28 avril 2011

4月25、26日 les 25 et 26 avril 2011 コロンゴ航空 Korongo Airlines

Le lundi 25 avril 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度57,5%。
復活祭、Lundi Pâque。

ネット不調。

ブレットboulette(肉団子)を作った。挽肉の中に生卵、パン後、玉ネギ、ニンニク等を入れる。面倒。でも、とっておけるから便利である。

Le mardi 26 avril 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度60%。

復活祭の休暇があけて、隣の小学校の子供たちが登校してきた。五月蝿い。でも、元気なことはいいこにちがいない。ゴミを散らかしてくれるのはいただけない。

19日と20日のブログを更新するのに3時間もかかった。

ネットが午後から全く不通になった。丁度一ヶ月のネット契約も切れる時期なので、キプシのVodashopで$60を払った。しかし、相変わらず不通。どういうことかね。

「コロンゴ航空」というエアラインが出来るというのはきいたことがあった、カタンガ州で最大の民間会社であろうフォレスト社と2001年に破産したサベナ航空(ベルギー)から出発したブラッセル航空との合弁会社が運営する。旅客機はブラッセル航空が提供するが。この飛行機に対してRDCコンゴの航空運輸当局(ACC)が運行許可をだした。ところがEUの官報にコロンゴ航空の飛行機はEU内運行禁止、つまりブラック・リストに載った。コンゴの保証なんて信用できないというわけだ。世界20各国の269航空会社がこのブラック・リストにのっているそうだ。
コロンゴ航空はこの結果を意に介していない様子で、コロンゴ航空の飛行機はEUには入らない、RDCコンゴの国内だけの運行であること、ACCの保証だけでなくベルギーのAOC(Air Operator’s Certificate)を受けていることから問題ないとしている。
コロンゴ航空は、ここ数週間のうちにルブンバシとカタンガ州だけでなく国内各地の航空路線サーヴィスを開始する。
しかし、なにか誤魔化されている印象を拭えない。「ヨーロッパの空港に来てもらっては困るが、コンゴ国内なら、どうぞご勝手に」ということなのか。
国土が広く、高速道路がなく、また鉄道も壊滅状態だから、飛行機で移動せざるをえないRDCコンゴである。地方空港の整備が悪く、航空機の整備も悪いとなれば、事故がおこらないのが不思議ではないか。
もっとも、僕がカラカス(ベネスエラ)やパペーテ(フランス領南太平洋)で乗った飛行機はドアが取れていてなかったし、操縦室との仕切りもなくなっていたが、無事に目的地まで僕を運んでくれた。そう神経質になることはないのかもしれない。

Korongo Airlines, filiale de Brussels Airlines, déjà sur la liste noire
La nouvelle compagnie aérienne Korongo Airlines, filiale conjointe de Brussels Airlines et du groupe George Forrest International (GFI), figure, avant même le début de ses opérations, sur la liste noire des compagnies aériennes interdites d'exploitation dans l'Union européenne pour des raisons de sécurité, indique le Journal officiel de l'UE dans son édition datée de mercredi.

Le JO publie la liste révisée des transporteurs aériens auxquels la Commission européenne impose des restrictions d'exploitation. Cette liste a été révisée mardi par l'exécutif communautaire pour inclure de nouvelles compagnies congolaises et mozambicaines ainsi que deux avions d'Air Madagascar. Elle comprend désormais 269 transporteurs aériens de vingt pays.

Selon la Commission, "tous les transporteurs aériens certifiés en République démocratique du Congo font l'objet d'une interdiction d'exploitation dans l'Union et figurent à l'annexe A (de la liste)".

"Il existe des informations avérées attestant que les autorités congolaises compétentes ont délivré un certificat de transporteur aérien au transporteur aérien Korongo Airlines le 7 janvier 2011".

"Dans la mesure où il n'est pas établi de changement dans la capacité des autorités compétentes de la RDC d'assurer la surveillance des transporteurs aériens titulaires d'une licence dans cet État conformément aux normes de sécurité applicables, il est estimé, sur la base des critères communs, que Korongo Airlines doit être ajouté à l'annexe A", ajoute le règlement européen.

Pas une surprise

Une porte-parole de Brussels Airlines, interrogée par l'agence Belga, a indiqué que cette décision n'était "pas une surprise" et n'empêcherait pas le lancement de la nouvelle compagnie - prévue dans les prochaines semaines ou mois - qui sera de droit congolais. D'où l'obligation de disposer d'une autorisation délivrée par l'Autorité de l'Aviation civile (AAC) congolaise.

Toutes les compagnies basées en RDC figurent sur la liste noire - notamment en raison des déficiences de l'AAC -, mais Korongo opérera avec un AOC ("Air Operator's Certificate", certificat de transporteur aérien) belge et respectera les normes internationales en vigueur en matière de sécurité, a ajouté la porte-parole.

Des avions de Brussels Airlines

Ses appareils, deux BAe 146-200 et un Boeing 737-300, proviendront de la flotte de Brussels Airlines, qui les utilise ou les a utilisés jusque tout récemment.

Et ces appareils ne voleront pas à destination de l'Union européenne, Korongo n'assurant que des vols domestiques au départ de Lubumbashi, le chef-lieu de la province du Katanga et deuxième ville de la RDC, dans l'attente de liaisons régionales.

Le capital de la compagnie est détenu à 50% par Brussels Airlines - née des cendres de la Sabena, qui avait fait faillite fin 2001 - et à 50% par le groupe GFI de l'homme d'affaires George Forrest, actif dans divers secteurs congolais, en particulier minier où il emploie 15.000 personnes, principalement au Katanga, et dans le secteur des travaux publics.

27 avril 2011

4月23、24日 les 23 et 24 avril 2011 ムビリア・ベル Mbilia Bel

Le samedi 23 avril 2011
晴。7時、気温24℃、湿度65%、

昨日、水を撒いていて気がついたのだが、ジャスミンの木が一本足りない。アンドレに訊くと、溶接工の子供が踏んづけて折ってしまったことがわかった。今週の火曜日のことだろう。アンドレに何故報告しないと詰問すると、僕が忙しそうだったからなどと言い訳をする。彼も規律がない。

庭にある木で、種類が分からない木がある。その木の葉が真っ赤に色づいた。ポインセチアのようだ。ヨーロッパでは、クリスマスの頃、よく贈り物に使う植木だ。でも、本当にこれがポインセチアだろうか。背丈が2メートルもある。去年8月にはすっかり葉が落ちていた木だ。雨季になって葉が出てきたものの何の木か不明だった。今年は水を乾季もずっと庭に撒く。芝はかれないだろうが、他の樹木はどうなるのあろう。
今日も多くの蝶が舞い、トンボが行き交っている。一年中日本の春と秋とが混在しているのだ。




Le dimanche 24 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度60%。

コンゴの歌手
7)ムビリア・ベル Mbilia Bel

1059年生まれ。夫であるタブ・レイTabu Leyと一緒に歌っている曲も多い。アフリカの女性歌手として始めて欧米大陸でも認められた。80年代のことである。87年、タブ・レイと袂をわかつが、それ以降、二人とも元気がなくなるのだそうである。彼女のピークは1987、8年のようだ。ダンスの能力も高く評価されていた。
僕のコレクションにあるのは『Mbanda Na Ngai』、『Mayavale』、『Yamba Ngai』などである。

