいない、カビラに勝ってもらいたいのである。
以下の記事は、憲法改正案が国会を通過したしたということと、米国は選挙の公平性を見守るというルブンバシにおける米大使の記者会見。米国大使James Entwistleはよくカタンガ州に来る。キンシャサでじっとしているどこかの国の大使とは大違いである。
CONGO RDC: LA RÉVISION DE LA CONSTITUTION APPROUVÉE PAR LE PARLEMENT CONGOLAIS
La République démocratique du Congo (RDC) va réviser sa Constitution du 18 février 2006, ont décidé les députés et les sénateurs congolais, réunis pendant deux jours en congrès. Un projet de loi a été adopté samedi soir par le Parlement congolais, avec 485 voix pour, 8 voix non et 11 abstentions. Les députés et sénateurs membres de l'opposition ont refusé de prendre part aux travaux du congrès qui avaient débuté vendredi. Parmi les articles qui feront l'objet de la révision, c'est l'article 71 portant sur l'élection du président de la RDC à la majorité simple des suffrages exprimés en un seul tour qui divise les députés et sénateurs.
Les uns croient qu'il s'agit d'une manœuvre tendant à aider le président Joseph Kabila à remporter le prochain scrutin présidentiel, tandis que les autres évoquent les difficultés financières pour organiser une élection présidentielle à deux tours.
Les Etats-Unis prêts à soutenir le processus électoral en RDC
Radio Okapi - 17 janvier 2011
Les candidats doivent participer à ces élections librement et sans intimidations. L’ambassadeur américain a fait cette déclaration le week-end dernier lors d’une visite de travail à Lubumbashi (Katanga), dans le sud-est de la RD Congo.
James Entwistle n’a pas révélé le budget que compte allouer les USA aux élections de 2011, précisant que les discussions sont en cours entre l’ambassade américaine à Kinshasa et Washington à ce sujet.
Selon lui, Washington accorde une grande importance à la tenue des élections libres et équitables en RDC.
«Les détails du processus électoral sont bien sûr une question de politique intérieure. Toute fois les Etats-Unis, en tant qu’amis et partenaires de ce pays important, observeront la tenue des élections avec un grand intérêt,» a dit le diplomate américain.
La République démocratique du Congo a organisé, en 2006, les premières élections libres et démocratiques depuis l’accession du pays à l’indépendance en 1960. Fin 2011, les mandats des tous les élus (président, députés et sénateurs) arriveront à terme.
18 janvier 2011
1月17日 le lundi 17 janvier 2011 ルムンバの遺言 testament de Patrice Lumumba
Le lundi 17 janvier 2011
曇。昨夜は夜中過ぎからしとど雨が降っていた。7時、気温22℃、湿度75%。
昼前から晴れわたった。
電気屋ペリカンが来てくれて、外の照明を首里した。僕の寝室の電球が破裂したのは中国製の電球だからという。では、何故とりかえるようにと事前にいってくれなかったのか。
今日は初代首相ルムンバが暗殺された日である。休日。
ルムンバ暗殺から50年。フランスのラジオでは特別番組が放送されていた。今でも人気のあるルムンバである。ルムンバの子供たちがルムンバ暗殺の真相を真実を求めて現在訴訟を起こしている。
以下に「ルムンバの遺言」の翻訳と原文を載せる。ルムンバが捕らえれて獄中にあったときに書かれた妻への手紙である。2006年1月藤沢でルムンバについて講演したときの原稿の一部である。そのときの講演原稿はいずれ全文どこかに掲載予定である。
「ルムンバの遺言
1960年-1961年冬
最愛の妻よ、この手紙が君の手元に届くかどうか、これを君が読むときこの世に生がまだあるかどうか、それを知る術なく君に書き記す。この国の独立のために僕は闘い続けてきた。その間、仲間たちや僕たちが一生を賭けた大儀の最後の勝利を一瞬たりとも疑ったことはない。だが、僕たちが援助を依頼したしたとき全幅の信頼を抱いた国連も、その国連の高官たちの前で明示的な或いは暗黙の支持、直接また間接の支持を与えたベルギーの同盟国やベルギーの植民地主義者は、僕たちがこの国に望んだこと、名誉ある生、妥協なき尊厳、制限なき独立をまるで欲しなかった。
彼らは僕らの同胞のある者たちを堕落させ、同胞の別の者たちを買収した。また彼らは真実を歪曲させ、僕らの独立を覆すことに寄与した。それ以外になんと言えようか。僕が死のうが生きようが、自由の身だろうが植民地主義者の手にかかって投獄されようが、僕の身柄が問題なのではない。彼らが国の独立というものを哀れな茶番劇にしてしまったコンゴそしてその惨めな人民こそが問題なのだ。僕の信念は揺がない。
存在の根底で僕は知っているし感じてもいる。早晩コンゴ人民は内部の敵を葬り去り、とりまく下劣で屈辱的な植民地主義者にたった一人で「否(ノン)」といい、輝く太陽のもと自らの尊厳を打ち立てる人間のように立ち上がるだろうと。僕らは孤立していない。アフリカで、アジアで、世界の隅々の自由で開放された人民は、植民地主義者たちと彼らに雇われた者たちがこの国にいる限り、戦うことを止めない数百万のコンゴ人たちの側に立つだろう。
子供たちよ、僕はもう二度と君たちに見えることが出来ないかもしれない。僕は君たちに伝えたい。コンゴの未来は美しいと。そしてコンゴの未来は君たちにまたすべてのコンゴ人にこの国の独立と主権を再建するという高邁な仕事の実現に期待を寄せているのだと。なぜなら尊厳なくして自由はなく、正義なくして尊厳はない。また独立なくして自由な人間はないのだから。
暴行、虐待、拷問などを受けても僕は命乞いなどしかった。なぜなら、僕にとって掛替えのない主義を裏切ってまで膝を折って生きるよりも、確固たる意志を持ち、この国の運命に深い信頼を寄せて、むしろ胸を張って死を選んだほうがましだからだ。
歴史は何時か審判を下すだろう。しかし、その歴史は、ブラッセルで、パリで、はたワシントンや国連で教えられる歴史ではない。それは植民地主義者とその傀儡から解放された国々に於いて教えられる歴史だ。アフリカは自らの歴史を書くであろう。その歴史は、サハラの北や南にあって、栄光と尊厳の歴史であろう。妻よ、僕のために泣いてくれるな。僕は今深く耐え忍んでいるこの国が、自らの独立と自由を守る術を何時か知るだろうと分かっている。
コンゴ万歳!
アフリカ万歳!」
「Testament de Patrice Lumumba
Ma chère compagne, je t'écris ces mots sans savoir s'ils te parviendront et si je serai encore en vie lorsque tu les liras. Durant toute ma lutte pour l'indépendance de notre pays, nous n'avons jamais douté un instant du triomphe final de la cause sacrée à laquelle mes compagnons et moi avons consacré notre vie. Mais ce que nous voulions pour notre pays, son droit à une vie honorable, à une dignité sans compromis, à une indépendance sans restriction, le colonialisme belge et ses alliées occidentaux, qui ont trouvé un appui direct et indirect, déclaré ou non déclaré, auprès de certains hauts fonctionnaires des Nations Unies - cet organisme dans lequel nous avions placé toute notre confiance, lorsque nous avions fait appel à son assistance - ne l'ont jamais voulu.
Ceux-ci ont corrompu certains de nos compatriotes, ils en ont acheté d 'autres, ils ont contribué à déformer la vérité et à saper notre indépendance. Que puis-je dire d'autre ? Que je sois mort ou vivant, libre ou prisonnier par ordre des colonialistes, ce n 'est pas ma personne qui compte, mais le Congo et notre pauvre peuple dont ils ont transformé l'indépendance en triste farce. Ma foi restera inébranlable.
Je sais et sens dans le fond de mon être que tôt ou tard mon peuple se débarrassera de tous ses ennemis intérieurs, qu'il se lèvera comme un seul homme pour dire "Non" au colonialisme dégradant et humiliant, et pour instaurer sa dignité sous un soleil éclatant. Nous ne sommes pas seuls. L'Afrique, l'Asie et les peuples libres et libérés de tous les coins du monde se trouveront toujours aux côtés des millions de Congolais qui ne cesseront la lutte tant que les colonialistes et leurs mercenaires se trouveront dans notre pays.
A mes fils, que j'ai quittés peut-être pour ne plus jamais les revoir, je veux qu'on dise que l'avenir du Congo est beau et qu'il attend d'eux et de tous les Congolais la réalisation de la tâche sacrée de reconstruire notre indépendance et notre souveraineté ; parce que sans dignité il n'y a pas de liberté ; sans justice il n 'y pas de dignité et sans indépendance il n'y a pas d'hommes libres.
La brutalité, les sévices, les tortures ne m'ont jamais amené à implorer la grâce parce que je préfère mourir la tête haute, avec la foi indestructible et la confiance profonde dans la destinée de notre pays plutôt que de vivre dans la soumission en ayant renié les principes qui me sont sacrés.
L'histoire prononcera un jour son jugement, mais ce ne sera pas l'histoire qu'on enseignera à Bruxelles, à Paris, à Washington ou aux Nations Unie ; ce sera celle qu'on enseignera dans les pays affranchis du colonialisme et de ses fantoches. L'Afrique écrira sa propre histoire et elle sera, au Nord et au Sud du Sahara, une histoire de gloire et de dignité. Ne me pleure pas, ma compagne. Je sais que mon pays qui souffre tant saura défendre son indépendance et sa liberté.
Vive le Congo ! Vive l'Afrique !」
曇。昨夜は夜中過ぎからしとど雨が降っていた。7時、気温22℃、湿度75%。
昼前から晴れわたった。
電気屋ペリカンが来てくれて、外の照明を首里した。僕の寝室の電球が破裂したのは中国製の電球だからという。では、何故とりかえるようにと事前にいってくれなかったのか。
今日は初代首相ルムンバが暗殺された日である。休日。
昨日はLDカビラ大統領が10年前に暗殺された日であった。
ルムンバ暗殺から50年。フランスのラジオでは特別番組が放送されていた。今でも人気のあるルムンバである。ルムンバの子供たちがルムンバ暗殺の真相を真実を求めて現在訴訟を起こしている。
以下に「ルムンバの遺言」の翻訳と原文を載せる。ルムンバが捕らえれて獄中にあったときに書かれた妻への手紙である。2006年1月藤沢でルムンバについて講演したときの原稿の一部である。そのときの講演原稿はいずれ全文どこかに掲載予定である。
「ルムンバの遺言
1960年-1961年冬
最愛の妻よ、この手紙が君の手元に届くかどうか、これを君が読むときこの世に生がまだあるかどうか、それを知る術なく君に書き記す。この国の独立のために僕は闘い続けてきた。その間、仲間たちや僕たちが一生を賭けた大儀の最後の勝利を一瞬たりとも疑ったことはない。だが、僕たちが援助を依頼したしたとき全幅の信頼を抱いた国連も、その国連の高官たちの前で明示的な或いは暗黙の支持、直接また間接の支持を与えたベルギーの同盟国やベルギーの植民地主義者は、僕たちがこの国に望んだこと、名誉ある生、妥協なき尊厳、制限なき独立をまるで欲しなかった。
彼らは僕らの同胞のある者たちを堕落させ、同胞の別の者たちを買収した。また彼らは真実を歪曲させ、僕らの独立を覆すことに寄与した。それ以外になんと言えようか。僕が死のうが生きようが、自由の身だろうが植民地主義者の手にかかって投獄されようが、僕の身柄が問題なのではない。彼らが国の独立というものを哀れな茶番劇にしてしまったコンゴそしてその惨めな人民こそが問題なのだ。僕の信念は揺がない。
存在の根底で僕は知っているし感じてもいる。早晩コンゴ人民は内部の敵を葬り去り、とりまく下劣で屈辱的な植民地主義者にたった一人で「否(ノン)」といい、輝く太陽のもと自らの尊厳を打ち立てる人間のように立ち上がるだろうと。僕らは孤立していない。アフリカで、アジアで、世界の隅々の自由で開放された人民は、植民地主義者たちと彼らに雇われた者たちがこの国にいる限り、戦うことを止めない数百万のコンゴ人たちの側に立つだろう。
子供たちよ、僕はもう二度と君たちに見えることが出来ないかもしれない。僕は君たちに伝えたい。コンゴの未来は美しいと。そしてコンゴの未来は君たちにまたすべてのコンゴ人にこの国の独立と主権を再建するという高邁な仕事の実現に期待を寄せているのだと。なぜなら尊厳なくして自由はなく、正義なくして尊厳はない。また独立なくして自由な人間はないのだから。
暴行、虐待、拷問などを受けても僕は命乞いなどしかった。なぜなら、僕にとって掛替えのない主義を裏切ってまで膝を折って生きるよりも、確固たる意志を持ち、この国の運命に深い信頼を寄せて、むしろ胸を張って死を選んだほうがましだからだ。
歴史は何時か審判を下すだろう。しかし、その歴史は、ブラッセルで、パリで、はたワシントンや国連で教えられる歴史ではない。それは植民地主義者とその傀儡から解放された国々に於いて教えられる歴史だ。アフリカは自らの歴史を書くであろう。その歴史は、サハラの北や南にあって、栄光と尊厳の歴史であろう。妻よ、僕のために泣いてくれるな。僕は今深く耐え忍んでいるこの国が、自らの独立と自由を守る術を何時か知るだろうと分かっている。
コンゴ万歳!
