30 juillet 2010

7月29日 le jeudi 29 juillet 2010 レア・メタルの輸出他 export des métaux rares et précieux, etc

Le 29 juillet 2010, jeudi
快晴。

朝起きたら停電。午後16時半に帰宅したが停電のまま。やっと18時半になって通電。しかし、停電のあとのネットはいつもトラブル。今夜はネットができないかもしれない。

インディゴというのがある。Maryse Condé『セグ』の第三巻にセネガルのサン・ルイSaint Louisが出てくる。英語読みすればセント・ルイスだが、米国の話ではない。2回目にセネガルに行ったとき、首都ダカールで車をレンタルして260キロ余りの道を北上、サン・ルイに向かった。2008年の3月のことだ。道は舗装されていて気持ちがいいけれども、多くの村々を通るので時間はかかる。橋を渡ってサン・ルイの町に入る。サン・ルイは1957年までセネガルを含めたフランス領西アフリカの首都だった。さぞかし瀟洒な港町だったろうことは偲ばれる。ユネスコの世界遺産にも指定されているから、おいおい修復がすすむだろうが。
この港町からインディゴが他のアフリカの産物と一緒にフランスに輸出された。藍というか濃い青の染料は貴重だった。天然のインディゴはもう使われていないだろう。まだ使われているとすれば民芸品だけかもしれない。ジーンズに天然インディゴのものがあるのだろうか。アフリカは、プランテイション時代(植民地時代)以前からインディゴを染料としていた。
サン・ルイは、想像を逞しくすれば一見の価値があるだろう。美味いレストランが数軒あるから悪口はいわない。海の幸が豊富である。
コンゴRDCにもインディゴがあるようだ。

希少金属、金、プラチナなどを分析してくれる国営のラボCEEC(Centre d'Expertise, d'Évaluation et de Certification des Matières Précieuses)を訪問した。郊外にラボ、ルブンバシ市の中心街に事務所がある。いずれも新しいところをみると、米国など西欧の圧力を受けて、内戦の資金源といわれるレアメタルや貴金属の輸出ルートをリーガライズしようという政府の意図が見える。いいことである。
このラボが発行する分証明書および原産地証明書がないとこれらの金属はコンゴから正式に輸出することができない。料金は125ドル。48時間で書類を作成しているれるという。

7月28日 le mercredi 28 juillet 2010 紫キャベツ他 chou rouge, etc

Le 28 juillet 2010, mercredi
快晴。

8時半に停電。15分間。このところ毎日停電する。瞬時の停電も時々あるようだ。スタビライザーを導入しておいて正解だった。

料理の種類が限られてきたので、ネットを検索。紫キャベツ(赤キャベツ)を先日買ったはいいが、サラダには固そうなので使いあぐねていた。豚肉の赤ワイン煮込みをし、紫キャベツを上にのせて再び煮込むというレシピを発見。早速作ってみることにした。紫キャベツの甘酢漬けも作ってしまった。(写真はアボカドの中に赤キャベツをいれてみた。彩りがいい)

アボカドはマヨネーズかサラダ・オイルと酢で食べる。コンゴ人は場合によって砂糖を入れて食べる!
ワインは南アものも、フランスも日本並みにここのスーパーで売っている。フランスものでも日本より高いとはいえない。南アからワインを輸入しいる問屋のような店も見つけた。しかし、ワインもビールもあまり飲まなくなった。飲む相手がいないからだろうか。レストランで食事をしなくなったからだろうか。

28 juillet 2010

7月27日 le mardi 27 juillet 2010 TMB他 Trust Merchant Bank, etc.

Le 27 juillet 2010, mardi
快晴。

現金を15ドルしか持っていなかったのでBiac銀行へ。ところがATMが故障していた。午後になっても回復していなかった。そこで久しぶりにレバノン系TMB銀行(Trust Merchant Bank)に行ってみた。メルクマールとなるような白亜の殿堂のルブンバシ本店を今年1月に開設した。初めて行内に入った。銀行らしい銀行になった。ATMの画面上はマスタ・カードのみの表示だったがVisaカードが使用できた。Biacの連中はTMBでVisaが使えるようになったことを知らなかった。時間外の場合はゴルフ地区にある支店のATMが使えるという。これでもうひとつルブンバシが便利になった。

CCFに行って、M. Condé『セグ』第二巻を返却するとともに、休館になるものの何とか第三巻を貸して欲しいと交渉。一応31日までに返すということで第三巻を借りた。でも、第三巻は585ページもある。これまでは300ページ台だった。えらい厚い。31日までに読めるわけがない。ま、9月まで借りることにしてゆっくりと読もう。これは図書館員との暗黙の了解。

チコちゃん、僕が朝方から出かけて18時に帰ってきたものだから、興奮して遊びたくてしようがない。部屋を飛び回っている。一人でつまらなかったのだろう。

朝から鉱山省、通関業者等を16時まで休みなく回って疲れた。ここの人は殆どの人が昼食を摂らない。節約なのか習慣なのかよく分からない。空腹をバナナ一二本で紛らわしているようにみえる。習慣となれば、空腹感もなくなる。僕も家にいるときしかランチをとらなくなった。だから、本誌で僕の写真を見た人に「痩せたね」と云われたのかもしれない。

7月26日 le lundi 26 juillet 2010 アシャンティ他 Ashanti,etc.

Le 26 juillet 2010, lunci
快晴。風あり。

一昨日の本誌キバリ金鉱山開発に関する記事で、AngloGold Ashanti社が出てきた。この「Ashanti」というのが気になっていた。マリーズ・コンデ『セグ』の中でアシャンティが登場する。主人公がアシャンティの軍に入り英国殖民地侵略に抵抗するのである。アシャンティとは11世紀から12世紀にかけてバンダマ川とヴォルタ川に挟まれた地域に移住してきた民族の名前でありその言語、王国である。1824年には金鉱に魅せられてやって来た英国を一時撃退する。「ボンサソの戦い」である。その後英国が軍隊を投入して平定してしまう。現在のガーナにあたる地域だ。会社にその名が冠されている理由は、ホーム・ページをみて判明した。前身はAshanti Goldfields Co.で1897年にガーナで設立されている。1996年にはNSEにアフリカ企業として史上初めて上場を果たしている。2004年AngloGold社と合併した。会社の名前としてアシャンティとは勇ましいように思う。いい名前だ。是非AngloGold社にはその名を残しておいて欲しい。 (写真はネットからとったものだが、歴史上の姿の復元である)

これを書いているとき、9時半停電。モニターにベランダのランプのスイッチを入れておいた。15時頃回復。ちょっと長い停電だった。
昼は灯油コンロで湯を沸かした。初めて実際に使用した。灯油はあまり蒸発しないのか、まだまだ燃料が残っていた。火力は悪くない。キャンピングでも使えそうだ。

白い蚊帳になってから、チコちゃんはあまり蚊帳に爪を立てなくなった。色が関係するのだろうか。

26 juillet 2010

7月25日 le dimanche 25 juillet 2010 「マレの反乱」他 Révolte des Malés, etc.

Le 25 juillet 2010, dimanche
曇のち晴。

トイレに誤って靴下を洗濯に使った汚れ水と一緒に片方だけ流してしまった。去年10月パリのレ・アールにあるスポーツ用品店の特売で買った靴下だ。トイレの管が詰まる方が心配だったが、大丈夫なようだ。残った片方は干して残しておく。同じものをセットで買ったから、他の靴下が穴でもあいたら補える。

マリーズ・コンデ『セグ』第二巻を読み終えた。この巻も面白かった。次が楽しみだが、第三巻はCCFの夏休み明け9月にしか読めない。
第一巻の終わりのほうで、「マレの反乱」が出てくる。ブラジル黒人奴隷の抵抗である。主人公の一人が巻き込まれて、裁判にかけられ、死刑宣告を受けて執行される。彼は首謀者でもなんでもなかったのだけれども。
マレMaléとはナイジェリアからみたマリ国、マリ人を指す言葉だが、ブラジルのバイアSalvador do Bahia(ブラジルの北部大西洋岸の町、現在はブラジル第三の都市)ではイスラム系黒人奴隷を指した。1935年1月、ラマダン月にマレたちが奴隷解放を叫んで立ち上がった。世に言う「マレの反乱Malé Revolt」である。この抵抗反乱運動は、史上初の黒人国ハイチの独立に触発された。ハイチが1804年に独立宣言をした。反乱は直ぐに鎮圧された。ブラジル自身が独立宣言をしたのが1822年、独立が認められたのは1825年になってからのこと。ブラジルが奴隷廃止をしたのは1851年であった。
ネットで「マレの反乱」を検索すると、英語、ポルトガル語、スペイン語ではサイトがヒットするがフランス語は少なく、また日本語では全くない。
(写真は現在のブラジルのバイア市バラBarra地区、今や観光地でもあるようだ)

18時ころからネットの調子が悪い。午前、午後とかなりまともだったというのに。Vodacomには優秀なメンテのエンジニアがいあにのだろう。そこらの専門学校出の、口ばかり達者なガキに振り回されているのだろう。給与も悪いかもしれない。これは経営者にしっかりした哲学がないからだ。トレーニングも形だけでおわっているのだろう。顧客サーヴィス精神を叩き込まなければいけないというのに。

中国の外交団がまたコンゴに来た。中国外交のトップ戴秉国(DaiBingguoたい へいこく)が率いるミッションだ。24日土曜日にカビラ大統領と会談している。中国は長期的戦略をもってアフリカ外交を実施している。日本は経済関係も、外交も遥かに出遅れている。
Arrivée à Kinshasa du conseiller d'Etat chinois pour une visite officielle
Le conseiller d'Etat chinois Dai Bingguo est arrivé vendredi soir à Kinshasa, pour effectuer une visite officielle de trois jours en République démocratique du Congo (RDC). La visite du responsable chinois intervient dans le cadre de la concertation politique entre les deux pays amis et du raffermissement des relations de coopération.
Selon le programme, M. Dai s'entretiendra samedi avec le président congolais Joseph Kabila et le Premier ministre congolais Adolphe Muzito.
Durant son séjour en RDC, M. Dai va aussi visiter le boulevard du 30 Juin, la place du Palais du Peuple et l'hôpital du Cinquantenaire à Kinshasa, qui sont tous construits par des entreprises chinoises.
Avant d'arriver en RDC, M. Dai, à la tête d'une délégation chinoise de haut niveau, s'était déjà rendu en Ethiopie, en Algérie et en Guinée équatoriale.
La RDC est la quatrième étape de la tournée de M. Dai dans cinq pays africains, il doit encore visiter la Zambie.

25 juillet 2010

7月24日 le samedi 24 juillet 2010 新金鉱山開発(オリエンタル州キバリ)他 nouvelle exloitation du gisement d'or à Kibali (Orientale, RDC), etc.

