31 mars 2011

3月25日 le vendredi 25 mars 2011 ニアネ Djibril Tamsir Niane

Le vendredi 25 mars 2011
晴。7時、気温23℃、湿度72,5%。

12時40分、停電。13時半、回復。
13時半、断水。16時45分、回復。

マドンナもチーコちゃんも顔つきが変わった。マドンナも千依子(こういう風に漢字を当てようと思う)ともにお嬢様になったのだ。マドンナは彼女の母親に比べて体格も数段よくなり(栄養がいいから)、顔が和やかで険しくない。表情も豊かである。千依子ちゃんは美人になってきた。野良ではない。思うに、氏より育ちとは犬猫にもいえるのだ。次回の写真をよくみていただきたい。新しく家族になったマーゴちゃんは、まだ野良の気風が残っている。

アフリカの語り部(グリオ、Griot)に興味があるといったら、アラン君がっこ昔高校時代に読んだという本をくれた。ニアネ(Djibril Tamsir NIANE)の『スンジャタ(Soundjata)』である。副題は『マディングの叙事詩(L’Épopée Madingue)』とある。
作者ニアネはギニア出身の作家、歴史家である。1932年生まれ。口承文学の権威。東京大學の名誉教授でもあるらしい。「プル人のお姫さま」と云われた初の黒人ファッション・モデルのカトゥチャ・ニアネは、実の娘である。
グリオは王や貴族につき、顧問として歴史、法律、慣習、音楽を司った。魔術師ではない。本ブログで紹介したマリーズ・コンデ『セグ』にもトラオレ家のグリオが登場していた。
『スンジャタ』は、大マリ王国を築いたスンジャタ・ケイタの叙事詩。グリオはママドゥ・クヤテ。ニアネが口述をまとめたという構成になっている。
まだ、僕はコンデ『わたし、魔術師チトゥバ』を読んでいる最中なので、それが終わってからとりかかろうと思う。

30 mars 2011

3月24日 World Vision Lubumbashi

Le jeudi 24 mars 2011
晴。7時、気温23℃、湿度75%。

運輸省のアントワンヌさんに僕の運転免許証の更新を頼んだ。ここの免許証には5年間といる有効期限がある。つまり、僕の免許証は2006年の4月発行なのである。当時は100ドルを担当のお姉さんに払った。今回は65ドルと写真2枚。

キプシ街道で2時間待たされた。キプシからルブンバシに上る途中でトラックがひっくり返っていた。ミンブル村に着く前である。10時のアポイントに大幅に遅れてしまった。しかも、悪いことに携帯を昨日アスンタさんのところにわすれてきてしまったから、誰にも連絡できなかった、

ルブンバシのワールド・ビジョン(WV)を訪問した。先週土曜日、帰国されたTさんを空港に送ってから、その足でこのWVの事務所に来ている。土曜日は西欧並みに事務所が開いていないとわかった。事務所の責任者に会う積もりだったので、直ぐに合えずともアポイントをとりたかったのであるが、致し方ない。月曜日にアラン君にアポイント申し込みをしてもらった。責任者が出張中だというので、その帰りを待つことにした。一方、次席がWVキプシに来ているというので、早速僕の家の直ぐ近くなので、事務所に行ってみると、既にルブンバシに帰ったという。水曜日にルブンバシのWVを再訪した。ところが、会計検査で忙しく、翌日10時に来て欲しいということになった。
そのアポイントが上記のキプシ街道の悪路で大幅に遅れた。責任者の変わりにパブリック・リレイションの担当アランが会うというから拒否して待合室でじっと待つことにした。
こうして12時過ぎ、やっと責任者のJerry KAZADIとの面談が実現した。

WVは人道NPOである。USA発祥の巨大NPO。キプシのWVを訪問したときのレポートが既に本誌に掲載されている(2011年2月10日)。WVの事業の一つにチャイルド・スポンサー制度(教育里子制度)がある。Tさんはそのスポンサーの一人だ。子供に会うためにコンゴまでみえられたのだ。子供との面会の段取りはWVがした。子供に会うだけでなく、通う現地の学校や病院の見学などを織り交ぜて成功した訪問だったようだ。ところが、会計が不明瞭だった。それが担当の個人的な資質によるものか、組織的なものか知りたかったのである。担当のアランが予定外の支払いを請求したので抗議の意味もあった。
結論からいえば、WVルブンバシは腐っている。トップもグルだとみた。タカリの「黄シャツ」(交通警官)と変わらない。WVの全体からみれば、こんなWVが存在するのは恥である。マネージメントの透明性はないし、倫理観が欠如している。僕もアラン君も、WVルブンバシ、おそらくはWVコンゴDRC全体が、世界の善良な市民の寄付や会費を「食いもの」にしちえるという印象である。WVルブンバシやキプシの職員たちに、昨日会った中小NPO「アルバ」のガブリエルさんのような謙虚な実務家はいないのではないか。
Tさんは「日本カタンガ協会」のメンバーさんであるから、僕には抗議する資格がある。その場で担当アランの処分を期待したが、不可能とわかった。終始身内を庇うジェリ所長は、僕に抗議の内容を文書化せよと迫った。まともな責任者なら、会談中にミニッツ(PV)を秘書に書かせて、僕はそれにサインすれば足りたはずだ。
WVルブンバシは、リカシ市のWVをスパーヴァイズしているが、リカシ市のWVのうちトヨタ地区WVはWVニッポン(日本)がファイナンスしている。だからWVが紹介するコンゴの子供たちはリカシ市在住となる。しかし、何人の子供たちをのスポンサーに日本人がなっているか、ここ数年の間に何人の日本のスポンサーが現地を訪れたかとの質問にもジェリは答えなかった。これは組織の秘密なのだろうか。不透明性である。
日本人のスポンサーが殆どないか極めてするないとすれば、日本とコンゴの距離だけの問題ではない。「日本カタンガ協会」が常に問題にしている日本外務省の「安全情報」をまともに読めば「危険な」ルブンバシに来ようとする訳がないのである。だから数字がほしかったがWVルブンバシでは秘して何も云わなかった。
しかし、僕は文書化を了解した。それが下記の文章である。あて先をWVアメリカの会長とし、表題を「倫理問題以上のこと、職員の態度を指導・コントロールせよ」とした。
(画像は、WVコンゴから食料援助を受けたコンゴの子供。WVコンゴのサイトから)。

Début de citation
World Vision
USA
À l’attention du Président
Lubumbashi, le 25 mars 2011

Objet : plus qu’un problème éthique
(guider et contrôler les comportements de vos personnels)

Monsieur le Président,
Suite à l’entretien du 24 mars 2011 avec Monsieur Jerry KAZADI, directeur région sud (Province du Katanga, RD Congo) de votre maison et à sa demande, nous avons l’honneur de vous faire parvenir la présente, malgré son contenu a été déjà verbalement communiqué à Monsieur Jerry KAZADI et c’est lui qui devait normalement établir un procès-verbal sur place à son bureau au cours de l’entretien afin d’éviter toute la démarche inutile pour une décision nécessaire, donc nous notons l’inefficacité ou la passivité de Monsieur Jerry KAZADI.

Il s’agit de la non transparence du service et de la comptabilité de la World Vision (Lubumbashi, RDC).
1. premier l’excès du paiement
Mademoiselle T., japonaise de Yokohama, membre de notre Association Katanga-Japon est arrivée à Lubumbashi le 14 mars 2011. Ella a effectué une visite de son enfant parrainé à Likasi-Toyota (120 km de Lubumbashi) organisée par World Vision Lubumbashi et celle de Likasi. Les frais (prise en charge) étaient prévus de 240 dollars US, ces frais était même exagérés par rapport au standing offert, mais lors du paiement la World Vision a pris, une fois la somme de $190 comme la dépense réelle, cependant Monsieur Alain MWAKU MASELA, employé de la World Vision a perçu, plus tard, de Mademoiselle T. le montant de $50 pour atteindre $240 prévu et en sus il a osé le supplément de $100 sans justification valable donc en total Mademoiselle T. a payé 340 dollars US, et ceci sans reçu, bien entendu !