アフリカ万歳!」
「Testament de Patrice Lumumba
Ma chère compagne, je t'écris ces mots sans savoir s'ils te parviendront et si je serai encore en vie lorsque tu les liras. Durant toute ma lutte pour l'indépendance de notre pays, nous n'avons jamais douté un instant du triomphe final de la cause sacrée à laquelle mes compagnons et moi avons consacré notre vie. Mais ce que nous voulions pour notre pays, son droit à une vie honorable, à une dignité sans compromis, à une indépendance sans restriction, le colonialisme belge et ses alliées occidentaux, qui ont trouvé un appui direct et indirect, déclaré ou non déclaré, auprès de certains hauts fonctionnaires des Nations Unies - cet organisme dans lequel nous avions placé toute notre confiance, lorsque nous avions fait appel à son assistance - ne l'ont jamais voulu.
Ceux-ci ont corrompu certains de nos compatriotes, ils en ont acheté d 'autres, ils ont contribué à déformer la vérité et à saper notre indépendance. Que puis-je dire d'autre ? Que je sois mort ou vivant, libre ou prisonnier par ordre des colonialistes, ce n 'est pas ma personne qui compte, mais le Congo et notre pauvre peuple dont ils ont transformé l'indépendance en triste farce. Ma foi restera inébranlable.
Je sais et sens dans le fond de mon être que tôt ou tard mon peuple se débarrassera de tous ses ennemis intérieurs, qu'il se lèvera comme un seul homme pour dire "Non" au colonialisme dégradant et humiliant, et pour instaurer sa dignité sous un soleil éclatant. Nous ne sommes pas seuls. L'Afrique, l'Asie et les peuples libres et libérés de tous les coins du monde se trouveront toujours aux côtés des millions de Congolais qui ne cesseront la lutte tant que les colonialistes et leurs mercenaires se trouveront dans notre pays.
A mes fils, que j'ai quittés peut-être pour ne plus jamais les revoir, je veux qu'on dise que l'avenir du Congo est beau et qu'il attend d'eux et de tous les Congolais la réalisation de la tâche sacrée de reconstruire notre indépendance et notre souveraineté ; parce que sans dignité il n'y a pas de liberté ; sans justice il n 'y pas de dignité et sans indépendance il n'y a pas d'hommes libres.
La brutalité, les sévices, les tortures ne m'ont jamais amené à implorer la grâce parce que je préfère mourir la tête haute, avec la foi indestructible et la confiance profonde dans la destinée de notre pays plutôt que de vivre dans la soumission en ayant renié les principes qui me sont sacrés.
L'histoire prononcera un jour son jugement, mais ce ne sera pas l'histoire qu'on enseignera à Bruxelles, à Paris, à Washington ou aux Nations Unie ; ce sera celle qu'on enseignera dans les pays affranchis du colonialisme et de ses fantoches. L'Afrique écrira sa propre histoire et elle sera, au Nord et au Sud du Sahara, une histoire de gloire et de dignité. Ne me pleure pas, ma compagne. Je sais que mon pays qui souffre tant saura défendre son indépendance et sa liberté.
Vive le Congo ! Vive l'Afrique !」
1月16日le dimanche 16 janvier 2011 中国企業がジャトロファ植林 culture des jatrophas par les chinois
Le dimanche 16 janvier 2011
曇。7時半、気温22℃、湿度75%。昼ごろから快晴。
昼間直射日光では43℃、日陰で28度だった。
マドンナ。昨日は右前脚をかばってびっこをひいていたが、それは治ったようだ。ところが今朝は左後脚に怪我をしているのを発見した。全く懲りないマドンナちゃん、どこで何時怪我をしたのやら。
菜園にあった唐辛子を採った。今のところ菜園には唐辛子委しかない。トウモロコシ、馬鈴薯、イチゴなどを栽培したい。唐辛子を採ったはいいが、あとはどうすればいいのか。先ずは乾燥させよう。または油か酢か醤油に漬けるか。
曇。7時半、気温22℃、湿度75%。昼ごろから快晴。
昼間直射日光では43℃、日陰で28度だった。
マドンナ。昨日は右前脚をかばってびっこをひいていたが、それは治ったようだ。ところが今朝は左後脚に怪我をしているのを発見した。全く懲りないマドンナちゃん、どこで何時怪我をしたのやら。
菜園にあった唐辛子を採った。今のところ菜園には唐辛子委しかない。トウモロコシ、馬鈴薯、イチゴなどを栽培したい。唐辛子を採ったはいいが、あとはどうすればいいのか。先ずは乾燥させよう。または油か酢か醤油に漬けるか。
グラスを落として割ってしまった。6個のうちこれで4個しかグラスがなくなった。これは僕のミスだから致し方ない。ところが、今度は僕の寝室の電球が破裂した。夕方、電気を点けようとしたときである。僕はスイッチをいれただけだった。電球の薄いガラスが粉々に砕けて飛び散った。
中国企業Greater KingDomが、RDCコンゴでジャトロファjatropha(ナンヨウアブラギリ)の植林を計画している。バ・コンゴ州、カタンガ州、南北キヴ州でそれぞれ10,000の土地の提供を受けて植林しようというのである。ジャトロファの種子から取れる油がバイオ燃料になるらしい。どの州も未開拓の土地がいくらでもある。先ず食料自給と思うが、自動車燃料も輸入である。バイオ燃料が普及するのはいつのことか。日本では日本植物燃料(株)やバイオマス・ジャパン(株)などがジャトロファ植林をしている。RDCコンゴに進出してくれないだろうか。1万ヘクタールといわず、100万ヘクタール単位でジャトロファを植林して欲しい。
中国企業Greater KingDomが、RDCコンゴでジャトロファjatropha(ナンヨウアブラギリ)の植林を計画している。バ・コンゴ州、カタンガ州、南北キヴ州でそれぞれ10,000の土地の提供を受けて植林しようというのである。ジャトロファの種子から取れる油がバイオ燃料になるらしい。どの州も未開拓の土地がいくらでもある。先ず食料自給と思うが、自動車燃料も輸入である。バイオ燃料が普及するのはいつのことか。日本では日本植物燃料(株)やバイオマス・ジャパン(株)などがジャトロファ植林をしている。RDCコンゴに進出してくれないだろうか。1万ヘクタールといわず、100万ヘクタール単位でジャトロファを植林して欲しい。
Les Chinois projettent de produire le jatropha en RDC
Une entreprise chinoise du Groupe Greater KingDom envisage de cultiver le Jatropha, une plan
Une entreprise chinoise du Groupe Greater KingDom envisage de cultiver le Jatropha, une plan
te qui produit des graines oléagineuses tel que le soja, dans quatre provinces de la RDC. Mais, ell
e pose certaines conditions au goucernement congolais. Le ministre du Développement rural, Yangya Undji, qui l’a annoncé jeudi 13 janvier à Radio Okapi.
Le Groupe Greater KingDom compte cultiver cette plante précisément au Bas-Congo (Banana et Matadi), au Katanga (à Lubumbashi), au Nord-Kivu (Goma) et au Sud-Kivu (Bukavu).
Cette entreprise chinoise pose, toutefois, trois conditions avant la production du jatropha en RDC:
un minimum de sécurité dans les sites champêtres,
une superficie de 10 000 hectares par province concernée et
l’exonération de ses équipements.
Par ailleurs, en ce qui concerne l’espace cultivable, le ministre Undji a laissé entendre que cela ne posait pas de problème.
Car, a-t-il poursuivi, en République démocratique du Congo, les forêts couvrent environ 145 millions d’hectares soit plus de 60 % du territoire national, dont 86 millions d’hectares de forêts humides ou près de 40 % du territoire national.
Environ 60 millions d’hectares de forêts humides sont en théorie exploitables par l’industrie du bois.
Pour ce qui est de l’exonération des équipements de l’entreprise chinoise, il promet de prendre contact avec son homologue des Finances.
Le Jatropha retient l’humidité et lutte contre l’érosion des sols.
A partir de ces graines, l’on extrait l’huile capable de servir de biocarburant.
En outre, d’après certains scientifiques, le carburant écologique, que cette plante fournit, contribue à la préservation de l’environnement.
Le Groupe Greater KingDom compte cultiver cette plante précisément au Bas-Congo (Banana et Matadi), au Katanga (à Lubumbashi), au Nord-Kivu (Goma) et au Sud-Kivu (Bukavu).
Cette entreprise chinoise pose, toutefois, trois conditions avant la production du jatropha en RDC:
un minimum de sécurité dans les sites champêtres,
une superficie de 10 000 hectares par province concernée et
l’exonération de ses équipements.
Par ailleurs, en ce qui concerne l’espace cultivable, le ministre Undji a laissé entendre que cela ne posait pas de problème.
Car, a-t-il poursuivi, en République démocratique du Congo, les forêts couvrent environ 145 millions d’hectares soit plus de 60 % du territoire national, dont 86 millions d’hectares de forêts humides ou près de 40 % du territoire national.
Environ 60 millions d’hectares de forêts humides sont en théorie exploitables par l’industrie du bois.
Pour ce qui est de l’exonération des équipements de l’entreprise chinoise, il promet de prendre contact avec son homologue des Finances.
Le Jatropha retient l’humidité et lutte contre l’érosion des sols.
A partir de ces graines, l’on extrait l’huile capable de servir de biocarburant.
En outre, d’après certains scientifiques, le carburant écologique, que cette plante fournit, contribue à la préservation de l’environnement.
