Le 25 juin 2010, vendredi
快晴。風あり。
昨日サッカーW杯で日本がデンマークに3-1で快勝し、決勝トーナメントにすすんだ。まだこの試合結果が出る前、車の燃料を入れにサレジア会のスタンドにいったとき、ジャン・ポール神父が「日本はハイテクだけかとおもったら、サッカーもやるじゃないか、決勝トーナメントは無理かもしれないが」と云っていた。僕も、相手がデンマークじゃ上に上がるのは難しいと考えていたが快挙。不景気の日本も元気をとりもどすいい材料になるかもしれない。
コンゴの歴史(9)
スタンレーは1878年、探検旅行を『暗黒大陸横断Through the Dark Continent』として上梓した。
フランスとドイツという大国に挟まれた小国ベルギーの王レオポルドⅡ世は海外に領土を求めていた。極東の島国日本を何とか手にいれようなどと夢想もしていた。そして1878年欧州に戻っていたスタンレーに接近した。スタンレーは英国から支援を得ようといたが思うように行かず、渡りに舟とばかり、ベルギー王の提案に飛びついた。実際にレオポルドⅡ世と会って5年間の契約を交わしている。これで正式にスタンレーはベルギー王の名代としてコンゴの地方有力者から土地を買い上げ(といっても二束三文)、強制労働をさせコンゴ「開発」にのりだした。契約を交わしたコンゴ人はその契約書の内容も読めなかったのだから、詐欺行為である。そうして1884年現在のキンシャサの基礎が築かれた。それがキンシャサの前の名前レオポルドヴィルである。独立後キンシャサと名前を変えたが、本来はレオポルドヴィルという名を残すべきなのだ。そうすれば、それはレオポルドⅡ世の偉業を称える名前ではなくして、如何に詐取されたか、いかなる犠牲をコンゴ人がレオポルドⅡ世に払ったかを永遠に記憶し、表明出来たのである。しかし、短絡的に改名してしまった。
ビスマルク(ドイツの宰相)の提唱で1884年11月15日、列強が植民地を決定するベルリン会議が開かれた。アフリカが列強によって分割されたのである。有名人スタンレーもベルギー王とともに参加している。会議の結果、コンゴがベルギー王の私領として国際的に認められた。コンゴ自由国(L’Etat indépendant du Congo、英語はCongo Free State、日本語ではコンゴ自由国)の成立である。ベルリン会議の前にはコンゴ人に文明をもたらすのだ、などといいことをLéopoldⅡ世はいっていたが、初代総督に英国人を採用、早速軍隊と警察を合わせた公安軍Force publiqueを創設した。最新銃器をこの軍隊に持たせた。将校にはベルギー人をはじめスエーデン人、デンマーク人等ヨーロッパ人がなった。兵隊たちは、コンゴ人、近隣(ナイジェリア、シェラレオーネ、ザンジバール等)から集められた者たち、業者から買った奴隷たち、誘拐されたコンゴの子供たちから編成されていた。公安軍の目的は領土保全、コンゴに侵入して奴隷狩りをしていた(密猟していた)アラブからコンゴ人を守ること(といっても人権の意味からではなく、勿論財産としてのコンゴ人を守ること)であったが、さらに、ゴムや象牙を採るという経済権益をまもること、採算性をあげることであった。そのためシコットchicotteまたはファンボfimboと呼ばれるカバの皮でできた鞭が使われた。植民地の規則に従わないものは50から100回の鞭打ちの刑に処された。鞭打ちで死に至ったコンゴ人も多い。このシコットの刑は、独立後モブツ政権も踏襲した。鞭打ちはアフリカのフランス語圏では学校教育でも使用された。また南アでは今でも鞭打ちがあるようだ。
さらに、反抗する村は焼き払われ、死体の手を切り落とし、爆薬消費の証明として部隊に持ち帰った。酷い場合は、生きたコンゴ人の手を切り落として爆薬を使ったことの証明としたという。ヨーロッパ人も無慈悲なことをしたものである。
コンゴ人側の抵抗が全くなかった訳ではない。たとえば、1890年コンゴ南東部で元奴隷のンゴンゴ・ルテタNgongo Letetaが500名のゲリラ組織してベルギー軍に抵抗した例もあるけれど平定されてしまった。ンゴンゴは1960年独立後の初代首相ルムンバが同郷でもあり敬愛した歴史上の人物だった。もっともンゴンゴは後にベルギーから説得されて、ベルギーと一緒にアラブ軍追討戦争に参加する。
公安軍は1892-1894年にかけてコンゴ南東部からアラブ・イスラム勢力を軍事的に排除することに成功し、領土を拡張しながらコンゴ自由国の国境を確定していくことになる。
しかし、コンゴ自由国における過激にして非人道的レオポルド2世の政策は当時すらヨーロッパとりわけ英国の批判を浴び、1908年ベルギー国会で国王の私領からベルギー国の正式な植民地となった。
(続く)
快晴。風あり。