2. harcèlement
Dans la voiture de la World Vision, en retournant de Likasi, le dit Monsieur Alain MWAKU MASELA a profité de poser des questions très personnelles à Mademoiselle T., à savoir son état civil et sa situation financière. Et pour cacher au chauffeur il a écrit en anglais dans un papier et montré à Mademoiselle T. : You want my kiss for souvenir ? Il a également insisté d’inviter Mademoiselle au dîner ce soir qui a été catégoriquement refusé par elle. Par ailleurs ce Monsieur Alain MWAKU MASELA a fait l’achat des maniocs dans un village avec l’argent que Mademoiselle T. venait de lui payer.

3. deuxième excès du paiement
Monsieur Alain MWAKU MASELA a pris autre 120 dollars US pour remettre des photos prises pendant la visite à Likasi dans une mémoire flash de 8 Gb qui ne coûte qu’environ à 40 dollars US dans le marché lushois en mentant sur le prix et sur la disponibilité d’une mémoire moins grande. Tous cela sans reçu sans preuve comme d’habitude.

4. complice de Monsieur Jerry KAZADI
Lors de l’entretien du 24 mars au bureau de Monsieur Jerry KAZADI, ce dernier Monsieur m’a refusé de me répondre à mes questions que ne pouvaient pas être secret de votre Organisation, il s’agit de :
a) nombre des enfants sponsorisés par les japonais ainsi que le nombre des sponsors japonais
b) nombre des visiteurs japonais au cours des dernières années dans le cadre du parrainage au sein de la World Vision.

Voilà, ainsi nous vous prions de bien vouloir prendre mesure nécessaire pour maintenir la transparence de l’Organisation telle que vous appliquiez dans vos sites Internet. Pour garder votre objectif, je suggère la nécessité de la sanction sévère sur Monsieur Alain MWAKU MASELA en tant que la personne directement concerné de l’acte commis et sur Monsieur Jerry KAZADI en tant que la personne responsable de la direction régionale qui devait gérer ses personnels.

Dans l’attente de vous lire dans un délai raisonnable, veuillez accepter, Monsieur le Président, nos meilleurs salutations

TANABE, David-Yoshiharu
Président d’honneur de l’AKJ
Cosmas Kyungu Nyemba
Président de l’AKJ
Alain Tshibamba Kanyinda
Trésorier Général de ‘AKJ

Copie : Monsieur Jerry KAZADI, directeur région sud de la WV
Fin de citation


26 mars 2011

3月23日 le mercredi 23 mars 2011 インテル・ミラノの協力 aide de L'Inter Milan

Le mercredi 23 mars 2011
曇のち晴。7時、気温22℃、湿度72,5%。夜中に激しい雨が屋根をたたいていた。

カタンガ州のピーナツは美味しい。僕はよく南京豆を買ってくる。生である。小さなコップで量り売りする。コップに山盛りにする。アバウトである。フライパンで焦げないように気を付けなら煎るのである。熱を冷ますと皮がむける。これが美味い。味がある。日本のピーナツは実が揃っていて形もよく見栄えがいいが味がない。カタンガの土地からは豊富なミネラルが含まれている落花生ができるに違いない。

NPOアルバAlbaのガブリエルさんと久しぶりに会った。去年2010年5月19日の本ブログ記事で「アルバ」について報告している。僕がルブンバシであった教育養子制度(チャイルド・スポンサー制度)の組織の中でもっとも信頼性が高く効率がいいNPOとジャッジしたところである。今回は、日本人のスポンサーを受け付けてくれるかどうかを打診するために訪ねたのある。ミラノ本部が決めるが、受け付けてくれそうだ。そうすると年間180ユーロ(月15ユーロ)でスポンサーになれる。子供からの手紙は、フランス語からヴォランティアがイタリア語に直している。その部分を僕のところで、日本語に翻訳して、日本のスポンサーにはメイルで送れるようにすればいい。「日本カタンガ協会」としては、実務を「アルバ」にまかせ、ゆるいパートナーシップで「アルバ」に協力できればよいと考える。日本は海外送金手数料が高い。これは、現在「日本カタンガ協会」で使っている仕組み(日本にある僕の個人口座に振り込んでもらい、相当額を僕がルブンバシでドルで引き出す)に類する仕組みを考えよう。

ところで、NPO「アルバ」が間に入って、インテル・ミラノがサッカー学校をルブンバシに開港する。去年12月ルブンバシのサッカー・チームでアフリカ。チャンピオンの「マゼンベ」がアブダビで旧トヨタ杯の決勝戦を「インテル・ミラノ」と争って惜しくも敗れた(本ブログ2011年12月18日参照)。初めてアフリカ代表チームが世界のトップに挑戦した試合だった。この試合でルブンバシの「マゼンベ」も、オーナーでカタンガ州の知事モイーズもイタリアで、いやヨーロッパで有名になったが、この試合がきっかけで「インテル・ミラノ」がルブンバシにサッカー学校をつくるという友好がそだった。運営はコンゴだが、トレーナーなどをインテルが派遣し、パーマネントにコンゴを支援する。貧しいコンゴだから、サッカー・ボールやユニフォームを贈ってやろうなどという協力ではない。もっと実質的である。8歳から14歳のサッカー少年の育成だ。「マゼンベ」はこうして学校を既にもっている。それに世界の「インテル・ミラノ」が援助するのだ。「インテル」の日本人選手長友もルブンバシに来週にも来るという。

この記事を書いていて、マドンナ用のパスタを焦がしてしまった。「マドンナ、ごめん、焦げ臭いけど我慢して!」

25 mars 2011

3月22日RDC=ジンバブエ経済委員会 commission mixte entre la RDC et le Zombabwe

Le mardi 22 mars 2011
曇。7時、気温22℃、湿度72,5%。

10時、断水。暫く断水がないと思ったら突然断水。油断大敵。20時、回復。

3月15日から3日間ルブンバシでジンバブウェとの第2回経済委員会が開かれていた。通関問題、中小企業の交流がメイン・テーマだったようだ。
ザンビアとのような州レベルの委員会ではなく、国家レベルの委員会である。国家レベルであるがルブンバシで開催されるの何故か。それは、地理的にジンバブウェが近い、ジンバブウェの首都ハラレにも直接に航空便で結ばれているということにとどまらない。ルブンバシがRDコンゴの経済首都だからであら。だから、アフリカ南部の諸国もルブンバシに領事館を開いている。領事館がない米国や中国は頻繁にルブンバシに大使が来る。日本はというと現在の大使も前の大使もルブンバシに足を踏み入れたことがない。
この委員会は7年ぶりに開かれたが、次回は既に2年後の2013年にジンバブウェで開催することを予定している。

コンゴは現大統領の父親がモブツを追い出したとき、ジンバブウェから軍事的援助をしていもらっている、しかし、その恩はカサイ州のダイヤモンド鉱山の利権をムガベに与えることで返しているのではないか。アフリカの最後の独裁者ともいわれるムガベ大統領のいるジンバブウェとは当面あまり深い関係を持たないほうがいいと僕は思う。

La RDC et le Zimbabwe créent une commission mixte dans les domaines du commerce, des douanes et des PME
Kinshasa, 22/03/2011

