28 novembre 2015

11月28日 ブルンディ危機が南キヴ州(RDCコンゴ)に悪影響 RDC : la crise au Burundi commence à avoir des conséquences au Sud-Kivu

Le samedi 28 novembre 2015
6時半、晴れ、25℃、65%。

ネット回復。

コンゴ人作家ジャン・ボファヌIn Koli Jean Bofane氏がフランス語圏5大陸文学賞を得た。今月22日マリのバマコで授賞式があるはずだったが、バマコのホテル襲撃事件のため延期になった。
ボファヌ氏の作品を読んでみたいが、フランス文化センター図書館にあるだろうか。処女作は『ライオンはもはや百獣の王ではない』(1996年)。受賞作が『コンゴ・インコーポレーション、ビスマルクの遺言』(2014年)。タイトルをみただけで読んでみたくなる。ユーモアと風刺がきいている作品なのだそうだ。
ボファヌ氏は1993年にベルギーに移住した。RDCコンゴには本屋もないし、読者もいない。

ブルンディの政情不安がコンゴに影響をきたしている。
ブルンディの首都ブジュンブラとRDCコンゴ南キヴ州第二の都市ウビラUviraとは30㎞しか離れていない。いずれもタンガニーカ湖畔に位置する都市だ。
ウビラからブジュンブラ大学に留学している学生も多いようだ。南キヴ州からキンシャサやルブンバシの大学にはいるよりも、ブジュンブラ大学の方が程度が高く、ウビラから極めて近いので、学生たちはブジュンブラを選択するという。ブカブ(南キヴ州の州都)からの学生もいる。ブカブはルワンダ(首都キガリ)が近いが、ルワンダは公用語がフランス語から英語になってきている。ブルンジはスワヒリ語も通じるしフランス語圏だ。学生の選択はなるほどと思う。
しかし、ブジュンブラでは毎日のように銃撃戦がある。Wait and see状態だが、早晩、ルブンバシに来ることを考えている学生も多いらしい。
ウビラの商店もモンバサ(ケニア)やダルエスサラム(タンザニア)から入る商品がブルンディ内戦の影響を受けて輸入が不自由になってきた。
さらにブルンジから難民がコンゴに入ってきている。南キヴ州も武装強盗集団マイマイなどがはびこっている地域だが、それでもブルディよりは都会(ウビラ)などはましということのようだ。ただでさえ貧しいRDCコンゴにとって難民も負担になっている。

世が世なれば、キヴ湖畔のゴマ(北キヴ州)、タンガニーカ湖畔のブカブ(南キヴ州、ウビラの北120km)、ウビラ(南キヴ州)、カレミ(カタンガ州)などは風光明媚、観光資源も豊富で、タンガニーカ東岸のキゴマ(タンザニア)に負けないどころか、ツーリストであふれる町になっていたはずである。それを思うと、辛く悲しい思いでいっぱいになる。
ウビラ(南キヴ州、RDCコンゴ)
タンガニーカ湖畔
RDC : la crise au Burundi commence à avoir des conséquences au Sud-Kivu
Jeune Afrique
De nombreux étudiants congolais à Bujumbura ont décidé de rentrer chez eux, dans le Sud-Kivu, le temps des violences. De même, les activités marchandes sont perturbées par les troubles au Burundi.

Bujumbura tente d'obtenir l'extradition de Belgique d'un journaliste burundais
 Bujumbura dénonce les sanctions prises par Obama
Deux morts dans l'attaque d'un bar dans l'est du Burundi, une première dans cette zone
Burundi: Obama impose des sanctions contre quatre hauts responsables
Burundi: le gouvernement interdit "provisoirement" d'activité les principales ONG locales

Étudiants privés d'université, difficultés d'approvisionnement pour les commerçants: les conséquences de la crise au Burundi voisin commencent à se faire durement sentir au Sud-Kivu, dans l'est de la République démocratique du Congo.

Au poste-frontière de Kamvimvira, entre Bujumbura et la ville congolaise d'Uvira, à la pointe nord du lac Tanganyika, toute la déception du monde se lit sur le visage de Fiston Mukulu, étudiant congolais en communication de retour au pays faute de pouvoir continuer à étudier dans la capitale burundaise.

