24 février 2011

2月22日 le mardi 22 février 2011 牛心梨ギュウシンリ coeur de boeuf (fruit)

Le mardi 22 février 2011
雨。7時、気温22℃、湿度75%。寒い。

アンドレさんが家の外壁をはつり始めた。一番下の層まではつってから、次に石灰を塗り、その上にラテックスを塗るのである。壁の色はクリームとした。
クリーム色の塗料はないから、白に黄色の染料を混ぜる。
12月、彼は自分の家の電気工事のために30000フラン(3000円)の借金をした。僕が前払いをした。給与から引かれると給与が低くなりすぎるから、この壁工事の仕事を請け負って借金をちゃらにしようと考えたようだ。

建具屋のセバスチャンとルブンバシでペンキ塗りの材料を買った。ひとつの店で全てがそろえばいいのだが、何がないかにがないというから、数件の店をまわらなければならない。仕方ない。

まだ腰が痛いので薬屋によって相談した。いくつか塗り薬を出してきた。サロンパスのような貼り薬は在庫がないという。中でBaume de Nerfs(文字通り訳せば「神経用バルサム軟膏」)というメンソレに似た塗り薬を買った。170円。コート・ジボワール製。メンソレに近いと思ったけれど、よく匂いをかぐとサロメチールの匂いもする。内容物をみると、なるほどサルチル酸メチルも入っているし、メンソールも入っている。これなら、腰の痛みだけでなく、虫刺されにも効果がありそうだ。普通は筋肉疲労回復のためのマッサージ用に使う軟膏だろう。スポーツマン用だ。
近江兄弟社のメンタームを日本から持ってきてもらおうと考えたことがあるが、その必要はなさそうだ。便利なものを見つけたものだ。

庭にジャスミンを新たに10本植えた。先週、2本のうち1本を多分隣の山羊が食べてしまったか、マドンナが抜いてしまった。そこで10本いっぺん買ったのだ。ルブンバシ郵便局前の公園の植木屋で買った。この植木屋が、ベネディクト会の経営とは今日アスンタさんから聞いたことだ。教会もいろいろな商売をしている。ベネディクト会は、リカシ街道が有料道路になっているが、その料金所の右手にベネディクト修道院や高齢者施設などがあったように思う。ジャスミンを沢山植えることにしたのは、梔子(くちなし、gardénia_ガ見つからなかったからである。

ルブンバシ郵便局前の公園入り口で、ベネディクト会ではないが、果物を屋台で売っていた。見たことのない果物があった。「牛の心臓cœur de bœuf」という名前の濃い緑で、毛が生えているが、まさに心臓の形をしている。日本名は牛心梨(ギュウシンリ)というのだそうだ。ネットで調べるとスペインで食べたチリモヤChirimoya(スペイン語表記)と似た味とある。今度試してみるか。しかし、ちょっと気味が悪い。

2月21日 le lundi 21 février 2011 ベアシェア Beaushare

Le lundi 21 février 2011
晴。7時、気温23℃、湿度70%。

11日からブログを更新していなかった。特別の理由はない。怠け者というだけだが、たちまち10日も日が経っていた。

溜まったブログの記事を更新しようとしたら、9時、停電。8時20分回復。
今月12日のブログを更新するのに2時間半かかった。

楽ファイルのダウンロードのライブラリー(Bearsahre)が180曲から、この7日間で320曲を超えた。あれもこれもとダウンロードしているうちにこうなった。アコンAkonやLady Gagaの最新曲もある。
確かに著作権をシビアに考えると問題がありそうなファイルのシェアである。誰でもがリミックスremix(ファイルの改造、改竄、変更)ができるため、ファイル情報とは全く別の、誰が歌っていうのか、誰が演奏しているのかわからない、しかも質の悪いファイルがネットに晒されていてdownloadしてしまうこともある。メイルの添付ファイルだと1Mでもdownloadできずvodacomから拒否されてしまうのだが、このソフトではずっと大きなファイル、たとえば8Mでもdownloadできる。僕にとってはありがたいソフトlogicielである。

23 février 2011

2月20日 le dimanche 20 février 2011 カマラ・ラエ Camara Laye

Le dimanche 20 février 2011
晴。7時、気温23℃、湿度70%。

18日(金)にCCFでCamara Layeの『L’enfant noir黒人少年』を借りている。「少年文庫」(Pocket jeunesse)に収められている。RDCコンゴの小学校高学年でテキストとして読まされる本だという。
Camara Layeは1928年ギニア生まれである。勿論ギニア独立前。大変な努力家で、1947年にフランスへ留学するが、奨学金が切れたのちも、フランスに残り「苦学」して1956年エンジニアの資格をとりアフリカに戻る。その間、1953年に、自らの少年時代をまとめてこの『黒人少年』を上梓する。ギニアは他のフランス領アフリカ植民地に比べて一足はやく1058年に独立する。初代大統領はセク・トゥレSékou Touréである。年毎に独裁者となっていくセク・トゥレに反対して、Camara Layeはセネガルに亡命する。ダカールではIFAN(ブラック・アフリカ基礎研究所)で文化研究活動に勤しんだ。隣国セネガルからギニアの反体制運動にも参加したが、1980年ダカールで死亡。生涯大統領セク・トゥレはその4年後入院先の米国で他界している。

2月19日 le samedi 19 février 2011 レオパール敗退 équipe nationale de la RDC «Léopards» a perdu contre la Tunisie

Le samedi 19 février 2011
曇。7時、気温24℃、湿度70%。

マドンナを連れて近所を散歩していたら、「旨そうな犬だな、食べられちゃうぞ」と通行人が宣わった。聞くところによると、カタンガ州の北隣の州、カサイ州では犬を食べるのだそうだ。犬を食するのはなにもカサイの人に限らない。中国でも、ベトナムでの食用である。日本でも食した時代があった。マドンナの腿は太いし、肩も張っている。さぞかし旨い犬に見えたのだろう。彼女が傷だらけなのも、ガキどもに石をぶつけられただけではなく、大人に石を投げつけられ襲われたのかもしれない。「マドンナ君、近所をうろつくと食べられちゃうぞ」

夜は、アスンタさんの修道院の庭で出来たナスを挽肉と煮込んだ。また、アボカドをワサビ醤油でいただいた。アボカドがトロに似ているというがオツな味である。

スーダンでRDCコンゴとチュニジアのナショナルチームのサッカーの試合があった。後半チュニジアに1点とられてRDCは敗退した。勝てばCHAN 2011(African Nations Championship)の4強に入れたのに失した。コンゴのナショナルチームをレオパールLéopards(豹)という。今のところ名前負けしている。国の代表にルブンバシの「マゼンベ」から8人の選手を出している。「アゼンベ」は去年、一昨年とアフリカのトップクラブになった、しかしレオパールは余り強くない。選手にモティヴェイションがないのだという。国のためでも少ない報酬では必要以上に頑張りたくないというのがコンゴ人だ。頑張り過ぎて怪我でもしたらつまれないということだ。国にはカタンガ州の知事(マゼンベのオーナー)のような金がない。モイーズ知事が大統領になればレオパールも世界のトップに躍り出るだろう。しかし、今のところモイーズ知事はカビラ現大統領に遠慮して大統領選挙に出ない。

2月18日 le vendredi 18 février 2011 産院の井戸 puits de la maternité au dispensaire fransiscain du Golf

Le vendredi 18 février 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。

ゴルフ地区にあるフランシスコ会の産院予定地をシスター・アスンタと見にいった。井戸が掘れたということでその状態を確認したかったからである。2週間ほど前に32Mで水脈に当たったので工事を終了したようだ。水を採取してみると少し茶色い。飲料水としても合格と聞いていたが、濁りはやがて取れるのだろうか。ともかくこれで乾季になったら、庭の蟻塚の土を利用してレンガが造れる。この井戸、掘ってしまったがファイナンスの目処がついていない。どこか助けて欲しい。40万円くらいなのだけれど、篤志家はいないだろうか。

