雨。7時、気温24℃、湿度67,5%。
胃が重い。薬の副作用か。腰の痛みはそれほどではない。
9時ちょっと前に家を出て21時まで帰れなかった、
Sさんをムソシまで案内したのである。「日本人を父親にもち、コンゴに取り残された子供たちの協会」会長ケイコ・ムバンギさんがアレンジしてくれた。
今日のミーティングで新たにわかったことは、コンゴの婚姻についてであった。
婚姻に3種ある。先ず、伝統的婚姻で、男が持参金(現金だけでなく、山羊、鶏、トウモロコシ粉、砂糖などの品物でもよい。相手の家に送る)ことによって成立する。次に教会で式をあげる。そして役所でも婚姻届である。
日本人男性とコンゴ女性の場合、役所での届出、教会での誓いはなかった。しかし、資産金(dot)を払って、女性の家族に認められて結婚生活に入った。日本人とこうして結婚したコンゴ人女性の年齢は、多くは極めて若く(むしろ幼く)、14、15歳であった。
日本人が建設した日本人村(キャンプ)では地元の女性との生活はできなかったようだ。従って、日本人男性が、コンゴ人女性の家に通うという形態になった。子供ができても、役所への届出はしなかった(届出にお金がかかるため)。日本人との子供だったから役所に届け出なかったのではなく、村々では、届け出るほうが珍しかったのである。出生証明などが必要になったときは、都度役所で「適当に」作成されたが、父親名は日本人であった。たとえば、ケイコさんの選挙人登録カードには「フジモト」という日本名も登録されている。
子供の名前は父親が日本名をつけた。コンゴ人母親は文字が読めないケースも多く、またフランス語も話せなかった。日本人の父親がスワヒリ語を覚えた。
コンゴ人女性との関係は、日本人キャンプに妻を呼び寄せ同居していた時期には少なく、第二次シャバ戦争(1978年)で日本人妻たちが帰国したあとに増えている。従って、1982年、1983年に日本人が帰国したときには妊娠中で、父親が帰国してから生まれた子供たちもかなりいる。彼らが一番若い子供たちで今日28歳になる。
「子供たちの協会」会員は47名だが、この日は20名近い子供たちが集まった。ケイコ会長の号令ひとつで纏まりがいい。
元日本人キャンプ、コヨ知区(コヨというのはコーヨーで日本の建設会社名と今回判明した)を撮影してもらってルブンバシに帰ってきた。
(画像は持参金dot交渉のイメージ化、ネットから)。
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