Une commission mixte vient d’être instituée entre la RDC et le Zimbabwe pour dynamiser la coopération entre ces deux pays dans les domaines du commerce, des douanes et des Petites et moyennes entreprises
La RDC et le Zimbabwe ont convenu de mettre en place une commission mixte dans les domaines du commerce, des douanes et des PME, à l’issue des travaux de la deuxième grande commission mixte entre les deux Etats qui se sont tenus du 15 au 17 mars 2011 à Lubumbashi, dans la province du Katanga, indique un communiqué de presse du ministère de la Coopération internationale et régionale parvenu lundi à l’ACP.
(以下略。digitalcongo.netから。

3月21日 le lundi 21 mars 2011 ヴィルンガ国立公園の原油試掘差止め prospection pétrolière suspendue au Parc des Virunga

Le lundi 21 mars 2011
晴。7時、気温23℃、湿度72,5%。

やっとブログを昨日20日まで更新した。

昨日「岩手日報」の記事を載せたが、Sさんのブログがある。そこにザンビアから帰国、盛岡、陸前高田にむかう彼の文章が載っている。
http://ameblo.jp/keisatojapan/

本ブログ1月24日に国立公園ヴィルンガ(RDCコンゴ東部、北キヴ州)で原油開発問題が持ち上がったことを書いた。山岳ゴリラが生息していることで有名な国立公園である。このほど公園内での原油試掘差し止め命令がキンシャサ政府から発せられた。ユネスコやグリンピースの主張が一応通った感じだが、開発が完全に中止になったわけではない。要はもっと環境にたいする影響を調査しようというものだ。この調査は来年にならないと結果がでないらしい。

ところで、Vurunga山脈地帯は活火山がある。東リフトバレーの一部であり、「発散型プレート境界」の典型例だそうだ。

Prospection pétrolière suspendue au Parc des Virunga

José Endundo Bononge, le ministre congolais de l'Environnement, a récemment annoncé la suspension par le gouvernement de la République Démocratique du Congo (RDC) de la prospection pétrolière au Parc national des Virunga, inscrit sur la liste du Patrimoine mondial de l'UNESCO. Cette décision fait suite aux engagements adoptés dans le cadre de la Déclaration de Kinshasa, signée le 14 janvier en RDC par le Premier ministre congolais et la Directrice générale de l'UNESCO. Le Premier ministre a, par ailleurs, indiqué qu’une évaluation environnementale était en cours et que les résultats seraient disponibles au début de l'année prochaine.
(以下略)

21 mars 2011

3月20日東日本大震災 séisme de la Côte Est du Japon du 11 mars 2011

Le dimanche 20 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。

ネット不調。繋がっているようないやいような。ホームページが更新できない。いや2日分をuploadするのに5時間かかった。

昼近く晴れたと思ったら、14時、にわか雨。

昨夜から英米仏によるリビア空爆が始まった。フランス放送では、リビア人がこの空爆を歓迎している様子を伝えた。アラブの民主革命を支援するためのカダフィ攻撃だが、果たしていつまでリビア国民の支持がえられるだろうか疑問である。イラクのようなことになる前に手を引いたほうがいい。

僕は仙台生まれである。大学卒業まで仙台にいた。しかし、仙台には親も親戚もない。両親の疎開先が仙台だった。大学を含め学校時代の友達が仙台にはいる。今回の東日本大震災では今のところみな無事なようである。

ところが、3月5日まで一週間ほどルブンバシに来ていたフリーランサーのジャーナリストSさん、ザンビアに出ていたが、3月11日の大震災のニュースを受けて急遽日本に帰国した。それもそのはず、彼の両親が陸前高田にいるのだ。この町は三陸海岸に位置し、震災で壊滅的な被害を受けた。
以下の記事は『岩手日報』の電子版である。Sさんの父上は勤務先で津波に会ったが命拾いしている。それどころか病院勤務なので救助に大活躍をした。けれども、ご母堂は行方不明だそうだ。心中察するに余りある。Sさんはまだ28歳の青年。帰国後直ぐに震災復興NPOを設立し、現場に入っている。そのダイナミックな積極性は頼もしいが、どれほど辛い思いをしていることか。
落ち着いたらRDCコンゴのこともきっと果敢に取り組んでくれるだろう。

引用開始(『岩手日報』記事)
「不眠不休で使命感貫く 県立高田病院の佐藤副院長」
 
「患者に笑顔を見せることができなくなってしまった」。16日夜に盛岡市の県立中央病院に入院した県立高田病院の佐藤敏通副院長(57)は涙ながらに語った。妻淳子さん(54)の行方が分からないまま、患者や被災者を守り続けた5日間。食事も睡眠も不十分な中、医師としての使命感と信念で診療していたが「体力的にも、精神的にも限界だった」。被災地では同じ境遇の仲間がぎりぎりの状態で診療を続けている。不眠不休の医療現場の疲れはピークに達している。

 「ゴォー」。地震後の大津波はすさまじい音で県立高田病院を襲い、濁流は4階まで流れ込んだ。同病院に入院中で奇跡的に助かった津波災害史研究者、山下文男さん(87)の病室にいた佐藤副院長は、山下さんの「写真を撮れ」の言葉で、その様子を必死にカメラに収めた。

 医師や看護師らは石木幹人院長の指示で組織的に活動。病院の機能維持のための班と救護班に分かれ、患者を守った。屋上に患者を上げ、ドアや棚などを燃やして暖を取り、夜を過ごした。

 淳子さんの行方不明を知ったのは地震発生の翌日だ。外部との連絡手段は、同病院の事務局長が命を投げ出して残してくれた衛星電話のみ。情報がないまま、とにかく目の前の患者を救うことに力を注いだ。
 13日から米崎コミュニティーセンターを拠点に診療活動を開始。竹駒、下矢作、長部の3地区を各チームが回った。「眠れない」「薬がなくて不安だ」などと訴える被災者たち。佐藤副院長は、一人一人の心に寄り添うように「大丈夫ですよ」と優しく声を掛け、肩に手を置いた。

 食事も睡眠も十分ではなく、地震なのか、目まいなのかも分からない。そんな状態を支えたのは「自分にできることはこれしかない」という医師としての信念だった。

 県立中央病院に入院して2日目。抗不安薬を飲んでやっと眠ることができた。しかし、まだ震災を受け止めることができず、悲しみも現実的ではない。20年前に息子、10年前に娘を亡くしている佐藤副院長は「今回も。何も言葉にできない。考えられない」とうつむき、「仲間には申し訳ないという思いがある。院長をはじめ全員が本当にぎりぎりの状態だ」と打ち明ける。

 被災地では病院内で寝泊まりしている医師、津波で自宅が流されたり、家族の安否が不明のまま勤務している看護師もいる。「医師や看護師も被災者。とにかく休ませてほしい」と強く訴える。

【写真上=県立高田病院に流れ込む濁流。建物も車ものみ込まれた=11日午後、佐藤敏通副院長が同病院の4階から撮影】

【写真下=疲れ切った表情で「医師や看護師も被災者。とにかく休ませてほしい」と訴える佐藤敏通副院長=17日夜、盛岡市・県立中央病院】

(2011/03/19)
引用終了

3月19日 le samedi 19 mars 2011 CO2で新商売 nouvelle affaire agro-commerciale au Congo

Le samedi 19 mars 2011
雨。7時、気温24℃、湿度70%。
珍しく朝になっても止まない雨である。僕は傘をもっていない。何時の間に雨があがっているからだ。昼前から晴れ、夕方は快晴になった、

昼過ぎの便でTさんはナイロビ経由日本への帰国の途についた。
Tさんはまだ20代のお嬢さんである。でも、エンジニア。アフリカに偏見を持たない、行動力のある女性である。その彼女も外務省のページでルブンバシを見て躊躇するほどであったという。カタンガ州に実際に来て見て、日本外務省の情報が全く当てはまらないことを肌で感じていただいた。
カレーにカボチャをいれてみた。どうなるんだろう。ポテトの代わりにカボチャではと考えただけのはなしなのだが、、、。結果は悪くなかった。まだ、カボチャが1/4ある。次はポタージュにでもするかな。