"Les coups de feu réguliers m'ont contraint à rentrer au Congo (...) Si la situation ne change pas ce sera donc une année (de perdue) pour moi", faute de pouvoir trouver une inscription au Congo plus d'un mois après la rentrée universitaire, dit-il.

Enclavé et loin de la capitale congolaise, la province du Sud-Kivu est naturellement tournée vers l'Afrique de l'Est, à commencer par ses voisins les plus proches, le Rwanda et le Burundi.

Les échanges sont facilités par une communauté de langage puisque l'est de la RDC marque la limite occidentale d'expansion du swahili, langue véhiculaire dans toute la région.

Jusqu'au début des troubles provoqués par la candidature, en avril, du président burundais Pierre Nkurunziza à un troisième mandat, le Burundi présentait un niveau de développement supérieur à celui de la RDC, pays parmi les moins avancés au monde.

Quand ils en ont les moyens, bien des habitants du Sud-Kivu préfèrent que leurs enfants étudient au Burundi, où les études sont moins chères et jugées de meilleure qualité.

C'est mieux que de les envoyer "à Kinshasa ou à Lubumbashi (la grande ville du sud-est de la RDC) où le transport et les études coutent très cher", explique Ely Itumu dont l'enfant est inscrit en faculté à Bujumbura.

Mais avec l'intensification des violences depuis l'élection en juillet de M. Nkurunziza lors d'un scrutin dénoncé par l'opposition et la communauté internationale, les études tournent au cauchemar pour les Congolais à Bujumbura.


"On ne peut pas étudier quand chaque soir les balles sifflent et qu'on ne peut pas se déplacer d'un quartier à l'autre", témoigne Gladys Maronyi, étudiant en télécommunication.

11月27日 アフリカの「児童婚」に歯止めを! L’UA se penche sur les mariages précoces

Le vendredi 27 novembre 2015
6時半、快晴、2565。久々に朝からカタンガ晴れ。

11時ころからネット不通。Vodacom

今年はバナナが豊作だった。マンゴは小さな実の木が豊作。大きな実の方は不作だ。アボカドは昨日大きくなった実を切って米袋に入れた。熟させるためである。パパイアはメス株が倒れたので、新たに小さな苗を植えよう。実がなるまで僕が生きているかどうか。

1130日(月)から10日間ブログの更新が難しいかもしれない。ある研修の日仏通訳を引き受けたため。

ガンビア(首都バンジュル)というと悪いニュースしか飛び込んでこないが、ヤヒア・ジャメ大統領が女児の割礼excisionを禁止し、傷害罪にあたると声明した。女性の喝采をあびたという。国連は以前からこの慣習を非難している。独裁者ジャメ大統領の一声で女児割礼がなくなるのだろうか。

アフリカのどの国でも法律上の結婚年齢は18歳に引き上げられている。伝統的には14歳、15歳で結婚していた。独立後女児就学が一般となったけれども、14歳で結婚、「中学」をやめる例がいくらもあった。30代で孫がいるようになる。
アフリカ連合(UA、本部アジスアベバ、エチオピア)が初めて18歳未満の女子の結婚問題について話し合う。
ウガンダでは小中学の学費を無料にして子どもたちの就学を奨励する策に出た。そうした政策をアフリカ大陸に広げたいというのがUAの意向である。
カタンガ州には日本人を父親として生まれた子どもたちが集まってNPOを作った。この子どもたちの母親が結婚したのは多く14歳や15歳であった。
アフリカ人は早熟だ、というのは俗説で、実際は栄養が悪く遅熟とさえいえるのである。幼い子どもたちが母親になってしまう。彼女らの子ども(乳児)の死亡率も高い。

L’UA se penche sur les mariages précoces
BBC Afrique

L'UA organise son premier colloque sur le mariage précoce de jeunes filles
C’est l'ouverture aujourd'hui du premier colloque de l'Union africaine pour la fin des mariages précoces de jeunes filles.
La rencontre se tiendra en présence de plusieurs ministres de pays africains et de représentants d'ONG et d'agences de l'ONU.
En Ouganda, 40% des jeunes filles se marient avant d'avoir 18 ans, selon des chiffres officiels. Dans les régions du nord, le phénomène est encore plus prononcé. Dans cette zone, 55% des jeunes filles se marient avant d'avoir 18 ans.
Le gouvernement ougandais a introduit la gratuité de la scolarisation au primaire tout comme au secondaire pour essayer de motiver les filles et les garçons à rester à l'école.
« Nous avons plutôt besoin d'une attitude positive par rapport à l'éducation des filles en particulier, et l'éducation en général afin de réduire les mariages précoces », explique Bakshi Asuman de l’organisation Reach a hand Uganda.

