05 décembre 2010

12月4日 le samedi 4 décembre 2010 妹さつき公演 ma soeur Satsuki sur la scène

Le 4 décembre 2010, samedi
快晴。久しぶりの快晴ですがすがしい。

ネット不通。昨日の雷の所為か。

昨日来なかった建具屋Sebastienが8時半にやってきた。「昨日じゃなかったにか」というと「今日だよ」、悪びれもない。必要な工具や釘は僕からサプライ。なんとかサロンに壁掛けが設置された。ザンビアのKitweの市場でアフリカの椅子やタムタムと一緒にTさんと買った品物だ。長い値段交渉をした結果、ルブンバシの北のみやげ物市場ルアシRouashiよりは妥当な値段とおもえるところで買うことができた。これでまた少しアフリカらしさが家の中で増えた。

髪を洗い、身体を拭いた。髪はそろそろ切らないといけない。2006年に行ったところで切ってみよう。今度はどうなるか。 当時は、コンゴ人の同僚が、ルブンバシで一番の床屋をみつけたと大言したのでいってみたのだ。洗髪が店の中ではできなくて、隣の家の庭の水道で、バケツに水を汲んで髪を洗ったことを覚えている。職人はアンゴラ人だった。

小さな花壇を手入れした。雑草を抜き去り、新しく買ったハイビスカスと白いランタンの位置を考えて鉢から植え替えた。背中に日を受けた1時間ほどの作業だったが発熱なし。マドンナに悪戯されることなく育って欲しい。

コート・ジボワールは泥沼に陥る可能性があるなぁ。事情が違うが、マダカスカルも大統領選挙後、もめたことがあった。 未だにもめている。
コンゴRDCが2006年大統領選挙をしたときには、選挙後の混乱がなかった。圧倒的に現大統領ジョセフ・カビラが勝利したからではない。カビラが反対派を副大統領に迎えて挙国一致態勢を築いたからである。チセケディは選挙に出馬拒否したので副大統領にならなかったが、第2回投票で争ったベンバは副大統領になった。その後、ベンバを国外に出し、海外で逮捕させ、国際刑事裁判所で審理に付すことに成功している。ベンバは来年の選挙に立候補できないであろう。チセケディは来年立候補すると声明したが、カビラに対抗することは至難である。独裁者モブツとプラグマチストのカビラでは戦い方が違う。しかし、万が一、チセケディが勝利したときカビラはどうでるだろうか。父親ほど軍隊の支持は得られない。彼の頼みは、国際機関(国連やIMF、WB)と思われるから、彼らの意見にしたがうしかない。国際社会はチセケディを歓迎しないだろうが、建前として選挙結果を翻すこともできない。コンゴの民主化成熟度がとわれることになる。

妹さつきの仙台公演がまもなくである。
http://www.satsukiss.com/

一人舞台『星星の扉』。
12月16日、17日
仙台市戦争復興記念館記念ホール。
仙台の方、近郊の方、せひ公演にいらっしてください。

12月3日 le vendredi 3 décembre 2010 コート・ジボワール Côte d'Ivoire

Le 3 décembre 2010, vendredi
曇、多少の晴れ間あり。17時、雷とともに雨。

8時に建具屋セバスチャンが来る。ザンビアで9月に買った染色織物をサロンに掛けるためだ。9時になっても10時になってもセバスチャンは来なかった。僕が迎えに行くのをあてにしていたのだろうか。物置の戸のときは、迎えにいったけれど、桟くらい担いで来て欲しい。

マドンナの食事が10時になってしまった。ごめんね、お腹が空いたろう。

ブログの更新を12月2日分まで終えた。

15時、37度2分。Panadol 1錠。

11月、ギニア(首都コナクリー)とコート・ジボワール(経済的首都アビジャン)で大統領選挙があった。何れも決選投票が行われた。負けた陣営がなかなか敗退をみとめない。不正があったとごねる。選挙慣れしていないこともあるが、選挙の透明性が疑われるのである。国際監視団を受け入れても、負けると納得しない側が暴力に訴える。これでは民主主義が育たない。次の選挙で起死回生などとは考えないのだ。

