31 mars 2010

マドンナの健康手帳 certificat de santé pour Madonna


マドンナの予防注射の証明書(健康手帳)である。これがあると国外にもマドンナをつれていける。チカちゃん(スイス生まれで、僕がスイスからスペイン、日本と連れていったペルシャ猫)は、東京から佐倉市に引っ越した母のもとから、去年10月中旬、消えてしまったというが、今頃どうしているのだろう。彼女はスイスの健康手帳をもっていた。僕がコンゴに来る前にいたアルジェリアまで同行してもらおうと思って、新たに予防注射をして、スイスの健康手帳に証明を書き加えてもらったのだが、どこの航空会社も同行(キャビンに一緒に乗る)ことを拒否、別送を考えざるをえなかった。しかし、アルジェリアでの環境がチカちゃんをつれてくることを許さなかった。

3月20日~3月31日まで du 20 mars au 31 mars 10

Le 20 mars 2010, samedi
6時に起床。お湯を浴びてから、洗濯。昨日の疲れは癒えた。

ルブンバシでモイーズが建設した小さなGecamines地区にある競技場を見た。バスケット・ボールのコートが3面とレストランがある。よく整備されている。夜間照明とスタンド(見物席)があり、ボクシングのリングもあった。

国鉄のルブンバシ本社の中にテニスコートがある。3面。メンバーになるとプレーができる。Feeは40ドル/月。年間だと420ドル。現在のメンバー数は27名。中国人を含め東洋人はいない。しかし何処でラケットやボールを売っているのだろう。
その裏に柔道場があるそうだ。今日は休みで見学できなかった。

シスター・アスンタさんのところで久しぶりにコーヒーをいただいた。これまで、コーヒー豆を挽く器械(コーヒー・ミル)が壊れてしまったけれど、街中でこのミルがみつからなかった。やっとQuinMartに入荷したものを買い求めたのだ。そこで久しぶりの本物のコーヒーとなった。フランシスコ会がもっている農園でとれた豆を乾燥させ、炒って轢くのである。このコーヒーは世界一美味しい。是非いつか日本の業者にもコンゴの豆を買って欲しい。

Le 21 mars 2010, dimanche
このブログは『アフリカの星』。姉妹ブログ『日本カタンガ協会』も併せてご訪問切にお願いします。そして両方のブログのメンバーになってください。更新があるごとにメイルでお知らせがいきます。
http://associationkatanga-japon.blogspot.com/

蚊帳の修理をした。マドンナが僕の部屋に入れた頃、ずたずたにしてくれた蚊帳の修理である。
そして車の掃除。疲れてしまった。

僕の部屋と風呂場に鏡をつけた。鏡はザンビアに出る前に買っておいた。ドリルはアスンタさんに借りた。一応真直ぐに掛けられたようだ。台所で歯磨きをするのを止め、バス・ルームでするようにしよう。またひとつノーマルな生活ができる。

Le 22 mars 2010, lundi
風呂場の鏡に付くはずの棚は付けられないだろう。店で飾ってある鏡と比べると金具が足りない。マドンナが悪戯して鏡が入れてあった箱をずたずたにして中から金具が外に出ていたから。納品されたときに不足だったのかどうか分からない。もし、マドンナが金具を食べてしまっていたらどうしよう。レントゲンでみてもらうか。昨日今日と下痢気味なのはその所為か。まさか。

浄水器を買った。18リットル用。50ドル。ミネラル・ウォータで米をといだり、パスタを茹でるのはもったいない。浄水器にPradeep water filterと書いてある。ネットで調べてみると、Pradeepはインドのマドラス工科大学の教授で、ナノテクノロジーの権威だそうだ。インドも水が汚そうだから、画期的な技術開発をしたと評価が高い。僕が買ったフィルタが本当にPradeep教授の開発したものかどうか。確かに箱にはそう書いてあるが。一種のセラミック・フィルターと思われる。しかし、一定時間使用後フィルタを交換しなければならないとは何処にも書いていない。フィルタを掃除するブラシが付属品として箱に入っていただけである。怪しいなぁ。しかし、ともかく試してみよう。

SNCC(国鉄)を訪問。朝行ったときは、営業部のオノココ人物が偉そうに午後で直して来いと追い返された。午後、たまたま彼の上司Fabien Mutomb氏と廊下ですれ違い、アラン君が既知であったところから、彼が話を聞いてくれた。
駄目だ駄目だと思っていたSNCCも一所懸命浮上しようと足掻いているようだ。先代から国鉄総裁にコンゴ人ではなくベルギー人を採用している。
非公式にFabienさんは時間を作ってくれたが、更に詳しい資料などの情報提供は正式に本社に手紙を書いてくれというので、そうすることにした。
なお、Fabienさんはモブツに反抗したほぼ唯一の政治家チセケディの政党の幹部だそうだ。カタンガ州知事モイーズ批判もちらりとしていたのだから大したものだ。
夜、手紙を書いたので明日一応総裁秘書官に手渡すこととする。

Le 23 mars 2010, mardi
今日から4日間キンシャサの日本大使館の方が出張でルブンバシに来る。おそらく大使館としては久方の当地訪問である。「日本カタンガ協会」としては、お金がないので接待などできないが、労働力提供、サーヴィス提供で歓迎しなければならない。カタンガにいい印象を持っていただきたい。

空港で靴磨き。200FC。この少年は去年の6月にもいた。身体の不自由な子。でも性格は明るい。チップを入れて300FCとした。30円。生活は苦しいな。
車も洗った。3000FC。これも子供たちの仕事。大人は何をしているのだ。

ホテル・ルブンバシにチェック・イン。シングルで119ドルの部屋を予約し且つホテル側のサインをとりつけていたのに149ドルの部屋しかないという。このホテルは新しくて、僕も去年の6月に泊まっているが、従業員の訓練が悪く、とてもサーヴィス業とは思えない。ホテルのホールに喫茶コーナーができたり、美容室が設けられたりと工夫をし始めて入るが、まだまだ100ドルを越す料金をとるホテルらしくない。

初めのアポイントは大学でルバラ教授。話は既に前にあったことの繰り返しで新しいことはなかった。昨日から休暇に入っているというのに大学に出てきてくれたのはありがたい。また、東京理科大学の先生と、僕の恩師に招待状を予定通り用意してくれていた。

15時半、Auguy(コンサルタント、Augustin Mwamba)さんとホテルで会談。具体的に鉱山開発、採掘のプロセスを説明してもらった。予想通り実務的で、「使える」相手だと思う。とくにソフト「Mapinfo」でカタンガだけでなくコンゴ全体の開発権、採掘権の詳細情報が得られることが分かった。調べてみると「Mapinfo」はネットでdownload(有料)できそうだが、問題はデータ。鉱業登記所(cadastre minier, 通称CAMI)で販売しているとの事だが、ルブンバシ登記所では不可、キンシャサで入手可能。しかし、料金は不明確。データは4半期ごとに更新されるというが、最新データがそう簡単に入力されているとは思えない。それでも、なんとか大使館または当地に来るという高山関係者には最低限必要なデータとして持っていてもらいたい。いや、日本企業は多分データを既に入手しているかもしれない。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Syst%C3%A8me_d%27information_g%C3%A9ographique#Les_donn.C3.A9es

Auguyさんの紹介で中国企業Kuntai上海のYoyoさんと面談。コンゴで鉱山 探索調査をしている。「ともかく予想外の金がかかる」、裏はやはりcorruptionであろう。とても協力的であった。
BYDがマンガン鉱のために近くコンゴ(RDC)に来ると。BYDは電池、自動車バッテリーなどの世界最大の中国メーカ。
Yoyoさんは、山崎豊子『大地の子』と同じ境遇の親の子なので日本人の血が流れていると語っていた。パリ留学組。

