30 avril 2014

4月30日 RDCコンゴ:モルガンの最期 RDC: information judiciaire ouverte sur la mort du chef maï-maï Morgan

Le mercredi 30 avril 2014
7時、快晴、24℃、65%。昨夜遅く24時過ぎ激しい雨が降っていた。

『アフリカン・マネージャー』誌電子版(29日号)によれば、RDCコンゴがアフリカ輸出入銀行(Afreximbank、本部カイロ)のメンバーになった。RDCコンゴのプライヴェート・セクターが融資を受けることができるようになった。
隣国ではアンゴラ、ザンビア、タンザニア、ルワンダがメンバーになっている。ルブンジ、南スーダン、中央アフリカ共和国、コンゴ共和国(ブラザビル)はメンバーになっていない。Afreximbankのメンバーになることは国内経済の成長に役立つと考えられるが、これは現首相で元中銀総裁であったマタタ・ポニョ氏の成果ではないかと思われる。

カタンガ州中央の脱線事故の犠牲者は鰻上りに増えている。キンシャサ中央政府はかたくなに74名だと主張しているが、現場から上がってくる数字は100名を超えている。200名に達するという声もある。州都ルブンバシから600kmしかない現場に到達するのに道路事情が悪く数日を要すること、通信手段が十分でないことなどから、現状把握ができないのである。さらに列車の乗客数もいつものことながらつかめない。なぜなら、販売した乗車券数は乗客の一部の数字に過ぎない。列車の通路から屋根まで無秩序に乗込んでくる「客」を制限できない。急ブレーキだけで空中に飛ばされた客が幾らもいたはずで、脱線となるともう悲惨である。この国の事故は、単なる事故に終わらず「人災」になる。
消防や救助隊の組織も行政は持ち合わせず(破壊されており)、赤十字だけが頼りのようである。

オリエンタル州イトリ県で暴れている通称モルガンを首領とするマイ・マイ(ギャング)がいることは既に何回か本ブログで書いた。
このモルガンことポール・サダラがコンゴ正規軍FARDCに拘束され414日(月)頃に殺されたようだ。ようだというのはRFI Radio France InternationaleおよびFrance24に送られてきたビデオではまだ生きていたからであるが、モルガンもよびその一派十数名がビデオに写っており、FARDCのイトリ県の責任者シカブウェSikabwe将軍の姿もあった。軍の説明ではこのビデオのあと、モルガン等が逃走しようとしたので撃ち殺したという。しかし、ビデオ撮影のあとで通過したみられる村では怪我をしていたが生きている姿が写真にとられこれもRFIFrance24に送られてきた。
ということは怪我が原因で死亡したみられるが、その怪我を負わせたのが誰かということになる。それが今まだ闇の中だ。
このモルガンの「変死」が当局の捜査対象になっているそうだ。というのはモルガンのマイ・マイが(反乱)軍として認識されれば、捕虜として「保護」されなければならず、「将校」としての待遇が要請されるのだという。僕は単に犯罪人として刑法によって裁かれるべきであったと考えるが「捕虜」とは如何。
マイ・マイ(ギャング)の親分モルガン
 RDC: information judiciaire ouverte sur la mort du chef maï-maï Morgan
par Sonia Rolley
media
Plusieurs miliciens de Morgan visiblement blessés à l'arrière d'un pick-up de l'armée, le 14 avril dernier, jour de la mort de leur chef. Photo exclusive transmise à RFI et France 24.
DR
 République Démocratique du Congo République Démocratique du Congo
Après la mission des Nations unies (Monusco), l'auditorat militaire de Bunia mène l'enquête et ouvre une information judiciaire autour des circonstances de la mort le 14 avril dernier de Morgan, le chef de guerre maï-maï du district de l'Ituri dans l'est de la République démocratique du Congo. Les premiers éléments des enquêtes menées sur le terrain, ainsi que des vidéos transmises à RFI et France 24, rélèvent un certain nombre de zones d'ombre.

Dans la dernière vidéo reçue par RFI et France 24, Morgan est au milieu de militaires congolais à Molokaï. On y voit le général Fall Sikabwe chargé des opérations de la zone de l'Ituri. Lui et ses hommes viennent de rejoindre le convoi FARDC (forces armées gouvernementales), parti le matin de la localité de Badengaïdo avec Morgan et une dizaine de ses miliciens.

A l'image, plusieurs dizaines de soldats congolais sécurisent le périmètre, éloignant les habitants qui cherchent à s'approcher et bloquent la route en amont. Paul Sadala, alias Morgan, écoute le général, visiblement nerveux et le regard inquiet. Selon le gouvernement, le chef de guerre et ses hommes auraient dans les minutes qui suivent cette vidéo, cherché à fuir, obligeant les militaires à leur tirer dessus. Un premier bilan faisait état de sept morts du côté des miliciens, et de trois soldats blessés. L'incident a donc lieu à Molokaï.

Morgan serait mort de ses blessures

Mais le chef milicien et ses hommes sont vus dans le village voisin, à Mambasa. Ils sont blessés, mais vivants, transportés à l'arrière des pick-up de l'armée congolaise. Des photos de lui et ses miliciens blessés ont été prises entre Molokaï et Mambasa dont une a été transmise à RFI et France 24. Aucun milicien ne sera amené dans le centre de santé de Mambasa. Morgan meurt des suites de ses blessures d'ici au village suivant, Komanda.

Selon une source proche des enquêtes, il y aurait peut-être plus qu'un défaut de soins puisque le chef de milice et ses hommes pourraient avoir été maltraités une fois blessés. C'est pourquoi une expertise médico-légale a été ordonnée. « S'il est avéré que des militaires ont joué un rôle actif dans cette mort, cela sera constitutif de crime de guerre », explique cette même source, évoquant la convention de Genève.


Paul Sadala, de son vrai nom, s'était rendu quelques jours plutôt. Il bénéficiait du statut de prisonnier de guerre, même s'il devait répondre de ses crimes devant la justice militaire congolaise. Au total, deux procédures contre trente-cinq de ces miliciens sont en cours à l'auditorat militaire de Bunia pour crimes contre l'humanité, notamment des meurtres et des viols.