ギニアではアルファ・コンデが大統領として正式に認められそうだ。
コンデもディアロもギニアでは、日本の鈴木、高橋のように多い名前である。
アルファ・コンデはセク・トゥレから死刑宣告もされた反骨の闘士。72歳。パリ大で政治学博士号を取得している。元首相のセル・ダラン・ディアロを相手にして勝利したのだから、たいしたものである。ギニア独立(RDCコンゴより2年はやく1958年)以来初めての民主的な選挙のようだ。

コート・ジボワールは現役のバグボGbagboと野党ウアタラの方はもっと複雑なようだ。選管はウアタラの勝利を発狂、憲法裁判所がバグボが勝利したといっているからだ。しかも、選挙監視団を送っていた国連を初め国謝意社会は選管の発表結果が正しいとウアタラ氏を支持している。ウアタラは米国で経済学を学び、IMFの副総裁までなった人物。西欧の受けがいい。バグボの支持者はアビジャンを含む南部、ウアタラは北部と分かれる。しかし、政策面だけでみれば、IMFのいうことをきいて経済復興した国は少ない。アルゼンチンのような大失敗もある、ウアタラが大統領になっても国民統一内閣を作りバグボ派もとりこんでいかないと先々内戦ということになりかねない。来年RDCコンゴは大統領選挙がある。対岸の火事ではない、(画像はウアタラ氏}

久しぶりにカレーを作っている。日本式。

03 décembre 2010

11月27日~12月2日 du 27 novembre au 2 décembre 2010 パナドル panadol

12月2日まで、検温のことしか書いていないのでまとめてしまった。

Le 27 novembre 2010. Samedi
晴、北に向かうほど天気がよくなった。

カスンバレサ国境に13時45分に到着。トラックが長蛇の列。ザンビア側にNgongo君が来てくていて、ザンビア出国手続きはスムーズに終わった。コンゴ側を含めて14時45分にはコンゴに入ってしまった。ありがたい。ザンビア側20万Kwacha(40ドル)とコンゴ側40ドル。

ネット契約の延長払い込みをアラン君にカスンバレサから頼んだ。土曜日だったが、本社は16時まで営業していたのか、更新支払いができた。

16時半にルブンバシに入った。途中スピード違反取締りの悪徳警官がいたが、僕の作戦勝ちで、警官の前を素通りした。作戦は、スピードを出している地元の車の後ろにつくこと。僕のガイドになる。この前の車が警官の停止を無視して疾走した。しかし、この頃から熱が出始めた。咳も鼻水も出る。早くマドンナを受け取って家に帰りたい。

アラン君の家でマドンナを引き取った。そのとき、「大丈夫か、やつれたね」、「大丈夫じゃないよ、半死だ」
家に帰って鏡でみると、頬がこけていた。

18時、やっとの思いで家に到着してみると、門の閂を誰かが針金で補強していて入れない。一体誰がこんな余計なことをしたのか。近所の子供たちが集まってきて、中でも大きい方の子供が針金を解いてくれた。なんでも直ぐに野次馬がたかってくる。

Le 28 novembre 2010, dimanche
快晴。

いつものように熱は5時ごろから発汗とともに下がり始めて8時には36度。

昨夜は、とても身体がしんどかったので、マドンナの食事を用意できず床に入ってしまった。今朝の彼女の食欲は旺盛。
昨日Kitweで買った植物をまた破壊してくれなければよいが。

12時、断水。13時半回復。はやく回復してくれたので、白物の洗濯を終えることができた。

14時半、PC前の椅子に座ろうとして失敗。床に尻餅をついてしまった。尾骶骨をしこたま打った。「痛い!」。こんなヘマも近年にないことだ。泣きっ面に蜂。

熱は16時ごろから徐々にではあるが出始めた。やっかいだなぁ。

Le 29 novembre 2010, lundi
小雨。のち曇、時々晴。

6時、38度から発汗、7時45分現在平熱、シャツ2枚をとりかえた。

ネットが遅い。メイルを出すのに繰り返しトライしないといけない。

太陽が出たところを狙って日光浴してみた。身体も日光消毒と思ったが、急激に熱がでた。

夕方からやはり発熱。
食欲がないわけではないが、海苔入りのオジヤをつくってみた。本当に病人の気分。

Le 30 novembre 2010, mardi
快晴。

発汗とともに平熱へ。昨日と同じパターン。

14時30分、熱の具合をみながらルブンバシに買い物に行くことにした。マドンナ用のパスタが底をついたことと、僕のタバコ等の購入である。コーラ等飲料はキプシの店に空き瓶をもちこんだ。

