27 juin 2010

6月25日 le vendredi 25 juin 2010 コンゴの歴史(9)他 histoire du Congo (9), etc

Le 25 juin 2010, vendredi
快晴。風あり。

昨日サッカーW杯で日本がデンマークに3-1で快勝し、決勝トーナメントにすすんだ。まだこの試合結果が出る前、車の燃料を入れにサレジア会のスタンドにいったとき、ジャン・ポール神父が「日本はハイテクだけかとおもったら、サッカーもやるじゃないか、決勝トーナメントは無理かもしれないが」と云っていた。僕も、相手がデンマークじゃ上に上がるのは難しいと考えていたが快挙。不景気の日本も元気をとりもどすいい材料になるかもしれない。

コンゴの歴史(9)
スタンレーは1878年、探検旅行を『暗黒大陸横断Through the Dark Continent』として上梓した。
フランスとドイツという大国に挟まれた小国ベルギーの王レオポルドⅡ世は海外に領土を求めていた。極東の島国日本を何とか手にいれようなどと夢想もしていた。そして1878年欧州に戻っていたスタンレーに接近した。スタンレーは英国から支援を得ようといたが思うように行かず、渡りに舟とばかり、ベルギー王の提案に飛びついた。実際にレオポルドⅡ世と会って5年間の契約を交わしている。これで正式にスタンレーはベルギー王の名代としてコンゴの地方有力者から土地を買い上げ(といっても二束三文)、強制労働をさせコンゴ「開発」にのりだした。契約を交わしたコンゴ人はその契約書の内容も読めなかったのだから、詐欺行為である。そうして1884年現在のキンシャサの基礎が築かれた。それがキンシャサの前の名前レオポルドヴィルである。独立後キンシャサと名前を変えたが、本来はレオポルドヴィルという名を残すべきなのだ。そうすれば、それはレオポルドⅡ世の偉業を称える名前ではなくして、如何に詐取されたか、いかなる犠牲をコンゴ人がレオポルドⅡ世に払ったかを永遠に記憶し、表明出来たのである。しかし、短絡的に改名してしまった。
ビスマルク(ドイツの宰相)の提唱で1884年11月15日、列強が植民地を決定するベルリン会議が開かれた。アフリカが列強によって分割されたのである。有名人スタンレーもベルギー王とともに参加している。会議の結果、コンゴがベルギー王の私領として国際的に認められた。コンゴ自由国(L’Etat indépendant du Congo、英語はCongo Free State、日本語ではコンゴ自由国)の成立である。ベルリン会議の前にはコンゴ人に文明をもたらすのだ、などといいことをLéopoldⅡ世はいっていたが、初代総督に英国人を採用、早速軍隊と警察を合わせた公安軍Force publiqueを創設した。最新銃器をこの軍隊に持たせた。将校にはベルギー人をはじめスエーデン人、デンマーク人等ヨーロッパ人がなった。兵隊たちは、コンゴ人、近隣(ナイジェリア、シェラレオーネ、ザンジバール等)から集められた者たち、業者から買った奴隷たち、誘拐されたコンゴの子供たちから編成されていた。公安軍の目的は領土保全、コンゴに侵入して奴隷狩りをしていた(密猟していた)アラブからコンゴ人を守ること(といっても人権の意味からではなく、勿論財産としてのコンゴ人を守ること)であったが、さらに、ゴムや象牙を採るという経済権益をまもること、採算性をあげることであった。そのためシコットchicotteまたはファンボfimboと呼ばれるカバの皮でできた鞭が使われた。植民地の規則に従わないものは50から100回の鞭打ちの刑に処された。鞭打ちで死に至ったコンゴ人も多い。このシコットの刑は、独立後モブツ政権も踏襲した。鞭打ちはアフリカのフランス語圏では学校教育でも使用された。また南アでは今でも鞭打ちがあるようだ。
さらに、反抗する村は焼き払われ、死体の手を切り落とし、爆薬消費の証明として部隊に持ち帰った。酷い場合は、生きたコンゴ人の手を切り落として爆薬を使ったことの証明としたという。ヨーロッパ人も無慈悲なことをしたものである。
コンゴ人側の抵抗が全くなかった訳ではない。たとえば、1890年コンゴ南東部で元奴隷のンゴンゴ・ルテタNgongo Letetaが500名のゲリラ組織してベルギー軍に抵抗した例もあるけれど平定されてしまった。ンゴンゴは1960年独立後の初代首相ルムンバが同郷でもあり敬愛した歴史上の人物だった。もっともンゴンゴは後にベルギーから説得されて、ベルギーと一緒にアラブ軍追討戦争に参加する。
公安軍は1892-1894年にかけてコンゴ南東部からアラブ・イスラム勢力を軍事的に排除することに成功し、領土を拡張しながらコンゴ自由国の国境を確定していくことになる。
しかし、コンゴ自由国における過激にして非人道的レオポルド2世の政策は当時すらヨーロッパとりわけ英国の批判を浴び、1908年ベルギー国会で国王の私領からベルギー国の正式な植民地となった。
(続く)

6月24日 le jeudi 24 juin 2010 独立50周年準備 preparation du cinquantenaire

Le 24 juin 2010, jeudi
快晴。

急遽、来週月曜日にモエロ湖に行くことになった。ルブンバシから200kmまでは、なんとか道がいいらしいが、その後は乾季しか車で走れない。片道500kmだ。シスター・アスンタの同僚でモエロ地方出身のシスターが任地に行くのをエスコートする。シスターは道案内人にもなる。アスンタさんは修道院長不在で代理を務めるため行けないと残念がっていた。土曜日に旅に必要なものを取りそろえる。出発は月曜朝5時。

ルブンバシ大學で環境専門のカニキ教授と打ち合わせ。ウラン鉱山シンコロブエの1940年代の資料が全く大學にないことがわかった。7月に入ってから、NPO代表をあつめて、資料がどこにあるのか、ベルギーにしかないのか探すことになった。日本に落とされた原爆のウランを採掘していた当時の資料だ。コンゴ人鉱山労働者はウランの危険性を知らされずに作業していた可能性が高い。この現代史的研究がどうもないようだ。カニキ教授は環境問題をからめて興味を持ち出したようだ。

16時ころ変なオバサンがきて、家の前が汚いから掃除しろという。冗談じゃない、いつもゴミ拾いをして家の前は綺麗なんだと答えるが承知しない。一緒に外に出てみると、道路脇の溝が掃除していないというのだ。そりゃ当然だろう、そこは公共の溝だ。役所が掃除するような場所ではないか。争っても仕様がない。隣の敷地の前の溝をみると掃除してある。へー、こんなに清掃されているのを初めてみた。そうか、6月30日の独立記念日の為に街の化粧をしているのだ。OK。明日、アンドレが来るから、彼に掃除してもらおう。

6月23日 le mercredi 23 juin 2010 コンゴの歴史(3) 1histoire du Congo (8)

Le 23 juin 2010, mercredi
快晴。

コンゴの歴史(8)
コンゴ人はよく「昔はよかった」という。年寄りばかりではなく、若い人たちも同じことをいう。何がよかったといって、その昔は独裁者モブツ時代であるが、インフラが少なくともいまよりずっと整っていた、というのだ。ルブンバシには、Kasai州から質のいい農産物(マニョック、バナナ、パイナップル、トウモロコシ等)が豊富に届いていた。魚はモエロ湖から毎日来た。肉はモエロ湖とタンガニーカ湖との間には牧場がたくさんあった。輸入品ではないので物価も安かった。鉄道や道路が機能していた。郵便もそうだ。それに、国営鉱山会社Gecaminesが従業員宿舎を建て、病院を作り、学校を建設運営、水道、電気設備の供給されていた。「昔はよかった」。内戦がすべてを破壊したのである。
しかし、内戦を隣国からの侵入に帰し、モブツ政権の後半の独裁と腐敗に原因を求め、LD カビラの暗殺による短命政権を残念がっていても仕様がないではないか。
民主主義教育は今の若い人たちに徹底している。民主主義とは効率の悪い体制である。しかし、多数決原理を受け入れたかぎり、一歩一歩国家再建に向かうしかないではないか。
閑話休題。
ポルトガルがコンゴに上陸して以来の歴史、16から19世紀半ばまでの歴史が解明されていない。フランス文化センターやルブンバシ大學歴史学教室の図書館などを訪ね、この空白の歴史を埋めてみようと試みたが、刊行されている適当な本がなかった。日本の江戸時代といえば、武士社会から町人社会の文化が花開く重要な時期である。ところが、コンゴの諸王国の歴史も、年代を追って記述できるほどの資料がみつからない。
従って、今のところ、19世紀まで、すなわち探検家スタンレーまで時間を飛ばさざるをえないのである。いずれ資料が入手できたら都度植民地時代以前のコンゴを語ることとする。
スタンレーHenry Morton Stanley(1841-1904)は英国人である。19世紀の英国はリビングストンDavid Livingstone(1813-1873)とスタンレーという二人のアフリカ探検家を輩出した。ただしリビングストンはスコットランド人である。
スタンレーの生涯はドラマチックである。生まれから少年時代、アメリカに渡ってからも不通ではない、南北戦争で捕虜にもなっている、彼を助けたのは筆であった。ジャーナリストとして頭角をあらわした。だからスタンレーがアフリカに行ったのは、英国女王の命令でもなんでもない、ポルトガルやスペインが遠征した大航海時代とはちがう。それは400年も昔の話だ。アメリカの新聞社が、当時アフリカでナイル川の源流を求めて1866年から行方不明になっていた「リビングストンを探せ」とヨーロッパで取材していたスタンレーに打電したのだ。しかしスタンレーは直ぐにアフリカには向かわなかった。出発したのは1870年になってからで、インドのボンベイからザンジバール経由タンザニアに入ったのだ。190名の大捜査隊を編成している。アメリカの新聞社の投資も尋常ではない。そしてついに1871年11月、タンガニーカ湖畔の小村ウジジでリビングストンに遭遇する。そのときの台詞が「Dr Livingstone, I presume ? (Docteur Livingstone, je suppose ?)」。フランス人はこの言葉を、いかにも英国流の慇懃というが、ともかくこのリビングストンとの出会いを書いた本は大ベストセラーとなり、スタンレーは一躍英国でも有名人になった。リビングストンとスタンレーは全く正確を異にする。リビングストンはアフリカにプロテスタントの伝道師として来ていたし、アフリカをこよなく愛し、彼らの言葉を話した。スタンレーは「金と名誉」が目的だったし、アフリカを忌み嫌っていた。そのスタンレーを利用したのがベルギー国王レオポルドⅡ世だった。しかし、それは後のことで、スタンレーは先の成功をもとに、再びコンゴに挑戦する。1874年のことである。今度もアメリカの新聞社がスポンサーについた。タンガニーカ湖からコンゴ川を下り、大西洋岸に着いたときには1987年8月になっていた。これは確かに冒険、探検の名に相応しい。コンゴ川は途中滝があり、ただ船に乗って下っていけば海に出るというような生易しいものではない。キサンガニ(旧スタンレイヴィル)の手前100km、またキンシャサからマタディまでの350kmは滝の連続である。
(続く)

6月22日 le mardi 22 juin 2010

Le 22 juin 2010, mardi
快晴。

Vodacomの電話不通。ZainはOK。
昨日朝11時から夕方18時15まで停電。その影響か。電話が不通だとネットもUSBモデムだから不通。午後15時に帰宅してみると電話は回復していた。ネットは通じたが不調。原因不明。19時半、ネットも回復。

ルブンバシに入る手前のジェカミン地区で、車が故障した。なにやら奇妙な音がするし、ハンドルがぶれる。さては、ついにパンクかと車を止めて降りた。タイヤはパンクしていなそうだ。しかし、前輪左のタイヤが傾いている。丁度道路の向かいが修理工の溜まり場であった(ガレージがあるわけでなく、歩道に車を置いて修理している)。人のよさそうな修理工を手招きして呼んだ。直せるかときくと、「簡単だよ」。車輪を車体に止めるボルト3本のうち2本が抜けていた。タイヤの内側がボルトで締められているとは知らなかった。キプシの悪路でガタピシ走っているうちに抜け落ちたのだろう。「危ないところだったね、人身事故につながるよ」という。修理工イワン君とシャンブイ君が、ボルトをどこからか調達してきて修理してくれた。さらに後輪右のタイヤにボルトが刺さってパンク寸前であることも見つけてくれた。これも修理。1時間ほどですべて修理された。空気圧も調べて再出発。助かった。これが草原の中の道やジャングルだったらと思うと、彼らの前で車を止めたのは天恵である。