29 avril 2014

4月29日 アンゴラ:ドス・サントスのパリ訪問 Dos Santos à Paris

Le mardi 29 avril 2014
6時、曇り、23℃、67.5%。

水圧が十分あっても湯沸しからお湯が出てこない気がする。湯沸かし器のパイプに垢(石灰)が溜まって詰まっているのではないかと推量した。そこでイルンガさんに連絡、明日来てもらえることになった。

それもあって、別にバケツの水を沸かして髪を洗った。ついでに寒くないので身体も洗ってしまった。気持ちがいい。日曜日13時半にもこうして身体を洗っている。

アルジェリアのブートフリカが28日(月)大統領宣誓式をすませた。投票日も車椅子で投票したが、昨日も車椅子で宣誓。車椅子だから悪いということはない。しかし、声も聞き取れない。息切れも甚だしい。麻痺が治らないのだ。意識はしっかりしているのかもしれない。だが、この健康状態で大統領の激務をこなせるとはとても思えない。
ブートフリカは何れ死ぬ。後継者を育てられなかったのはブートフリカだけではなく、背である軍の誤りである。民主主義なのだから、後継者のいない政党(実は軍)は、別の勢力に席を譲れねばならない。それが出来なかったのはアルジェリアの民主主義の脆弱さである。

エジプトの裁判所でまたまた大量の死刑判決がでた。今度は683名。イスラム同胞団に対2する弾圧そのものである。324529人の死刑判決だった。同じ裁判長である。上級審の裁判が6月にあるそうだから、死刑の数は減るかもしれない。しかし、そうした宗教的犠牲者(殉教者になる)を生むような判断は、死刑が実際に執行されなくても、社会的安定には逆効果になる。なぜなら同胞団はさらに結束を強め体制に反抗するだろうからである。

RDCコンゴの南西の隣国アンゴラ共和国がある。カタンガ州にとっては西隣の国である。
首都はルアンダ。元ポルトガル領である。アフリカ大陸のポルトガル領は独立が英国植民地やフランス植民地に比べて遅い。アンゴラの独立は1975年、「カーネーション革命」〕と呼ばれた独立運動は東西対立を反映した代理戦争としての内戦を生み、内戦は2002年まで続いた。
現大統領のジョゼ・エドアルド・ドス・サントスはそのアンドラ人民共和国時代の1979年から大統領職にある。超長期政権だが、今や、社会主義の理想はどこへやら、原油成金共和国のキャピタリスト大統領である。
ドス・サントスが今、パリを訪問している。
フランスとアンゴラは「アンゴラゲート」と呼ばれる武器輸出にかかわるスキャンダルのため2001年から冷え切っていた。
フランスには経済浮上という命題がある。「お金持ち」のアフリカの国アンゴラを客筋として大事にしなければならない。特にフランス語圏ではないアフリカへの進出は重要である。だから、「アンゴラゲート」にいつまでもかかずらってはいられない。2009年に「アンゴラゲート」の中心人物でドス・サントスの「親友」としてアンゴラ国籍も与えられていた
フランス人ピエールファルコーヌPierre Falconeとアルカディ・ゲイダマックArcadi Gaydamak6年の刑が言い渡されている。けれども2011年の上級審判決ではいずれも減刑ないし一部無罪となっている。
人権外交のフランソワ・オランド大統領だが、2012年久しぶりとしても選挙の禊を経たドス・サントスに民主主義の教えを垂れる立場にない。
アンゴラはフランスが軍隊を派遣して内政安定に必死になっている中央アフリカ共和国にたいして、公務員給与支払いに貢献すると既に約している。ではパリはどんな土産をドス・サントスに用意するのだろうか。
外交とは一筋縄ではいかない、厄介な仕事である。
アンゴラ大統領ドス・サントス氏
Dos Santos à Paris
Dernière mise à jour: 29 avril, 2014 - 01:04 GMT

Le président angolais, Edouardo Dos Santos, est en visite mardi en France, où il n'a pas mis les pieds depuis plus de dix ans.
Les deux pays qui étaient en froid jusqu'ici tentent de relancer leurs relations, notamment sur le plan économique.
Edouardo Dos Santos n'a pas mis les pieds en France depuis 2001, du fait d'une brouille liée à l'affaire dite de l'Angolagate, relative à des ventes d'armes à l'Angola.
La justice française venait alors de lancer des poursuites contre Pierre Falcone et Arcadi Gaydamak- hommes d'affaire proches du président angolais.
Les deux hommes ont été condamnés en 2009 à 6 ans de prison pour avoir enfreint la législation sur les armes.
Dos Santos considère Falcone et Gaydamak comme des amis, à qui il a d'ailleurs octroyé la nationalité angolaise.
De nombreuses entreprises françaises se sont ainsi vues fermer les portes du marché angolais.
Cette visite du président angolais en France est donc considérée comme un nouveau départ entre Paris et Luanda.
Et pour la France, elle est d'autant plus importante que le pays cherche à renforcer sa présence sur les marchés d'Afrique non francophone.
Les deux présidents parleront beaucoup d'économie, mais aussi de la Centrafrique.

Récemment, Paris avait convaincu Luanda de contribuer au paiement des salaires des fonctionnaires centrafricains.

28 avril 2014

4月28日 ルワンダ:和解は犯罪(歌手キジト事件) Rwanda: l'étrange affaire du chanteur Kizito risque de déstabiliser le Rwanda

Le lundi 28 avril 2014
6時、快晴、2460

親友Sは去年亡くなってしまった。しかし、Sは僕の中で、そしてSの奥さんの中でずっと生きている。彼の家族の中でも。
Sの奥さんが「日本カタンガ協会」に1500ドル寄付してくれた。ありがたい寄付である。大切に使わなければならない。フォステム校の教室の建設か、生徒の学資か、慎重に検討する。Sの奥さん、Nさんありがとうございます。