駅の近くの薬屋でアラン君がPanadolを買ってくれた(600円)。スイスで胃潰瘍の治療をして以来非ピリン系のパナドルしかのまないことにしている。ここでも売っているとは思ったが調べなかった。ザンビア大使館で戴いた薬は一昨日で全て飲み終えていた。

帰りの時間が悪かった。17時にGecamines地区の通りにかかってしまったのだ。普段5分で通貨してしまうところを70分かかった。15時半に通ったときは洪水であったが車は流れていた。トレーラが2台、エンコしていた。譲り合いの精神なんてないんだから、警察が飛んできたって渋滞はおいそれと解消しない。いつものことだ。しかし、こちらは、発熱がはじまって喘いでいたのだ。

19時過ぎから雨。よく降る。
夕食は生クリームとパリ・ハムjambon de Parisをあえた。僕の大好きなメニュー。パスタにはリンギーネをつかった。

20時、パナドル1錠服用。38度5分。

Le 1er décembre 2010, mercredi
小雨のち曇。晴れ間は午後遅くなってから。

平熱。結果論だが、事前治癒を待つよりも、「風邪かなと思ったら、パナドル」だったのである。若いときは、風邪のはじまりに、熱い湯につかり汗を流し、直ぐ就寝したり、厚着をして就寝、発汗を促して風邪を飛ばしてしまった。体力があったからだろうか。
運動をして無理をするのが嫌いだから、僕はスポーツマンではない。けれどジュネーヴやルガノのクラブのジムによく通った。15年間。ルブンバシにいくつかジムができたけれど、設備がととのっていない。カラビア・ホテルのジム建設中にみているが完成したろうか。家の一室をジムにしようかな。

13時、検温37度4分。追加のPanadolを1錠。

やっとまともな料理をする気力がでてきた。牛ヒレ肉のトマト煮。ヒレ肉ではもったいない煮込みだが、ヒレでないと肉が固すぎる。Megastoreで買うのだが、ザンビア牛かもしれない。かつてカタンガは牧畜が盛んだった。カタンガ東部モエロ湖の方の牛が有名だったようだ。シスター・アスタさんによれば、牛が湖を渡る姿がみられたそうだ。キプシ街道にポルトガル人の農場がある。ときどき牛たちが街道を集団で横切る。カタンガ州のどこでも牧場に相応しい土地である。サヴァンナとはそういうところだ。 しかも高原は。ところが、農業、牧畜をしていて、その土地を掘ってみると、銅やコバルト、金、マンガン等が出てきてしまうことだ。これがカタンガ州だ。

Le 2 décembre 2010, jeudi
晴。

1時、37度2分。Panadolを1錠。
7時、37度2分、発汗、7時45分、36度6分。
15時、37度8分。Panadol 1錠。
ネット不調。

正午から断水。20時半、回復。
17時05分、停電。17時15分回復。
17時、雷。
23時、37度1分。Panadol1錠。

ブログ『アフリカの星』を更新。11月20日から25日まで。

11月26日 le 26 novembre 2010 ヴィクトリア瀑布 Chutes Victoria

Le 26 novembre 2010, vendredi
雨のち曇。
4時ごろ目が覚めたときにはかなり激しい雨であった。こんな雨の中を合羽を着て滝の見物をするのかと思うと諦めたくなった。熱は朝方急激に引いて平熱になった。

8時、朝食をとりに食堂に行ったときは霧雨。朝食のコーヒーはインスタント。パンはトーストしてあった。他に客がいなかった。みんなもう出てしまったのだろうか。従業員たちは無愛想。昨夜、このレストランで食事をしなかったのは正解にちがいない。