1月15日 le samedi 15 janvier 2011 ブログと『日本カタンガ協会』 mon blog et l'Association Katanga-Japon
Le samedi 15 janvier 2011
雨のち曇。9時、気温24℃、湿度77,5%。12時、26℃、70%。
ブログ『アフリカの星』にコメント欄がある。ここ一ヶ月の間に3つのコメントがあったが、気がつかなかった。内容は同一で匿名の投稿であった。「もっと、日本カタンガ協会」の活動についても書け」というもの。おっしゃることはわかるのですが、先ず、このブログは個人の日誌であり、「協会」活動は、ブログ『日本カタンガ協会』に、また活動方針はホーム・ページ『日本カタンガ協会』に掲載するという編集方針が僕にある。もっとも『協会』にはお金が全くない、協会設立発起人を除いて、まだ5名しかメンバーさんがいないので、具体的プロジェクトで毎日忙しいといことがない。また、会員さんでない方に活動の詳細を語ることはできない。「協会」は日本企業の誘致も目指しているからである。
先ずは『日本カタンガ協会』のメンバーになっていただきたい。ホーム・ページを見ていただいて、活動方針のひとつに、たとえば、MAGと地雷除去をカタンガ州東北部で行う、または西部アンゴラ国境でおこなうといった具体的プロジェクトを推進する為に、ご寄付いただければなお歓迎である。
なお、ブログはGoogle社のページを使わせてもらっているが、ブログの右側上方に「メンバーになる」という表示がある。ここでいう「メンバーになる」はブログ購読のメンバーのことである。メンバーになれば、Googleからブログが更新されるとお知らせメイルが届く。それだけのことである。
雨のち曇。9時、気温24℃、湿度77,5%。12時、26℃、70%。
ブログ『アフリカの星』にコメント欄がある。ここ一ヶ月の間に3つのコメントがあったが、気がつかなかった。内容は同一で匿名の投稿であった。「もっと、日本カタンガ協会」の活動についても書け」というもの。おっしゃることはわかるのですが、先ず、このブログは個人の日誌であり、「協会」活動は、ブログ『日本カタンガ協会』に、また活動方針はホーム・ページ『日本カタンガ協会』に掲載するという編集方針が僕にある。もっとも『協会』にはお金が全くない、協会設立発起人を除いて、まだ5名しかメンバーさんがいないので、具体的プロジェクトで毎日忙しいといことがない。また、会員さんでない方に活動の詳細を語ることはできない。「協会」は日本企業の誘致も目指しているからである。
先ずは『日本カタンガ協会』のメンバーになっていただきたい。ホーム・ページを見ていただいて、活動方針のひとつに、たとえば、MAGと地雷除去をカタンガ州東北部で行う、または西部アンゴラ国境でおこなうといった具体的プロジェクトを推進する為に、ご寄付いただければなお歓迎である。
なお、ブログはGoogle社のページを使わせてもらっているが、ブログの右側上方に「メンバーになる」という表示がある。ここでいう「メンバーになる」はブログ購読のメンバーのことである。メンバーになれば、Googleからブログが更新されるとお知らせメイルが届く。それだけのことである。
殊にブログ『日本カタンガ協会』の場合、Googleのブログ購読メンバーになるのと、『日本カタンガ協会』というNPOのメンバーになるのとは全く異なる。コンゴ民主共和国法に基づくNPO法人『日本カタンガ協会』のメンバーになるためには、同協会のホーム・ページにアクセスしていただいて、加入(adhésion)のページから入会申込書をdownloadし、記入後僕のところにメイルするという手順が必要になります。さらに勿論会費納入をしていただきます。会費受領を確認後メンバーリストに登録され、総会などのお知らせが届くようになります。協会活動の維持、推進のために是非会員になってください。
(画像は『日本カタンガ協会』のロゴ)。
15 janvier 2011
1月14日 le vendredi 14 janvier 2011 チュニジア la Tunisie
Le vendredi 14 janvier 2011
曇。7時、22℃。湿度70%。12時、25℃、湿度65%。
マーゴちゃんが、トイレを所定の場所、チーカと同じトイレの箱の中にするようになった。トイレの箱の中に猫用の砂litièreが敷いてある。ふたりになるので、もっとしばしば砂をとりかえないといけないが、最近ここのスーパーでは品切れ。ストックしてあるものの、建築材料の砂をまた使う嵌めにならないようにしたいなぁ。
チーコが水を張ったバケツの淵にいたマーゴの耳を咥えて、ひょいとマーゴを持ち上げて安全な場所に運んでいるのを見た。マーゴが妹というよりもまるで子供でもあるかのようだ。前に、チーコちゃんを小姑と書いたが、今日は微笑ましかった。
昨年末からチュニジアが学生デモで犠牲者を出している。デモの主張は大学を出ても就職先がないというもの。チュニジアの教育水準はもともと高い。しかし、新しい産業育成をしていないから、新卒者の行き先がない。しかし、言論の自由、表現の自由は別として、チュニジアはこれまで経済的には成功してきた国である。というのも両隣の国、アルジェリアやリビアと違って原油が殆ど出ないからである。農業や漁業に限らず、繊維染色縫製などの軽工業、そして観光でチュニジアは一所懸命外貨を稼いできた。アルジェリアは1990年代にイスラム急進派のテロによって内戦化したが、チュニジアは急進派の芽を早くに摘んでしまうことで、穏健派イスラム国としてモロッコとともに西欧との距離を狭めた。
昨日のベン・アリ大統領の演説によれば、デモをした学生たちの全面勝利にみえる。民主化の約束、次回の大統領選不出馬(2014年)、多党政治等を引きだしたからである。しかし、ド・ゴールがアルジェの大衆を前に語った「君たちの言うことは分かった Je vous ai compris !」という科白(1958年)をベン・アリもまた昨日使ったが、本当に分かったのだろうか。彼の理解と学生たちの要求は食い違っているのかもしれないのだ。学生たちは「今すぐ、ベン・アリは大統領を辞めろ」といっているのではないか。
と、こう書いているうちに、ベン・アリ大統領はサウジ・アラビアに亡命してしまった。首相が臨時大統領ということらしいが、首相はベン・アリが任命された人物。民主主義的に次の大統領が選ばれるのかどうか、まだ事態は流動的といえよう。
僕はチュニジアにも何回か行っているが、個人的印象はあまりよくない。一般的にチュニジア人はお金に執着する。お金のために嘘もよくつく。観光客慣れしていて付き合いが表面的である。僕はモロッコの方を好む。モロッコ人は豊かな伝統を誇りとし、人当たりが優しく、無償の親切を心得ている。しかし、マグレブ3国で最悪はアルジェリアである。自然(山河、沙漠、地中海)が美しいだけに残念なことである。
曇。7時、22℃。湿度70%。12時、25℃、湿度65%。
マーゴちゃんが、トイレを所定の場所、チーカと同じトイレの箱の中にするようになった。トイレの箱の中に猫用の砂litièreが敷いてある。ふたりになるので、もっとしばしば砂をとりかえないといけないが、最近ここのスーパーでは品切れ。ストックしてあるものの、建築材料の砂をまた使う嵌めにならないようにしたいなぁ。
チーコが水を張ったバケツの淵にいたマーゴの耳を咥えて、ひょいとマーゴを持ち上げて安全な場所に運んでいるのを見た。マーゴが妹というよりもまるで子供でもあるかのようだ。前に、チーコちゃんを小姑と書いたが、今日は微笑ましかった。
昨年末からチュニジアが学生デモで犠牲者を出している。デモの主張は大学を出ても就職先がないというもの。チュニジアの教育水準はもともと高い。しかし、新しい産業育成をしていないから、新卒者の行き先がない。しかし、言論の自由、表現の自由は別として、チュニジアはこれまで経済的には成功してきた国である。というのも両隣の国、アルジェリアやリビアと違って原油が殆ど出ないからである。農業や漁業に限らず、繊維染色縫製などの軽工業、そして観光でチュニジアは一所懸命外貨を稼いできた。アルジェリアは1990年代にイスラム急進派のテロによって内戦化したが、チュニジアは急進派の芽を早くに摘んでしまうことで、穏健派イスラム国としてモロッコとともに西欧との距離を狭めた。
昨日のベン・アリ大統領の演説によれば、デモをした学生たちの全面勝利にみえる。民主化の約束、次回の大統領選不出馬(2014年)、多党政治等を引きだしたからである。しかし、ド・ゴールがアルジェの大衆を前に語った「君たちの言うことは分かった Je vous ai compris !」という科白(1958年)をベン・アリもまた昨日使ったが、本当に分かったのだろうか。彼の理解と学生たちの要求は食い違っているのかもしれないのだ。学生たちは「今すぐ、ベン・アリは大統領を辞めろ」といっているのではないか。
と、こう書いているうちに、ベン・アリ大統領はサウジ・アラビアに亡命してしまった。首相が臨時大統領ということらしいが、首相はベン・アリが任命された人物。民主主義的に次の大統領が選ばれるのかどうか、まだ事態は流動的といえよう。
僕はチュニジアにも何回か行っているが、個人的印象はあまりよくない。一般的にチュニジア人はお金に執着する。お金のために嘘もよくつく。観光客慣れしていて付き合いが表面的である。僕はモロッコの方を好む。モロッコ人は豊かな伝統を誇りとし、人当たりが優しく、無償の親切を心得ている。しかし、マグレブ3国で最悪はアルジェリアである。自然(山河、沙漠、地中海)が美しいだけに残念なことである。
1月13日 le jeudi 13 janvier 2011 寒暖計 thermomètre
Le jeudi 13 janvier 2011
曇時々雨。
シスター・アスンタ・佐野さんが昨日コンゴに帰ってきた。5ヶ月ぶり。ご母堂は昨年11月に100歳を迎えられたが、誕生日の3日後に天に召された・
アスンタさんに寒暖計をいただいた。メーカーはクレセルCrecer。日本製。単純な赤いアルコールか水銀の寒暖計でよかったが、むしろそうしたクラシックな寒暖計を見つけるほうが苦労かもしれない。
ルブンバシで寒暖計をさがしたのだが、見つからなかったのだ。気温が気になるのは日本人だけとは思えないのだが、コンゴ人と具体的温度について話したことがない。「暑いね」とか「涼しいね」というにとどまる。
曇時々雨。
シスター・アスンタ・佐野さんが昨日コンゴに帰ってきた。5ヶ月ぶり。ご母堂は昨年11月に100歳を迎えられたが、誕生日の3日後に天に召された・
アスンタさんに寒暖計をいただいた。メーカーはクレセルCrecer。日本製。単純な赤いアルコールか水銀の寒暖計でよかったが、むしろそうしたクラシックな寒暖計を見つけるほうが苦労かもしれない。
ルブンバシで寒暖計をさがしたのだが、見つからなかったのだ。気温が気になるのは日本人だけとは思えないのだが、コンゴ人と具体的温度について話したことがない。「暑いね」とか「涼しいね」というにとどまる。
アスンタさん、可愛い温度湿度計ありがとうございました。
10mmの鉄筋3本を購入。長さ6mなので、折り曲げてピックアップの荷台に積んだ。家の塀の補強のための鉄筋である。
14時帰宅、サロンの温度をみた。ちょっと肌寒いなというのに26℃ある。21時で24℃。
またまた中国である。中国の副首相の一人Hui Liangyuがキンシャサに来た。いつも只ではない。800万ドルが無償供与された。副首相はモリス(英:モリシャス)、ザンビアからRDCコンゴに入り、これからカメルーン、セネガルに立ち寄るのだそうである。中国は絶え間なくアフリカにミッションを送り、その関係をメンテしている。日本にはそうした戦略的外交がない。行き当たりばったりである。
Don de près de 8 M USD de la Chine à la RDC "sans contre-partie"
KINSHASA - La Chine a accordé à la République démocratique du Congo (RDC) un don de près de 8 millions de dollars US, "sans contre-partie", a-t-on appris mercredi de source officielle congolaise.
La RDC et la Chine ont signé "deux protocoles d'accord dont l'un porte sur un don de 50 millions de yuan (environ 7,6 M USD) sans contre-partie (et l'autre sur) les équipements et matériaux médicaux", indique un communiqué des services du Premier ministre
congolais transmis à l'AFP.
La signature de cet accord intervient lors du séjour à Kinshasa, depuis mardi, d'un des vice-Premier ministre chinois, Hui Liangyu, qui effectue une tournée africaine.
L'Etat congolais a signé en 2007 un contrat (controversé et révisé plus tard) avec trois entreprises chinoises, qui prévoyait un prêt chinois d'environ 6 milliards de dollars à la RDC, partiellement remboursable en titre minier.
L'accord comprend la réhabilitation ou la construction de plus de 6.000 km de routes, plus de 3.000 km de voies de chemin de fer, deux barrages, des hôpitaux, logements et écoles à travers le pays, ravagé par des années de guerre.
Après Maurice, la Zambie et la RDC, le vice-premier ministre chinois doit poursuivre sa tournée africaine au Cameroun et au Sénégal, où il doit l'achever le 19 janvier.
10mmの鉄筋3本を購入。長さ6mなので、折り曲げてピックアップの荷台に積んだ。家の塀の補強のための鉄筋である。
14時帰宅、サロンの温度をみた。ちょっと肌寒いなというのに26℃ある。21時で24℃。
またまた中国である。中国の副首相の一人Hui Liangyuがキンシャサに来た。いつも只ではない。800万ドルが無償供与された。副首相はモリス(英:モリシャス)、ザンビアからRDCコンゴに入り、これからカメルーン、セネガルに立ち寄るのだそうである。中国は絶え間なくアフリカにミッションを送り、その関係をメンテしている。日本にはそうした戦略的外交がない。行き当たりばったりである。
Don de près de 8 M USD de la Chine à la RDC "sans contre-partie"
KINSHASA - La Chine a accordé à la République démocratique du Congo (RDC) un don de près de 8 millions de dollars US, "sans contre-partie", a-t-on appris mercredi de source officielle congolaise.
La RDC et la Chine ont signé "deux protocoles d'accord dont l'un porte sur un don de 50 millions de yuan (environ 7,6 M USD) sans contre-partie (et l'autre sur) les équipements et matériaux médicaux", indique un communiqué des services du Premier ministre
congolais transmis à l'AFP.