Selon l’Unicef, une fille sur trois est mariée avant l’âge de 18 ans sur le continent. L’Union africaine veut fixer l’âge légal du mariage à 18 ans.

26 novembre 2015

11月26日 『14歳の兵士ザザ』 『Zaza, soldat enfant de 14 ans』

Le jeudi 26 novembre 2015
6時半、曇り、24℃、65%。

テレビ東京から見えたEさんから漫画『14歳の兵士ザザ』をいただいた。本ブログの924日号で紹介した漫画である。大石賢一氏原作。石川森彦氏作画。赤十字国際委員会監修。

1時間ほどで読めた。感動しなかったといえば嘘になる。しかし、コンゴの実態とは相当違うなぁ、というのが印象だった。
思考が全く日本式だから、起こっているドラマは日本のドラマでしかない。主人公ザザ、少年兵はコンゴ人とは思えない考え方をするし、絵も顔が黒いだけで日本の少年そのものだ。第一、ザザというのはコンゴを含むフランス語圏では女の子の名前だ。アフリカ起源の名前には違いないが。
「ザザ」君
「ザカ」君とか「ゼレ」君とかにしておけば
男の子の名前になった
再読して気になったことを列挙していく。
(こういう指摘は「意地悪」にあたるのかなぁ。)

ザザと並んで主人公であるコミック・シナリオ・ライター神田がRDCコンゴに入国前に日本で予防注射をする。14本。いかにもアフリカは病気の宝庫。しかし、WHOが義務付けているのは黄熱病だけである。アフリカは怖い、「マラリアにエボラまである」というが、徒にアフリカを「暗黒大陸」化しているとしか思えない。しかも費用が20万以上かかってはアフリカにくるのにみんな躊躇してしまう。

アフリカといえばジャングル。神田はルワンダの首都キガリから「ジャングル」を通ってRDCコンゴのブカブ(作品ではアヴリと架空の都市にしている)に入るが、コンゴでも広大なジャングル(熱帯雨林)があるのは赤道州、オリエンタル州で南北キヴ州はサバンナ、しかも標高が富士山より高い山が連なるサバンナ地帯である。
キヴ湖からブカブ市を望む
キガリでジェノサイド記念館を神田が訪問する。この記念館は現カガメ政権によるツチ人だけが犠牲者となったというジェノサイドのシナリオでできた記念館で客観性がない。その記念館を漫画に登場させた理由はなんだろうか。無知または無関心。

都市ブカブ(南キヴ州の州都)も名前を変えられたが、キヴ湖もガラ湖という名になってしまった。ブカブはベルギーの友人でクリスチャンに学校でフランス語を教えているドミニクさんによれば、キヴ湖畔の瀟洒な町だ。そのまま名前を残して欲しかった。
ブカブには確かに国際赤十字のコンゴ事務所が存在する。

架空都市アヴリAveliを登場させたはいいが、その街にある銀行の看板が「Banque de Aveli」とある。「Banque d’Aveli」とならなければいけない。「Banque d’Algérie」のように。この作品は英仏等に国際赤十字によって翻訳されるらしいから注意した方がいいと思う。

武装集団が、この銀行の襲撃計画する場面がある。金塊があるというのだ。ありえない。スイスの銀行ではないのだ。金はコンゴのいたるところで採れるが金を銀行に預ける人はいない。

ザザの故郷の村アマンギが出てくる。アマンギというのも架空の名前。アヴリから遠くないようだが、村落である。先ず電気も水道もないはずだ。ルブンバシから僕のいるキプシの途中の村、ブカブより遥かに大都市のルブンバシから18㎞のミンブル村にさえ、電気も水道もない。携帯電話も通じない。ましてやオートクチュール店などありようもない。
村の女性はワンピースなど着ていない。パーニュpagneと呼ばれる腰巻が普通だ。男性はTシャツにジーンズになってしまったが、女性はたいていパーニュである。ミニではなく普通の丈のスカートをはいていることも珍しい。
髪型もコンゴ風ではない。大石氏が多数の写真を撮っているはずだが、何故参考にしなかったのか。男が坊主頭以外の髪形をしているのも考えづらい。コンゴでは歌手など芸能人
村の女性や子どもたち
を除いたら、大統領から会社員、学生、庭師まで例外なく坊主頭である。