8時50分、ヴィクトリア瀑布にむかった。入り口手前で、警察が取締り中だっだ。そこで再びルサカからの通行料(道路使用料)の未支払いを指摘された。罰金27万Kwacha(54ドル)。昨日追加通行料を払っておきたかったが、リビングストン入り口にあるという事務所がわからなかったのだ。
瀑布入場料20ドル(外国人)。駐車料金5ドル。公園になっているのだ。通り道は舗装され、そこここに立ち見台が作られている。11月から雨季だが、まだ雨季ははじまったばかり。絵葉書でみるような滝の連続はなく、ところどころ滝になって水が落ちている程度だが、ザンビア側のとっついまでいくと、向こう側、ジンバブウェ側の滝がみえる。国道から見えた水煙はこの滝から立っていたのだ。ダムを放流しているように激しい勢いで怒涛のように水が落ちている。雨季が終わる4月ころには、ザンビア側の屏風のような岩全体が滝となり壮大な景観を呈すだろう。今のところ晴天の日に合羽はいらないので貸し出しもなかった。
はるか足下に見える滝つぼで泳げるということで水着を用意していたが、体調が体調でその元気がでないし、アクセスは公園からではないので諦めた。

リビングストンを11時に出発。燃料を100km北上したカロモKalomoで補給。この村にもバークレイズのATMがあった。ガソリン・スタンドで少年からバナナを6本買った。1本700 Kwacha(10円)。「6本でいくらになるの」とは。坊や、情けないぞ。
このバナナが昼食になった。

ルサカに着いたのが17時だった。帰宅ラッシュにひっかかり、ダウン・タウンを抜けるのに75分もかかってしまった。もう少し早くルサカに着く予定だったが、途中追い越し禁止区間で警官につかまってしまったのだ。27万クワチャの罰金というところ、10万(20ドル)に負けてもらった。勿論チケットを切ったのではなく、この警官のポケットに入ったわけでである。勿論追い越し禁止とはわかっていた。ただ、前を走っていた乗用車の運転手が、右ハンドルだが、足を左側の窓にかけて、ちんたら運転していたのである。呆れた運転態度だがこの車は注意を受けていない。見通しのいいところにさしかかったので一気に追い越したのであった。

カッパベルト州のKitwe市まで一気に走るのは無理とルサカの交通渋滞から抜け出した時点で判断、9月初めにTさんと寄り道したKabweで泊まることにした。

Kabweに入る手前でベスト・ロッジは何処だと聞くとタスカスだろうという。探し当てるのに苦労はなかったが、Tuskersと書くとは意外だった。

食堂に下りる気力も出てこなかったのでルーム・サーヴィスを頼んだ。悪寒がするので熱いスープとステーキ。ステーキは固かった。とても「ルサカ・クラブ」とステーキとは比べられない。ベッドに横になっていても体温がどんどん上昇していくのが分かる。熱の所為で左手の指が硬直して動かなくなった。「こりゃ、一大事」とSkynewsを見ながら1本1本右手を使ってほぐしていった。その右手も震えている。 さらに部屋の中に蚊がいる。電気蚊取りをコンセントに差し込んだら、コンセントが欧州大陸方式ではなく、きついところを無理に差し込んだら電気蚊取りのプラグが壊れてしまった。蚊帳がない。今、マラリア蚊にやられれば、弱った体力のところだ、たちどころにマラリアに感染してしまう。悪夢の夜だった。

02 décembre 2010

11月25日 le 25 novembre 2010 リビングストン Livingstone

Le 25 novembre 2010, jeudi
晴。

日本からの出張者の方々は早朝ホテルを大使館からの迎えの車で空港に発っている。

ルサカのホテルを9時に出発。南下。カフエを過ぎたところで警察のチェック。「道路使用料がカスンバレサからルサカまでしか支払われていないではないか」、「なるほど、入国査証を取得するときにLivingstoneまで行くと申請したんだけどね」、「ともかく27万クワチャ(54ドル)払え」、「現金がない」とポケットの現地通貨を見せたのがいけなかった。50や1000などの細かい札を除いて5万クワチャ札を3枚むしり取られてしまった。Livingstoneの入り口のゲートに支払い所があるから、そこで改めて27万払えということだった。ザンビアはATMが発達している。次の町のATMで50万クワチャおろして準備した。しかしそんな支払い所はみつからなかったのである。