4月22日バルバラ・カナン Barbara Kanam

Le vendredi 22 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度62,5%。

僕の寝室以外の部屋は窓の網戸が壊れている。セバスチャンを呼んで修理してもらうことにした。誰に泊まってもらっても、窓を開けて寝られないようでは息苦しい。

コンゴの歌手
6)バルバラ・カナン Barbara Kanam

南キヴ州の州都ブカブ出身。1973年生まれ。甘ったるい声で、コンゴのまたアフリカのセックス・シンボル的歌手といえようか。僕は下品な感じがしてあまり好きではない。僕の歌姫はダリダに尽きる。初めてダリダの『ジジ・アモローゾ』を聞いたとき、僕は地中海を見下ろすアルジェの丘の家に下宿していたが、「これだ、僕の求めていた歌は」と思った。歌の舞台はアルジェではなく、ナポリだったが、ナポリも地中海のエッセンスのような港町で大好きだった。バルバラ・カナンの『恋の庭 Jardin d’amour』、『ジャラビ Djarabi』、『マライカ Malaika』、『白と黒Noir & Blanc』、『お金がお金を呼ぶ L’Argent appelle l’Argent』等いずれを聴いてもぐっとくるものはない。「ちゃらちゃら」しているようにみえる。しかし、デビュ以来20年のベテラン、国連からRDCコンゴ大使に選ばれているようだ。

4月21日 le jeudi 21 avril 2011 ゴマ市の交通事故 accident routier à Goma

Le jeudi 21 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度65%。風あり。

10時、水撒きをしている最中に断水。

溶接工トントンさんが来てマドンナの家を、使用人小屋にいた居候がでていったあとに作成した。元の小屋も彼女の敷地にいれたので、その小屋で寝るもよし、掃除した部屋で寝るもよし。マドンナに子供ができたら、ひとりだけひきとりたい。やはりマドンナと同じ女の子がいい。
19時半、気温26℃、湿度60%。

新しいシャワーが壊れた。水流が何種類にも変えられるシャワーだが、水の止まりが悪いのでくるくる回しているうちに壊れてしまった。勿論中国製。

不幸な事故が子供たちを襲った。昨日のことだ。ゴマ市(北キヴ州の州都、ルブンバシから北東に2600 km)郊外で24名の命が失われた。その多くが子供たちである。家に水道がないため、水を汲みに水源に並んでいた。そこにトラックが突っ込んだのである。水汲みはどこの家庭でも子供たちの仕事である。事故は8時半のことだから、普段なら学校に言っている時間である。しかし、春休み(復活祭を挟んだ休校)で学校がなかったという事情も不運だったといえよう。原因は、トラックの整備不良。ブレーキが坂道で効かなかったためらしい。
今月15日には、ルブンバシのトラック事故で9名が、また去年11月にはキンシャサから南に下る国道で酩酊したトラック運転手のために39名が命を落とした。

Nord-Kivu: 24 morts, majoritairement des enfants, dans un accident

Au moins 32 personnes,24 selon d'autres sources, en majorité des enfants, ont été tuées mardi près de Goma dans l'est de la République démocratique du Congo (RDC), percutées par un camion dont le chauffeur a perdu le contrôle en dévalant une pente, a-t-on appris auprès des autorités locales.
L'accident s'est produit vers 08H30 (06H30 GMT) dans le village de Bukumu, à une dizaine de kilomètres de Goma, chef-lieu de la province du Nord-Kivu (est), lorsque le chauffeur d'un camion, de marque Fuso,transportant des planches de bois et quelques passagers, a percuté violemment un groupe de personnes près d'une source d'eau, a indiqué à l'AFP le chef de Bukumu, Mwami Butsitsi.

"Il y avait beaucoup d'enfants qui puisaient de l'eau", a affirmé M. Butsitsi, sans préciser leur nombre, soulignant que "chauffeur est vivant, mais gravement blessé".

Au moins huit personnes ont été blessées et admises dans un centre de santé de Goma.

La veille de l'accident, selon ce chef, le chauffeur du camion avait passé la nuit à 5 km de Bukumu en raison d'un "problème de frein" sur son véhicule, avant de prendre la route mardi matin pour Goma. Il venait de Rutshuru, à 60 km au nord du chef-lieu du Nord-Kivu.

Les accidents de la route sont fréquents en RDC, en raison du mauvais état des routes et des véhicules, souvent surchargés en passagers installés en équilibre sur les marchandises, et de l'imprudence de certains chauffeurs.

Le 15 avril dernier , 9 personnes ont été tuées dans l'accident d'un camion à Lubumbashi(Katanga). Début novembre 2010, 39 personnes avaient trouvé la mort dans l'accident d'un autre camion transportant une centaine de passagers, dont le chauffeur était en état d'ébriété, sur la route nationale Kinshasa-Kananga (centre).

Goma, 20/04/2011 (AFP/MCN, via mediacongo.net)

25 avril 2011

4月19、20日 les 19 et 20 avril 2011 ジャイカ JICA

Le mardi 19 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度65%。

今日、フリー・ジャーナリストSさんの友人YKさん(日本)がザンビアからカスンバレサ経由ルブンバシに入る。彼は、ビジネス・チャンスを狙うらしい。一人でも多くの日本の方にカタンガ州にきてもらうことは本当にうれしい限りだ。

Le mercredi 20 avril 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度65%。
いよいよ乾季に入ったらしい。日本なら気象庁が乾季入り宣言をするだろう。ルブンバシで気象観測しているのは空港だけだそうである。

YKさんをアラン君とともに車の輸入業者に案内。二番目に会ったパトリック君が元日系の中古自動車輸入販売会社のNO.2だっただけに実務的なはなしがdけいたのではないか。午後、ケニア地区のオートパーツ専門店街に行った。

YKさんは2年以上ザンビアでJICAのボランティアをしていた。大阪人。日本とアフリカを結ぶ仕事がしたいとのこと。頼もしい若者である。
ところで、JICAのボランティア活動はRDCコンゴでは停止中だそうである。キンシャサの日本大使館に訊くと、JICAのことはJICAにきいてください、ですと。
何故JICAの活動がカタンガ州には皆無なのか。何故JICAボランティアはカタンガ州はおろか、RDCコンゴ全地域停止したのか。極めて重要な事項である。僕は外務省の安全情報と無関係とは思わない。ここでも、情報を正しく伝えない在キンシャサの日本大使館の過ちがある。こうした事情をRDCコンゴ側は全く知らない。無償援助(ODA)を表面上は有難く頂戴しているのが現状である。

4月18日 le samedi 18 avril 2011 コメント commentaire

Le lundi 18 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度62,5%。

4月8日のブログにコメントがあった。
「日本からバイクで旅行中です。キンシャサにいます。アンゴラに向かう予定でしたが、ビザがまだ取れないためキンシャサからルムンバシ、ザンビアへの陸路を考えています。非常に厳しい状況のようなので情報を頂ければと思います。よろしくお願いします」
気づくのが遅かった。今日、このコメントを読んだのである。キンシャサからアンゴラにもう出たのだろうか。
キンシャサからルブンバシに陸路バイクで来ることは不可能である。イレボまでコンゴ河を遡って、イレボから列車または陸路、想像がつかないほどの悪路をえっちらおっちらくることは数ヶ月かけるつもりなら可能かもしれない。

いずれにせよ、投稿者の方には失礼をした。せっかくRDCコンゴまできていただいたが、タイミングのよいアドヴァイスをすることができなかった。

16時50分、停電。17時10分、回復。

24 avril 2011

4月17日 le dimanche 17 avril 2011 オカピ放送 radio Okapi

Le dimanche 17 avril 2011
快晴。10時、気温25℃、湿度62,5%。

マーゴちゃんは、来訪者があっても平気でサロンに顔をみせる。チーコちゃんは、出てこない。部屋の中か、さらには移動用の手提げケージの中に潜り込んで出てこない。性格が正反対だ。

20時、ネット不通。メイルを出そうとしていた矢先にダウン。

職追放はアフリカ諸国で政策課題になっている。先週ボツワナの大統領府でも汚職追放ポスターをみた。ポスターを作ったということは、評価の高いガヴァナンスのボツワナでも汚職があるということである。RDCコンゴにいたっては汚職天国といえなくもない。カビラ大統領は「tolérance zero(ゼロ寛容)」といって、「汚職絶対許すマジ」と看板は上げたものの、大統領の側近、家族が国際ビジネスに口をだしてくるようでは、看板倒れである。
国連(この場合PNUD、英語はUNDP)の専門家がルブンバシに来てジャーナリストたちに汚職追放の訓練をしたのだという。汚職が社会のいたるところで構造化しているコンゴで、どういうデオントロジー(職業倫理)に目覚めよというのか、興味あるところである。僕は先ずはRDCコンゴにおける国連の足元の放送局、オカピ放送のジャーナリストに汚職追放キャンペーン番組を作るように指導したらいいのだ、と思う。多少、オカピ放送の記者たちを知っているが、今のオカピ放送に特別の倫理があるとは思えない。正義の味方を気取る日本の新聞記者たちも鼻持ちならないが、倫理が欠如している(反倫理ではなく非倫理)社会で倫理を問うのは極めて難しい。

Lubumbashi: lutte contre la corruption, des journalistes formés aux techniques d’investigation
avril 17, 2011, sous Actualité, Katanga, Politique.