CO2で新しい商売。国の大臣もしたことがある父親から相続した土地(4200ヘクタール)にアカシアを植え、ヨーグルトなどの乳製品を生産する多国籍企業にCO2消化分を売却することに成功したようだ。キンシャサから100キロほどのバテケ高原の土地の所有者はオリヴィエ・ムシエテさん。広大な所有地の有効利用を考えた。35万トンのCO2に相当するとして160万ユーロで植物が炭酸同化作用で排出した「空気」が売れたのである。土地は森林ではなかったから、アカシアを植林するために、150万ユーロの資本と労働が投下されている、従って採算にのるのは数年後ではないか。しかし、2017年には100万トンのCO2を消化するそうで、それを見込んで既に300万ドルで世銀のファンドなどに「空気」を売ったそうである。アフリカで初めての事例である。
(画像は空気を売ったムシエテさん。ネットから)

RDC : Novacel vend de l'air à Danone

Olivier Mushiete a planté 4 200 ha d'acacias sur le plateau Batéké.
Comment faire fructifier une exploitation agricole au XXIe siècle ? Olivier Mushiete a trouvé la solution : céder aux multinationales des crédits carbone. Explications.

C’est l’histoire d’un homme qui vend de l’air, entre 3 et 5 euros la tonne. Le 18 février, le géant de l’agroalimentaire Danone a signé avec Olivier Mushiete, directeur général de Novacel, un contrat portant sur l’achat de 350 000 tonnes de crédits carbone, pour 1,6 million d’euros.

Olivier Mushiete, qui ne quitte jamais son chapeau orné d’une plume, symbole de son pouvoir coutumier, règne sur un territoire de 22 000 ha, Ibi Village, hérité de son père, Paul, un ancien ministre. Dans les années 1980, celui-ci crée Novacel sur ses terres du plateau Batéké et élève du bétail sur l’immense savane, aux portes de Kinshasa. L’affaire péri­clite après sa mort, en 1999. Olivier, ingénieur agronome, décide de faire revivre cette terre à l’abandon en misant sur l’agroforesterie. Nous sommes à l’aube du XXIe siècle, et la planète s’inquiète sérieusement des gaz à effet de serre. On commence à évoquer le principe du pollueur-payeur et celui qui en découle : l’achat de « droits à polluer », les crédits carbone (lire encadré).

Avec son frère Thierry et sa sœur Pascale, actionnaires de la société, Olivier va transformer, à partir de 2005, le plateau Batéké en puits de carbone, le premier en Afrique. Pour ce faire, il plante 4 200 ha d’acacias, des arbres à croissance rapide. Le principe est simple : l’arbre, en poussant, absorbe et stocke du gaz carbonique (CO2). En apparence, il suffit donc d’avoir un terrain et de planter des arbres. Dans la réalité, c’est bien plus compliqué. La démarche d’homologation du puits de carbone de Novacel a demandé des années de travail et 1,5 million d’euros d’investissement, notamment pour financer les expertises et préparer les opérations de certification. Le 17 février, le projet a été officiellement validé par la convention-cadre des Nations unies sur les changements climatiques.
(以下略。全文はブログ『日本カタンガ協会』に掲載)

3月18日 le vendredi 18 mars 2011 カザフスタンのENRC kasakh

Le vendredi 18 mars 2011
曇、7時、気温24℃、湿度72.5%。

Tさんをルブンバシの国立博物館に案内した。

東日本大震災の復興需要をみこして、非鉄金属相場、銅の価格が上昇しているようだ。銅鉱山に積極投資を添加しているのだカザフスタンの鉱山会社で英国会社をロンドンに上場させているENRC(Eurasian natural resources corporation)である。既に2009年にCamec社を買収してその傘下にRDCで銅鉱山を開発しているボス・マイニングBoss Miningを収めている。さらに、Kolwesi(ルブンバシの北西200km)の銅鉱山を手にしようとしている。ENRCの目算はボス・マイニングとKolwesiのMetalkolを通じて2014年までに銅10万トン、コバルト5000トンを生産することである。

Le kazakh ENRC s’intéresse au cuivre de la RDC
Écrit par Steven AddamahDécryptagemar 18, 2011
Le cuivre, métal phare sur le marché des matières premières, et avec l’événement malheureux qui a secoué le Japon, le marché du cuivre s’annonce prometteur dans la perspective du lancement de grands travaux de reconstruction. C’est dans ce contexte que les entreprises œuvrant dans ce domaine, s’active à la recherche de contrat avec les pays regorgeant du cuivre . C’est le cas de la compagnie minière kazakhe, Eurasian natural resources corporation (ENRC) qui s’intéresse actuellement à la République Démocratique du Congo (RDC).
En effet, Présent en RDC, via le rachat de Central african mining and exploration company (Camec) à près de 955 millions de dollars ; ce qui lui a permis de prendre le contrôle de Boss Mining dans le Katanga. Le kazakh ENRC s’est également tourné vers la grande zone minière de Kolwezi où il a pris possession d’environ 50% d’actions dans Metalkol, entreprise minière née sur les cendres de Kingamyambo Musonoi Tailings (KMT). ENRC entend se faire aujourd’hui, une place dans la filière mondiale du cuivre en nourrissant l’ambition de l’exploitation du cuivre congolais.
Cependant, les ambitions de cette entreprise qui s’est fixée comme objectif de diversifier ses activités en Afrique risquent de rencontrer certaines contrainte en RDC. Il s’agit essentiellement de la zone d’ombre qui entoure le processus de liquidation du projet minier KMT dont aucune conclusion définitive n’a été encore rendue par le liquidateur nommé par le gouvernement. Ce qui n’est pas du tout intéressant, car le retard dans le bouclage de la liquidation de KMT peut jouer en défaveur du kazakh ENRC.
Enfin, Selon diverses sources, avec ces deux acquisitions en RDC (Boss Mining et Metalkol), ENRC ambitionnait de dépasser 100.000 tonnes de cuivre et plus de 5.000 tonnes de cobalt par an d’ici 2014.

20 mars 2011

3月17日カタンガ=ザンビア北方4州会議 commission entre le Katanga et quatre provinces zambiennes

Le jeudi 17 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度70%。

Tさんは、今日、教育里親制度のスポンサーとして世話をしている子供との面談のためリカシに行く。仲介はWorld Vision Japanがしている。

10時、ネット不調。

先日、ルブンバシの市場で買ったカボチャを煮込んでみた。料理する前にネットで調べたのだが、呆れるほど砂糖を入れることがわかった。レシピ通りに作ったが、甘い甘い。一晩おいて明日シスター・アスンタさんのところに持っていこう。カボチャを半分しか使わなかったが、とても僕一人で食べきれない。

カタンガ州はザンビア、タンザニアおよびアンゴラと国境を接している。カタンガ州と国境沿いのザンビアの4州とは定期会合を開いている。今回はその第9回である。4州とはカッパーベルト州、ルアプラ州、北州、北西州である。不正貿易をはじめ経済、社会、文化協力まで広範にわたって話し合いが行われるようだが、国境手続きの簡素化、出入国の自由化、自動車保険の共通化等前進的な話し合いはまだなさそうである。欧州のように国境が低くなるのは何時のことか。
(画像はルブンバシ市。ネットから。像の土台に見える1909年とは、ルブンバシがエリザベートヴィルÉlisabethvilleとして建設が始まった年である。市制がひかれるのは1910年。去年が市制100周年にあたっていた)。

Lubumbashi: ouverture de la 9e commission permanente mixte entre le Katanga et quatre provinces zambiennes