20時帰宅。

Le 24 mars 2010, mercredi
カタンガCAMIの責任者Kitingwa氏に面談。事務所はビール工場BraSmba向い。PCなし。勿論Mapinfoのテータもなし。美辞麗句ばかりで実態がここにはない。
鉱山法で規定された鉱区割当てた仕事だが、既にカタンガの殆どは割当て済だから仕事がないとみた。
リサーチ割当ては貴金属が4年、銅、コバルト、マンガン、鉄などは5年で切れる。更新は当初割当ての50%のみ可能。割り当て契約更新をしない場合、また更新できない地区50%はキンシャサの鉱山賞が取上げる。従って去年あたりから新規割当て地区が増加している。日本がリサーチ(recherche、exploration)から入る余地は十分にある。

La Briocheで軽食。

SodimicoサイトであるMusoshi見学。日本企業が1983年に引き上げてからその後の進展なし。カナダもポーランドもお手上げ。竪穴を掘り、それを中心として横穴を掘っていく方式。日立製作所の巻き上げ機などが健在のようだが、28年使われていない。ここ8年間採掘もしていない。竪穴470mのうち120mまで水が出て水中に没している。排水から仕事を再開しなければならない。生産がないのに従業員がいっぱいいる。他の場所での採掘があるにしても、借金で会社が運営されているに違いない。しかし、どうも鉱山資産を担保に借金をしている国営企業しかRDCにはないのではないか。Gecaminesしかり、国鉄(SNC)しかり、EMKしかり。
Sodimicoのトップは日本が運営していた時代に直接この会社にかかわっていなかったが、その下、Songasonga氏以降、日本時代を知っている従業員たちは「日本がまた来てくれる以外Socdimicoが再生する道はない」といって憚らない。その通りだろう。しかし、思い出や感傷で日本が再度この会社の運営に携わるとは思えない。

Sodimicoに向かう途中、Kasumbalesaの有料道路でスピード違反でつかまった。しかし、制限速度の表示はあっても速度制限が切れる場所の表示が一切ない。村や部落の前に制限速度40kmの表示があるところでは、全て徐行、40kmという理不尽な速度に落としていた。ある部落を過ぎたところで、速度を上げた途端に捕まった。携帯電話が通じない場所である。あとでクンダ大佐に連絡したところ、「何故連絡してこない、払う必要などない」と云ったけれど、連絡のしようがなかったのである。大使館の方に100ドル払っていただいた。無念。もうしわけない。次回こんなことがあった場合は、携帯の通じるところまで警官を乗せてでも大佐に連絡することにしよう。協会会長も同行していたが、クンダ大佐に連絡するのも彼は躊躇する。押しのない男。

20時半帰宅。

Le 25 mars 2010, jeudi
Tenke訪問。空振り。ManagersはFungurumeに行っていて不在。週末のみルブンバシに帰ってくるようだ。

GecaminesのSecrétaire Generalと面談。文句の多い奴。なかなか会えなかったところをAlain君が秘書たちに手を回して努力。

カタンガ州鉱山省大臣Juvenal Kitungwa氏。外交辞令に終始。小便臭い廊下。大臣だとて気がつかないのか。背広は一流でも中身はゼロ。取巻きも胡散臭い。

コンゴ生まれのインド人、元事業家、石鹸製造業のPrahalad氏。年寄りによくあるタイプ。正論には違いないが、現実には何もしない。手を打たない。漫談をきいているようなもの。

国鉄(SNCC)の技術部次長Malandala氏。世銀と政府予算で来年から鉄道整備が出来るという。聞いていると全てpositiveだが、裏づけがない。本音と現実はどうなのだ。今作ろうとしている州の5ヵ年計画との整合性は如何。

夜、大使館のご招待でイタリア料理。シスター・アスンタさんと僕だけ。あと3方日本人がカタンガにいる。一人は帰国中、一人は男性でメキシコ出張中。いま一人の不都合は聞き逃した。僕はニョッキ、コルドン・ブルー、ティラミズ。美味しかった。ありがとうございました。

22時帰宅。夜道は怖い。物騒ということではなく、道が悪く凸凹がよく見えないからである。この道をODAで直してくれたらなぁ。Kipushiには鉱山もあるし、国境もある。でも舗装されたら有料道路になってしまうのだろうか。

Le 26 mars 2010, vendredi
9時。マンガン鉱の国営企業EMK社長Tshawila Kahilu Koji氏。アンゴラがコンゴ国境まで鉄道を回復させるのは2012年。RDC側は既に国境Diloloまで国鉄が行っているという。これは実態調査をしてみなければなんとも云えない。マンガンに付加価値をつけて電池の材料工場を建設して輸出を始めたいというが、既に2010年、今から工場を建設して完成した頃にはアンゴラ鉄道がLobitoまで復旧していることになるではないか。マンガン鉱の在庫が40万トンあるというが、売れていないのだから、一体どうして会社が成り立っているのだろう。借金か。そんなに魅力のある会社ならもうパートナーなり身売りが出来ていて当然。そうならないのは何故か。30年間殆ど輸出できていない。アンゴラ側の実地調査はしたのか。

カタンガ州インフラ省参事官。外交辞令。時間がなくそうそうに会談を切り上げた。

日本大使館の企業投資調査担当F氏、セキュリティー担当K氏はMonuc(国連)の飛行機でキンシャサに帰られた。近くまた再来ルブンバシされることを切に願う。

大使館のF氏に空港の駐車料金(2回で20ドル)、車の燃料(80ドル)をご負担いただいた。さらに23日昼、25日昼とご馳走になったが、それが全て個人負担であることが最終日にわかった。出張費はホテル代の一部にしかならないという。天下の外務省職員が身銭をきってしか出張できないとは。Fさん、すみませんでした。これに懲りずまた是非いらっしてください。

携帯の充電ができなくなった。充電器の問題ではなく、本体の接続部の不具合らしい。汎用充電器2500FC(250円)を購入。しかし、これだと携帯電池をいちいち携帯から外さなければならない。面倒。しかし、それ以外方法がない。ところが、家に帰ってから携帯からPCへのUSBデータ伝送を試みると、伝送が出来た。接続部に問題がない。且つ携帯電池の充電もPCからやっているようだ。これは助かる。

Le 27 mars 2010, samedi
僕の計算では、先月ネットが1週間繋がらなかったので今月28日、即ち明日までネットが通じても不思議はなかった。事実、3月22日でネットが切断されず、無事今朝までネットで通信ができた。そこで今朝次の30日分をKipushiのVodashopで支払った。それからだ、またネットが先月同様通じなくなってしまった。

今日は昼間も勢い良く水が出た。奇蹟のようだ。15時から1時間日光浴をした。12月22日にコンゴに入ってから始めての日光浴である。サンデッキをやっと使えた。これでなくっちゃ、コンゴじゃない。これまでは出来なかったのは雨の所為ばかりではない。マドンナは庭に出られてご機嫌。
16時、バスタブに半分湯を溜めても湯が切れなかった。泡立ち石鹸を使った。こんな日が続くといいなぁ。そうしたら、シャワーを修理しようという気になる。
洗濯を2回した。乾きもいい。

Le 28 mars 2010, dimanche
今朝もネットが通じない。日曜日なのでクレームのしようもない。

昼間も昨日に続いて勢いのいい水が水道から迸る。全日サーヴィスになったのかな。気紛れなのかまだ不明。

Le 29 mars 2010, lundi
ネットは、朝Vodashop KipushiのOliviaさんにクレームし、夕方帰宅後再びクレーム。その結果、やっと17時になって回復。先月に続いて支払いごとにネット接続ができなくなるのはシステムの欠陥。次は来月末の支払いだが、前払いをやめて本当にネットが通じなくなるまで待って支払いをするようにしてみよう。