Les journalistes de Lubumbashi au Katanga, viennent d’être formés en journalisme d’investigation en matière de lutte contre la corruption. Il s’agit, au total, de 15 journalistes de la presse écrite et de l’audiovisuelle du chef-lieu de la province cuprifère. Cette session a bénéficié de l’appui financier du Programme des Nations Unies pour le Développement, PNUD, et de la Coopération britannique. Pour Jean-Pierre Lifoli, l’un des formateurs, et consultant au PNUD, le journalisme d’investigation en matière de lutte contre la corruption est possible en RDC.

A condition, a-t-il précisé, que si les journalistes dévoilent ce qui ne marche pas, et que l’Etat puisse, de son côté, administrer des sanctions pour aller de l’avant.

L’expert du PNUD a néanmoins reconnu qu’il n’est pas facile dans des jeunes démocraties ou des démocraties émergentes comme celle de la République Démocratique du Congo, de s’attaquer à la corruption qui est tout un système.

Mais, pour que les journalistes puissent faire ce travail, il y a tout un module sur leur sécurité, a souligné Lifoli.

‘’C’est là où on essaie de montrer aux journalistes qu’ils doivent tenir compte de l’éthique et de la déontologie’’, a-t-il laissé entendre.

Le même expert prévient toutefois les journalistes: dans leur quête de la vérité, ils doivent surtout tenir compte de certaines mesures de sécurité personnelle, mais aussi être toujours solidaires et travailler en collaboration avec les associations qui s’occupent de leur protection.

Ensuite, si les journalistes ne sont pas payés, il y a risque que ceux-ci soient eux-mêmes corrompus, a encore averti le formateur Lifoli.

‘’Nous leur avons demandé de prendre conscience vis-à-vis de tous ces problèmes pour pouvoir combattre efficacement la corruption dans le pays », a-t-il conclu.

4月16日 le samedi 18 avril 2011 NPO «JED»

Le samedi 16 avril 2011
晴。`7時、気温22℃、湿度60%。

マドンナの新しい家の材料を買いに溶接工トントンさんとルブンバシに行った。網があるといっていたがどこにもない。6mmの鉄筋で網をつくることになった。他にL字型鋼、針金などを買ったが、トントンが勝手に太目の溶接棒を買ったので、僕は払わない叱り飛ばした。買ったばかりなのに、返却できないというから、この溶接棒は使用しないとし、代金は工賃から差し引くことにした。

キンシャサのNPO「JED(Journaliste En Danger、危険に晒されたジャーナリスト)」によれば、11月の大統領選挙に立候補している反政府派のカメレ氏(元下院議長、元現大統領側近)を取材していたルブンバシのTV局の記者が警察にカメラをとられ取材を妨害された。4月11日のことである。ルブンバシ警察ではなく、取材先のマニエマ州(カタンガ州の北東に接する州、南キヴ州の西)の警察の暴挙であった。
警察は上の命令で動く。昔、そう戦前の特高警察に限らず、日本でもよく選挙妨害があった。しかし、「民主警察」になって住民およびメディアの監視が厳しくなり、警察の横暴は表面上影を潜めている。RDCコンゴやアフリカ諸国の警察はなお直接的である。しかし、一方、JEDのようなNPOがあるということは一筋の光明である。

Un journaliste pris à partie et sa caméra confisquée pour avoir tenté de filmer l'arrivée d'une délégation de l'opposition

(JED/IFEX) - Floribert Issa Saïdi, caméraman-correspondant de Nyota TV et Wantashi TV, deux stations privées émettant à Lubumbashi, capitale de la province de Katanga (Sud-Est de la RDC), a été pris à partie, lundi 11 avril 2011, par des agents de la police nationale congolaise qui lui ont arraché sa caméra lors des échauffourées entre la police et les militants de l'Union pour la Nation Congolaise (UNC, parti d'opposition), à Kasongo, un territoire situé à 250 kms de Kindu, capitale de la province de Maniema (Est de la RDC).

Selon les informations parvenues à JED, Issa était parti filmer l'arrivée à Kasongo d'une délégation de l'UNC, parti politique de M. Vital Kamerhe, ancien président de l'Assemblée Nationale et ancien cadre influent du parti présidentiel, aujourd'hui passé dans l'opposition. Sa caméra lui a été arrachée au moment où il était entrain de filmer l'arrivée de cette délégation à l'aéroport, et toutes les casettes ont été détruites.

Contacté par JED, Issa a déclaré qu'il savait que l'arrivée de cette délégation à Kasongo allait poser problème depuis la diffusion par les médias locaux d'un communiqué des autorités locales demandant à la population de ne pas accueillir cette délégation et aux médias de ne pas diffuser les nouvelles de cette formation politique. "Malgré la diffusion de ce communiqué, je me suis permis d'aller filmer l'arrivée de cette délégation pour les envoyer à Lubumbashi", a ajouté le journaliste.

JED dénonce cette nouvelle tentative de musèlement de la presse par les autorités locales qui empêchent l'opposition de s'exprimer par voie de presse et rappelle que dans le même territoire de Kasongo, il y a quelques jours, le directeur de la radio communautaire "Sauti ya M'kaaji" avait fait l'objet de menaces répétées pour avoir accordé la parole au président de ce même parti d'opposition. Pour JED, il s'agit là d'actes d'intolérance politique qui préludent de graves atteintes à la liberté de presse et d'expression, à quelques mois des élections annoncées.

4月15日 le vendredi 15 avril 2011 ロメオ・ダレールRoméo Dallaire

Le vendredi 15 avril 2011
ジョブール。霧。

昨日ハボローネでチェックインを済ませてしまっているので、そのまま空港ターミナルAの手荷物検査および旅券チェックを通過。朝食も7時にホテルですませ、7時半にホテルの車で空港にむかった。

ヨハネスブルグ空港の免税店は充実している。本屋に立ち寄った。店員に南アの作家でリコメンドはないかと訊いたが、返事ができない。本好きが本屋の店員になるわけでもないだろうが、店員教育はした方がいい。アフリカ・コーナーにあった『They Fight Like Soldiers, They Die Like Children』(Romeo Dallaire著、2010年)を買った。RDコンゴの少年兵の問題ではなくその東隣の国ルワンダでのレポートである。著者ロメオ・ダレールは『悪魔と握手Shake Hands with the Devil』の作者として有名。カナダの軍人でルワンダには国連平和維持軍の責任者としてキガリに赴任。ジェノサイドの危機を声高に叫んだが、誰も耳をかさなかった。それを告発した本が『悪魔と握手』である。現在はカナダ上院議員。1945年生まれ。
(画像は1990年代前半、国連軍にいたころのロメオ・ダレール氏、ネットから)。

飛行機はやや遅れたが、ルブンバシには5分遅れの11時20分到着。
旅券検査、イエローカードのチェックともに問題なく、奇跡的ともいえる僅か10分で空港の外に出てしまった。出迎えには往路につかったTaxi運転手チチさんがきていた。彼は時間を厳守する。ルブンバシでちょっと買い物をしてからキプシに直行。

マドンナとチーコ。マーゴの世話をアンドレ(庭師)に任せて南アにいっていたのだが、やはり心配したとおりだった。こんな簡単なことがアンドレもできない。情けない。猫ちゃんのミルクは腐っていた。水は汚れていた。ビスケットの袋の口が開いたままだった。しっかり出来たら、ボーナスを出そうと思ったが取りやめだ。