Les délégués de quatre provinces zambiennes séjournent à Lubumbashi, au Katanga, où se tiennent depuis mardi 15 mars les travaux de la 9e commission mixte régionale avec leurs collègues de la province congolaise du Katanga. Le but: renforcer les relations bilatérales entre la RDC et la Zambie.
Les Zambiens souhaitent aborder les questions qui sont liées notamment à la fraude et au déchargement illégal des marchandises dans la zone neutre, à Kasumbalesa et dans d’autres postes frontaliers.
L’insuffisance des marchés communs, la promotion du commerce bilatéral et le paiement des dettes figurent aussi à l’ordre du jour.
Sur le plan sécuritaire, les deux parties vont discuter sur le renforcement des mesures à prendre en vue d’endiguer les problèmes communs qui se posent dans ce cadre aux frontières de deux pays.
Au plan social et culturel, les deux parties devront échanger des informations sur l’organisation des activités artistiques et culturelles à tous les niveaux par les deux peuples.
Les provinces zambiennes présentes à ces assises sont celles du Cooperbelt, Luapula, Northen et North Western

3月16日 le mercredi 16 mars 2011 「白いズールー」 Zoulou blanc

Le mercredi 16 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度65%。

9時、ネット不通。12時、回復。

Tさんにキプシの僕の家に来てもらった。キプシ街道の悪路にはまいったことと思う。

Zoulou Blanc、「白いズールー人」という歌手をご存知だろうか。ズールーは現在の南アフリカの先住民であり、彼らの言葉である。
芸名ジョニー・クレグJohnny Clegg(本名ジョナサン・クレグ)。英国生まれ。母親はユダヤ系。ローデシア(現ジンバブウェ)および南ア、ザンビア育ち。彼の半生はドラマである。14歳でギターを手にしたのが転機。スールーのミュージシャンとの出会いを通じてズールー文化を体得していく。白人でありながら、ズールーの言葉、音楽、ダンスを自分のものにしていくのである。従って、当時の差別社会アパルトヘイトに激しく抵抗する。マンデラが開放されて大統領になって、法律上アパルトヘイトがなくなっても、黒人に対する偏見がなくなったわけではない。ジョニーの戦いは今も続く。
2010年、去年のサッカーW杯テーマ曲はクレグの曲であった。
言葉は分からなくても「白いズールー」の歌を聴いてみよう。
(画像はグループJulukaを組んだ盟友シフォSiphoと)。

3月14、15日

Le lundi 14 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度70%。

Tさんが日本から無事ルブンバシに到着。バンコク、ナイロビ経由。出発前から東日本大震災の混乱で寝不足で、さらに長旅。ご苦労様です。おつかれでしたでしょう。にもかかわらず、宿舎から街に引っ張り出して余計疲れたかもしれませんね。

Le mardi 15 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度65%。
Tさんを、日本のIさんの知り合いであるAさんのお宅にお連れした。東日本大震災についていろいろ質問された。幸いにしてIさんご一家は無事。停電、断水などの困難をしのいで頑張っておられると報告。

午後、Aさんの娘さんSさんのアトリエ(彼女はアーチスト、デザイナー)に行く前に、ルブンバシ動物園に立ち寄った。去年訪れたときからさらに園内が整備されていた。石畳の遊歩道ができ、両脇にハイビスカスなどの花が植えられていた。新しい動物を入れる囲いも建設中だった。まだ動物の数は増えていなかったが、今月末にはキリンやゾウなどアフリカらしい動物がジンバブウェから到着するのだそうだ。この動物園をみると、確実にカタンガ州の復興が進行していることが実感される。
(画像はカビラ大統領の寄贈と説明があるライオン)

22時半、ネット不通。

3月13日 le dimanche 13 mars 2011 汚職追放 assainissement

Le dimanche 13 mars 2011
曇。7時、気温24度、湿度]70%。
さっきまで雨が降っていた。しかし今は、東の空が晴れている。

洗剤に一晩漬けておいた白いシャツについていたカレーのシミが赤ぶどう酒色になっていた。それを濯いだら、またカレー色になった。太陽に晒すとどんなことになるのだろうか。結果は、日光のおかげで数時間後にはシミが消えてなくなった。

11時、断水。天気がよくなったので車を洗おうと思った途端の断水だった。

カビラ大統領がイニシアティヴをとって二人の大臣を辞めさせた。ひとりは、RDCコンゴの2代目大統領モブツの長男で副首相兼労働大臣、今一人は農村開発大臣ウンジPhilippe Undjiである。汚職容疑が名目。汚職追放に聖域はないとは大統領の言である。さらに税関や法務省、州レベルでも逮捕者を出した。カタンガ州ではルブンバシ商工裁判所所長が罷免、逮捕されている。
モブツの息子の場合は、既に4ヶ月も職務を執行していないということである。RDCコンゴから外国に逃げ出しているのではないかと思われる。
今年の大統領選挙を意識しての現職大統領の汚職追放キャンペーンと見られるが、好ましい政策にはちがいない。けれども、どこまでそれを推進するのか注目されるところである。(画像はだ独裁者モブツ大統領の長男 François-Joseph Nzanga Mobutu元副首相)。

Le président congolais Joseph Kabila a révoqué vendredi un second ministre, celui du Développement rural, Philippe Undji Yangya, quelques jours après avoir fait subir le même sort au vice-Premier ministre François-Joseph Nzanga Mobutu.

L'information est rapportée ce samedi par la presse kinoise, qui a aussi fait état de l'arrestation de responsables pour corruption présumée.

Joseph Kabila a pris cette décision dans une ordonnance présidentielle lue vendredi soir à la Radio télévision nationale (RTNC).

Philippe Undji a été mis à la disposition de la justice, indique le journal "La Prospérité".

Le ministre du Développement rural avait fait son entrée au gouvernement central congolais en février 2010.

Il est reproché à ce ministre issu de la mouvance des groupes armés Maï Maï le détournement de fonds publics, selon ce quotidien.

"De gros poissons, et non des moindres, sont tombés dans les filets de la justice" dans le cadre de la campagne "Tolérance zéro" lancée par le chef de l'Etat, écrit pour sa part "Le Potentiel" en expliquant qu'un ministre provincial a également été arrêté, tout comme plusieurs responsables d'entreprises publiques.

La vague devrait en emporter d'autres

"Vague de révocations et d'arrestations au gouvernement et dans les entreprises publiques", renchérit "La Référence" sur son site internet en
indiquant que deux hauts magistrats et plusieurs hauts fonctionnaires du ministère de la Justice et de l'OFIDA (Office des Douanes et Accises) ont été révoqués, écroués ou sont recherchés par la justice.
Le directeur général adjoint de Services des entreprises pétrolières congolaises (SEP Congo, une entreprise d'économie mixte), Alain Ilunga, a été révoqué et mis à la disposition de la Justice. Le président du conseil d'administration et l'administrateur délégué général de la Société nationale de loterie (Sonal), récemment transformée en Société commerciale, Claude Mashala et Willy Makiasi, sont également poursuivis. En fuite, ils sont "activement recherchés", selon "Le Potentiel".
Deux hauts magistrats, le procureur général du Nord-Kivu (est), Mulumba Kilufia, et le président du tribunal de commerce de Lubumbashi (Katanga, sud-est), Jimmy Munyange, ont aussi été démis de leurs fonctions et interpellés.

Le président Kabila avait déjà révoqué mardi François-Joseph Nzanga Mobutu - fils de l'ex-dictateur Joseph Mobutu - de ses fonctions de vice-Premier ministre, ministre de l'Emploi, du Travail et de la Prévoyance sociale, pour "abandon de service" après plus de quatre mois d'absence du pays.

