Le 5 novembre 2010, vendredi
薄曇、のち晴。
カリスト・ベヤラCalixte Beyala『La Plantation』を読了。454ページだが、文字が大きくページの行が詰まっていないのでページ数ほど読むのに苦労はなかったが速読してしまったことは確かだ。問題は内容だ。舞台はジンバブウェ。
ジンバブウェは旧南ローデシア。1965年以前に生まれた人は、日本の新聞でもイアン・スミス・南ローデシア首相の悪あがきそして内戦が長期に渡って報道されたから覚えている方も多いだろう。ローデシアはケープ植民地の首相だったセシル・ローズCecil Rhodesに因んで名付けられた。ローズはローデシアを植民地経営していたイギリス南アフリカ会社の創設者でもある。1901年に北ローデシアと南ローデシアに分かれた。北ローデシアが独立してザンビアとなった(1964年)。南ローデシアがジンバブウェとして独立を果たしたのは1980年4月である。首相そしてまもなく大統領となったのがムガベRobert Mugabeである。以来今日までムガベが権力を握っている。ジンバブウェの首都はハラレHarare、元サリスバリーSalisbury、美しい首都のようである。ムガベは2000年4月、農地改革を強行する。農地改革とは、白人プランテイションを取り上げて、ムガベの側近に分け与えるものであった。
閑話休題。この農地改革断行がベヤラの小説の時代背景である。主人公は白人のプランテイション経営者コルニュ家の18歳になる娘ブルースBlues。時代背景は面白い、満86歳のムガベがまだ政権の座にいるという生な面があるが、壮大な現代歴史を背負っているのであるが、僕の評価は悪い。三文小説だ。矢鱈とベッド・シーンが出てくる、レスビアンまで描かれている。それを非難するつもりはない。しかし、ムガベの農地改革への切込みが浅い。土地に執着するのは『風とともに去りぬ』と同じで、裏表紙では比肩させているが、スカーレットとブルースではタマが違う。出版が2005年で作家44歳の頃の作品である。アフリカ出身の黒人だからといってアフリカ全部が書けるわけではない。彼女はカメルーン生まれ、17歳でパリに出てしまっている。既にアフリカは遠いのではないか。しかもジンバブウェはカメルーンとは文化が番う。ムガベが敢えて農地改革をした背景には、現カビラ・DRC大統領の父親を軍事的に応援し、見返りとしてコンゴのコバルト等地下資源を得、その資金的背景をもって暴力に訴えることが出来たのである。この改革のためにジンバブウェは空前のインフレに見舞われる。知らないことを知っているように書くのが作家だろうが、そのためには力量が必要である。つまり勉強。彼女にはそれがない。最近作はパリの郊外の移民の話だそうだが、それなら彼女の体験で書けそうだ。処女作『C’est le soleil qui m’a brûlée(太陽が私を焼き尽くしたの)』は何時か読むかもしれないが、今のところBeyalaの作品を読む意欲がなくなった。
ベラヤを反面教師として、僕がジンバブウェを書くとしたら、モブツの最悪の政策ザイール化政策から何も学ばなかったムガベの農地改革で犠牲になった白人ではなく、そのときにジンバブウェを去った300万人のジンバブウェ黒人を主人公に選ぶだろう。
次に読む本は決まっている。再びMaryse Condéの『Traversée de la Mangrove』(1989年)である。アリアンス・フランセーズの図書館で一日だけ持ち出してコピーしてもらっている。コンデの生まれ故郷グアダループが舞台のようだ。アラン君が感動して3度読んだという本だが果たして、、、。
マドンナが右足の腿のとことに怪我をして帰ってきた。昨夜どこをほっついていたことやら。隣家との境を壊して出て行き、そうすると表の通りに出られるようである。怪我のところを消毒しておいた。毛が抜け落ちただけで深い傷ではない。喧嘩したのかな。したのなら負けてはいけない。負けると癖になって、いわゆる本当の「負け犬」になるらしい。番犬としては失格だ。
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