La signature de cet accord intervient lors du séjour à Kinshasa, depuis mardi, d'un des vice-Premier ministre chinois, Hui Liangyu, qui effectue une tournée africaine.
L'Etat congolais a signé en 2007 un contrat (controversé et révisé plus tard) avec trois entreprises chinoises, qui prévoyait un prêt chinois d'environ 6 milliards de dollars à la RDC, partiellement remboursable en titre minier.
L'accord comprend la réhabilitation ou la construction de plus de 6.000 km de routes, plus de 3.000 km de voies de chemin de fer, deux barrages, des hôpitaux, logements et écoles à travers le pays, ravagé par des années de guerre.
Après Maurice, la Zambie et la RDC, le vice-premier ministre chinois doit poursuivre sa tournée africaine au Cameroun et au Sénégal, où il doit l'achever le 19 janvier.
14 janvier 2011
1月12日le mercredi 12 janvier 2011 在RDC新任中国大使 nouvel ambassadeur de la Chine en RDC
Le mercredi 12 janvier 2011
雨のち曇。しかし一度も日が射さず。
初めてガレージに車をいれてみた。やはり庭の通路に置いておくよりも収まりがいい。
豚肉料理をネットで調べていたら、「スペアリブのコーラ煮¥というのがあった。なんだって、コーラで煮てしまう? 試しに作ってみることにした。いろいろ考えるもんだなぁ、料理研究家って。さて、結果はというと、大したことはなかった。豚肉は角煮にせよ、酢豚にせよ、甘辛くする例が多い。コーラで煮てもコーラの甘さが残るという程度で革命的な料理ではなかった。
昨日キプシの町でピーナツを買ったら生だった。煎らないといけない。どのくらい煎ったらいいのか分からない。そのうち焦がしてしまった。でもなんとか煎ったピーナツになったようなので、ビスケットの空き缶にいれた。
新しい中国大使が赴任した。Wang Yingwu氏。月曜日に信任状をカビラ大統領に提出し、直ぐに大統領に面談している。
Le nouvel ambassadeur de Chine en RDC présente ses lettres de créance
Wang Yingwu, nouvel ambassadeur de la Chine en République démocratique du Congo (RDC), a présenté lundi ses lettres de créances au président congolais Joseph Kabila, a appris Xinhua de source officielle.
A l'issue d'une audience avec le président congolais, le diplomate chinois a indiqué que le peuple congolais avait fait beaucoup d'efforts pour la paix et la reconstruction du pays et que la Chine souhaitait de plus grands achèvements en RDC.
Faisant l'éloge de l'amitié et de la coopération entre la Chine et la RDC, le nouvel ambassadeur chinois a exprimé que la Chine est prête de faire plus d'efforts avec la RDC pour renforcer et approfondir les liens entre les deux pays. Le président Kabila a indiqué à cette occasion que la RDC se trouve dans une période importante avec les élections présidentielles, législatives et locales. Selon lui, la Chine est un partenaire crédible pour la RDC, la coopération gagnant-gagnant entre les deux pays était très fructueuse et elle va sûrement connaître encore plus de succès.
"Je voudrais consolider et développer encore ces relations dans tous les domaines avec nos amis du peuple chinois", a conclu le président congolais.
Source: xinhua
雨のち曇。しかし一度も日が射さず。
初めてガレージに車をいれてみた。やはり庭の通路に置いておくよりも収まりがいい。
豚肉料理をネットで調べていたら、「スペアリブのコーラ煮¥というのがあった。なんだって、コーラで煮てしまう? 試しに作ってみることにした。いろいろ考えるもんだなぁ、料理研究家って。さて、結果はというと、大したことはなかった。豚肉は角煮にせよ、酢豚にせよ、甘辛くする例が多い。コーラで煮てもコーラの甘さが残るという程度で革命的な料理ではなかった。
昨日キプシの町でピーナツを買ったら生だった。煎らないといけない。どのくらい煎ったらいいのか分からない。そのうち焦がしてしまった。でもなんとか煎ったピーナツになったようなので、ビスケットの空き缶にいれた。
新しい中国大使が赴任した。Wang Yingwu氏。月曜日に信任状をカビラ大統領に提出し、直ぐに大統領に面談している。
Le nouvel ambassadeur de Chine en RDC présente ses lettres de créance
Wang Yingwu, nouvel ambassadeur de la Chine en République démocratique du Congo (RDC), a présenté lundi ses lettres de créances au président congolais Joseph Kabila, a appris Xinhua de source officielle.
A l'issue d'une audience avec le président congolais, le diplomate chinois a indiqué que le peuple congolais avait fait beaucoup d'efforts pour la paix et la reconstruction du pays et que la Chine souhaitait de plus grands achèvements en RDC.
Faisant l'éloge de l'amitié et de la coopération entre la Chine et la RDC, le nouvel ambassadeur chinois a exprimé que la Chine est prête de faire plus d'efforts avec la RDC pour renforcer et approfondir les liens entre les deux pays. Le président Kabila a indiqué à cette occasion que la RDC se trouve dans une période importante avec les élections présidentielles, législatives et locales. Selon lui, la Chine est un partenaire crédible pour la RDC, la coopération gagnant-gagnant entre les deux pays était très fructueuse et elle va sûrement connaître encore plus de succès.
"Je voudrais consolider et développer encore ces relations dans tous les domaines avec nos amis du peuple chinois", a conclu le président congolais.
Source: xinhua
12 janvier 2011
1月11日 le mardi 11 janvier 2011 ヴェイエルガンス François Weyergans
Le mardi 11 janvier 2011
曇
隣家との壁の修繕に職人が来たが、こんな壁に2日かかる、砂は1.5M3必要だ、しかも手間賃が50ドルだというので追い返した。50ドルが簡単に25まで下がっても同じことだ。10ドルだって払いすぎと思われる。外国人とみるとなんでもふっかける根性は許せない。
ルブンバシのインド・パキスタン系スーパー「ジャンボ」にうどんと日本蕎麦が置いてあった。250g、380円。果たして本当に日本蕎麦なのかどうかはわからない。寿司米も、海苔もあった。驚きである。日本からの輸入ではない。英国の商社のブランドになっている。ここに日本人は3人しかいないのだから、日本人向けに輸入したとも思えない。
CCFで新しく本を借りた。今度はアフリカではなくベルギー人作家である。ヴェイエルガンス François Weyergans(1941年生まれ)。ベルギーがコンゴの宗主国であったというだけで、作品もアフリカには関係なさそうだ。2005年のゴンクール賞を得た『Trois jours chez ma mère 母の家での3日間』という作品。ヴェイエルガンスは2009年フランス学士院会員に選ばれている。ゴンクールは新人賞だと思ったけれど、遅い受賞もあるものだ。Weyergansの出発は映画監督であったけれども、小説を既に1973年から書き始めている。既に2005年時点で30年以上小説家でもあるわけだから。
曇
隣家との壁の修繕に職人が来たが、こんな壁に2日かかる、砂は1.5M3必要だ、しかも手間賃が50ドルだというので追い返した。50ドルが簡単に25まで下がっても同じことだ。10ドルだって払いすぎと思われる。外国人とみるとなんでもふっかける根性は許せない。
ルブンバシのインド・パキスタン系スーパー「ジャンボ」にうどんと日本蕎麦が置いてあった。250g、380円。果たして本当に日本蕎麦なのかどうかはわからない。寿司米も、海苔もあった。驚きである。日本からの輸入ではない。英国の商社のブランドになっている。ここに日本人は3人しかいないのだから、日本人向けに輸入したとも思えない。
CCFで新しく本を借りた。今度はアフリカではなくベルギー人作家である。ヴェイエルガンス François Weyergans(1941年生まれ)。ベルギーがコンゴの宗主国であったというだけで、作品もアフリカには関係なさそうだ。2005年のゴンクール賞を得た『Trois jours chez ma mère 母の家での3日間』という作品。ヴェイエルガンスは2009年フランス学士院会員に選ばれている。ゴンクールは新人賞だと思ったけれど、遅い受賞もあるものだ。Weyergansの出発は映画監督であったけれども、小説を既に1973年から書き始めている。既に2005年時点で30年以上小説家でもあるわけだから。
1月10日 le lundi 10 janvier 2011 『黒い沖仲仕』 «le docker noir»
Le lundi 10 janvier 2011
快晴。
隣の学校が始まった。クリスマスから年末年始は休校だった。冬休みだが、ここには冬がない。13時ごろまで、授業の間、休憩時間、子供たちが騒ぎ回るし、紙くずを僕の庭まで投げ捨てて汚しまくる。読み書きは習ってもゴミを捨てない散らかさないということは習わないようだ。もっとも、先生たちが第一そういう教育を受けていないからゴミがなくなる見込みはない。
セネガルの作家サンベーヌOusmane Sembène『le docker noir黒い沖仲仕』を読み終えた。219ページ。舞台は1950年代のマルセイユ。主人公ディアウ・ファラDiaw Fallaはセネガル出身で日雇いの沖仲仕をして生計をたてている青年。いつか作家になることを夢見てせっせと作品を書いている。パリの若い女流作家に騙され、彼女をあやまって殺してしまう。アフリカ諸国が独立前の時代、黒人が「黒ん坊nègre」と蔑称された時代である。
日本でいうと横浜の寿町のようなマルセイユの一角に主人公は住んでいる。戦後また高度成長期の港湾労働者の生活は日本もフランスも変わらない。しかし、フランスの場合、マグレブのアラブ人を初めアフリカ黒人が重労働である港湾荷役労働を支えていた。
作品は殺人事件は別として作家サンベーヌの自伝といえよう。読み応えのある作品であった。しかし、彼の教養あるフランス語は当時の一般のセネガル人には読み辛かったに違いない。そこでサンベーヌは、文字を介さない映画を撮ることにした。モスクワに行って映画を学び、映画監督としても大成する。映画のプレゼンテイションで来日もしている。
(画像はサンベーヌの若いころだが、パイプは彼のトレード・マークで、パイプを銜えている写真が多い。1923-2007、享年84歳)。
快晴。
隣の学校が始まった。クリスマスから年末年始は休校だった。冬休みだが、ここには冬がない。13時ごろまで、授業の間、休憩時間、子供たちが騒ぎ回るし、紙くずを僕の庭まで投げ捨てて汚しまくる。読み書きは習ってもゴミを捨てない散らかさないということは習わないようだ。もっとも、先生たちが第一そういう教育を受けていないからゴミがなくなる見込みはない。
セネガルの作家サンベーヌOusmane Sembène『le docker noir黒い沖仲仕』を読み終えた。219ページ。舞台は1950年代のマルセイユ。主人公ディアウ・ファラDiaw Fallaはセネガル出身で日雇いの沖仲仕をして生計をたてている青年。いつか作家になることを夢見てせっせと作品を書いている。パリの若い女流作家に騙され、彼女をあやまって殺してしまう。アフリカ諸国が独立前の時代、黒人が「黒ん坊nègre」と蔑称された時代である。
日本でいうと横浜の寿町のようなマルセイユの一角に主人公は住んでいる。戦後また高度成長期の港湾労働者の生活は日本もフランスも変わらない。しかし、フランスの場合、マグレブのアラブ人を初めアフリカ黒人が重労働である港湾荷役労働を支えていた。
