24 août 2013

『ザンジバル、ビクトリア湖、タンガニーカ湖紀行』(3) Voyage à Zanzibar-1

『ザンジバル、ビクトリア湖、タンガニーカ湖紀行』(3

e) ザンジバル
ザンジバルについて本ブログに2度書いている。
最初は2010911日で週末をザンジバルで過ごした時。
2度目は、2012722日の記事で「フェリー転覆事故」があった時だ。
 
港の観光案内所でもらったガイド・パンフレットから
左が北
何故画像が横になってしまったか不明
86日(火)の午前3時にダル・エス・サラムについた。5時間の遅れである。ホテルにチェックインしてベッドに入ったのが4時。それでも8時半には目が覚めて朝食にした。そのまま、チェックアウトしてザンジバルに向かう。港まで歩いてみた。かなり距離があった。3kmはありそうだった。直近の高速船が12時半。「キリマンジェーロII号」。1時間半で到着予定。1等しかない。仕方ない。一人40ドル。
12時に乗船。船中でインタネットが出来ることになっているが、実際は不具合でネット接続ができなかった。波がなく快適な船旅だった。

港からホテルまでストーン・タウンを歩いたが、迷ってしまった。通行人の一人が案内してくれてホテルにやっと到着。礼は持ち合わせがなく2000シリング(125円)で勘弁してもらった。気のいいお兄さんだった。

2010年に初めてザンジバルに行ったときは、今はウェブ・デザインの会社を経営しているが、当時は観光業をしていたジョセフ君の家に泊めてもらった。ジョセフ君はfacebookでも友達になっている。ストーン・タウンから北上して空港の近くの事務所兼自宅だった。今回はストーン。タウンの中の元聖公会(アングリカン・チャーチ)の施設「セイント・モニカ・ロッジ」をネットで予約していた。1890年建設の歴史的な建物だ。ホテルのとなりが黒人奴隷を収容していた牢獄のような半地下室である。「サンタ・モニカ」の女性マネージャーはフランス人のセリーヌさん。予約したときはフランス人とは知らず英語で予約変更などのやりとりをしていた。聖公会のシスタさんかとも思っていたが、在野の女性であった。
Unesco世界遺産にも指定された
ストーン・タウン
19世紀のアフリカ探検家(宣教師)リビングストンDavid Livingstone1873年、60歳で現ザンビアの北東部にあるバングウェル湖の湖畔のチタンポ村で亡くなっている。バングウェル湖はRDCコンゴのカタンガ州の東北にあるモエロ湖とルアプラ川を通じて繋がっており、最終的にはコンゴ河の源流のひとつになる。リビングストンの足跡は中部アフリカや南部アフリカの至る所にあって、ザンジバルも例外ではない。とくにザンジバルでは奴隷貿易を19世紀後半になっても続けており、リビングストンはザンジバルの支配者であるスルタンに奴隷貿易を止めるように進言している。僕たちが泊まった「サンタ・モニカ」の隣が聖公会のカテドラルで、その中にリビングストンが亡くなった村の木で作った十字架があった。彼の遺体はザンジバルまで運ばれ、英国に送られている。

奴隷が収容されていた部屋を見学後、ホテル近くのマーケットへ。なるほど香料を売っている。しかし、特にザンジバルでなければないような香料はない。僕は団扇を、クリス君は皮のサンダルを買った。魚の売り場ではインド洋の大きな海老が跳ねていた。冷凍ではないエビが食べたいなぁ。
ストーン・タウンのマーケットでみつけた団扇
前回この島に来たときに利用した港近くのレストラン『マーキュリー』の名前が、イギリスのロックバンド、クイーンのボーカリスト、マーキュリーFreddie Mercuryから来ていることを今回初めて知った。しかも彼がこのザンジバル生まれであったとは。しかし、ここでとった夕食のアントレのシュリンプ・カクテルの海老が小さくてがっかりだった。

 (ザンジバルの項は続く)

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