アラン君に名刺を用意した。「日本カタンガ協会」の会計主任trésorier généralなんだから名刺ぐらい持っていないといけない。僕の名刺ソフトで作った。

ACIDH(Action Contre l’Impunité pour les Droits Humains)訪問。Rwashi Miningの公害問題をとりあげている記事を読んだことからコンタクトをしてみたいと思った。このNGOの名称は、当初の活動、「人権侵害犯罪に対する免罪に反対する行動」からきている。弁護士等法律に親しんだ人々が中心。会の代表Prince Kumwambaさんたちと話した。
「この国で正義を主張するのはむずかしい。当初、戦争犯罪等について国際刑事裁判所(ハーグ、オランダ)提訴する道をRDC(コンゴ民主共和国)で拓いた。どこの政党にも属していないし、政治的活動ではなく正義をRDCにもたらすためである。しかし、これまで逮捕・監禁を含めて様々の圧力を受けてきている。2006年から公害問題も積極的に取り組んでいる。公害に対する市民の意識は低く、また当局も無視している。州や市当局というよりも現場を知らないキンシャサ中央政府当局の無視が目にあまる。州か工場閉鎖を決めても中央政府が工場継続を決めてしまう。ルブンバシ郊外にあるSomica社が一例である。またインド系Chemaf社も同様。米系Tenke-Fungrume社(Freeport-McMoRa Copper & Gold Inc, USA傘下)は例外中の例外で米国企業は海外子会社でも本国の公害法に縛られるので、公害対策部を置いて公害対策をしている。2003年に制定された鉱山法に公害規定があり、企業は当局にレポートを提出する義務を負っているが、今まで第三者が調査したレポートを出したのはオーストラリア・カナダ系Anvil Miningだけである。中国系企業は全くレポートを無視している。企業が開発採掘しているのではなく、労働者個人が露天掘りをしているサイト(exploitation artisanale)がいくつもあり、国はそうした採掘を認めてしまったが、そこには公害対策が全然ない。
ACIDHの資金源は、企業からの献金を一切断り、海外の基金、たとえばオランダ政府やフォード基金等から援助を受けている。Amnesty International FanceやUKの支援も頂いている」。
なかなかしっかりしたNGOである。具体的案件があれば「日本カタンガ協会」としても応援したい。

Le 30 mars 2010, mardi
市の秘書官Muya氏に、「5ヵ年計画」の入手と姉妹都市担当参事官とのアポイントを頼んだ。木曜日午前にそれぞれの担当に会うことになった。

マドンナに狂犬病の予防注射をした。ジステンパ予防注射をしたと同じ病院。Ilunga博士。朝食を与えないで病院にいったので、車の中で吐かなかった。悪路の車の揺れはマドンナには辛かったろう。これで来年まで予防注射はない。Rottweillerは強い犬だけれども、狂犬病の予防注射が20ド、。これを受けない、受けることができない犬がコンゴには多いと考えられるから、マドンナ保護のためには、やっと安心である。

Le 31 mars 2010, mercredi
ルブンバシに出ず、家でブログ更新等の仕事をすることにする。

20 mars 2010

苦闘:ザンビアの山越え route Solwezi(Zambie) - Kipushi(Congo) : une aventure inattendue


Solwezi(ザンビア)からKipushi(コンゴ)までの道程は、話に聞く以上に困難を極めた。Kipushiの我家に着いた車の勇姿からその悪路をご想像いただきたい。

3月16日~3月19日 du 16 mars au 19 mars 10

Le 16 mars 2010, mardi
6時起床。7時15分、キプシ出発。8時丁度にシスター・アスンタを迎えにルブンバシに到着。ドン・ボスコで満タン。国境の町カスンバレサ到着10時。距離が90kmしかなく、道がいいのに時間がかかったのは、40km/時の制限速度標識がところどころにあり、慎重に運転したため。交通警察に口実を与えもめるのを避けたのである。これからコンゴ出国及びザンビア入国手続きに2時間を要した。車をコンゴから出し、また返ってくる証明書に25ドル、手伝ってくれたOFIDA(税関)の官吏に謝礼6ドル。ザンビア側の手続き(ガソリン税、道路使用税、保険等々)で200ドル。更に途中で入ってきた通関業者に30ドル。ザンビアに車で入るのは金がかかりすぎる。12月にタンザニアからザンビアに入ったときはタンザニアの仮ナンバーだったので業者費用をいれて250ドル払ったが、今度も似たような金額を払うことになった。数次とはいえコンゴ出国・再入国visaに250ドル、ザンビア入国visaに50ドル既にかかっているのだから、500ドル以上の出費。これはたまらない。次にザンビアに入るときは長距離バスなどを利用したほうが賢明だ。

12時過ぎにやっと国境を越え一路ルサカへ。タンザニアに抜ける道と交差するKapiri Mposhiまでの道は既に去年12月に通過したところ。その先Kabweを通ってLusakaまでが新しく通る街道。総じてよく舗装された道なので120から140kmで走ることができる。ところどころで警察のチェックが入るが、今後の警官のようにしつこく賄賂を請求されることはない。保険証がやや問題となったのみ。というのは、カスンバレサのザンビア側で付保したが、保険会社の判がルサカになっていたこと(しかし、本社がルサカなら判がルサカでもいいではないかと僕は思った)、付保した日付が3月16日なのにバック・デイトして3月14日に有効期限がきてしまうという記入ミスがあったこと。馬鹿ばかしい。

ルサカについたのは19時過ぎ。既に暗かった。宿舎にシスター・アスンタが予約していたところを探しあてたが、サレジア会の神学校建設現場というハプニング。現場の建設会社社長がサレジア会に連絡してくれて、近くにあったサレジア会の修道女宿舎City of Hopeで宿舎が手配できた。サレジア会は広大な土地をここでも持っている。食事は既に21時を過ぎていたために、目玉焼きを用意してくれただけ。昼食なしに只管ルサカを目指して運転してきた身には軽すぎる食事だったが致し方ない。部屋をいただき、3日振りにシャワーを浴びることが出来たのは幸いだった。

Le 17 mars 2010, mercredi
朝食後、サレジア会のシスターが日本大使館まで案内してくれた。インターコンチネンタルの真向かい。ダル・エス・サラムよりも広い土地に立派な建物。領事担当官長島氏は丁寧かつ親切にアスンタさんの旅券更新をしてくれた。旅券ができるまで、大使館の周りを散策。ATMがガソリンスタンドにあったので、100万クワチャをおろした(19 230円相当,
去年12月より多少クワチャ高傾向)。大使館の周りは緑の多い地区。外国大使館が軒を並べる。
パスポートを受け取ってから街の中心街に行ってみた。高い建物が並ぶ。高層建築がこんな広い土地を持っている都市で必要なのだろうか。銀行がやたらと多い。まともなレストランを探したがみつからないので、ファスト・フードの店でハンバーグなどをtake out。今夜の宿はNdola(カッパーベルト州の州都)と決めて車を北上させた。この町にはフランシスコ会の宿舎がある。19時にはフランシスコ会の施設に到着したが、沢山の神父さんが各地からきていて、部屋を確保するのがやっと。食事は外でとることになった。近くのショッピングセンタを紹介されて行ってみると、バーの奥にあるレストランしかなかった。Hunter。地元のひとはアンテールと発音していた。英語圏なのにHを発音しないのは不思議。店を教えてくれた人はコンゴ人かもしれない。冷凍肉を電子レンジで解凍、油でこんがりと揚げてしまう。小瓶のビールを3本飲んでしまった。アスンタさんはミネラル。あんまり感心しない食事。ゴキブリが壁を這いまわっていて清潔とはいえない。