ところで、この産院予定地までの道が完全舗装されていた。去年の8月はまだ酷い凸凹道だった。サッカー・チーム「マゼンベ」の合宿練習場がこの近くにできたのは知っていた。そのお陰で舗装されたにしても見事に特急工事を完成させたものだ。近くの村に市場も作られた。この辺りの土地の値段がぐんと上がるのは確かだ。モイーズ知事、やることが早い。

タンザニア製のマットレスを買って帰った。140x190。スプリングのマットレスではないけれども、固さがあるという触れ込みだったが、一晩寝たら腰が痛くなった。もっともシングルはスプリング入りのマットレスだったけれども、それでも使い初めのころは腰を痛めたから、慣れればこのタンザニア製マットレスでも快眠可能かもしれない。

2月17日 le jeudi 17 février 2011 アフリカ企業トップ500 Top 500 des plus frandes entreprises africaines

Le jeudi 17 février 2011

曇。7時、気温24℃、湿度70%

6時ころは、晴れていて朝焼けだった。雨季は天気が移ろう。

17時、ネット不通。雨と雷。1745分回復。

2010年度アフリカ大陸トップ500企業がジュヌ・アフリク(JA)誌に先ごろ発表された。売り上げを基準に選んだようだが、アフリカの大企業のトップは原油・天然ガスセクター、ついでテレコムとなっている。製造業、鉱業はマイナーである。RDCコンゴについてみると、500企業に入ったのは2社しかない。いずれもテレコム。AirtelとVodacomである。2社とも外資系。トップはアルジェリアの石油公団Sonatrachであった。また当然考えられることだが、南アの企業が500社の半数以上を占めた。

アフリカにとって炭化水素(現有・ガス)、農水産物、鉱物資源、木材等のセクターは先進国への原材料供給であって、植民地時代と構造的に変わったわけではない。アフリカには、中国をモデルとして経済成長を目指そうとする国も多い。RDCコンゴもそのひとつである。しかし、中国は「世界の工場」である。原材料を輸出しているだけではない。市場価格に景気が左右される原材料輸出に頼るだけでなく、製造業を育成していかないと真の成長はないといえよう。カタンガ州では鉱石そのものの輸出から精錬した製品の輸出までこぎつけた。次は銅やコバルト、マンガン、亜鉛等々を加工する製造業まで考えないと構造改革は行えない。

Top 500 des plus grandes entreprises africaines : Airtel RD Congo (ex Zain) confirme son véritable leadership dans l’économie du pays

En République Démocratique du Congo, le secteur des télécoms reste le catalyseur du développement économique grâce à sa contribution au fisc. En 2010, Airtel, qui est le 5ème opérateur mobile dans le monde, s’affiche comme la marque la plus compétitive et la plus profitable du secteur. C’est ce qui ressort du dernier classement de Jeune Afrique Economie Hors-série n° 26, Edition 2011, qui liste les 500 premières entreprises africaines.
En effet, Airtel, première entreprise de télécommunication en RD Congo est classée dans le top 500 des premières entreprises du continent. Sa position dans ce classement fait de lui la première entreprise en RDC devant les autres sociétés.

Depuis 12 ans, l’hebdomadaire international indépendant, Jeune Afrique, publie au mois de décembre de chaque année ce classement basé sur les Chiffres d’Affaires cumulés du top 500 des entreprises africaines.
D’après l’édition de 2010, les hydrocarbures et les télécoms restent les secteurs les plus profitables dans l’économie du continent. La répartition sectorielle du chiffre d’affaires cumulé de ces 500 premières entreprises positionne les télécoms en deuxième rang après les hyrdocarbures avec environ 12,4% du CA global.
L’Afrique du Sud supplante tous les autres pays du continent avec 54,8% du CA cumulé global des 500 premières entreprises africaines. Et seules, deux entreprises de la République Démocratique se retrouvent dans ce classement dont Airtel, première des deux, et elles sont toutes deux du secteur des télécoms.
(以下略)

2月16日ケン・ブグル著『わたしの男たち』

Le mercredi 16 février 2011
晴。7時、気温23℃、湿度50%。

記憶力が薄らいでいる。顔は思い出すのに名前がでてこないことがある。お河童頭のミレイユ・マティユ(フランスのシャンソン歌手)の名前が出てくるのに2日かかった。

16時半、ネット不通。17時45分回復。

先週水曜日CCFで借りたセネガルの女流作家ケン・ブグルKen Bugul『Mes Hommes à moi わたしの男たち』(2008年、252ページ)を終わった。結論から云えば彼女の作品で一番つまらなかった。舞台はアフリカではなくパリである。パリの11区。ヴォルテール通りにあるビストロ(バー)「シェ・マックス」に客として来ているセネガル出身の女主人公(語り手)ディオールDiorと常連の客たち一人ひとりの告白録である。

ファザー・コンプレックスで、相手の男たちを自分の父親と兄に常に対比するディオールの告白は性的表現が赤裸々である。赤裸々であるが、訴えるものがない。「へぇー、それで何が問題なの」と告白を聞きながらこちらは思うのである。主人公の世代は、フランスで云えば、1968年5月革命の前後に青春を過ごした。新しい自由、新しい価値観を求めた時代だ。それにもかかわらず、この作品は、狭い個人の体験の中に埋没してしまった感がある。あまり読むに値しない、時間の無駄をさせられた作品であった。『リワン』や『狂気と死』からは予想ができない駄作に巡り会ってしまった。
(画像は還暦を過ぎたケン・ブグルと本の表紙)

21 février 2011

2月15日 le mardi 15 février 2011 図書館 bobliothèque

Le mardi 15 février 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%、

11時、電気代を払いにSNELへ。前に誰もいなかったので直ぐに支払いを終えることができた。2月は他の月よりも日数が少ないので、電気代が安くなるのかと聞いたら、31日の月と同じだそうだ。

ンシャサにはフランス文化センタだけでなく、ベルギーの文化センタ(CWB)もあるようだ。ここが、書籍の輸入について免税とするようにRDCコンゴ政府に働きかけているが、結果は思わしくないという。今は38%の輸入税がかかる。
ルブンバシに本屋は2軒しかない、しかも本棚は歯の欠けた櫛のようなものだ。ベルギーが大きな本屋を、キンシャサかルブンバシに開店する予定だと記事にはあるが、本屋もさることながら、大きな図書館も欲しい、CCFの図書館も、日本の中学校の図書館よりも貧しい。アリアンスの図書館にいたってはそれ以下なのだ。

La détaxation du livre en RDC reste un combat de longue haleine, selon la directrice du Centre Wallonie Bruxelles

Le problème de détaxation du livre pour le rendre accessible à tous en République Démocratique du Congo reste un combat de longue haleine, a déclaré jeudi, au Centre Wallonie Bruxelles (CWB) de Kinshasa, Mme Kathryn Brahy, directrice de ce centre, lors de la présentation de l’agenda des activités culturelles du mois de février prochain. C’est pour cette raison que son institution et les opérateurs congolais du livre ont décrété 2010 et 2011 « années du livre », a-t-elle affirmé, avant de souligner que la grande barrière pour atteindre cet objectif réside dans la volonté du gouvernement d’effacer les 38 % des perceptions fiscales imposées à l’importation du livre et des intrants de ce produit en RDC. La diplomate belge a promis aux professionnels des médias que les recommandations du colloque organisé avec l’appui de la Wallonie sur la politique nationale du livre seront incessamment rendues publiques.
A cet effet, la Wallonie Bruxelles International envisage d’inaugurer une grande librairie dans l’une des grandes villes de la République Démocratique du Congo. Présentant les activités du mois de février, M. Tshibanda Brain, directeur adjoint du CWB, a épinglé les spectacles de théâtre et de musique, l’animation littéraire et l’exposition des objets d’arts coutumiers d’une collection privée.
(以下略)