3月12日 lw samedi 12 mars 2011 塀修理 réparation du mur

Le samedi 12 mars 2011
曇。7時、気温24℃、湿度67.5%。

朝から断水。このところ断続的に断水しているのはなざなのだろうか。14時、回復。

家とのレンガ塀の修理を一昨日から始めた。レンガを繋ぐのはモルタル(セメントと砂の混合)である。セメントと砂の比率でもめた。僕は1:2とするようにインストラクトしたのに1:4に勝手にしていたからである。モルタルのレジスタンスが下がる。砂は、使い古しのセメント袋に入って一袋1500フラン(150円)で近所の砂山で買える。結局修理完成までにセメント4袋、砂16袋が必要だった。材料費が90ドル、労賃が請負で20ドルかかってしまった。隣家の建てた壁なのだけれど、隣家は負担する気配もない。しかし、放っておけば、隣家の山羊が入ってきて芝を食べるし、ウチのマドンナちゃんが隣家のゴミをとってきて遊ぶ、さらには隣家の悪ガキに石やレンガをぶつけられるから、やはりこの壁は修理しないといけないとの結論になった。有刺鉄線を張ることも考えたが、材料費がセメントよりも高いと分かったのでやめた。
(画像は数日後に修理が終わったレンガ塀)。

レンガ職人は中年男だが、彼の息子が天井掃除用の長い柄のついた箒を作ったので買ってくれという。いくらだときくと片手を開いた。5000とはちいと高いなと思ったら500だといので買い取った。50円である。

山羊に追いかけられて逃げ回るマドンナとは情けない。

日本のTV報道は一日中東北関東大地震のことばかり、地震の報道一色になってしまったようだ。みんなニューズ専門局でもないのに、各地の被害状況を伝えるのみ、その他の番組は一切流さない。「右向け右」である。異常な事態だから異常なのだということもあるが、幾つか特別番組を組んだり、ニューズ番組を増やしたりするのは結構だが、どこのチャンネルも同じ被害状況をのべつ幕なしに放送するのは考え物である。普通のの晩踏みを放映するのは犠牲者に失礼だという精神がおかしい。

3月10、11日 les 10 et 11 mars 2011 オレンジを植える planter des orangiers

Le jeudi 10 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度70%。

9時半、一昨日に引き続いて断水。15時45分回復。
ところが、この家の一番低いところ、裏庭の水道からは水がでることがわかった。そこで、太陽が照っていたので、15時、水浴び。

Le vendredi 11 mars 2011
曇のち晴。7時、気温24℃、湿度65%。
キンシャサおよびダカールに出張できる可能性のある仕事があったが、残念ながら受注できなかった。惜しい。ダカールは2年ぶりで、友人たちに会いたかったが致し方ない。

日本の地震は、またかと思っただけだったが、時間が経つに従って被害が大きいのに驚いている。

オレンジとレモン、それにビワの木の苗を買った。バナナの木は売り切れだったが、月曜には手に入りそう。バナナはカサイ州(カタンガ州の来た隣の州)が有名だが、インフラ(鉄道と道路)が破壊されているので、南隣のザンビア国から苗も輸入しているそうだ。だから一本7ドルだという。
(画像はオレンジの苗木。マドンナや隣の山羊に悪戯されないように木の枝で囲んだ)。

13 mars 2011

3月8、9日 les 8 et 9 mars 2011 『カメレオンに学べ』 «à l'école du caméléon»

Le mardi 8 mars 2011
晴。7時、気温23℃、湿度72,5%。

朝、静かだと思ったら、学校が半分休みなのだ。今日は国際婦人デー。女教師は仕事をしない。コンゴでも各地でデモ行進がある。女性パワーの誇示であるが、実際の社会的地位はまだまだ低い。強くなったといっても「肝っ玉かあさん」の域を出ない。

8時半、断水s。天気がよいのに水が出ないとは。20時になってやっと回復。
19時半停電。20時10分回復。

Le mercredi 9 mars 2011
曇。7時、気温24℃、湿度70%。

族学者ハンパテ・バの言葉には含蓄のあるものが多い。彼は伝承文学littérature oraleの権威ともなったが、大学の学位を持たずに研究者になっている。学位について「僕はバオバブの木陰で学んだ口承大学の学位取得者だな」といっている。また有名な言葉であるが「アフリカでは年寄りが死ぬということは、図書館がまるごと焼失するってことだ」。そのハンパテ・バが『カメレオンに学べ』という小文を書いている。なかなか面白いので抄訳する。なお、カメレオンはアフリカでは何処にでもいる動物で、とくに珍しい動物ではない。ルブンバシの郊外でもサバンナの林にいるのである。

『カメレオンに学べ』
カメレオンはね、一旦方角を決めたら、もう後ろを振り返らないんだ。君たちも人生で目標を決めたら、目標に向かって突き進むことだな、カメレオンのように。しかしだな、よく見るとカメレオンは頭を動かさんけれども、その目をギョロギョロ動かして前後左右上下を見ているんだ。警戒を怠らない。
カメレオンは場所によって身体の色を変える。それを偽善欺瞞などと考えちゃいかんよ。先ずは忍耐そして生きる術なんだ。敵と争っていたら何にもはじまらない。相手の存在も認めてお互いの理解を得ることだ。カメレオンの歩き方も見てみ給え。一歩一歩慎重に歩いている。慎重だよ。
餌に出会ったときでも慌てない。先ずは舌をつっと伸ばして探りを入れるんだ。
要は。カメレオンのように慎重にかつ確実に先に進むことなんだ。
カメレオンは僕らのいい先生というわけだ。

à l'école du caméléon

Si j'ai un conseil à vous donner, je vous dirais: "ouvrez votre coeur! et surtout : " Allez à l'école du caméléon! C'est un très grand professeur. Si vous l'observez, vous verrez... qu'est ce que le caméléon ?

D'abord quand il prend une direction, il ne détourne jamais sa tête . Donc , ayez un objectif précis dans votre vie, et que rien ne vous détourne de cet objectif .

Et que fait le caméléon ? Il ne tourne pas la tête , mais c'est son oeil qu'il tourne . Le jour ou vous verrez un caméléon regardez, vous verrez : c'est son oeil qui tourne . Il regarde en haut, il regarde en bas . Cela veut dire : Informez vous § Ne croyez pas que vous êtes le seul existant de la terre, il y a toute l'ambiance autour de vous !

Quand il arrive dans un endroit, le caméléon prend la couleur du lieu . Ce n'est pas de l'hypocrisie, c'est d'abord la tolérance, et puis le savoir-vivre . Se heurter les uns les autres n'arrange rien . Jamais on n'a rien construit dans la bagarre. La bagarre détruit. Donc, la mutuelle compréhension est un grand devoir .Il faudrait toujours chercher à comprendre notre prochain. Si nous existons, il faut admettre que lui aussi, il existe. Et que fait-il le caméléon? Quand il lève le pied, il se balance, pour savoir si les deux pieds déjà posés ne s'enfoncent pas . C'est après seulement qu'il va déposer les deux autres .Il balance encore... il lève... Cela s'appelle : la prudence dans la marche .

Et sa queue est préhensile. Il l'accroche . Il ne se déplace pas comme ça... Il l'accroche, afin que si le devant s'enfonce, il reste suspendu . Cela s'appelle : assurer ses arrières... Ne soyez pas imprudents !

Et que fait le caméléon quand il voit une proie ? Il ne se précipite pas dessus, mais il envoie sa langue . C'est sa langue qui va chercher . Car ce n'est pas la petitesse de la proie qui dit qu'elle ne peut pas vous faire mourir . Alors, il envoie sa langue. Si sa langue peut lui ramener sa proie, il la ramène, tranquillement ! Sinon, il a toujours la ressource de reprendre sa langue et d'éviter le mal...

Donc, allez doucement dans tout ce que vous faites !