フランス文化センターで現代美術の展覧会が開催されている。絵画と立像である。
キンシャサ美大を2997年に卒業した新人たち3人だが、中でもElgaさんの『Miolle Boutonsボタン』という連作が面白かった。即売しているのだが、700ドルでは僕の手に届かない。Mandaさんの立像も悪くはなかった。僕の夢は、こうした若い芸術家たちの作品群を日本で展示することだ。
(写真が5つあるので、別立てとして掲載した)。

Sony Labou Tansiの『L’Etat honteux』を読み始めたが、なかなか読み辛い。主客転倒があり、特殊な文章ですすまない。でも面白いことは面白い。Kouroumaの本を返したので、代わりにグアダループGuadeloupeの女性作家マリーズ・コンデMaryse Condé/の『Ségou, Les murailles de terreセグ、土の城壁』を借りてきた。出身のカリブ海の島の話ではなく、アフリカは沙漠の国マリの物語である。コンデは日本でも講演をしたことがあり、フランス語で書かれたクレオール文学の重鎮のようだ。
(写真はコンデの若い頃。今は73歳)

23 juin 2010

現代美術三人展 Exposition de l'Art Moderne au CCF Lubumbashi

ルブンバシのフランス文化センターで現代美術の展覧会が開催されている。絵画と立像である。
















キンシャサ美大を2997年に卒業した新人たち3人だが、中でもElgaさんの『Miolle Boutonsボタン』という連作が面白かった。即売しているのはありがたいけれども、700ドルでは僕の手に届かない。Mandaさんの立像も悪くはなかった。
僕の夢は、こうした若い芸術家たちの作品群を日本で展示することだ。
(写真は左上からElgaさんの作品『mille boutons 7』、『mille boutons 5』、『mille boutons 2』、Mandaさんの作品『femme lumière女、明り』そして『lecture(読書)』。

21 juin 2010

6月21日 le lundi 21 juin 2010 クルマ『厭なときはノンと言え』 Ahamadou Kourouma『Quand on refuse on dit non』

Le 21 juin 2010, lundi
快晴。清清しい陽気。

コート・ディヴォワールの作家アマドエゥ・クルマAhmadou Kouroumaの遺作『Quand on refuse on dit non厭なときはノンと言え』を読み終えた。文庫本140ページの短編で、未完の小説であった。
タイトルの言葉は、作品の初めの方にでてくるが、サモリー・トゥレSamory Touréの言葉らしい。マリンケmalinke人サモリーはウアスルOuassoulou帝国を19世紀後半に興した。ウアスル帝国(Wassoulouとも書く)は、現在のマリ、ギニア、ブルキナファソに跨る帝国である。サモリーは帝国の拡大を図るとともに、当時侵略してきたフランス植民地軍に抵抗した。その意味で彼はマリなどで英雄となっている。クルマもマリンケ人であり、サモリーを引用したのだろう。しかし、サモリーはフランスの植民地化を拒否refuserした(ノンと云った)だけでない。一方において帝国拡張に奔走し、他の民族を強制的にイスラム化しようとして強い抵抗(être refusé)にあっている。だからサモリーの言葉は、民族によって意味がちがってくるし、彼は一方では英雄でも他方では、フランスにとってやっかいな戦士というだけでなく、他民族にとっては悪魔だったのである(つまり、ノンと云われたのである)。
ストーリーは単純である。隣国リベリアで少年兵をしていたビラヒマ(15歳)がコート・ディヴォワールの故郷ダロアDaloaに帰ってきてまたまた内戦に遭遇する。この内戦で父親を失いブアケBouakeに逃げようとする美しい娘ファンタのエスコートをビラヒマ少年が申し出る。
ダロアもブアケもアビジャン(旧首都、人口380万人)から200km以上北の内陸の都市である。ブアケ(人口65万人)がコート・ディヴォワール第二の都市で商業の中心地、ダロア(人口25万人)は第三の都市でココアの集散地で有名。
徒歩で森や草原を行く道すがら、ブラヒマがファンタから聞いたコート・ディヴォワールの地理と歴史の話をファンタがして、それをブラヒマが少年らしく解釈する。それだけだ。確かに、作者クルマ版の歴史、ことに近代・現代史がよくわかる。それだけだ。
この小説の中で気になるフレーズがあった。何回も殺戮の話が書かれた箇所で、たとえばコート・ディヴォワールの惨事、ブルキナ・ファソ(元オート・ボルタ)に亡命していた反政府軍が首都アビジャンを占領しようとした内戦のところで、「les Ivoiriens, pris par le sentiment du tribalisme, se sont mis à se zigouller comme des fauves et tous les jours à creuser et remplir des charniers.イヴォワール人は、部族感情にとらわれて、野獣のようにお互い殺し合いを始め、日々墓穴を掘り墓穴をいっぱいにした」これに続く次の文章である。「Mais les charniers font de l’humus qui devient du terreau qui est bon pour le sol ivorien.しかし、墓穴は腐植土となり、肥沃な土地となる。肥沃な土地はイヴォワールにとっていいことだ」(page 46)、だがbon(良い)という理由は、こうして、コート・ディヴォワールには、以前のように世界で最高のカカオができるようになるから、というのである。これはビラヒマ少年、ファンタ、そして作者のfatalisme(悲観論)であろう。皮肉としてもきつい。
また、この作家の妻はフランス人(キリスト教)であり、彼らの子供たちはみんなクリスチャンである。クルマは反キリスト教ではないことを示すために旅の途中でキリスト教のミッションに宿を提供される話も書く。しかし、僕はコート・ディヴォワールの内戦にはイスラムの臭いが強くすると考えている。武器が本当にどこから来たのかを考えててみれば分かることだ。 リビアかサウジが,,,。
さらに、作者クルマは、インドシナ戦争に若い頃に出かけている。勿論フランス軍に組み入れられてのことだ。狙撃兵として4年間インドシナにいた。その後フランスの大学に行くわけだが、つまり、フランス軍に参加したのは、フランスに行くためで、多くのアフリカ人(モロッコなど北アフリカ人、セネガルなどのサブアフリカ人)が多くこの制度を利用したけれども、考えてみれば、インドシナ戦争は、ベトナム、ラオス、カンボジアの独立を阻む戦争ではなかったのか。彼、クルマはどれだけのインドシナ人を殺したのか。プラグマティストといって済まされない。その贖罪rédemptionがコート・ディヴォワールの民主化なのか。この日誌でも書いたセネガルの作家ウスマン・センベーネは同じくフランス軍に第二次世界大戦の時に参戦したけれど、インドシナ戦争のときは、フランスを批判して参加していない。僕は、アマドゥ・クルマを偉大な作家として持ち上げる人々の気が知れない。

6月20日 le dimanche 20 juin 2010  2010年度世銀借款5億ドル BM finance 510 millions de dollars

Le 20 juin 2010, dimanche
快晴。太陽がもどってきた。昨日、一昨日の空とはうってかわっていつもの快晴。風あり。

6月19日の報道によれば、世銀はコンゴ(RDC)政府に2010年の借款として5億1000万ドルを供与する。これは主として、国営鉱山会社Gecaminesおよび郵便事業OCPTの退職者補助金に使用される。
世銀の借款はクレジットであって、無償供与ではない。記事には、期間も利率も明記されていない。確かに退職者にとっては待ちに待った金であろう。しかし、前向きの投資ではない。多くの従業員を抱えて、管理職ばかりのGecaminesや郵便局にとって、過去を清算しなければ先にすすめないのだから、この金は必要だ。しかし、返す当てのない金だ。さらに同様の退職金問題を抱えているもう一つの巨大な借金企業国鉄SNCCについては保留されたようだ。
世銀も気をつけるだろうが、この金の行く末、分配が公正に行われるかどうか、余程注意して管理しないと、前回のように、そう世銀からGecaminesなどに金がでるのはこれが初めてではない、金はどこかに消えてしまう。腐敗の温床であるGecaminesやOCPTなのだから。

Lueur d’espoir pour les retraités grâce à l’appui de la Banque mondiale au gouvernement congolais
Kinshasa, 19/06/2010 / Politique
Les agents de la Gécamines, de l’OCPT et des trois banques publiques liquidées sur décision du gouvernement pourront retrouver le sourire leur décompte final étant pris en compte dans les 510 millions de dollars Us que la Banque mondiale vient de budgétiser au profit du portefeuille de l’Etat congolais. La Banque mondiale a budgétisé, pour l’exercice 2010, 510 millions de dollars U$D, au profit du portefeuille de l’Etat congolais.

6月19日 le samedi 19 juin 2010 日本の無償援助9400万ドル aide du Japon : 94 millions de collars US

Le 19 juin 2010, samedi
曇。寒い。
寒いのに、車なので半袖でルブンバシへむかった。街中はセーターや長袖を着た人ばかり。

キュング夫妻(『日本カタンが協会』会長宅でランチをご馳走になった。米は彼らの農園(キニヤマ)でとれたそうだ。精米はルブンバシ。鳥の煮込みとカボチャ。コーヒーは遠慮して、アスンタさんのところでいただいた。
彼女の修道院で、W杯中継を見た。日本はオランダに惜敗。TV観戦をしながら、アスンタさんは、日本にサンプルとして送るコーヒー豆の選別をしていた。コーヒー豆は名古屋の会社に送って、試してもらう。このことについては既に書いたが、フランシスコ会のコーヒーとして、希少価値のあるコーヒーであることを強調すれば商品価値は十分にあるはずだ。何しろ僕が世界で一番美味いコーヒーと折り紙をつけたものだ。

既に5月18日(火)のことになるが、日本とコンゴ(RDC)政府間で9400万ドルに上る無償援助契約が交わされていた。TV報道でコンゴの友人たちは知らされていたので、僕たちの話題にはなったが、記事をミスっていたので、ここに掲載する。
4本の柱からなっている。
1.森林保護 10,722,000ドル
2.キンシャサ大学病院医療機器 7,806,000ドル
3.キンシャサ下水処理拡張工事 21,700,000ドル
4.キンシャサ市道路修復工事 20,200,000ドル
これだけでは6000万ドルをやや上回るだけだが、他にプロジェクトがあるのだろう。カタンガ州に多少でも援助があるといいのだが不明である。
キンシャサの道路とは、Avenue Poids Lourdのことと思われるが、既に日本で工事会社の入札が済み、工事関係者の方々がコンゴにみえているようである。既に今年2月に無償援助の約束をコンゴ(RDC)政府と交わしており、それが実現する運びとなった。日本のプレザンスのために大歓迎である
RDC : 94 millions USD d’aide japonaise pour financer quatre nouveaux projets
La République démocratique du Congo (RDC) et le Japon ont signé mardi à Kinshasa, quatre notes d’aide financière dont le montant s’élève à 94 millions de USD, a-t-on appris mercredi auprès de sources officielles.
Cette aide servira à financer quatre grands projets en RDC à savoir le projet de préservation des forêts pour un montant de 10.722.000 USD, le projet d’équipement des cliniques universitaires de Kinshasa, dont le montant s’élève à 7.806.000 USD, le projet d’extension de l’usine de traitement d’eau de Ngaliema, à Kinshasa, avec 21.700.000 USD ainsi que le projet de réhabilitation et de modernisation d’une avenue à Kinshasa avec 20.200.000 USD.
Le ministre congolais de la Coopération internationale et régionale Raymond Tshubanda a indiqué que ces accords constituent une aide financière non remboursable et concrétisent le système instauré par les deux pays de procéder à la signature d’un nouvel accord de coopération tous les deux mois.
Raymond Tshibanda a confirmé que ces accords de financement apporteront des réponses appropriées aux défis sociaux, en contribuant à la croissance économique du pays.
Selon le ministre congolais de la Coopération internationale et régionale, le Japon a réalisé, par la signature de ces accords, sa promesse d’intensifier son aide dans plusieurs domaines, notamment la santé et les infrastructures, promesse faite lors de la signature de l’échange des notes de l’accord de dons au mois de février 2010.
Le chargé d’Affaires ai du Japon a déclaré pour sa part que les projets concernés ont été élaborés en se référant aux différents plans nationaux de développement mis en place en RDC.
Parlant de la conservation des forêts, le diplomate japonais a indiqué que ce projet marquera un premier pas de "l’initiative de Hatoyama" en RDC. (Xinhua)

6月18日 le vendredi 18 juin 2010 コンゴの歴史(7)他 histoire du Congo (7), etc

le 18 juin 2010, vendredi
曇。久々の曇である。寒風。しかし、陽はあとで出てきそうである。

ブログ『アフリカの星』を日曜日から更新していなかった。ネット・トラブルもあったが怠惰でもあった。昨日までの分をアップした。

昨日書いた引越しの候補先に電気屋と行った。風呂の湯沸かし器は修理可能なようだ。抵抗とサーモスタットの部分をかえればよいという。丁度、その家に行っているときに水が出始めていた。憩いがいい。家に帰ってみるとまだ水がでていなかった。これは引越しだな。7月15日を予定日とするか。大家のおばさんはまあまあ、若い息子は愛想がよかったし、今日会った娘も利発そうで可愛い。