2月14日 le lundi 14 février 2011 麻疹(はしか)流行 épidémie de rougeole au Katanga

Le lundi 14 février 2011
霧。7時、気温22℃、湿度72.5%。昼間は晴。

8時、ネット不通。

アラン君にアンジェリク・キジョAngélique Kidjoという歌手を教えてもらった。ベナンの女性歌手だが、歌唱力が凄い。小さな身体のどこにあんな声量があるのだろう。ドラマチックな歌い方をする。「ウェウェ」、「アゴロ」、「バトンガ」などを一度聞いてみていただきたい。
ベアシェアBearshareというフリー・ソフトをダウンロードした機会に僕の音楽ファイルを充実させることにした。このソフトは一時流行したナップスターのような音楽ファイル交換ソフトである。
Youtubeでも音楽ファイルのコレクションを持っていたが、現在の僕のネット環境ではYoutubeのようなvideoファイルは重くて見られない。

カタンガ州で麻疹(はしか)が流行。麻疹は日本でも流行することがなる。しかし、死亡例は僅かである。去年10月に農村部から始まった流行が都市部に移行、リカシ市(ルブンバシの北120キロ)では3885人が感染、31名が死亡した(国境なき医師団レポート)。日本ではこのぐらいの患者数で1人か2人の死亡にとどまるだろう。ワクチン120万個を用意したそうだ。
(麻疹の画像はネットで直ぐにみつかったが、こちらが痒くなってしまうので掲載を取り止めた)。
RDC – Faire face à l’urgence d’une épidémie de rougeole au Katanga

MSF et le ministère congolais de la Santé ont lancé, fin janvier au Katanga, une campagne de vaccination contre la rougeole. Pour enrayer une épidémie qui s'est propagée dans cette province de la République démocratique du Congo (RDC), les équipes doivent vacciner quelque 1,2 million d'enfants.

Les infirmiers préparent le vaccin contre la rougeole - Province du Katanga, RDC, janvier 2011
© Northan Hurtado / MSF
A peine les équipes MSF en collaboration avec le ministère de la Santé avaient-elles terminé la campagne de vaccination dans le district de Likasi qu'elles ont mis le cap sur Lubumbashi, la capitale de la province du Katanga en RDC. Le 4 février, les équipes se sont rendues dans plusieurs quartiers pour commencer à vacciner contre la rougeole près de 920 000 enfants âgés de six mois à quinze ans. La rougeole est une maladie qui peut être mortelle chez les enfants et la seule prévention reste la vaccination.
« L'épidémie a commencé à apparaître de manière disparate. Au début, à la mi-octobre, les zones rurales étaient les plus touchées. Puis les cas ont augmenté dans les zones urbaines, » observe le Dr Northan Hurtado, médecin référent à MSF. Au fil de la propagation de l'épidémie, à la mi-janvier, 3885 enfants avaient contracté la rougeole dans le district de Likasi, 31 en étaient morts. Lubumbashi était moins touchée avec 791 enfants malades. Il fallait donc commencer à vacciner rapidement pour enrayer l'épidémie. Mais organiser une grande campagne de vaccination n'est pas une mince affaire. La stratégie à suivre s'élabore en concertation avec les autorités nationales et des partenaires comme l'OMS. Or les approches divergeaient.
(以下略)

2月13日 le dimanche 13 février 2011 国際フランス放送のストライキgrève de la RFI

Le dimanche 13 février 2011
曇。7時、気温22℃、湿度70%。肌寒い。

「コンゴにとり残された日本人を父親とする子供たちの協会」の3人が僕の家にきた。先週ブルース君という学生から訪問してもいいかと訊いてきたので一人だけかとおもったら、実際に来たのは3人であった。この協会には47名の日本人の子供たちがいる。いま、日本人としての認知を日本大使館を通じて請求している。子供たちといっても、もう28歳から40歳近い。これから、養育放棄の賠償請求をするのだという。

アランが15時ころにやってきた。家に来たのは久しぶりである。

フランスの交際放送RFIがストライキ。先週の9日水曜日のことであるが、ラジオRFIを車の中で聞いていると、音楽ばかりが流れてくる。また、テクニカル問題かなと思っているとどうもそうではない。ストライキであった。RDCコンゴが拘っている。
もともとRFIは2009年7月から去年10月中旬までコンゴでの放送がストップされていた。RFIの放送記者デュポンGhislaine Dupontのレポートがキンシャサ政府の気に障ったためである。コンゴにとって不快な情報ばかりを報告しているとクレームした。フランスは放送再会に当たってRDCコンゴ政府となんらかの取引をした模様である。このほどデュポン記者は完全にRDC担当から外された。
放送の中立、独立が侵されたとフランス放送の組合は判断しストに及んだのある。
RDCコンゴ側は国益に反する放送内容というけれど、そもそも国民の「知る権利」をおろそかにしているのはコンゴ政府であろう。フランス放送としては、安易にキンシャサ政府に譲歩して欲しくない。
(画像は、「国際フランス放送」のRDCコンゴ担当記者ギレーヌ・デュポンGhislaine Dupontさん)
以下はル・モンド紙の記事。
Grève à RFI après la mise à l'écart d'une journaliste sous la pression de Kinshasa

Tandis qu'une mission d'information sur l'Audiovisuel extérieur de la France (AEF) et "ses dysfonctionnements" doit être constituée dans les prochains jours à l'Assemblée nationale, un mouvement de grève devait perturber, mercredi 9 février, les antennes de Radio France internationale (RFI), composante du groupe qui comprend aussi la chaîne de télévision France 24. Ce mouvement, motivé par le projet de fusion des rédactions, porte aussi sur la question de l'indépendance rédactionnelle de la "radio mondiale" à l'égard de pays autoritaires où ses émetteurs FM sont implantés.

Les syndicats de RFI réclament en effet "la levée de la sanction" frappant une journaliste qui a été "écartée du dossier de la République démocratique du Congo (RDC)". Selon eux, la direction de la chaîne a cédé aux pressions des autorités de Kinshasa qui, en juillet 2009, avaient coupé les six émetteurs de RFI après une longue série d'informations et de reportages qui leur avaient déplu.

En échange de la mise à l'écart de la journaliste, la chaîne avait obtenu, le 13 octobre, la remise en service de son service en FM dans le plus grand pays francophone du monde où, avant la coupure, elle jouissait d'une position dominante.
(以下略)

2月12日 le samedi 12 février 2011 ガン対策 contre canser

Le samedi 12 février 2011
雨。7時、気温23℃、湿度70%。

11時、断水。11時45分、回復。雨が降っているときに断水が多いような気がする。

14時、日が射してきた。

ピーマンの挽肉詰めを初めて作った。成功。

「RDCコンゴにはガン対策がない」と全国ガン撲滅同盟会長スル・マゼブ博士が語った。ガンの予防、早期発見、治療、そのどの分野についても全く対策がとられていないという。ガン死亡者数の統計もない。2月4日は「世界がんの日」だったそうだ。RDCコンゴの場合、遅れているのはガン対策だけではない。日本なら死にいたる病ではないマラリア、赤痢、糖尿病、いやインフルエンザでさえ、ばたばたと人が死んでいるのである。ガン対策ところのはなしではない。
(画像はエイズ・リボンではなく、ガン・リボン)

La République démocratique du Congo (RDC) ne dispose pas d’un plan de lutte contre le cancer, a déclaré samedi le président la Ligue nationale contre le cancer (LINAC), le Dr. Sulu Maseb A Mwang, en marge des 4èmes journées scientifiques du cancer en RDC qui se tiennent depuis vendredi à Kinshasa.

Le Dr. Sulu a à cet effet, a appelé les pouvoirs publics, les chercheurs et les médecins à s’impliquer dans la lutte contre cette maladie. Il a également plaidé pour la création en RDC d’une structure médico-administrative qui va s’atteler au contrôle de cancer en vue de permettre au pays de disposer des statistiques des personnes souffrant de cette maladie.