Si vous voulez faire une oeuvre durable, soyez patients, soyez bons, soyez vivables , soyez humains "

3月7日 le lundi 7 mars 2011 『小さな喧嘩なんてない』 «Il n'y a pas de petite querelle»

Le lundi 7 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。
昼、快晴。

久しぶりにシャワーを浴びた。このところ腰痛でそれどころのはなしではなかったこと、外出していて昼間温度が高いときに在宅していなかったことなどがあって、Sさんに日本から持ってきていただいたナイロン・タオルを使う機会がなかった。あ~あ、さっぱりした。

コンデMaryse Codéの『ティチューバ』より前にCCFからこれは借りた本がある。マリ出身だがセネガルはダカールの研究所にカマラ・ラエと同じように身を寄せていた民俗学者ethnologueハンパテ・バAmadou Hampâté Bâの著書『Il n’y a pas de petite querelle 小さな喧嘩なんてない』である。西アフリカのサバンナ地帯に伝わる口承小話(しょうわ)を本(もと)に脚色してまとめたものだ。
題名になった話は、2匹のトカゲが喧嘩しているのを、やめさせようとするが、誰もトカゲの喧嘩などにとりあわない。しかし、それが引き金となって大火事に発展してしまう。そして、小さな喧嘩を止めさせなかった関係者が次々と因果応報、いやおうなく責任を取らされてしまうというモラルである。僕はこの種の話が嫌いである。
集められた13話の多くはモラルを語るか、イスラム宗教色が出ている。しかし、『人とワニ』と題されたコントは極めて哲学的で面白かった。
草原で火に取り囲まれたワニが助けを求める。通りかかった人間がワニを助けて袋に入れ背に担ぎ湖まで助け出す。ワニは火の来ないところまで岸から離れてくれという。その通りにしてやって、袋からワニを出すと、「今朝から何も食っていない、お前をこれから食べる」という。人間は「恩をアダで返すとは」と怒る。ワニはではと水を飲みに来た牝馬やロバに意見をきくと、ワニが怖いからワニの都合のいいような彼らは答えをする。人間は彼らをこき使い、恩をアダで返すというのである。窮地に立った人間をウサギが助けてくれる。知恵者のウサギが「この袋はワニには小さすぎる。本当に袋に入ってここまで来たのかい。もう一度袋に入ってみてくれないか」とワニをだますのである。再び袋に入ったワニは、人間に撲殺され、その肉は人間に食べられることになった。さて助けられた人間が村に帰ると、最愛の息子が病に倒れている。助けるにはワニの血とウサギの肉が必要と医者がいう。ワニはウサギの知恵で袋にいれて持ちかえっている。それでは、助けてくれたウサギを捕まえて鍋にするべきか、選択はない。ウサギはこっそり医者の言葉をきいていて逃げ出してしまう。
この小話の解釈に結論はでない。倫理的な解決もない。そこが面白いのである。

ハンパテ・バは、ユネスコの役員もしたことがある。そのとき、イスラエルとパレスチナの小競合いにういて、上記の『小さな喧嘩なんてない』というアフリカの小話を引いて、大きな争いになる前に解決策を探れと国連に注意を促したとされる。アフリカの知恵だったが、誰も耳を傾けなったようだ。パレスチナ問題は今日も尾を引いている。

07 mars 2011

3月6日 le dimanche 6 mars 2011 インフレ抑制継続を勧告 exhortation du FMI, à continuer les efforts contre l'inflation

Le dimanche 6 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度67,5%。
朝6時、寝室からみた東の空は朝焼けだったのに、7時に起きてみると曇っていた。変化して止まず。

なんとか昨日と今日とでブログ『アフリカの星』を2月23日から一挙に更新した。

IMFがRDCコンゴにインフレを抑える努力の継続を勧告。コンゴの2010年のインフレが10%以下に抑えられ(2009年は46%だった)、経済成長も7%と堅調だったことにIMFは満足を表明したが、昨今の原油市場、食品市場の国際的値上がりがあり、インフレを起こさぬよう慎重な経済運営をすべしと勧めている。こうした勧告をIMFができる背景は、2009年に合意した541百万ドル(450億円)の貸与が背景にある。しかも、借金の棒引きが何回も行われている。

RDCコンゴは、エネルギーも食料も輸入に頼っているから、長期的には食糧需給政策をすすめるとしても、原油および農産物の値上がりに対して、インフレ抑制策には限度がある。金利や為替の操作でインフレを防げるのか。輸入しないわけにはいかないのだから、どうしろというのだろう。食糧援助を増やしてくれるというのだろうか。

Le FMI exhorte la RDC à ne pas relâcher ses efforts contre l'inflation
Le Fonds monétaire international a exhorté jeudi la République démocratique du Congo à ne pas relâcher ses efforts contre l'inflation au moment où ils portent leurs fruits mais sont menacés par la hausse des prix mondiaux de l'alimentation et de l'énergie.

Dans un communiqué publié à l'issue d'une mission de dix jours à Kinshasa, le FMI a salué la croissance de plus de 7% en 2010 et le retour de l'inflation "sous les 10% pour la première fois depuis plusieurs années" (contre 46% en 2009).

Ces résultats ont été obtenus grâce à "des politiques budgétaire et monétaire prudentes", a-t-il estimé.

"La conjoncture économique mondiale, cependant, présente des défis considérables pour les responsables politiques cette année, qui pourraient aussi être exacerbés par les élections nationales prévues en novembre", a souligné le FMI.

"La hausse mondiale des prix de l'alimentation et des hydrocarbures devrait mettre la pression sur la gestion de l'économie et exigera de la vigilance, pour préserver les gains récents", a-t-il ajouté.

Le Fonds a appelé la banque centrale à surveiller les signes d'emballement des prix au-delà de l'alimentation et de l'énergie, et a exhorté le gouvernement à limiter le déficit budgétaire en "accélérant les réformes structurelles pour stimuler les recettes fiscales".

Selon le FMI, si ces conseils sont suivis la croissance devrait "se poursuivre à un rythme solide, soutenue par la vigueur de l'activité minière, du BTP et des services".

L'institution prévoit le versement en avril d'une quatrième tranche d'un prêt de 541 millions de dollars accordé en décembre 2009

06 mars 2011

3月5日 le samedi 5 mars 2011 カリブのバルバドス la Barbade de la mer des Caraïbes

Le samedi 5 mars 2011
曇。7時、気温23℃、湿度70%。

今朝はネットがまともなようだ。ブログ更新をしたい。
ところが、9時、ネットがまた不具合。

午後、SさんがRDCをたちザンビアに陸路入った。ビザは国境(カスンバレサ)で取れたそうである。チンゴラから連絡があった。日本には3月末帰国予定。

Maryse Condee『Moi, Tituba sorcière…』(邦題『わたしはティチューバ セイラムの黒人魔女』)から。
小説の舞台はカリブ海のバルバドス島(現在は独立国)である。時代は17世紀。主人公がティチューバ生まれたのが16**年となっているが、もっと時代を特定するのは可能で去る。先ず、英国人が殖民していることから、バルバドスの17世紀でも1627年以降であるとわかる。次にサトウキビのプランテイションが始まっているから、1650年代以降となる。

また、副題に『noire de Salem』(セイラムの黒人魔女)とある。マサシュセッツのセイラム魔女裁判は、アメリカ合衆国が独立前の清教徒のヒステリー現象ともいわれているが、1692年のことである。裁判のあったセイラム・ヴィレジは今日のDanvers市だそうだ。25名が処刑されている。ティチューバは処刑は免れている。

ティチューバが魔女としての手ほどきを受けたのは、彼女が両親を亡くした14歳のときからである。ここからも生年が推定できる。彼女は生まれながらにして魔女ではない。魔女がひとつの職業métierとして作家に認識されている。死者との交流が主な取得された能力だ。とすると、日本の巫女に相当するのではないか。箒に乗って飛び回る魔女ばかりではない。