Le 24 juillet 2010, samedi
曇のち晴。

ラジオを聴く。BBCアフリカ(英語、フランス語)、オカピ(国連、主としてフランス語)、国営(フランス語、リンガラ語、スワヒリ語)等々FM局が目白押し。

朝、家を出てから1000mも行かないところでパンク。前輪右。30分ロスした。丁度ジョギングをしていた青年が、「May I help you ?」と英語で話しかけてきてタイヤ交換を助けてくれた。John君。ミンブル村のイヴェント参加のために来ていた歌手。聖歌を歌うようだ。午後タイヤを修理。Ivan君のところ。ネジ釘が刺さっていたのは僕も発見したのだが、タイヤを嵌めなおしてみると、もう一ヶ所空気漏れがあることがわかった。チューブレス・タイヤなので、ネジ釘が刺さっていた箇所をファンタの王冠のギザギザで削ってから、ゴムを貼る。なるほどね。手際はいい。修理代金4000FC(400円)。2ヵ所分。

コンゴRDCで新しい金鉱山開発。コンゴは掘れば金が出る?
BBCの記事によると、コンゴはウガンダに近いオリエンタル州キバリKibaliで来年中央から金の採掘が始まるそうである。採掘はRandgold社とAngloGold社の合弁会社が行う。埋蔵量320トン。アフリカ最大の金鉱山だとRandGold社はいう。鉱区にある教会や村は立ち退き、採掘会社が新たに建設する。オリエンタル州は不幸にして現在なお反政府軍と戦闘中であるが、安全はコンゴ政府が保障する。コンゴ政府は10%のシェア。
少なくとも地元住民がこの開発のお陰をもって、雇用、インフラ、租税収入等で潤うことを切に願う。
RDC: bientôt l'exploitation d'un gisement aurifère à Kibali

Ce serait l'une des plus grandes mines d'or d'Afrique. Selon Randgold, compagnie minière cotée à la bourse de Londres, la mine de Kibali serait sur un gisement d'environ 320 tonnes d'or.

La République démocratique du Congo est connue pour avoir des ressources minérales massives, mais la plupart de ses habitants vivent dans la pauvreté et la bataille pour le contrôle des mines a d'ailleurs été un facteur majeur dans le conflit qui a sévi dans l'Est du pays pendant au moins 16 ans.

Dans ce projet, selon le site internet de la compagnie Randgold, le gouvernement congolais possède 10% des parts, alors que Randgold et la companie sud africaine AngloGold ashanti en détiennent chacune 45%.

La future mine de Kibali est d'ailleurs située dans un coin excentré à l'est de la RDC, près de la frontière ougandaise. Une région proche de là où le groupe rebelle ougandais de l'armée de résistance du seigneur ou LRA, a opéré.
Mais la société a soutenu à la BBC que les forces de sécurité locales et la police avaient assuré que le projet pouvait se poursuivre.

Mark Bristow, le directeur général de Randgold a déclaré que le site minier serait sécurisé, et que l'exploitation de la mine devrait commencer à partir de la mi-2011. Pour le développer, Randgold a dû construire 180 km de route vers l'est, en direction de l'Ouganda.

Sur le site d'information sud africain Mining weekly, Mark Bristow a affirmé que « Kibali n'est pas juste un projet minier, c'est aussi un projet de développement d'infrastructures qui aura un impact positif sur tout le nord est du pays ».

La compagnie Randgold affirme qu'elle a obtenu le soutien de la Communauté locale, et ce malgré le fait que 15.000 personnes, une église catholique et un cimetière devront être déplacées pour les besoins du projet.

M. Bristow a déclaré a la BBC que les villageois vivaient, "dans des conditions très très pauvres" et seraient déplacés vers un nouveau village construit par la société.

7月23日 le vendredi 23 juillet 2010  北キヴ州の学校他 école au Nort-Kivu, etc.

Le 23 juillet 2010, vendredi
快晴。風やや強し。

車を洗った、というよりは拭いた。昨日交通警官(「黄シャツchemise jaune」と僕が名付けた連中)にまで「汚いね、洗えよ」と云われた。洗車をする少年たちがルブンバシの街角にはたくさんいる。小まめに彼らに頼めばいいのだが、いつも急いでいるし、代金をネゴするのが面倒だ、それにキプシ街道を走れば直ぐに埃だらけになる。しかし、流石に僕も汚いと思ったので拭いた。水が出ないから、川か溜池に行けばいいが、それも邪魔くさい。30分で綺麗になった。

再びマリーズ・コンデ『セグ』から。セグで話されている言葉はバンバラbambaraである。民族の名前でもある。今日もマリ国を中心として1000万人が使用する言語である。文字はなかったが、フランス統治時代に文字を作った。123文字もある。バンバラ語、マリンケ語、ディウラ語(この日誌にも登場したコート・ディヴォワールの作家アマドゥ・クルマの作品『Quand on refuse on dit non』に出てくる)とあわせると2500万人の言葉だ。スイスの第4の言語はロマンシュだが、これを話すグリゾン州の人々は40万人にも満たない。
コンゴRDCも多数の言語をもっている。フランス語が共通語になっているが、土着の言語としてリンガラ、スワヒリ、キコンゴ、チルバがある。しかし、細かく分ければ200以上の言語になる。首都キンシャサがリンガラ、ここカタンガ州がスワヒリである。リンガラは、多くの世界的にも有名な歌手を輩出しているキンシャサであるから、歌にのせてカタンガ州でも意味は通じるようである。モブツ独裁政権時代警察官や軍人はリンガラ語を強制されたので、リンガラ語をカタンガ州では嫌う傾向もある。スワヒリはタンザニア、ケニアの国語である。タンザニアではニエレレ大統領時代にスワヒリを国語として教育し英語を排した。そのため若い世代は英語が話せなくなった。ザンビアでは子供でも英語を上手にあやつる。

明治時代に日本は廃仏毀釈を行った。明治のごく初期である。しかし徹底したものではなかった。確かに一部の仏寺が襲われた。徹底していたら現在残る国宝の建物、仏像、絵画がそのとき失われていたろう。
しかし、ジハードは恐ろしい。イスラムの聖戦である。マリーズ・コンデ『セグ』第2巻第5部4章あたりから始まる「セグ」の崩壊である。フェティシズム(多神教)が一神教イスラムに淘汰される。セグはイスラムと和解しようとするが、和解したとみせてイスラム勢力がセグに乗込んで多神教の痕跡を抹消してしまう。コンデの迫力のある筆に圧倒される。彼女のこの本が出版されたのは1984年。アフガニスタンのタリバンが台頭してきたのが1994年、バーミヤン石仏を破壊したのは2001年であった。コンデがイスラム台頭を警告したとは思わないけれども立派なアラートになっている。
アルジェリアでも90年代に入ってイスラムがテロを始めた。大統領ブームディエンヌの失政である。社会主義路線に失敗したブームディエンヌが70年代末期になって、イスラム教育に重点を移したからである。アルジェリア第三の都市コンスタンティーヌにアフリカ最大といわれるモスケを建設した。ブームディエンヌは78年12月末に亡くなっているから、その路線を継いだシャドリ大統領の失政でもある。モスケが矢鱈と増えた。当時の子供たちの中からテロリストが生まれた。

コンゴ(RDC)の学校教育は憲法上の建前では無料である。しかし憲法は「絵に描いた餅」である。実施されていない。憲法にあって実施されていないことは多々あるが違憲審査の対象にもならない。行政が「金がないから出来ない」と云えばそれまでだ。学校の先生の給与も払われていない。ではどうするか。結局親が教育費を負担する。親も貧乏だから、現金で払えない親は現物支給をする。トウモロコシやマニョックを先生に提供するのである。
以下の記事(抜粋)では北キヴ州(ウガンダ、ルワンダと国境を接する州)のマシャンゴ村の学校の事情を報告している。
黒板に穴があき、屋根も同様。雨の日は休校。勿論電気・水道はない。教科書も数冊あるのみ。国家予算の8%しか教育費に当てられていない。国が教育費負担を出来ないから親が面倒をみる。子供一人について月5ドル。家庭は子沢山。親の収入は月50ドルに満たない。就学率は50%。3人に1人は学校に足を踏み入れたこともない。小学校卒業まで通える生徒は、世銀発表では子供の29%。先生の給与は低く支給も不規則だから、先生のなり手がなくなる。北キヴは他州よりも、内戦の所為で国内難民が発生し、教育事情が悪い。それどころか、反乱軍が子供たちを誘拐して兵士として使った。難民は学校の机や椅子を燃料として燃やした。内戦は終息しつつある。しかし、最悪の教育状況は続いている。
RDC: Là où les murs des écoles sont en plastique
Dusaba Mbomoya, professeur de géographie, avec ses élèves, à l’école primaire de Mashango
KIWANJA, 22 juillet 2010 (IRIN) - Il fait beau, aujourd’hui, à l’école primaire de Mashango, dans la province du Nord-Kivu, en République démocratique du Congo (RDC). C’est une bonne nouvelle pour Dusaba Mbomoya, institutrice, qui donne une interrogation de géographie sous un toit rongé de trous, dans une salle de classe dont les murs, en morceaux de plastique, claquent au vent. Ici, même le tableau est percé de trous si larges que les élèves peuvent regarder au travers.

« Lorsqu’il pleut, nous autorisons les élèves à rentrer chez eux », a expliqué Mme Mbomoya. Ceux qui veulent rester à l’école le temps que la pluie cesse de tomber se réfugient parfois dans les latrines, construites récemment par un organisme international.

La situation déplorable de Mashango se reflète dans d’autres écoles des quatre coins de la RDC. Elle est la conséquence de la guerre, mais aussi du manque chronique de fonds accordés au système éducatif – à peine huit pour cent du budget national annuel est alloué à l’éducation, selon la Banque mondiale. Mashango n’a ni eau, ni électricité, et ne dispose que de quelques livres. La plupart de ses salles de classe sont obscures et tombent en ruines, et le matériel d’enseignement y est limité.

Face au désengagement du gouvernement, Save the Children estime que les parents sont contraints de financer 80 à 90 pour cent de l’enseignement public hors de Kinshasa, la capitale, et ce alors qu’en vertu de la Constitution adoptée en 2006 par la RDC, l’éducation élémentaire est censée être gratuite.

Les salaires des enseignants ne sont pas versés : les parents doivent donc contribuer à rémunérer ces derniers par le biais de frais de scolarité mensuels d’un montant d’environ cinq dollars par élève.

Les familles étant nombreuses et le revenu mensuel moyen atteignant à peine 50 dollars, ces frais de scolarité sont tout simplement inabordables pour de vastes segments de la population congolaise – avec les graves conséquences que cela implique. Selon les estimations de Save the Children et d’autres, près de la moitié des enfants congolais, soit plus de trois millions d’entre eux, ne sont pas scolarisés et un enfant sur trois n’a jamais franchi le seuil d’une salle de classe.

Selon les statistiques 2008 de la Banque mondiale, le taux d’inscription à l’école primaire atteint 58 pour cent, et le taux d’abandon au cours de la première année s’élève à 20 pour cent. Seuls 29 pour cent des élèves de RDC valident leurs six premières années scolaires.

Les recherches de Save the Children ont révélé que le salaire des enseignants était tellement bas et tellement irrégulier que nombre d’entre eux avaient d’autres emplois, entre autres dans le secteur de l’agriculture, ce qui les éloignait des salles de classe et de leurs élèves.

La situation est particulièrement grave au Nord-Kivu, où des centaines de milliers de personnes ont été déracinées par plusieurs années de guerre. Certains habitants vivent dans des camps de déplacés ; c’est le cas de Laurent Rumvu, dont aucun des cinq enfants en âge d’être scolarisés ne va régulièrement à l’école. N’ayant pas de travail, M. Rumvu n’a tout simplement pas les moyens de les scolariser.
« Imaginez aller à l’école après le meurtre de vos parents »
« Nos enfants ne vont pas à l’école. Nous n’avons pas assez d’argent pour payer les frais de scolarité », a déclaré Laurent Rumvu, qui vit depuis 2008 dans un camp pour personnes déplacées à Kiwanja, sur le territoire de Rutshuru.