昨日サッカーW杯で日本がデンマークに3-1で快勝し、決勝トーナメントにすすんだ。まだこの試合結果が出る前、車の燃料を入れにサレジア会のスタンドにいったとき、ジャン・ポール神父が「日本はハイテクだけかとおもったら、サッカーもやるじゃないか、決勝トーナメントは無理かもしれないが」と云っていた。僕も、相手がデンマークじゃ上に上がるのは難しいと考えていたが快挙。不景気の日本も元気をとりもどすいい材料になるかもしれない。
コンゴの歴史(9)
スタンレーは1878年、探検旅行を『暗黒大陸横断Through the Dark Continent』として上梓した。
フランスとドイツという大国に挟まれた小国ベルギーの王レオポルドⅡ世は海外に領土を求めていた。極東の島国日本を何とか手にいれようなどと夢想もしていた。そして1878年欧州に戻っていたスタンレーに接近した。スタンレーは英国から支援を得ようといたが思うように行かず、渡りに舟とばかり、ベルギー王の提案に飛びついた。実際にレオポルドⅡ世と会って5年間の契約を交わしている。これで正式にスタンレーはベルギー王の名代としてコンゴの地方有力者から土地を買い上げ(といっても二束三文)、強制労働をさせコンゴ「開発」にのりだした。契約を交わしたコンゴ人はその契約書の内容も読めなかったのだから、詐欺行為である。そうして1884年現在のキンシャサの基礎が築かれた。それがキンシャサの前の名前レオポルドヴィルである。独立後キンシャサと名前を変えたが、本来はレオポルドヴィルという名を残すべきなのだ。そうすれば、それはレオポルドⅡ世の偉業を称える名前ではなくして、如何に詐取されたか、いかなる犠牲をコンゴ人がレオポルドⅡ世に払ったかを永遠に記憶し、表明出来たのである。しかし、短絡的に改名してしまった。
ビスマルク(ドイツの宰相)の提唱で1884年11月15日、列強が植民地を決定するベルリン会議が開かれた。アフリカが列強によって分割されたのである。有名人スタンレーもベルギー王とともに参加している。会議の結果、コンゴがベルギー王の私領として国際的に認められた。コンゴ自由国(L’Etat indépendant du Congo、英語はCongo Free State、日本語ではコンゴ自由国)の成立である。ベルリン会議の前にはコンゴ人に文明をもたらすのだ、などといいことをLéopoldⅡ世はいっていたが、初代総督に英国人を採用、早速軍隊と警察を合わせた公安軍Force publiqueを創設した。最新銃器をこの軍隊に持たせた。将校にはベルギー人をはじめスエーデン人、デンマーク人等ヨーロッパ人がなった。兵隊たちは、コンゴ人、近隣(ナイジェリア、シェラレオーネ、ザンジバール等)から集められた者たち、業者から買った奴隷たち、誘拐されたコンゴの子供たちから編成されていた。公安軍の目的は領土保全、コンゴに侵入して奴隷狩りをしていた(密猟していた)アラブからコンゴ人を守ること(といっても人権の意味からではなく、勿論財産としてのコンゴ人を守ること)であったが、さらに、ゴムや象牙を採るという経済権益をまもること、採算性をあげることであった。そのためシコットchicotteまたはファンボfimboと呼ばれるカバの皮でできた鞭が使われた。植民地の規則に従わないものは50から100回の鞭打ちの刑に処された。鞭打ちで死に至ったコンゴ人も多い。このシコットの刑は、独立後モブツ政権も踏襲した。鞭打ちはアフリカのフランス語圏では学校教育でも使用された。また南アでは今でも鞭打ちがあるようだ。
さらに、反抗する村は焼き払われ、死体の手を切り落とし、爆薬消費の証明として部隊に持ち帰った。酷い場合は、生きたコンゴ人の手を切り落として爆薬を使ったことの証明としたという。ヨーロッパ人も無慈悲なことをしたものである。
コンゴ人側の抵抗が全くなかった訳ではない。たとえば、1890年コンゴ南東部で元奴隷のンゴンゴ・ルテタNgongo Letetaが500名のゲリラ組織してベルギー軍に抵抗した例もあるけれど平定されてしまった。ンゴンゴは1960年独立後の初代首相ルムンバが同郷でもあり敬愛した歴史上の人物だった。もっともンゴンゴは後にベルギーから説得されて、ベルギーと一緒にアラブ軍追討戦争に参加する。
公安軍は1892-1894年にかけてコンゴ南東部からアラブ・イスラム勢力を軍事的に排除することに成功し、領土を拡張しながらコンゴ自由国の国境を確定していくことになる。
しかし、コンゴ自由国における過激にして非人道的レオポルド2世の政策は当時すらヨーロッパとりわけ英国の批判を浴び、1908年ベルギー国会で国王の私領からベルギー国の正式な植民地となった。
(続く)
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