コンゴの歴史(7)
アフリカ黒人奴隷貿易について数字をあげておこう。
・東海岸ルート:1700万人。
これは8世紀から勢力を伸ばしたアラブが黒人奴隷をエチオピアから南はタンザニアまで、また内陸はコンゴから黒人を奴隷として「捕獲」した長い歴史から数字が大きいとおもわれる。タンザニアのザンジバール島からは遠くブラジルまで奴隷が売られた。現在タンザニアのZanzibarは一時期オーマンの首都ともなったが、Zanzibarとは「奴隷市場」marche des esclavesという意味である。アラブは自分たちで黒人奴隷を使役しただけでなく、ロシアや中国にも「輸出」した。こうした海上ルートだけでなく、イスラム大学の一大中心地であったトンブクトゥTombouctou(今はマリ国の小都市にすぎないが)からサハラを渡って北アフリカに奴隷を送った。「月の沙漠をはるばると…」という童謡にでてくる沙漠の風景ではなく、沙漠の隊商が運んだ中には黒人奴隷も大勢いたのである。Zanzibarが奴隷貿易を正式に廃止したのは20世紀も1964年のことであったとは驚愕である。また、国連によれば、スーダン(アラブ語soudanen、すなわち「黒人たち」が語源)にはまだ10万人もの黒人奴隷がいるそうである。
・アフリカ大陸内黒人奴隷貿易:1400万人。
再販されて欧州やアラブ地域に送られた奴隷もある。
・西海岸ルート:1100万人
主として17世紀後半から盛んになるが、欧米が買い手である。
・総計 4200万人
以上の数字は勿論推計であり、これらの数字より大きい数字を出している学者もあるし逆もある。
いずれにせよ、コンゴKongo王国の衰退の一原因は奴隷貿易による人心の荒廃(ヨーロッパ人が直接奴隷狩りをしただけでなく、Kongo王も、地方の州の王も奴隷をヨーロッパ人に売り渡した。奴隷を得るために近隣の他部族を襲った)と人口の過疎化であった。 (写真は奴隷売買契約書、1794年)

Google検索でアラートをかけて、コンゴ(RDC)やルブンバシ関連のニュースがあるとメイルで報せてくれるようにしてあるのだが、通信社、新聞社によっては有料会員にならないと記事がみられないことがある。ところが、Googleではタイトルと記事の「さわり」が出てくる。そこで再び知りたいニュースの内容を適当なキーワードで検索すると有料記事と同じ記事が他のサイトで公表されている。ある通信社だけの特ダネというのは殆どない。そうして見つけたのが次の記事であった。
これによると、今後RDCとの鉱山開発契約に際しては、少なくとも国による35%の参加を条件とすると鉱山大臣が明言したという。35%とは、逆にいえば65%が外国企業のJVにおけるシェアということになる。すなわちマジョリティーが外国企業でよいということだ。
さらに、契約モデルはあくまでモデルで、35%というのもコンゴ側の「希望」(souhait)ということであるから、実質的に鉱山大臣は何をいおうとしているのかよくわからない。強い姿勢はとれないのだと僕は理解する。
現状は、たとえばテンケ(TFM)と国営鉱山会社Gecaminesのテンケ82.5-Gecamines 17.5であるし、Okimo(Kilo-Moto金鉱山公社)とRandgold Resourcessとの合弁であるKibali Goldminesは、去年12月に30%から10%に公社側の比率が下げられた。
また、契約モデルでは、少なくとも鉱脈全体価値の1%を営業権(敷居、pas-de-porte)として国に納めろ、また輸出(売上げ)総額の2.5%をローヤリティー(利権)としてこれもコンゴ政府に払えと謳っているそうである。さらにアカウントのトランスパランシーについても国際基準を守れとある。
コンゴ(RDC)において、腐敗corruptionの最たるセクターは鉱山セクターである。だから、こうした契約モデルができることは、不透明な贈収賄を防止する上で歓迎である。けれども、むしろ他の法律、通達などと同じで、遵守されるか否かは甚だ疑わしいのである。いや、水をさしてはいけないか。見守ろう。
(ニュースの原文はブログ『日本カタンが協会』に掲載中
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/ )

18 juin 2010

6月17日 le jeudi 17 juin 2010 『ロルサ・ロペスの七つの孤独』(ソニー・ラブ・タンシ)他 『Les Sept Solitudes de Lorsa Lopez』, etc

Le 17 juin 2010, jeudi
快晴。
昨日ソニー・ラブ・タンシの『Les Sept Solitudes de Lorsa Lopez』(1985、201ページ)を読み終えた。文章はソニーらしい歯切れのいいものだが、内容が先週読んだ『La Vie et Demie』に比べてかなりアフリカ的(地方的)なので、理解し難い点もあって前半を読むのに時間を要した。話はある国の都市間、海辺の町Valanciaと内陸の町Nsanga Nordaの争いである。ストーリーはLorsa Lopezが彼の妻を殺害するところから始まる。殺人を犯したのにNsanga Nordaにしかない警察がこない。Valanciaは只管警察が来るのを待つ。この辺はベケットの『ゴドーを待ちながら』的である。その間に次々とValanciaの人やValanciaに味方する人たちが殺されていく。不条理劇である。不条理とはabsurdeの翻訳である。出来すぎた翻訳だと僕は思っている。Absurdeとは要するに「馬鹿らしい、阿呆らしい」ということだ。それはともかく、エスプリと辛辣なユーモアはソニーの持ち味である。
しかし、出てくる固有名詞(人名、地名)は架空のものが多いが、それがコロンビアの作家ガルシア・マルケスGabriel Garcia Marquezに敬意を表してこの作品を書いたらしく、スペイン系の名前が創作されているけれども、人名に女性の名前を選んで実は男性の名前として使っていたり、たとえばLorsaが男性、Sarngata Nolaがやはり男性だったりする。第一、Sarngataは読みにくい。僕はサルガータと読むことにした。この性の不一致と奇妙な子音の挿入が作品を読みにくくしている。
初めのほうでソニーが日本を規定するのに面白いことを云っている。挿話であるが、作品の舞台となる国が、国際会議で先進国と反目する。先進国米国はこの国のパイナップルを買わないと宣言する。他の先進国が追随するのだが、フランスはアメリカへの配慮から、ベルギーは理解を示して、ドイツは頭が固いから、南アは直感的に、そして日本は「敬意からpar honneur」やはりパイナップルを買わないことにする、と書いている。ソニーが日本を名誉を重んじる組とみていると知ってちょっと嬉しくなった。アメリカのやることに何でも追随する主体性のない国とは皮肉にも云っていないのだ。
売れなくなったパイナップルをどう処分することにしたかは、作品を呼んでいただきたい。ユーモアである。
たぶんこの作品も日本語に翻訳されていると思う。一読をお勧めする。

ソニーのもう一冊の本、僕にとって三冊目になる『L’Etat honteux恥辱の国』をアラン君が大学の先生から借りてきてコピーしている。週末には読めるだろう。その間にフランス文化センターから、こんどはコート・ディヴォワール(象牙海岸、Côte d’Ivoire)の作家アマドゥ・クルマ(Ahmadou Kourouma)の『Quand on refuse on dit non厭なときは否(ノー)と言うんだ』を借りた。クルマは独裁者を嫌って海外(アルジェリア、カメルーン、トーゴ)に30年間亡命していた。この作品は遺作となっている。2003年に76歳で亡くなっている。前作『Allah n’est pas obligéアラーの神は自由だ』(邦題『アラーの神にもいわれはない』)の続編だと作者自身が書いているし、物語もそのようにして始まる。少年の目からみたコート・ディヴォワールの内戦の話のようだ。

チコちゃんを獣医Ilunga博士のところに連れて行った。ワクチンを注射するためである。複合ワクチンでeucose(leikemia virus)、typhus、coryza(cat flu)に対する免疫を作るため。連れてきたときのダンボール箱は汚かったので、篭もないし、助手席にタオルを敷いてルブンバシに行ったが、チコはどこに行くのか分からず大騒ぎ。でも、やがて慣れて僕の膝の上で大人しくなった。注射後、マドンナと同様に観光手帳を発行してもらった。35ドル。いくつか立寄るところがあったので帰りは16時を過ぎていた。7時間も車の中にいたことになる。気疲れと注射の所為か、家についてから寝込んでしまった。注射されるとき騒ぎ出さず、彼女は偉かった。けなげだよ、チコちゃん。

引越すかもしれない。前に見た家の大家が200ドル/月でいいといっているし、ガレージ付なのもいい。窓や戸の開けたてもいい。ここよりも入居時の状態が清潔。使用人小屋があるが、出入り口は別になっている。前金5ヶ月。つまり1000ドル。問題は風呂の湯沸かし器が壊れていることだ。修理可能というが入る前にチェックする必要がある。水についても夜はでるというが、その水圧は? 寝室が4つもあって今いるところよりも広い家に一人だ。

新装なったグラン・カラビア・ホテルに見学にいった。詳細はブログ『日本カタンが協会』を参照乞う。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/2010/06/inauguration-de-lhotel-grand-karrabia.html

6月16日 le mercredi 16 juin 2010 コンゴの歴史(6)奴隷貿易他 histoire du Congo (6) traite de esclavage, etc



Le 16 juin 2010, mercredi
快晴。微風。

風呂のサーモスタットの交換に電気屋がなかなか来ない。電話でクレームすると今家に来るところだという。蕎麦屋の出前だ。領収書を請求するとない、ルブンバシの市場で買ったからないと。手間賃が10ドル。一日働いて3000フラン(300円)が相場じゃないかというと、じゃ5000に下げる。ま、致し方ない。

コンゴの歴史(6)
黒人奴隷貿易とはどのようなものであったのか。
セネガルは首都のダカールの沖合いに小さな島ゴレ島Goreeがある。奴隷交易の一つの中継地だった。この島の奴隷収容所は今も保存されている。たいていの奴隷中継地には博物館があるが、収容所そのものが残されているところは少ないようだ。確かにタンザニアでもザンジバールおよびその大陸側バガモヨBagamoyoが東アフリカにおける一大奴隷貿易の中心地だったか、博物館はあっても収容所は残っていない。
黒人たちは、仲間に売られ、他部族から狩られ、仲介のアラブ人から競りに出されとりしながらゴレ当にやってきた。リベリア、ガーナ、ナイジェリア等々の地方から集められた。彼らは動物が世界中の動物園に売られるよりも一層過酷な環境下で収容されていた。そこで死んでしまうものは、商品価値がない質の悪い奴隷として適さないものとして扱われた。死ねばサメのいる海に捨てられたのである。彼らは動物といてしか見られていない。しかし、商品である。商品価値をあげるために、品種改良も行われた。屈強な体躯の男と多産とおもわれる女とを掛け合わせる部屋もあった。男は種馬である。女はメチスを作るためにも使用された。重営巣もあった。そうしてカリブ海へ、北アメリカへ、ラテン・アメリカへと「出荷」された。
(上の写真はゴレ島の奴隷解放像、後ろに見える建物が収容所だった)

アフリカ西海岸奴隷貿易、東海岸奴隷貿易、アフリカ間奴隷貿易に大別される。
西海岸からイベリア半島に奴隷がまず輸出されたのは1441年である。ことに東ローマ帝国が滅亡(1453年)から、西海岸の需要が急増する。
カリブ海でサトウキビ栽培が始まると、奴隷の重要が高まり、奴隷の価格が上昇、反対に欧州で消費する砂糖の価格が下がった。1792年から1860年にかけてだけで、72万の黒人がスペイン領キューバに送られたという。これはそれ以前の200年間の数字よりも多い。カリブのフランス領マルティニーク島に1674年には2600人しかいなかった黒人奴隷が、100年後には9万人になっている。これら奴隷貿易と彼らの労働で得た利益で、フランスでは、たとえばボルドー、ラ・ロシェル、ル・アーヴルやナントなどの街が今日のような都市になったといえる。それは、フランスに限ったころではなく、後に見るベルギーでは、ブラッセルもアンベール(アントワープ)も、勿論王室もコンゴの奴隷貿易とまた現地での奴隷労働とで得た富で今の繁栄ある街をまた王室を作ったのである。もしもアフリカ諸国が戦時賠償と同じように500年にわたる西欧による奴隷貿易にたいして補償を求めたとすれば、今西欧が援助と称してアフリカに還元している金額など大海の滴に過ぎないだろう。西欧は、いや、我々は鉄道や道路を建設した、教育を授けたのだからいいではないか、と云うのだろうか。