Saccagées

Les écoles de la région sont restées fermées pendant plusieurs mois fin 2008 et début 2009, lorsque des affrontements entre les soldats rebelles du Congrès national pour la défense du peuple (CNDP – aujourd’hui converti en parti politique) et l’armée congolaise ont éclaté, semant le chaos au Nord-Kivu. Les écoliers ont été recrutés de force dans les écoles par les milices et l’armée, qui ont en outre abattu ou enlevé des élèves et des enseignants, selon le Fonds des Nations Unies pour l'enfance (UNICEF). Les écoles ont été saccagées et nombre d’entre elles ont été occupées soit par des soldats, soit par des personnes déplacées.

A Mashango, Muhindo Mulenda, le directeur, a expliqué que des personnes déplacées dormaient dans les salles de classe le soir, quittant les lieux durant la journée pour permettre aux élèves de poursuivre leurs leçons. Les déplacés ont brûlé des pupitres et des chaises pour faire du feu, contribuant ainsi au délabrement des lieux, déjà en piteux état. Après la guerre, a-t-il dit, l’école comptait 120 élèves en moins.

A Kasasa, les soldats du CNDP ont occupé l’école pendant plusieurs semaines, accaparant des livres et causant des dégâts. Certains élèves ont été tués pendant les affrontements, d’autres ont subi des traumatismes, selon M. Nkunda. « Evidemment, la guerre a eu des répercussions », a-t-il affirmé. « Imaginez aller à l’école après le meurtre de vos parents ».

Thèmes: (IRIN) Enfants, (IRIN) Education

23 juillet 2010

7月22日 le jeudi 22 juillet 2010 Sabot Management Ltd, etc

Le 22 juillet 2010, jeudi
快晴。

朝方、1時間半停電。回復後コーヒー。

ラジオを買った。メーカーは「Akita」だって! 聞いたことがない。どうせmade in Chinaだろう。なにしろ22000FC(2200円)の製品だ。ラジオの設計は簡単。一流のメーカも三流もそう変わるものではない。品質が悪いのはスピーカと思う。それとチューニングの部分。アルジェリアで買ったラジオもチューニングが数ヶ月で出来なくなった。家でBoseのスピーカにつなげばいい。実際繋いでみるとアクセプタブルな音が得られた。
TVはまだない。TVがあると他のことが何もできない。今のところ買う気がない。

蚊帳を新しくした。今度は白。2700FC(270円)。

運送会社Sabot社(AFA社)を訪問した。ルブンバシ郊外。Volvoの新しいトレーラがずらっと荷を積んでヤードにならんでいた。400台所有。事務所はBoss Miningと同じ敷地の建物。責任者はベルギー人の女性部長De Moura氏。極めて明快な応対であった。フル操業で新しい顧客を受け入れる余裕がないといっていた。仕向け地は全て南アのヨバネスブルグ(ルブンバシから220ドル/T)かダーバン(250ドル)。普通ヨハネスブルグまで150ドルときいているから料金は高め。しかし、新車を配車しているからリライアビリティも高い。ザンビアのルサカに行ったときに、なにしろ街道途中でエンコしているトラックが数え切れないほどいるのを見た。みんな何時の製造年かわからないほど古い車である。キプシ街道でも同様だ。サテライトで配車・運行を管理。南ア、ナミビア、ロシア等が資本参加している。Boss Miningは南アのCamecグループが80%を所有する。SabotはこのCamecの孫会社。

2012年のフランス語圏会議開催国としてコンゴ(RDC)が名乗りを上げた。いいことだ。こうした文化やスポーツの国際会議を呼べる自信がついてきたということである。コンゴが安全な国であること、会議をオーガナイズできる力があることを訴える必要がある。
今年はスイスのモントルゥMontreuxで10月に開催。Montreuxは夏のジャズ・フェスティバルで有名である。レマン湖畔の美しい町だ。
La RD Congo confirme son engagement à organiser le XIVe Sommet de la Francophonie
A la demande du Président congolais Joseph Kabila, le ministre de la Coopération internationale et régionale de RDC, en charge de la Francophonie, Raymond Tshibanda N'Tungamulongo, est venu à Paris, le jeudi 15 juillet, pour rencontrer le Secrétaire général de la Francophonie.
Il a tenu à lui réitérer l'engagement des autorités de son pays d'organiser et d'abriter le XIVe Sommet de la Francophonie en 2012, conformément à la décision prise par les chefs d'Etat et de gouvernement lors du Sommet de Québec, en 2008.
Les deux responsables ont également échangé sur les préparatifs du XIIIe Sommet de la Francophonie, qui se tiendra du 22 au 24 octobre 2010 à Montreux (Suisse).

22 juillet 2010

7月21日 le mercredi 21 juillet 2010 イグナシアス・サンチョ他 Ignatius Sancho, etc

Le 21 juillet 2010, mercredi
曇。家にいるときに曇り空は珍しい。日が差してきそうな気配もある。
午後から晴れた。

ネットの調子は不安定。全く切れてしまうのではなく、接続が「細る」のである。「細る」とスカイプなどが出来なくなる。Downloadするために異常な時間がかかる。ま、切れるよりはまし。

マドンナが壊した玄関のガラスを修理している。ガラスは大きさを測り昨日調達した。パテで窓枠に嵌め込む。また壊されてはかなわないから、引越し間際までガラスを入れるのは待とうかな。虫は少なくなったからなんとかいけるだろう。

そういえば、蚊が少なくなった。しかし、一匹でもいれば刺される。昨夜も数ヶ所刺された。蚊帳に大きな穴が開いている。マドンナは外に出したから、こんどはチコちゃんが爪をかけて随所に穴をあけてくれる。新しい蚊帳を買おう。

日本大使館に草の根援助申請書を書かなければならない。大使館の方がメイルで申請書を送ってくれた。「日本カタンガ協会」は援助を受けた実績がないからなぁ。しかし、実績がないとはいっていられない。先ず、フランシスコ会の産院、柔道の先生の招請、キプシの小学校の校舎増設、その他一件一件依頼しなければ。頼みの綱である。

Ignatius Sanchoという歴史上の人物を知った。マリーズ・コンデ『セグ』第2巻に出てきた。この本の影響は暫く続く。
イグナシアス・サンチョは、アフリカから南アメリカに渡る奴隷船の中で1729年に生まれた。後の作曲家、俳優、作家、ジャーナリストである。黒人の英国人として始めて選挙権を得た。当時最も有名なアフリカ系英国人になった。18世紀の王室画家Thomas Gainsboroughが彼の肖像画を描いている。奴隷解放運動の象徴でもある。英国がフランス他の先進国に先駆けて奴隷制を廃止したのはサンチョの死後1807年のことであった。Sanchoは、ジャマイカ生まれの黒人Francis Williamsと同じく、英国公爵ジョン・モンタギュにより教育を受けている。この公爵が英国で初めての孤児院を設立している。
作曲家としてのサンチョは歌曲、フルート、バイオリン、ハープシコード等のための62曲を作った。ネットで彼の曲をいくつか聴くことができる。
http://sanchomusic.tripod.com/
音楽理論も出版している。死後書簡集が出版されベスト・セラーとなった。俳優としては成功しなかったようだ。
しかし、彼の仕事はアフリカ文化と関係がなさそうだ。アフリカで生活したことのない彼である。サンチョの貢献は、人種が違い、肌が黒かろうが、教育の機会さえあれば、英国人(白人)に劣らぬ仕事ができることを、その人生をもって証明したことである。

21 juillet 2010

7月20日 le mardi 20 juillet 2010 通関業者他 agences en douane, etc

Le 20 juillet 2010, mardi
快晴。

朝、お湯を沸かし頭を洗い身体を拭いた。この家の湯沸かし器は諦めた。足も洗った。清潔になったようで気持ちがいい。

割と忙しい一日になった。
通関業者をまわってみたのである。僕の車を通関したBen Tshimenga(Kenex社)は論外とした。彼は古い体質のマフィアのような通関業者だ。何故あんなのを僕のために選んでくれたのか不可思議である。通関業者は街を歩いていても数多ある。
その中でステータスのある業者はしかし数えるほどしかない。あとは海千山千の乙仲だ。誰それ大臣を知っているとか、困ったときは将軍Xに頼めるとかいった裏技を得意としている業者。今日行ったのは、その手の業者ではなく一流どころを選んだ。
1)Comexas社
  ここには以前コピー機をヨーロッパの通販で買って持込を考えたときに見積もりをとったので担当者を知っていた。とった見積もりが高かったので採用はしなかった。それに不透明な数字が加えられていた。ベルギー系の会社である。
2)Trade Service社
  ここも別件で訪れたことがある。知事モイーズ系の会社。最大手だと自分でいうが内陸輸送は自分ではできない。しかし、運送会社として大手のSabot社やエルメス社を使っているという。要確認。
3)SDV Agetraf社
  数年前にフランスが1953年創立のコンゴ企業Transitra社を買収し改組した。有名なHavasのオーナーでもあるVincent Bolloréの会社だ。Vincent Bolloréはフランスの大統領サルコジの応援団。サルコジがボロレのプライヴェート・ジェットでマルタ島やエジプトに週末旅行をしてスキャンダルになったことがある。
ルブンバシのこの会社は、しかし、活気に満ちていた。自社所有のトラックがある。
以上3社以外に小規模な通関業者2人にも会った。彼らはベン・チメンガと変わらない。使いようによっては便利かもしれないが会社の体をなしていない。

スタビライザーを買った。偉い重い。電圧の変化にPCが耐えられなくなると困る。この国では必需品かもしれない。

夜、マドンナに食事を出したときに、玄関の戸をあけておいた。チコが庭に出たらしい。マドンナに追いかけられて恐怖のどん底。家の中に飛び込んで、僕の部屋の洋箪笥の隙間に、初めてこの家に来たときと同じように潜りこんだ。潜ったはいいが、どうやって這入りこんだかは知らないが、4月末に来たときよりも彼女も大きくなっている。今度は抜けだせなくなって、さぁ大変。

モエロ湖紀行の項(6月29日)で、キルワからドゥビエに向かう途中の町ルコンゾルワの修道会に助けられた乳児ドミニクのことを書いた。
下記の記事によれば、ドミニクと同じ運命にさらされている子供たちが、コンゴRDC、シェラレオーネ、ウガンダ、ナイジェリア、タンザニア等々の国々にいる。95%が男児で、畸形児、未熟児、白子また天才児が悪霊がついている、魔法使いだとして家族から親類縁者から阻害され迫害されているとユニセフが報告している。
それに便乗して米系プロテスタント教会の中でも、悪霊を祓うと称して危険な「治療」を施している例が挙げられている。ローマ教会は、今更そんなことはしない。
犠牲になるのは、いたいけな子供たちである。こうした後進性は打破しなければならない。伝統、大切な民間信仰などといって放置するのは犯罪である。
le martyre des "enfants sorciers"
Accusés de sorcellerie, certains enfants sont torturés pour les délivrer de leur mal supposé