重要な小道具に笛が出てくる。伝統的な楽器としていくつも穴の開いた笛はないと思う。現代の話だから母親が学校で習ったオカリナが吹けるかもしれない。しかし、学校で音楽の時間があるというのは極めて稀であろう。習ったとすれば教会になる。それでも昼食の集合の合図にメロディーのある曲を奏でるというのは出来すぎである。タムタム太鼓ならありえないことではないかもしれない。

国際赤十字信条紹介がある。公平、中立だ。これは赤十字の赤十字たるところ。その中立性を批判してできたNPOが「国境なき医師団」であることを忘れてはなるまい。特にRDCコンゴの正規軍は、村々で略奪、強姦、破壊をすることも多々あると知られているのだ。漫画の中ではまるで正義の味方だが。そうした正規軍、政府を国境なき医師団は批判する。赤十字は沈黙するのみ。監修が赤十字国際委員会だからまさか自己批判するわけにもいかないだろう。

他にも多々問題点がありそうだが、興味が湧いたのはアフリカ大陸人類起源説の中で俗説と思われるミトコンドリア・イヴÈve mitochondrialeが冒頭と最終に出てきている話である。人類の祖母としてのイヴだ。
アダムはいないのかとWikipediaを見たら、Y染色体アダムAdam Y-chromosomiqueというのがあった。イタリアの生物学者が男系祖先を142000前と推定した。いずれもアフリカに行き着いている。人類愛の強調として面白いと思った。


結論として、先入観ではなく、アフリカの現実に即したストーリー及び漫画を制作していただきたかった。

25 novembre 2015

11月25日 モブツ独裁発足から50年 RDC: il y a 50 ans, Mobutu s'emparait du pouvoir dans l'ex-Congo belge

Le mercredi 25 novembre 2015
6時半、曇り、26℃、65%。9時、晴れ。1615分、雷雨。

テロ。今度はまたもチュニジア。
こんなニュースばかりで嫌になっちゃう。大統領府護衛隊のバスが爆破され、犠牲者は12名以上という。メディアの受け手である僕たちは、こうして麻痺してゆく。

50年前の19651124日、RDCコンゴにモブツなる独裁者が誕生した。1997LDカビラ(現大統領ジョゼフ・カビラの父親)が追い出すまで強力な23年間独裁制を敷いた。国名も後にザイールと改名した。しかし、国内は東西陣営に影響された反乱が絶えなかった。その度にモブツは傭兵や外国軍の助けを借りていた。

モブツ時代は暗黒の時代だったのだろうか。
言論の自由はなかった。一党独裁で多党制はモブツの晩年からだ。しかし、ベルギー植民地時代の遺産(鉄道、郵便、、電力供給、幹線道路、コンゴ河の船舶、ユニオン・ミニエールからジェカミンとなった大企業等)は機能していた。警官などの賄賂請求は現在より少なく、都会はより安全だったようだ。一般大衆も外国人に親切だったと聞く。総体的に国民の暮らしは今よりよかったといえるだろう。
モブツはナショナリズムをくすぐり、自分が死に追いやったルムンバを英雄に仕立てることにも成功した。
年齢の高い層(40歳以上)ではモブツ時代を懐かしむ声も聞こえる。たしかにその時代の暗闇を忘れているということもあるだろう。しかし、理由がないことではない。

2期とはいえ若い現大統領カビラは国連総長に文書で、元国連総長のアナン氏などアフリカの指導者たちから調停者を出して欲しいと願い出たようだ。国内の政治が膠着状態だからだ。現カビラ氏はモブツにはなれない。それがよいことか悪いことかは別として。
モブツ大統領
50年前に独裁が始まった
コンゴ(ザイール)
RDC: il y a 50 ans, Mobutu s'emparait du pouvoir dans l'ex-Congo belge -
Belga News

Il y a 50 ans, le général Joseph-Désiré Mobutu s'emparait du pouvoir dans le jeune Etat du Congo (ex-belge) par un coup d'Etat. Il allait diriger le pays - ensuite rebaptisé Zaïre - d'une main de fer durant près de 32 ans, jusqu'en 1997, pour fuir l'offensive d'une rébellion conduite par Laurent-Désiré Kabila, le père de l'actuel président, et décéder quelques mois plus tard en exil au Maroc.