1848年フランスは英国に遅れること数年奴隷貿易を廃止した。

6月15日 le mardi 15 juin 2010 砂ノミ他 puce chique, etc

Le 15 jiin 2010, mardi
快晴。無風。

Vodacomなお不通。朝9時復旧。
もたもたしていたなぁ。

機能のサッカー、日本がカメルーンに1-0で勝利した。カメルーンは伝統のチームなのに、日本はよく勝てた。次はオランダ。これも手ごわい。

国立博物館Musee Nationalの館長で考古学者のDonatien Muya氏に会った。博物館の敷地の中に官舎があった。
「考古学は極めて理科的学問だが、ベルギーの伝統から、ルブンバシ大学でも文学部に属している。確かに80年、90年代、カタンガでの考古学発掘調査は進んでいない。特にタンガニーカ湖やモエロ湖地方は、内戦の影響が大きい。今は平和になったので、これから考古学的研究も再開していきたい。問題は資金。鉱山開発をしている企業が、Unescoの指導で文化的援助として貢献してくれているが、それだけでは十分ではない。日本の大学との交流はない。米国の大学、ベルギーの大学とは密接に交流している」
コンゴは考古学の未開拓地である。いや、歴史学の未開拓地なのだ。これから新しい発見が先史時代から20世紀まで続々と出てきそうな気がする。日本の学者も挑戦して欲しいとおもう。

アスンタさんのところで砂蚤puce-chiqueについて聞いた。アスンタさんも被害に一度あったという。砂蚤は文字通り砂や土の中にいて、裸足やサンダルで砂蚤いるところを歩くと、とりついて血を吸う。動物では、豚、羊、犬、猫などが犠牲になる。初めは小さく2mmほどで、皮下に潜り込み血を吸いながら大きくなる。最初は痒いだけ、やがて皮下で成長、入った場所が足であれば歩行も困難になる。アフリカや南米にいる蚤だが、日本でも大阪で大発生した記録がある。皮膚の下に入り込むというのは厭らしい。皮膚から虫が見えるそうだ。恐ろしい話を聞いてしまった。
蚊やハエも僕の敵だが、第3の敵が現れたか。チコちゃん、マドンナちゃん、そんな蚤を拾ってこないでくれよ。

6月14日 le lundi 14 juin 2010 コンゴの歴史(5)他 histoire du Congo (5), etc

Le 14 juin 2010, lundi
快晴。
日本は関東地方が昨日から入梅。

(財)自治体国際交流協会に仙台とルブンバシの姉妹都市について仲介を依頼しちえるが、返事がないので、現状の開示を頼んだ。
国際柔道連盟(ローザンヌ)はキンシャサ気鋭湯になってしまったが、ともかくマテリアルを寄贈してもらえることになったが、全日本柔道連盟、講道館からは何の返事も着ていない。児童労働廃止を訴えるNPO「Ace」にカタンガ州の鉱山における児童労働について協力を要請したがこれも返事がない。ほかにも返事がないところだらけだ。いやになる。

電話Vodacomが14時の停電を期して、電気が来ても不通になった。停電は短かったが、電話の不通は既に4時間。もう1個の携帯Zainをもっているから助かった。

コンゴの歴史(5)
1482年ポルトガル王ジャンⅡ世の命を帯びてDiego Cam(1450-1486)が第一回アフリカ探検に船出した。同年コンゴ川の河口に到着している。ポルトガルは既に1415年のエンリケ王子(フランス語ではHenri le Navigateur)から 大航海時代(大発見時代 Les grandes découvertesを日本では大航海と云いなおしている)に入っていたが、2回の航海でエンリケの更に南のコンゴ、アンゴラそしてナミビアまで達している。勿論後のバスコ・ダ・ガマはインドまで到達した。ディエゴ・カンは1483年、コンゴ王国の首都Mbanza-Kongo(既出)でManikongo(コンゴ国王)であるNzinga Nkunuに謁見している。フランシスコ会が1490年にコンゴに到着する。国王は1491年に洗礼を受けカトリックとしてジャン1世を名乗った。首都もサン・サルヴァドールと改称された。1487年にはコンゴKongo王国とポルトガルは大使交換をしている。国民の反対でジャン1世とその長男はカトリック教徒から再び元のアニミズムに戻るが、次男はカトリック信者であることを捨てず、父王の死後内戦となり、弟が兄を殺害し王位につきアルフォンソ1世として即位した。彼はポルトガルの先進性に大使を通じて触れ、コンゴKongoの近代化をキリスト教とともにすすめようとする。また、奴隷貿易を推進することとなった。これがコンゴ王国の衰退につながっていく。
1510年ころから、奴隷貿易はサオトメ島と中継地として盛んに行われた。アルフォンソ1世は奴隷貿易を差し止めようとしたが(1526年ポルトガル王ジャン3世に奴隷貿易廃止を訴えている)、膨大な利益を得ていた豪族たちに阻まれてしまった。当時カトリック教会もこの奴隷貿易に少なからず関与していた。
それから140年後、1665年コンゴKongo国王アントニオ1世は、ポルトガルに奴隷貿易を廃止するよう要請する。ポルトガルはルアンダ(現アンゴラの首都)に兵をあつめコンゴKongoに攻め入った。世にいうアンブイラの戦い(Bataille d’Ambuila)である。アントニオ1世は殺され、首を刎ねられてしまう。その後コンゴ王国は分裂、内戦。そして州はそれぞれ、ポルトガル、オランダ、英国なとの支配下に組み込まれてしまった。大手を振って西欧によって黒人奴隷貿易は続けられたのである。
(続く)

6月13日 le dimanche 13 juin 2010 コンゴの歴史(4)他 histoire du Congo(4), etc

Le 13 juin 2010, dimanche
快晴。微風。

シーツを洗った。このシーツはJambo Martで買ったものだが、包装をあけてみるとシミがついていた。取り替える? クレームしても仕様がないから、そのまま使っていたものだ。シミを重点的に洗ったら幸いなことに綺麗に落ちた。乾かすと糊をつけたようにパリパリになったのはどういうことか。

コンゴの歴史(4)
ポルトガル人がやってくるのだが、その前にコンゴ(RDC)の他の地方をみてみる。というのも、コンゴKongo王国は、現在のコンゴ民主共和国全体をカヴァーしていたわけではないからである。
b)クバ王国
クバ王国は西カサイにあった王国である。西カサイ州はカタンガ州の北西に位置する。起源は15世紀に遡る。バンツー系だが、大西洋岸の方から移動してきたと考えられている。コンゴKongo王国とは独立した王国である。神話的には起源は6世紀初頭、現在王家の血のつながるNyimi Lukenguさんは126代ということになるらしい。彼はベルギーで病気療養中。
彼らの筵(むしろ)、織物、仮面、彫刻は世界的に有名である。

c)ルバ王国
地域は現在のカタンガ州である。カタンガの原住民は、コンゴ北方同様ピグミーであった。15世紀ころ彼らを押しやって入ってきたのがルバおよびルンダである。彼らのいずれもがバンツーから派生しているようだ。
17世紀に入ってKongoloおよびIlunga Kalalaがでてきて、地方の豪族chefferieを束ねてルバ王国を形成する。 カタンガ州の北部および東カサイ州が領土だった。首都はMwibele(Muibele)で、現在のカタンガ州オ・ロマニHaut Lomami郡にある小さなlac Boya湖畔である。KalalaはKongoloに警戒されて殺されかかるが、Kongoloの計略を見破って、逆にKongoloを殺し彼の領地を奪い、さらに王国の領土を拡大する。
イルンガ・カララはカタンガの歴史の中でも好まれる英雄のようで、イルンガを名乗っているひとがルブンバシにも実に多い。
その南に16世紀から19世紀にかけてカタンガ州、ザンビア北部、アンゴラ国東部にまたがるルンダ王国もあった。ルンダ王国はIlunga Kalalaの弟であるIlunga Tshibindaが独立して建国したということになっている。首都はムスンバ、カタンガ州のルアラバ県(アンゴラとの国境、ルブンバシからみると北西に700km)にあった。
(続く)

13 juin 2010

6月12日 le samedi 12 juin 2010 コンゴの歴史(3) histoire du Congo (3),

コンゴの歴史(3)
コンゴCongoという国名はKongo王国からきている。ザイールというのは、例のモブツ大統領が導入した。コンゴがある地域が、コンゴといわれる前にザイールと呼ばれた歴史はない。ポルトガルが15世紀にコンゴの地に来たときに、現在の大河コンゴをザイール川と名づけたのだ。モブツはそれを国名とした。

さて、コンゴ王国Royaume de Kongoである。Kongo人の神話的起源は女性ンジンガNzingaであった。それは既に述べた。バンツーは7世紀から15世紀にかけてさらに移住してきた。彼らは宗教的、精神的王(Manikongo、maniとは支配者の意、またはMwene-Kongo)を戴いていた。王は祖先と会話ができ、神的存在であった。王は世襲ではなく、12名の王位継承権者の中から選出された。この制度は13世紀ころに確立されたようだ。
コンゴKongo王国は勿論農業、狩猟、牧畜の第一次産業も発達していたが、広い交易圏をもち、象牙、金、銅、土器、衣服その他の貿易をし、貨幣が使用され、「金融」都市として大西洋岸にMwanda(Moanda/Muandaとも書く)があった。現在のMuandaは石油基地である。沖合いで原油を採掘している。Perencoの開発に日本の帝石が資本参加している場所だ。このPerencoが町に電気を供給し、ごみ収集を行い、図書館を市民に開放している。企業の社会貢献の代表格だ。
コンゴ王国は17世紀には奴隷売買を期にして衰退していくが、黒人奴隷貿易については後述する。
王国は、日本風にいえば州、県、郡に区分された行政組織をもっていた。緩い連邦制といってもよい。王国の領土が増えるにしたがって同様の行政組織を増やしていったわけである。王位がいわば選挙で選ばれたとしても、王権は単純に政治的行政的権威だけではなかった。祭祀を司る宗教的権威のトップでもあった。
行政府は、軍事、司法、音楽、彫刻の責任者がそれぞれ指名されていた。これは国レベルだけでなく、先の行政区分に従って、州県郡にも同様の責任者が置かれた。
コンゴ王国の暦もある。
週と4日とし、3日が労働日、一日を市を開く日としている。月は4週間すなわち28日である。一年は13ヶ月。
他に5つないし6つの季節(シーズン)を設けていた。農作業にもリンクしていた。今のカレンダーでいえば10月から12月の種まき(雨季のはじまり)、椰子の実の収穫、雨季の最終期、喚起の始まり(寒風の季節)、灼熱(7月)そして夏である。
こうしてみると、ポルトガル人ディエゴ・カンが1483年にやってくるまでに、近代国家ではないが、ヨーロッパの中世に匹敵するような国民国家Etat-nationが成立していたといえよう。それはそこに文明civilisationがあったといえるのだ。しかし、この文明の最大の欠陥は文字がなかったことである。それは他の文明との接触・交流がなかったということである。アフリカ大陸では、エジプト、エチオピアを除いて文字がなかった。しかし、古代エジプト文字もエチオピアのコプト文字も現在は使われていない。日本は中国がとなりにあったから平仮名片仮名を発明できたのである。
閑話休題。いよいよヨーロッパがやってきた。
(続く)

6月11日 le vendredi 11 juin 2010  ヤマハ/平行輸入他 Yamaha/importation directe, etc

Le 11 juin 2010, vendredi
快晴。微風。

ヤマハ発動機本社からみえた青年Kさん。ご苦労さまです。もっと長くいろいろと話したかったけれど、代理店の方もいたので、連慮しました。ガボン、コンゴ(ブラザヴィル)、キンシャサにも行かれたとか。ルブンバシを、カタンガをたくさん見ていただきたいけれと駆け足出張ですね。
小型発電機は需要としては、現在の電力事情を考えると、ルブンバシ市はよく停電するから、高いといえるかもしれない。しかし、停電問題は時間とともに解決する。解決の速度が遅いには違いないけれども。従ってセールス・ポイントは小規模鉱山また建設現場などになろう。
オートバイは農村地帯、都市から離れたところだ。人力と自転車で輸送を行っているのが現実、自転車を持っていることが一家の収入の支えになっている。150km、200kmを数日かけて貨物(木材、炭、食料品、セメント等々)を自転車に山と積んで運んでいる。これがトラックの前にオートバイになれば労力も時間も節約できる。しかし、自転車で運んでいる人たちの購買力が問題。ローンを組むかなにか購買手段を講じなければオートバイを買うことができないだろう。
船外機は漁業。モエロ湖(キセンガ)、タンガニーカ湖(カレミ)、大河コンゴの支流でも大型船の航行が可能なブカマ(カタンガ中央)等々で漁業が行われている。貧しい漁民が簡単に船外機を買えるとも思えない。しかし、漁業組合がある。州政府も漁業振興をしている。
カタンガ州だけではないだろうが、とくにここでセールスをするには、地道に拠点拠点を選んで飛び回らなければならないだろう。ショールームでじっとしていても商売にならない。大企業(欧米系)や国連関連機関は、確かに重要な(潜在かつ現実の)顧客だろうが、当座の需要を満たせば次は次年度の予算まで買ってくれない。
今の代理店の人が徹底的に需要喚起のために全国を回ってくれるかどうか。カタンガ州は日本よりも広いのだ。先入観で営業していたら先はない。
いずれにせよ、Kさんはアフリカが好きだといってくれた。きっとがんばってくれるとおもう。いい青年に会えた。