Jeunes orphelins, handicapés, prématurés, albinos mais aussi surdoués sont accusés de sorcellerie dans le Bassin du Congo. Souvent, un pasteur ou un guérisseur les maltraite pour extirper le mal prétendument en eux. Un rapport de l’Unicef tire la sonnette d’alarme.
________________________________________
Mutilés, brûlés, tués, les enfants accusés de sorcellerie subissent un calvaire. Les jeunes orphelins, handicapés, prématurés, albinos mais aussi surdoués sont les plus touchés par ces croyances qui poussent leurs parents à les chasser du foyer. Le nombre d’enfants accusés de sorcellerie augmente à mesure que faiblit celui des personnes âgées dites sorcières. Ainsi, des milliers d’enfants « sorciers » joncheraient actuellement les rues de Kinshasa et Lubumbashi en République Démocratique du Congo (RDC) et d’Uíge et Luanda au nord de l’Angola, indique un rapport de l’Unicef publié le 12 juillet. Le phénomène concerne le Nigeria, le Libéria et la Sierra Leone, mais il se développe surtout dans le Bassin du Congo [1] et concerne essentiellement les garçons. Selon Emilienne Raoul, ministre des Affaires Sociales, de la Solidarité, de l’Action Humanitaire et de la Famille en RDC, les filles ne représentent que 5% des accusés.
Les enfants sorciers auraient le pouvoir d’agir à partir du monde invisible d’une manière néfaste sur le monde visible. Ils provoqueraient la diarrhée, le paludisme, la tuberculose ou le sida, et par conséquent la mort de leurs victimes. L’Unicef a interrogé des enfants accusés de sorcellerie. Ainsi, Roger, 10 ans, explique « Maman est partie très loin quand j’étais petit, je ne me souviens plus. Papa était très faible… Sa nouvelle femme me battait et m’accusait d’être un sorcier. Elle disait que je rendais papa malade. Elle m’a chassé. » Les enfants-sorciers sont également accusés d’attirer les malheurs tels que la pauvreté ou le chômage dans le foyer. Les albinos sont quant à eux parfois tués au nom de croyances attribuant des pouvoirs bénéfiques à certaines parties de leurs corps. Leur peau, leur langue, leurs mains, leurs oreilles, leur crâne, leur cœur et leurs organes génitaux sont utilisés dans la fabrication de potions et amulettes porte-bonheur en Tanzanie, au Burundi et en Ouganda.
La guérison passe par la torture
Au nom de Dieu, les pasteurs‐prophètes des églises indépendantes, prophétiques et pentecôtistes luttent contre la sorcellerie. Ils détectent les sorciers grâce à des visions et proposent ensuite de les « délivrer » contre une coquette somme d’argent. « Quand un enfant arrive ici, je vérifie d’abord l’état de son âme, explique la prophétesse Maman Putu, de l’Eglise pentecôtiste Eben Ezer à Kinshasa. Je suis non seulement prophétesse mais aussi visionnaire. Je commence par prier avec l’enfant, ensuite je lui pose quelques questions sur ses rêves, sur sa situation alimentaire. J’ai des repères, je perçois très vite si un enfant est envoûté ou pas. » Le traitement « spirituel » ne peut commencer que lorsque la confession de l’enfant a été extorquée. « Pendant trois jours, on n’a pas eu le droit de manger ni de boire, explique Bruno, accusé de sorcellerie. Le quatrième jour, le prophète a placé nos mains au‐dessus d’un cierge pour nous faire avouer. Alors j’ai reconnu les accusations et les mauvais traitements ont pris fin. » Les pasteurs proposent de délivrer l’enfant par des séances extrêmement violentes. Glodie Mbete, âgé de 11 ans se souvient : « Un pasteur m’a brûlé le corps avec des bougies. Une autre maman prophète m’a couvert le corps de drap rouge. Dans une autre église encore, on m’a versé dans les yeux de la sève tirée d’un arbre. Cela piquait très fort. Le guérisseur avait dit que la sorcellerie était partie. J’avais si mal aux yeux. » Si l’enfant survit à ce traitement « spirituel », il sera stigmatisé comme étant sorcier et rejeté par sa famille.
Certains médecins traditionnels prétendent aussi être capables de combattre les forces occultes du monde invisible. Pour obtenir la confirmation du mal, ils font ingérer de force aux enfants des potions à base de plantes toxiques qui peuvent être administrées dans les yeux ou les oreilles. Ces procédés « thérapeutiques » génèrent des vomissements ou des défécations qui sont interprétés comme la preuve d’une présence sorcière ou comme celle de l’efficacité du traitement. En République centrafricaine où la sorcellerie est définie comme étant une substance dans l’abdomen de l’enfant, le médecin traditionnel découpe le ventre de l’enfant avec un couteau non stérilisé et ampute un petit morceau de son intestin, symbolisant la sorcellerie. Les enfants sont ainsi « nettoyés ».
Devant la multiplication des cas, les ONG se mobilisent contre la marginalisation des enfants, accusant les dirigeants des Églises, les pasteurs et certains médecins traditionnels de maltraitance et cherchent à réinsérer les jeunes victimes. Le Comité pour la protection de l’enfant de la province de Zaïre en Angola cherche ainsi à identifier rapidement les cas d’accusations de sorcellerie et à trouver des solutions de réconciliation. Sur les 423 enfants amenés dans le centre, 380 ont été réintégrés dans leurs familles.
[1] 1Cameroun, Gabon, Guinée équatoriale, Congo Brazzaville, République Démocratique du Congo et Centrafrique

7月19日 le mardi 19 juillet 2010 リベリア他 Libéria, etc

Le 19 juillet 2010, lundi
快晴。

プリンタの設定を終えた。ソフトの設定が全てネットに通じていないとできないことが多い。
ネット環境が悪いところではこれが困る。

リベリアLiberiaは、USAが開放されたアフリカ系奴隷を居住させた国である。勿論彼らがアメリカから移住してくる前に先住民がいた。中東のイスラエルを建国したシオニズムと似た状況である。アフリカ大陸でもっとも早くに独立した(1842年)。現在はアフリカではじめての女性大統領を戴いている。
リベリアは農業国だが、その最大のプランテーションのオーナーは日本のタイヤ・メーカ「ブリジストン」であることを知っている人は少なかろう。アメリカのタイヤ会社をブリジストンが買収した結果である。またリベリアはタックス・ヘイブンparadis fiscalでも有名だ。
アメリカ大陸に売り渡されたアフリカ人が、実は他の国にも帰ってきている。英国が奴隷制廃止を決めて、ブラジルやジャマイカ等からアフリカに戻った人々が、ベナン(元ダホメイ)、ガーナ、ナイジェリア、シェラレオーネなどで独自の社会を形成した。19世紀も20年代のことである。出身地に戻れないケースが多いようだ。世代の交代、獲得した生活習慣の違い、異部族間の婚姻などが原因と思われる。そんなことをMaryse Condéの『セグSégou』第2巻を読んでいて教えられた。そういえば、パリ大学時代、僕のいた大學都市Cité universitaireのモナコ館にマルティニーク出身の学生たちがいたが、セネガルの学生たちと仲がよくなかった。お互いを馬鹿にしていた。

妹さつきのブログによれば、彼女は今パナマに滞在中だが、パナマのPortobelloという海岸線の町で「コンゴ」というダンス、歌、音楽があるそうだ。奴隷解放を祝う「コンゴ」らしいが、コンゴから特に来た奴隷というわけではない。パナマもアフリカ、イベリア半島、アラブ、インド、アジアが混じっている。そうした混血文化からこの「コンゴ」が生まれた。
16世紀初めからアフリカ黒人が奴隷としてパナマに送られている。その後パナマはアフリカ人奴隷の中継貿易拠点となった。
レセップスがパナマ運河建設工事を開始したのが1880年であった。フランスは建設を諦め米国が建設していくのだが、労働者はアフリカからの奴隷の子孫たちとカリブの島々のアフリカ系の人々の移民とで構成されていた。16世紀初めからアフリカ黒人が奴隷としてパナマに送られている。その後パナマはアフリカ人奴隷の中継貿易拠点となった。

http://blog.goo.ne.jp/satsuki555may/e/96ddc806637080047794686ffea38570

19 juillet 2010

7月18日 le dimanche 18 juillet 2010 トイレの話(1)toilette (1)

Le 18 juillet 2010, dimanche
快晴。やや風強し。

Outlookメイラーの設定がやっと出来た。またMSMはサイズが大きくdownloadできず、アスンタさんのところでUSBメモリにプログラムをdowmloadし、これを家に帰ってからinstallした。少しづつ前のPCの状態に復帰している。ネットは相変わらず不安定だがなんとかメイルもSkypeも使える。今朝のネットの調子はまぁまぁ。

人に貸したPCのHDを取り出して調べたら、渡したときに入っていた僕のプログラムが全部消されていた。最低。数種類の辞書が入っていた。古いメイルのアーカイヴもあった。消すなといったのに消してしまう神経が分からぬ。あれで、毎日教会に通っているのだから、どこに良心があるのだ。教会といってもプロテスタントのペンテコステ派。このプロテスタントも米国発祥だ。

日本では各地で梅雨明けで水の事故で亡くなった人がいる。子供や若い人がこうした自己で亡くなるのは痛ましい。僕の友人でも、大学を出て朝日新聞社に就職して翌年だったと思う、確か静岡の海で亡くなった。親御さんはどんなに悲しんだことか。溺れるというのは本人もきっと苦しいのだろうが、あとに残された家族も苦しい。彼のことは夏になるといまでも思い出す。

Windows7もいくつもの作業を同時にやらせると固まる。ダメだなぁ。特にネットが途中で切れてしまうと対応出来ずにループしてしまうことがある。

トイレの話(1)。
尾籠な話で申し訳ない。しかし、生活の一部である。トイレのない家はない。それでも家の中にトイレが設置されたのは歴史的に見ると割と近代のことだ。ついこの間までフランスの田舎ではトイレが別棟であった。フランスに限らずスペインでも同様だった。夜、外のトイレに行かないで用を足すためにpot de chambre(部屋のポット)とかvase de nuit(夜の壷)とかを使用した。とてもそのためとは思えない豪華な壷を使用する上流家庭もあった。パリの蚤の市などでこの種の壷を求めて、食卓に出すようなことがないようにお気をつけあれコンゴではこの壷をみたことがない。あるはずだと思うがまだ不明である。ルブンバシには骨董屋がない。骨董の需要がないとは思えないのだが、骨董は生活必需品ではないから市民の生活には直接影響がない。。(写真のvase de nuitは骨董ではないと思われるが470ユーロ=5万円以上でネット販売していた)。
Soco Internationalがバコンゴ(キンシャサの西の州)で原油を採掘し始めた。Soco Internationalは英国の石油会社。海岸線に近いカコンゴ川の河口近くのようだ。
samedi 17 juillet 2010
RDC : forage du premier puits de pétrole par SOCO International au Bas-Congo
Le forage du premier puits de pétrole par la société pétrolière SOCO International sur le site d’exploitation de Kipholo Mvumbi, dans le secteur de Kakongo, territoire de Lukula de la province du Bas-Congo en République démocratique du Congo (RDC), initialement prévu le 1er juillet, a été fait vendredi.
Les informations recueillies vendredi au ministère congolais des Hydrocarbures relèvent que c’est le vice-Premier ministre congolais, Simon Bulupiy Galati, qui a procédé au lancement du 1er forage pétrolier à Kai-Nganga, dans le bloc Nganzi, au Bas-Congo, au cours d’une cérémonie organisée par la société SOCO international.
Le ministre des Hydrocarbures, Célestin Mbuyu Kabango, a indiqué à cette occasion que l’inauguration de ce puits pétrolier constitue la réalisation d’une campagne sismique qui a permis de mettre en évidence des prospects qui constituent des objectifs à forer à partir de ce jour, souligne la même source.
Le premier protocole d’accord entre la RDC et SOCO portait sur l’exécution d’un projet d’acquisition des données aéromagnétiques et gravimétriques visant la connaissance de l’allure générale du socle ainsi que l’épaisseur des sédiments sur l’ensemble des ex- rendus FINAREP. Le contrat de partage de production (CPP) avec la RDC a été approuvé par le président congolais en 2008.
Outre la réalisation de son objet social, SOCO s’attelle également, conformément aux accords de partenariat signés avec l’autorité provinciale du Bas-Congo, à la réhabilitation de la route et des ouvrages d’art qui mènent de Lukula à Kipholo Mvumbi, sans oublier diverses actions sociales, notamment dans les domaines de la scolarisation des enfants et des soins de santé en faveur de la population locale. (Xinhua)

