18 juin 2010

6月16日 le mercredi 16 juin 2010 コンゴの歴史(6)奴隷貿易他 histoire du Congo (6) traite de esclavage, etc



Le 16 juin 2010, mercredi
快晴。微風。

風呂のサーモスタットの交換に電気屋がなかなか来ない。電話でクレームすると今家に来るところだという。蕎麦屋の出前だ。領収書を請求するとない、ルブンバシの市場で買ったからないと。手間賃が10ドル。一日働いて3000フラン(300円)が相場じゃないかというと、じゃ5000に下げる。ま、致し方ない。

コンゴの歴史(6)
黒人奴隷貿易とはどのようなものであったのか。
セネガルは首都のダカールの沖合いに小さな島ゴレ島Goreeがある。奴隷交易の一つの中継地だった。この島の奴隷収容所は今も保存されている。たいていの奴隷中継地には博物館があるが、収容所そのものが残されているところは少ないようだ。確かにタンザニアでもザンジバールおよびその大陸側バガモヨBagamoyoが東アフリカにおける一大奴隷貿易の中心地だったか、博物館はあっても収容所は残っていない。
黒人たちは、仲間に売られ、他部族から狩られ、仲介のアラブ人から競りに出されとりしながらゴレ当にやってきた。リベリア、ガーナ、ナイジェリア等々の地方から集められた。彼らは動物が世界中の動物園に売られるよりも一層過酷な環境下で収容されていた。そこで死んでしまうものは、商品価値がない質の悪い奴隷として適さないものとして扱われた。死ねばサメのいる海に捨てられたのである。彼らは動物といてしか見られていない。しかし、商品である。商品価値をあげるために、品種改良も行われた。屈強な体躯の男と多産とおもわれる女とを掛け合わせる部屋もあった。男は種馬である。女はメチスを作るためにも使用された。重営巣もあった。そうしてカリブ海へ、北アメリカへ、ラテン・アメリカへと「出荷」された。
(上の写真はゴレ島の奴隷解放像、後ろに見える建物が収容所だった)

アフリカ西海岸奴隷貿易、東海岸奴隷貿易、アフリカ間奴隷貿易に大別される。
西海岸からイベリア半島に奴隷がまず輸出されたのは1441年である。ことに東ローマ帝国が滅亡(1453年)から、西海岸の需要が急増する。
カリブ海でサトウキビ栽培が始まると、奴隷の重要が高まり、奴隷の価格が上昇、反対に欧州で消費する砂糖の価格が下がった。1792年から1860年にかけてだけで、72万の黒人がスペイン領キューバに送られたという。これはそれ以前の200年間の数字よりも多い。カリブのフランス領マルティニーク島に1674年には2600人しかいなかった黒人奴隷が、100年後には9万人になっている。これら奴隷貿易と彼らの労働で得た利益で、フランスでは、たとえばボルドー、ラ・ロシェル、ル・アーヴルやナントなどの街が今日のような都市になったといえる。それは、フランスに限ったころではなく、後に見るベルギーでは、ブラッセルもアンベール(アントワープ)も、勿論王室もコンゴの奴隷貿易とまた現地での奴隷労働とで得た富で今の繁栄ある街をまた王室を作ったのである。もしもアフリカ諸国が戦時賠償と同じように500年にわたる西欧による奴隷貿易にたいして補償を求めたとすれば、今西欧が援助と称してアフリカに還元している金額など大海の滴に過ぎないだろう。西欧は、いや、我々は鉄道や道路を建設した、教育を授けたのだからいいではないか、と云うのだろうか。

1848年フランスは英国に遅れること数年奴隷貿易を廃止した。

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