Le lundi 14 septembre 2015
6時半、快晴、24℃、45%。
新興宗教というのはどこの国にもある。アフリカには根強くアニミスムが残っているが、そのアニミスムを採りいれながらキリスト教のバイブルを聖典として採用する新興宗教があとをたたない。だから、自分はイエスの再臨だとして宗教的権威を主張する。
以下の引用はケイ・ミズモリなる日本人ジャーナリストが書いた記事であるが、軽薄と偏見に満ちていると僕は思う。こんな記事が「まさにアフリカらしさだ」と読者に誤解を与える。
キンバングSimon KimbanguにしてもトコSimeon Tokoにしても宗教家に違いないが大衆の無知をいいことに、自らの教義はなく、バイブルを徒に利用した宗教である。
昨夜のフランスのTV「TF1」ではキンシャサに取材して「覚醒教会église de réveil 」を紹介していた。この教会もキンバングやトコとかわりない。奇跡をおこして大衆を取り込み、貧乏人から金をまきあげて財をなし、大金持ちになると権力に近づき勢力を拡大する。それをイエスの名においてするのである。マルクスは「宗教はアヘンだ」と云ったというが、そのアヘンそのものである。
イエスと新約聖書の本質は「愛」であり、現代の教会、少なくともカトリック教会は科学を否定しないし、民主主義を無視しない。
新興宗教の大方は貧困層を利用するが、彼らに教育を与え、医療の機会を提供することもしない。キンバンギストがそうしたキリスト教の他の宗派の活動に倣いだしたのは規模が大きくなってからである。
僕はとくにカトリック教会が大航海時代にアメリカ大陸で先住民族の虐殺に加担し、植民地主義の片棒を担いでしまった事実がなかったとは云わない。その反省が今の教会にはある。
ケイ・ミズモリ氏はすべてを単純に図式化してしまう傾向があるようだ。また調査も不十分である。検証がなされていない。ジャーナリストとして、これで飯が食えているようだから、日本はありがたい国だ。
「■預言者サイモン・キンバングーが起こした奇跡
サイモン・キンバングー氏
まずは、イエスの再臨と呼ばれる人物がアンゴラに現れることを予言していた預言者サイモン・キンバングー(1887-1951)について触れておきたい。中央アフリカにおいては、非常に有名な預言者であり、現在でも彼のことを覚えている人々もいる。キンバングーは、バプティスト会系キリスト教徒であり、植民地支配下のアフリカにおいては、初めての黒人宗教家・預言者として地元の黒人たちに圧倒的な支持を得た。
というのも、キンバングーは、歩けなかった人を歩けるようにさせ、眼の見えない人に視界を蘇らせ、口の利けない人に聴覚を蘇らせるなど、病人や障害者を癒す数々の奇跡を行ったからだ。また、2、3日前に死んだ子どもたちを蘇らせる奇跡も起こした。噂を聞いた多くの人々が遠方から病人を連れてキンバングーのところへやってきたが、キンバングーに出会える前に病の子どもを死なせてしまったケースもしばしばだった。しかし、キンバングーは死んだ子どもたちに向かって、「イエス・キリストの御名において、目を覚まし、起き上がりなさい!」と声を掛けると、瞬く間に死んだ子どもたちが次々と目を開いて立ち上がっていった。これらの奇跡は1921年の5月から9月まで行われ、キンバングーに近づく事すら不可能と思われるぐらいの大群衆の前で行われた。そのため、当時彼のことを研究した学者で、彼の奇跡に関して疑う者はいなかった。単に、あまりにも多くの証言が有り過ぎたからだという。
■迫害された預言者
1921年9月10日、キンバングーは人々の前で演説行った。そこで、植民地政府が自分を逮捕し、「自分の肉体に長い沈黙の期間を課す」ことになると言った。実際、その2日後、キンバングーは植民地政府に逮捕され、死刑判決を受けた。ローマ教会も他のキリスト教使節団もその判決を支持した。高名な学者アラン・アンダーソン博士によると、バプティスト使節団のみがその判決に抗議した。そもそも彼は、5ヶ月間、村の人々を癒し、慰め、活力を与えただけであったからだ。彼はキリスト教使節団にとって嫉妬の対象であり、動乱扇動の廉で捕まり、その刑罰は死であった。