7月17日 le samedi 17 juillet 2010 金属取引 transaction des metaux

Le 17 juillet 2010, samedi
快晴。

キプシは停電が少なく電圧も安定しているとはいうけれど、今朝も数秒の停電があった。これはPCにはよくないようだ。ルブンバシのアラン君の家では電圧の変化に耐えられずTVを2度壊してしまったらしい。今はTVやPC、冷蔵庫にはスタビライザーを通して電気をとるようにしている。なるほど。僕もPC用にスタビライザーを導入しようかな。120ドルだけれど、本体にダメジを与えるよりも予防策をとった方が賢明だ。

1月末に貸したDELLのPCをやっと返してもらった。信じられないほど酷い状態で返ってきた。もともと具合が悪かったとはいうものの、DVDリーダが取り外されている。電池も弱くなってきていたのは確かだが、全く充電できなくなった。12Vに落とすトランスがない。今日返すにあたっても、修理に出しているとか、状態が悪いから新たに類似品を買って返したいとか、四の五の云っていた。僕はどうしても今日は返してもらおうと粘った。じゃ、来週なんていっていたら何時になるかわからない。もしこのDELLのHDに僕の入れたデータが残っていれば御の字だと思う。果たしてどうか。

引越し先候補の大家アガータさんにルブンバシであった。借家人が出て行かないので係争中。強制退去手続きに踏切ったという。2ヶ月間仮に貸したのが12ヶ月にもなっているのだそうだ。簡単に強制退去なんてできるのかな。この家はノルベールさんとも何回か見に行って割と気に入っている処だ。使用人小屋の出入り口が母屋とは別になっている。左隣が小さな小学校なので昼間は五月蝿いかもしれない。庭は今いるところよりやや狭いが、植込みに囲まれたサン・バシングするに都合のいい場所もあるし、ガレージもある。アガータさんはもう暫く待てば僕に貸せるというのだが、、、。

マドンナはついに玄関のガラス窓を足で蹴って壊してしまった。彼女の破壊力には敵わない。

闇のダイヤモンドや金属取引が戦争の資金源になっていることは明白だ。米国がイニシアティヴをとってこの資金源の根を絶やすためにWall Streetの法律規制を強めた。実効性がどの程度あるようになるのかはこれから見ていかなければならないが、麻薬、ダイヤとともにレア・メタルが不法に採掘されてコンゴから海外に出ていることは確かである。ルブンバシの街中でも、詐欺かもしれないが、怪しい石を持ち歩いて、僕にもこれ見よがしに見せ、買わないかとofferしてくる者がいくらもいる。コルタン、果てはウラニウムまで。
Les groupes armés de RDCongo visés par la réforme de Wall Street
(AFP) – Il y a 23 heures 7月16日
WASHINGTON — La réforme de Wall Street, bientôt promulguée par le président américain Barack Obama, contient une disposition visant à couper les vivres aux groupes armés qui s'enrichissent grâce au commerce de métaux servant à fabriquer des produits de haute technologie.
La mesure, insérée dans la masse de plus de 2.300 pages du projet de loi de réforme financière adopté jeudi au Congrès, prévoit de tenter d'enrayer le commerce de quatre minerais utilisés notamment pour la fabrication de téléphone cellulaires.
"Les Congolais ont trop longtemps été des pions dans la lutte sanglante entre groupes armés, qui ont financé leurs violentes campagnes de terreur avec le produit d'une activité minière illicite", a déclaré jeudi le représentant démocrate Howard Berman, président de la commission des Affaires étrangères de la Chambre des représentants.
Le projet de loi exige de la part des entreprises qui font des affaires en République démocratique du Congo (RDC) et dans les pays voisins qu'elles déclarent aux autorités américaines où elles acquièrent l'oxyde d'étain, le coltan, la wolframite et l'or.
Le texte réclame également de la part de ces entreprises qu'elles conduisent de audits réguliers pour s'assurer qu'elles ne contribuent pas directement ou indirectement à un conflit armé.
En outre, il appelle le département d'Etat à élaborer une nouvelle stratégie pour traiter la question du commerce illicite de minerais et les liens avec les groupes armés.
A l'inverse des diamants, ces minerais ne peuvent être testés chimiquement pour déterminer leur provenance, ce qui complique la lutte contre ce genre de commerce.
L'est de la RDC a connu une série de conflits depuis les années 1990. L'exploitation des ressources du pays par des factions armées a été dénoncée régulièrement par l'ONU et les ONG.
(写真はWall Street。懐かしい。前を通っただけで中に入らなかった。何故だろう。メンフィスのコットン取引所は中まで入ったというのに)

18 juillet 2010

7月16日 le vendredi 16 juillet 2010 銅マーケット他 marché du cuivre, etc

Le 16 juillet 2010, vendredi
快晴、

ネット不調。Download側が作動しない。だからどのsiteも表示されない。昨日は5分とまともに動かなかった。Googleニュースを見て、liveメイルをチェックしたらお仕舞。メイルの返事も書けなかった。

9時半、停電。ネットがなんとか動きそうになってoutlookの設定をしているときに。しかし、電気は数分で回復。

ゴッフルを作った。ところが青いゴッフルができてしまった。というのは、香りとしてバニラ・エッセンスを入れたかったが、店にバニラがおいてなかった。仕方ないのでブランディの香りというのを買った積もりだった。ところが、となりに置いてあった同じ形のビンを買ってしまったのだ。それは食用カラーだった。食用だから毒にはなるまい、そう期待する。しかし、参ったなぁ。しばらく青いゴッフルが朝食だ。

水の出がいい。勢いよく出る水で食器洗い。それだけで気分がいい。

粗銅の価格が持ち直しているようだ。2008年9月に$8000/Tが翌月には$2700というから、商品市場が暴落したということだ。相場商品だから上下があるのは不思議はない。今年に入って$6800まで戻したそうである。
以下の記事参照。
LMEとはロンドン・メタル取引所。NYなど他の取引所よりも指標として重要視されているようだ。

LMEは非鉄金属であるアルミ、銅、ニッケル、亜鉛、鉛、錫の取引を中心とするが、2008年から鉄、プラスチックも取引されている。商品市場は株式市場以上にスペキュラティヴなようだ。1996年住友商事が多額の損失を蒙っている(3000億円以上)。
カタンガ州はコンゴ(RDC)の銅鉱山の中心。となりのザンビアのその名もカッパー・ベルト州と同じ鉱脈が走っている。銅価格が上がれば経済も持ち直す。今年価格上昇傾向を背景に多少経済が上向き期待ということだが、価格暴落は僅か2年前のこと。流石に慎重に成行きをみているところと思われる。市況商品に経済があまりにも左右されすぎるのは問題が多い。しかし、カタンガ州の北部で最近レア・メタルであるコルタンcoltan、錫石cassitériteが発見されている。カタンガ州に追い風が吹き始めたようである。 (写真はカシテライト=錫石)
RDC: deux ans après la crise, le cuivre peut encore faire rêver le Katanga

Touchée de plein fouet par la crise financière mondiale, la riche province minière du Katanga, dans le sud-est de la République démocratique du Congo, peut rêver d'une relance de son économie grâce à l'embellie des cours du cuivre, son principal minerais.
ECONOMIE - MONDE mer 14 juil, 17:45
Touchée de plein fouet par la crise financière mondiale, la riche province minière du Katanga, dans le sud-est de la République démocratique du Congo, peut rêver d'une relance de son économie grâce à l'embellie des cours du cuivre, son principal minerais.
De 8.000 dollars américains (USD) la tonne en septembre 2008 à 2.700 USA le mois suivant, le cuivre aura connu avec la crise une chute vertigineuse de ses cours, fortement ressentie par la centaine d'exportateurs de ce minerais, implantés dans le sud-est minier de la RDC.
"Le choc était très dur. Les tout petits avaient très vite fermé", se souvient Roger Tambwe, économiste congolais spécialisé dans les mines à Lubumbashi, la capitale du Katanga.
Mais moins de deux ans après l'effondrement des cours, "les entreprises qui sont restées ont atteint leur point d'équilibre" grâce à un prix d'achat oscillant aujourd'hui autour de 6.800 USD la tonne, note M. Tambwe.
Signe de cette reprise, la production annuelle de cuivre au Katanga est passée de 961.654 tonnes en 2008 à 887.156 en 2009, avant de se redresser fortement à 593.058 tonnes uniquement pour les six premiers mois de 2010, selon des chiffres officiels.
Une hausse à mettre à l'actif de nouveaux investissements réalisés par des exportateurs de minerais, comme l'entreprise indo-congolais Chemical of Africa (Chemaf), qui transforme désormais sa production sur place avant de la vendre à 8.000 dollars USD la tonne à un groupe émirati.
Près de 35 millions de dollars de redevance, aussi bien pour le cuivre que pour les autres métaux, ont ainsi été perçus par l'Etat congolais au premier semestre 2010, contre 45 millions pour toute l'année 2008 et 32 millions usd en 2009.
Une manne qui attire des groupes financiers étrangers, notamment indiens et sud-africains, dont la présence est renforcée par l'ouverture de nouvelles agences bancaires dans la ville de Lubumbashi, autrefois la chasse-gardée des banques locales.
Cependant, le souvenir de la crise et ses effets dans la province du Katanga, une région aussi vaste que la France, sont encore vivaces dans les esprits.
"La prudence est de mise au niveau des employés qui avaient été mis en congés technique. Pour le moment, les entreprises préfèrent garder les mêmes effectifs", observe un responsable de la Fédération des entreprises du Congo (Fec) au Katanga, Bakomeka Kelina.
Au total, 45 entreprises, dont des chinoises, sur 83 recensées officiellement, avaient cessé leurs activités, d'après des chiffres du ministère provincial des Mines. Plus de 3.000 salariés avaient brutalement été mis au "chômage technique".
Aussi, la renégociation des contrats miniers initiée par l'Etat congolais avec certaines entreprises étrangères, freine quelque peu l'ardeur de nouveaux venus dans ce secteur.
"Ces contrats avaient été discutés à une période où la RDC connaissait des conflits armés (1998-2002). L'Etat était en position de faiblesse et il a jugé utile de les réviser", analyse M. Tambwe.
"Cela a été mal perçu par certains grands groupes", notamment le Canadien First Quantum Minerals, dont l'un des contrats a été résilié en septembre 2009 par Kinshasa et qui a porté l'affaire devant la justice internationale, a-t-il ajouté.
Toutefois, estime M. Tambwe, le cours du cuivre peut se maintenir à son niveau actuel "jusqu'à la fin de l'année", même si, selon lui, les autorités congolaises devront diversifier leurs recettes avec l'exportation du cobalt, de la cassitérite et du coltan, découverts récemment dans le nord de la province.