リビングストンはザンビアが北ローデシアと呼ばれたときに首都だった。ルサカに首都が移ってからはヴィクトリア瀑布のある観光地だ。街は5分で通過してしまう。まっすぐに進むとジンバブウェとの国境に行き着く。その数十メートル手前がヴィクトリア瀑布公園の入り口だ。途中迷った、というのは「Victoria Falls」という大きな看板があったので、おかしいなと思いながらも看板の矢印側に左折して走ったからである。看板には「Power Station」とも小さく書いてあったが、滝のあるところだから発電所も近くにあるだろうとも解釈したのだ。下手な考え休むに似たり。国道に戻って数キロ走ると国境だった。16時になってしまったので瀑布見物には時間が少なかろうと、宿をとることにした。

リビングストーンは、この日誌で書いた「コンゴの歴史」のスタンレーの項で触れた。英国の伝道師、探検家、医者である。ヴィクトリア瀑布は彼の発見。スタンレーの名を冠した町の名前をRDCコンゴは消してしまってキサンガニにしてしまったが、ザンビアはリビングストーンの名を残している。

宿はヴィクトリア瀑布とリビングストンの中間にみつけたMaramba River Lodgeにした。95ドル。2泊しようと思ったら、明日からfully booked。今日は閑散としているが週末は客が殺到するのだろう。シャレが点在する静かなところだ。しかし1泊で結果としては十分であった。、

今夜も栄養をつけないといけないとおもった。ホテルのバーのボーイにきいたら街中にイタリア料理店があるという。その店に7時過ぎに行った。行く前に何を注文するか決めていた。ニョッキで始めて、エスカロプ・ミラネーゼ、デザートはプロフィテロル。店の構はいいとして、中に入って注文しようとすると、「メニューに書いてあるものしかできませ~ん」。
英語圏は飯が不味い。フランス、スペイン、イタリアならどんな田舎に行っても飯が美味い。90年代以降の日本もそうだ。しかし、日本の場合、薀蓄を述べる亭主かいたりして五月蝿い。
そこでロッジに引き返す途中にあったちょっとまともそうなホテルのレストランに入った、イタリア系の料理がメニューに散見されたので、それらを注文。なんとかacceptableだった。

帰り道が暗く、宿の入り口を越して、またまたZimbabwe国境まで走ってしまったが、なんとかみつけて、今日も早めの就寝。蚊帳はまともだったが、冷蔵庫も冷房もない。チーコちゃんは駆けずり回っていた。元気だね。風邪なんかひかにようにしようね。

11月24日 le 24 novembre 2010 ルサカへ(5) vers Lusaka (5)

Le 24 novembre 2010, mercredi
曇り時々晴れ。


最新のプログラムではまたもや消されていたプレゼンテイションがぎりぎり9時半に実現した。会議場に入れたのは審議官、ボツワナ大使、プロジェクタ操作の名目でK氏、そして通訳としての僕のみ。審議官が自分で手直しした原稿を淡々と読んだ。分かりやすい英語である。主張すべきことを主張して無駄がない。しかし、昨日審議官に同行してザンビア入りした若いK氏の苦心の作品でもある。

会場の反応をみていたが、各国代表はまじめに聞き入っていた。コンゴ代表の顔は知っていたので、とくに注意して反応を見ていた。一応熱心に聞き入っていたので安心した。しかし、結論は既に出ていた。SADCとしては欧州方式を各国にリコメンドしたのである。但し、アンゴラ、モザンビーク、ボツワナから日本方式を採用したいとの発言があり、強制力のないリコメンドになった。日本としては、SADC加盟国から日本方式の排除という最悪のシナリオを避けることができたようである。
英語圏の報道では、欧州方式DVB2採用決定と一方的な報道がめだったが、フランスは会議を無視、スペイン語圏(南米)は、日本方式が国別で採用される可能性を示唆していた。