作品は殺人事件は別として作家サンベーヌの自伝といえよう。読み応えのある作品であった。しかし、彼の教養あるフランス語は当時の一般のセネガル人には読み辛かったに違いない。そこでサンベーヌは、文字を介さない映画を撮ることにした。モスクワに行って映画を学び、映画監督としても大成する。映画のプレゼンテイションで来日もしている。
(画像はサンベーヌの若いころだが、パイプは彼のトレード・マークで、パイプを銜えている写真が多い。1923-2007、享年84歳)。
1月9日 le dimanche 9 janvier 2011 南スーダン Sud-Soudan
Le dimanche 9 janvier 2011
曇。昼ごろから快晴。
チーコちゃんがまるで小姑よろしく、マーゴちゃんのあとを一日中追い回してはちょっかいをだしている。マーゴはマーゴでひるむことなく、チーコの尻尾を噛んだりする。
新しく来たマーゴを可愛がるとチーコが嫉妬しそうだから、「チーコ、チーコ」と先ずはチーコを立てるのである。
マーゴはトイレを知らないようだ。スイス生まれのチカちゃん、ルブンバシはサレジア会生まれのチーコちゃんは、家に来たその日から既にトイレを知っていた。マーゴは育ちが悪そうだ。これから躾けなければいけない。
庭の芝を刈るから枯れ草がたまる。それと家のゴミを混ぜて燃やしてしまう。焚き火。プラスチックも燃してしまう。ダイオキシン。プラスチックを燃やさないときに焼き芋でもしてみよう。サツマイモがこの国にもあることは既に書いた。
南スーダンをおそらくは分離独立させる国民投票が今日から始まった。RDCコンゴはスーダンとも国境を接している。オリエンタル州(州都キサンガニKisangani)の北部国境である。オリエンタル州はコンゴでもっとも広い州で、熱帯雨林がその半分をしてているが、北部でウガンダ、スーダン、中央アフリカ共和国と接している。
スーダンはエジプトとともにナイル河に沿った古い文明が栄えた国である。紀元前2500年のケルマ王朝から始まる。しかし、エジプトと同様英国に植民地化されて近代を迎えることになる。農業と遊牧が中心だったが、南スーダンで天然ガスと原油が開発されだした。これは大きな経済格差を南北間に生む。北のイスラムに対して南のコプト(原始キリスト教)の対立もある。果たして平和裏に独立できるのだろうか。カタンガ州とさほど変わらない国土(従って日本より大きい国土面積)にスイスほどの人口しかない。巧みな外交を含めたガヴァナンスがしっかりしないと忽ち隣国に飲み込まれそうである。
コンゴのカタンガ州はRDCコンゴが独立してまもなくコンゴから分離独立したことがある。この独立は1963年1月まで続いた。南スーダンの独立に注目する所以である。カタンガ州は独立を続けていれば、おそらく今時は南アを凌ぐ先進国になっていたであろう。
曇。昼ごろから快晴。
チーコちゃんがまるで小姑よろしく、マーゴちゃんのあとを一日中追い回してはちょっかいをだしている。マーゴはマーゴでひるむことなく、チーコの尻尾を噛んだりする。
新しく来たマーゴを可愛がるとチーコが嫉妬しそうだから、「チーコ、チーコ」と先ずはチーコを立てるのである。
マーゴはトイレを知らないようだ。スイス生まれのチカちゃん、ルブンバシはサレジア会生まれのチーコちゃんは、家に来たその日から既にトイレを知っていた。マーゴは育ちが悪そうだ。これから躾けなければいけない。
庭の芝を刈るから枯れ草がたまる。それと家のゴミを混ぜて燃やしてしまう。焚き火。プラスチックも燃してしまう。ダイオキシン。プラスチックを燃やさないときに焼き芋でもしてみよう。サツマイモがこの国にもあることは既に書いた。
南スーダンをおそらくは分離独立させる国民投票が今日から始まった。RDCコンゴはスーダンとも国境を接している。オリエンタル州(州都キサンガニKisangani)の北部国境である。オリエンタル州はコンゴでもっとも広い州で、熱帯雨林がその半分をしてているが、北部でウガンダ、スーダン、中央アフリカ共和国と接している。
スーダンはエジプトとともにナイル河に沿った古い文明が栄えた国である。紀元前2500年のケルマ王朝から始まる。しかし、エジプトと同様英国に植民地化されて近代を迎えることになる。農業と遊牧が中心だったが、南スーダンで天然ガスと原油が開発されだした。これは大きな経済格差を南北間に生む。北のイスラムに対して南のコプト(原始キリスト教)の対立もある。果たして平和裏に独立できるのだろうか。カタンガ州とさほど変わらない国土(従って日本より大きい国土面積)にスイスほどの人口しかない。巧みな外交を含めたガヴァナンスがしっかりしないと忽ち隣国に飲み込まれそうである。
コンゴのカタンガ州はRDCコンゴが独立してまもなくコンゴから分離独立したことがある。この独立は1963年1月まで続いた。南スーダンの独立に注目する所以である。カタンガ州は独立を続けていれば、おそらく今時は南アを凌ぐ先進国になっていたであろう。
1月8日 le samedi 8 janvier 2011 コート・ジボワール Côte d'Ivoire
Le samedi 8 janvier 2011
朝、曇。日中晴れ。
マーゴちゃんはチーコちゃんにも益してきかん坊のようだ。マーゴに歯をむかれるとチーコがたじろぐ。チーコのお皿に首を突っ込んでいち早くマーゴが食べてしまう。生まれてからの生存競争がマーゴは激しかったのかもしれない。チーコは呆れてみているばかり。
僕が家の中を歩くとマーゴが脚にからみついてくる。それをチーコが追いかける。チーコは大きいので大丈夫だが、マーゴは踏んづけそうになる。
コート・ジボワールの二人の大統領問題はまだ解決しない。しかし、四面楚歌にみえるバグボLaurent Gbagboが何故大統領としてアビジャンの大統領府を占拠していられるのだろうか。そこにはアビジャン市民の意思が働いているといえる。バグボはアビジャンやコート・ジボワール南部に支持者が多く、選挙結果でもウアタラAlassane Ouattaraを圧倒的に抑えているのである。ウアタラはイスラム系であり北部に支持者が集中している。全国的に支持されているわけではないのである。ウアタラが選んだ首相ソロGuillaume Soroはクリスチャンだけれども北部出身で元反乱軍のトップであった。バグボ大統領の下で首相を務めていた。ということは改選前のバグボ政権はいわば挙国一致であった。今回のウアタラは北部偏重。こう考えると、「バグボ、出て行け!」だけでは問題は解決しそうもない。多数決原理でウアタラが過半数を占めたのだから、新大統領になるのは当然だ。しかし、バグボも45%の票を獲得しているのである。米国の共和党と民主党の争う選挙とは違う。南北という地域がからむ。イスラムとキリスト教という宗教がからむ。国を2分しないためにはバグボ本人を副大統領にするか、バグボ陣営からの人事も考慮しなければならない。そうしないとまた内戦は避けられない。
朝、曇。日中晴れ。
マーゴちゃんはチーコちゃんにも益してきかん坊のようだ。マーゴに歯をむかれるとチーコがたじろぐ。チーコのお皿に首を突っ込んでいち早くマーゴが食べてしまう。生まれてからの生存競争がマーゴは激しかったのかもしれない。チーコは呆れてみているばかり。
僕が家の中を歩くとマーゴが脚にからみついてくる。それをチーコが追いかける。チーコは大きいので大丈夫だが、マーゴは踏んづけそうになる。
コート・ジボワールの二人の大統領問題はまだ解決しない。しかし、四面楚歌にみえるバグボLaurent Gbagboが何故大統領としてアビジャンの大統領府を占拠していられるのだろうか。そこにはアビジャン市民の意思が働いているといえる。バグボはアビジャンやコート・ジボワール南部に支持者が多く、選挙結果でもウアタラAlassane Ouattaraを圧倒的に抑えているのである。ウアタラはイスラム系であり北部に支持者が集中している。全国的に支持されているわけではないのである。ウアタラが選んだ首相ソロGuillaume Soroはクリスチャンだけれども北部出身で元反乱軍のトップであった。バグボ大統領の下で首相を務めていた。ということは改選前のバグボ政権はいわば挙国一致であった。今回のウアタラは北部偏重。こう考えると、「バグボ、出て行け!」だけでは問題は解決しそうもない。多数決原理でウアタラが過半数を占めたのだから、新大統領になるのは当然だ。しかし、バグボも45%の票を獲得しているのである。米国の共和党と民主党の争う選挙とは違う。南北という地域がからむ。イスラムとキリスト教という宗教がからむ。国を2分しないためにはバグボ本人を副大統領にするか、バグボ陣営からの人事も考慮しなければならない。そうしないとまた内戦は避けられない。
08 janvier 2011
1月7日 le vendredi 7 janvier 2011 ダイヤモンド・キンバリー・プロセス processus de Kimberley
Le vendredi 7 janvier 2011
曇。
仔猫の名前をマーゴとした。昨日、家に来たのを記念してマーゴとする。1月6日はスペイン語圏では大切な祭の日である。Los tres Reyes Magosの日である。3人の王様(バルタザール、ガスパール。メルチョール)がイエスの誕生を祝ってベツレヘムにやってきた日にあたる。マーゴには「オズの魔法使い」Mago de Ozなどの使い方もあるが、魔法使いでも意地悪な魔法使いではないからいいだろう。では、マーゴちゃん、ようこそ我が家に!
ダイヤモンドの輸出入取引認証システムKimberley Processが2003年1月1日に発足している。紛争ダイアモンドの取引規制システムである。RDCコンゴもメンバーであり、今年は議長国でもある。ダイアモンドに限らないが、鉱物資源のトレーサビリティーが求められている。このトレーサビリティーを受け入れることによって、RDCコンゴは、非政府軍の資金源を断つことができるし、第一税収があがるのである。RDCにあって認証システムを具体的に担っているのは、希少メタルの輸出許可証発行機関である国立ラボCEECである。しかし、ダイヤモンド個人採掘権登録、ディーラ登録制度は法律が2002年にできてるが
RDCコンゴは世界の8%のダイヤモンドを産する。
La traçabilité du diamant brut permet à la RDC de réaliser la performance des recettes à l’exportation
Article | January 7, 2011 | By Toma
La traçabilité du diamant brut a permis à la République Démocratique du Congo de réaliser la performance de ses recettes à l’exportation qui sont passées de 300 millions à 890 millions de dollars américains au cours des exercices passés. Le président du processus de Kimberley pour l’exercice 2011, Matthieu Yamba Lapfa Lambang l’a révélé jeudi à l’occasion de la conférence de presse marquant le début du mandat de la RDC à la présidence de Kimberley.
Au cours de cet exercice, la RDC entend amorcer des actions concrètes pour renforcer ses contrôles internes notamment la délimitation de nouvelles zones d’exploitation artisanale, l’enregistrement et le recensement des exploitants artisanaux. Il s’agit également de l’élaboration du foot printing du diamant congolais, du renforcement des capacités des exploitants artisanaux et des négociants ainsi que de l’harmonisation des statistiques du diamant congolais.
Par ailleurs, le président Yamba a reconnu que l’immensité des actions à entreprendre au cours de l’exercice 2011 contraste avec la durée du mandat fixé à un an soit du 1er janvier au 31 décembre. A cet effet, il en a appelé au gouvernement et aux différents partenaires de mettre à la disposition du processus de Kimberley des moyens nécessaires pour la réalisation de ses objectifs. A noter que le gouvernement par le canal du ministère des Mines, a réglementé l’activité d’exploitation artisanale et de négociant par l’obtention de la carte d’exploitation ou de vente du diamant auprès des personnes physiques ou morales agréés.
Au comptoir d’achat et de vente de diamant artisanal, de n’exporter que le diamant acheté après avoir obtenu un certificat du processus de Kimberley délivré par les autorités de certification. Le processus de Kimberley a été créé le 05 novembre 2002 afin de trouver une solution au problème international des diamants de la guerre. Il compte 49 participants représentant 75 pays qui ont estimé que la meilleure façon d’enrayer le rôle des diamants de la guerre dans le financement des conflits armés est l’adoption d’un système de certification des diamants bruts afin d’exclure les diamants de la guerre du commerce.
ACP/Fédé/AIFO.
曇。
仔猫の名前をマーゴとした。昨日、家に来たのを記念してマーゴとする。1月6日はスペイン語圏では大切な祭の日である。Los tres Reyes Magosの日である。3人の王様(バルタザール、ガスパール。メルチョール)がイエスの誕生を祝ってベツレヘムにやってきた日にあたる。マーゴには「オズの魔法使い」Mago de Ozなどの使い方もあるが、魔法使いでも意地悪な魔法使いではないからいいだろう。では、マーゴちゃん、ようこそ我が家に!
