01 octobre 2010

9月30日 le jeudi 30 septembre 2010 『泣叫べ、愛しの祖国よ』 «Cry, the beloved country»

Le 30 septembre 2010, jeudi
快晴。

朝から断水。
ネットの調子は最悪。アンテナは4本線を示すことがあっても不安定。MS Live Mailのタイトルまで読めても、その内容を読むまで接続が続かない。Nさんからのメイルが読めない。AJFからの署名依頼に応えられない。ま、いらいらが募る。
ブログも更新できない。

ドリ君はついに7時丁度にやってきた。

午後から断水。今日はタイミングがよくない。19時半、水が出始めた。水にせよ、電気にせよ、ライフラインの事情はこの家の方が前よりいい。しかし、このキプシで水がもう何ヶ月も出ない、数週間電気が来ていない地区もあるのだ。

南アフリカの作家Alan Paton『Cry, the beloved Country』を読み終えた。このタイトルのフランス語訳は『Pleure, ô pays bien-aimé』だが、この訳の方が日本語の初訳タイトル『光を我等に』(1951年)や『叫べ、愛する国よ』(1962年)よりもより正しく作者の意図を伝えている。Cry, the beloved countryという文章が本文の中に2度出てくる。

息子を探しに大都会ヨハネスブルグに出てきた牧師クマロKumaloが聞かされた新聞記事に続く文章である。黒人社会との融和を目指していた若いインテリ、運動家Arthur Jarvisが自宅で強盗に殺された。
There is not much talking now. A silence falls upon them all. This is no time to talk of hedges and fields, or the beauties of any country. Sadness and fear and hate, how they well up in the heart and mind, whenever one opens the pages of these messengers of doom. Cry for the broken tribe, for the law and the custom that is gone. Ayem and cry aloud for the man who is dead, for the woman and children bereaved. Cry, the beloved country, these things are not yet at an end. The sun pours down on the earth, on the lovely land that man cannot enjoy. He knows only the fear of his heart. (page 66-67)

さらに南アの増大する黒人による犯罪に言及したあとで、
Cry, the beloved country, for the unborn child that is the inheritor of our fear. Let him not love the earth too deeply. Let him not laugh gladly when the water runs through his fingers, nor stand too silent when the setting sun makes red the veld with fire. Let him not to be too moved when the birds of his land are singing, nor give too much of his heart to a mountain or a valley. For fear will rob him of all if he gives too much. (page 72)
文章中のveldとはオランダ語系の南アの言葉で、草原ないし草そのものを指す。英語化していると作者の解説にあるが、PCの辞書にはなかった。発音はfelt。

小説の時代は1946年である。作者の姿勢は有名な差別アバルトヘイトにしても、大声で糾弾するのではなく、事実を淡々と述べているように僕には感ぜられた。2010年の南アの社会状況と比べて。むしろ悪化しているといえるかもしれない。犯罪天国南ア。
作者はいう。
I have one great fear in my heart, that one day when they turn to loving they will find we are turned to hating. (page 235)
文章では目的語が欠けている。Theyは白人、欠けた目的語は黒人である。今、南アの白人は政治的にマイナリティーになった。経済は白人が握っている。アパルトヘイトは法律上表面的には廃止された。しかし、、、。

この小説の主要な登場人物はヨーロッパ系も黒人系も善意の、信じられないほど善良な人々ばかりである。そして極めてプロテスタント的宗教色が強い。物語は、僕の期待したハッピー・エンドにはならず、主人公Kumaloの息子の絞首刑という悲劇で終わるのであるが、それを宗教的に受容する。息子Arthur Jarvisを殺された父親の寛容が、Kumaloの息子の減刑嘆願にまではいかす、Arthur Jarvisが生前意図していた黒人社会の生活向上に向かってしまうのは納得がいかない。白人裁判官による不当な判決がさした抵抗なしに加害者の親そして被害者の親に受け入れられてしまうのである。
しかし、この小説が南アのみならず、同じように黒人差別のあったアメリカ社会に及ぼした大きな影響は、2度の映画化とあいまって、むしろ過激な告発小説ではなく、寛容さ、受容と将来への期待にあるであろう。それはキリスト教的受難の精神である。
(写真はネットで拾ったのだが、映画からと思われる。二人の父親が2度目に会話する場面か)

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