"La RDC ne dispose pas encore de statistiques réelles sur cette maladie", a-t-il déploré, avant d’affirmer que la lutte contre le cancer est encore au stade embryonnaire en RDC.

Pour le Dr. Sulu, le cancer est guérissable, mais il vaut mieux le prévenir. 80% des malades souffrant de cancer meurent pour s’être présenté tardivement pour les soins dans les hôpitaux, a-t-il indiqué.

Il a également fait savoir que les exercices physiques valent autant pour d’autres affections comme les maladies cardio-vasculaires, cardiaques, pulmonaires et le diabète. "Si chacun décidait de faire des exercices physiques, il y a moyen de pouvoir prévenir ces autres maladies", a-t-il affirmé.

La communauté internationale a célébré le 4 février 2011, la Journée mondiale contre le cancer, sur le thème "Activités physiques comme moyen pour prévenir certains cancers et d’autres maladies non transmissibles".

La LINAC de RDC a été créée dans le but de diminuer la mortalité due au cancer par la prévention, le diagnostic précoce et les soins adéquats.

13 février 2011

2月11日 le vendredi 11 février 2011 アフリカ専門誌カビラを批判 Jeune Afrique critique Kabila

Le vendredi 11 février 2011
晴。9時、気温25℃、湿度67,5%。

見たい映画がある。『The Cosntant Gardener』(邦題『ナイロビの蜂』)。原作は英国の同名の小説。2005年の映画だが、どこかにないかなぁ。アラン君に探してもらおう。

エジプトのムバラク大統領がやっと政権をあきらめたようだ。しかし、チュニジアにしろエジプトにしろ真の民主化は次の政権が選挙で選ばれてからはじまる。
チュニジアがジャスミン革命で、エジプトがナイル革命だという。アルジェリアがやれば、クスクス革命か。コンゴならライオン革命。
この民主革命の波は、アラブ世界に広がっているが、サハラを越してブラック・アフリカには飛び火していない。しかし、民主革命を一番怖れているのは、疑いもなく中国であろう。1989年天安門の再来。中国共産党を倒す運動だから、その規模は億単位のデモ、100万単位の犠牲者がでるにちがいない。この運動は遠からず起こるのは必至、今日明日ではないにしても。

アフリカ関連雑誌の中でもっとも影響力があるのが週刊誌「JA(Jeune Afrique)」であろう。JAの今週号にカビラの批判が載った。何故今になって、というのがRDC側の反応であるが、チュニジアやエジプトの民主化の動きと無関連ではない。批判の内容はかなりタッチーである。カビラ陣営がコンゴに入ってくる雑誌(JA)を買い占めたとの噂もある。

RDC : "Jeune Afrique" lâche Kabila
Est-ce "l'effet Ben Ali" ou "l'effet Moubarak " ? mais il ne fait plus bon être à la tête d'un régime autoritaire dans la presse occidentale actuelle. Dans le dernier numéro de Jeune Afrique (n°2612), le magazine dresse un bilan particulièrement sévère du président congolais, Joseph Kabila. Un temps loué pour avoir, à ses débuts, évité le pire à la RDC, Jeune Afrique estime que "10 ans après son arrivée au pouvoir, le président marche, hélas, sur les pas de ses prédécesseurs"... et compare Kabila à un "Mobutu Light". Jeune Afrique dénonce même un "système Kabila" basé sur la corruption et s'appuyant sur un gouvernement parallèle.

A Kinshasa, certains observateurs se demandent "pourquoi Jeune Afrique a-t-il attendu dix ans pour mettre à nu les méthodes et les pratiques" de Joseph Kabila ?... et pourquoi maintenant ? Le contexte international pousse certainement l'ensemble des journalistes (moi y compris) à revoir leur approche de certain régime en place. Quel journal ou magazine osait clairement qualifier Ben Ali de dictateur il y a encore quelques mois ? Aucun... avant son effondrement aussi rapide qu'imprévisible. En Afrique, les dictateurs ou apprentis dictateur son légion... et les régimes dits "autoritaires" représentent la quasi totalité des pays du continent. En République démocratique du Congo (RDC) comme ailleurs, 15 années de guerres ininterrompues ont vu se succéder des chefs d'Etat dont la priorité première n'a jamais été la démocratie... de Mobutu...à Kabila fils. Des dirigeants qui ont fonctionné à la répression, à l'intimidation, sans se soucier des droits de l'homme, de la liberté de la presse ou de la sécurité de leurs concitoyens.

Si les premières années de la gouvernance Kabila ont suscité une certaine bienveillance dans la presse internationale (sa jeunnesse, sa discrétion, le 1+4... ), 10 ans plus tard, le président Kabila "déçoit"... selon François Soudan de Jeune Afrique. A 10 mois d'un prochain scrutin présidentiel en RD Congo, le bilan de Joseph Kabila dressé par Jeune Afrique est très négatif. L'hebdomadaire panafricain dénonce également un système quasi-mafieux à la tête de l'état congolais, pourvu d'un gouvernement parallèle :

« Comme sous Mobutu, comme sous Kabila père, les gros dossiers se traitent au sein de cabinet noir, surtout ceux qui, financièrement, pèsent lourd. La très juteuse revisitation des contrats miniers a ainsi été directement pilotée par Katumba Mwanke et Didier Etumba. Le fameux contrat chinois a été géré de A à Z par la gouvernement parallèle, tout comme les marchés de gré à gré qui ont suivi. »

« Comme sous Mobutu, comme sous Kabila père, dans un environnement faisandé où le cach est roi et la corruption reine, des conseillers occultes (de Joseph Kabila) font le lien avec l’univers mondialisé des Bourses, des placements et des paradis fiscaux. »

« A Vital Kamerhe, lorsqu’il avait besoin de lui, Joseph a tout promis, ou presque. Qu’il serait son Premier ministre, cela va de soi, puis son dauphin désigné, puis son successeur quand, en 2016, après deux mandats accomplis, il se retirerait dans sa ferme. Tout en le couvrant de cadeaux pour l’anesthésier- montres serties de diamants, chaussures, cravates, bibelots de valeur- il (Joseph Kabila) se libère ainsi habilement de l’obligation de nommer le secrétaire général du PPRD au poste de Premier ministre. »

Et puis, il y a le business du multimillionnaire Israélien Dan Gertler, « devenu plus puissant que Forrest » avec la revisitation des contrats miniers. « De fait, après le jackpot de Katanga Mining, lancé en partenariat avec Forrest avant une cession au géant suisse Glencore, on n’arrête plus Gertler. Tout porte à croire qu’il est avec des associées Congolais- derrière l’énigmatique Higwind Properties, basé aux Iles Vierges britanniques. C’est cette société qui a assuré le portage sur le permis minier de Kolwezi retiré sans indemnités, en août 2009, aux Canadiens de First Quantum et revendu, en septembre 2010, aux Kazakhs d’Eurasian Natural Resources Corporation (ENRC), pour 175 millions de dollars (128 millions d’euros). Une sacrée belle affaire. Les Canadiens affirment avoir investi, en pure perte, 450 millions de dollars sur un gisement estimé à 1 million de tonnes de cuivre et 400 000 tonnes de cobalt. » note Jeune Afrique dans son dossier de 14 pages sur le système Kabila.

Un portrait sans complaisance...qui tombe seulement 10 mois avant l'échéance présidentielle, prévue en novembre 2011.