16 juillet 2010

7月15日 le jeudi 15 juillet 2010 バテンボ他 Batembo, etc

Le 15 juillet 2010, jeudi
快晴。微風。

マドンナが6時頃盛んに吠えていて目が覚めた。彼女がこんなに吠えたのは初めて。いよいよ番犬としての自覚がでてきたのか。毎夜小屋から開放して庭に放すときに、こんこんと彼女の役割を話して聞かせているのが理解できたのか。しかし、悪戯は相変わらずで、今朝はどこからかプラスチックのバケツを拾ってきてバラバラに食いちぎった。

ネットが多少通じたのでメイルの返事が出せた。Googleニュースも読めた。

Dubié(ベルギーがつけた名前で土地ではムタビMutabiと云う)のピグミー人キャンプについて修正・加筆をする。
キャンプに集まったピグミー人はイトゥリの森(コンゴ=RDCのオリエンタル州)やカメルーンのピグミー人たちと分けてセミ・バントゥsemi・bantouと呼ばれている。部族tributとしてはバテンボ族Batemboでカタンガ州の潅木地帯la brousseで狩猟・採集をして暮らしていた。生活様式はピグミー人である。しかし、普通のピグミーよりも背が高く150 cmを超える。長身のバテンボは見なかった。言語はキテンボ語Kitemboを話し、これはDubiéの人々の言葉Kizelaに近いので会話が成り立つ。
ピグミー人をコンゴ人として軍人として採用したのは、モブツ大統領であった。モブツはピグミー人を普通のコンゴ人として同化政策をとった最初の人物であった。ベルギー時代は教育・厚生政策の外に置かれていた。森、潅木地帯の生活者ピグミー人はなかなか同化しようとしなかった。軍人になったのは少数のピグミー人に過ず、大部分は中央政府を拒否した。しかし彼らは反抗的ではなく、戦闘的でもない。

何か意気消沈。やる気が全然でてこない。何故か溜息ばかりでてくる。原因は水かな。寝不足かなぁ。ネットが思うように繋がらないからか。経済的不安それとも家が決まらないからか。天気はいいのに。
微熱があるような気がする。36度4分。平熱。ちょっと寒気がするんだが。
こういう時は20時位に床について早寝を決め込んでいた。でも、22時にマドンナに食事を出さなければならないし、敷地の入り口の鉄扉に鍵をかけないといけないからそうはいかなくなってしまった。

『セグ』第2巻を借りてきた。CCFは8月休館。やはりフランスの施設だ。30日までに読んで返さないといけない。それまでに読みきれるかな。第3巻は9月以降になる。

フランス領事ドミニクさんと面談。ルブンバシ大学から招待状が出ている日本の2先生の旅費援助が可能かどうか訊いた。領事はCCFの催しが担当で、大学等教育関係は別の担当がいるという。9月中旬に辞令がでる女性だそうだ。しかし、パリからルブンバシまでの旅費はでるかもしれないと観測してくれた。但し、予算は来年度。正式に手紙を出そう。

NPO「LICOF」をルブンバシ大学カヌキ教授と訪問。目的はシンコロブエの件である。代表のカシムKasimu Yuma Binさんと事務局長Tomさんと面談。カヌキ教授は「LICOF」のメンバーのようだ。
「LICOF」とは、Ligue Contre la Corruption et la Fraude(反汚職・反脱税同盟)で「当局とも協力して」、公害、金融不正、脱税等社会的不正義を告発するNPOである。
ここにKanuki教授に相談した件を持ち込んだ。ベルギー時代に開発されたウラニウム鉱山シンコロブエの歴史的資料の入手である。特に開発当時、1940年代前半のコンゴ人炭鉱夫の実態調査をしたい。
NPO代表は極めてタッチーな問題でベルギーへの直接資料請求は難しいだろうという意見。一方事務局長は、資料請求のためにはコンゴ側で当時の労働実態を調査し、不明の部分、補足すべき部分を明らかにすれば、ベルギー側に資料提供を断る理由がなくなり資料公開の目的を達することが出来ようという。
しかし、いずれにせよ、米国NPO「Global Witness」に協力して鉱山労働実態調査をしたときのように、手段(資金)がなければ動けないというのが結論であった。「日本カタンガ協会」にはそんな資金的裏付を用意できない。要は、金を出さなければ彼らは動かないということが分かったのである。
LICOFは以前に訪問したACIDHともよく連携して活動しているらしい。次はACIDHにも訊いてみよう。
しかし、シンコロブエのウラン鉱についてはネットに記事がたくさんある。これを徹底的に調べてから次の策をかんがえることにする。
たとえば、UKの次の映像と説明をみつけた。
The Most Powerful Rock Ever Found
Man in pith helmet irradiates his gonads

Belgian mining engineers at Shinkolobwe unearthed this seven ton lump of rich uranium ore in 1922.
It contained enough fissile material to construct two Hiroshima type atomic weapons. http://www.lateralscience.co.uk/rock/index.html  

シンコロブエ鉱山のベルギー人のエンジニアが生殖腺障害を起こしたとある。ここのウラニウム鉱はそれほどに強力なのだ。

7月14日 le mercredi 14 juillet 2010 Condé «Ségou»

Le 14 juillet 2010, mercredi
快晴。やや風強し。

ネットが22時になってやっと通じた。慌ててブログを更新した。なんとか12日まで掲載した。

ネットが通じないと読書がすすむ。
Maryse Condé『Ségouセグ』を読み終えた。344ページだった。だが、まだ2巻ある。読んだのは第1巻『土の城壁』だけだ。
時代は18世紀末から19世紀初頭。場所は現在のマリ共和国。
僕はこの国に一度だけ行ったことがある。アルジェから行ったのでひたすらサハラ沙漠の上を飛び沙漠の中のバマコ(首都)に着いた。ニジェール川は濁っていた。『セグ』を読むとき沙漠の経験があるとより理解が深まるだろう。
『セグ』は大河小説である。しかし、退屈しない。舞台が広い。この作品をアフリカの『風とともに去りぬ』だと評した人がいるが、ドラマチックで息をつかせない。構成が上手い。Maryse Condéの筆の運びは一流である。フランス語としてはクラシック。歴史をよく調べ、風土風俗の調査も精緻である。しかし、登場人物の性格や感情はヨーロッパ的だ。
ストーリーはセグの有力者ドゥシカ・トラオレDousika Traoréの家族(息子たち)の運命を描く。セグというマリの古都、ニジェール川に沿ってトンブクトゥTombouctou、ジェネDjennéが登場する。これらの都市は18世紀末に栄えた。さらにセネガルのゴレ、モロッコのフェズ、或いはブラジルへと話が展開する。筋が読めたと思うと、意外な展開で主人公の一人を殺してしまったりする。とてもハッピー・エンドとはいかない。
イスラムと土着信仰の戦い、奴隷貿易、出生問題(自己のアイデンティティ)、孤独と共同体等々、扱われるテーマは時代を超え大陸を越えた壮大なドラマである。
Maryse Condéは日本でもクレオール文学者として持てはやされているようだが、ユニヴァーサルな価値をもつ作家である。
CCFに続きの巻があれば読みたい。

(画像上はセグの王宮、18世紀中葉、既にイスラムのジハードによって占領された後だ。フランスが来るのは1890年。画像下はToumbouctou)

14 juillet 2010

7月13日 le mardi 13 juillet 2010 蛇他、serpent, etc

Le 13 juillet 2010, mardi
快晴。

ネット不調。

床屋にいった。いつものように携帯の中の写真を見せて、このようにカットしてくれと云ったが、「うん、分かってる」といいながら、ちっとも分かっていない。坊主の5分刈り。ま、仕様がないか。しかも1000FC値上げしていた。物価が最近上がったとも思えないがねぇ。何故の値上げか。
ここの男たちの髪型の圧倒的多数は坊主である。しかも剃っている場合が多い、髪を伸ばしたり、編んだりするするのは歌手か芸術家。経済的理由もあるだろう。生来の螺髪の場合、ゴミや埃がつきやすいということもあるだろう。近親者が亡くなったときに髪を剃るともきいた。しかし芸がない。
一方女性の髪型が多種多様であることはよく知られていよう。

アスンタさんは出張中だが、修道院でネットにアクセス。京大の市川先生からご返事をいただいていることを知った。当然のことながらピグミーに詳しい。アスンタさんの同僚でオリエンタル州出身のシスターと話をして、僕がピグミー人について書いた記事を修正することにした。彼女はピグミー人にことをよく知っていた。

20時半ころチコが騒ぐのでサロンに行ってみると巻いた紐のようなものと遊んでいる。何処で見付けてきたのだろう、ゴミ箱に捨てなければと摘もうとしてよく見ると動くではないか。ヘビだ! チコは警戒しながらも手を出す。グレーのヘビで、長さは20cmもありそうだ。しかし、細い体。ヒトの小指ほどもない。鎌首をもたげてチコに噛付こうとしている。チコを抱きかかえて避難させてから箒で打殺してしまった。殺生な。僕は爬虫類、両棲類が嫌いだ。理由は不気味な存在というだけで合理的なものではない。チコが見つけなければ僕の部屋に入って来たかも知れない。ゾッとする。マドンナが大きなヤモリの屍骸を咥えてきたこともある。キプシの住宅街で少年がヘビの尻尾を持って遊んでいたのを見たこともある。庭に草叢も多いしヘビがいそうだとは前から思っていた。だが、家の中に入ってくるとは。

ネットが不調でなかなかブログが更新できなかった。14日22時になんとか通じるようになった。慌てて更新している。いつまた不通になるか分からない。

7月12日 le lundi 12 juillet 2010 洗髪他 shampoing, etc

Le 12 juillet, lundi
快晴。

つかこうへいさんが亡くなった。『蒲田行進曲』には思いである。初めてこの映画を見たのはジュネーヴにいたときだ。当時の支店長Nさんが、お話好きの方だが、『蒲田行進曲』を気に入って先ず話してきかせてくれ、さらにVideoをプロジェクタで映してくれたのである。面白かった。風間杜夫、平田満が好演。そういえばNさんは出演していた松坂慶子のファンだった。つかこうへいの演劇は残念ながら観る機会がなかったが、本は何冊か読んだ。ユーモアがあり、単純明快で好感がもてた。大体、どこの言葉でも劇作品は読みやすい。ソニー・タブ・タンシも次は劇を読みたい。アリアンス・フランセーズの図書に作品があるのは確認した。コピーさせて欲しいな。

ネット10時半ころから不具合。UPサイドはOKなようだがDownサイドがおかしい。これで月間契約は「使い放題60ドル」っていうんだから嫌になる。全く「恥のvodacom」だよ。