ダイヤモンドの輸出入取引認証システムKimberley Processが2003年1月1日に発足している。紛争ダイアモンドの取引規制システムである。RDCコンゴもメンバーであり、今年は議長国でもある。ダイアモンドに限らないが、鉱物資源のトレーサビリティーが求められている。このトレーサビリティーを受け入れることによって、RDCコンゴは、非政府軍の資金源を断つことができるし、第一税収があがるのである。RDCにあって認証システムを具体的に担っているのは、希少メタルの輸出許可証発行機関である国立ラボCEECである。しかし、ダイヤモンド個人採掘権登録、ディーラ登録制度は法律が2002年にできてるが
RDCコンゴは世界の8%のダイヤモンドを産する。
La traçabilité du diamant brut permet à la RDC de réaliser la performance des recettes à l’exportation
Article | January 7, 2011 | By Toma
La traçabilité du diamant brut a permis à la République Démocratique du Congo de réaliser la performance de ses recettes à l’exportation qui sont passées de 300 millions à 890 millions de dollars américains au cours des exercices passés. Le président du processus de Kimberley pour l’exercice 2011, Matthieu Yamba Lapfa Lambang l’a révélé jeudi à l’occasion de la conférence de presse marquant le début du mandat de la RDC à la présidence de Kimberley.
Au cours de cet exercice, la RDC entend amorcer des actions concrètes pour renforcer ses contrôles internes notamment la délimitation de nouvelles zones d’exploitation artisanale, l’enregistrement et le recensement des exploitants artisanaux. Il s’agit également de l’élaboration du foot printing du diamant congolais, du renforcement des capacités des exploitants artisanaux et des négociants ainsi que de l’harmonisation des statistiques du diamant congolais.
Par ailleurs, le président Yamba a reconnu que l’immensité des actions à entreprendre au cours de l’exercice 2011 contraste avec la durée du mandat fixé à un an soit du 1er janvier au 31 décembre. A cet effet, il en a appelé au gouvernement et aux différents partenaires de mettre à la disposition du processus de Kimberley des moyens nécessaires pour la réalisation de ses objectifs. A noter que le gouvernement par le canal du ministère des Mines, a réglementé l’activité d’exploitation artisanale et de négociant par l’obtention de la carte d’exploitation ou de vente du diamant auprès des personnes physiques ou morales agréés.
Au comptoir d’achat et de vente de diamant artisanal, de n’exporter que le diamant acheté après avoir obtenu un certificat du processus de Kimberley délivré par les autorités de certification. Le processus de Kimberley a été créé le 05 novembre 2002 afin de trouver une solution au problème international des diamants de la guerre. Il compte 49 participants représentant 75 pays qui ont estimé que la meilleure façon d’enrayer le rôle des diamants de la guerre dans le financement des conflits armés est l’adoption d’un système de certification des diamants bruts afin d’exclure les diamants de la guerre du commerce.
ACP/Fédé/AIFO.
07 janvier 2011
1月6日 le jeudi 6 janvier 2011 無能な日本大使館 ambassade incompétent du Japon
Le jeudi 6 janvier 2011
雨。
せっかく車を昨日洗ったというのに雨。キプシ街道で汚れるだろうなぁ。
車のバッテリーが上がっていた。昨日車内も掃除したときにキーを差し込んだままに忘れてしまったからだ。バッテリーの消費量が少ないから大丈夫かと思ったらエンジンがかからなかった。庭が下り坂になっているので、それを利用して発進しようとしたが上手くいかなかった。アンドレが家からバッテリーをもってきて、トラック用なので120Aありそれをケーブルで繋いで無事エンジンがかかった。9時半から11時半までかかった。
雨。
せっかく車を昨日洗ったというのに雨。キプシ街道で汚れるだろうなぁ。
車のバッテリーが上がっていた。昨日車内も掃除したときにキーを差し込んだままに忘れてしまったからだ。バッテリーの消費量が少ないから大丈夫かと思ったらエンジンがかからなかった。庭が下り坂になっているので、それを利用して発進しようとしたが上手くいかなかった。アンドレが家からバッテリーをもってきて、トラック用なので120Aありそれをケーブルで繋いで無事エンジンがかかった。9時半から11時半までかかった。
隣家とのレンガの塀が崩落した。雨で地盤が緩んだのだろう、前から傾いていたのは知っていたが、数メートルに渡って壁が崩れた。レンガを繋いだセメントの質も問題がありそうだ。一日も早く修理したいが、レンガの塀を建てたのは隣家だ。しかし、誰が払うかなんて交渉している暇はない。マドンナが越境してまたレンガを投げられるかもしれない。
チーコの妹を貰ってきた。チーコちゃんに弟か妹がいてもいいだろうと思っていたのだ。ベルギー系スーパーMegaStoreで精肉を買っていたときに、掲示板で「仔猫あげます」の広告をみつけた。電話をしてから仔猫を見に行った。仔猫がまだたくさんいた。なかで一番小っちゃい子、グレーの子を選んだ。本当は真っ黒な猫ちゃんが欲しかったのだけれど親が
白いし、仔猫に真っ黒はいなかった。致し方ない。
家でチーコちゃんとご対面。「君の妹だよ」と紹介したが、不思議そうに仔猫をみるばかり、仔猫に比べれば、何と大きなチーコちゃん。どう扱っていいか考えあぐねている様子。突然妹などといわれてもね、でも、優しくしてやってちょうだいな。
チーコが去年前の家に来たときはもっと小さかったかもしれない。
家でチーコちゃんとご対面。「君の妹だよ」と紹介したが、不思議そうに仔猫をみるばかり、仔猫に比べれば、何と大きなチーコちゃん。どう扱っていいか考えあぐねている様子。突然妹などといわれてもね、でも、優しくしてやってちょうだいな。
チーコが去年前の家に来たときはもっと小さかったかもしれない。
外務省の「海外安全ホームページ」を久しぶりにみた。RDCコンゴについての記述は全く1年前と変わっていない。キンシャサにある日本大使館は何をしているのだろう。わがカタンガ州、北部とは一体何処を
さすのか。東北部のKalemie市? それともKongolo市? あるいはタンガニーカ県全体をさして「退避勧告」をするって!何時の情報だ。 常識がない。我々は2011年1月の情報が必要なのだ。新聞情報か、国連のオカピ放送の情報? 冗談も休み休み言って欲しいね、外務省さん、大使館さん、北澤寛治大使閣下よ。
カタンガ州一般にしてもルブンバシ市を除いて「渡航の延期をお勧めします」。馬鹿言っちゃいかんよ。僕のいるキプシ市(ルブンバシ市から南東に30km)には来るなってことか。鉱山のLikashi市、Kolwezi市、昔日本が進出していたMusoshi町、みんな行くなってことだ。僕は、日本の方々に危険を覚悟で来て欲しいといっているのではない。カタンガ州は安全なのだ。外務省のぐうたら役人が、いい加減な情報を流して責任をとらない。国民の貴重な税金で海外に勤務しているというのに、自分の目でみた情報を日本に送らない大使、見ていないから情報を送れない大使、だったらもうお辞めになったら如何か。民間会社からでた松山ボツワナ大使は赴任国だけでなく近隣諸国も飛び回っている。これが当たり前の姿なのだ。
以下が外務省の「海外安全ホームページ」からの引用である。
quote
コンゴ民主共和国に対する渡航情報(危険情報)の発出(2009/02/09)
●南キブ州、北キブ州、オリエンタル州(キサンガニ市を除く)、マニエ
マ州(キンドゥ市を除く)及びカタンガ州北部
:「 退避を勧告 します。渡航は延期してください。」(継続)
●キンシャサ特別州(首都キンシャサ市を含む)、赤道州(ムバンダカ市
を除く)、カサイ・オリエンタル州(ムブジマイ市を除く)、カサイ・
オクシデンタル州(カナンガ市を除く)、カタンガ州南部(ルブンバシ
市を除く)、バンドゥンドゥ州(バンドゥンドゥ市及びキクウィット市
を除く)、キサンガニ市及びキンドゥ市
:「渡航の延期をお勧めします。」(継続)
●バ・コンゴ州、ムバンダカ市、ムブジマイ市、カナンガ市、ルブンバシ
市、バンドゥンドゥ市及びキクウィット市
:「渡航の是非を検討してください。」(継続)
Unquote
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コンゴ民主共和国に対する渡航情報(危険情報)の発出(2009/02/09)
●南キブ州、北キブ州、オリエンタル州(キサンガニ市を除く)、マニエ
マ州(キンドゥ市を除く)及びカタンガ州北部
:「 退避を勧告 します。渡航は延期してください。」(継続)
●キンシャサ特別州(首都キンシャサ市を含む)、赤道州(ムバンダカ市
を除く)、カサイ・オリエンタル州(ムブジマイ市を除く)、カサイ・
オクシデンタル州(カナンガ市を除く)、カタンガ州南部(ルブンバシ
市を除く)、バンドゥンドゥ州(バンドゥンドゥ市及びキクウィット市
を除く)、キサンガニ市及びキンドゥ市
:「渡航の延期をお勧めします。」(継続)
●バ・コンゴ州、ムバンダカ市、ムブジマイ市、カナンガ市、ルブンバシ
市、バンドゥンドゥ市及びキクウィット市
:「渡航の是非を検討してください。」(継続)
Unquote
1月5日 le mercredi 5 janvier 2011 DRCongo大使館閉鎖 rationalisation des ambassades de la RDC
Le mercredi 5 janvier 201
晴。
車を洗った。自分で洗うのは久しぶり。雨季でキプシ街道の泥水の中を通るので洗ってもまた同じことになると汚れたまま放置しておいた。だが、いかにも汚い。それに昼間は雨が降らないことが多いから汚い車は目立つ。ルブンバシではあまり汚れた車をみないのだ。みんなよく洗車してある。
僕の車は至る所傷だらけだ。一年間で28 000 km走った。とんでもない悪路(カソメノ=キルワ街道)も走ったし、ダル・エス・サラムまでの往復、ヴィクトリア瀑布往復も走っている。マドンナ同様傷だらけだけど頑張ってくれた三菱L200である。今年はアンゴラ国境やブカマ(北部内陸)を予定している。まだまだこのピックアップには活躍してもらわなければいけない。
16時15分。マドンナにやるために鶏肉の骨を抜く作業をしているところで停電。17時10分回復。夕飯の準備に間に合った。
チェコ(首都プラハ)のRDC大使館を閉鎖する。外交問題があるわけではない。経済的理由だ。チェコはベルリンの管轄下にはいる。同様にポーランド(首都ワルシャワ)のRDCコンゴ大使館も閉鎖しベルリンがカヴァーする。
在東京RDC大使館はまだ閉鎖されないようだが、ODAしか関係がないような日本では。そのうち在中国RDC大使館の管轄に入るのではないか。
Fermeture de l’ambassade de la RDC à Prague
L’ambassade de la République Démocratique du Congo à Prague, en République tchèque, sera bientôt fermée pour des raisons budgétaires et placée sous la gestion de l’ambassade congolaise à Berlin, en Allemagne, a annoncé le ministre des Affaires étrangères, Alexis Thambwe Mwamba, à l’ambassadeur de ce pays en RDC, Jifi Dolezel, lors d’une audience jeudi à Kinshasa. M.Thambwe Mwamba a également fait savoir que l’ambassade de la RDC à Varsovie, en Pologne, sera gérée par l’ambassade de la RDC à Berlin.
Il a rappelé au diplomate tchèque que la décision du gouvernement congolais de fermer son ambassade à Prague s’inscrit dans le cadre de la mise en œuvre des résolutions et des recommandations de la XIème Conférence diplomatique tenue du 29 novembre au 4 décembre dernier à Kinshasa, pour une compression des missions diplomatiques selon les zones d’influences diplomatiques.
Le ministre des Affaires étrangères a assuré son hôte que la RDC ne va pas quitter Prague sans s’acquitter de toutes les créances vis-à-vis de l’Etat accréditaire ainsi que de toutes les arriérés contractées par ses diplomates dans les pays d’où la RDC se retire.
ACP/Fédé/AIFO.