23 avril 2011

4月14日 le jeudi 14 avril 2011 再びジョブール retour à Joburg

Le jeudi 14 avril 2011
ハボローネ(ボツワナ)。小雨。
乾季にはまだ完全には入っていなかったようだ。

副大統領代行とのミーティング。代行というのは副大統領が病気療養中ということらしい。代行は鉱山省大臣。72歳。外交的、政治的発言で極めて友好的ではある。しかし、真意はわからない。ここでも僕の出番はなし。時間がいつも制限されているので、通訳していると倍の時間がかかってしまうからだ。審議官の発言内容をききながら、資料のどのあたりか相手に示すぐらいしかできない。フランス語のときは同時通訳にして時間を節約しようと思う。その機会が訪ればのはなしだが。

郊外のショッピングセンタでTVセットなどの価格を調査。日本メーカものもあるが、圧倒的に韓国そして中国のメーカのものが多い。技術水準で勝負する商品ではもはやないのかもしれない。

空港近くの大きな土産物店でショッピング。僕はボツワナと書かれたTシャツとキリンの毛でできたブラスレットを買った。ゾウの毛のブラスレットは既に持っている。セネガルで買い求めた。南アのカレンシーで払ったが、お釣りはボツワナの通過プラだった。このお釣りを、昨日の昼食代金を清算するときにつかうことができた。
ボツワナ通貨は、南アおよびナミビアとバスケットになっているそうだ。この三国、通貨だけでなく関税協定もあって、国境が低くなっている。いずれの国もSADCの構成メンバーだが、他のメンバーに先んじて関係を深めている。SADCの本部はハボローネにある。コンゴ(キンシャサ)が、南アの影響力の強いSADCにどれほど積極的かは疑わしい。カタンガ州としては、南の大国南アとの関係強化は大いにメリットがあるところなのだが。

午後13時、飛行機でジョブールに移動。ホテルは一昨日と同じLifeにした。ところがコンセントやインタネット接続の関係で部屋を3回買えた。結局は一昨日の部屋の隣の部屋になった。洗面道具はホテルが保管してくれていた。

夕飯を外で食べたかった。レセプションでは日本食もスペイン料理の店も全然知らない。それでもネットで調べてくれて、Greenstoneというショッピングセンタ内にあるCape Town Fish Marketなる店で寿司や鉄板焼きをしているというので、そこにでかけることにした。歩いていけるところにはレストランはないというので、タクシをつかった。10キロ以上離れているのにそれは近いという。約20分もドライヴしてショッピングセンタについた。規模は大きい、ジ
ョブールで一番大きなセンタではないらしいが、ダル・エス・サラムやルサカの街中のセンタよりも大きいと思われる。sの中にフィッシュ・マーケットがあった。といってもレストランで鮮魚を売っているわけではない。

寿司は、ヌーヴェル・クイージーヌの寿司といったらいいのだろうか、西欧人にあいそうなカラフル且つわりとしつこい味の寿司が多かった。回転寿司だが、プレゼンテイショ
ンがとても綺麗なのだ。海老てんぷらも海老フライといったほうがいいだろう。ソースも甘酢だった。文句をいえばきりがない。寿司の米はべちゃべちゃだし、魚の種類はサケとマグロ、エビ、カニくらいしかない。しかし、総体的にいえば、なかなか面白い味で僕は楽しむことができた。しかし、南ア地元ビール(カステル)一本と寿司、海老天で5000円は高いのではないか。Cape Town Fish Marketはチェーン店らしい。銘銘がいい。寿司職人は中国人の若者たちだった。南アにも中国人がたくさん移民している。一時、南アの凶悪犯罪横行のために引揚げたが、またもどってきているようだ。

21 avril 2011

4月13日 le mercredi 13 avril 2011 ハボローネ Gaborone

Le mercredi 13 avril 2011
ジョブール(南ア)。快晴。
朝の便でハボローネ(ボツワナ国首都)にシフト。

ホテルに忘れ物がないように気をつけたが、洗面所を見落として、結局洗面道具を忘れてきてしまった。ハボローネからホテルに電話を試みたが、ローミングがきいていない。ヨハネスブルグでは、AirtelもVodacomもローミングがきいていて携帯がつかえた。ま、明日の午後に同じホテルに泊まることにして、保管しておいてくれることを期待しよう。

飛行機は昨日と同じSA Express。この航空会社は国内線とコンゴ、ボツワナ、ナミビア等近隣諸国への路線をサーヴィスしている。ヨハネスブルグとルブンバシは一日1便しかないが、ハボローネとは一日4便以上あるようだ。
ヨハネスブルグ空港で日本から見えられる方々と合流した。彼らは香港経由の機内泊。お疲れだと思う。強行軍である。去年11月、ルサカでSADC会合のときに仕事を戴いたお客様である。

ハボローネ空港は建設中だが、半分は完成している。「中国水電」社が請負っている。中国パワーはこの国でも発揮されていて、総人口200万人の国で2万人以上の中国人がいるそうだ。中国人は定着型だから、日本人の出張型とは違う意識だ。居住する国にたいする貢献も自ずから違ってくる。

午後のアポイントの前に大使公邸に寄った。余り広くはない。大使は、前回書いたが、商社出身の松山氏。極めて適切かつ実質的なアドヴァイスを日本のミッションの方々にされていた。勝者出だから当たり前だが、商売のコツを知っているし、相手の手の内をよく読んでいる。どこかの大使とは大違いか。行く先々でボツワナ政府の要人から大使のいい評判を聞いた。いわく、松山大使のおかげで、日本とボツワナの関係が急激に改善・前進したというのである。ボツワナは経済水準がアフリカの中では高く、日本から無償援助が出ていない。従って、ODAお土産外交ではなく、実質的外交を松山氏がされていらっしゃる証左である。(画像は大使公邸玄関。日本大使公邸としては慎ましい。ボツワナの要人を集めてレセプションができるほどの規模はないかもしれない)。

昼食は街中のポルトガル料理の店だった。大使館のOさんの案内。南ポルトガルの名物料理「カタプラナ」もメニューにでていたから、本格的ポルトガル料理を出す可能性がある。ちょっとスパイスの効いたトリを注文した。

ハボローネは道がよく、上下水道等のインフラも上等だ。蚊がいない。停電もない。しかし、国土の大部分は砂漠(カラハリ砂漠)だ。ダイヤモンドと良質なガヴァナンスのおかげで所得水準もたかくODA(日本国政府無償援助)の対象国ともなっていない。問題はエイズと失業。企業誘致をしていかないと立国できないだろう。自動車部品、エレクトロニクスなどの中小規模かつハイテク産業がボツワナにはふさわしそうだ。

大統領府でミーティング。セキュリティー・チェックもほどほどで、この国が軍事独裁などとは程遠い、安定性の高いことが肌で感じられる。

ホテルはファルコン・クレスト。日本からの主張者の方と同じホテルが満室でとれなかったということだが、案内された部屋をみてびっくり。ヨハネスブルグのホテルの部屋の4倍はありそう。バスはジャクッジ付きだった。ヨハネスブルグより北にハボローネが位置している所為か暖房は必要なかった。ネット環境は抜群。

テルの周りを散歩していて、中華料理の店をみつけた。ガソリン・スタンドとスーパーやクラブ(ディスコ)などがある小規模なショッピングセンタに「中国飯店」というのがあったのだ。18時半から22時まで営業。
ホテルの部屋に戻り、一風呂浴びたら、近いとはいえ大きな交差点を渡らなければならないのが面倒になり、ホテルのレストランで食事をとることにした。バイキング。サラダとBBQ、デザート。初めは地元のビール「St Louis」(セント・ルイスだが、フランス語読みすれば、サン・ルイ、セネガルの昔の首都も同じ名前だ)、そのあとグラスで赤を飲んだ。