Christophe Rigaud

2月10日 le jeudi 10 février 2011 ワールド・ヴィジョン Vision Mondiale à Kipushi

Le jeudi 10 février 2011
快晴。

台所にオレガノの香りが立ち込めている。コンゴに来て初めてオレガノを使った。ルガノにいたときは、オレガノをトリをオーブンで焼くときによく使った。やはりイタリアの香りだなぁ。今日はオレガノをまぶして豚のローストをフランパンで作った。

プシ市にもある米系大手NPO「World Vision」(以下WV)を訪問した。責任者はフロランスさん。「World Vision(フランス語名はVision Mondiale)」はRDCコンゴに27ヶ所の事務所を持っている。主な活動は、1)チャイルド・スポンサー(教育里親制度)。キプシでも4300人の子供たちがWVの援助を受けている。2)教育支援。学校の先生たちの再教育。3)健康支援。エイズ患者のケア支援。4)食料自給支援。300haのトウモロコシ畑、2haの大豆。植林もはじめた。以上が柱であるが、学校、病院、農場等は持っていない。全て資金協力のみである。
コンゴのWVの事務所はそれぞれファイナンスを担当する国が決まっている。キプシは米国。リカシ市には4ヶ所事務所があるが、それぞれ韓国、カナダ等が担当、リカシ市カンボベ地区のWVは日本のWVがファイナンスしている。従って、教育里親も日本人だけである。こんなに日本とリカシ市が近いとは知らなかった。リカシ市はルブンバシ、コルウェジとならんで鉱山の町である。ルブンバシの北約120キロに位置する。キプシの場合は、USAがファイナンスしているので里親はすべて米国人である。
なおWVは米国発祥であるが、最近本部をスイスに移したそうだ。
大手NPOだけあって、相当の経費がかかっていそうだ。警備会社の警備員までいた。キプシでは珍しい。

2月9日 le mercredi 9 février 2011 金の密輸 trafic d'or

le mercredi 9 février 2011
晴。7時、気温24℃、湿度65%。

ネット不通。8時回復。

アメリカ人、フランス人およびナイジェリア人(二人)がゴマ市警察から金密輸取引の疑いで事情聴取を受けている。北キヴ州はなお反政府軍との戦闘が続いている。反政府軍というと大儀があるようだが、要は武装窃盗団である。この武装窃盗団の資金源がレア・メタルや金の密輸出だ。上記4人はアメリカ国籍のジェット機で多額の現金(数百万ドル)を持ってナイジェリア経由コンゴのゴマ市にやってきた。コンゴ側捜査員は435,6kgもの金を押収した。

RDCコンゴは国連、米国政府、EUなどから、戦争の資金源となる密輸取引取締りについて近時とみに圧力を受けている。RDCコンゴの国内法の整備も終わっている。今後疑わしい取引は減っていくと思われる。たとえば、南アではRDCコンゴからの車両や旅行者は厳しくチェックされる。タンザニア、ケニアではまだチェックが甘いとされるが、何れ厳しくなろう。金にせよ、コルタン等のレア・メタルにせよ、正式に輸出することができるのであるから、密輸出などの手段を避けた取引をすべきである。
(画像は砂状の金。延棒で取引されるよりも砂状か粒状の金の場合が多いようだ)。

RDC/trafic présumé d'or: un Américain, un Français et 2 Nigérians encore interrogés
GOMA (RDCongo) - Un Américain, un Français et deux Nigérians étaient toujours interrogés mardi à Goma, dans l'est de la République démocratique du Congo (RDC), dans le cadre d'une enquête sur un trafic présumé d'or, a-t-on appris de sources concordantes.

"Il y a un Américain, un Français et deux Nigérians qui sont toujours en garde à vue" à Goma, a déclaré à l'AFP une source sécuritaire au chef-lieu de la province du Nord-Kivu, où des groupes armés sont actifs et régulièrement accusés de se financer grâce au trafic illicite de minerais, dont la région regorge.

Ces quatre personnes avaient été interpellées en fin de semaine dernière après l'atterrissage de leur avion, immatriculé aux Etats-Unis, le 3 février à Goma, "avec une importante somme d'argent, en millions de dollars américains, pour une transaction d'or", avait indiqué lundi le gouverneur de la province, Julien Paluku.

Par ailleurs, quatre autres personnes, membres de l'équipage de l'avion -trois Américains et un Nigérian- ont été rapidement laissées libres.

M. Paluku avait précisé à l'AFP que 435,6 kg d'or avaient été interceptés par les enquêteurs, mais refusé d'indiquer la somme d'argent saisie.

L'avion, un jet bi-réacteur toujours immobilisé mardi sur le tarmac de l'aéroport de Goma, venait d'Abuja au Nigeria, et serait basé à Houston (Texas), selon des sources concordantes.

Le gouverneur avait indiqué qu'il s'agissait "peut-être d'un des réseaux qui alimentent la guerre à l'Est".

Confirmant des informations de presse, une source onusienne a indiqué à l'AFP que des militaires congolais, proches du général Bosco Ntaganda, un ex-rebelle rallié à Kinshasa avec ses hommes début 2009 et intégrés à l'armée, avaient été vus près de l'avion peu après son atterrissage, portant un colis et des caisses métalliques.

Des membres de la Garde républicaine (ex-garde présidentielle) auraient tenté d'intervenir, mais en auraient été empêchés par les militaires.

Ce sont les services de sécurité civil et de l'armée qui auraient finalement saisi l'or et l'argent, et interpellé les quatre passagers de l'avion, selon la source onusienne.

Le colonel Wilson Sengivuva, chargé du renseignement au sein de l'armée congolaise à Goma, a démenti mardi à la presse l'implication de militaires dans le trafic d'or, l'armée ayant au contraire contribué au démantèlement de trafic.

"Nous avions accepté d'aider ces voleurs, dans le but de les attraper. Nous étions au courant de l'opération depuis 3 semaines. Un vendeur (d'or) nous avait contacté", a-t-il affirmé.

"Nous avons saisi des faux billets dans une grosse valise cadenassée que nous avons détuite", a-t-il ajouté précisant que 456 kg d'or avaient été récupérés.

Le nom du général Ntaganda a été évoqué car c'est lui qui était de permanence à ce moment-là à Goma, en l'absence de ses supérieurs, a-t-il ajouté. "Nous avons eu les félicitations du chef de l'armée", a-t-il conclu.

Cette affaire intervient alors que l'exploitation minière au Nord-Kivu, Sud-Kivu et Maniema (est) a été suspendue depuis septembre par le président de la RDC Joseph Kabila, qui avait dénoncé l'implication d'autorités civiles et militaires congolaises dans le commerce illicites de minerais (cassitérite, coltan, or...) dans la région.

(©AFP / 08 février 2011 20h17)

2月8日 le mardi 8 février 2011 ケン・ブグル『狂気と死』«La Folie et la Mort» de Ken Bugul

Le mardi 8 février 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度65%。
18時半、室内気温28℃、湿度52.5%、一日天気がよかった。しかし暑いという実感は全くない。

ケン・ブグルKen Bugul『La Folie et la Mort狂気と死』(2000年、235ページ)を明日返すために集中して最後の50ページを読んだ。
ストーリーは全く僕の予想を超えていた。一旦は泉鏡花の世界を連想したが、むしろ作者が現在住んでいるベナンの民話の世界が影響しているのだろうか、発想が突飛である。非常に面白い。あっと云わされた。この作品でも前作『リワン』のような具象的世界が展開するものと思っていたら、第3話に入ったところで、シュールな世界に飛び込んだのだ。また、夢と現実が奇妙に連続する場面もある。ひとつの実験小説の側面があるのではないか。
主人公、大学出の若い女性Mom Dioumは都会から生まれ故郷の村に帰ってくる。ところが、彼女の女友達Fatou Ngouyeに「生まれかわるためには死ななくちゃ」という言葉を残して失踪する。実は消え行く伝統である刺青をするために村を再び出たのであった。しかも唇の刺青。その刺青の信じがたい痛さに2/3を終えたところで刺青師から逃げ出す。
一方、娘が失踪したので、両親が従兄弟の青年Yoroと親友Fatou Ngouyeに捜査を依頼する。二人は始めての都会に上る。
いかにもアフリカ的独裁者のいる想像上の国を舞台として、現代のアフリカ病(貧困、失業、戦争、政治的腐敗等)を背景に、主人公たちが次々と「不条理に」殺されてしまう。この不条理さは作者の年齢からみて(1947年生まれ)、1960年代の実存主義哲学の影響が強いように思う。しかし、作者は彼らの死は選択であるという。狂気を生きるか、死を選び取るかである。死を選ぶにしても自殺ではなく、殺されることの受容なのであるが。この選択というキーワードは、前作『リワン』では、一夫多妻の受容、「婚姻は人生の選択」としてつかわれていた。
小説の結末には、主人公たちが全員殺されてしまうのだからこれ以上続きようのない小説ではある。しかし、面白かった。