日本方式の地デジは南米で広くすでに採用されている。ブラジルが日本方式を基本にブラジル・日本方式プロモーションのため、このSADCの大臣会議にミッションを送ってきていた。コロンビアなど日本方式採用をしなかった国もごく最近再考しはじめているというニューズも入った。日伯協調の構図は興味深かった。

DRCコンゴでも日本方式採用に踏切って欲しい。さすれば、携帯電話でTVが見える時代が意外とはやくコンゴにもやってくる。みなさん、がんばってください。応援します。カタンガ州なら実業家モイーズ知事を ひっぱりこめば、直ぐにでもパイロットプロジェクトができる。またまたキンシャサが嫉妬するだろうが。

夜は昨夜に引き続き「ルサカ・クラブ」。今夜はフィレにした。
熱はひかない。今夜もうなされるか。

11月23日 le 23 novembre 2010 ルサカへ(4) vers Lusaka (4)

Le 23 novembre 2010, mardi
晴れたり曇ったり。勤労感謝の日。

いよいよ熱が収まらないので、大使館の医務官に見てもらうことにした。ブースのお手伝いを休日にもかかわらずされていた大使館のEさんが親切に段取りしてくれた。感謝。お医者さんは若いひとだった。専門は呼吸器だそうだ。僕が普段いる場所が場所なのでマラリアの検査もしましょうとおっしゃって左手の指から血を採った。マラリアはもっと高熱ときいているのでちょっと痛そうな検査を辞退したかったが、よい機会でもあると思いなおし保険のために受けた。結果は陰性。やはりマラリアではなさそうだ。一週間分のお薬をいただいた。風邪薬PLとビタミンC。実はこの薬が全然効かなかった。逆に、出張者のY氏に戴いたバファリンは解熱剤として効果覿面だった。Y氏に御礼申し上げる。

14時過ぎに総務省山川審議官とボツワナ大使松山氏がホテルに到着。ところが部屋に入れない。ホテル側の準備ができていないからだ。世界的チェーンホテル、5つ星のインタコンチネンタル・ホテルとこれで云えるのか。入れ物だけが5つ星なのだ。部屋が空くのを待ちながら顔合わせ。江川在ザンビア大使も見えられた。
山川審議官は旧郵政省でいえば次官に相当される地位の方だろう。官僚のトップである。総務省は郵政省、自治省、総務庁が合併してできた省。
松山大使は、三井物産出身。外務省の目玉人事の一人。僕がいた丸紅からはブルキナファソ大使が出ている。丸紅や物産には剛毅で行動力があり、決断の早い人が多い。松山氏は商社マンである。 外務省はこうした適材適所の気の利いたをこれからもどしどし推し進めて欲しい。次は金融界野村證券あたりからDRCコンゴ大使はどうだろう。 (画像は松山大使、ネットからひろったが雰囲気が良く出ている)。
江川大使は、僕の世話になった総理府内閣調査室のひとに似ていてどきりとしたが、名刺をいただいてご子息でもないとわかり、なにか安心した。外務省海外安全情報でRDCコンゴがカタンガ州を含めて低く評価されているため、日本の企業がカタンガ州に出張者を出し難い、投資も控えてしまうと訂正して欲しいとお願いした。隣国のことで、彼が直接本省にかけあうこともできないけれども、なにかの機会に北澤DRC大使に話していただけるとありがたい。

24日のプレゼンテイションが揺れている。当初のSADCのプログラムにはプレゼンが書いてあるのに昨日夕方になって、次官会議でプログラム修正を受けプレゼンしないことになったと事務局がいいだしたのだ。会議のプログラムをみていると、昨日も今日もスケジュールが守られていない。臨機応変といえば聞こえがいいが、要は滅茶苦茶なのである。会議場にはいれないから、入り口でうろうろするだけだ。それもおかしい。日本はプレゼンに少なくとも当初招待されているのだから、勿論日本はSADCのメンバーではないとしても、会議の進行を知るべく会議場に入る権利があるはずだ。