ボツワナにサファリに来るのは、南ア同様悪くない選択だろう。RDCコンゴのジャングルやサバンナはもっと動物に恵まれているにちがいないが、インフラがないから、サファリどころではない。

18 avril 2011

4月12日 le mardi 12 avril 2011 ヨハネスブルグ Johannesburg (Joburg)

Le mardi 12 avril 2011
快晴。気温24℃、湿度70%。

朝7時に家を出て空港へ。キプシからTaxi。但し、旧知のルブンバシの運転手に迎えに来てもらった。キプシの車では街道の悪路で立ち往生されたら堪らない。空港敷地に入るだけでタクシーでも自動的に駐車料金(10ドル)を徴収されるのは理不尽だ。12時15分発のヨハネスブルグ行きなのに、9時には空港でチェックインせよと航空会社のエイジェントがいうから仕方がない。ルブンバシ・ルアノ空港で、靴を磨いてもらってから中に入った。通関や警察のチェックをスムーズにする亜ために10ドルで若者を雇った。SAのチェック・イン、出入国管理警察(DGM)、検疫とすんなり通過。待合室でコンデの『La vie scélérate』を読んで時間をすごした。予定通りSAの飛行機が到着したので、出発もon scheduleだった。出国税50ドルをとるようになってから、空港警察の警官などの「おねだり」が少なくなったのはいいことだ。

飛行機はSAとはいうものの、SA Expressという関係会社の運営する80人乗りのジェット。左右二人がけ。ほぼ満席。機内食はサンドイッチ。2時間半のフライト。ルブンバシとヨハネスブルグでは時差がない。景色はサバンナ。

久しぶりのヨハネスブルグである。空港は様変わりした。去年のワールドカップ開催地が南アだったから、それなりの投資をしたことは知っていたが、僅か5年で欧州並みの、いやそれ以上の近代的な空港に生まれ変わっていた。
ツーリスト・ガイド・カウンタで、翌日早朝ボツワナのハボローネにシフトするので、空港近くのホテルを紹介してもらって入った。Lifeホテル。タクシではなく、ホテルの車が迎えにきてくれた。部屋は403号室。シャワーのみ。
寒いのでエアコンは暖房にした。28℃にセット。南半球の国だからこれから冬に向かう。9月あたりが一番寒いだろう。しかし、ヨハネスブルグは、僕にとって既に寒い。
ネットは宿泊料金に含まれていた。家でつかうよりもずっと早い。

ヨハネスブルグのインフラは欧州先進国並である。ルブンバシから入るとこのインフラの見事さはショックである。空港、高速道路網。ハウ列車Gautrainという空港とヨハネスブルグの街中を結ぶ電車もできた。

夕食は、ホテルのレストラン。イタリア料理もどき。「もどき」というのは、特に英語圏についてはいつものことだが、外国人のコックの場合を別にして、あるいは外国人のオーナーの場合は別にして、まともな料理に出会ったことがないからである。メニューをみると、なにやらイタリアやフランス料理の材料および単語が並べてあったが、出てきた料理は味音痴の英国系であった。しかし、近くにレストランはない。

4月11日 le lundi 11 avril 2011 溶接機 poste à souder

Le lundi 11 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度70%。

電気屋ペリカンさんとルブンバシのケニア地区でケーブルを買った。ルブンバシの街中で見つからないものでも、この地区に来ればあるという。以前、車のシュー・ブレーキを探しに来てみつけたことがあったから、そのとおりだと思う。アメ横の雰囲気である。それ以上にごみごみしているだろう。アメ横も戦後のアメ横ではもはや長いことないのだから。小さな薬屋が数十件目白押しのところもあるし、仕立て屋がミシンを前にしてずらっと並んでいるところもある。アフリカの、コンゴの、ルブンバシのヴァイタリティが垣間見えるところだ。

午後家に帰ると溶接工トントンさんが工事をしていた。大した工事ではないが、塀の目隠しと補強である。マドンナが外に出られないようにする。そうすれば、番犬として夜中は庭に放す。
溶接機を使う間、電圧が不安定になる。家のコンセントから電気をとっている所為だろう。PCがいかれても困るので、一時電源を落とすことにした。

ペリカンさんが、湯沸かし器の設置をいよいよやってくれるかもしれない。湿地方法がわかったのだ。ところが15時まで断水。もし今夜、お湯シャワーが浴びられたら奇跡か。でも起こりうる奇跡だ。
そして夕方、奇跡は起こったのだ。熱い湯が迸り出た、熱すぎてシャワーが浴びられない。バケツに熱湯を出して、湯がぬるくなってからシャワーを浴びた。
(画像は「溶接機」。裸なのか、もともとコイルを巻いただけなのかわからないが、電気溶接機の原理がよくわかるといえばそれまでだ。これを有料で借りてきた。貸すほうも貸すほうだと僕は思うが、、、)。

ギリシャ系スーパー「プサロPsaro」の駐車場で前の車にちょこんとぶつけたら、その車のオーナーが$30よこせだって。このスーパーのギリシャ人従業員だが、「俺はもうコンゴ人だ、車にぶつけられたら、金をせびるだ」とさ。警察を呼んでも、警官にまた余計な金をせびられる。Psaroの警備責任者を呼んできて、彼に20ドルで収めさせた。10ドルでもよかったかもしれない。どうせ疵だらけの車だから、きっとこのギリシャ人は修理なんかしないだろう。

4月9、10日 les 9 et 10 avril 2011 チャラ・ムアナ Tshala Muana

Le samedi 9 avril 2011
晴。7時、気温22℃、湿度75%。

8時前、新しい溶接工が彼の子供と一緒にきた。工事箇所をアンドレと見て回って、見積もりが工事請負で40000フラン。これを40ドルにしてもらって月曜日からとりかかることになった。それにしても工賃が高い気がする。溶接機のレンタルが5000フラン、ボッシュの切断機がこれも5000フラン、工賃が30000フランとは。どうも誤魔化されている。電気屋ペリカンさんが一日働いて7000フラン、庭師は3000フランだ。溶接工はそんなに特殊かなぁ。おかしい。
本ブログ4月5日の「オバマ法」に関連して、インテルとアップルがRDコンゴのレアメタルを彼らの製品に使用しないと宣言したそうだ。

Le dimanche 10 avril 2011
曇。7時、気温24℃、湿度70%。
8時、停電。8時20分、回復。

電気屋のペリカン」さんがきて、使用人小屋に電灯をつける工事をした。これに時間がかかって、風呂の給湯工事は後回しになってしまった。
火曜日から南アとボツワナに行く。3泊4日。そのあとになるが、お湯シャワーが浴びられるかもしれない。

コンゴの歌手
5)チャラ・ムアナ Tshala Muana
女性歌手である。ルブンバシ出身だが、軍人の娘で、家族がルブンバシ出身ということではなく、任地で生まれたということらしい。1958年生まれ。生まれてまもなくキンシャサに移動している。
僕がネットで拾ったのは、パパ・ウェンバとの『ムカレンガMukalenga』とソロで『カリブ・ヤングKaribu Yangu』。印象としては特に特色があるとは思えない。しかし、それは聞いた曲によるのかもしれない。

10 avril 2011

4月8日 le vendredi 8 avril 2011 少年兵 enfants-soldats

Le vendredi 8 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度70%。朝日がまぶしい。しかし、天気はまだ不安定だろう。乾季まであと数週間ある。去年のブログをみると4月28日から乾季に入っていた。

10時、断水。19時半、回復。
13時、停電。15時10分回復。ルブンバシの停電も酷いが、キンシャサの停電は目に余るようだ。

インゲン豆をルブンバシの市場で昨日購入。小豆色のインゲン豆にした。インゲン豆とさつま芋を一緒に煮てみたかったのである。カタンガ州のさつま芋も熱を加えると黄色になって甘い。こんどは、インゲン豆の量を加減して料理した。