ベナンの民話(おとぎ噺)の例として次のサイトがあった。
こんな話がのっていた。「豹が美しい娘に化けて町の市場に行く。それを見ていた猟師が残された豹の毛皮を隠してしまう。買い物から帰ってきた娘は元の豹に返りたいが毛皮がみつからない。途方にくれている娘(豹)に、猟師がいいよって妻にしてしまう。絶対に娘の正体を云わないと約束して。家には既に別の妻と子供が6人いた、、、」。訓話になっていて、結論は、女性には失礼ながら、「女は愛しても、信じてはいけない」というものである。
http://books.google.com/books?id=HXXWwO0r-hwC&pg=PA124&lpg=PA124&dq=moutarde+benin&source=bl&ots=PHMP-aAED6&sig=CNNLjGz3cLD20CrZfTqFqAw2VDU&hl=fr&ei=AChRTcafNsP-8AbxvMTfCQ&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CCEQ6AEwAg#v=onepage&q&f=false

12 février 2011

2月7日 le lundi 7 février 2011 Wikileaks

Le lundi 7 février 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度70%。
久々の快晴だが、一日、どう天気が変化する全く予想できない。

今年に入って一番暑い日だったかもしれない。15時、室内で26℃、湿度50%。快適。乾季並みに水を飲んだ。

近所の八百屋、といっても露天だが、この間まで売っていたエシャロットがなくなって、長ネギになった。同じ野菜の仲間だろうが、畑になくなったら売り切れということだ。新鮮なピーマンがあったので長ネギとあわせて買った。

断水。11時ころからか。19時半に回復。

Wikileaksの影響がRDCコンゴにも現れた。カビラ大統領が、2009年3月国会議長を辞任に追いこむために賄賂を配ったというもの。当時の議長は、今年の大統領選に立候補を表明したヴィタル・カメレであった。カメレはカビラ大統領がRDCコンゴ東部において、国軍と隣国ルワンダの軍隊が共同して反政府軍掃討作戦を展開することに反対した。在コンゴUSA大使がワシントンにレポートした内容が「リーク」されたのである。即ちカビラは、20万ドルを国会事務局メンバーに配り、強力にカメレ退任の圧力をかけた。
しかし、カメレに対する米国大使の評価も辛辣で、「カメレは嘘つきで策謀家」といっている。こんな風にリークされると大使もなにも言えなくなってしまうのか、それとも意に介しないか。

Kabila accusé de pots-de-vin pour évincer le président de l'Assemblée

BRUXELLES - Le président de la République démocratique du Congo (RDC) Joseph Kabila a exercé en mars 2009 une forte pression et versé des pots-de-vin pour évincer le président de l'Assemblée nationale, selon un câble diplomatique obtenu par Wikileaks et publié lundi dans un journal belge.
Le président de l'Assemblée, Vital Kamerhe, longtemps proche de Joseph Kabila, avait démissionné le 25 mars 2009 après avoir été mis sous pression par la majorité présidentielle pour avoir critiqué l'entrée de troupes rwandaises dans l'est de la RDC lors d'une opération conjointe avec l'armée congolaise.

L'ambassadeur américain à l'époque, William Garvelink, explique, dans un câble envoyé à Washington trois semaines avant cette démission, que la «présidence» de la république congolaise a versé «200 000 dollars à chaque membre du bureau de l'Assemblée» pour qu'ils quittent leur fonction et entraînent ainsi le départ de M. Kamerhe.

Cela n'ayant pas immédiatement réussi, «notre plus grande crainte concerne des rapports, corroborés par plusieurs sources, indiquant que les hommes du président utilisent à présent l'intimidation et des menaces physiques pour pousser M. Kamerhe à quitter la scène», ajoutait l'ambassadeur américain dans un câble publié par le quotidien De Standaard (http://standaard.be/extra/wikileaks/cablekabila).

«Nous considérons que M. Kamerhe a été intimidé et que ses inquiétudes quant à sa sécurité peuvent être sincères», ajoutait-il.

M. Garvelink dressait par ailleurs un portrait peu flatteur de l'ancien président de l'Assemblée. «Sa réputation de leader modernisateur, démocrate et honnête ne correspond peut-être pas tout à fait à la réalité», écrivait-il, en le décrivant notamment comme «menteur» et «manipulateur» et en évoquant des accusations de corruption à son encontre.

M. Kamerhe, 52 ans, est à présent candidat déclaré à la présidentielle de novembre 2011 sous la bannière de son propre parti, l'Union pour la nation congolaise (UNC).

Il a critiqué la réforme de la Constitution adoptée en début d'année, qui a fait de cette élection un scrutin à tour unique, un changement dénoncé par les opposants à Joseph Kabila comme une manoeuvre pour assurer sa réélection.

2月6日 le dimanche 6 février 2011 スイス La Suisse

Le dimanche 6 février 2011
晴。7時、気温23℃、湿度70%。
朝6時、素晴らしい朝焼けだった。

20時、ネット不通。

24歳のRDCコンゴ出身でスイスはフリブール在住の青年が中国で1ヶ月も勾留されている。
在北京スイス大使館は自国民でもないコンゴ人のために動いている。

Parti pour affaires en Chine, un Congolais de Fribourg est détenu

Parti en prospection économique en Chine, un Congolais de 24 ans établi à Fribourg est détenu depuis un mois en Chine. Un problème de passeport semble être à l'origine de sa mésaventure. Les autorités congolaises et helvétiques se préoccupent de son cas.

"Nous sommes en contact avec la famille de notre ressortissant et avons tout de suite écrit à l'ambassade de Chine à Berne. Notre ambassade en Chine a fait de même avec les autorité chinoises", a assuré la chargée des affaires administratives auprès de l'ambassade de la République démocratique du Congo (RDC) à Berne, confirmant une information de "La Liberté".

Pour le moment, les représentants congolais n'ont pas obtenu de réponse chinoise. D'après les informations fournies par la famille, le jeune homme se verrait reprocher des irrégularités concernant son visa.

Solution rapide
Du côté du Département fédéral des affaires étrangères (DFAE), le porte-parole confirme que l'ambassade de Suisse en Chine a pris contact avec les autorités chinoises, avec la famille, ainsi qu'avec l'ambassade congolaise afin "de contribuer à une solution rapide".

Le DFAE a rappelé qu'il octroie la protection consulaire aux ressortissants suisses. Pour les personnes établies en Suisse, ce sont normalement les autorités du pays d'origine qui sont compétentes, en l'occurrence la RDC.