Le 18 mars 2010, jeudi
7時半にはフランシスコ会を出発。Solwwziに向かった。そこにザンビア22年(シスター・アスンタはコンゴ28年目)のフランシスコ会神父久保さんを訪ねた。農夫のような姿で農園や元修練所施設の改装をしていらっした神父にお会いできた。剛毅、多弁。奄美出身。やはり九州はキリスト者が多い。Solweziに来られる前はもっともっと田舎で宣教していた様子。Solweziで一番のホテルのレストランにつれていっていただいた。しかし、食事はやはり英国の伝統というべきか、何を注文してもそこそことしか言いようがない。英国圏は食事が貧しい。それだけではない。内装が豪華なレストランなのに、ナプキンが紙であるとか、食器に工夫がないとか、ちぐはぐなのである。 食事途中横殴りの大雨が降った。

食事後ようやく14時半にSolweziを出発、コンゴ国境Kipushiに向かう。山道。舗装されていない。一番最初の監視ゲートで、ザンビアに入国した地点から出国せよと難癖をいわれ、120 000Kwachaを取られた。しかも、道が悪いから案内人をつけてやると。ところが案内人と称するのは赤シャツのザンビア人一人とコンゴ人二人。要は乗せていってくれということだ。しかし、若いコンゴ人Dembu君が悪路で大活躍をしてくれた。第二チェック・ポイントでこれからはもっと悪路だよといわれた。既に大きな水溜りの連続だというのに。コンゴに近づくにつれ道が更にぬかるみ、確かに悪路中の悪路になった。大きな水溜りが渡れず、それを回避する枝を敷いた脇道を通ったり、その脇道の先が通れず戻ったり、四駆で走っても立ち往生したりと苦労の連続。とんだサファリだ。国境まであと15km、ついに水溜りに嵌まり、前進も後退も出来なくなってしまった。すると、どこからともなく村人が集まってきて、水掻きをしたり、タイヤの嵌まった泥を掻いたり、何回も車を押したりと3時間も悪戦苦闘してくれた。見物人も集まっている。みんながそれぞれコメントする。それでも車は泥から脱出できなかった。3時間後やっと後方からトラックがやって来てロープで引っ張りあげてくれた。つまり3時間車が四駆もトラックも通らなかったということだ。このトラックの運転手がコンゴ・フランで10 000(1000円)、村人たちが総勢で10 000要求。ま、全てがボランティアとはおもわなかったけれど。10 000フランもらっても、泥を全身にかぶったり、ぬかるみに浸かったりと合わない重労働であったろう。
しかもこれより以前、燃料が途中で足りなくなった。ガス欠寸前。みっともない。Solweziで補給しようと考えたが、130kmあまりならメータ上は十分に可能とふんで給油しなかったのだ。しかし、悪路の連続で燃料消費量が過大になった。ガソリン・スタンドはルブンバシまでない。サスペンス。そこで、途中で悪路のため立ち往生していたトラックの運転手に頼んで20Lを150 000クワチャで分けてもらった。スタンドではリッタ6200くらいだから、20Lで124 000の筈だが背に腹はかえられない。僕の車がディーゼル車だったので助かった。
Dembu君は、水溜りに裸足になって入って深さを調べたり、路肩の固さを確かめたり、僕らの行く手も走って車の走行を助けてくれたのである。ガイドするジェスチャーも堂にいっていた。これだけの活躍をしたのだ、最後にいくら請求してくるかなとおもったら、国境に着いたとき、彼はあっさりと「じゃ、またね」と去っていってしまった。彼にこそ礼をしたい。電話番号は控えたので、家に呼ぼう。僕と同じ街、KipushiのGecamines住宅地区に住んでいるそうだ。
結局夜の22時過ぎに国境に着いた。国境は既に閉鎖。同乗の彼らは暗闇に紛れて国境を越してしまうのだそうだ。ザンビア側にホテルは見当たらない。車の中で寝るしかなかった。車の窓を密閉して窒息しても困るので、10mmほど窓を開けておいた。車の中は狭いし、蚊が煩く飛んでくるので殆ど眠ることが出来なかった。
アスンタさんは軽い寝息をたててお休みである。Solwezi出発前に聖アントニオに無事キプシに到着できるように祈りを捧げていた。途中立ち往生したときも、落着いて「明日になれば誰か来るわよ」と動じなかった。アッシジの聖フランシスコは生まれも育ちもよく、大人になってから放蕩三昧。しかし、全てを擲って裸一貫神に命を捧げ、貧しい人たちの味方となった。さすがフランシスコ会の修道女である。

この悪路を自転車を押して通る人たちがかなりいた。炭や野菜を荷台いっぱいに積んでいる。家路を急ぐのではない。国境にある市場に行くのである。このぬかるみでは自転車を漕ぐわけにはいかない。只管歩いて押す。雨の中、傘も差さずに歩く。時折、近くを歩いている人が後押しをする。自転車で行く人にチップは請求できない。貧しい人たちの連帯感であろう。中には数日間かけて山越えをして市場に辿り着く。コンゴでもザンビアでも自転車で長距離運搬をしている姿をよく見かける。大変な重労働である。自転車からオートバイになるためには、どれだけ働かなければならないことか。

Le 19 mars 2010, vendredi
Kipushi国境は手続きが簡単である。今日はザンビア側で市がたつ(コンゴ側からは化粧品、シャンプーなどを持ち出し、ザンビア側から馬鈴薯、トマトなどの農産物が集まる。無税)ので、コンゴからその市に行く人がひっきりなしに国境を越える。越境料金は僅か100フラン(10円)。普段はずっと人が少ない。ましてや雨季は道が悪いのでSolweziまで行くひともまた来る人も限られている。Kipushi税関や入国管理官は僕らがわざわざ悪路を渡ってきたので驚いていた。入管手続き、通関、車の再入国ともにスムーズに行き、とくに意地悪もなかった。クンデ大佐に電話して介入を依頼する必要もなかった。

帰宅すると、マドンナが大騒ぎ、飛びついてきた。庭師のAndreさんにマドンナに食事を用意するようお願いしていたが、実行してくれたようだ。

午後アラン君が来て、「日本カタンガ協会」の打ち合わせ。

電気もつけっぱなしで寝てしまった。23時に起きて、マドンナに食事を用意し、バスに入ろうと思っていたが、それも出来ずぐっすりと寝た。途中目が覚めたのは翌朝4時。

15 mars 2010

3月10日~3月15日 du 10 mars au 15 mars 10

Le 10 mars 2010, mercredi
出かけるときはマドンナを営倉にいれておくことにした。マドンナには狭い部屋だろうが6畳の間よりは広い。それでも帰ってきてその部屋から開放すると甘えて大変。飛びついてくる。

Colonelクンダ氏の息子が南アで今年4月大学を卒業する。その後、日本に留学したいという。学部入学か、修士課程。専攻は経済。これはひとつ大使館にきいてみなければ詳しいプロセスがわからない。
それと彼の所有する幾つかのホテルに投資するひとはいないかとの依頼。タンザニアのO氏は候補か。ホテルの宣伝はTVでしているそうだ。

ルサカに行けるかもしれない。シスター・アスンタが旅券の更新にルサカの日本大使館を選んだ。キンシャサでも勿論更新できるが、飛行機代(700ドル)、ホテル代(100ドル以上)が極めて高い。一泊二日。7時間ぐらいで着けそうである。国境の手続きだけが時間を要する。出国ヴィザを既に取得(聞いていた250ドルではなく120ドル、やはりDGMルブンバシの担当Nyemboは相当ふっかけている)。ザンビア入国Visaは50ドル。僕が行く場合は車の保険もかかる。

Le 11 mars 2010, jeudi
昨日溶接工が来て、窓枠の矯正をした。これで横殴りの雨が降っても雨水が部屋に入り込んで部屋が洪水になることを防げるようになった。窓枠の取っ手を真ん中に持ってきただけなのだが、一応隙間なく窓が閉まるようになった。4箇所分の溶接工の代金10 000FC(1000円)。