キンバングーは、自ら「自分の肉体に長い沈黙の期間を課す」と予言したように、無期限で拘留され、死期が早まるよう、毎朝冷たい塩水の桶に体を漬けさせられた。彼はまた、アフリカは「長期間酷い迫害に曝される」と予言していたが、その通り、その後40年間、恐ろしい宗教的迫害を受けることになった。数十万人の人々が投獄・追放され、拷問に掛けられたり、改宗を余儀なくされたのだ。
人々に奇跡を与えてきた期間はわずかであったが、キンバングーはアフリカの英雄と称されるまでに知れ渡り、彼のことを研究する学者たちは跡を絶たない。今後も世界的に彼の評価・知名度は向上していくものと考えられている。
キンバングーは、1951年に死ぬまで30年間獄中で過ごした。獄中から、自分の姉妹に送った手紙の中で、彼は次のように言っていた。「私が行ったことと同じことを行う若い男が北部アンゴラから現れるのを見たら、彼こそが主であることを悟るだろう」
■シメオン・トコ現る!
1918年2月24日、アンゴラ北部で1人の男の子が誕生した。その男の子が、のちにキンバングーの後継者となり、イエスの再臨とも称されることになるシメオン・トコである。1872年から1921年の約50年間、その地域は、長引く旱魃(かんばつ)と、天然痘・腸チフス・マラリア等の伝染病が猛威を振るっており、多くの人々が命を失っていった。そんな状況の中、トコは誕生した。
トコが生まれてまもなく、アンゴラに来ていたバプティスト宣教師協会の宣教師が、ある夢を見た。それは、自分の管轄内で偉大な王が生まれたことを示す夢であった。それで、彼はその赤子を探しに行く決心をした。そして、彼は聖霊の指示に従い、トコを見つけ出した。だが、あまりにも痛々しく、弱々しい小さな顔を見て、彼は首を横に振った。彼は一つ二つ質問をして、悪夢に襲われただけだと感じて、その場を立ち去ったという。
1949年、シメオン・トコはレオポルドビル(現在のキンシャサ)で行われたプロテスタント国際会議に参加した。このイベントにおいて、式典のマスターは、アンゴラからやってきた3人のアフリカ人に祈りを捧げるように求めた。その3人の中にシメオン・トコが含まれており、彼は、植民者によるアフリカでの圧制が終わるよう、聖霊が人々の前に現れることを祈った。
トコは、イタガのバプティスト教会の専属メンバーとなった。彼は12人で構成する聖歌隊を作った。その聖歌隊はすぐに有名となり、数百人ものメンバーを抱えるようになった。どこの教会に出掛けて歌っても、物凄い力で聖霊が現れ、白人宣教師たちは若いトコが黒魔術を操ると疑った。そして、妬みから、宣教師たちはトコを呼んで、魔術を使わぬように忠告した。すると、トコは次のように答えた。
「しかし、もし私たちが同じ神に祈るのなら、どうして私が祈る時に聖霊が現れることに対して、あなた方は私を魔術の廉で責めるのですか? それは、祈りが叶えられる筈がないアフリカ人だからですか? 聖霊はアフリカ人に対しても差別するのでしょうか?」
結局、宣教師たちは教会からトコを破門することにした。ところが、トコを支持する教会員たちは皆こぞって教会を辞めてしまい、トコに付いて行くことにした。トコは悩んだが、いずれにしても厳しい将来が待ち受けていることに変わりはないと考え、彼らと伴に行動することに決めた。過去3年間捧げてきた祈りを繰り返し、彼は再び主へ祈りを捧げることを決意したのだ。そして、数々の驚くべき奇跡を起していくことになったのである……。」
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