「日本カタンが協会」は今のところ寄付も寄贈もない。会費を払ってくれる会員もいない。いや、一人だけ我々を助けてくれた。でも、なにか収入を、ミニ・バス運送会社を考えたが、リスクが大きい。そこで、コピー・センターに方向転換する。これなら、Alain君が10年以上文具の顧客をもっている。
キャノンのコピー機の並行輸入を企図した。アマゾン・フランスで買い、ベルギーに送る。ベルギーまではアマゾンが輸送費を負担してくれる。それから空輸。ここのベルギー系通関業者で見積もりをとった。空輸費用が、去年の倍になっていた。最近の原油値上がりの影響だろう。通関費用も関税10%は致し方ないとして、諸経費を合計すると、1442ドルの仕入れに対して、1450ドルかかることが判明した。CIF300ドルになってしまう。これでは、町の業者で買ってもとんとん。むしろ業者の方が仕入れ価格(FOB)が安いのだろう、多少店頭販売価格の方が有利である。並行輸入は断念しなければならない。
フィージビリティー・スタディーをAlain君に依頼した。大学の複数の学部で資格をとっても、実務でこれぐらいできないと話しにならない。
どうせフィージビリティー・スタディーなんか絵に描いた餅だ。あとは実マネージメントの手腕をみるだけである。

風呂の湯沸しが作動しない。電気屋を呼んだ。サーモスタットが壊れているそうだ。さもあらん。3日前から水圧があっても赤いランプが点いていなかった。ルブンバシでパーツを買うという・20ドル。

11 juin 2010

6月10日 le jeudi 10 juin 2010  コンゴの歴史(2)他 histoire du Congo (2), etc

Le 10 juin 2010, jeudi
快晴。

Twitterのチェック。鳩山さんの「つぶやき」。なるほど、辞任の挨拶などが入っていた。Monuscoの新任代表がRoger Meece(米外交官、アフリカのエキスパート)であることも知らせてきた。しかし、携帯電話むkだなぁ、Twitterというのは。こまめに「ブログ更新したよ」などと書くのだろう。英語やフランス語で書いたほうが影響がありそうだ。

名刺が溜まってきたので名刺ホルダーを買って整理し始めた。

Alain君が中国物産店でボールペンを買う。安くて品質のいいペンがあるのだという。ついでに僕は米と干しブドウ入りクラッカーを買った。米は今夜試してみる。$3/kgはジャンボ・マートより安い。計り売りである。ここの中国人はなかなか愛想がいい。

ヤマハ発動機の代理店については既に書いた。日本のヤマハから人が来る。電話をいただいた。とても嬉しい。ルブンバシまできてくれるのだ。足をのばしていただける。コンゴ市場は、キンシャサとルブンバシとでは恐らくまるで違うはずである。ここには、世界の大企業が進出している。需要の対象となる商品が異なってくる。輸入経路もちがう。キンシャサではコンゴ川を河口から遡ったマタディ港から入る。ここは南アかタンザニアから入る。

日本の友人O君が笑い話を送ってくれた。昨日の僕の記事を読んでのことではないとおもうが辛辣である。
quote
ある国の話。
外国より元首が訪れ、お国の最先端科学の施設を見学することになり、脳科学研究所にお連れした。
『この脳は元大使の脳です。こちらがノーベル賞を受賞した科学者の脳。これは、タクシー運転手の脳です』
元首が訊いた。
『値段は?』
『大使のは800ドル、科学者のは100ドル、タクシーの運転手のは200ドル』
『どうして大使のは高いのか?』
『ハイ、それはあまり使ってませんので・・・』
unquote

コンゴの歴史(2)
2)コンゴ王国
AC2000年からDC500年にかけて先住民ピグミーを追いやったバンツーの大移動があったこと、彼らが鉄器の製造、農業をもたらしたことを述べた。日本の鉄器時代は定説では弥生早期AC400年から始まったとされる。バンツーは、さらに通信手段としてのタムタムtam-tam(太鼓)、道の造成、竹の葉から繊維を取り出して衣服を製造した。

a)コンゴ王国 Royaume de Kongo (現在のCongoと区別するためKongoと表記される)
おおよそ4世紀に起源をもち、15世紀後半にポルトガル人が来たころには、現在のコンゴ(ブラザヴィル)南部、コンゴ(キンシャサ)南西部とアンゴラ北部にかけて、総面積30万km2を超える大コンゴ王国が形成されていた。1482年ポルトガル人ディエゴ・カンDiego Cam(僕がポルトガル表記をもっていないので、フランス語表記とする)が来て初めて西欧に存在が知られた。
首都はムバンザ・コンゴMbanza-Kongoである。現在はアンゴラ国ザイール州にある人口2万5000人の小都市になっている。アンゴラがポルトガル領だったころはサン・サルバドールSao Salvadorと呼ばれた。1975年アンゴラ独立後元の名前に戻っている。場所は、大河コンゴの支流ムポゾ川(河口はRDCバ・コンゴ州マタディ市,、キンシャサの西)の源流である。1665年ポルトガルとの戦争で破壊しつくされた(この戦争については後述する)。しかし、1709年に再びコンゴ王国の首都として修復された。
さて、伝統的にKongoないしアフリカの多くは母系であるから、神話的に伝えられるこの国Kongoは女性Nzingaから始まる。彼女には二人の男の子と一人の娘がいたというところからKongoの歴史が説かれるのである。
(続く)

6月9日 le mercredi 9 juin 2010  ルブンバシで警戒態勢? alerte à Lubumbashi ?,

Le 9 juin 2010, mercredi
快晴。微風。

種々のニュースをブログ『日本カタンが協会』にまとめて掲載した。ネット不通でたまっていた記事である。人権擁護ONG「声なき声の声Voix des sans-Voix(VSV)」代表チェベヤFloribert Chebeya氏(47)殺害事件、コンゴ人難民帰国、ウガンダに戦時賠償請求、Monuc(国連コンゴ民主共和国ミッション)名称変更等である。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/

皆さんが心配なさるといけないので、意図してここに書かなかったことがある。先月24日(日)、ルブンバシの市中が一時騒然となったらしい。「らしい」というのは、僕はキプシの家にいて真相を知りえなかったからだ。25日にネット新聞を読んでから、翌日ルブンバシの様子はどうかなと思いながら銀行にお金を引き出しに行った。街中は普段と全く変わりがなかった。特に警官の数がおおいとか、軍隊が警戒しているとかいう事実はなかった。
この日曜日、20名近くの銃を持った男たちが、TV局、中央郵便局、空港、州庁舎等を襲撃するという噂が拡がったのだそうだ。実際はなにもなかったが、その後逮捕者がでている。逮捕されたのは、90年代の反モブツ、カタンガ州独立派憲兵隊の残党とのこと。この憲兵隊の連中は今やこの国では年寄り扱いされている。一応、残党として集団管理されている。事件の発端が噂とはいえ、逮捕されたのが旧憲兵隊なら時代錯誤だと市民は苦笑している。 (写真は渋い顔のカタンガ州知事モイーズ)。
こんなことがあり、新聞紙上をかなり賑わせたが、日本大使館からは、何の安全情報もなかった。外出に気をつけろとか、国外退去の用意をしろとか、それは大袈裟に過ぎるが、うんともすんとも云ってこない。現地の様子の問い合わせもない。一体、外務省の「海外安全ホームページ」をみていれば、カタンガ州に日本企業がくるわけがない。どこに根拠を置いて書いているのかがわからない。ここには領事館もない。そんなに危険だというなら、何か対策をとっているのだろうか。確かに大使館と日本人居住者たちとの連絡網は作った。しかし、いちょうことがあったら、何をしていただけるのでしょう。自己防衛でしょう、結局は。とはいえ、外務省にしていただきたいことは山ほどある。「日本カタンが協会」の実質的活動が可能になるためには大使館の協力が必須。頭の痛いところだ。

RDC : Folle rumeur à Lubumbashi
Il n'aura fallu que quelques heures pour plonger la capitale du Katanga dans la panique. Une rumeur "d'attaque imminente" a fait le tour de la ville dimanche dernier. Depuis, une véritable psychose s'est installée à Lubumbashi, renforcée par une forte présence armée aux points stratégiques de la ville. Des hommes armés devaient attaquer la Radio télévision nationale (RTNC), l'aéroport International, la Poste et le Gouvernorat... mais rien n'est venu.

Dimanche 24 mai, les habitants de la Lubumbashi ont d'abord vu se déployer des éléments des forces de sécurité lourdement armés sans aucune explication officielle. Puis, la rumeur d'une attaque armée a commencé à se propager en ville. On parlait d'une centaine d'hommes armés, arrivés quelques heures plus tôt à l'aéroport de Lubumbashi et qui faisaint route vers le centre-ville. Autour de cette "pseudo attaque" : pas de motif et pas d'identité pour les agresseurs... depuis, les "attaquants" ont disparu dans la nature.

09 juin 2010

6月8日 le mardi 8 juin 2010 ロヨラ図書館他 bibliothèque Loyola, etc

Le 8 juin 2010, mardi
快晴。

髭が生える。濃ければ髭を生やすのもいいかもしれないが、僕は濃くないし、白髭が生え始めたのでみっともないから剃る。いつまで剃り続ければいけないのだろう。生涯なのかな。この間使い捨ての剃刀を買ったら、直ぐに切れなくなった。日本の100円ストアで買った剃刀は結構長持ちした。爪もそうだ。暇にしていると爪が早く伸びるというが、何もしなくても爪は伸びる。新陳代謝なのだろうか。爪も、髪も、髭も伸びなくなったらお仕舞いなのか。死体でも髭は伸びると聞いたことがある。

Sonyの本をイエズス会の図書館「ロヨラLoyola」で見つけた。『Les Sept Solitudes de Lorsa Lopezロルサ・ロペスの七つの孤独』(1985)である。他の作品はなかった。この図書館は貸し出ししない。けれど、コピーしてくれた。文庫本livre de pocheで202ページ。5 000FC(500円)だった。海賊版ということになる。
「ロヨラ図書館」のロヨラとは、イグナチオ・デ・ロヨラIgnacio de Loyola、他ならぬイエズス会の創設者である。この創設メンバーの一人、フランシスコ・ザビエルFrancisco Xavierが1549年日本にキリスト教を初めて伝えた。彼は鹿児島から入って、京まで上っている。2年間日本で布教した。イエズス会は多くの宣教師を世界各地に送っている。
コンゴの場合は、1484年に初めてポルトガル人宣教師がやってきたようである。ポルトガル宣教師の布教で15世紀末にはキリスト教徒徒なったコンゴの王もいた。1548年にはイエズス会の4人の修道士がきて学校を建てている。けれども、ポルトガルがコンゴからアンゴラに重心を移してから、キリスト教の影響は、ずっと下って19世紀にベルギーやフランスが来るまでかなり衰えた。

シャケ缶を買ってきたので、今夜は生クリームに入れ、フェトゥチーネが残り少なかったのでリンギーニと和えることにした。僕はこのコンビネイションが好きだ。アルジェリアではスモークド・サーモンを使った。時々入荷されていたのだ。シャケの代わりにパリ・ハムjambon de Parisでもいい。
シャケは勿論この国の魚ではない。今、マーケットで売っている魚はナミビアなどから輸入されている海の魚トムソン(鯵だろうと思われる)しかないといって過言ではない。干物か塩漬けまたは冷凍だ。インフラがまだまともだった時代、20世紀末まではタンガニーカ湖やモエロ湖からルブンバシに魚が運ばれてきていた。冷凍ではなく冷蔵魚であった。漁業にはギリシャ人が多く活躍していた。魚としては、キャピテン、ティラピア等である。ところで、タンガニーカ湖もモエロ湖も熱帯魚の宝庫である。世界でも珍しい熱帯魚が200種以上いるらしい。是非いつか行ってみたいものだ。水族館ではなく、湖岸に立って泳いでいる熱帯魚を見たいのだ。初めて近くで自然の熱帯魚を見たのはサント・ドミンゴだった。
タンガニーカ湖が琵琶湖の49倍、その150km南のモエロ湖は小さく見えるが琵琶湖の7倍もある。
閑話休題。パスタのメーカーを今回Agnesiにした。やはりBarillaかAgnesiでないとだめ。同じイタリア製でも他のメーカーは質が劣る。少なくともJambo Martにあるパスタは不合格。