ルブンバシのスーパーの粉ミルクの価格とキプシの店Vickyの同製品の価格を比較すると100gあたりに換算して20%ほどキプシが高い。殆どの製品がキプシの方が高くなっている。理由は30kmという距離らしい。キプシの小売店はルブンバシで仕入れている。しかし、この価格差は納得できない。キプシの店がルブンバシの小売店で仕入れてくるなら当然価格上昇に繋がる。しかし、ルウンバシの問屋で仕入れてくるなら、交通費がかかったとしても20%は説明できない。ここが不思議なところだ。
僕が思うに、キプシの多くの小売店が小売店で仕入れているのではないかといことだ。問屋と小売店の差がルブンバシにあまりない。問屋と思しきところに業者ではない僕がいっても同じ値段である。
家賃はルブンバシがキプシの10倍以上する。僕が住んでいる家は敷地2000M2、建屋が120M2だ。それがここでは200ドル、ルブンバシでは2000ドル以上する。となれば本来キプシの方が物価が安くてもいいはずである。そうなってない。しかもキプシで買えないものが数え切れないほどある。
RDCコンゴの価格体系は混乱している。ルブンバシのスーパー間でも著しく価格が違うことがなる。彼らはマーケッティングをしていないのではないか。

来週ジョン・ケリー米国務長官がキンシャサにくるそうだ。何しに来るのだろう。

中央アフリカ共和国RCAの首都バンギでは回教徒がしばしば攻撃を受けている。前政権セレカに加担したという名目であるが、バンギの経済を握るイスラム教徒に対する反目であろう。普通アラブ社会で経済を担うのはユダヤ系である。サハラ以南のアフリカ黒人国ではレバノン、シリア等のイスラム系移民が経済、特に商業の中心である。
バンギからこれら回教徒を保護しRCA北部チャド国境に移動させているのがアフリカ連合派遣のアフリカ混成軍である。27日(日)1300人を乗せたトレーラー18台が北に向かって出発した。
それでもまだバンギには数千人のイスラム教徒がいる。彼らをどうするのか。これは「和解」reconciliationの問題である。
イスラム教徒とキリスト教徒がいがみ合っていたら、永遠に復讐劇は終わらない。

ルワンダのジェノサイドも同様である。19944月のジェノサイドはフツがツチを組織的に抹殺しようとした大量殺人劇に違いない。その後、ツチ政権に負われたフツはザイール(現RDCコンゴ)に逃げた。ザイール内でツチがフツを大量に抹殺した。お互いの怨恨は国境を越えて武力闘争に結びついている。
そんな復讐、怨恨をやめようじゃないかとルワンダの歌手キジト・ミイゴKizito Mihigoが歌った。キジトは13歳のときにジェノサイドに遭遇した。彼はツチ人である。九死に一生を得てベルギーに渡った。歌手として成功し2011年ルワンダに帰った。そして「和解」を希求する歌を歌ったのである。
これがルワンダ大統領カガメの逆鱗に触れた。早速逮捕されてしまった。国家反逆罪。おどろおどろしい罪名である。カガメは執拗にフツ人を許さない。それは彼の政権操作術である。そうして安定政権を力で確保しているのだ。しかし、こうしていてはルワンダというアイデンティティは生まれない。ツチ人もフツ人もルワンダ人だ。そこに「和解」がいつか求められる。
中央アフリカ共和国やルワンダもそうだが、RDCコンゴも東部戦争で求められているのは結局「和解」だ。和解がなければ、敵味方どちらかが徹底的に勝利して、一方が他方を消し去らねばならなくなる。
僕はカガメにキジトの釈放をもとめるし、カガメに「和解」の道を探るよう願うものである。
ルワンダの人気歌手キジト
本人はツチ人だが、ツチとフツの和解を求めて投獄された
キジト33歳、94年のジェノサイドでは家族が全員犠牲者になっている
それでも「和解」を歌った
 Rwanda: l'étrange affaire du chanteur Kizito risque de déstabiliser le Rwanda
Le chanteur, rescapé du génocide, prône la réconciliation. Et pourtant, le pouvoir de Kigali l'accuse de haute trahison. Tentative d'éclairages.
Kizito Mihigo, un chanteur populaire au Rwanda est au centre d’une affaire bien troublante. Le 15 avril, il est arrêté, en compagnie de trois autres personnes, dont un journaliste. Le site News of Rwanda rapporte que le chanteur est accusé de terrorisme, d’atteinte à la sûreté de l’Etat et de trahison. Le site d’informations avait ajouté que le chanteur «fait l’objet d’une enquête pour avoir préparé des attaques à la grenade contre le gouvernement».

L’annonce de l’arrestation de cet artiste et, surtout, des accusations portées contre lui, suscitent l’émoi et le doute au sein de la population. Kizito Mihigo est un artiste apprécié dans le pays. Comme le rappelle le quotidien belge Le Soir, «depuis son retour au Rwanda en 2011, il était devenu une véritable vedette, non seulement à cause de la popularité de ses chansons, mais aussi à cause de la fondation qu’il avait créée, vouée à la paix et à la réconciliation».

L’artiste est un orphelin qui a perdu sa famille dans le génocide des Tutsi au Rwanda, en 1994. Rescapé, il a suivi des études de musique à Bruxelles, financées, selon des indiscrétions du Soir, par le président Paul Kagamé qui accuse aujourd’hui le chanteur de gospel de terrorisme et surtout de vouloir le tuer.

Ces accusations surprennent, d’autant plus qu’elles sont en totale contradiction avec l’engagement humaniste de Kizito Mihigo et l’œuvre de réconciliation à laquelle il s’emploie à travers sa fondation pour la paix et ses chansons.

Pourtant, l’affaire est en train de prendre une autre tournure. Vendredi dernier, lors d’une audience de son procès, le chanteur confirme des aveux qu’il avait déjà longuement fait devant la presse.

«J’accepte les accusations. Mais que les choses soient claires, j’ai fait ces crimes lors de conversations. Je n’ai ni acheté de grenades, ni donné de l’argent», a-t-il indiqué dans des propos rapportés par RFI.

Plusieurs observateurs voient ces aveux comme une manœuvre du pouvoir en place. Le blog The Green Frog croit par exemple savoir que les accusations portées à l’encontre de Kizito Mihigo ne tiennent pas la route.

«Comment est-il possible pour un chanteur d’attaquer un gouvernement, et surtout d’assassiner un président qui possède le système de sécurité le plus efficace du continent?», s’interroge The Green Frog.