07 février 2011

2月5日 le samedi 5 février 2011 空港での猿芝居 mise en scène à l'aéroport de Luano-Lubumbashi

Le samedi 5 février 2011
曇。7時、気温23℃、湿度75%。

庭師アンドレさんが、アボカドの苗木を買ってきた。食べたアボカドから芽を出せようとしたが、上手くいかないので苗を買うことにしたのだ。植えた苗の周りをレンガで囲んだ。マドンナの悪戯と隣家の黒山羊から苗を守るためだ。

日のルブンバシ空港事件は不思議な事件である。なんらかの「演出」だろうというのが今のところの印象だ。20名ほどの兵が発砲したというのだが、建物にも飛行場内に駐機していた11機の機体にも弾痕がひとつも見当たらなかった。戦闘の形跡がないのだ。しかし、警備会社の警備員が一人殺害されており、何故彼だけが犠牲になったのかわからない。国連の平和部隊が空港にはいるが、彼らも攻撃も応戦も見ていない。カタンガ州知事モイーズ・カトンビは事件の調査委員会を設置するが、ともかく死者1名、負傷者人1名が出たからで、この「猿芝居」になんの意味があるのかわからない、とそれ以上のコメントを控えた。国軍の中尉が怪我をしているが、彼は「戦闘」の犠牲者なのだろうか。亡くなった警備員は流れ弾に当たったのだろうか、それともこの「猿芝居」の裏を見られて都合が悪く「消された」のだろうか。謎はなぞを呼ぶ。いずれにせよ、今回の事件は反乱軍が空港を制圧しようとしたというような代物ではない。

En RDC, mystérieuse attaque de l'aéroport de Lubumbashi

L'aéroport international de Lubumbashi, RDC, en avril 2006.
DR
Par RFI
En RDCongo, beaucoup de questions restent sans réponse au lendemain de la mystérieuse attaque attribuée à des séparatistes katangais sur l’aéroport de Lubumbashi. Pas de dégâts, et encore moins de traces de combats, c’est ce que l’on peut constater 24 heures après cet événement qui a semé la panique dans le chef-lieu du Katanga.

Des tirs, il y en a eu certainement, des témoins dignes de foi les ont entendus. En revanche, il n’y a pas de traces de combats sur l’aéroport. Pas un seul trou sur les façades du bâtiment. Et surtout, à l’heure où cet incident s’est déroulé, il y avait 11 avions stationnés sur cet aéroport qui n’est pas très grand. Pas un seul de ces appareils n’a reçu ne serait-ce qu’une balle perdue.

Les seuls dégâts visibles sont quelques vitres cassées à la guérite d’entrée de la zone aéroportuaire, sans que l’on sache si elles étaient peut-être déjà cassées depuis longtemps.

Les surveillants de la zone occupée par la Monusco (Mission des Nations unies en RDC) ont certes vu des « soit-disant » assaillants, mais à aucun moment ils n’ont constaté de combats, ni même de poursuites à leur encontre.

« Une commission d’enquête est constituée pour faire la lumière sur ces événements » promet le gouverneur de la province Moïse Katumbi. Le gouverneur pense à « un sabotage » mais ne veut pas se prononcer sur « qui aurait intérêt à une telle mise scène ». « S’il y a une commission d’enquête, c’est parce qu’il y a eu un mort et un blessé » dit-il.

Le blessé, un lieutenant, a-t-il été victime d’un accident ? Le mort, un gardien, a-t-il été victime d’une balle perdue ? Ou bien a-t-on voulu se débarrasser d’un témoin gênant de cette mise en scène ? Ces questions restent en suspens.

05 février 2011

2月4日 le vendredi 4 février 2011 ルブンバシ空港襲撃? attaque de l'aéroport de Lubumbashi ?

Le vendredi 4 février 2011
晴。7時、気温22℃、湿度70%。

今朝未明4時、ルブンバシ空港で武装集団が発砲事件を起こしたそうだ。ニュースでは空港を指揮下に置こうという武装集団だという。空港は5時間ほど閉鎖されたが、その後は通常に機能した。去年も似たようなことがあったが、またまた亡霊のような元カタンガ憲兵隊のようだ。元憲兵隊の半分は一時金500ドルと自転車を支給されてそれぞれの国許に帰ったが、あと半分がルブンバシに残った。解散資金はベルギーの援助で全員分あったらしいが、途中で消えてしまった。残された半分は、だから時々「デモ」(示威運動)として立ち上がる。だが、武器をもっているから物騒だし、人騒がせである。歴史的な存在で、当事者である元憲兵は30年以上前のカタンガ州独立運動の闘士に違いないけれども、最早ついていく若者がいないロートルばかり集団になっている。それにも拘らず、武装解除出来ないのは国軍の甘さである。
ただ、上記はひとつ仮定で、他の話もある。たとえば、カビラ大統領の親衛隊(通常の国軍ではなく、大統領の身辺を守るいわば近衛兵)が、「いつものように」輸送機から貨物を一部抜き出そうとしたところ、ということは、親衛隊は大統領の威を借りて窃盗行為を行っているということだが、今回は空港警備の民間警備会社ガードマンおよび国軍兵士と衝突してしまったというもの。これもありえない話ではない。

さきほど「ロートル」と書いた。「ロートル」(老頭児)などというと死後だと若者がいうかもしれない。しかし、それは若者じゃなくて馬鹿者。流行語しか使わないこと、古い表現を知らないことを恥としないのだから呆れる。そういえば、ネットでの討論を読んでいたら、北杜夫を知らない奴がいた。「知らないのか常識がない」といわれて、件の無知なる男は、「今、誰も読まない、売れていない作家までフォローできない」とほざいた。では、斎藤茂吉も勿論知らないのだろう。

キンシャサの日本大使館の安全担当官から電話とメイルによる連絡を9時半頃にいただいた。ルブンバシ空港の発砲事件についてだ。自宅待機せよ、外出は控えよとの「お願い」である。それはそれでよい。ところが、新しい情報が入ったらまた連絡するといいながら、その後のフォローは全くなかった。幸いにしてネット接続に今日は問題がなかったから、ネットでこのニュースを追いかけていた。Googleのフランス語ニュースを更新するたびに状況がわかってきた。21時になって「午前9時頃(現地時間)に砲撃戦が終了し、空港警備の統制が回復されました」というメイルが入ってきて自宅待機解除。
こんな瑣末な事件で、日本大使館は「やっぱりルブンバシもまだまだ危ない」というつもりはだろうか。とすれば、迷惑千万。カタンガ州には日本人が現在3人しかいない。誰に大使館は情報を流しているつもりなのだろう。シスター・アスンタさんはコンゴ30年の大ベテランである。シスターは温厚にして礼節をわきまえていらっしゃるから、きっと「貴重な情報をありがとうございます」とおっっしゃっただろうけれど、話は逆なのだ。大使館はシスターから情報を三拝九拝して戴く立場にあるのだ。そうすれば、21時ではなく、午前中にも事情がわかり、自宅待機解除ができたはずである。シスターは教会というこの国最大の情報網を持っているのである。

RDC: Attaque armée de l'aéroport de Lubumbashi
Mis à jour le 04.02.11 à 14h53
Une vingtaine d'hommes armés ont attaqué ce vendredi l'aéroport de la ville minière de Lubumbashi, dans le sud-est de la République démocratique du Congo (RDC), a annoncé le gouvernement de Kinshasa. Cette attaque a entraîné la fermeture des installations pendant cinq heures.

Dans les premières heures de la journée, les assaillants ont voulu prendre le contrôle d'un dépôt de munitions utilisé par les services de sécurité de l'aéroport, a dit à Reuters le ministre de l'Information, Lambert Mendé.

«Nous attendons un rapport pour savoir exactement qui étaient ces gens. Tout est rentré dans l'ordre maintenant et les vols ont repris», a-t-il ajouté. La police a arrêté plusieurs suspects et s'est lancée à la poursuite des assaillants. On ignore si cette attaque a fait des victimes.

2月3日 le jeudi 3 février 2011 ドイツ Allemagne

Le jeudi 3 février 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。

隣家のエリティエ君から買ったアボカドが熟してきたので食した。美味い。坊や、これは儲かると思ったのかどんどん持ってくる。ルブンバシで買うと500から1000フラン。坊やには、大きさによって価格を変えて、ごく小さなアボカドは100、大きいもので300とした。ここいらでは、まだ青く固いアボカドはトウモロコシ粉の中に数日いれておくのだそうだ。しかし、米の袋にいれても、熟するのが早くなるとアスンタさんからも聞いた。

今年に入ってから、「日本カタンガ協会」のメンバー申し込みおよびご寄付を5名さまからいただいた。世田谷のTさん、Kさん、Yさんは去年ルブンバシにいらっしゃった方々、関西のSさんは、僕のメイルマガジン「週刊フランスのWEB」以来の理解者、そして神奈川のTさんである。神奈川のTさんは3月中旬カタンガにいらっしゃる。米系のNPOを通じてみなさん、ありあgとうございます。

本誌読者の諸姉諸兄、あなたも、是非「日本カタンガ協会」のメンバーになってください!

