コンゴの歴史(3)
コンゴCongoという国名はKongo王国からきている。ザイールというのは、例のモブツ大統領が導入した。コンゴがある地域が、コンゴといわれる前にザイールと呼ばれた歴史はない。ポルトガルが15世紀にコンゴの地に来たときに、現在の大河コンゴをザイール川と名づけたのだ。モブツはそれを国名とした。
さて、コンゴ王国Royaume de Kongoである。Kongo人の神話的起源は女性ンジンガNzingaであった。それは既に述べた。バンツーは7世紀から15世紀にかけてさらに移住してきた。彼らは宗教的、精神的王(Manikongo、maniとは支配者の意、またはMwene-Kongo)を戴いていた。王は祖先と会話ができ、神的存在であった。王は世襲ではなく、12名の王位継承権者の中から選出された。この制度は13世紀ころに確立されたようだ。
コンゴKongo王国は勿論農業、狩猟、牧畜の第一次産業も発達していたが、広い交易圏をもち、象牙、金、銅、土器、衣服その他の貿易をし、貨幣が使用され、「金融」都市として大西洋岸にMwanda(Moanda/Muandaとも書く)があった。現在のMuandaは石油基地である。沖合いで原油を採掘している。Perencoの開発に日本の帝石が資本参加している場所だ。このPerencoが町に電気を供給し、ごみ収集を行い、図書館を市民に開放している。企業の社会貢献の代表格だ。
コンゴ王国は17世紀には奴隷売買を期にして衰退していくが、黒人奴隷貿易については後述する。
王国は、日本風にいえば州、県、郡に区分された行政組織をもっていた。緩い連邦制といってもよい。王国の領土が増えるにしたがって同様の行政組織を増やしていったわけである。王位がいわば選挙で選ばれたとしても、王権は単純に政治的行政的権威だけではなかった。祭祀を司る宗教的権威のトップでもあった。
行政府は、軍事、司法、音楽、彫刻の責任者がそれぞれ指名されていた。これは国レベルだけでなく、先の行政区分に従って、州県郡にも同様の責任者が置かれた。
コンゴ王国の暦もある。
週と4日とし、3日が労働日、一日を市を開く日としている。月は4週間すなわち28日である。一年は13ヶ月。
他に5つないし6つの季節(シーズン)を設けていた。農作業にもリンクしていた。今のカレンダーでいえば10月から12月の種まき(雨季のはじまり)、椰子の実の収穫、雨季の最終期、喚起の始まり(寒風の季節)、灼熱(7月)そして夏である。
こうしてみると、ポルトガル人ディエゴ・カンが1483年にやってくるまでに、近代国家ではないが、ヨーロッパの中世に匹敵するような国民国家Etat-nationが成立していたといえよう。それはそこに文明civilisationがあったといえるのだ。しかし、この文明の最大の欠陥は文字がなかったことである。それは他の文明との接触・交流がなかったということである。アフリカ大陸では、エジプト、エチオピアを除いて文字がなかった。しかし、古代エジプト文字もエチオピアのコプト文字も現在は使われていない。日本は中国がとなりにあったから平仮名片仮名を発明できたのである。
閑話休題。いよいよヨーロッパがやってきた。
(続く)
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