La légende situe ce putsch au 24 novembre 1965, mais cette journée n'a été consacrée qu'aux préparatifs du renversement du président Joseph Kasa-Vubu, la prise de Radio-Léopoldville (aujourd'hui Kinshasa) et le renversement du chef de l'Etat n'intervenant que le lendemain.

Mobutu, un ancien enrôlé dans la Force publique (l'"armée" du Congo belge) ayant touché au journalisme, avait rapidement grimpé dans la hiérarchie de l'Armée nationale congolaise (ANC), devenant colonel. C'est revêtu de ce grade que le 14 septembre 1960 - deux mois et demi après l'indépendance - il fomente un premier coup d'Etat militaire. Le Parlement et la Constitution sont suspendus. Et le 19 septembre 1960, le colonel Mobutu instaure un Collège des Commissaires généraux remplaçant les organes du pouvoir.

Il accuse ensuite le Premier ministre Patrice Emery Lumumba de sympathie pro-communiste. Lumumba tente de s'enfuir à Stanleyville (actuellement Kisangani), mais est rattrapé en chemin par les soldats. Mobutu le fait mettre en prison, où il est maltraité et torturé. Il est ensuite envoyé au Katanga sécessionniste de Moïse Tshombe, où il est assassiné le 17 janvier 1961. La province ne retourne sous l'autorité du gouvernement central qu'en 1963.

Et en 1964 et 1965, une vaste rébellion d'inspiration communiste embrase le pays, faisant 500.000 morts.

Souhaitant y mettre fin, Mobutu organise le 24 novembre 1965 un second coup d'Etat. Il commence ainsi un long règne, appuyé à partir de 1967 sur son parti-Etat, le Mouvement populaire de la Révolution (MPR).

En 1971, le pays devient la République du Zaïre et Mobutu procède à la "zaïrianisation", nationalisant les biens des entreprises étrangères et plaçant des nationaux à la tête de toutes les grandes entreprises et industries.

Le dictateur en herbe a quant à lui échangé son nom de baptême chrétien pour celui, plus authentique de "Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa Za Banga" qui signifie "le guerrier qui va de victoire en victoire sans que personne ne puisse l'arrêter".

Ce n'est qu'en 1990 que l'entre-temps maréchal Mobutu Sese Seko décrète la fin du MPR qui dirigeait le pays sans partage depuis 1967, lançant ainsi un long processus de démocratisation qui n'a véritablement abouti que seize ans plus tard, lors des élections générales de 2006.

Sentant le vent de la démocratisation souffler en Europe de l'est après la chute du mur de Berlin en novembre 1989 - qui avait entraîné l'exécution du dictateur roumain Nicolae Ceaucescu, son ami - et avant même le discours du président français François Mitterrand lors du sommet franco-africain de La Baule, en juin 1990, liant l'aide aux pays africains au processus de démocratisation, le président-maréchal-fondateur du MPR avait décidé le 24 avril 1990 de tenter, selon ses propres termes, "l'expérience du pluralisme politique".

Après le désastreux épisode de la Conférence nationale souveraine (CNS), qui avait adopté, le 4 août 1992, un "Acte constitutionnel de la transition" - jamais appliqué dans les faits, Mobutu est chassé du pouvoir le 17 mai 1997. Il fuit l'arrivée à Kinshasa d'une rébellion, l'Alliance des Forces démocratiques de Libération du Congo (AFDL, soutenue par le Rwanda et l'Ouganda), née quelques mois plus tôt dans l'est de l'immense Zaïre, aussitôt rebaptisé République démocratique du Congo (RDC) par son nouveau leader, Laurent-Désiré Kabila.

Contraint à l'exil après 32 ans au pouvoir, Mobutu décéde le 7 septembre 1997 au Maroc d'un cancer de la prostate. Sa dépouille repose - "provisoirement" selon ses proches - dans le carré chrétien du cimetière de Rabat.