今日は建具屋が来て、戸6枚に錠前をつけた。これで僕の部屋、台所、トイレ、バス・ルーム、西側の寝室などに鍵をかけることができるようになり、マドンナが進入できなくなった。錠前一組6000FC(600円)、装飾的でなないが、戸が閉まればいいのだ。取付け手間賃5000FC(500円)。
建具屋に犬小屋も頼もうかな。

配管工の仕事は中途半端だったので、まだ残っている。

使用人小屋(boyerie)を目隠しするため葦簀(よしず)を注文している。ルブンバシからキプシ街道に入る手前にGecaminesの銅精錬工場があるが、その工場の脇が湿地帯で、葦簀を作っている。つまり葦(あし)を編んで簾状の板を作成しているのである。これが丁度目隠しにいいと思った。風雨に対する耐久力はないだろうが、仮の目隠しとしては都合がいい。90x160cmの葦簀が作れるというので20枚頼んだ。これをAndréさんが庭で切った木の枝で杭を打ち廻らしたので、それに貼付ける。

雨季。夜になると雨が降る。不思議だ。雷もよく鳴る。

夜になってもお腹が減らない。昼、アスンタさんのところでご馳走になったが、ブカリと呼ばれるトウモロコシの粉で作ったコンゴ風饅頭(中身はない)の所為だろうか、この国で初めて茹でた大きなトウモロコシを一本まるまる食べてしまった所為だろうか。

カタンガ州の経済企画・財務省の参事官ダテンボAggée Matambo Toto氏と面談。カタンガ州の3ヵ年計画は終了。資金不足のため計画倒れになったが、現在5ヵ年計画を策定中。10月ごろに出来上がる。インフラでは鉄道整備に重点がおかれるだろうとのこと。

州政府の参事官カポヤBaudouin Kapoya Mutomb氏と面談。初めてGouvernoratの中に入った。公園のように整備されていた。ここにMoise知事がいるのか。元はチョンベ政府の敷地だったという。AKJの自己紹介。

インフラ省の参事官とのアポは土曜日。今日に前倒しは結局空振り。

Le 12 mars 2010, vendredi
DGM Kipushiでは出国ヴィザを発行できない。ルブンバシのDGMでしか出来ないことが判明した。丁度Kipushiの所長Kabila氏がルブンバシに会議で来ているということなので、ルブンバシに出ることにした。11時半Kabila氏にMulti visaの支払いをした。200+35ドル。Nyembo担当より50ドルほど安い。Nyemboは自分の懐に相当入れている感じである。上手くいけば今日、遅くとも明日には査証が下りる。そうしたら月曜朝にザンビア大使館で入国査証をとる。火曜日早朝、アスンタさんを迎えに行って、Lusakaに出発。なんとかこの段取りで行きたい。マルチ出入国査証にしたのは、7ヶ月以内にまた出ることがあるだろうからである。一回の出国だけなら117+40ドルだそうである。
19時半、Kabilaさんから査証が下りたから、明日の朝ルブンバシで会おうとなった。火曜日出発に一歩近づいた。

久しぶりに床屋Rafaelに行った。いつものように短髪にした。気持ちがいい。でも白髪が目立つなぁ。いっそ金髪にしてやろうかな。1月16日以来だった。この床屋、Alain君によれば、内務大臣など重鎮も来るのだとさ。それはそうとして、問題は今日風呂に入れるかどうかだ。

小さなアボカドもある。Mimbulu村で買ったら100FC(10円)。でも小さいな。子供の頭ほどもありそうなのは500FC。その中間が200FC。今日はそれがなかった。アボカドには老化防止のvitamine Eがあるのだそうだ。コレステロールも減らしてくれるという。奇跡的な果物だ。しかしデザートではなくhors d’oeuvreで食べる。そういえば果物がhors d’oeuvreになるのもそう珍しくない。メロンに生ハム、サラダにグレープ・フルーツpamplemousseが入ることもある。コンゴの人はパンにバターを塗るようにアボカドをパンに塗る。

Le 13 mars 2010, samedi
9時半ルブンバシ。DGM事務所にKabila氏は出勤せず、自宅に来てくれという。彼はルブンバシからキプシに通っている。自宅に訪れると、旅券があった。数次visaがとれていた。Nyemboより正当な料金でこれからもDGMの届出・許可関係を処理してくれそうだ。

11時にインフラ省の参事官カロブエBernard Kalobweと面談。愛想がいい男だが、実力のほどは分からない。25日の大臣とのアポを頼んだ。
新しいことは、Likashi-Kolwesi間の道路整備テンダーが出され、来週中にも落札業者が決まるという。この道が整備されると国境からKolwasiまでの時間が大幅に短縮される。業者は常識的にみれば、中国かForrest社であろう。中国の評判は極めて高い。

珍しく夕方3時間停電。それよりも水の出が悪かったのが問題。11日木曜日も9時から16時まで停電したらしいが、家をあけていたので実害なし。

Le 14 mars 2010, dimanche
快晴。

Rottweilerの記事をネットで読んだ。やはり番犬として生え抜きのわんちゃんである。マドンナが成長したら、恐ろしい番犬になりそうだ。楽しみでもあるが、記事の通りというよりは、愛らしいわんちゃんに育って欲しい。少なくとも今のところ彼女は僕に対して甘えん坊。容姿は精悍そのもの。50kgとなると、今のうち僕も鍛えておかなければいけないかな。ルブンバシにフィットネス・クラブが出来たから、そこに通うか。Anvil Miningのオフィスのとなりである。

Le 15 mars 2010, lundi
朝一番にザンビア領事館で入国visa申請。11時半に来いと言うので、早くもvisaが下りるのかと思ったら、さにあらず、査証代金を払え、15時半に旅券をとりに来いという始末。能率の悪い官僚たちだ。受付に男性、査証の窓口に3人の女性。50ドルもふんだくってのんびりと仕事をしている。云われた時間の1時間前にいってみると、既に出来上がっているではないか。ま、待たされるよりはましだが、時間前に行ってみようと考えたのは、彼女らの目の前にいて時間通りにしろという示威の意味があった。
果たして明日行くルサカの在ザンビア日本大使館はどうであろう。僕がラス・パルマス(スペイン)の日本領事館で旅券申請をしたときはその場で待つこともなく作ってくれた。アルジェの下田大使はテニス友達だったこともあったかもしれないが、大使館に行って待たされたことはない。タンザニアはふざけていた。ザンビア領事館のような体たらくならば、また岡田大臣にメイルをだしてやろう。

キプシ国境に午後行ってみた。乙仲がうろうろしていた。暇だからだろうが、車の通関をするわけではない。こうした業者が国境の税関、警察とぐるになって金をせびるのだ。コンゴのキプシからザンビア側最初の町Solweziまでが120km。中国が整備したとは聞いているが舗装はされていない。その道が雨の所為で相当悪そうだ。行きはカスンバレサからザンビアに入り、帰りはキプシからにしよう。カスンバレサのたちの悪い税官吏や警察に金を巻きあげられるのは敵わない。

09 mars 2010

3月7日~9日まで du 7 mars au 9 mars 10

Le 7 mars 2010, dimanche
Mlapo師の私設秘書Justinさんが、ふらっと訪ねてきて四方山話をしていった。どうもビールが飲みたいようだったが、あいにく僕の冷蔵庫に冷えたビールがなかった。コーラで我慢してもらった。

予約した玉子をポルトガル人の農場の店にとりにいった。広い農場でパトロンに云えば見学させてくると店のアンゴラ人Prospère君がいうので、今度許可をもらおう。農場は、ルブンバシの中心モエロ通りにレストランを開店している。またキプシ街道で僕が「峠茶屋」と呼んでいる店も持っている。Prospère君は「峠茶屋」の店員である。峠というのは、Kipushiの僕の家からルブンバシに行くにはいくつも峠を越すが、Mimbulu村を過ぎて次の峠の丁度頂にその店があるからだ。農場の入り口になっている。
有機農法かどうかは知らないが、農場には乳牛、豚、鴨、鶏等がいるそうだ。そこでとれた新鮮な野菜、牛乳などを使って、パン、パイ、菓子、ベーコン、ハム等を店に出している。