De la même façon, les aveux du chanteur confortent la thèse d’une affaire montée de toute pièce, ajoute, pour sa part Umuhuza. Ce blog consacré à la réconciliation du Rwanda affirme que l’affaire est louche. Il s’agit d’une «tentative maladroite du clan Kagamé pour distraire l’opinion rwandaise et internationale sur les déchirements au sein même de l’ethnie tutsi qui domine le pouvoir depuis 1994», peut-on lire sur le blog.

Pour Umuhuza, quatre éléments incitent à prendre à être prudent: l’étrange «disparition» du chanteur peu avant l’annonce de son arrestation, les aveux devant la presse avec large diffusion dans les médias officiels et sur les réseaux sociaux, un tribunal «non compétent» et un «avocat qui se désiste quelques heures avant l’audience».

Colette Braeckman, éditorialiste au Soir et spécialiste de la région des Grands Lacs, estime que cette affaire est, peut-être, le prélude de nouveaux déchirements au Rwanda, nés des jalousies et de rancœurs pas encore apaisées entre Tutsi eux-mêmes.

Sur ce point, Umuhuza explique:

«Le jeune tutsi Kizito Mihigo qui avait tout juste 13 ans en 1994 et qui est réellement un rescapé du génocide  contrairement aux autres jeunes tutsi de sa génération qui sont rentrés au Rwanda après la conquête du pays en 1994, ne doit pas faire la même lecture de l’histoire que ces autres frères tutsi.  Mais lorsqu’il le dit publiquement et que de par sa notoriété, il ose l’exprimer en chanson, il a alors franchi la ligne rouge et est devenu paria dans la “fratrie”.»

La désormais «affaire Kizito» semble donc une affaire interne au clan Kagamé, mais qui risque de déstabiliser à nouveau le pays et la région.


Slate Afrique

27 avril 2014

4月27日 セネガル:元大統領ワデの帰国 Wade: retour en politique

Le dimanche 27 avril 2014
7時、快晴、2365%。

うちの子が通っている学校「マペンド校」と同じカトリック系「フラハ校」のサッカーの試合がある。この町キプシの優勝戦だ。クリスチャンは選手である。アタッカー。左膝を怪我しているのに今日は出る。見に来てくれるというから行かざるをえまい。去年も優勝決定戦は同じ組み合わせだった。PKで最終的にはフラハに勝ちを譲った。今年はどうなるだろう。
マペンドはスワヒリ語で愛、フラハは栄光である。日本語でいうと「愛光学園」と「栄光学園」というところかな。

ジンバブウェの元首相ツバンゲライMorgan Tsvangiraiが所属する政党MDCから26日(土)活動停止処分を受けた。MDC(民主的改革運動党)はムガベ大統領に抗する最大野党である。理由は「民主的でない行動があった」というもの。ツバンゲライは2009-2013年の間、ムガベと権力を分かち合った。ムガベに対する国際的圧力の結果だった。ツバンゲライが首相だったから日本はODAを出していたのだと思う。TICAD Vにはツバンゲライが出席していた。昨年の大統領選挙で圧倒的支持を得たムガベはこの両頭政治を解消した。ツバンゲライは一体何をもって非民主的と判断されたのだろうか。詳細はまだ不明。

セネガルの元大統領で2012年の選挙で敗退して海外に出ていたアブドライェ・ワデが2年ぶりに25日(金)ダカールに帰ってきた。モロッコに滞在していたようだ。帰ってきて早々政界復帰を宣言、現政権マッキー・サルの批判を開始した。
マッキー・サル政権下で不幸な目にあっている国民を救うために帰国したと高らかにいう。「へー、そうなの?」と僕は思う。自分の息子を大臣にしたり、3選禁止の大統領選に出たりしたワデである。
サル大統領になってから、息子、カリム・ワデが起訴されている。公金横領、不正財産取得の罪である。新政権になって旧政権の恩恵を浴した人々が起訴されることはよくあることだ。しかし、カリムの財産形成は異常だと誰でもが思う。父親の威を借りて法外な利権ビジネスをしていた。それは威を借りたのではなく、父親と共犯で行われたことかもしれない。
カリム・ワデの公判は6月に開かれる、その6月地方選挙もある。元大統領の政党「セネガル民主党PDS」は主なき後、纏まりがなく瀕死だったが、ワデは巻き返しを図るんだろうか。息子可愛や、我が身可愛やで見えないのかもしれないが、セネガル国民は伊達にワデを落選させたのはないと思う。
民主主義は選挙だけに表れるのではない。ワデの帰国はセネガルの民主主義の真価が問われることになる。
ワデ親子
セネガルはイスラムと少数派カトリックが共存している
(カリムは既に40代、BBCの記事の画像はかなり昔のものか)
Wade: retour en politique
Dernière mise à jour: 26 avril, 2014 - 05:42 GMT BBC Afrique

Dès son arrivée, Abdoulaye Wade, l’ex président sénégalais a annoncé son retour en politique, en accusant le régime actuel d'avoir échoué à répondre aux demandes sociales.
C'est pratiquement à minuit qu'Abdoulaye Wade s'est adressé à une foule de plusieurs centaines de partisans rassemblés au siège du parti démocratique sénégalais.
L'ex président a tout de suite reproché à son successeur Macky Sall d'avoir échoué à répondre aux attentes des sénégalais.
"Nous ne pouvons laisser le Sénégal se détériorer de cette façon, le Sénégal ne mérite pas ça", a-t-il lancé. Un véritable pavé jeté dans la mare pour annoncer son retour en politique après deux ans d'absence.
Abdoulaye Wade dit avoir écouté la souffrance de son peuple depuis l'étranger, "c'est pourquoi je suis venu lui indiquer les solutions parce que les solutions existent", a-t-il martelé.
C'est, en grande partie, pour soutenir son fils Karim Wade, poursuivi pour enrichissement illicite et en détention préventive depuis un an qu'Abdoulaye Wade effectue ce retour.
Karim Meissa Wade doit être jugé en juin prochain, dans le cadre de la traque des biens mal acquis menée par Macky Sall après son élection. Selon Abdoulaye Wade, c'est une bataille gagnée d'avance.