6月7日 le lundi 7 juin 2010 コンゴの歴史(1)他 hisoire du Congo (1), etc

Le 7 juin 2010, lundi
快晴。風あり

コンゴの歴史を振返ってみる。
1) 先史時代
カタンガ州のMulundwa遺跡で20万年前(前期旧石器時代)のものと思われる石器(galets taillés、英語chopper)がみつかっている。Mulundwaはルブンバシから東北に200km行ったカセンガ郡にある。モエロ湖にも近い。タンザニアやケニアで200万年前のホモ・ハビリスHomo Habilisの化石が見つかっているが、コンゴの東部、モエロ湖やタンガニーカ湖周辺は考古学的調査が行われておらず、これからコンゴでも大きな発見があるかもしれない。考古学者にとって、コンゴは垂涎の的であろう。 (写真はhomo habilisのケニアで発掘された頭蓋骨とそれから想像した姿)。人類の発祥の地はアフリカなのでる。

6万~7万年前、コンゴを含む赤道アフリカやタンザニア、ケニア等に広くピグミーpygméeが住んでいた。今や、アフリカのピグミーの総人口は20万を切っているようだ。そのうち5万のピグミーがコンゴ(RDC)の国民だ。紀元前2000年あたりから紀元500年にかけて、北からバントゥbantousがコンゴ地方に押寄せてきた。民族の大移動である。バントゥはナイジェリア、カメルーンを起源とする大民族である。バントゥがコンゴに農業と鉄をもたらした。また、彼らがコンゴKongo、ルバLuba、ルンダLunda王国を築いていくのである。
(続く)

コンゴの歴史は僕にとっても勉強である。僕たちはアフリカ人といえば、独立後は別としても「土人」というイメージが強かった。それは僕らの世代では『少年ケニア』の影響か、映画『キング・コング』、『ターザン』に登場した「土人」の所為なのか。欧州では、ベルギーの漫画家Hergeの『タンタンの冒険Les Aventures de Tintin』シリーズに出てくるアフリカ「土人」である。フランス語圏でタンタンをしらない人はいない。最近そのシリーズ中の『Tintin au Congoタンタン、コンゴに行く』が、コンゴ人に批判されて、「人種偏見だ、輸入禁止にせよ」などと騒がれている。
しかし、本当にアフリカ人は無知で原始的な、あるいは野蛮な「土人」だったのだろうか。フランスでもindigèneを使わずautochtoneというように、日本では原住民と言い換えられているが、真相はどうなのだろう。ヒントをくれたのは他ならぬコンゴの作家ソニー・ラブ・タンシである。

07 juin 2010

6月6日 le dimanche 6 juin 2010 コンゴ自由国他 L'État indépendant du Congo, etc

Le 6 juin 2010, dimanche
快晴。無風

ジャージーを洗濯したら、汚れていないと思ったのに、水が真っ黒になってしまった。

チコちゃんが外に出ることを覚えたようだ。これは危険。まだ予防注射は2週間後だし、草叢で蚤を拾ってきてもらっても困る。

ベルギー王レオポルドⅡ世がコンゴを私領として植民地化したとき(1885年~1908年)、コンゴはコンゴ自由国État Indépendant du Congo(英語はCongo Free State)と呼ばれていた。何が「自由国」なんでしょう。「自由」というのは自治があったという意味ではなく、国王が自由にできる、国王だけに所属したという意味だ。この「コンゴ自由国」におけるLeopoldeⅡ世の犯罪的統治については追って書くつもりだ。ともかく、その当時ベルギー王が期待したのは、象牙と天然ゴムであった。この二つがコンゴからの主産品としてベルギーに持ち帰られたのだ。天延ゴム(caoutchouc、ficus elastica、latex)はアジア原産でアフリカにはもともとなかった植物である。鉱物資源が探索され、銅やコバルトが主産品になるのは20世紀に入ってからである。

この間司教がいるKafuvuに行ってカテドラルを見学したが、そのとき案内してくれたPierre神父(ベルギー人)は1972年にコンゴに来たとき、Kafuvu(ルブンバシから20km)でカバの鳴き声がたくさん聞こえたといっていた。野生動物が都市化とともに追いやられて行く。ルブンバシ動物園にカバなんていなかったなぁ。

昨日は風呂の湯沸かし器のお湯のお湯の温度が上がらなかった。水圧はかなりあった筈なのにお湯にならない。湯沸かし器の赤いランプはずっとついたままなのに。今日は温度が上がっている。風呂に入れるかもしれない。
Effectivelyシャワーを浴びた。水曜夜以来かな。木金は身体を拭いただけだった。こりゃ、ビールが飲みたい気分になる。よし、チーズを齧ってビールだ。
コンゴのビールは、しかし、考えてみるとビールじゃないな。発泡酒だ。原材料はトウモロコシだもの。

6月5日 le samedi 5 juin 2010 ソニー・ラブ・タンシ Sony Labou Tansi

Le 5 juin 2010, samedi
快晴。無風。

ソニー・ラブ・タンシSony Labou Tansiのことを少し詳しく書く。
本名はマルセル・ソニーMarcel Sony。1947年キンシャサの生まれである。僕と同世代。ということは、サルトルJP Sartre、イオネスコEugene Ionesco、ベケットSamuel Beckettを読んだ世代だ。父親はベルギー領コンゴ人(現RDC)、母親はフランス領コンゴ人(現RC)である。両コンゴはコンゴ川を隔てて向かい合っている。ベルギー領だ、フランス領だといっても、本をただせばコンゴ帝国Empire Kongoであった。民族も中心はバンツーbantouだし、言葉もリンガラlingalaである。高校のときにキンシャサから母方のブラザヴィルに移住している。コンゴではリンガラ語で教育を受けており、ブラザヴィルに渡ってから学校教育が全てフランス語になり、また学生の習慣も極めてフランス式「蛮カラ」でとまどったという。「蛮カラ」学生からのいわば「いじめ」から身を守るためにトイレによく隠れていたそうだ。そのことを学生時代に書いたのが、フランスの出版社にもちこんだけれど、出版されなかった。それが初めての小説だとソニーは語っている。
ペン・ネームは尊敬するコンゴの作家チカヤ・ウ・タンシTchicaya U Tam’siに因んだ。チカヤは1931年生まれ。1961年の隣国の首相でアフリカの英雄であったルムンバ暗殺にショックを受けて、国を飛び出しUnesco職員となった人物である。
僕が彼の作品に初めて出会ったのはついこの間である。『La vie et demie 生涯半』だ。この作品がソニーの出版された処女作になる。1979年。当時のコンゴ・ブラザヴィルの状況を考慮にいれて読むと意図がよくわかろう。
コンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)の独立は1960年8月15日である。コンゴ・キンシャサが同じ年の6月30日。今年いずれも独立50周年である。
1977年当時大統領だったングアビMarien Ngouabiが暗殺された。それ以前からコンゴ労働党の一党独裁とはいえ、軍部が強くクー・ダタがしばしばあったが、ングアビ暗殺をきっかけとして軍部内部の勢力争いは熾烈を極めていく。そこから国防大臣だったドニ・サス・ンゲソDenis Sassou N’guessoが権力を握ってゆく。N’guessoは途中民主化で消えるが、1997年再び大統領となり現在まで続いている独裁体制である。作品発表当時32歳だったソニーの友人たちが、逮捕、監禁、拷問そして故なく殺された。
この背景から『La vie et demie』が生まれている。物語は仮想国カタマラナジーKatamalanasieの独裁者Providentielがその天敵Martialを殺戮するところから始まる。Martialの愛娘で絶世の美女シャイダナChaidanaがその魅力を利用してProvidentielに復習する。荒唐無稽なストーリーが展開する。復習は成功するが次から次へと独裁者が誕生してしまう。最後は内戦に発展する。結末はハッピー・エンドではない。
かなり暴力的シーンも多い。反道徳でもある。文体も特殊であろう。しかし、話は、アフリカの現実から、また権力というものの現実から実はそう遠くはない。
独裁者が生まれる背景にla puissance étrangère qui fournissait les guides(独裁者をサプライしてきた海外の強国)とソニーは再三再四繰返すが、それは一端の真理を含むが、アフリカだけでなく南米や中東でも真理にちがいないのだが、それだけではないと僕は思う。しかし、これでソニーの価値が揺らぐわけではない。
ソニー・ラブ・タンシの価値はアフリカにとどまらない。もっとユニヴァーサルな価値を彼は持っている。アフリカの枠を超えた作家だ。
ソニーは1995年6月14日エイズのため永眠。奥さんが同じ病気で亡くなって2週間後であった。
さらに彼の諸作品を読んでみたい。『L'État honteux恥ずべき国』、『L’anté-peuple前の人々』、『Les Sept Solitudes de Lorsa Lopezロルサ・ロペスの七つの孤独』そして『Les Yeux de volcan火山の目』である(邦題は読んでいないので仮)。問題はルブンバシには本屋が2軒しかなく、これらの本が全てフランス文化センターにあるわけではないこと。他の図書館をあたってみるしかない。

06 juin 2010

6月4日 le vendredi 4 juin 2010 エイズ患者支援NPO「AMO-Congo」他 ONG contre SIDA 「AMO」,etc

Le 4 juin 2010, vendredi
快晴。微風。朝方はかなり寒かった。寝相が悪くて蹴飛ばしていた毛布をひっかぶった。寒いけれど、蚊はいる。暑い昼間のうちに生まれるのだろうか。ボウフラが蛹になることは知らなかった。さらに血を吸い続ければ180日という記録もあるという。参ったんぁ。

今日は僕の誕生日。メイルで祝ってくれた諸姉諸兄、ありがとうございます。年齢をいろいろなところで一回り(同じ干支にするため)ごまかしている。酉年である。既に何回も書いたが、30代から歳はとらないことにしている。30代というのも、サガンによれば「年齢のない30代」であって、而立ではない。耳順などということは生涯ないだろう。

国際柔道連盟から、寄贈はあくまでコンゴ民主共和国柔道連盟(キンシャサ)宛てである旨のメイルを頂戴した。これで、寄贈品はルブンバシにこないだろう。無念。送り先にカタンガ州のスポーツ大臣を提案したが不可。なれば、ルブンバシのフランス領事では如何と返事したが、これも駄目だろうな。ちょっと頭が固い。国際柔道連盟の加盟団体はあくまで全コンゴ柔道連盟Fédération Nationale du Congoでルブンバシにある下部組織には直接手を出せないということだ。仕方ない。ここのスポーツ大臣はなかなか押しが強いそうだ。彼に会って、次はキンシャサと交渉してもらおう。

「AMO」の診療所を訪問した。ルブンバシ市の南のケニヤ地区にある。
ケニア地区は下町というのだろうか、庶民の町である。家々が密集している。見方によってはスラムになるだろう。スラムというと辞書では「貧民街」と書いてある。貧民は「貧しい人」。これではどうどう巡りだ。そんなことを云ったらコンゴ人はみんな貧民になってしまう。ルブンバシ市の中心には主としてベルギー人や外国人(主としてヨーロッパ人)が住んでいた。広い庭のある家ばかりである。独裁者モブツが「ザイール化 zairianisation」政策を急進化させる1974年まで多くのヨーロッパ人がコンゴにいた。この「ザイール化」で外国人を実質的に追放してしまったのである。それまでコンゴ人はケニア地区、カマロンド地区などに住んでいた。南アの「アパルトヘイト apartheid」政策は有名だが、アフリカの都市は全て、モロッコ、エジプトから南アまで「白人地区」と「黒人地区」とに分かれていた。北アフリカでは「ヨーロッパ人」と「アラブ人」といいかえてもいい。植民地時代をとってみれば、これはアフリカに限ったことではない。アジアでも、南北アメリカ大陸でもそうだった。Apartheidの意味はvivre à part(離れて生活する)というだけのことだが、それが地域、空間的住み分けにとどまらなかったのが差別としてのアパルトヘイトである。今は「金持ち地区」と「貧乏人地区」になった。
「AMO」のエイズ診療所はケニア地区のど真ん中にある。カリゲ(Lucien Kalige所長が応対してくれた。
「入院施設はない。以前入院患者を受け付けたことがあったが、どうしても長期入院になるので受入れが現在の敷地では出来ない。
1)エイズ・テスト
陰性/陽性テストを無料で行う。他の病院は国立、私立を問わず有料である。毎年18 000人から20 000人のテストを実施している(これはカタンガ州の3ヶ所の治療施設合計)。約5%が陽性である。そのうち男性が40%、女性が60%。テストのための注射器は使い捨て。2度使用することが出来ないようになっている。使用後の注射器は専門業者が回収するので、市のゴミ捨て場に他のゴミと一緒に捨てられることはない。
2)治療
陽性となったら、カードを作り病気の進行に合わせて薬を無料で配布する。
薬はPNUDに予想数字を提示して適宜送ってもらっている。
薬を与えるだけではなく、精神的相談にものっている。
3)予防宣伝活動
ケニア地区のバー、ホテルなど感染源となる場所を回り、夜間(夜21時まで)の宣伝活動をしている。学校等にもでかける。
キャンペーンにはシャツや帽子をくばる。またパンフレットだけでなく、寸劇をみせてエイズの怖さ、感染経路、予防、治療を分かり易く説明している。コンドームも配っている。
4)エイズで両親を亡くした子どもたちの支援
問題点
1)国からの援助はない。国連開発計画(PNUD、英語はUNDP)からの援助が途絶えたら活動を停止しなければならない。すでにAMOの職員も70名から半減させざるをえない状態である。これを国として考えて欲しい。
2)ルブンバシ市だけで人口300万といわれている。市の人口は膨張する一方で、エイズ・テスト数は、あまりにも限られている人数にしか実施できてない。」