ベッドの読書用のランプが壊れた。スイッチかと思い、その部分を修理したが点かない。電線コードに問題があるらしい。テスターがないから故障箇所がわからない。

頭を洗った。そんなことが日誌に書くほどのことか。水がちょろちょろ、加えて風呂の湯沸し器が修理したにも拘らずお湯がでないから、久しぶりに頭を洗うことになったのである。お湯をポットと鍋で沸かしてバケツに溜めた水で洗うことになった。シャワーも暫く浴びていない。タオルで体を拭く。湯のある生活をしたいなぁ。
江戸時代の『浮世風呂』を読んでも水で苦労している話は出てこない。スペインの田舎の村には共同の洗濯場があって、女性たちが噂話をする場になっているが、水が涸れたとはきかないなぁ。
(今日のテーマの洗髪のフランス語はshampoingシャンポワン、英語から来たフランス語。lavage des cheveuxという言換えも可能だが誰もそうはいわない)。

7月11日 le dimanche 11 juillet 2010 旧友 /mon ami

Le 11 juillet 2010, dimanche
快晴。

朝、ネットの調子は快調。

新しいPCのキーボードはazertyである。それを設定でカナダ・フランス語に直して使っている。カナダはqwertyである。フランス語のアクセントのキーもある。フランス語、日本語入力を10年以上まえからこのキー配列でしている。でも、目に見えるキーの文字と違う文字を打つので時々間違えてしまう。

参院選。民主党は議席を減らすのだろうか。
不在者投票をしたいが、手続きが簡単ではない。ネットで投票できるようになるといいのだが、そうはいかない。

Moon君に連絡をトライ。まだ韓国にいるのだろうか。頭のいい青年だった。在日であることを強く意識していた。韓国に渡って大学に奉職しているはずだが、カルチャー・ショックがあるんじゃないかな。日本のメンタリティーも複雑だけれど、韓国も入り込めば入り込むほど複雑なのではないかと思う。大学まで日本の教育を受けた、剣道というスポーツもしていた、それにフランス語の理解力も抜群だし、彼にはコスモポリットとして活躍してほしい。
古いアドレスだったのでメイルは差戻されてしまった。無念。思い当たるふしがある方は是非ご連絡ください。フランスMLやプルーストMLのメンバーならまだコンタクトがあるかもしれない。

チコちゃんが外に出ていることを知らず、出てはいけないというのに隙をみて出るようになった、玄関の戸を閉めてしまったら、彼女慌てまいことか、扉に飛びついて「入れてくれ」とばかり大騒ぎ。

7月10日 le samedi 10 juillet 2010 タンク・ローリー事故他 accident agravé, etc

Le 10 juillet 2010, samedi
快晴。

Twitterでピグミー人の惨状を訴えることにしたが、先ずはネットが思うようにいかない。よく切れるのだ。昨日一昨日もそういう状態のためブログ更新に半日以上を要した。特に写真をアップしている時にネットが切れると何度もやり直さなければならない。ネットの接続モニターをみると接続自体はされているようだがUPよりもDOWNサイドに問題があるようだ。

ネットが午後から普通。電話もおかしかった。しかたないからファイルの整理をした。重複してファイルされていたものや不要なファイルを消した。
先週金曜日夜に起こったガソリンを積んだタンク・ローリーの横転事故のことが話題になった。230名以上が犠牲になった。日本でも報道されたようだ。
場所はルブンバシから大分遠い。タンガニーカ湖の方だ。カタンガ州ではない。地理的には、日本でいえば韓国が台湾、中国で起きた事故といえる。
被害が大きくなった原因は少なくとも2つある。
1)トレーラーが横転事故を起こしたのが街中であったこと。近くの映画館では多くの人がプロジェクタで映されたW杯の観戦をしていた。
2)横転したトレーラーからガソリンが漏れ流れ出していたのでそれをネコババしようと数十人が寄ってたかってポリタンクやバケツでガソリンをすくっていたこと。
郊外に出るとポリタンク(20L)にガソリンや軽油をいれ売っている。これはトラックの運転手が街道でトラックから抜いて売った分である。ガソリン・スタンドよりも安く販売しているが品質は悪いことが多い。「水増し」しているからだ。車の燃料はすべて隣国からの輸入である。ガソリンも軽油も値段が変わらない。1300フラン(130円)/L。しかし、供給が途絶えたことはない。アルジェリアとは違う。
コンゴの貧しさが犠牲者を拡大したといえよう。

13 juillet 2010

7月9日 le vendredi 9 juillet 2017月9日ピグミー人 les Pygmées

Le 9 juillet 2010, vendredi
快晴。

マドンナ君がやっとトイレを覚えたようだ。ベランダで粗相をしなくなった。しかし、悪戯は相変わらずで、どこからかペット・ボトルを持ってきて齧ったり、洗濯物をずたずたに引き裂いたりと夜中の彼女の行動は凄まじい。でも昨日見知らぬ他人が敷地に入って来たときは吠えまくった。あゝ、吠えないワンちゃんじゃなかったんだ。よしよし。

昨日京大のアジア・アフリカ研の市川名誉教授にメイルを書いた。教授はザイール時代にイトリIturiの森でピグミーの研究をされている。果たして返事がいただけるかどうか。

ピグミー人について補足すると、彼らの人口分布は中部アフリカに集中している。ガボン、中央アフリカ、カメルーン、ウガンダ、タンザニア、コンゴ共和国そしてコンゴ民主共和国である。人口は現在15万から20万人と推定されているが、そのうち5万人がここコンゴ民主共和国に住んでいる。バンツー人も遺伝子学的には同根で6万から7万年前に別れたといわれている。しかし、生活はバンツーの農業定着型に比して狩猟・採集ノマード型がピグミー人である。ピグミー人の国内難民はコンゴ(RDC\)で3万5000人に上る。多くは森や熱帯潅木地帯に帰ることを断念せざるを得ない状態に追い込まれている。森に熱帯潅木地帯に狩るべき動物が激減した、採集すべき木々が減った。コンゴ(RDC)の場合、原因は内戦である。ヒトと看做されないピグミー人は近代兵器で殺され食されてしまった。生活の場に安全もなくなった。ということは定着型の生活を身に着けなければならない。国内難民となって村落や都市周辺に逃げてきた。彼らはアフリカの他の民族と同じように大家族制である。森では死亡率が高かった。人口は殆ど増加しなかった。難民となるとある程度医療保護が受けられるため家族の人口が増えてきている。しかし、内戦状態が解消され農業定着型の生活になるとMSF(国境なき医師団)や国連は引揚げる。普通の生活をしなければならない。貨幣経済に対応しなければならない。時間がかかる。飢餓状態が続く。僕の行ったキャンプでは、祈祷師だけがレンガ造りの家に住み、自転車を3台持っていた。祈祷師guérisseurは無知を利用した詐欺師である場合が多い。薬草など伝統医療の達人は少ない。若い男はキャンプの回りで野鼠や蛇を狩りに行く。それ位しか動物らしい動物がいなくなった。女は食べられる植物を採集に出かける。キャンプには老人、子供、病人が残る。祈祷師はたまたま狩猟された動物または飼育された動物やトウモロコシなどを受け取り民間療法を施す。祈祷師は受け取ったものを町で換金する。詐欺師は儲かる商売なのだ。それでもみんな祈祷師に頼る。現金を持たないからだ。町の医者は有料だ。トウモロコシを耕作して初めて農業で現金を得たピグミー人は農業の仕組みを体得した。

09 juillet 2010

Le 8 juillet 2010, jeudi
快晴。

スポーツ省の参事官、機会があれば大臣と会うので背広を着込んだ。埃だらけ。ここの人たちは公式な場ではネクタイをしていないと五月蝿い。L’habit ne fait pas le moine(着ろものを着たって僧侶にはなれない、「見かけで判断するな」)ということなのだがねぇ。
10時にスポーツ省に行ったが参事官どまり。大臣はでてこなかった。柔道家フランクリン君が期待しすぎかな。
ソニー・ラブ・タンシ『Etat honteux 恥ずかしい国』を読み終えていた。それについて書く。ソニーのいつものことだが、アフリカの中の架空の国の物語である。民主的に大統領に選ばれた男が、いかに権力を集中していくかということに尽きると思われるが、ストーリーは、古い言葉で知らない人もいるだろうけれども「サイケデリック」である。今風にいえば、多分、「ラリっている」。発想が尋常ではない。言葉も理解を超えるところがある。フランス語は単語がかなり定義されている言葉だが完全に無視されている。たとえば、hernieである。単語としてはヘルニア(脱腸)であるが、使われる場所によって「国家」ともとれるし、「弱点」と読み替えないといけないだろう文脈のときもある。Hernieだけでなく、connerie(愚劣)、con(馬鹿)、conard(阿呆)等はまだいいとして、palilalie(ドモリ)さらにはmerde(糞)、普通の辞書にはないだろうroupette(きんたま)まで登場する。しかし辞書どおりの意味で使われていることは稀といっていい。
こんな「恥ずかしい国」は孫子の代まで伝えられないといって大臣がこぞって辞表を出してしまう。それでも大統領はめげない。
ソニーの生きた時代のアフリカは、そんなに昔でもないけれども、アメリカやソ連の傀儡と思われる独裁者たちが林立していた。私利私欲が剥き出しになっていた時代である。『Etat honteux』はそれを特殊な表現を使いながら写生したといってよい。暴く必要がないほど露わな欲望だった。今は大分カモフラージュされている。だから、今彼が生きていたら違う書き方、違う表現を使ったに違いない。逆説的に『Etat pudique恥いる国』というのを書いたのではないか。

7月7日 le mercredi 7 juillet 2010 『ピグミーを救え』仏語版 «Suvez les Pygmées» en français



Le 7 juillet 2010, mercredi
快晴。

一昨日、昨日と夕方からネット普通。昨日の朝のネットは快調がったが今朝は不調。支払いをしてから数日いつもトラブルがある。
10時半回復。

マドンナが使用人小屋の庭に入り込み箒をバラバラにしてしまった。干し物を咥えてくることもしばしばだ。どうしてこういったものに興味があるのあろうか。まだ子供だからなのか、犬の習性なのか。

やはり問題が残る。壊れたMebiusのHDで種々のソフトを発見したのはいいが、Windows7環境下で「漢字源」、「大辞林」などが使えない。日本語でも検索ができないのだ。仏仏辞書Petit Robertは使えた。クラウン仏和辞典は使えるが逆引きができない。難しいなぁ。