ドイツがRDCコンゴにエール。ドイツ外務省のアフリカ局長がキンシャサでコンゴのムジト首相と会談。今年と来年の援助として1億5000万ユーロを用意した。さらに、今後の関係強化を模索中。

150 millions d’euros, l’appui de l’Allemagne à la RDC pour 2 ans

Une enveloppe de 150 millions d’euros a été souscrite par son pays pour intervenir en RDC pendant deux ans, a annoncé le directeur général pour l’Afrique au ministère allemand des Affaires étrangères, M. Walter J. Lindner, à l’issue des entretiens qu’il eus mercredi à Kinshasa avec le Premier ministre congolais Adolphe Muzito.

M. Walter J. Lindner a indiqué à cette occasion, que la RDC et l’Allemagne réfléchissent actuellement sur les possibilités d’ améliorer leurs relations et examinent dans quelle mesure le Congo peut tirer profit de ses énormes ressources naturelles, en les exploitant de façon optimale.

Le responsable allemand a insisté sur les potentialités dont regorge la RDC, avant d’affirmer qu’il faut une stabilité durable au pays pour les capitaliser. « La stabilité de la RDC va booster celle de l’Afrique, eu égard à la position stratégique de ce pays au sein du continent », a encore souligné M. Walter, ajoutant que son pays a promis d’appuyer la RDC dans les domaines de la sécurité et de la réforme du système juridique pour que cette stabilité soit effective.

Par ailleurs, le directeur général pour l’Afrique qui s’est fait accompagner pour la circonstance de l’ambassadeur allemand en RDC, Dr Peter Blomeyer, a dit que son pays va mettre à profit sa place au sein du Conseil de sécurité de l’ONU pour faire un plaidoyer en faveur de la RDC et faire connaître les réalités de ce pays à la Communauté internationale appelée à avoir une oreille attentive aux problèmes de ce pays.

On rappelle que dans le secteur sécuritaire, l’Allemagne apporte son soutien en RDC à travers trois missions à savoir la MONUSCO, l’EUSEC et l’EUPOL. Parallèlement à cette demande, l’ Allemagne développe en RDC de nombreux projets dans les domaines de la desserte en eau et de la micro finance. (Xinhua)

2月2日 le mercredi 2 février 2011 貨物列車事故(西カサイ州) accident ferroviaire au Kasaï Occidental

Le mercredi 2 février 2011
曇のち晴。7時、気温22℃。湿度70%。

15時半の会合が市の主任の出席が必要ということで17時から開始したため、帰宅が20時になってしまった。キプシに着くと異常に暗い。街灯がついていないからだとわかった。果たして、家も停電だった。先日灯油を買っているので、食事は作れた。でもコンロが1台しかないから時間がかかる。電気は21時55分になって回復。

マドンナに夜食を与えなかった。放すと夜陰に紛れてどこに遊びに行ってしまうかわからないからである。仔猫ちゃんたちはいつも通り夜食。

2日朝、ルブンバシとカナンガを結ぶ国鉄の貨物列車が脱線した。現場は既にカサイ州のチンブルTshimbulu町近く。。
カナンガはカタンガ州の北西に隣接する西カサイ州の州都である。コンゴがベルギーから独立しようとしていたとき、一時カナンガを首都にしようという考えがあった。コンゴのほぼ中心と考えられたためだ。西カサイはダイヤモンドを産出する州として有名である。
貨物列車なのに、「乗客」が14名死亡した。怪我人も相当出ている模様だ。乗客は貨物列車に不法便乗したわけだが、子供たちの遊びではなく、国鉄も不法と知りながら目をつぶっているいるのにちがいない。カ
サイ州の現場付近は地盤が悪く、よく列車が脱線するらしい。鉄道のメンテナンスも最低だから、列車に乗るのも命懸けである。
(記事はRFI-フランス国際放送のサイト、列車の画像は事故現場ではなく、単に参考である)。
14 morts lors du déraillement d’un train dans le centre de la RDC
RFI.
14 personnes ont été tuées, ce mercredi 2 février 2011 au matin, lors d’un accident ferroviaire en République démocratique du Congo. Plus de 20 autres personnes qui avaient pris place sur le toit des wagons ont été blessées.

L’accident s’est produit sur la ligne Kananga-Lubumbashi qui relie le Kasaï Occidental à la
province minière du Katanga. Le train de marchandises a déraillé vers 9 heures locales (08H00 Temps universel), à cinq kilomètres de la gare de Tshimbulu, une ville de la province du Kasaï Occidental.

Un habitant qui a été l’un des premiers à avoir porté secours a indiqué à RFI que « cinq wagons se sont écroulés, il y avait beaucoup de passagers à bord. On a trouvé 14 personnes inertes, parmi lesquelles deux enfants et cinq femmes ». Les blessés ont été évacués vers l’hôpital de Tshimbulu.

Selon le même témoin, contacté en fin de matinée, les services de la Société nationale des chemins de fer du Congo (SNCC) n’étaient pas encore arrivés, pour relever les wagons du train déraillé.

2月1日 le mardi 1er février 2011 ゾンゴ発電所 centrale de Zongo

Le mardi 1er févier 2011
晴。7時、気温23度、湿度67,5%。

僕の寝室の壁掛け時計の電池が切れた。ベルギー製のPanasonicだった。90日も持たなかった。中国製だが、P&GのブランドであるDuracellに取り替えた。アフリカで売っている電池は「安かろう悪かろう」だけではない。メーカ品でも何時輸入されたものかわからないからだ。
8時、ネット不通。9時20分、回復。

RDCコンゴの電気普及率は6%しかないそうだ。アフリカ平均が20%である。キンシャサやルブンバシなどの大都会では年がら年中停電がある。停電が数日続いたりする。地方では電気が来ていない村々であふれている。1980年に比べて、つまり30年前に比べて一人当たりの電気消費量も激減している。こんな状態のコンゴの発電所建設に中国が3億6000万ドルの借款を供与する。キンシャサの西130キロ、バ・コンゴ州のゾンゴ発電所建設である。

RDC: 360 M USD de la Chine pour la construction d'une centrale électrique

KINSHASA (RDCongo) - La Chine a accordé à la République démocratique du Congo (RDC) un prêt de 360 millions de dollars pour la construction d'une centrale hydroélectrique à Zongo (ouest), a-t-on appris lundi auprès du ministère congolais des Finances.

Cet accord a été signé à Kinshasa par le ministre congolais des Finances, Augustin Matata Ponyo et l'ambassadeur chinois en RDC, Wang Ying Wu.

Ce prêt, remboursable sur une durée de 20 ans, servira à la construction de la centrale de Zongo, à 130 km de Kinshasa, sur la rivière Inkisi, dans la province du Bas-Congo (ouest), avec une puissance de 150 mégawatts.

L'énergie que produira cette centrale servira au renforcement de l'alimentation de la ville de Kinshasa et une partie de la province du Bandundu (ouest), précise-t-on.

La RDC a actuellement un des plus bas indicateurs de consommation d'énergie du monde: faute d'investissement et du fait de la croissance démographique, la consommation d'électricité par habitant est passée de 161 kilowatt/heure en 1980 à 91 kWh en 2002, indique la Banque africaine de développement (BAD).

Fin décembre 2010, la BAD avait accordé à la RDC un financement de 106,6 millions de dollars US pour la réhabilitation et l'extension du système de distribution d'énergie électrique de Kinshasa et des localités choisies dans quatre provinces du pays.

Le taux d'électrification de la RDC est de 6% alors que la moyenne africaine est de 20%.

(©AFP / 31 janvier 2011 13h25)