20 mars 2015

3月17日~3月20日 『最強のふたり』 Untouchables

Le mardi 17 mars 2015
Pour Le Japon

昨夜20時過ぎ予定時間より数分早く成田に到着した。
ルブンバシからヨハネスバーグまでは、SAAの子会社SA Express社の運行。80人乗りぐらいの中型機。1時間遅れてルブンバシに到着したので、出発も45分遅れとなった。
2時間半でヨハネスバーグに到着。飛行機は早いなぁ。長距離バスでは3日間かかる。山のないサバンナ地帯を南下。アナウンスではルサカ上空を通るようなことを云っていたが、都会は見えなかった。
ヨハネスバーグでゾウが好む木の実アマルーラを原料とする甘いリキュール数本をDuty Freeで買った。前回帰国時、2012年の時は香港で空港外に出てしまったので、再度空港に入ったときに当局に没収されてしまって日本に持って行けなかった南ア特産のアルコールである。ルブンバシ空港でも売っていた。しかもこのルブンバシ空港(ルアノ空港)のDuty Freeの方が数ドル安かったというのは意外である。ルブンバシ空港にも小さなDuty Free Shopがあるにはあるのである。
夕方、ヨハネスバーグから約13時間で香港に着く。バンコクあたりから南シナ海まで大陸を横断する。

ヨハネスバーグも香港も成田も空港が広い。そこでSAAに車椅子を用意してもらった。大袈裟なようだが歩くと血尿が出る。それが心理的に不快なので贅沢をさせてもらった。
ヨハネスバーグでは僕の要請が無視されていたが、エアホステスさんにその場で頼んだ。車を押してくれた男性従業員、香港行きのゲートまできて、サービスが終わると「手を出した」。南アフリカでコンゴ人のようなことをする。
昔、スクウォッシュで足の指を折ってしまった時、松葉杖姿で一時帰国したことがある(スイスはルガノ時代)。仕事でスイスのお客さん数人を連れて行くための帰国だったので、骨折しても中止や延期したくなかった。その時、車椅子を航空会社に用意してもらった。香港、バンコクでも車椅子を出してくれた。車椅子だと警察のコントロールや税関でも並ぶことなく直ぐに空港外に出られる。今回も手続きが簡単だった。

Le mercredi 18 mars 2015
De Hongkong à Narita

ルブンバシから成田までスルーでスーツケースを送った。しかし、成田に荷物を受取れなかった。シスターアスンタ佐野さんはSAAで何回か帰国しているが、無くなったことは一度もないが、本人と同じ到着便で着いたこともなかったと云っていた。だからスーツケースがベルトコンベアに乗って出てこなくても慌てなかったが、インフラが欧州並みに発達した南アフリカも「still Africa」だなと思った。

飛行機の中で『Untouchablesアントゥシャーブル』(邦題『最強のふたり』)を見ることができた。フランスで大ヒットした映画だが見たことがなかった。無類に面白かった。フランス語のスラングは英語字幕ではぼかされていた。ストーリーは米国映画並みに単純明快で初めから結果が分かるような代物だったけれども、それなりのエスプリが効いていた。

Le jeudi 19 mars 2015
薄曇り。寒い、本当に寒い。

朝9時、ユーカリが丘駅ビル内にある佐倉市役所のアンテナで住民登録をした。妹が世帯主で僕がそこに寄留するhébergeという形だ。これで国民健康保険にも加入できた。市役所の分室の事務員たちはとても丁寧である。官僚らしい慇懃無礼さがない。ウェーバーはこういう官吏にあったら何と云うのだろうか。

ユーカリが丘は民間デブロパーが作った町である。1970年代の「新興」中産階級の候補者たち、若いホワイトカラーが長期ローンを組んでオーナーとなった住宅街だ。東京丸の内から電車で2時間の距離だ。私鉄各社が競って分譲住宅地を開発した。ユーカリが丘だけではない。東京周辺に5万とある。一昨年亡くなってしまった妹のずっと将来の夫Eさんがここに住宅を建てたころ、僕はアルジェにいた。
日本は高度成長を遂げ、公害が問題視されて来ていた。地中海で最も美しい都市だった「白亜のアルジェ」は計画経済という幻想を原油で化粧したが、白亜は汚臭の漂う町になっていった。
僕は逃亡者か脱走兵なのだろうなぁ。僕はEさんの苦労を知らない。

ユーカリが丘は年々リニューアルされて50年後の今日瀟洒な住宅が軒を並べている。ルブンバシのケニア地区は独立50年後益々貧困さに喘いでいる。コンゴでは制度としてのアパルトヘイトはなかったといわれる。しかし、アパルトヘイトは現実に植民地時代よりも高い壁で囲まれているどころか、拡大しているのである。ルブンバシだけではない、ナイロビでもダルエスサラムでも。

僕はサンカラ(ブルキナの英雄)もルムンバ(コンゴの英雄)も信じなくなっている。彼らを祭り上げたインテリは日本にもいる。だが彼らはアフリカを余りにも知らない。

SAAが昨日成田まで運べなかったスーツケースをユーカリが丘の家で22時半に受け取った。共同運航のANAに今日中に送ってくれと云わなければ明日の夕方の配達になっていたのだ。

Le vendredi 20 mars 2015
9時、曇り

成田空港まで行って携帯電話レンタル契約をした。エアーズ社。通話だけが出来る契約にした。メイルはいらない。国際電話発信もできない。それでも月1万円近くのレンタル料金だ。
080 9025 6949
公衆電話が世界中どこでもなくなっているから、携帯がないと連絡がとりあえなくなっている。コンゴでは公衆電話が皆無。固定電話があるのは企業だけ。その企業でもあっても使わない状態だ。ファックスも過去の通信機械になった。

携帯電話に互換性がなく、電話会社が暴利を貪っているのは日本だけだ。海外ではSIMカードをとりかえるだけでどんな携帯電話機でもすぐに使える。
コンゴから南アに行こうが、フランスに行こうが、その国の携帯会社のSIMカードを買えばすむ。カードは100円が200円しかしない。しかも空港にいかないとレンタルもできない。インターネットでもレンタル会社をみつけることが不可能ではないが本人確認手続き等、実際の契約は面倒。


この携帯会社のシステムが日本の硬直性を生んだ。エレクトロニクス産業のうち、携帯電話製造企業が後れをとった。ノキアにもサムスンにも勝てないソニーである。

1 commentaire:

Unknown a dit…

文です。
田辺兄、お体、心配でした。
日本での治療、喜んでいます。
どうか、英気をしっかり養ってください。
ここ韓国から、兄の治療を祈っています。