夜は、ビーフが美味しいというステーキ・ハウス「ルサカ・クラブ」。500gのTボーン。ペッパー・ソース。確かに美味しい。

11月22日 le 22 novembre 2010 ルサカへ(3) vers Lusaka (3)

Le 22 novembre 2010, lundi
晴れたり曇ったり。

6時起床。
7時、ブース設置予定の場所に集合。

地上波デジタルTVは携帯でも受信可能。既に日本ではサーヴィス開始されていて、移動体(車や電車)の中で携帯端末(携帯電話やゲーム機、カーナビ等)でTVが受像できる。PCでTVを見ているひとも多いのだそうだ。ブースにはTVセットや携帯端末が並べられた。ブースに来る人たちはSADC会議に関係のない人も多い。日本から、ブースに並べられた機器を売りに来たと思った人が多いようだ。矢鱈と値段を訊くし、売ってくれとの注文も相次いだ。日本のメーカーの宣伝のために来たのではない、地上波デジタル放送日本方式の宣伝のためであって、製品は欧州、韓国、米国等々世界中のメーカが作れるし、現に市場に製品を出している、と説明を繰返さねばならなかった。
午後、東京からK氏が到着。ブースの展示はさらに充実した。


昼は大使館の方に場所を教えていただいて、O氏、T氏を僕の車に乗せて出かけたものの店が見つからず、近くにあった韓国料理店に入った。メニュ=に「かつどん」があったので注文。しかし丼は出てこず、皿にもられて出てきた。味は悪くなかった。

夕食は誘いもなかったし、一日ほとんど立ちっぱなしで疲れたので部屋でルーム・サーヴィスを頼んだ。

11月21日 ルサカへ(2) vers Lusaka (2)


Le 21 novembre 2010, dimanche
晴。

コンゴで汚れていた車を、ホテルの守衛が洗わせてくれというので承知した。2万クワチャ(4ドル)。9時15分、Ndolaのロッジを出発。10時半には既にタンザニアに向かう国道との分岐点Kapiriに着いてしまった。その後も順調で13時半にはインタコンチで予約と宿泊代金の確認をしてチェック・イン。このホテルの真向かいにある日本大使館から予約をいれていた。日本からの出張者の方々は未着。部屋に入って休むことにした。

暫くして出張者が到着。ロビーで初顔合わせ。東京からのO氏、Y氏、T氏、それに大使館からNH氏他。明日以降のスケジュールの打ち合わせ。しかし、未知数が多い。準備が悪いのではない。
地上波デジタルの日本方式ISDB-TのSADC会議に於けるプレゼンテイションが政府ミッションの仕事である。僕はその中でいわば黒子。通訳である。
日本方式については事前に戴いた資料とネットからの情報で調べていた。米国式や欧州方式に比べて長所が多い。ロジカルに考えれば、日本方式を採用するのが妥当なのだが、アフリカは欧州との結びつきが強い。政治的な判断を持ち込まれると日本は弱い。

SADCとは「南部アフリカ開発共同体」。加盟国は15カ国。事務局はボツワナのGaboroneにある。RDCコンゴは1997年から参加。言語圏としては、英語が大勢だが、フランス語国としてはRDCコンゴ、セイシェル、マダガスカルがある。ポルトガル語国はアンゴラ、モザンビークである。スワヒリ語も全ての国ではなされているわけではない。言語の違いは文化、考え方の差を生む。英仏を見ればよくわかる。SADCが共同体といえるほどの結束を獲得する道のりは遠い。DRCコンゴはCEEAC(中部アフリカ経済共同体)のメンバーでもある。

夕食は大使館NH氏の案内で中華。ビールが冷えていなかったのはいただけないが、料理は一流。ダル・エス・サラムの「龍騰海鮮酒家」に比肩。数ヶ月前に改装したのだそうだが店の構が中国らしい壮大さである。