晴。
車を洗った。自分で洗うのは久しぶり。雨季でキプシ街道の泥水の中を通るので洗ってもまた同じことになると汚れたまま放置しておいた。だが、いかにも汚い。それに昼間は雨が降らないことが多いから汚い車は目立つ。ルブンバシではあまり汚れた車をみないのだ。みんなよく洗車してある。
僕の車は至る所傷だらけだ。一年間で28 000 km走った。とんでもない悪路(カソメノ=キルワ街道)も走ったし、ダル・エス・サラムまでの往復、ヴィクトリア瀑布往復も走っている。マドンナ同様傷だらけだけど頑張ってくれた三菱L200である。今年はアンゴラ国境やブカマ(北部内陸)を予定している。まだまだこのピックアップには活躍してもらわなければいけない。
16時15分。マドンナにやるために鶏肉の骨を抜く作業をしているところで停電。17時10分回復。夕飯の準備に間に合った。
チェコ(首都プラハ)のRDC大使館を閉鎖する。外交問題があるわけではない。経済的理由だ。チェコはベルリンの管轄下にはいる。同様にポーランド(首都ワルシャワ)のRDCコンゴ大使館も閉鎖しベルリンがカヴァーする。
在東京RDC大使館はまだ閉鎖されないようだが、ODAしか関係がないような日本では。そのうち在中国RDC大使館の管轄に入るのではないか。
Fermeture de l’ambassade de la RDC à Prague
L’ambassade de la République Démocratique du Congo à Prague, en République tchèque, sera bientôt fermée pour des raisons budgétaires et placée sous la gestion de l’ambassade congolaise à Berlin, en Allemagne, a annoncé le ministre des Affaires étrangères, Alexis Thambwe Mwamba, à l’ambassadeur de ce pays en RDC, Jifi Dolezel, lors d’une audience jeudi à Kinshasa. M.Thambwe Mwamba a également fait savoir que l’ambassade de la RDC à Varsovie, en Pologne, sera gérée par l’ambassade de la RDC à Berlin.
Il a rappelé au diplomate tchèque que la décision du gouvernement congolais de fermer son ambassade à Prague s’inscrit dans le cadre de la mise en œuvre des résolutions et des recommandations de la XIème Conférence diplomatique tenue du 29 novembre au 4 décembre dernier à Kinshasa, pour une compression des missions diplomatiques selon les zones d’influences diplomatiques.
Le ministre des Affaires étrangères a assuré son hôte que la RDC ne va pas quitter Prague sans s’acquitter de toutes les créances vis-à-vis de l’Etat accréditaire ainsi que de toutes les arriérés contractées par ses diplomates dans les pays d’où la RDC se retire.
ACP/Fédé/AIFO.
1月4日 le mardi 4 janvier 2011 禁煙 arrêt du tabagisme
Le mardi 4 janvier 2011
快晴。
今日は殉教・殉死者の日で国民祭日とラジオで知ったが、店があいているとアンドレさんがいうのでルブンバシまででかけた。スーパーは閉まっていた。タバコを2箱買った。そのあとで、またタバコを止めようかと思い立った。
フランシスコ会修道院によってアグネスちゃんの2学期の授業料と交通費を払った(220+12ドル)。彼女にはまだ会えていない。今冬休みなのだが、僕の携帯がつうじなかったらしい。
タバコは過去に2度止めている。1度目は20歳になったときで2年間。2度目は40歳になったときで14年間続いた。「いつでも止(や)められるよ」と人にはいっているが、止める気もこれまでなかった。三日坊主でもかまわないし、後先短い一生続けてもよい。
コンゴ人は喫煙者が少ない。僕の吸っているタバコは一箱700フラン(65円)。Pall Mallのメンソールである。街中ではタバコの一本売りもしている。タバコを吸わない連中は、健康に悪いからなどというが、実は経済的理由ではないかと思う。タバコをすすめると、喜んで吸う人が多い。
コンゴで一番大きなタバコ会社はルブンバシにあったタバコンゴTabacongo社である。残念なことにキンシャサに越してしまい、ここに工場もない。地域の名前だけが残った。そのことは以前書いた。
快晴。
今日は殉教・殉死者の日で国民祭日とラジオで知ったが、店があいているとアンドレさんがいうのでルブンバシまででかけた。スーパーは閉まっていた。タバコを2箱買った。そのあとで、またタバコを止めようかと思い立った。
フランシスコ会修道院によってアグネスちゃんの2学期の授業料と交通費を払った(220+12ドル)。彼女にはまだ会えていない。今冬休みなのだが、僕の携帯がつうじなかったらしい。
タバコは過去に2度止めている。1度目は20歳になったときで2年間。2度目は40歳になったときで14年間続いた。「いつでも止(や)められるよ」と人にはいっているが、止める気もこれまでなかった。三日坊主でもかまわないし、後先短い一生続けてもよい。
コンゴ人は喫煙者が少ない。僕の吸っているタバコは一箱700フラン(65円)。Pall Mallのメンソールである。街中ではタバコの一本売りもしている。タバコを吸わない連中は、健康に悪いからなどというが、実は経済的理由ではないかと思う。タバコをすすめると、喜んで吸う人が多い。
コンゴで一番大きなタバコ会社はルブンバシにあったタバコンゴTabacongo社である。残念なことにキンシャサに越してしまい、ここに工場もない。地域の名前だけが残った。そのことは以前書いた。
05 janvier 2011
1月3日 le lundi 3 junvier 2011 キンシャサ原子力研 CREN-K
Le lundi 3 janvier 2011
快晴。
9時現在、メイルがまだ読めない。元旦からのことだ。いらいら。タイトルだけが辛うじて読める。だが、返事が書けない。関係者は事情を察して勘弁して欲しい。9時35分、ネットほぼ完全回復。Bravo!
15時45分、突如東の空から雨が押し寄せて来て、シャワーを浴びれいる途中で停電。16時05分回復。
夕方、チーコが玄関でトカゲをみつけて追いかけた。トカゲは尻尾を切り離して逃げようとするのに、チーコは尻尾に興味を示さず本体をガブリ。可哀想なのでチーコを放してトカゲを庭に掃きだした。チーコは動くものをみると興奮して飛びかかる。前の家ではヘビと格闘しようとしていた。バッタにも飛びつく。ただ動くものでもアリは嫌いなようだ。
当地通信社ACPによれば、米国がキンシャサ原子力センタ(CREN-K)の安全性を危惧しているようだ。第1号原子炉は70年から、第2号炉は2004年から稼動していないが、138本の燃料棒など放射性物質がセンタに保管されている。保管とはいうものの、施設の状態は壊滅的で盗難、放射能漏れなどが心配されている。
第2号炉の稼動は1973年というからモブツ大統領のころである。米国の支援を受けて鳴り物入りで原子力炉(実験用)を導入したにちがいない。カタンガ州シンコロブエで高品質のウラニウムを産するコRDCコンゴとして、原子炉建設は将来の原子力発電への第一歩だったろう。しかし、それも今は「お荷物」である。この原子力センタを再建してもしようがない。速やかに燃料棒の売却、放射性物質の処分を米国に頼むことだ。今、コンゴがすべきは、シンコロブエ鉱山で放射能を浴びたコンゴ人労働者たちの調査と救済であると僕は思う。
RDC: les USA se préoccupent de la sécurisation du Centre nucléaire de Kinshasa
Les Etats-Unis se préoccupent de la sécurisation du Centre régional d'études nucléaires de Kinshasa (CREN-K) qui constitue une menace réelle pour les habitants de la capitale de la République démocratique du Congo (RDC), a indiqué mercredi l'agence congolaise de presse (ACP, officielle), citant des sources "crédibles".
Les Etats-Unis ont appelé la communauté internationale à aider la RDC à sécuriser le CREN-K dans lequel se trouvent stockés, selon ces sources, 138 barres de combustible nucléaire et de matériel radioactif. Ce centre se trouve dans un état de délabrement inquiétant. Ceinturé par des têtes d'érosions, tout comme l'université de Kinshasa (UNIKIN), qui l'abrite, le CREN-K présente un risque substantiel de vols et d'irradiations, les normes de sécurité n'étant plus respectées, a rappelé l'ACP, reçue à Bruxelles. Le site de l'UNIKIN abrite notamment un réacteur nucléaire, de type Triga 2 et d'une capacité d'un mégawatt, qui est entré en service le 24 mars 1973. Il a remplacé un autre, plus ancien, installé en 1959 - du temps de la colonisation belge - avec l'assistance des Etats-Unis à l'université Lovanium. Le Triga 1 a fonctionné jusqu'en 1970 à des fins de recherches civiles (agronomie, biologie, médecine nucléaire), avant d'être transformé en caisson de stockage pour les déchets radioactifs. Le réacteur Triga 2 n'est plus fonctionnel depuis 2004, pour cause de non-conformité avec les normes édictées par l'Agence internationale de l'Energie atomique (AIEA). (MUA)
快晴。
9時現在、メイルがまだ読めない。元旦からのことだ。いらいら。タイトルだけが辛うじて読める。だが、返事が書けない。関係者は事情を察して勘弁して欲しい。9時35分、ネットほぼ完全回復。Bravo!
15時45分、突如東の空から雨が押し寄せて来て、シャワーを浴びれいる途中で停電。16時05分回復。
夕方、チーコが玄関でトカゲをみつけて追いかけた。トカゲは尻尾を切り離して逃げようとするのに、チーコは尻尾に興味を示さず本体をガブリ。可哀想なのでチーコを放してトカゲを庭に掃きだした。チーコは動くものをみると興奮して飛びかかる。前の家ではヘビと格闘しようとしていた。バッタにも飛びつく。ただ動くものでもアリは嫌いなようだ。
当地通信社ACPによれば、米国がキンシャサ原子力センタ(CREN-K)の安全性を危惧しているようだ。第1号原子炉は70年から、第2号炉は2004年から稼動していないが、138本の燃料棒など放射性物質がセンタに保管されている。保管とはいうものの、施設の状態は壊滅的で盗難、放射能漏れなどが心配されている。
第2号炉の稼動は1973年というからモブツ大統領のころである。米国の支援を受けて鳴り物入りで原子力炉(実験用)を導入したにちがいない。カタンガ州シンコロブエで高品質のウラニウムを産するコRDCコンゴとして、原子炉建設は将来の原子力発電への第一歩だったろう。しかし、それも今は「お荷物」である。この原子力センタを再建してもしようがない。速やかに燃料棒の売却、放射性物質の処分を米国に頼むことだ。今、コンゴがすべきは、シンコロブエ鉱山で放射能を浴びたコンゴ人労働者たちの調査と救済であると僕は思う。
RDC: les USA se préoccupent de la sécurisation du Centre nucléaire de Kinshasa
Les Etats-Unis se préoccupent de la sécurisation du Centre régional d'études nucléaires de Kinshasa (CREN-K) qui constitue une menace réelle pour les habitants de la capitale de la République démocratique du Congo (RDC), a indiqué mercredi l'agence congolaise de presse (ACP, officielle), citant des sources "crédibles".