エイズはひところと違って、テストの結果陽性(séropositif)であっても、薬で発症を抑えることが出来るようになった。しかし、陽性から陰性に戻ることはないから、いまのとこ生涯薬を飲み続けなければならない。特に子どもの場合これは精神的にも重い負担である。 「エイズになる奴が悪い」などとは云っていられない。子どもには、この場合本当に「罪がない」のだ。
一方、RDCは南アや隣国タンザニア、ケニア、ウガンダに比べて極めてエイズ陽性者が少ない統計になっている。都市部でのテストはともかく細々とながらもしているが、農村部では全然実施されていない。僕は落とし穴があるのではないかと考える。
AMOにはもっとがんばって欲しい。でもそのための手段を用意しなければならない。

6月3日 le jeudi 3 juin 2010 ネット回復 rétablissement de la connexion Inernet

Le 3 juin 2010, jeudi
快晴。微風。

今朝もネット不通。アスンタさんにお世話になる。その後アスンタさんとKafuvvuのカテドラルを見学。柔道家からの緊急連絡で16時にフランクラン君の待つ大学病院へ。フランクラン君の用事は下記するが、一緒にVodashop Lubumbashiへ。やっとネットが通じるようになった。原因は人的ミス。PCや回線の所為ではなかった。月曜日に早くも僕は、その可能性をキプシのVodashopで指摘していたのだが、先入観からだろう、よく調べてくれなかったのだ。
17時にネット回復。人騒がせである。次回の支払い時にトラブルがないようにしたいが、ミスを回避するには、インプットを人の手でしないことか、ミスを発見する回路を作るしかないだろうが、現状ではそれは絶望的だから、トラブルは繰返されるだろう。ま、少なくとも6月末、7月初めまではなんとかまともにネットに接続できることを期待する。

ブカリの作り方(訂正)。
シスター・アスンタ佐野さんのところの調理師さんに教えてもらった作り方である。
先ず材料はトウモロコシの粉だけ。先ず冷たい水を用意し、その中に少量(50g程度)のトウモロコシの粉を入れ沸騰させる。お湯が薄い糊状になる。沸騰したら更に500gの粉を入れ再び沸騰してきたらよく掻き回す。パスタの生地状になる。別の容器にいれくるりと回すと塊ができる。これでブカリの出来上り。米を炊くときに塩をいれないと同様に調味料は一切入れない。

国際柔道連盟(IJF)が僕の要請に応えてくれそうだ。国際連盟がキンシャサにあるコンゴ柔道連盟に連絡をしてきて、cargo readyだがコンゴの本部たるキンシャサに柔道着、タタミ等を送ってよいかときいてきたそうだ。IJFから直接連絡がなく、フランクラン君から聞かされて驚いた。キンシャサに送られては、ルブンバシには確実にとどかない。クレームしても「後の祭」になる。先ずキンシャサからルブンバシまで送る手段が高くつく。それにキンシャサはルブンバシのことを考えるよりも先に自分たちのことを考えて「ネコババ」するに違いない。
ともかく国際柔道連盟(スイス)反応があってうれしい。全日本柔道連盟は全く音沙汰なし。無視されている。少なくとも今のところ。

04 juin 2010

右ハンドル車輸入禁止 interdire l'importation des véhicules avec volant à droite

RDC(コンゴ民主共和国)の道交法では、車はヨーロッパ大陸と同じく右側走行である。カタンガ州も例外ではない。しかるに、見るところ80%以上が右ハンドル車。右側走行で右ハンドルは事故のもと。そこで州のインフラ・運輸大臣が6ヶ月の猶予期間をおいて右ハンドル車輸入および販売の禁止措置をとることにした。
大型ドラックはVolvo、Ivecoなど欧州から輸入され左ハンドルである。しかし乗用車、ミニバスなどは日本、ドバイ、南アからの中古車輸入で多くが右ハンドルである。僕の車は日本車でも左ハンドルだが、むしろ珍しい部類に入る。道路事情が劣悪であるのに加えて、右ハンドル車の追越しは本当に怖い。
しかし、同様の通達がキンシャサ中央政府から2008年に出されているが、全く守られていない。今回のカタンガ州の通達もこのままでは無視される可能性が高い。通関時にチェックを実施するのか、改造工場をルブンバシに作るのか、具体的な措置に触れていない通達では実施が危ぶまれる。
以下はdigitalcongoの記事。
Lubumbashi, 31/05/2010 / Economie
Un délai de six mois est accordé aux importateurs de ces véhicules pour écouler leurs stocks. Après ce délai, la décision sera de stricte application. Le ministre provincial des Infrastructures et des transports, Laurent Kahozi Sumba, a pris une décision interdisant l’importation et la vente des véhicules avec volant à droite au motif que ces véhicules ne sont pas conformes au code de la route de la RDC et étant à la base de nombreux accidents de circulation à cause du faible angle de visibilité du conducteur en cas de dépassement.Ces véhicules souvent en provenance du Japon, des Emirats Arabes Unis et parfois de l’Afrique australe où l’on roule à gauche, sont attirés par les importateurs congolais et autres en raison de leur prix bon marché.Cette décision du ministre, grommelle-t-on à Lubumbashi, risque de tomber dans les oreilles des sourds et son application se ferait attendre, car deux véhicules sur trois en circulation au Katanga et dans les deux Kasaï, constate-t-on, ont les volants à droite.Une décision similaire prise en 2008 par le gouvernement central de la RDC n’a jamais été exécutée, notent les observateurs. Une autre décision prise en son temps d’interdire la circulation des véhicules aux vitres fumées est restée sans effet, rappelle-t-on.

03 juin 2010

マドンナ 満5ヶ月 Madonna, 5 mois accomplis

疾走するマドンナ



(bonjour à tous !)
マドンナ5ヶ月目の誕生日(6月2日)の姿である。仔犬の顔から大人の顔になってきた。

チコちゃん7週間 Chico 7 semaines

あくび


チコです。家に来て5週間目、生まれて7週間(誕生日は4月8日としました)。

6月2日 le mercredi 2 juin 2010 マドンナとチコ Madonna et Chico

Le 2 juin 2010, mercredi
曇り。かなり寒い。

ネットなお不通。

昨晩から歯痛。激痛ではないが、歯茎が腫れている。歯医者には行きたくない。ドン・ボスコ病院に歯科がある。日本語と中国語が達者なコンゴ人E君(『コンゴ日誌』(2006年参照)は、一昨年からキンシャサの対面にある隣国コンゴの首都ブラザヴィルで中国系企業で働いているが、その彼がドン・ボスコの歯医者の世話になったことがある。まぁまぁらしい。しかし、日本とスイスの歯医者は世界最高水準の技術と設備を誇っている。大抵の国の歯医者は、歯痛などというと直ぐに抜歯してしまう。患者もその方が安いから承知する。歯が痛い度に抜かれていては堪らない。アルジェにドイツ人の歯医者がいた。ドイツ人だから医療技術も高いかもしれないと思って行ったら、彼も抜きましょうと宣った。

「あれしちゃいけない、これしちゃいけないって煩いわね。電気のコード、紙屑かご、蚊帳って面白いのよ。第一、田邊さん、遊んでくれないじゃないの。ご飯を作ってくれればいいってもんじゃない。聖書にだって「パンのみにて生くるにあらず」って書いてあるわ(L’homme ne vit pas seulement de pain、ルカ伝4.3)、かまってちょうだい」とチコ君。「でも、君ねぇ、噛んだり、引掻いたりするからな、また爪を切ってあげる」、「いいわ、痛くしないでね」

今日でマドンナは満5ヶ月である。まだ吼え方を知らない。誰にでもじゃれつく。それでも、もう身体が大きいから怖がられる。マドンナにいわせれば、「あたしって不幸だわ。もうお家の中に入れないし、一人狭い小屋に閉じ込められて、ちっとも遊んでくれない。特に、あの仔猫がきてからというもの、一日に一回ボール遊びをしてくれるだけ。それだけじゃ足りないって分からないのかしら。まだ子どもなのよ。愛されてないんだ、あたしって」、「そんなことないよ。大好きなマドンナちゃん、今日は誕生日、君の好物、骨付きのお肉をちゃんと買ってきたからね。お誕生日おめでとう」

今日一日ネット不通。Vodacomに競争相手がないことも問題なのだろう。携帯電話会社はあと3つある。Zain、Celltel(中国系)、Tigoだ。Zainはタンザニアやザンビアでつかった。Tigoはセネガルやタンザニアでも営業していた。セネガルにはフランス系のOrangeが進出している。僕はOrangeを利用した。ここでも一応VodacomのalternativeとしてZainも持っている。Zain社にもネットサーヴィスがあるが、Kipushiではできない。それに今日は水曜日でVodashop Kipushiは昼間での営業。どうしようもない。

コンゴ(RDC)は食料輸入国である。主食はマニョック(芋)の粉とトウモロコシの粉を混ぜて作った蒸しパン(カタンガ州ではブカリという)。トウモロコシを輸入していることは既に書いた。米も輸入である。隣の国タンザニアでは日本が農業指導をして水田耕作をしている。ダル・エス・サラムからの道すがらに見た。ここでも稲作が出来るはず。雨季ともなれば水田をつくるのに十分な雨がふる。カタンガ州では無理だろうが、エクワトゥールEquateur(赤道,、エカトゥールではない、発音例外)州なら二毛作も出来るかもしれない。僕の買っているのはイタリア米。キロ550円。リソット用だが炊飯器で炊けば日本米とさして変わらない。

韓国映画『My Brother』をDVDみた。韓国映画というと一時は戦争、スパイ、暴力映画が多かったように思う。この映画は違う。日本語吹替えで見てから、韓国語で見直した。心温まる映画といえる。生活のリズム、学制、受験等々日本と似たところが多い韓国社会だ。ラストは運命の悪戯というには悲劇としか云いようがない。後悔先に立たずか。兄弟でも仲がいいことの方が珍しいかもしれない。よく仲のよい友だち関係を兄弟と比べるが、そこには幻想があるのではないか。
そういえば、Moon君といういわゆる在日韓国の若い友達がいた。フランス語を話すのは余り得意ではなかったが、プルーストを一緒に読んだときの解釈は鋭かった。韓国語は大学に入ってから覚えたようだ。剣道が強かった。2005年ころ、彼に会いにソウルに行ったことがある。一旦日本に帰国してから、彼は韓国の大学の日本語教師になった。どうしているかな。連絡をとりたいがメイル・アドレスがみつからない。もう一つのPCの中にあるかもしれない。
コンゴの家族は10人なんてざらである。小さな女の子が赤ん坊(妹や弟)を負ぶって水汲みをする、近所にお使いにいく。男の子が赤ん坊を負ぶっているのはみたことがない。

6月1日 le mardi 1er juin 2010 ソニー・ラブ・タンシ他 Sony Labou Tansi, etc

Le 1er juin 2010, mardi
朝霞。広範囲に雲がたちこめた。雨にはならない。肌寒い。セーターを着込んでいる人もちらほらといた。

ネットは相変わらず不通。PCを持ってアスンタさんのところに行こう。今朝のアポイントはAMO。エイズ患者の診療所。そのあとに寄せてもらう。
とんちきなVodacomにはほとほと疲れさせられる。ルブンバシに行ったついでにVodashopに寄ってクレームしたが、担当者は「待つ以外ない」と宣言。

