18 juin 2010

6月14日 le lundi 14 juin 2010 コンゴの歴史(5)他 histoire du Congo (5), etc

Le 14 juin 2010, lundi
快晴。
日本は関東地方が昨日から入梅。

(財)自治体国際交流協会に仙台とルブンバシの姉妹都市について仲介を依頼しちえるが、返事がないので、現状の開示を頼んだ。
国際柔道連盟(ローザンヌ)はキンシャサ気鋭湯になってしまったが、ともかくマテリアルを寄贈してもらえることになったが、全日本柔道連盟、講道館からは何の返事も着ていない。児童労働廃止を訴えるNPO「Ace」にカタンガ州の鉱山における児童労働について協力を要請したがこれも返事がない。ほかにも返事がないところだらけだ。いやになる。

電話Vodacomが14時の停電を期して、電気が来ても不通になった。停電は短かったが、電話の不通は既に4時間。もう1個の携帯Zainをもっているから助かった。

コンゴの歴史(5)
1482年ポルトガル王ジャンⅡ世の命を帯びてDiego Cam(1450-1486)が第一回アフリカ探検に船出した。同年コンゴ川の河口に到着している。ポルトガルは既に1415年のエンリケ王子(フランス語ではHenri le Navigateur)から 大航海時代(大発見時代 Les grandes découvertesを日本では大航海と云いなおしている)に入っていたが、2回の航海でエンリケの更に南のコンゴ、アンゴラそしてナミビアまで達している。勿論後のバスコ・ダ・ガマはインドまで到達した。ディエゴ・カンは1483年、コンゴ王国の首都Mbanza-Kongo(既出)でManikongo(コンゴ国王)であるNzinga Nkunuに謁見している。フランシスコ会が1490年にコンゴに到着する。国王は1491年に洗礼を受けカトリックとしてジャン1世を名乗った。首都もサン・サルヴァドールと改称された。1487年にはコンゴKongo王国とポルトガルは大使交換をしている。国民の反対でジャン1世とその長男はカトリック教徒から再び元のアニミズムに戻るが、次男はカトリック信者であることを捨てず、父王の死後内戦となり、弟が兄を殺害し王位につきアルフォンソ1世として即位した。彼はポルトガルの先進性に大使を通じて触れ、コンゴKongoの近代化をキリスト教とともにすすめようとする。また、奴隷貿易を推進することとなった。これがコンゴ王国の衰退につながっていく。
1510年ころから、奴隷貿易はサオトメ島と中継地として盛んに行われた。アルフォンソ1世は奴隷貿易を差し止めようとしたが(1526年ポルトガル王ジャン3世に奴隷貿易廃止を訴えている)、膨大な利益を得ていた豪族たちに阻まれてしまった。当時カトリック教会もこの奴隷貿易に少なからず関与していた。
それから140年後、1665年コンゴKongo国王アントニオ1世は、ポルトガルに奴隷貿易を廃止するよう要請する。ポルトガルはルアンダ(現アンゴラの首都)に兵をあつめコンゴKongoに攻め入った。世にいうアンブイラの戦い(Bataille d’Ambuila)である。アントニオ1世は殺され、首を刎ねられてしまう。その後コンゴ王国は分裂、内戦。そして州はそれぞれ、ポルトガル、オランダ、英国なとの支配下に組み込まれてしまった。大手を振って西欧によって黒人奴隷貿易は続けられたのである。
(続く)

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