Les Etats-Unis ont appelé la communauté internationale à aider la RDC à sécuriser le CREN-K dans lequel se trouvent stockés, selon ces sources, 138 barres de combustible nucléaire et de matériel radioactif. Ce centre se trouve dans un état de délabrement inquiétant. Ceinturé par des têtes d'érosions, tout comme l'université de Kinshasa (UNIKIN), qui l'abrite, le CREN-K présente un risque substantiel de vols et d'irradiations, les normes de sécurité n'étant plus respectées, a rappelé l'ACP, reçue à Bruxelles. Le site de l'UNIKIN abrite notamment un réacteur nucléaire, de type Triga 2 et d'une capacité d'un mégawatt, qui est entré en service le 24 mars 1973. Il a remplacé un autre, plus ancien, installé en 1959 - du temps de la colonisation belge - avec l'assistance des Etats-Unis à l'université Lovanium. Le Triga 1 a fonctionné jusqu'en 1970 à des fins de recherches civiles (agronomie, biologie, médecine nucléaire), avant d'être transformé en caisson de stockage pour les déchets radioactifs. Le réacteur Triga 2 n'est plus fonctionnel depuis 2004, pour cause de non-conformité avec les normes édictées par l'Agence internationale de l'Energie atomique (AIEA). (MUA)
03 janvier 2011
1月2日 le dimanche 2 janvier 2011 マドンナ満1歳、チーコ9ヶ月 Madonna accompli 1 année, Tchiico 9 mois
Le dimanche 2 janvier 2011雨のち晴。
今日はマドンナの誕生日。写真をとらなければ。彼女は満1歳になった。チーコちゃんは4月生まれだから満9ヶ月。
彼女たちの写真をMotorolaの携帯で撮影。コントラストを相当修正したが、画像がはっきりしない。失くしたSamsunの携帯もそこそこだった。ベストはソニ・エリクソンの携帯だったが、これはアルジェリアの海岸で2009年9月に盗られた。2007年11月に秋葉原で買った携帯だったが、欧州で買った方が安かった。
ネット不調。メイルが開けない。ところが、元旦分のブログ更新はできたのである。
今日はマドンナの誕生日。写真をとらなければ。彼女は満1歳になった。チーコちゃんは4月生まれだから満9ヶ月。
彼女たちの写真をMotorolaの携帯で撮影。コントラストを相当修正したが、画像がはっきりしない。失くしたSamsunの携帯もそこそこだった。ベストはソニ・エリクソンの携帯だったが、これはアルジェリアの海岸で2009年9月に盗られた。2007年11月に秋葉原で買った携帯だったが、欧州で買った方が安かった。
ネット不調。メイルが開けない。ところが、元旦分のブログ更新はできたのである。
ところが、メイラ「Thunderbird」でも、「MS Expoler」でもメイルがdownloadできない。不調ななかでもSkypeは比較的通じる。またGoogleのニュースは受け取れる。メイルだけがおかしいとなると、MSのliveメイル
がおかしいのか。Googleのgmailを開設しようかなぁ。
(事情は3日9時半現在同様。解決策はみつからない。)
「2011はコンゴ民主共和国RDC(の近未来)に決定的な年となろう」と年頭らしい記事がネット新聞に掲載された。確かに大統領選挙の年であり、現大統領の成果が問われると同時に、その民主主義の真価が問われる年である。7200万の国民に対し、国家予算は67億度ドルと極めて小さい。これで、東部の紛争解決(平和)、教育、インフラ復興(電気、上下水道、道路、鉄道等)、保健(病院、医療等)を賄おうといのだから容易ではない。国際社会(外国政府、国際機関、NGO等)の援助を期待しなければならない。そのためには民主化をすすめなければならない。その一歩が公正な選挙である。記者は現大統領は遅々として何も進んではいないではないか、というが、広大な国土(西側欧州全体よりも広い)、問題の複雑さを考えれば、僕はカビラ大統領が相当努力していると思うのだが如何だろうか。
また我々の『日本カタンガ協会』にとっても決定的な年であろう。総華的ではなく焦点を絞ってプロジェクトを実現したい。
RDC : 2011, une année décisive
Elections ou non, l'année 2011 sera cruciale en la République démocratique du Congo (RDC). Si les élections ont bien lieu, le scrutin se révèlera plus ouvert que prévu et plus personne ne sera en mesure d'assurer la réélection "programmée" de Joseph Kabila. Si les élections sont reportées, comme beaucoup le prédisent, la RD Congo entrera alors dans une zone de fortes turbulences et fera de 2011, l'année de tous les dangers. Etat des lieux.
Plusieurs difficultés attendent la RDC en 2011 et les 5 chantiers lancés par le président Kabila en 2006 sont encore loin d'avoir portés tous leurs fruits. Il faut dire que les attentes des congolais sont immenses : inflation, santé, électricité, eau, éducation, état des routes… tout reste à faire dans cet immense pays aussi grand que toute l'Europe occidentale et les marges de manoeuvres du pouvoir sont très étroites. Le budget de la République démocratique du Congo (RDC) reste microscopique : 6,7 milliards de dollars pour plus de 72 millions de Congolais.
Des conditions de vie difficiles
Ces derniers mois, les prix ont flambé dans tous le pays. Cette augmentation des prix va du simple au double en l’espace de trois mois : riz, manioc, grains de maïs, farine de froment et viande congelée, pour ne citer que ceux-là. Une dernière étude du PNUD, le niveau de développement en République Démocratique du Congo est en recul en 2010 par rapport à celui de 1970, selon le classement annuel du développement humain… on vivrait donc plus mal à Kinshasa en 2010 qu'en 1970 !
Une guerre sans fin à l'Est
Le chaos règne toujours à l'Est du pays. Les groupes rebelles font toujours la loi dans les Kivu et la frontières Nord de la RD Congo continue d'être la proie de la LRA (Armée de Résistance du Seigneur). Attaques sanglantes, massacres, viols, enlèvements, pillages… les civils sont les premières victimes de l'insécurité permanente qui prévôt à l'Est de la République démocratique du Congo. Milices huttes des FDLR, Maï-Maï, ex-CNDP… et soudards de l'armée régulière (FARDC) ont jeté plus de 1,4 millions de déplacés sur les routes congolaises. Pour l'heure, ni les 17 000 casques bleus de la MONUSCO, ni les FARDC ne parviennent à rétablir un semblant de sécurité dans la région.
Année électorale ?
2011 doit sonner comme l'heure de vérité pour le président Joseph Kabila. A la surprise générale, en plein été 2010, le président sortant annonce la date de la tenue des prochaines élections présidentielles en RD Congo : novembre 2011. Le recensement et l'enrôlement des électeurs ne sont pas terminés, la Commission électorale nationale indépendante (CENI) n'est toujours pas en place et suscite déjà des controverses… mais les élections auront bien lieu ! A moins que… comme de nombreux observateurs le prédisent, Joseph Kabila ne décide de reporter le scrutin. La mise en place chaotique des élections, son manque financement et la nomination contestée du futur président de la CENI pourraient pousser le président Kabila remettre le scrutin aux calendes grecques. Car pour la président sortant, les élections ne s'annonce plus comme une simple promenade de santé.
Plusieurs candidats de poids viennent en effet de sortir du bois et la réélection de Joseph Kabila apparaît de moins en moins assurée. Des alliances semblent même voir le jour entre les principaux partis d'opposition : le MLC de Bemba et Muamba, l'UDPS de Tshisekedi ou l'UNC de Kamerhe… trois poids lourds de la politique congolaise qui pourraient troubler la tranquille réélection de Joseph Kabila. Elections avec ou sans report… 2011 sera donc une année décisive pour la stabilité de la République démocratique du Congo.
Christophe Rigaud
「2011はコンゴ民主共和国RDC(の近未来)に決定的な年となろう」と年頭らしい記事がネット新聞に掲載された。確かに大統領選挙の年であり、現大統領の成果が問われると同時に、その民主主義の真価が問われる年である。7200万の国民に対し、国家予算は67億度ドルと極めて小さい。これで、東部の紛争解決(平和)、教育、インフラ復興(電気、上下水道、道路、鉄道等)、保健(病院、医療等)を賄おうといのだから容易ではない。国際社会(外国政府、国際機関、NGO等)の援助を期待しなければならない。そのためには民主化をすすめなければならない。その一歩が公正な選挙である。記者は現大統領は遅々として何も進んではいないではないか、というが、広大な国土(西側欧州全体よりも広い)、問題の複雑さを考えれば、僕はカビラ大統領が相当努力していると思うのだが如何だろうか。
また我々の『日本カタンガ協会』にとっても決定的な年であろう。総華的ではなく焦点を絞ってプロジェクトを実現したい。
RDC : 2011, une année décisive
Elections ou non, l'année 2011 sera cruciale en la République démocratique du Congo (RDC). Si les élections ont bien lieu, le scrutin se révèlera plus ouvert que prévu et plus personne ne sera en mesure d'assurer la réélection "programmée" de Joseph Kabila. Si les élections sont reportées, comme beaucoup le prédisent, la RD Congo entrera alors dans une zone de fortes turbulences et fera de 2011, l'année de tous les dangers. Etat des lieux.
Plusieurs difficultés attendent la RDC en 2011 et les 5 chantiers lancés par le président Kabila en 2006 sont encore loin d'avoir portés tous leurs fruits. Il faut dire que les attentes des congolais sont immenses : inflation, santé, électricité, eau, éducation, état des routes… tout reste à faire dans cet immense pays aussi grand que toute l'Europe occidentale et les marges de manoeuvres du pouvoir sont très étroites. Le budget de la République démocratique du Congo (RDC) reste microscopique : 6,7 milliards de dollars pour plus de 72 millions de Congolais.
Des conditions de vie difficiles
Ces derniers mois, les prix ont flambé dans tous le pays. Cette augmentation des prix va du simple au double en l’espace de trois mois : riz, manioc, grains de maïs, farine de froment et viande congelée, pour ne citer que ceux-là. Une dernière étude du PNUD, le niveau de développement en République Démocratique du Congo est en recul en 2010 par rapport à celui de 1970, selon le classement annuel du développement humain… on vivrait donc plus mal à Kinshasa en 2010 qu'en 1970 !
Une guerre sans fin à l'Est
Le chaos règne toujours à l'Est du pays. Les groupes rebelles font toujours la loi dans les Kivu et la frontières Nord de la RD Congo continue d'être la proie de la LRA (Armée de Résistance du Seigneur). Attaques sanglantes, massacres, viols, enlèvements, pillages… les civils sont les premières victimes de l'insécurité permanente qui prévôt à l'Est de la République démocratique du Congo. Milices huttes des FDLR, Maï-Maï, ex-CNDP… et soudards de l'armée régulière (FARDC) ont jeté plus de 1,4 millions de déplacés sur les routes congolaises. Pour l'heure, ni les 17 000 casques bleus de la MONUSCO, ni les FARDC ne parviennent à rétablir un semblant de sécurité dans la région.
Année électorale ?
2011 doit sonner comme l'heure de vérité pour le président Joseph Kabila. A la surprise générale, en plein été 2010, le président sortant annonce la date de la tenue des prochaines élections présidentielles en RD Congo : novembre 2011. Le recensement et l'enrôlement des électeurs ne sont pas terminés, la Commission électorale nationale indépendante (CENI) n'est toujours pas en place et suscite déjà des controverses… mais les élections auront bien lieu ! A moins que… comme de nombreux observateurs le prédisent, Joseph Kabila ne décide de reporter le scrutin. La mise en place chaotique des élections, son manque financement et la nomination contestée du futur président de la CENI pourraient pousser le président Kabila remettre le scrutin aux calendes grecques. Car pour la président sortant, les élections ne s'annonce plus comme une simple promenade de santé.
Plusieurs candidats de poids viennent en effet de sortir du bois et la réélection de Joseph Kabila apparaît de moins en moins assurée. Des alliances semblent même voir le jour entre les principaux partis d'opposition : le MLC de Bemba et Muamba, l'UDPS de Tshisekedi ou l'UNC de Kamerhe… trois poids lourds de la politique congolaise qui pourraient troubler la tranquille réélection de Joseph Kabila. Elections avec ou sans report… 2011 sera donc une année décisive pour la stabilité de la République démocratique du Congo.
Christophe Rigaud
02 janvier 2011
1月1日 le samedi janvier 2010 あけましておめでとうございます Bonne Année 2011
Le samedi 1er janvier 2011
快晴。微風。
正月元旦。
あけましておめでとうございます。
今年もブログ『アフリカの星』および『日本カタンガ協会』をよろしくお引き立て賜りますようお願い申し上げます。
余りに天気がいい。タオル類を洗濯してしまった。元旦だからといって機会を逃すことはない。今日はよく乾くだろう。
マドンナちゃんは明日満一歳になる。今日のために骨付きの牛肉を買っておいた。喜ぶ顔が目に浮かぶ。傷だらけのマドンナ君だけれど、健康な一年が過ごせた。大きくなったね。まだまだ大きくなるだ。沢山食べて、運動して。
9時ころからネット不調。メイルにアクセスできないくなった。元旦の挨拶をみんなに送りたいというのに。今年もネット接続ではイライラさせられるのだろうなぁ。
新しい携帯に番号を入力している。Bluetoothでデータ転送ができればいいのだが、安い携帯の方にはBluetooth機能がない。一件一件入力していくしかない。
(メイルが読めない、返事が書けない状態が続いている。ブログ更新はかろうじてできるかもしれない。1月2日7時50分記)
快晴。微風。
正月元旦。
あけましておめでとうございます。
今年もブログ『アフリカの星』および『日本カタンガ協会』をよろしくお引き立て賜りますようお願い申し上げます。
余りに天気がいい。タオル類を洗濯してしまった。元旦だからといって機会を逃すことはない。今日はよく乾くだろう。
マドンナちゃんは明日満一歳になる。今日のために骨付きの牛肉を買っておいた。喜ぶ顔が目に浮かぶ。傷だらけのマドンナ君だけれど、健康な一年が過ごせた。大きくなったね。まだまだ大きくなるだ。沢山食べて、運動して。
9時ころからネット不調。メイルにアクセスできないくなった。元旦の挨拶をみんなに送りたいというのに。今年もネット接続ではイライラさせられるのだろうなぁ。
新しい携帯に番号を入力している。Bluetoothでデータ転送ができればいいのだが、安い携帯の方にはBluetooth機能がない。一件一件入力していくしかない。
(メイルが読めない、返事が書けない状態が続いている。ブログ更新はかろうじてできるかもしれない。1月2日7時50分記)