Abdoulaye Wade a également indiqué revenir au pays pour une reprise en main du PDS sa formation politique ramollie et déchirée mais dont il demeure le patron.

4月26日 RDCコンゴ:国連軍実戦部隊トップ交代 Général Ramadhan Abdoul Kimweri, nouveau commandant de la brigade d’intervention de la Monusco

Le samedi 26 avril 2014
6時、晴れ、24℃、65

仔犬のチビ君は昨日25日(金)15時に息をひきとった。マドンナにはその旨報告した。彼女がチビ君を捨てたには理由があった。僕たちはそれに抵抗したがチビ君の体力が持たなかった。彼女が捨てる前に、母乳を飲めないでいたチビ君を母親から引離して哺乳ビンで育てていれば助かったのかもしれない。僕にはそれが分からなかった。9日間の命だった。

チビ君を埋葬した。マドンナが掘った場所、スリーピング・ハイビスカスの垣根の根元に埋めた。クリスチャンが一昨日虫の息のチビ君を発見した場所だ。安らかに眠り給え。
「母が選びし花の下にて我死なむ」
スリーピング・ハイビスカスの花の下に
チビ君が眠る
(この花の名前は亡くなった親友TS君の
奥様に教えていただいた)

今日の「日本カタンガ協会」の会合はアラン君が都合悪く来週に延期された。知らずに僕はルブンバシに出て電話連絡でそのことを知った。連絡が悪いのか携帯チェックを怠ったか。

RDC駐留国連平和維持軍の実戦部隊隊長が交代した。実戦部隊は去年創設されたが、その初代隊長はタンザニア軍の将軍ムワキボルワ氏だった。同氏に代わる2代目もタンザニア軍の将軍キムウェリAbdoul Kimweri氏になる。
実戦部隊は戦闘地帯である北キヴ州の州都が反政府軍M23に占領されたとき(201211月)、市民を守るべき政府軍や国連軍が何ら抵抗できなかったことで世界から批判され安保理で創設が決まった軍である。
創設から1年、この部隊はそれなりの成果を上げた。M23を降伏させ、他の反政府軍(武装集団強盗)の掃討に着手している。
RDCコンゴに割拠するこれらギャングは、イスラミストのテロ集団とは違う。イスラミストには「アラー」がついている。ギャングには思想信条などない。あるように見えるのはとってつけたような理屈である。だから結束も弱く、解散もはやいが、直ぐに別の徒党を組む。解散後の更正が重要なポイントになる。イスラミストのボコハラム(ナイジェリア)はそうはいかない。ナイジェリア政府軍が大規模な作戦を展開してもなかなか撲滅ができない。
いずれにせよ。「戦争はよくない、よしなさい」、「話あいましょう、政治的に解決しましょう」では平和が来ない。ロシアがウクライナを侵略するのとはわけが違うのである。
国連実戦部隊の新任隊長キムウェリ将軍
(RDCコンゴ駐留国連軍Monusco)
Général Ramadhan Abdoul Kimweri, nouveau commandant de la brigade d’intervention de la Monusco
オカピ放送

«Je suis venu poursuivre la mission commencée par mon prédécesseur. L’objectif majeur de cette mission reste la protection des civiles; et je suis sûr que nous y arriverons en collaboration avec les FARDC », a déclaré vendredi 25 avril à Goma, du nouveau commandant de la brigade d’intervention de la Monusco, le général de brigade Ramadhan Abdoul Kimweri. De nationalité tanzanienne, le général Abdoul Kimweri remplace un autre Tanzanien, le général James Mwakibolwa.
Le général Abdoul Kimweri réaffirme la détermination de la brigade d’intervention de la Monusco de traquer et désarmer toutes les milices qui sèment encore l’insécurité au Nord-Kivu:
«Mon cheval de bataille reste la protection des civils. En outre, c’est confirmé que tous les groupes armés seront désarmés [de force]. Et ceux qui répondent à l’appel vont déposer leurs armes.»
En réalité, il n’y a rien qui soit facile, a-t-il indiqué, avant d’ajouter : «Nous allons faire le travail qui nous a été donné selon notre expérience et en collaboration avec les FARDC et toutes les autres forces qui sont avec nous ici.»
Il a fait cette déclaration à l’issue de sa rencontre avec le chef de bureau de la Monusco au Nord-Kivu, Ray Virgilio Torres. S’adressant aux leaders des groupes armés qui écument encore la région, le général Abdoul Kimweri a laissé entendre:
«Que les habitants de Goma qui aiment la paix puisse nous serrer les coudes pour qu’ils soient libres et faire leurs activités sans problème. Aux miliciens, je leur dis que cette vie n’est pas bonne. Je les appelle à adhérer à l’idée de la majorité et sage, en abandonnant cette voie.»
Agé d’une cinquantaine d’années, cet officier Tanzanien est arrivé à Goma le 15 avril dernier. Il remplace le tout premier commandant de cette brigade, le général James Mwakibolwa, qui a passé une année à la tête de cette brigade. 


25 avril 2014

4月25日 世界一美しい女性にケニアのルピタさん Lupita la belle kenyane

Le vendredi 25 avril 2014
6時、晴れ、23℃、70%。

昨日午後雷雨になった。まだ完全には乾季に入っていないのだ。

昨日夕方クリスチャンが「仔犬が4匹しかいない」と云ってきた。見に行くと確かに1匹足りない。一番小さくて、きゃぁきゃぁ泣く仔がいない。末っ子がいない。周りを探してもいない。独りで家nicheから出られる筈がない。クリスチャンが「庭の植木の下で死んでいるよ」と駆けてきた。ところがまだ息がある。母親マドンナが運んできて捨てたとしか考えられない。兄妹たちのように元気に母親の乳を吸う力がなくいつもみなから少し離れたところにいた仔だ。マドンナの傍に置いたが元気がない。クリスチャンがなんとかしたいというので、哺乳瓶を買いに店に行った。1500フラン(150円)。ミルクを温めて捨てられた仔犬に与えるが、吸う力がない。唇を舌で舐めることはできる。少しづつ口に入れると飲んでいるようだ。クリスチャンが彼を抱いて母親代わり。クリスチャンは自分が生まれて間もなく地理親を、10歳のことには母親を失っている。この国では、こういうとき父親の兄弟か母親の兄弟が面倒をみる。だが、彼の場合は誰も世話をしてくれる人がいなかった。
果たしてこの仔は生きられるだろうか。マドンナのとった行動は本能的に生命力のない仔を始末するということなのか。ちょっとショッキングな話だなぁ。
クリスチャンに抱かれるチビ君