11月24日 カメルーンで女性「カミカゼ」 Quatre femmes kamikazes font 9 morts

Le mardi 24 novembre 2015
6時半、薄曇り、25℃、62.5%。昼間はいつも晴れ。かなり暑い。

疲れが抜けないので肝炎が心配になった。でも、1990年に肝炎になった時の症状は全く出ていないのでちょっと安心。

羽蟻がバスタブで死んでいた。まだ大量の羽蟻の発生がない。雨季になると毎年夜間羽蟻が家に入ってくる。まもなくだろう。

天から、父母から命をいただいて人は生きている。その命を粗末にするのが「カミカゼ」だ。
21日(土)カメルーンの最北端、ナイジェリアの東北部でボコ・ハラムの勢力圏と国境を接するフォトコル市で女性の「カミカゼ」が酋長の家を襲った。死者は4人の「カミカゼ」を含めて9人だった。最近ボコ・ハラムは女性の「カミカゼ」をよく使う。女性の方が身に着けた爆弾を隠しやすく、あまり怪しまれない。

テロリストにはテロ行為をする理由があるという。暴力、軍事力ではテロを撲滅することはできないという。
ボコハラムにはどういう理由があるのだろうか。アルカイダにはどんな正義があるのだろうか。ダエシュ(イスラム国)は何を目指しているのだろうか。
声明を読み上げるボコ・ハラム
Quatre femmes kamikazes font 9 morts
22 novembre 2015  BBC Afrique

Plusieurs attentats-suicide perpétrés par des femmes ont secoué samedi une localité des environs de Fotokol, dans l'extrême-nord du Cameroun.
Une première kamikaze a actionné sa ceinture d'explosifs dans le domicile d'un chef traditionnel qui était absent de la maison mais dont quatre proches font partie des personnes tuées dans l'explosion.
Trois autres kamikazes ont déclenché leurs charges à proximité du premier site, mais sans faire d'autres victimes qu’elles-mêmes.

Le colonel Didier Badjeck, porte-parole de l'armée camerounaise a indiqué à la BBC que l’intérieur du Cameroun étant étroitement surveillé par les forces de sécurité du pays, les djihadistes changent de mode opératoire et essaient désormais d’attaquer du côté des frontières.

23 novembre 2015

11月23日 日本の援助でルブンバシINPP(職業訓練学校)再建契約調印 27 millions USD du Japon pour la construction d’un nouveau site d’exploitation de l’INPP/Katanga

Le lundi 23 novembre 2015
6時、曇り、24℃、65%。

昼間、僕の家の敷地にマンゴー泥棒が入ってきた。部屋で門の開く音が聞こえたので、何事かと思って窓から見ると、バイクタクシーの運転手らしき若者二人がマンゴーを持って庭の道を歩いて出て行こうとしていた。怒鳴ると、えへらえへらと笑って逃げた。
マドンナちゃん(ロートヴァイラー)がいた頃は庭に侵入しようなどという輩はいなかった。45㎏もあり、鋭い歯をもったマドンナちゃんは頼もしかった。
番犬を探そう。

日本がRDCコンゴはカタンガ州の職業研修に貢献する。
RDCコンゴの国家職業訓練学校Institut national de préparation professionnelle (INPP)は全国主要都市(キンシャサ、ルブンバシ、キサンガニ、ゴマ、ムブジマイ、ムバンダカ等)にある。そのうちキンシャサのINPPの再生を日本が既に手伝い今年完成させている。
こんごはルブンバシの番だ。
21日(土)日本の牛尾大使とRDCコンゴ外務大臣レイモン・チバンダ氏がキンシャサでルブンバシINPPの再建契約を結んだ。2700万ドルの無償援助。
このプロジェクト自体を僕は早くから知っていたが、来年の調印だろうと思っていた。早期に実現したのは牛尾大使の熱意と実力のお蔭だろう。
僕がブログ『アフリカの星』を書いているのは、日本の皆さまにアフリカを、とりわけRDCコンゴの実態を知ってもらいたいからだが、同時に日本企業に来てもらいたいからでもある。企業進出は失業問題の最大の解決手段である。
記事にもあるように、INPPで質の高い職業訓練を提供できると、日本企業が来た場合に優秀な、訓練を経た人材を得ることができる可能性が高まるのである。日本企業進出への有効な側面支援と云える。単なる「箱もの」無償援助ではない。ありがたい援助である。
キンシャサINPP
今年2月に開校式があった
中央が大統領、右に3人目が牛尾大使
27 millions USD du Japon pour la construction d’un nouveau site d’exploitation de l’INPP/Katanga

