Le mardi 3 décembre
2013
6時、快晴、26℃、60%。
たまたま目が覚めたら水圧があったので朝4時にシャワーを浴びた。
バスで南ア領事館に行こうと思ったが、背広を着たので、クリスチャンが車で行った方がいいというので運転することにした。黄シャツが余計な邪魔をしないことを祈る。
しかし、案の定南ア領事館の帰り、中央ポストを過ぎたところでゴキブリにつかまった。信号無視だって。とんでもない。またコロネルKに助けてもらった。
フランス文化センタにユネスコ監修『Histoire Générale de l’Afrique』とキンシャサ大学の先生が書いた『Histoire Générale du Congo』と返却して、かわりにソインカ著『Les
Interprètes』(英語からの翻訳)とカミュ『La Chute』と借り出した。
歴史書は面白くなかった。アフリカ人による歴史書とはいうものの、ユネスコ編纂には欧米の学者も含まれていたし、90年代末の発行なのに何時かかれた論文かコンゴがザイールになっていたり、アフリカ人の歴史家も特にアフリカらしい視点で書かれた歴史と思わせるものはなかった。またコンゴ通史も全く新鮮味がなく、結局ポルトガル人がやってきた15世紀以前のことは記述が曖昧で、口述伝承してきた歴史の実証的確認がなく、これでは今までのベルギー人や英仏の学者が書いた歴史書と区別できない。国境に拘らない地域を独自に設定したダイナミックな歴史を書かねばならないと僕は思う。
新たに借りた小説は図らずも二人ともノーベル文学賞の受賞者だ。ソインカはナイジェリアの作家。
ルブンバシには南ア領事館がある。ベルギー、フランス、アンゴラ、ザンビア、ルワンダ等も領事館を置いている。
南ア領事館で総領事のマハラツェ・ミネレMahlatse Mminele氏にお会いした。40歳前後の若く気さくな総領事さんだった。彼は在日本南ア大使館に2002年から4年間勤務していたことがある。大使館は麹町、自宅の最寄駅は田園都市線の桜新町だった。駅名を忘れていて、態々奥様に電話して訊いていた。在任当時の首相は小泉首相。懐かしそうに日本の思い出を語ってくれた。結婚は前任地のバンコク(タイランド)で、子供が生まれたのは東京だった。それだけに奥様には日本が忘れられない土地のようだ。
南アとカタンガ州は関係が深い。今、僕のNPO「日本カタンガ協会」の会長キュングはヨハネスバーグで高血圧の治療中だ。彼の甥がヨハネスバーグに住んでいる。コンゴ人は病気治療に先ずは南アに行くのが常である。
ミネレさんの任務はベルギーやフランスに行ってしまうコンゴ人を南アにひきつけることだそうで、医療分野に限らず、農業、エネルギー、教育、鉱業各セクターに力を入れてカタンガ州と南アを結び付けている。だから東京でも忙しくしていたがここではより一層忙しいのだと。南アで移民として暮らしているコンゴ人はトップのナイジェリアに次いで多く非常に大きな共同体になっている。
南アは危険だ危険だというが、大都市はどこでも悪い面をもっている。ヨハネスバーグやケイプ・タウンには「交番」ができていて、犯罪は激減していると強調した。
この面談の機会に、先日クリスチャンのために申請した入国ビザの無事発給までお願いしてしまった。
お忙しい中60分も時間を割いていただき、また館外まで送っていただいた。
Keep in touch。ミネレ総領事さん、ありがとうございました。
僕が不在だった9時から停電開始、18時40分まで回復しなかった。
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