「峠茶屋」の帰り道、これまで見つけていた他の農場、ranchやfermeと看板が出ているところで立ち寄って行こうとしたが、どこもぬかるみと水溜りが多い道で、行きかけて途中で諦めた。いくら四駆でも一人で立ち往生してしまっては困る。乾季になってから訪問してみよう。

Le 8 mars 2010, lundi
今日は「女性の日 Journée de femme」。ルブンバシの目抜き通りは交通規制となり、多くの女性がデモ。お祭りである。お陰で遠回りをさせられた。デモに参加するという女性警官Françoiseをキプシから車に乗せたが、彼女は「男の日はないわね。だって今日を除いて毎日が男の日なんだもの」。

2月15日に引き続いてSodimicoを訪問。
Songasongaさんからお墓のことを聞いた。日本鉱業がSodimizaを運営していた10年間に日本人従業員で亡くなった方が10名ほどおられるという。彼らがルブンバシ市の墓地に埋葬されている。今は訪れる人もなく荒れ果てているという。なんとかならないものだろうかというのである。これは全く新しい事実で、日本鉱業は存続会社があるものの、当時の関係者は、既に30年前のこととて、リタイアされているだろうし、世代も大きく交代している。亡くなられた方たちの家族はどうされたのだろう。分骨して日本にお墓をつくられたのだろうか。調査しますとSangasongaさんに答えたものの、どこから手を突ければよいものか。とりあえず、市の許可をとって墓地をみることにする。

その後、Sodimico社の社長チソラ氏(Laurent Lambert Tshisola)にお会いした。彼からSodimicoの現状を聞いた。Musoshi現場を見学するのはいいが、現在殆ど動いていない。採掘もしていないし、加工もしていない。パートナーがいて、Kisendaに重点をおいている。Musoshiの工場を解体してKisendaに移設しようとしている。Sodimicoはこれに必ずしも賛成していないが、一部実行されている。従って見学してもノスタルジーの意味しかないかもしれない。

2006年当時ここの柔道家たちが練習をしていたジム(柔道だけの練習場ではないので道場とはいえない)を訪ねた。既にそこにジムはなく、同じ建物が倉庫になっていた。柔道家たちは、Gecaminesの運動施設に移ったのだそうだ。

ポルトガル人の経営するキプシ街道の農場見学は乾季だけだとわかった。来月か再来月見学することにする。確かに雨季はぬかるみが多いから、たとえ四駆でも立ち往生しないとは限らない。

マンガン鉱を採掘している国営企業EMK(Entreprise Minière Kisengei)の本社で、営業部長イルンガFaustin Ilunga氏と面談。ここもなにか幽霊会社のような雰囲気。カタンガの東部、アンゴラ国境から100kmの地点にあるKisengeでマンガン鉱を採掘しているものの、輸出する手段が今のところない。東部の港、タンザニアのダル・エス・サラムや南アのダーバンなどから輸出するには内陸輸送費が嵩み過ぎて、競争力が全くなくなってしまうので、これまで試みたことはあるが現在諦めている。Angoraの港ロビトLobitoから出せば競争力があるのだが、アンゴラ内戦が終わっても鉄道輸送ができない。コンゴ側の鉄道の老朽化とアンゴラ側の鉄道の復旧工事の目処が立っていないためである。トラックによる輸送は道路事情が悪く考えられない。輸出できないまま、採掘は進行しており、40万トンも輸出readyの形でKisengeサイトに溜まっている。Kisengeへのアクセスは陸路(ルブンバシから709km)で2日(KolwesiまたはMutchatchaで宿泊)あれば可能であるが、車は四駆。Kolweziから東の道はジープでのみ走行可能。従ってKolweziから出しているコバルトや銅などのようにトラック輸送はできない。空路のアクセスは可能。サイト内に空港がある。ただし、定期便はない。チャータ便のみ。マンガン鉱の質が高く、その意味でガボンのマンガン鉱山よりも評価されている。電池用にマンガン鉱を二酸化マンガンに現地で加工して、即ち付加価値をつけて輸出しようとの考えがある。しかし、僕の考えでは、付加価値をつけるのはいい、しかし、それで競争力ができてもインフラの欠陥分だけ利益率が下がるのであって、付加価値をつけるにしても、先ずインフラを整備することが先である。EMKはパートナー探しに懸命であるようだ。Kisengeでは金もとれるらしく、この金採掘ではUKのGold Fieldとリサーチ契約をした。
結論として、Lobito港から輸出する以外ない。そのための鉄道整備が出来るのは中国か日本か。

Mimbulu村を通って帰る途中、例の「伝統的リーダー」カポンダDamien Kaponda氏に会いにいった。突然のことなので、今週中か来週中のアポイントの申し込みをしようと思ったのである。ところが、10分ほどして、今会うとの返事。
家はコンクリの平屋。その庭に長方形の東屋があり、その中で接見ということになった。建物もシンプルだが、ご本人もとてもシンプルな方であった。酋長などというのはやはり失礼だ。普通のおじさんといった感じ。青い格子縞のシャツとベージュのズボン。前歯が抜けているのが愛嬌。にこやかに「よく来た。カタンガの生活をエンジョイしてくれ給え。伝統の祭りがあるときは招待するよ。是非一緒に踊ろうじゃないか」。キプシの僕の家の隣に飲み屋があるが、そこがカポンダ氏の所有する棟で、上がりが彼の小遣いになるのだそうだ。「そうさね、ザンビアのNdola(コッパーベルト州の州都、国境から南西へ150km)の人々も自分のことを伝統的リーダーとして敬ってくれるよ。国境は関係ないね」

Le 9 mars 2010, mardi
市役所でJean-Pierre Ilunga Ngwej 環境部長と2月8日に続き面談。市のゴミ処理について伺った。
公道は州が担当している。約750名の清掃員がいる。市の方はというと、清掃車は2台しかなく、あとはリヤカーで家庭のゴミを集めている。しかし市も州も集めたゴミは郊外の指定した場所に捨てているだけである。問題はゴミの選別ができていない。清掃手段が限られている。
汚水については、以前は3箇所の下水処理場があった(Av Pleine/Salama/Kenya)。しかし一箇所(Salama)を除いては再建も不可能。Salama下水処理場は修理可能。いずれにせよ汚水は結局のところ現在未処理で河川に垂れ流されている。
対策は如何。フルンバシ市はRDC最大の銅産出実績を持つAnvil Mining社(オーストラリア・カナダ系)の協力を得て2007年に5ヵ年計画を策定した。その環境プロジェクトの部分をコピーしてもらって入手した。計画は立てたものの、実施ができない。その最大の原因は資金不足である。資金の裏づけなしに計画を立てたわけではない。しかしたとえば家庭廃棄物に対する税金は廃止されてしまったし、第一個人で納税しているひとが少ない。企業の税金は国が吸い上げてしまって地方に約束された額(国税の40%)が返って来ない。従って計画は、その対策予算も地味で質素にも拘らず全く実施されていないといって過言ではない。

Colonel Kunda氏の事務所に行く。今日はベレーをかぶり制服をきていた。さすが貫禄。キプシのDGM(イミグレーション)で出国査証をとりたいので仲介して欲しいと頼みに行ったのである。快く引き受けてくれた。

マドンナの首輪を買った。家でつけてみるとまだマドンナには大きすぎた。しかし、身体は確実に大きくなっている。背伸びをするとかなりのところまで届く。今日はトイレに入り、トイレット・ペーパーを持ち出して歯で切り刻んでしまった。悪戯も度が過ぎるなぁ。