Le ministre des Affaires étrangères, Raymond Tshibanda et l’ambassadeur du japon en RDC, Shigeru Ushio, ont signé samedi 21 novembre à Kinshasa l’accord d’un don de trois milliards deux cent cinquante millions de yen japonais, soit environ vingt sept millions de dollars américains pour le projet d’aménagement de la direction provinciale de l’institut national de préparation professionnelle (INPP) à Lubumbashi, province du Haut Katanga.
Cet accord a été signé en présence du vice-Premier ministre, ministre de l’Emploi, travail et prévoyance sociale, Willy Makiashi.

A cette occasion, le ministre Tshibanda a exprimé au gouvernement japonais et à son peuple la satisfaction et la gratitude de son gouvernement pour ce partenariat axé sur les actions concrètes à impact visible et qui constituent une contribution «significative» aux efforts de développement socio-économique du pays, a-t-il dit.

L’appui du gouvernement japonais à la RDC, à travers l’INPP, est un exemple éloquent d’une coopération agissante et exemplaire, a-t-il renchéri, avant de souligner que « si hier le pont Maréchal sur le fleuve Congo était le symbole de la coopération japonaise en RDC, l’INPP a pris aujourd’hui le relais, en raison des infrastructures développées et modernisées à Kinshasa et à Goma (province du Nord-Kivu) et celles en instance de construction à Mbandaka, à Lubumbashi, à Kisangani et à Mbuji-Mayi ».

Pour le ministre des Affaires, l’appui du gouvernement japonais à la RDC dans le domaine de la formation professionnelle est une réponse aux besoins des métiers d’aujourd’hui, a soutenu le ministre, faisant savoir que «c’est une démarche pédagogique moderne orientée vers une formation qui prend en compte le métier,  la compétence et soutient l’esprit d’entreprendre». Cette politique s’inscrit dans la vision de la Révolution de la modernité prônée par le président de la République Joseph Kabila Kabange qui veut faire du Congo un pool d’intelligences et de savoir-faire ainsi qu’un levier de la nouvelle citoyenneté et de la classe moyenne.

Le chef de la diplomatie congolaise a encouragé aussi le «management efficace» de l’Administrateur directeur général de l’INPP, Maurice Tshikuya Kayembe, et la « pertinence de la coopération japonaise »  permettant à la population congolaise de bénéficier d’une formation professionnelle moderne. A ce rythme la nation congolaise pourra relever le défi de l’horizon 2030 qui veut que 30 millions, soit 50 mille par an, de personnes qualifiées arrivent sur le marché de l’emploi dotées d’un esprit de entrepreneuriat, a conclu le ministre des Affaires étrangères.

Une clé pour le développement économique Haut Katanga

Pour sa part, l’ambassadeur japonais Shigeru Ushio, a indiqué que le soutien du japon à l’INPP/Lubumbashi revêt d’une importance particulière dans la mesure où de nombreuses entreprises japonaises qui opéraient au Katanga dans les années 70 et 80 dans le secteur minier, espéraient que la RDC attirera à nouveau les entreprises japonaises en ce moment où le pays s’achemine vers sa reconstruction et son développement.

M. Shigeru, qui a rappelé la remise vendredi du prix de mérite de la coopération japonaise à Maurice Tshikuya, a fait savoir que ce dernier «est un grand promoteur de la philosophie japonaise» basée sur la culture du travail «Kaizen». «Son leadership et son management ont permis d’aboutir à cette série des projets de coopération», a fait remarquer le diplomate japonais, rappelant que la coopération nippone s’étend dans plusieurs domaines en RDC.

Trente millions des personnes à former d’ici 2030

L’INPP s’est préparé pour former trente millions des personnes selon les besoins des entreprises locales conformément au vœu du gouvernement de la République de faire de la RDC un pays émergent à l’horizon 2030, a dit l’ADG Tshikuya soulignant que l’INPP forme pour le moment 30 mille personnes par an. La construction et l’équipement en cours de nouvelles infrastructures permettront de former 50 mille personnes l’an, pour répondre ainsi à la volonté du gouvernement, a-t-il rassuré.