チビ君
一番後から生まれたおチビちゃん
頑張れよ!
今朝はチビ君、まだ命がある。夜中3時に起きてミルクを与えたときは、自分で吸うことができるようになっていた。赤ん坊なんて食べることが仕事みたいなものだから食べられなければ死んでしまう。しかし、母乳じゃないから、免疫は伝えられない。ワクチンをするまで病気に弱いかもしれない。
哺乳瓶を消毒しないといけない。無菌のチビ君だからなぁ。

今日は「マラリア撲滅デー」なのだそうだ。WHOによると、サハラ以南のアフリカ諸国のマラリア死亡者数は2000年からみると半減したという。これは世界平均が42%減だから、アフリカの成績が平均を上回っているということだ。
しかし、まだまだ毎年数百万人がマラリアに罹り、数十万人が病死している現実がある。とくに幼児の死亡率が高い。
これからもWHOとしては不断の努力を重ねていかねばならないだろう。しかし、医療対策には限界があろう。結局のところ貧困がマラリアで乳幼児が死亡する最大の原因だ。
マラリアは撲滅できる。現にモロッコ、アラブ首長国、アルメニア、トルクメニスタンではマラリア撲滅に成功したのである。

シリアで拉致されたフランス人人質が解放されたため、フランス人で人質になっているのはマリの二人だけになった。ところが、そのうち一人が悪環境の中、数週間前に病死したことが確認されたので、セルジュ・ラザレヴィッチSerge Lazarevic氏一人になった。彼はマグレブ・アルカイダに201111月に拉致された。
フランスはオランド大統領になってから次々と人質解放に成功してきた。あと一歩の努力である。

米国の雑誌『ピープル』でケニアの女優ルピタ・ニョンゴLupita Nyongoさんが「世界一美しい人」に選ばれた。彼女は今年1月アカデミー助演女優賞も獲得している。これまでに同誌の「世界一美しい人」に選ばれたのはシンディ・クロフォード、メル・ジブソン、レオナルド・ディ。カプリオなどがいる。
助演女優賞の対象となった映画は『それでも夜は明ける12 Years A Slave』。
Wikipediaの英語/スペイン語/フランス語版によれば、ニョンゴはNyong’oと綴るのが正式なようだ。両親はインテリで、父親がメキシコで政治学の客員教授をしていたときに彼女が生まれた。ルピタはスペイン語「グアダループ」の愛称である。父親はケニアに帰国後ナイロビ大学教授を経て上院議員になっており、大臣経験者でもある。母親はAfrica Cancer Foundationの責任者をしている。
ルピタもエリートでナイロビの一流小中高一貫校を卒業後、メキシコでスペイン語、米国で映画映像の学位をとっている。女優のかたわら白子(アルビーノ)の記録映画制作もした。
まだ31歳、これからの活躍が楽しみなルピタである。


Lupita la belle kenyane
Dernière mise à jour: 24 avril, 2014 - 11:27 GMT BBC Afrique

La jeune actrice kenyane oscarisée en janvier dernier, Lupita Nyongo, a été désignée la plus belle personne du monde par un magazine américain, People.
Lupita, 31 ans, a reçu l'Oscar du second rôle féminin pour le personnage de Patsey qu'elle a campé dans le film de Steve McQueen, "12 Years a Slave".
"Ma mère m'a toujours dit que j'étais belle," a déclaré Lupita à People.
"Quand je suis partie au Mexique à 16 ans, ça a été la première fois que je me suis sentie belle," dit-elle.
Parmi les prédécesseurs de Lupita au palmarès de la plus belle personne du monde, il Cindy Crawford, Mel Gibson et Leonardo DiCaprio.
Lupita a décroché son premier deal de sponsorsip avec le géant francais du cosmétique, Lancôme.

"Je suis contente au nom de toutes les filles qui me verront (à la couverture du journal) et auront le sens d'avoir un peu plus de visibilité," a déclaré Lupita.

24 avril 2014

4月24日 古代エジプト人の食膳 Les Égyptiens de l'Antiquité étaient (presque) végétariens

Le jeudi 24 avril 2014
6時、快晴、24℃、65%。

殻付の南京豆を昨日ルーシー小母さんから買った。殻を割って豆を取り出し、フライパンで炒り出したが上手くいかない。長いこと炒っても豆が生のままだ。日を強くすれば焦げる。しょっちゅう豆をかき混ぜているわけにはいかない。そこで一計を案じた。塩を豆に混ぜるのだ。塩が湿気を吸ってくれる。成功。ピーナツが出来上がった。