07 mars 2010

3月2日~3月6日まで du 2 mars au 6 mars 10

Le 2 mars 2010, mardi
マドンナを予防注射に連れて行った。場所はMePharTech(犬のためのアクセサリーを売っている店)のDidier君が教えてくれた大学病院の獣医科。しかし獣医さんは彼のリコメンドしたひとではなく、飛び込みで行った結果、獣医科長Ilunga博士になった。施設はベルギー時代のもので、いかにも伝統ある大学病院という感じ。Distemper(仏語はMaladie de carré、Morbillivirus)予防等5種のワクチンを左太ももに注射した。マドンナは行きがけ車に酔い嘔吐した。帰りは助手席で大人しく横になっていた。ワクチンの副作用か家でもえらく大人しくしている。
ワクチンは米国Pfiser製。コンゴ獣医協会(Association des médecins vétérinaires du Congo)の健康手帳を発行してくれた。35ドル。Didier君の推薦した獣医は彼の親戚とわかった。その獣医はもっと高い料金を電話で話していた。Ilunga博士、いい先生と知合えたといえよう。月末には狂犬病予防注射を打つことにした。

Le 3 mars 2010, mercredi
Kipushiの警察署長に表敬訪問する筈が、Norbertさんがとったアポイントをイヴェントがある由で署長から突然キャンセルされ、一日家でネット。ホーム・ページを更に修正。ブログ『アフリカの星』、『日本カタンガ協会』更新に時間をあてた。

Le 4 mars 2010, jeudi
ザンビアのルサカから帰国したKyungu氏と会合。姉妹都市の件またゴミ処理の件で市役所とのアポイントを頼んだ。

圧力釜に続いてrice cookerを買ってしまった。パスタに飽きたときご飯を炊くのがやはり普通の鍋だとしょっちゅう炊け具合見ていないといけないので面倒になってしまったから。

IMF(International Micro Finance) HOPEなる小口貸付機関を訪ねた。僕が泊まっていたサレジア会の向かいにある。NPOかとおもったがそうではなく、金融機関institut financierといっていた。いずれ銀行になるのだそうだ。本部は米国。創始者はJeff Rutt氏。サイトの記事を読んだが、キリスト教の教えと、この事業の関係が良く分からなかった。カトリックではない。
http://www.hopeinternational.org/site/PageServer?pagename=homepage
初めて借りるときは100ドルまで。その後個人の信用に応じて1000ドル程度まで無担保で貸してくれる。利子は18%。年率ではなく返済額に対する絶対利子である。年率にすれば54% となる。かなり高い。返済は1週間毎に行わなければならない。キンシャサ、キサンガニ、カタンガに拠点がある。既にコンゴで営業して5年目に入る。
「貧しいpoor」階層の人々で、小さな商売をしている人々が対象。このシステムは2006年ノーベル平和賞をうけたバングラデッシュのユヌスMuhamad Yunus博士が始めたと思ったが、事業としてこの金利なら十分成り立つはずである。貸し倒れを防ぐために、講(グループ)も作らせている。グループの誰かが未返済の場合、グループが返済をする。巧妙な焦げ付き対策である。

Le 5 mars 2010, vendredi
Kipushiの警察のトップ、クンダ大佐Colonel Kundaに会った。警察署には不在で、彼はバーを経営している。その裏にあるやはりコロネルが建設中のホテルで話をした。極めてオープンな人であった。制服を着ていなかった所為もあるだろう。クンダ大佐はむしろ事業家といってよい。ルブンバシとカスンバレッサにホテルを持っている。さらにキプシの湖の畔にレストランを開くのだといって、現場に連れて行ってくれた。大勢の職人が入って改装中であった。しかもこの日曜日にはもう開店する予定。このレストランを僕は良く知っている。去年6月Patrick君と来て、湖のある環境が気に入って、キプシに来ることを決めた場所だからである。80年代初めまでは鉱山会社Gecaminesの施設であった。ここが蘇る。しかし、こんな金がどこから出てくるのだろう。それは詮索すまい。いずれにせよ、大佐と面識ができて、この町では煩い警官にもうとやかく言われないで済むだろう。

マドンナが大暴れ。2時間ほど家を空けていた隙に、僕の部屋と台所は閉めていたはずなのに、僕の部屋に入り込み、屑篭をひっくり返し、電気スタンドを壊した。更に部屋の床にピピ(おしっこ)もしてくれた。罰に重営倉(僕の隣の暗い部屋、窓がない)にぶち込んでやった。しばらく反省してくれ。とはいえ営倉からでてきたらけろっとしているんだろう。懲りない奴だ。

Le 6 mars 2010, samedi
Kyungu氏と大使館missionのアポの件で打ち合わせ。

ルブンバシ市では毎週木曜日の朝が商店の掃除の日になっている。どこの店も木曜日は10時以降に開店する。だが、集めたゴミはどこに捨てるのだろう。償却していないようだ。木曜に限らず、リヤカーでゴミを集めている人たちがいる。商店や家庭の出したゴミを集めているのだ。その彼らに聞いた。郊外に捨てに行くのだという。必ずしも市が指定した場所ではない。そこで、ゴミ捨て場になっているところを訪ねてみた。ルブンバシ市の南西で、サレジア会が運営するサラマ学院(工学大学)の裏にあたるカマロンドKamalondo地区の道路脇やそのちょっと奥の空き地がゴミの山になっている。どうも不法投棄だ。市が指定したところは空港の方らしく遠い。近くで捨ててしまおうというわけだ。月曜日に市の環境部長とまたアポを取っている。市のゴミ処理計画を聞いてみよう。

スポーツ交流も大切である。スポーツが国際交流の突破口となることも多い。中国(北京)と国交がなかったとき、先ず卓球が交流の橋渡しをした。カタンガ州に柔道、空手、ウェート・リフティングなどの協会があるのだろうか。調査してみたい。

03 mars 2010

マドンナ 満2ヶ月 Madonna, 2 mois accomplis




マドンナが満2ヶ月(1月2日生)。僕のところに来たのは丁度1カ月前。まだ小さかった。それが見る間に成長。昨日ジステンパdistemper等混合ワクチン注射にルブンバシの獣医さんのところにつれていったとき、連れてきたときの箱にはとても収まらない。それでもまだ仔犬。悪戯盛り。僕の部屋には立ち入り禁止にした。お尻の斑点が可愛い。


僕の部屋 ma chambre




司祭が住んでいた部屋は東向きで採光がいいが、何故か薄いピンクの壁。それに合わせて蚊帳もピンクにした。日本ではアルピニストの行く山小屋ぐらいしかもう蚊帳を吊っていないのではないか。ピンクの蚊帳なんて、ルブンバシで初めて見た。
僕の机の上は東京でも、スイスでも、アルジェリアでも、どこでもこんな風になっている。Boseのスピーカがあって、プリンタとスキャナがあれば満足。
古い家にはコンセントが少ない。そこでこんな蛸足配線になってしまう。


我家 ma maison


借りた家はルブンバシの南西30kmの国境の町キプシKipushiにある。庭がとてつもなく広い。この写真は1月中旬賃貸契約を交わした頃のもので、まだ荒れ放題の庭である。今庭師アンドレさんがせっせと手入れを始めている。
家のペンキも剥がれてみっともないが、これも何れ白亜の殿堂にするつもりである。

02 mars 2010

2月25日~3月1日まで du 25 fév au 1er mars

Le 25 février 2010, jeudi
ネットが安定しない。繋がったり繋がらなかったり。

Kipushi郡のトップ(Administrateur de Territoire Kipushi、官撰)、カモナErnest Kamona氏を表敬訪問。Kipushi出身のKyungu氏夫人とその弟でKipushi中学の校長をしているルプタ氏が付き添ってくれた。警察か軍隊出身の官僚臭の強い男。しかし、挨拶をしておいて良かった。先週、スポーツ振興のNPO代表が来て早速サッカーの指導を始めたが、憲兵がきて不法滞在で逮捕したそうだ。僕の場合は、幸い調査員Robert氏が向こうから来たし、教会の敷地を借りているのでそう手荒なことはしないと思われる。第一、やっとではあるが3年間の滞在visaもDGMからおりている。
これから、警察署長、市長等にも挨拶する。なにしろカタンガ州に日本人は二人しかいないのだ。