RFI(フランス国際ラジオ)によると、RDコンゴの東部では、なお反乱軍との戦闘が行われているが、18歳未満の子供たちが戦闘員として軍に参加している。少年兵による戦闘行為はこの国でも法律により禁止されている。しかし、実際には兵員の60%が、少年兵で構成されているようだ。UnescoやNGOがこの少年兵問題にとりくんでいるが、根が耐えない。モブツ独裁政権を倒したLDカビラ(現大統領J.カビラの父)は、大勢の少年兵を伴ってキンシャサに入城していることは有名である。彼の少年兵たちは極めて規律がとれていて大人の兵隊たちよりも評判がよかったと聞く。しかし、少年兵を雇うことは犯罪に違いない。彼ら少年兵に普通の生活にもどりなさいと云ったところで、兵隊であれば食料が確保できるのかもしれない。戦争をなくし、平和をとりもどせば、彼らは村に帰るか都会に出るだろう。少年兵問題だけを切り離しては解決がない、と僕は思う。

RDC: lutte contre le recrutement d'enfants dans l'est du Congo

Par Véronique Gaymard
En République Démocratique du Congo, des milliers d'enfants sont encore dans les rangs de groupes armés. Officiellement, le recrutement d'enfants de moins de 18 ans pour faire la guerre est interdit. Dans les faits, plus de 60% des effectifs des groupes armés seraient des enfants. Depuis plus de 20 ans, Murhabazi Namegabe lutte contre le recrutement d'enfants dans l'est du Congo. Il dirige le Bureau pour le volontariat au service de l'enfance et de la santé, à Bukavu, dans le sud-Kivu. Son rôle est d'arracher les enfants aux groupes armés, une tâche longue, difficile et risquée, pour essayer de leur donner une deuxième vie.

4月7日 le jeudi 7 avril 2011 ニアネ『スンジャタ』 DT Niane «Soundjata»

Le jeudi 7 avril 2011
晴。7時、気温24℃、湿度72,5%。
昨夜、雨が降っていた。涼しいというより寒いくらい。

ニアネDjibril Tamasir Niane『スンジャタSoundjata』を読了。153ページ。Mamadou Kouyateというグリオが語るスンジャタ王の叙事詩である。DT ニアネが書き留めた。12世紀末から13世紀初頭にかけての英雄スンジャタ王の物語だ。800年の間、グリオによって語り継がれた。グリオのことだから、歴史家といっても西暦何年という年代は出てこない。西欧の歴史家が、スンジャタ王の生年を1190年、没年を1255年としているだけだ。グリオが一弦楽器でスンジャタ王の物語を歌う、その伝統はよしとして、イスラムの影響が濃い地帯(サハラやサヘル、ギニアやマリ)なのだから、イスラムと同時に入ってきた文字で暦を記録しなかったというのが不思議である。いや、イスラムの歴史家が記録していたので、西欧の歴史家がスンジャタ王の生年を特定できたのだろう。しかし、コンデの『セグ』は18世紀後半から19世紀中葉までのマリ帝国であるが、なおグリオが歴史の語り部として残っている。即ち、アラブのイスラムとアフリカの文化は19世紀になるまで共存してきたのであった。
『スンジャタ』の物語は、僕には叙事詩というより英雄伝、しかも子供向けの物語に思えた。スンジャタが子供のことの逸話といい、戦闘の場面といい、運命論(運命は既に書かれていて、ひとはその運命を生涯を通じて演じていくのだという考え)を軸としているので、先が見えてしまっている。英雄は絶対に途中で死なないし、戦闘でも決定的な負けをしない。ま、常に「カッコイイ」のである。

4月6日 le mercredi 6 avril 2011 ジベ・ムピアナ JB Mpiana

Le mercredi 6 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度70%。

Koffi Olomideの曲で「カメレオン」というのを発見した。ハンパテ・バの教訓との関連は不明。ときどき出てくるフランス語からは意味が推量できない。基本はリンガラである。

裏庭の使用人小屋にいたジャン・クロードがやっと昨夜引っ越した。僕が借りた家に付属した施設である。当初追い出すのは気がひけたが、彼から置いてくれと懇願されたこともなかった。一度、庭の仕事をさせたが、投げやりでとてもアンドレの代わりは勤まらない。出て行った部屋をアンドレが片付けている。ともかく不潔だった。あとは、フェンスを作ってマドンナに住んでもらう。

ネット、全く不調。いらいらする。

コンゴの歌手4)ジベ・ムピアナ JB Mpiana
1967年、西カサイ州の州都カナンガ生まれ。ウェンバ、オロミでよりかなり若いが既に40代である。しかし、極めて若いときからスターであった。オーケストラ「Wenge Musika」の代表を1981年の結成から1997年の分裂まで務めているし、20歳でベスト作詞家、24歳でベスト歌手に選ばれている。もっともベスト歌手に6回、ベスト歌唱に5回、ベスト作詞家に3回なっているから、既に大御所でさる。
僕のコレクションに現在のところ入ったのは『Omba』、『I love you』、『Doléance』、『48 heures Gecoco』などなどである。
ところで、パパ・ウェンバ、コフィ・オロミデ、ロクア・カンザ、ジベ・ムピアナとみてきたが、歌姫が一人も出てこない。ダリダのような見目麗しく且つ声量のある女性歌手はコンゴにいないのか、アンジェリク・キジョはコンゴではなくベナンだ。コンゴはマッチョの世界か。調べてみると、我がルブンバシ出身でちょっとスキャンダラスなチャラTshala Muanaとか、なかなかの美人だったバルバラ・カナンBarbara Kanamとかムビリア・ベルとか、いることはいる。ちょっと親しんでみるか。

09 avril 2011

4月5日 le mardi 5 avril 2011 オバマ法 loi Obama

Le mardi 5 avril 2011
7時、快晴。温度24℃、湿度72,5%。9時、曇。

14時半、にわか雨。雷。

夜遅くなれば、ネットの調子が回復するのかと思って、23時過ぎPCに向かってみたが、結果は思わしくなかった。

「オバマ法」別名「Financial Reform Act」が予定(来年1月1日)より早く、法律の発行前に既に先週金曜日(4月1日)から実施され始めた。先頭地帯で正規のルートを通ぜず行われた鉱物資源取引(金、ダイヤモンド、レア・メタル取引)についての厳しい措置を意味する。RD Congoにあっては、従ってCEEC(鉱物剣先機関)の証明書をとって輸出すれば問題がないということである。これを嫌って、タンザニアやケニア等でコンゴの鉱物を買うことは、バイヤーにとって極めて危険な取引になる。

RDC : La loi Obama, appliquée plus vite que prévue
Pour répondre à la loi Obama sur les minerais de sang, dont l’application est prévue pour le 1er janvier 2012 ; des sociétés étrangères qui achetaient les minerais dans l’Est de la République Démocratique du Congo (RDC) ont mise fin à leurs activités d’achat depuis le vendredi dernier.

En effet, avant la mise en vigueur de la loi Obama appelée aussi «Financial reform act» et interdisant l’achat des matières premières produites dans des zones de conflits armés ; certaines sociétés internationales opérant dans l’électronique se sont convenues de ne plus acheter les minerais de l’Est de la RDC, du moins des minerais extraits dans des zones où opèrent des groupes armés.

Cette situation semble ne pas arranger les populations locales de l’Est, particulièrement celles qui exploitent les minerais ; et inquiète les acteurs de la Société civile ainsi que des opérateurs économiques de la province du Nord-Kivu. C’est ainsi que ces derniers ont fait une doléance au président américain, selon les renseignements d’une radio locale qui rapporte que : « Dans une lettre adressée au président américain, la coordination de la Société civile du Nord-Kivu sollicite un moratoire de 6 à 12 mois, afin de permettre à la RDC de se conformer aux mesures de contrôle qu’exige la loi Obama ». Rappelons également que cette loi oblige les entreprises à publier leurs revenus ainsi que les paiements fiscaux qu’elles effectuent auprès des gouvernements du monde entier.