NH氏、エチオピアやナイジェリア等アフリカ赴任経験が豊かな方である。よく外交官で赴任地の悪口をいうひとがいる。彼はそんなタイプではない。公使をされているTH氏もきさくな方であった。去年、タンザニア大使館を訪問したときの応対について不満を書いたことがある。当時の岡田外務大臣に大使交代を箴言した。タンザニアに工場進出のために来ていた民間の投資家O氏も日本大使館には不平たらたらだった。ザンビア大使館の方々はとても腰が低く誠意がにじみ出ていた。一緒にいたのが「霞ヶ関」の人々だったからだろうか。 そうでもあるまい。

11月20日 le samedi 20 2010 ルサカへ(1) vers Lusaka (1)


Le 20 novembre 2010, samedi
晴。

昨夜はよく雨が降った。僕はベッドで熱にうなされていた。というと大袈裟か。時々目が覚めては体温を測っていた。37度を多少超えたところでとどまっていた。

マドンナは、預ける準備をしているのを不思議そうに眺めている。何かあるな、とは感じているのだろう。そのうち消えたと思ったら、隣家に入り込み、隣家の使用人小屋boyérieの悪ガキどもにレンガを投げられてキャンキャン逃げ回っていた。頭に怪我をしている。しかしこれは自業自得。腿の怪我も喧嘩をしたのではなく、この悪ガキに石を投げられての怪我かもしれない。しかし、悪ガキとはいえ、いつかマドンナが復習して噛付いた場合、出血多量などということもありうる。並外れて強いマドンナの顎の力である。悪ガキの女親らしきおばさんに注意したが返事もしない。塵(ゴミ)だらけの汚い庭である。だからマドンナが面白がる。困ったマドンナ君だ。

9時半過ぎにキプシの自宅を出発した。マドンナの家は荷台に近所の少年たちに手伝ってもらって載せた。その作業中に見物人が押し寄せた。明日来るかも知れないドリ君への伝言を頼むと、ドリ君はリカシに働きに行ったのだという。身内の不幸のために行ったのじゃないのか。どうも嘘の多い男のようである。

カスンバレサ街道(有料、2200フラン=220円)を疾走。国境にに13時45分に到着。既に連絡済みのNgongo君に通関等国境手続きを依頼した。礼金含め270ドル。15時10分に国境通過。超スピードで国境手続きを終えたというのに、ザンビア側に入った途端渋滞。つまらないトラックの運転手同士の意地の張り合いから車が流れないようだ。待つこと20分、漸くジェムを抜けた。

17時30分にはKitweの先、カッパベルト州の州都Ndolaに着いた。ここで泊まることとし、宿を探した。通りがかりの若者にいいロッジはないかときくと、Zanji Lodgeを教えてくれた。部屋を一応見てからこのLodgeに決めた。他を探すのが億劫だった。シャワーではなくバスタブだったが、お湯と水の出がわるくちょろちょろ。隣室のTVの音も良く聞こえた。しかし、極め付きはレストランの食事が悪かったことだ。スープは糊、チョプスイのソバはスパゲティで代用。こんな馬鹿なものを作って、コックは恥ずかしがるどころか、誇らしげに「俺はなんでもこなせる料理人だ」とは。呆れて文句も言えずに部屋に引揚げた。部屋でネットが通じない。パスワードを入れても作動しない。また、蚊帳があるのだがベッドとサイズがあわない。この蚊帳でよろこんだのはチーコちゃんだけだ。蚊帳にじゃれついて遊んでいた。こちらはTVをつけっぱなしで寝込んでしまった。
ガーデンのバーで久しぶりのザンビア・ビール「モシ」を頼んだ。ガーデンは地元のひとたちでいっぱいだった。週末の夜のせいだろうが、英国植民地だったところは、本国同様街中にバー(カフェ)が少ない。閉店時間がはやいこともあるだろう。フランス語圏ならば、ビストロがいくらでもあるし、遅くまであいている。ザンビアでもホテルのバーは遅くまであいている。
モシ・ビールの名はMosi oa Tunya (Victoria Falls)からきている。ラベルに瀑布が描かれている。ザンビアで最もポピュラーなビールである。軽くて癖がない。ルブンバシのシンバ・ビールと同じだ。コンゴの方がビールの種類が圧倒的に多い。