Par ailleurs, M. Tshikuya a rendu hommage au président de la République, Joseph Kabila Kabange, pour son esprit d’ouverture diplomatique ayant permis à l’INPP de bénéficier d’un appui japonais dont la coopération est exemplaire, réaliste et fondée sur les besoins nationaux.

Cet accompagnement a apporté la modernisation de l’institut, a-t-il indiqué, soutenant que le cheval de bataille de l’INPP est de créer un marché local de production et de consommation des biens et des services, gage de l’émergence du pays à l’horizon 2030.



Kinshasa, 23/11/2015 (ACP / MCN, via mediacongo.net)

22 novembre 2015

11月13日~22日 『世界ナゼそこに?日本人』 Pourquoi es-tu dans ce coin du monde ?

Le vendredi 13 le dimanche 22 novembre 2015

庭の百日紅の花が満開になった。この木が百日紅だと教えてくれたのりちゃんはもういない。2013年3月25日だった。手前のハイビスカスと違って、百日紅は毎年この時期にしか咲かない。後ろの夾竹桃はやはり亡くなった親友S君の奥さんが名前を教えてくれた。
サルスベリ
lilas d'été
13日(金)東京から、『世界ナゼそこに?日本人』というテレビ東京の番組の方が2名取材にみえた。
僕はこの番組を殆ど知らない。日本で見たような気もするが記憶にない。エンタテイメントのようだ。ザンビアで取材を受けた方がいて、出演料がいただけると云うので引き受けた。貧乏な僕としては臨時収入はありがたい。僕のNPO「日本カタンガ協会」にも貢献できるかもしれない、そう思った。

ただ、RDCコンゴという特殊な国で取材が難しいだろう、思わぬ事件が起こるのが心配だった。事件は起こらぬでもなかったが無事取材を終えた。
レンタルしてもらった僕の四駆三菱L200がトラブルで、運営しているミニバス(ハイエース)に乗ってもらったりと取材陣にはご迷惑をおかけした。

どんな編集がされてTV放映となるかは定かではない。しかし、「俎板の鯉」だ。僕の人生は波乱万丈などというものではない。平凡だと思ってきた。ただ住むところ(国)はいつも僕が選んだ。

ともかく疲れた。昨夜は皿洗いも放り出して寝てしまった。フェイスブックでコメントしてくれた妹によれば、車のタイヤを交換したときに肋骨が折れているいうのだが、今は息を深く吸い込んでも痛みがなくなってきた。Tant mieux ¡ (よかった!)。疲労困憊の所為は歳だけじゃなくて精神的な負担もあったかもしれない。

息子クリスチャンもよく対応してくれた。周りの奇異な目にさらされて可哀想だった。僕が買ってあげられないナイキの高級サッカーシューズやサッカーウェアーを東京で買ってプレゼントしてもらったので我慢したのかな。

この取材、明日(月)、担当のEさんをルブンバシ空港に送って終わる。
なんとか番組が「日本カタンガ協会」の活動、特に父親を日本人として生まれたコンゴの子どもたちと日本人の孫たちの役にたって欲しいと望む。なにしろ子どもたちは50人前後だが、孫たちは200人を超えてしまった。一部を除いて酷く貧しい、全くの赤貧の中にいる。お金を彼らに配りたいのではない。教育を受けさせたいのである。


13日金曜日という日を選んだパリのテロ事件、一週間後の金曜日にはバマコ(マリ国首都)のホテルで人質事件があった週、多くの命が奪われた。テロの標的が一般に及んだわけで、何故彼女が彼が殺されたのかと思う。それはまさに不条理(「absurdité」の翻訳語で難しすぎる。実は「馬鹿らしい、ナンセンス」だ)、ナンセンスそのもので、理由がないのだが、いたましい限りである。

家の中でもそろそろと身体をいたわって歩いている。大袈裟かなぁ。

昼近く1140分、雷が鳴って停電。1220分、回復。ところが、停電の所為か断水。英仏通訳の学生が来るので昼飯でも作るか。KTOでフランチェスコ教皇のミサを聴きながらパスタを煮た。
パスタを作ったのが間違いだった。この学生、ファルファルラを知らなかったし、生クリームもハムも知らなかった。国際外交を勉強しているって? 国際性ゼロじゃないか。クリスチャンなら、僕の作ったパスタを喜んで食べる。欠食児童だからかなぁ。