Les opérateurs économiques du Nord-Kivu craignent aussi de ne pas pouvoir écouler des produits estimés à plus de 30 millions de dollars, issus de la suspension des activités minières de 2010 et qui pourraient être assimilés, «à tort », à des minerais du sang

4月4日 le lundi 4 avril 2011 Monusco飛行機事故 accident d'avion de Monusco‘

Le lundi 4 avril 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度70%。

国連は独自の空路網をRDCコンゴにもっている。ルブンバシ空港にも、国連機が定期便を飛ばしている。国連はMunucの時代(2000年2月)から平和維持軍をこの国に駐留させている。去年MonucからMonuscoと名称が変わったが、活動は実質的に変わっていない。その国連が始めて航空機事故をキンシャサ空港で起こしたのである。犠牲者32名。1名だけ助かったが重傷。国連の航空機だが、国連職員や国連軍だけが利用しているわけでなない。日本大使館などは、民間虚空より安全であるということから、国連機を優先しているようである。キサンガニ(コンゴ第3の都市)からキンシャサに到着したところだった。今のところ原因不明。テロではなさそうだ。

04/04/1118:17
RDC: 32 morts sur 33 personnes à bord de l'avion de l'ONU qui s'est écrasé à Kinshasa
NATIONS UNIES (AP) — Une seule personne a survécu sur les 33 qui se trouvaient à bord d'un avion du personnel des Nations unies qui s'est écrasé lundi à son atterrissage à Kinshasa, capitale de la République démocratique du Congo (RDC).

Le Secrétaire général adjoint aux opérations de maintien de la paix a déclaré que la personne rescapée était hospitalisée à Kinshasa. L'avion transportait quatre membres d'équipage et 29 passagers. Les raisons de l'accident restent à déterminer.

La Mission de l'Organisation des Nations unies pour la stabilisation en RDC (MONUSCO) compte 19.136 personnels en uniforme, dont 17.129 soldats et 1.270 policiers. Selon la résolution 1925 (mai 2010) du Conseil de sécurité de l'ONU, la MONUSCO est autorisée à "utiliser tous les moyens nécessaires" pour "s'acquitter de son mandat de protection, y compris la protection effective des civils" du pays en proie à la guerre entre forces rebelles et gouvernementales. AP

4月3日 le dimanche 3 avril 2011 ロクア・カンザ Lokua Kanza

Le dimanche 3 avril 2011
晴。7時、気温24℃、湿度70%。
昨夜は夕立の続きで雨がふっていた。

ネット不調。しかし、なんとか、ブログ更新。

17時半、虹が東の空にかかった。雨は降っていない。写真にとってみた。

コンゴの歌手。
3)ロクア・カンザ Lokua Kanza
1958年ブカブ(南キヴ州)生まれ。父はコンゴ人、母はルワンダ人である。19歳でキンシャサの国立バレーの主席。キンシャサ音楽学校にも席をおいた。84年からパリに在住。92年、パリのオランピアで、本ブログでも紹介されたベナンの歌姫キジョの前座を勤めている。カンザの場合、アフリカのメロディーにフランス語や英語の歌詞が見事に調和しているそうである。
僕が聞いているのは、Koffi Olomideとの『Diabolis』、Papa Wembaとの『Pourquoi tu n’es pas là』、ソロで『Meu Amor』、『Si tu aimes l’infini』、『Taxi tu pars』、『Plus vivant』等である。彼の歌には殆ど全くアフリカ色のない、日本でいう「シャンソン」調もある。

04 avril 2011

チーコ12ヶ月とマーゴ5ヶ月 Tchiko,12 mois et Mago, 5 mois

チーコ(千依子)ちゃん、12ヶ月。
お婿さんがいるお歳。
これが難しい。スーパーに広告を出すかな。






マーゴちゃん。
なんでも食べて、チーコの分まで横取りして、
旺盛な食欲で小太りしてきた。

マドンナ 15ヶ月 Madonna, 15 mois accomplis

元気いっぱいのマドンナちゃん。15ヶ月の誕生日が4月2日だった。






まだまだあと半年くらい成長期がありそう。今でも後足で立ち上がると155センチはあるのではないかと思われる。

4月2日 le samedi 2 avril 2011 コフィ・オロミデ Koffi Olomidé

Le samedi 2 avril 2011
快晴。7時、気温23℃、湿度70%。
久々の快晴である。多少ある雲の位置がとても高い。

バス・タブに水を溜められることがわかった。前の家のときは水が直ぐに洩ってしまって、溜める意味がなかった。確か水道工事に来たイルンガsんが直してくれたのだが、本当に水が漏れないとは思わなかった。最近よく昼間断水するので、バケツだけでなくバス・タブにも水を溜めることにした。

インゲン豆をキプシ村の店で買った。黄緑、白、小豆色の3種のうち黄緑をコップに1杯。800フラン(80円)。どうやって料理するのだろう。店のひとは水に塩と油を加えて、3時間煮るのだというが。
インゲンを水洗いしてから、鍋にいれて煮始めた。30分ほどしてみてみると量が5倍に膨れ上がっているではないか。これはこれは。色も黄緑から薄茶色に変わってしまった。なるほどね。コンゴの兵隊は野営するときインゲン豆を料理するのだそうだ。何回かに分けて食べるより仕様がない。
一部をわけて、トマト、タマネギ、ベーコンと一緒に煮込んだ。成功。

台所の流しの下が水浸しになる。原因は流しと壁の隙間。そこにパテを詰め込んだ。もう。数ヶ月も前から、やろうやろうと思っていたことをやっとすることができた。これで流しの下が乾けば、ゴキブリの発生も減るかもしれない。

チーコとマーゴ、それにマドンナの写真をとった。マドンナは15ヶ月、チーコは丁度12ヶ月、マーゴは4ヶ月半になる。

19時半から雷を伴った夕立。気温26℃、湿度60%。

2)コフィ・オロミデ Koffi Olomidé
29代後半のパパ・ウェンバと初めて一緒に仕事をした時、コフィ・オロミデは学生だった。1956年生まれである。オリエンタル州の州都キサンガニ出身。父はコンゴ人、母はシェラ・レオーネとコンゴのハーフ。父親は彼に公務員に、母親はミュージシャンになって欲しいと期待し、本人はサッカー選手になりたかったようだ。バカロレア(大学入試資格試験)に合格してフランスに留学。休暇に帰国しては、音楽界と接触を保った。女性の心をくすぐるような歌なのか、同性の嫉妬をかったようだ。レコード金賞を5回もとっている。
80年代後半、両コンゴのスターに上り詰め今日に至る。
僕が持っているのは『Litio ya calandrier』、『Tanu』、『Diabolos』、『Noblesse oblige』、『Bebe Gout』等である。
コフィ・オロミデは現在キンシャサとパリを本拠にしている。

4月1日 le vendredi 1er avril 2011 パパ・ウェンバ Papa Wemba

Le vendredi 1er avril 2011
霧。7時、気温22℃、湿度65%。
季節の変わり目の霧だ。

コート・ジボワールはついに武力での解決に向かった。軍が割れたようだ。ウアタラ派が攻勢で、バグボ派が追い込まれている。おそらく、ウアタラ派の武器、ロケット弾などはフランスや西欧が提供したに違いない。軍を使えば、正常化がなったとしても軍の影響力が残る。頭の固いバグボとしても、「民主的に」話合いで解決が出来なかったことはウアタラ側も民主主義の基本が分かっていないということである。民主主義は非効率で時間がかかるものなのだ。