ローマ時代にはピッツァもスパゲティもなかった。トマトが欧州に上陸するのは新大陸「発見」後である。スパゲティの原型は中国だから、これも大航海時代以降に導入されたものだ。
もっと古くといっても精々数千年前のことであるが、一般のエジプト人は何を食べていたのだろう。
結論は大麦をはじめとした穀類、野菜類である。エジプトの壁画を見ると牛や雁などが描かれている。けれども、これは聖職者や貴族たちが食したであろうと思われるが、一般大衆は、今日の菜食者(ただし乳製品が許容される菜食者)に似た食生活だった。
これを調査研究したのはリヨンの研究者たちである。『考古学ジャーナル』(Journal of Archaeological Science)誌の6月号に発表した。
食物の残りなどから、食物の種類を調べることができる。けれども量がわからない。そこで分析したのがアイソトープの割合だそうだ。そこでわかったのが、穀類が主であったことである。また毛髪の分析から、動物性たんぱく質の摂取量が決定できたという。
ナイルの魚が意外と一般人に食べられていなかったというのは何故なのだろうか。
一般大衆が食せるのは、今も昔も変わらないのかもしれない。RDCコンゴなら、主食がマニョック(芋)、トウモロコシの粉であり、芋の葉、カボチャの葉等々の野菜であり、多少余裕があるときにティラピアなどの魚や鳥肉、牛肉が食卓に上るのである。
記事中では同位元素のことが詳しく書かれている。しかし、中性子の数が6個から7個に増えたとして、重量がどれほど変わるのか普通は想像もつかない。どうやって計量するのか見当もつかない。記事を膨らませることはできても、読者の理解を助けてくれる説明とも思えなかった。僕が物理に弱い所為だけでもないと思う。
しかし、古代エジプトの農業や牧畜のことは既に研究されて、その耕作面積、収穫量、牧牛の頭数などもわかっているのではないか。とすれば、フレスコが上流階級の食事だと知れていれば、一般のエジプト人の食事内容もおのずと水量できる。アイソトープを持ち出すこともない結論なのではないか。
大麦の穂
今日では主としてビールの原材料のようだ
Les Égyptiens de l'Antiquité étaient (presque) végétariens

Que mangeaient les Egyptiens de l'Antiquité? Une équipe de chercheurs lyonnais s’est penchée sur la question, pour savoir si leur régime alimentaire a été impacté par le changement climatique, passant d’un milieu chaud à un milieu de plus en plus aride. Leurs résultats sont publiés dans le numéro de juin 2014 du Journal of Archaeological Science.

L’étude des restes archéologiques (pollens, graines...), permet de savoir quelles étaient les espèces végétales consommées.

Mais pour connaître la proportion d’une composante ou d’une autre dans l’alimentation, il a fallu étudier le «rapport isotopique de carbone». Qu'est-ce donc que cela? Alexandra Touzeau, doctorante au Laboratoire de géologie de Lyon et co-signataire de l’étude, explique le principe:

«Le carbone est un atome, avec des protons, des neutrons et des électrons. Il y a toujours 6 protons, mais le nombre de neutrons varie de 6 à 8. On obtient alors différents “isotopes” du carbone: le carbone 12 est composé de 6 protons et 6 neutrons, le carbone 13 de 6 protons et 7 neutrons, le carbone 14 de 6 protons et 8 neutrons... Les isotopes possédant plus de neutrons sont plus lourds: le carbone 12 est l’isotope le plus léger. Le rapport isotopique est le rapport de concentration entre  différents isotopes du carbone.»

Et le rapport isotopique est variable dans l’environnement:

«Le rapport est différent selon qu’on considère le carbone atmosphérique, le carbone des êtres vivants, ou le carbone de différentes roches. Tous les végétaux prélèvent du dioxyde de carbone pour leur photosynthèse. Ils utilisent ce carbone pour fabriquer des sucres et des protéines. Lors de l’assimilation du carbone atmosphérique, le rapport isotopique est modifié. On distingue deux grandes catégories de végétaux selon leur méthode d’assimilation du carbone: à partir du même dioxyde de carbone, ils obtiennent des rapports isotopiques dans leurs tissus (feuilles, tige...) très différents et caractéristiques de chaque catégorie de végétaux.»

On différencie donc les plantes «en C3» (quand le dioxyde de carbone se fixe sur la plante, le premier sucre produit a 3 atomes de carbone), comme l’ail, l’aubergine, les poires, le blé, et les plantes «en C4» (le même processus produit un sucre avec 4 atomes de carbone), comme le millet, le sorgho, le maïs, la canne à sucre... Du coup, c'est un bon outil d'analyse: «les rapports isotopiques du carbone (13C/12C) mesurés pour un individu dans différents tissus permettent de calculer les proportions de certaines catégories d’aliments pour cet individu», précise le résumé du CNRS.

Les chercheurs ont alors étudié différentes momies (et leurs os, leurs dents, etc.) datées de -3500 av. J-C à 500 ap. J-C, autrement dit, de la période prédynastique à la période gréco-romaine.

Résultat, les Egyptiens anciens ont «privilégié les végétaux en C3, pour environ 90%, et beaucoup moins les plantes en C4, pour environ 10%», déclare Alexandra Touzeau. Donc, ils ont préféré, tout au long de leur histoire, la consommation d’orge et de blé («en C3», si vous suivez), même s’ils avaient des échanges commerciaux avec des peuples cultivant des plantes «en C4» (millet, sorgho). Et ce régime est resté constant au cours du temps, même si les «C4» sont plus adaptées à un milieu plus aride.

Quant aux protéines animales, dont la consommation est détectée dans l’analyse des cheveux, elles sont présentes dans leur régime, mais en assez faible quantité, environ 30% du total des protéines, ce qui correspond au rapport présent chez les «ovo-lacto-végétariens actuels». Les gens mangeaient donc très peu de viande et encore moins de perche du Nil, ce qui correspond aux données historiques décrivant le salaire en nature des ouvriers, constitué surtout de céréales, légumes et légumineuses. 




Mais comme le précise Alexandra Touzeau, «ceci n’est pas vraiment en accord avec les représentations artistiques que l’on a des Egyptiens. Sur les fresques, on voit souvent des nourritures plus grasses, des vaches, des oies. Tous ces aliments n’étaient pas forcément accessibles pour le peuple, mais plutôt par les prêtres ou les nobles… ceux qui payaient les fresques».

23 avril 2014

4月23日 かっこいい『ナイル・トレイン』 «Nile Train», cool !