前もって(土曜日)注文しておいた牛肉をMegastoreで受け取った。フォンデュ用に切っておいてもらったのである。ブルギニョン用に角切りにしたのではなく、フランスやスイスでいうシノワ(中華風)だから、すき焼用より本当はもっと薄めに切る。出来上がりは、まぁまぁだった。これを一部は今夜バタ焼きにしよう。残りはどうするか後で考える。すき焼用やしゃぶしゃぶ用にヒレやサーロインを肉屋が切るのはヨーロッパでは常識である。ルブンバシでもそれが出来る店がある。

ネットをアスンタさんのところでやらしてもらった。メイルの返事を数本、またキンシャサの日本大使に「日本カタンガ協会」の自己紹介メイルをだした。ブログは、明日もネットが家から出来なかったら木曜日にアスンタさんのところから更新しよう。手際よくできるように準備がいる。
ブログ『アフリカの星』および『日本カタンガ協会』がByoolさんのところで5月30日から掲載されだした。ありがたいことである。ブログのアクセス数が増えることを期待する。カウンタを設けていないのでわからないが、Byoolでのアクセスの場合、メイルで報告していただける。
http://www.byool.com/

ソニ・ラブ・タンシSony Labou Tansiの『La vie et demie生涯半』(邦題『一つ半の生命』で翻訳がある)を読み出した。これはベケットやイオネスコ、カフカ、日本では先日亡くなった井上やすしにも匹敵する面白い作品だ。作者は両コンゴ(キンシャサ・コンゴの父とブラザヴィル・コンゴの母)の間に生まれた。通常ブラザヴィル・コンゴの作家とされる。こんな作家が出てくる土壌がアフリカにあるということは文化の成熟度が高まっているといえる。

エイズ患者を支援する団体「Amo」の診療所をルブンバシ市のケニア地区に訪ねたが、この訪問については、ネット回復後別途書く。

5月31日 le lundi 31 mai 2010 ダリダ他 Dalida, etc

Le 31 mai 2010, lundi
晴。かなり強い風あり。

朝からVodashopでネット接続のクレーム。Oliviaは9時開店なのに15分送れて出社。それから待つこと1時間半、彼らのネットが通じないという。何時まで待てばいいのだ。10時半に一旦帰宅。12時前に再びVodashopへ。「Patience !」だって。問題は認識されたからあとは「待つのみ」だという。もう十分に待ったではないか。遅滞なくネットに繋がったのは開始時の1月とあとは4月だけだ。毎回悪夢。焦っても仕様がないとはいうものの、緊急時はシステムがおかしければ、マニュアルで修正できるはずだ。

ネット不通と昼間の断水が重なって、いらいらが増す一方だ。

ダリダDalidaの歌を聴く。フランスでは世代が変わってもまだ彼女のファンが多い。僕が初めてダリダの歌を聴いたのはアルジェにいたときである。港を見下ろすアルジェの丘の家に間借りをしていた。テレムリー地区である。その家には25くらいの長男と小児麻痺の障害をもつ次男と長女と母親が住んでいた。その家でラジオから流れてきた『ジジ・アモローゾ(Gigi amoroso)』に、これぞ僕が探していた地中海のシャンソンだと思った。誰が歌っているのか知らなかった。数ヵ月後パリに行きカセットを買った。そして初めてダリダの写真をみた。飛切りの美人だった。それはそうだろう。若いときに「ミス・エジプト」に選ばれているのだから。彼女の歌には哀しい物語が多い。『Mourir sur scène舞台に死す』、『Il venait d’avoir 18 ans彼は18になったばかり』、『Fini la comédie喜劇はお仕舞い』、『Avec le temps時につれて』等々。『ジジ・アモローゾ』もペーソス溢れる。ダリダ自身悲劇的な恋が多かったようだ。彼女が自殺したのを知ったのは、カンヌの海岸でその日の新聞を陽に当たりながら読んだ時だ。ショックはショックだったが、「嗚呼、逝ってしまったか」という感慨だった。栄光もあったろうが、不幸を背負って生まれてきたような歌姫だった。

日本大使と電話で初めて話ができた。「日本カタンガ協会」のことを全く知らなかった様子。僕が邦人登録をしたときに報せている。キンシャサの大使館からきたF氏から報告を受けていないのだろうか。突然の電話でおもいだせなかったのかもしれない。メイル・アドレスを教えてくれなかった。F氏を介して連絡せよ、とのこと。慎重である。大使ともなれば当然の自己防衛であると理解しよう。

5月30日 le dimanche 30 mai 2010 クラシック音楽他 la musique classique

Le 30 mai 2010, dimanche
晴。のち快晴。風あり。

2006年の『コンゴ日誌』の一部を読み返した。誤字が多い。恥ずかしい限りである。今もブログ『アフリカの星』や『日本カタンガ協会』で誤字が多いのだろう。校正が難しい。いや、何回も見直さないのは怠惰なだけである。読者には申し訳ない。

ネット不通。これは月曜日に朝にクレームに行ってはじめて埒が開くというものだろう。のんびりしたものだ。

バイブルを買った。フランス語版。日本語は厚く重いので東京に置いてきてしまった。ルカ伝から再読。ルカは医者だ。だが、スイスでの僕の親友の名前でもある。

この家が誇りっぽい原因はどうも風向きによっては風が砂誇りを300Mほどルブンバシ寄りの採石場から運んでくるからのようだ。ざらざらした砂ではない。超微粒の砂である。採石場といっても正に手掘りで、多くの子どもたちが働いている。児童労働の拠点でもある。安くて質がいいらしくルブンバシからも買い手がくるときいた。

バッハのブランデンブルグを聞きながら書いている。全曲が1時間47分。しかし忙しい曲である。歌舞伎は通し狂言だと数日かかる演目もあったはず。しかし、歌舞伎や文楽の人形芝居は全体の論理を追及しないから、小話が独立している。ではこのブランデンブルグはどうなのだろう。小刻みに切って演奏されることもあるのだろうか。楽章で切ることはありそうだ。しかし、それは本来作曲家に対して失礼だろう。
家で静かにクラシックを聴くのは落ち着く。アルジェリアはコンスタンティーヌのフランス文化会館では、時折、フランスから演奏家が来て演奏会や歴史や哲学の講演会を催してくれた。僕は唯一の日本人会員だった。日本人キャンプでは基本的に夜間外出禁止になっていた。僕はだから隠密に出かけたのだが、そうすると会場でTVインタヴューをうけたりする。インタヴューは致し方ない。しかし、演奏会はちょっと気が重かった。というのは、アルジェリア人聴衆の態度の悪さである。演奏中にフラッシュをたいて写真を撮る、携帯でメイルをする、途中で出たり入ったりする。こんな聴衆は見たことがない。よくぞ演奏家が我慢していると思う。会館側で演奏前に注意を促してくれるように電話でも話したし、直接会館の人に依頼したこともある。効果はなかった。ここコンゴではどうだろう。外国人を排斥したアルジェリアとは違うから、ヨーロッパ人が来るのでまともかもしれない。仔猫のチコは夕食時なのに珍しく騒がず、大人しく音楽に聴き入っている。

チャイコウスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いていたら『北京バイオリン』を見たくなった。陳凱歌(Cheng Kaige)監督の作品だ。初めてCheng Kaigeの作品を見たのは、パリのレ・アル(昔の中央市場)の地下映画館、『Adieu, ma concubine』だった。いつのことだったろう。中国に凄い監督が現れたと思った。国が上昇気流にあるとき、芸術・スポーツ分野にも逸材が登場する傾向がある。

5月29日 le samedi 29 mai 2010 結納金・品他 La dot, etc

Le 29 mai 2010, samedi
晴。多少雲あり。

朝一番でネット料金の支払いをキプシのVodashopでした。直ぐに有効にしたというが、出かける前にチェックしたら、ネットが通じなかった。SMSでクレーム後外出。16時半に帰宅してネット接続を試みるも通じない。全く無責任。多分土曜だからキンシャサの相手がいなかった等々の言い訳を後になってするのだろう。
今日はPCもよく落ちる。またoverheatか。扇風機をつけたら堕ちないのだから不思議だ。その論理がわからない。偶々なのか、原因があるのか。

26日にla dot(結納金品)のことを書いた。家の向かいの携帯電話会社に勤めているEric君は3月末に結婚した。婚約をしたのは数年前のこと。その折、山羊4頭、塩1袋、パーム・オイル2缶等800ドル相当の贈り物をしたという。800ドル(72 000円)といえば彼にとって可也の金額である。奥さんは幼友だちである。それでも大家族と大家族の結婚になる。奥さんは既に妊娠した。来年Eric君は父親になる。子どもは6人欲しいらしい。「そんなに育てられるのか」と訊くと、肩をすくめた。子どもを沢山作らないと一人前と周りから看做されないのだ。

フランシスコ会の産院の見積もりをアスンタさんとした。建築家Josephは1600M2の建屋を提案している。しかし、それは診療所部分も含んでいる。その部分を除いて、産院だけにすると700M2ほど減る。すると総額も30万ドルを少し上回る程度になる。これなら、大使館と交渉できるのではないか。

アラン君のハード・ディスクが壊れて新しいHDを買った。デスク・トップに内蔵されるHDだが、なんと500ジガ。100ドル。同じ店で、2006年僕は外付けHDを買っている。そのときは120G。100ドル以上したと思う。

夜、ネット出来ず。読書。

5月28日 le vendredi 28 mai 2010 小説『郵便為替』(ウスマン・サンベーヌ)他 roman≪Le Mandat≫(Ousmane Sembène), etc

Le 28 mai 2010. vendredi
快晴。

エイズ予防・患者支援のNOP「AMO」訪問。町村単位でエイズ・テスト(任意)を行い、陽性者の治療をしている。コンゴは幸いにして、南アと比べて性行動が違うこと(思春期に入って直ぐに性行為に及ばない、社会的抑制)、注射による麻薬摂取者が少ないことから患者数が少ない。とはいえ、エイズに対する知識が不足していて、たとえばカスンバレサ地域(ザンビアとの国境)では爆発的に患者が増えている。これは国境地帯という特殊性のため外国人の出入りも激しく、また多くのプロ(セックスを商売とする女性)がいるためであるという。プロは比較的エイズの恐ろしさを知っており、予防策を講じているが、客の要請により少しの金で予防策をあきらめてしまうことも多々ある。
予防対策のキャンペーンもカタンガ州各地に出かけて行って実施している。そのための移動車も2台ある。またキャンペーン用のパンフを始め、ポロシャツや帽子などもあった。
「AMO」は多くの国際機関の支援を受けている。またザンビア、南アの関連団体とも交流している。入院施設はないが、診療・治療施設がルブンバシに2ヶ所ある。そのうちの一つを来週見学することになった。テスト、診断、治療(薬)等全て無料である。

ルブンバシのフランス文化センタの図書館の会員になった。さっそくアフリカの小説家の本を借りた。ひとつはセネガル人作家Sembène Ousmane『le Mandat郵便為替』(1965)、今一冊はコンゴ(RDC)の作家Pius Ngandu Nkashamaの『La Mort Faite Homme人を作った死』(1986)。アラン君が高校の時に読んだ本だそうだ。
サンベーヌは映画人としての方が有名かもしれない。
小説『郵便為替』は、フランスに移民した甥から郵便為替が主人公Diengのもとに届いたことから全ての悲喜劇が始まる。筋は単純だが、セネガルの社会が浮き出ている。1960年代の社会だが、今も変わらないだろう。しかも、大筋コンゴにもあてはまる。イスラムとキリスト教と国の宗教はことなるもののコンゴでも似たり寄ったりの事件が起こりそうである。キーワードは「正直者は馬鹿をみる」(L’honnêté est un délit de nos jours)。サンベーネはフランスにドッカー(港湾労働者)として出稼ぎに行っていたことがある。またフランス共産党に入党したらしい。しかし、筆致は『蟹工船』などとは違う。ずっとエスプリが利いている。僕はアルジェリアやコンゴでの毎日を振返り、苦笑することしきりであった。
Nkashamaの方は、大学人としてフランスやアルジェリア(アンナバ)、コンゴはルブンバシで教鞭をとり、今はUSAの大学の仏語仏文の先生をしているらしいが、この作品は冗長でぐるぐると同じことを繰返し、重くて退屈至極。デモをして15年の刑を言い渡された学生の刑務所での夢想。一つひとつのフレーズは意味の深いことを云っているのに退屈する。飛ばし読みをしてしまった。

Gaston司教から返事がきて、契約の変更要請を受諾した旨の内容。一方、ムラプ神父からは、ごたごた言われてたまらないから賃貸契約を破棄しようという手紙。全く内容が違う。司教は神父の上の上の人のはずだがなぁ。ムラプ神父はそんなこといっていいのか。出て行けというなら出て行ってもいいが、面倒なんでね。わからずやの神父だ、ムラプは。