アフリカ大陸は「音楽の大陸」と呼ばれている。
直近では、南アフリカの「白いスールー」ことJohnny Clegg、ベナン(旧ダホメイ)のAngélique Kidjoを本ブログでとりあげた。
コンゴの歌手をみてみよう。RDCの首都キンシャサのマトンゲ地区はアフリカ音楽のメッカである、
1)パパ・ウェンバ Papa Wemba
何回かの来日があるようだ。コンゴの歌手の中でコフィ・オロミデと並んで最も日本で知られている歌手かもしれない。1949年東カサイ州(カタンガ州の北に隣接)生まれ。6月18日に満62歳の誕生日を迎える。テノールの美声で子供のころから評判だったという。聖歌隊からプロを目指す。1970年代から90年代にかけて、当時のザイール(現RDCコンゴ)ばかりでなくアフリカで最も人気のあったグループ「ザイコ・ランガ・ランガ」に参加している。このグループがコンゴ・ルンバを世に送り出している。1977年には自分のオーケストラ「ビバ・ラ・ムシカViva La Musica」を結成している。1980年代末、欧州に活動の中心を移し、90年代中葉、アルバム『エモーション』を出し、一躍「ワールド・ミュージック」ジャンルの寵児となった。「ワールド」というのは、民族音楽の域を抜けたして世界的広がりを持ったジャンルということらしいが、僕にはよく飲み込めない。それはそれとして、パパ・ウェンバ、日本流にいえば還暦を過ぎて益々盛んである。
僕がdownloadした曲は『Dodo』、『Congo Moko』、『Betoko』、『Amour fou』、『Zakina』等である。

03 avril 2011

3月31日うっかり 

Le jeudi 31 mars 2011
晴、7時、気温24℃、湿度62,5%。乾季が近づいてきた感がある。4月の中下旬には乾季に入る。

昨夜、ネット不通の次は停電かと書いたら、朝起きたら停電だった。夜中2時、5時とおきているが停電していなかった。朝のコーヒーには石油コンロをつかった。7時35分、回復。電気がはやく来てよかった。

しかし、ネットも不調でGmailの接続が悪かったが、Gmailは接続が弱い地域の場合簡素化したHTML方式でWebページをdownloadできることがわかった。これは僕の持っているUSB無線接続では大いに助かる。Gmailさん、よく考えている。MSはこんな配慮をしてくれない。

マーゴちゃんは何でも食べる。チーコちゃんは選り好みをする。贅沢志向、ブランド志向である。マーゴは小太りしてきた。逞しい。チーコちゃんは心配だなぁ。僕が何れ他界してしまったら、もう贅沢はできないよ。

Alain君が家に来ていた。夕方になって帰った。彼をtaxi乗り場まで送った。そのとき、家の鍵(南京錠)をかけた。直ぐに帰ると思い錠前はかけなかった。それはいいとして、家の中に鍵を置いてきてしまったのだ。さて、家に入れない。窓は全て侵入防止のため鉄の格子が入っている。サロンから庭に出る戸の南京錠は特別製でちょっとやそっとでは壊せない。台所のとなりの玄関の南京錠は華奢だから壊せるかもしれない。だが道具がない。出入りの建具屋セバスチャンに来てもらおう。電話も家の中においてきたから電話はできない。彼の家は幸いにして知っている。彼の家に行くと、生憎不在。奥さんが彼は街中に仕事で出ているという。その仕事先を漸く見付けて、家に来てもらった。ドライバーとハンマーで玄関の南京錠はあっという間に壊れて床に落ちた。
やれやれ、これで我が家に入れたのである。しかし、あの南京錠は簡単に壊れたなぁ。一時はルブンバシに助けを求めに行こうかと思ったし、車の中で一夜を明かさねばなるまいと覚悟までした。電気コンロには、火は弱くしていたが鍋がかかっていた。とんだ茶番劇だった。
(画像はセバスチャンが叩き壊した南京錠、イタリア・タイプとあってイタリア製とは書いていなかった。安全度が低いお陰で室内に入れた)。

3月30日 le mercredi 30 mars Gmailにメルアド変更 nouvelle adresse courriel Gmail

Le mercredi 30 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度65%。

ネットの調子が悪い。音楽ファイルのdownloadは、極めて速い、例外的に速いというのに、今日はupload側がおかしい。メイルが出せない。

11時、断水。14時、回復。

ブログ、3月24日の分を更新した。それになんと3時間かかった。このネット何とかして欲しい。

まだ残っていたカボチャでポタージュを作ることにした。ネットのレシピを見ると生クリームを使っていないが、僕は使用することにする。結果は、まろやかな味で成功。

マイクロソフトのliveメイルが発進できなくなった。受信はできる。しかし返信が送れない。メイラー(サンダバード)では受信できるがWEBでは受信もできない。MSが勝手にフロックしている。一方、僕のサーヴァー、日本のDTIのメイルも数週間前から見られない。原因不明。だから全く救いようがない。かろうじてネットが通じたので、急遽Gmailのアドレスを作った。
tanabe.yoshiharu@gmail.com である。@live.jpから全てのメイルアドレスを引っ張ってくることもできた。面倒だが、今後Gmailを使わざるをえない。メイルアドレスを変更するとみんなに迷惑がかかる。
とkろが、19時半、ネット不通。Vodacomは携帯電話も不通になってしまった。次は停電か。

3月26~29日 du 26 au 29 mars 2011 コンデ『わたしは魔女チトゥーバ』 «Moi, Tituba sorcière...»

Le samedi 26 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度67,25%。

12時10分、断水。天気がよくなったので車を洗おうとした途端の断水。20時、回復。昼間暑いときに水が出ないというのは痛い。

夕方からネット不調。そろそろ今月の契約が切れるが今日はまだ有効なはず。ところが、21時になって、ばっさり切れてしまった。2月28日に3月分を払ったのだから、月曜まで接続されていてもいいはず。

Le dimanche 27 mars 2011
薄曇。7時、気温23℃、湿度70%。

WVに対する抗議レターを修正。

日曜だというのに、アラン君がネット接続契約延長手続きをしてくれた。ありがたい。

チーコちゃんが僕の寝室で粗相ををしてくれた。部屋に閉じ込められていたので致し方ない面もある。でも、ベッドにピピ(おしっこ)はちょっと困った。

Le lundi 28 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度72.5%。

東京の銀行からネット送金の手続きをしていたが、ネットが不調でいらしらしていたところ、追討ちをかけるように停電。この停電は短かったが、送金手続きはできなかった。再度暗証番号をいれるところから、繰返さなければならない。

Le mardi 29 mars 2011
晴。7時、気温23℃、湿度70%。

ネット不調。見られないメイルがある。

アボカドの質が悪くなってきた。雨季が来月で終わる。アボカドの季節からいうと末期にちがいない。隣家の息子エリティエ君から買ったうちの半分は捨てなければならなかった。効率が悪い。
NPO「WV」の会長あてのクレームレターをメイルでWV米国、英国、ジュネーヴ、国連及びフランスに送った。果たして反応はあるだろうか。

マリーズ・コンデ『わたし、魔女チトゥーバ Moi, Tituba sorcière,』を終わった。期待を裏切らない面白い作品だった。途中、歴史的事実である「セイラムの魔女裁判」の場面がかなり長く描かれている。作者の想像が制限されるところで、ちょっと退屈した。生まれ故郷のバルバドス島から、夫について清教徒の影響の強いボストンそしてセイラムに移住する、文庫本で278ページの小説だが、最初の50ページと最後の100ページが息をつかせない運びである。最後はコンデ得意の悲劇だ。なかなかハッピー・エンドは用意してくれない。バルバドス島に戻れたものの、黒人奴隷反抗の萌芽としてのマロン運動にかかわりつつ命を落とすのである。マロンについては、コンデ『セグ』第3巻のジャマイカの場面に触れたときに本ブログに書いた。ジャマイカのマロンは19世紀前半、『私は魔女、、、』のマロンは18世紀前半で100年の差がある。

ところで、魔女sorcièreとは一種の職業であり、生まれながらにして魔女ではなく、体得する知識と技術で魔女になるのだというのは興味深かった。では、僕でも魔法使いsorcierになれるかというと、薬草の採集や催眠術は習うことができそうだが、死者の霊を呼び出したり、海神に祈りを捧げるなどできそうにもない。やはり、体得するとはいっても、資質(タレント)が必要なようだ。
(画像は文庫になったコンデの小説の表紙、表紙画は女流画家ブノワMarie-Guillemine Benoist『黒人女の肖像Portrait de régresse』(1799-1800)の部分。ブノワの出世作になった)。