Le mercredi 23 avril 2014
6時、曇り、24℃、65%。ぬくい。南の空は晴れている。8時、快晴。

夜になるとジャスミンの香りが家中に漂うようになった。季節はどうも問わない。ジャスミンの木は花が枯れても直ぐに次の花が出てくる。

「ナイル列車Nile Train」という列車が今年120からスーダンの首都ハルツームからアトバラ間のサービスを始めている。リクライニング・シート、エアコン、トイレがある4両編成のモダンな列車である。中国製。白ナイルと青ナイルがハルツームで合流してナイル河となりエジプトに流れていく。そのナイルに沿って300km走る。だから「ナイル・トレイン」。
スーダンの鉄道も70年代、80年代が黄金期で、その後転落の一途だったことRDCコンゴのSNCC(国鉄、本社ルブブンバシ)と同様である。ただ、スーダンの場合はコンゴのように内戦で破壊されたわけではなく、今も政権を握るエル・バシール大統領が、組合の強い国鉄を嫌って90年代に数千人の首切りを断行、鉄道の近代化をする人がいなくなってしまったこと、さらに米国による通商禁止embargoが続いて機関車のパーツが手に入らなくなってしまったことなどが原因である。
しかし「ナイル列車」は大成功をおさめ、朝夕二回のサービスになり、さらに紅海のポート・スーダンまでの延長を計画するまでになった。バスの乗客を鉄道にひきつけている。

一方、SNCCは事故続きである。去年1140年振りに新しいディーゼル機関車を数台世銀資金で調達したが、その後SNCCのサービスが向上したとはきかない。カタンガ州中央カミナ(ルブンバシから600km)近くで22()に起こした事故は脱線事故で犠牲者数もまだつかめていないが、30名とも100名を越すとも言われている。下り坂でのスピードの出し過ぎが原因という話であるが真偽のほどは不明。先々月2月には貨物列車の脱線事故を含め3件の事故で20名以上が死亡している。
SNCCでカレミ(タンガニーカ湖畔)やディロロ(アンゴラ国境)、イレボ(西カサイ州、キンシャサへの定期船乗り場)に列車で快適な旅行ができる時代は何時来るのだろうか。SNCCにいわせれば、既にこれらの地方に行く列車が運行されているというが、さて、ルブンバシから乗ったとして、何時着くのか分からないのである。1週間後?半月後?
 『ナイル・トレイン』
かっこいいじゃないですか!
(スーダン)
Dans le Soudan pauvre et poussiéreux, un train moderne fait sensation
Slate Afrique mis à jour le 22/04/2014 à 11:08

Dans un Soudan frappé par la pauvreté et où les trains ont parfois plus de 40 ans d'âge, le "Nile Train", fuselé et blanc immaculé, fait un peu figure d'extra-terrestre.

Ce train de voyageurs est entré en service le 20 janvier, une première depuis des années, dans le cadre des efforts pour relancer le réseau ferroviaire du pays.

"Ce nouveau train est vraiment, vraiment moderne", assure Ahmed Hussein, le directeur de projets de la Sudan Railways Corporation.

Chaque matin à 09H00, le train composé de quatre voitures, qui fonctionne avec un moteur diesel, part de Khartoum pour Atbara, à 300 km au nord.

Le trajet dure 6h40, soit deux fois plus de temps qu'en bus mais bien moins qu'avec les vieux trains qui desservent le reste du pays.

Si le trajet est si long, c'est que le train, capable d'atteindre en théorie les 100 km/h, doit rouler au pas en raison du délabrement de la voie ferrée.

Malgré cet inconvénient, le "Nile Train" a rencontré un tel succès qu'en mars, un deuxième train part le soir pour faire ce même trajet Khartoum-Atbara, alors que la route reliant les deux villes est chaque jour engorgée par les bus, les camions et les voitures.

Selon M. Hussein, le train peut transporter 284 passagers et est chaque fois quasi plein.

Les deux trains en circulation ont été achetés à la Chine, un pays avec lequel le Soudan a des liens économiques étroits, pour un coût total de 13 millions de dollars, explique M. Hussein.

- Climatisé, toilettes modernes, sièges confortables -

"Je pense que la plupart des gens qui voyagent entre Khartoum et Atbara arrêteront de prendre le bus et choisiront ce nouveau train", estime Hannah Ali Mohammed, 35 ans, s'émerveillant du fait que, contrairement aux autres trains, le "Nile train" soit climatisé. Sans compter ses toilettes modernes et ses sièges confortables.

Ahmed Al-Haj Omer, un étudiant de 23 ans, prend ce train pour la première fois. "J'ai aimé", dit-il. "C'est plus sûr. Il y a beaucoup d'accidents de bus sur la route Khartoum-Atbara".

Plus sûr, mais aussi plus économique: un billet coûte six dollars, deux fois moins qu'un ticket de bus.

- Moteurs des années... 70 -

Le chemin de fer au Soudan a connu son heure de gloire dans les années 1960 et 1970, avant de fortement décliner au fil du temps.

Le manque de fonds a empêché un entretien régulier du réseau, mais des facteurs politiques ont aussi contribué au déclin, affirme Mahjoub Mohamed Salih, un éditorialiste connu.

Ainsi, le gouvernement du président Omar el-Béchir, redoutant le puissant syndicat des cheminots, avait renvoyé des milliers d'entre eux dans les années 1990.

En outre, à cause de l'embargo imposé par les Etats-Unis depuis 1997, les moteurs de fabrication américaine ne marchent plus faute de pièces de rechange, explique Mohamed Oro Saliem Mohamed, responsable des locomotives au sein de la Sudan Railways Corporation.

Il a fallu maintenir en service d'anciens moteurs, dont certains datent selon lui des années 1970.

L'objectif est donc de moderniser le réseau, mais le piteux état des rails reste le premier obstacle, insiste M. Hussein.

Des sociétés soudanaises et chinoises ont commencé à remplacer le bois des traverses par du béton sur la ligne Khartoum-Atbara, et des travaux ont également débuté entre Atbara et Port Soudan, un centre économique important sur la mer Rouge.

Ce n'est qu'après ces rénovations qu'un service de trains modernes pourra d'étendre. Or, un tel réseau efficace serait un atout pour le pays, plongé dans une crise économique aiguë.

En choisissant l'indépendance en 2011, le Soudan du Sud, qui détient la majorité des réserves pétrolières de l'ancien Soudan, a en effet privé Khartoum de milliards de dollars de revenus d'exportation.

Depuis, le pays est à cours de liquidités, et la livre soudanaise a plongé sur le marché noir, tandis que l'inflation grimpe en flèche.


Dans ce contexte, le Soudan souhaite développer ses exportations de produits agricoles. Et dans ce domaine aussi, "le chemin de fer reste le moyen le moins cher", rappelle Mahjoub Mohamed Salih.