昼間、比較的ネットが安定していたので、ブログ『アフリカの星』および『日本カタンガ協会』を急いで更新した。

デザートはパイナップルとバニラ・アイスクリームにした。美味い。パイナップル一本と「La Brioche」店で売っている箱入りのアイスクリーム。喫茶店で出てくるパフェの5倍の量があるかな。食べ過ぎて腹痛をおこさなければいいが。ルブンバシは高原なのにやはり南国なのだと実感する瞬間だ。

アルジェリアで一緒に働いたS氏が帰国帰任されるというニュースが入った。本当ならば大変なことだ。プロジェクトは人でもっている。衛星地上局を建てたとき、それはNさんだった。Nさんがアルジェリアに来なければ第二地上局は成約できなかったろう。こんどの高速道路プロジェクトではS氏は僕の恩人だが、彼がいなければトンネル工事が致命的打撃を蒙るだろう。三拝九拝して彼にいてもらうべきなのに、新任の区間工事責任者は自分に自信がありすぎるのだろう、それとも自分の小さな権力をひけらかしたいのか、いずれにせよ、誤った判断をしたものだ。

Le 26 février 2010, vendredi
公証人のところで定款にあってなお決まっていなかった役職(事務総長、会計主任、相談役)を任命する総会議事録に証明をしてもらって、それを銀行に提出した。これで銀行が口座開設に必要だとする全ての書類が整えられ、口座開設の運びとなった。

銀行名:BIAC (Banque Internationale pour l’Afrique au Congo)
支店名:Lubumbashi
住所:532, chaussée Laurent Désiré Kabila, Lubumbashi, Katanga, RDC
口座番号:330 432 600 01 (修正済み、3月1日の項参照)
口座名義:Association Katanga-Japon
口座名義人住所:547, Avenue Mpolo, Lubumbashi, Katanga, RDC
SWIFT:BIACCDKI
送金に際してはBiacのコルレス銀行を入れると間違いなく送金されるそうです。
コルレス銀行名:ING
コルレス銀行のSWIFT:BBRUBEBB
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これで東京の僕の口座からも必要資金を送金できる。また寄付、会費等も正式に受付可能となった。従って会計報告を順次していかなければならない。
会費・寄付金があつまるかどうか全く未知数である。

ルブンバシ大学当局に日本の大学と交流しようというレターを提出した。

Le 27 février 2010, samedi
「日本カタンガ協会」のホームページに銀行口座番号をupすると同時に寄付寄贈の要請、会員募集、会員申込書のページを作成掲載した。まだまだ修正が必要だろう。だが、とりあえずアップしておかなければ先にすすめない。

マドンナは凄い。どんなに怒られても、怒鳴られても、お仕置きを受けても敢然と悪戯に挑戦する。打たれ強い。怒られると、恨めしそうな顔をして僕を睨む。そうでなければ、「まぁ、いいじゃない、このくらい許してよ」と甘えに来る。
今日は初めて骨付きの肉を食事に出した。プラスチックの骨を半分に千切ってしまったほど歯が丈夫だからと思って、本物を与えてみた。喜んで骨を齧っている。マドンナに咬まれたら豪(えら)いことになるぞ。末恐ろしい奴じゃ。
そろそろワクチンを注射しなくちゃ。いや、僕にじゃなくて、マドンナに。

Le 28 février 2010, dimanche
今日が2月の最終日とは。2月は28日しかなかったのだ。

僕が借りたVillaは元は司祭の住宅だった。しかし、その前は?
もともとギリシャ人が住んでいた家とわかった。この辺には外国人がかなり住んでいたらしい。しかし、1974年のモブツの政策、zaïrianisation(ザイール化)によって外国人の資産(土地、家屋、企業等)をコンゴ人に強制的に譲渡させたときに、コンゴ人がオーナーとなった。それを教会があとになって買い上げたということである。
Zaïrianisationとは、独裁者モブツがアフリカ・ナショナリスムの衣を着て大向こうの受けを狙った政策だが、勿論ただ外国人(ギリシャ人、ポルトガル人、ベルギー人等)を排斥しただけで、コンゴにとって得るところが少なかった、否、失うものが多かった愚策の一つである。
敷地のなかに、その昔は使用人(馬丁、庭師、ボーイなど)を住まわせたボイェリーという小さな家がある。「ボイェリー」という言葉を英語、フランス語の辞書で調べたが単語としてまだ見つからない、収録されていない。Googleで “boyerie congo”で検索してみるとlogement au boyであると説明されていた。Wikipediaにも書きかけがあった。そのボーイの小屋を教会が司祭が亡くなってから二家族に貸したらしい。一見10人以上が、水道のない家に住んでいる。僕の家のサロンから見えるboyerieである。ということは向こうからもこちらが見える。教会は初め彼らを退去させるといっていたが、上手く交渉が運ばないらしい。垣根をboyerieの周りに回(めぐ)らすことにしたが、ゴミはそこらじゅうに捨てるは、僕の車に悪戯するは、邪魔くさい。隣人としての付き合いなどしたくない。引越し当初女中に雇ってくれと来たがとんでもない。

マドンナに骨付き肉とスープ、スープの中にご飯を入れて食べさせてみた。これも旨そうにたちまち平らげた。

Le 1er mars 2010, lundi
『日本カタンガ協会』のホームページに協会長Kyunguの挨拶文が載っている。そこにカタンガにはサツマイモがあるので焼き芋ができるとある。先日Mimbulu村で、そのサツマイモと称するものを買った。もともとサツマイモは特に好きではない。馬鈴薯(ジャガイモ)の方が好きである。カタンガのサツマイモの皮は白く中も白い。形状も日本のサツマイモとは異なり不揃いで、なんかの根には違いないと思うもののとてもサツマイモのように見えない。そこで洗ってから輪切りにして水煮にしてみた。すると段々と実が黄色味を帯びてきた。柔らかくなったところで皮を剥ぐと、サツマイモのように剥ける。味はというとサツマイモそのものである。してみると、原産地はアフリカかもしれない。日本へは17世紀に中国、琉球と渡ってまさに薩摩の国(鹿児島)に渡来したとある。ウガンダやナイジェリアが世界の主要生産地の一つに数えられている。

銀行から電話で、先週金曜日に発行した口座番号が違ったので直ぐに来てくれという。とんちきめ。
口座番号:330 432 600 01 (330 432 100 01ではなく600 01であるというわけ)。怖いね、バンカーがこれでは。これでホームページも修正だ。

ペットボトルなどプラスチック廃棄物を回収して洗浄、粒状にして再販するNPO、UMOJAを訪ねた。ルブンバシ郊外にそのプラントがあった。キンシャサでは既に稼動しているというが、ルブンバシではまだパイロット・プラント段階であった。洗浄用の水確保のために井戸を45M掘ったが失敗。まだ開梱されていない20フィートコンテナが2台敷地の入り口に置いてあった。今月10日に稼動予定していたが、僕の観察ではあと数ヶ月はかかろう。電気の安定的供給を受けるのも問題があるに違いない。しかし、アイデアはいい。仕事を創造することが出来、かつ自然界では腐食が難しいプラスチック(地中に埋めても土になるには100年以上かかるだろう)を処分できるのだから。プラスチック回収で生計をたてているひともキンシャサでは出ていると。
このNPOのパトロンはEUとISF(国境なきエンジニア、在ブラッセル)。ルブンバシ責任者のカボヤTomy Kaboyaさんは電気機械エンジニア且つルブンバシ大学で教鞭をとっている。