『ピグミーを救え!』のフランス語版を作成ブログ「日本カタンガ協会」にアップした。ネットがよく途中で切れるので偉い時間がかかってしまった。
ピグミー・キャンプの写真も掲載。
Le 30 juin 2010
J’étais à Duibié le 30 juin 2010. La ville de Dubié se situe à 500 km au nord-est de Lubumbashi (Province de Katanga, RDC-République Démocratique du Congo), dans les montagnes à l’ouest du lac Moero.
Je me suis accompagné de la sœur franciscaine Théodora qui soigne depuis des années les Pygmées qui se trouvent dans les 4 camps de Mabondo, banlieue de Dubié..Ces Pygmées sont des déplacés internes et forcés. Ils sont chasseurs, cueilleurs ou pécheurs dans la brousse Jamais eu un domicile fixe. Ils n’ont pas habitude de vivre dans un village donc ils savaient pas l’agriculture ni la construction d’une maison durable. il n’y en avait pas la nécessité. Ils ne savaient pas le commerce non plus..Pourtant ils vivaient confortablement à leur mesure. Ils étaient bien indépendants des autres congolais et créaient leur propre société. Cependant à cause de la guerre civile dans la brousse il n’y a plus d’animaux à chasser, ni fruits à cueillir. Leur moyen de vivre a été complètement détruit. C’est pourquoi ils sont venus au village, voire en ville. Mais beaucoup de communes les ont refusés d’y venir. Les congolais ordinaires ne veulent pas serrer la main avec les Pygmées, c’est-à-dire ils ne désirent aucun contact avec ces habitants de toujours du Congo. Les Pygmées sont aussi congolais. D’ailleurs les Pygmées étaient au Congo avant la migration des bantous et/ou des lubas. Néanmoins on n’a pas .mis la carte d’identité pour eux, on les invite pas à l’inscription de la liste des électeurs. Cela se peut que devant la Constitution de 2005 les Pygmées ont plein droit comme les autres congolais. Mais jusqu’à présent les lois congolaises ne s’appliquent pas aux Pygmées sauf le code pénal. Pire encore, il y a plusieurs années dans cette région (Pweto, Dubié, Kilwa, etc.) était sous occupation des militants rebelles mais en réalité des bandes criminels de MaiMai et les habitants ont été victime de leurs violences, à savoir le pillage, le viol, le meurtre,,,, surtout les Pygmées. Car ils ont pas été considérés comme être humain. Ils ont été traités comme les bétails donc ils ont été carrément ≪mangés≫ par MaiMai. J’ai personnellement rencontré la mère qui devait assister devant la casserole où son enfant était en train d’être fait bouillir. Le chef de MaiMai se trouve actuellement en prison lushoise en attendant l’exécution de la peine capitale. La bande MaiMai katangaise est une bande meurtrière qui prétend le militant rebelle, le révolté. Mais son visage réel, c’est la bade de malfaiteurs, tout simplement la bande comme Pol Pot des Khmers rouges sans idéologie. Puisque les vrais MaiMai d’origine Kivu était le groupe armé contre l’invasion rwandaise pendant la deuxième guerre du Congo (1998-2002)
Aujourd’hui les Pygmées ne peuvent plus rentrer à la brousse, qui ne leur donne plus aucune alimentation nécessaire pour y vivre. Ainsi ils font des efforts de se stabiliser avec l’agriculture. Ils ont enfin appris l’élevage de chèvres et de poulets. On a semé du maïs. Le manioc a besoin de 3 ans pour la récolte. Leur maison est pire que le poulailler. L’habitation des SDF japonais me parait le palais. Ils sont plus pauvre que les congolais ordinaire déjà pauvre. Les Pygmée se saluent en disant ≪j’ai faim !≫. Étant partit ce janvier 2010 la ONG internationale MSF le soin médical n’est plus gratuit. Les sœurs missionnaires ne peuvent pas s’occuper des 6000 Pygmées dans les camps, elle n’ont pas de moyen financier ni de personnel suffisant. Le cinquantenaire de l’indépendance. Tout le monde fêtait ce jour le 30 juin au Congo, mais pour les Pygmées de Mabondo il n’y avait pas de fête.
Le monde mobilise pour des baleines ou des gorilles en voie de disparition et les gros capitaux se bougent. Personne ne s’intéresse au destin des Pygmées qui est en péril de l’élimination totale. Les Pygmées est obligé depuis plus de 2500 ans de se diminuer ses populations. Les Pygmées est en train de se disparaitre de l’Afrique et de la Terre. Ils aiment devenir un citoyen ordinaire, un congolais comme les autres, un africain simple d’aujourd’hui. Personne veut tendre la main ?
«Sauvez les Pygmées !»
(les photos ci-dessus dans l'Internet ne se correspondent pas aux Pygmées du camp de Dubié où tout le monde poarte un T-shirt et un pantalon, malgré déchiré ou décousu.)
(写真はネットからとったもので、キャンプのピグミー人ではない。キャンプでは全員裂けたりほころびたりしているがTシャツやパンツを着ていた。)

7月6日 le mardi 6 juillet 2010 掏り(スリ)他 pickpocket (vol à la tire), etc.

Le 6 juillet 2010, mardi
快晴。

昨夜はネットが不調だったが、今朝は快調。ブログにモエロ紀行及チコとマドンナの写真を載せることができた。

新しいPCを買った店(「Etendard」)で壊れたPCの方のデータをハード・ディスク(HD)に抽出してくれるというので外付けHDとMebiusを持って行った。ところが店が停電中。そこでHDとPCを店において、その間に買い物等の用事をすませた。午後3時半に再び店に立ち寄った。どうやってデータを取り出すのか見ていると操作は単純である。MebiusのHDを本体から取り出して他のPCにコードでつないで読ませているだけだ。ドロー&ドロップ。取り出したHDにラックがいるだけだ。店のエンジニアは日本語が読めないから、僕が必要なデータ、たとえばこの日誌を取り込んでいなかった。必要なデータはMy Doucumentsではなくカタカナの「マイ・ドキュメント」というところに入っている。自分でラックを買ってデータを取り出すことにした。ラックはEtendardでは売っていなかった。他を探すことにした。3軒目でラックがみつかった。30ドル。でもHDさえ取り出せば、誰でもデータを取り出せるとしたら、情報を盗むにはPCからHDを抜き出せばいいわけで、windowsが起動しなくても可能なのだ。パスワードを知らなくてもデータを読めるとは。
家でMebiusのHDを外してラックに入れてデータを読んだ。ところが探しているデータがみあたらない。日本語の「マイ・ドキュメント」もない。さては破壊されてしまったのか。思い直して探しまわったところ、思いがけないところにデータがあった。Temporary fileの中に格納されていたのだ。「マイ・ドキュメント」は僕がつけたフォルダの名前だったから、システム上は認知されなかったのだろう。いずれにせよ、23時、Mebiusが壊れる寸前までのワード・ファイルも見つけたし、フランス語の辞書ロベールも見つかり使えることが分かった。ネット・バンキング等の暗証番号もあった。万々歳である。
スリにあった。PCの店を出て表通りをあるいていたときだ。Tシャツにはポケットがないのでいつもチョッキをきている。その左ポケットに携帯を2個いれている。気配を感じたのでポケットに手を入れると携帯が1個ない。人込みではなかったので、盗ったスリに声をかけたら、素直に携帯を返してくれた。「返せばいいってもんじゃないが、警察にはつきださないよ。携帯は高いもんじゃない。しかし中のアドレスが重要なんだ」といって、甘いと思ったが「腹がへっているんだろう。これでバナナでも買いな」と500フランを渡した。このスリが改心するとは思わない。しかし、誰だって悪いことを職業にしたくないだろう。それに逃げれば逃げられたのだ。健康そうな青年だったのだから。

(今日の題にフランス語がvol à la tireとなっているがpickpocketの方が一般的に言われる。もちろん英語からきた言葉。写真はフランス映画Robert Bressonの映画『ピックポケット』1959年)

アラン君は4月に旅券申請を出した。未だにパスポートが発行されない。お金を別途出せば、即ち賄賂だが、1週間も経たずに手に入るそうだ。窓口が国立博物館の一部にある。キュングさん(「日本カタンガ協会」会長)の息子は3月に申請、今日パスポートを受け取った。事務が遅いということで、旅券発行に制限があるわけでない。旅券さえあれば海外に出ることは比較的簡単である。アルジェリアでは旅券をもっていても隣国モロッコやチュニジア、イスラム諸国を除いて入国査証を若者に出してくれる国はない。不法移民を怖れているからだ。

7月5日 le lundi 5 juillet 2010 大家の裏切り trahison de la propriétaire

Le 5 juillet 2010, lundi
快晴。

チコが跳躍できるようになった。これまでナイト・テーブルを伝ってしか僕のベッドにあがれなかったが、構えて床から直接ベッドの上に飛び乗れるようになった。

9時15分。Vodashopでインタネットの支払い。開店が30分遅れた。Olivia支店長、全く意に介さずゆっくりと出社。直ぐにネットが通じたが、1時間後にはアカウントに残額なしと馬鹿なメッセージを出してネットが切れてしまった。性懲りもないVodacomである。同じ誤りをどうして毎月支払うごとに繰返すのか。

16時にかねて約束の通りNorbertさんと引越し先にギャランティーと今月の家賃を持って訪ねた。何が起こるかわからない国だ、ここも。大家のおばさん曰く、先週金曜日他人に貸してしまったというではないか。不動産屋が来て、僕が入居しないと云ったのだそうだ。こちらに何の連絡もなく貸したのは、多分高く貸せたからではないか。それにしてもいい加減なババァだよ。信頼関係なんて築けない。そんな大家だったら後々問題を起こすだろうから借りないでよかったということもできるが、それは後講釈だ。
(噂によれば、さる外資系鉱山会社が5割増しで不動産屋をつかって割込んだようだ。このキプシでは空家はまだまだある。裏切りは許せないが、裏切るような不実な大家はこちらから願い下げだ。写真は門を入ったところから撮影)

06 juillet 2010

モエロ紀行アルバム(4日目)album photo du voyage Moero (4ème et dernier jour)

キルワのマーケットでプラスチックの人形をうる母といた少女。
カタンガ州知事モイーズの生地カショブエのヨット・ハーバー。ヨットは彼の兄のもの。
カショブエ村
カショブエに向かう道の湖沼。
ついにまた砂に乗り上げた。

モエロ紀行アルバム(3日目)album photo du voyage Moero (3ème jour)

僕の隣がドゥビエのフランシスコ会修道院長テオドーラさん、左端は会の小中学校の校長先生
国内難民 ピグミーの子供たち
ピグミーが作った住居。木の上の袋にはトウモロコシの種、野鼠にとられないように木につるした。
ピグミーの小屋。主婦がマニョックの葉をちぎっている。
キルワに近いカマコラ 村にたどりついたダヴィッド君(16歳)。このあと母親たちがとっと集まった。

モエロ紀行アルバム(2日目)album photo de voyage Moero (2ème jour)

モエロ湖の朝焼け。キルワの宿舎の前。
キルワ-ドゥビエ街道。木はマンゴー。

シスターに抱かれたドミニク君(29日の記事参照)。
橋がなかった。
乗り上げた車を出すのに5時間かっかった。

モエロ紀行アルバム(初日)album photo du voyage Moero(1er jour)

カソメノ-キルワ街道。
さっそく固い土に乗り上げてしまった。

この橋を渡れって!

モエロ湖のキルワ港。遠くに見えるのはザンビア領の島。

マドンナ満6ヶ月 Madonna, 6 mois accoplis




「アタシが恐いって!そんなこと云わないでちょうだい。アタシ、お嬢さんなの」
(tu as peur de moi ? ne dis pas ça, je suis une demoiselle, tu sais bien.)

チー子満3ヶ月 Chiico a accompli ses 3 mois



「ねぇ、遊んで!4日も一人ぽっちだったのよ。もう、赤ちゃんじゃないけど子供なの」
(voyons David ! tu m'a laissais toute seule pour 4 jours. je ne suis plus bébé mais encore un enfant. on s'amuse, je te prie.)