波乱万丈のティチューバの生涯をわくわくしながら読んでいる。

3月4日 le vendredi 4 mars 2011 フォスファル.ジェル phospalu.gel

Le vendredi 4 mars 2011
雨。7時、気温24℃、湿度70%。
4時ころから雷を伴う雨が降り始めて止まない。

今日は9時に家を出発したが、地方に行かなかったこともあり19時10分に帰宅できた。

Sさんとフランシスコ会のシスター・アスンタさんを訪ねた。その折、昨日行ったルイシャで今朝、鉱山労働者が暴動を起こしたという情報。フランシスコ会はルイシャに寄宿舎のある学校を経営している。生徒数700名以上。露天掘りの鉱山労働者たちが直ぐ隣に仮小屋を立てて生活している。今のところ具体的被害はないようだが、労働者が子供たちに手を出さないように祈るばかりである。

ネット不調。ネットに接続して最初のページだけが表示される。その後、download側が機能不全に陥る。昨夜も同じ現象。

Sさんと午後「日本人の父を持つコンゴの子供たちの協会」のケイコさんの家を訪問。17歳で今の旦那さんと結婚。既に20年。5人の母親である。胃が重いといったら、Phosphaluという薬をくれた。その場では飲まなかったが、あとで、柔道の練習風景を撮影したいとのことでアレンジした会場(国鉄内の柔道・空手道場)で、柔道協会の会長フランクラン君(医者)にきくと、胃に幕を作って胃酸過多を防ぐ薬だという。リン酸アルミニウムの幕ね。使ってみるか。

3月3日 le jeudi 3 mars 2011 ルイシャ Luisha

Le jeudi 3 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度65%。

ネットの具合悪し。

Sさんとリカシに行った。僕はリカシに行く途中のルイシャの露天手掘り作業だけを見てもらうつもりだったが、シンコロブエにも行きたいとの希望があり、同行のフォフォ君のアイデアでANR(大統領府情報局)から撮影許可証を取得するということになったがこれが一仕事であった。しかし、シンコロブエは鉱区に入るのが難しいし、そとから見るだけならいいが、リカシから数時間かかるということで諦めて、郊外の露天掘り地区カマタンダの許可をもらうことにした。100ドル。ところがもらった許可証を現場で無視され、さらに現場の警察や組合等から合計400ドル請求され、鉱区に入ることを諦めて、ルブンバシの帰り道であるルイシャに行くことにした。ANRにいえば、そこも許可がいるというだろうから黙っていた。Sさん、ルイシャの写真はある程度撮れたようだ。(画像はネットから)。

21時過ぎ、帰宅。夕食は22時。
へとへとに疲れた。
キプシ街道の悪路が疲れを増す。この道をほったらかしにしている行政は誰であろうと許せない。こんな道をそのままにして、恥ずかしくないコンゴ人は恥知らずということになる。コンゴ国歌の最初の言葉は「立て、コンゴ人よ」と始まるのだがなぁ。

これより先、疲れて19時半にルブンバシに戻ってきたところで、アラン君から思いがけないプレゼントをもらった。今の僕にこれ以上の贈り物はない。マリーズ・コンデの『Moi, Tituba sorcière,,,(わたし、魔女ティチューバ)』である。真新しい文庫本だ。欧州から来た人に託送してもらったにたいがいない。ルブンバシのの何処の図書館を探しても見つからなかった本だ。疲れは吹っ飛んでくれなかったが、こんな嬉しい驚きはない。メルシ、アラン !

3月2日 le mercredi 2 mars 2011 日本からセメント援助 aide japonaise, fourniture du ciment japonais

Le mercredi 2 mars 2011
晴。7時、気温24℃、湿度70%。

本からセメントを援助。RDCコンゴ政府、建設業界は大歓迎と記事にはある。しかし、随分と遠くからセメントを運んだものである。バルキーでマタディ港まで海上輸送でいたのではなく、50kgの袋詰めにして運んできたようだ。コンゴで袋詰めができないからだ。でも何故他のアフリカの国で調達したセメントをコンゴに援助しないのだろう。そうすれば、アフリカの国が一度に2カ国恩恵を受けるわけである。コンゴはセメントの輸出国だった。それが内戦で工場が破壊されて、今、輸入国に転じている。
援助は35900トンである。日本のセメント会社から見れば少ない量である。輸送運賃の方が高くつくに違いない援助だ。
カタンガ州はザンビアから輸入している。一袋/50kgが約15ドルする。キンシャサ政府は日本の無償援助で得たセメントを13ドルで売って、他の開発プロジェクトの資金にするのだそうだ。これも本当かどうかトレースしなければならない。横流しが横行していると思われるからである。
また、何故ダムであるとか、道路であるとか具体的な工事のセメント供給にしなかったのか疑問である。
いずれにせよ、効果のある援助とは思えない。セメント工場の修理、再建、建設など正面切った援助ができないのだろうか。雇用を創設するような援助である。

Coopération Japon- RDC: 14. 500 tonnes de ciment déjà arrivées au port de Matadi

La coopération entre la RDC et le Japon se porte très bien. Elle est porteuse d’une bonne nouvelle pour le secteur de construction et bâtiments de la RDC actuellement en plein essor. Dans le cadre précis de cette coopération, il est attendu en RDC (Port de Matadi) au total 35. 900 tonnes de ciment portland en provenance du Japon. D’ores et déjà, il y a eu un premier arrivage de 4. 500 tonnes en janvier 2011 et un deuxième de 10. 000 tonnes en février 2011. Pour se rendre compte des arrivages de ce don de ciment venant du Japon, deux missions du ministère du Plan et de la Coopération internationale ont séjourné à Matadi (Bas-Congo) respectivement du 5 au 7 janvier et du 19 au 21 février.
A travers un communiqué de presse, le ministre du Plan, Olivier Kamitatu renseigne que ce ciment portland est exclusivement destiné à la vente afin de constituer « le fonds de contrepartie » pour le financement des projets de développement socio-économique. Et cela se fera ainsi conformément à l’accord de don signé en son temps entre la RDC et le japon. Par ailleurs, il est précisé que la commercialisation de ce don sera assurée à Kinshasa et dans la province du Bas Congo par les opérateurs économiques sélectionnés et agréés par le ministère du Plan.

Selon les données disponibles, le ciment offert par le japon à la RDC sera vendu sur le marché au prix de 13 dollars US. Ces arrivages de ciment sur le marché vont permettre de stabiliser le prix du ciment et la présence de ce produit stratégique sur le marché. Ce don japonais tombe bien à propos car l’offre nationale de ciment est largement déficitaire et favorise la spéculation des commerçants véreux. En cette phase de la reconstruction du pays, les chantiers en cours à Kinshasa et au Bas Congo vont se poursuivre sans relâche, à la grande satisfaction des sociétés de construction et des consommateurs du ciment. Le fruit de la vente va servir au financement des projets de développement à travers le fonds de contrepartie logé au ministère du Plan.
(以下略)

3月1日 le mardi 1er mars 2011 コンゴでの婚姻 mariage au Congo

Le mardi 1er mars 2011
雨。7時、気温24℃、湿度67,5%。

胃が重い。薬の副作用か。腰の痛みはそれほどではない。

9時ちょっと前に家を出て21時まで帰れなかった、
Sさんをムソシまで案内したのである。「日本人を父親にもち、コンゴに取り残された子供たちの協会」会長ケイコ・ムバンギさんがアレンジしてくれた。
今日のミーティングで新たにわかったことは、コンゴの婚姻についてであった。
婚姻に3種ある。先ず、伝統的婚姻で、男が持参金(現金だけでなく、山羊、鶏、トウモロコシ粉、砂糖などの品物でもよい。相手の家に送る)ことによって成立する。次に教会で式をあげる。そして役所でも婚姻届である。
日本人男性とコンゴ女性の場合、役所での届出、教会での誓いはなかった。しかし、資産金(dot)を払って、女性の家族に認められて結婚生活に入った。日本人とこうして結婚したコンゴ人女性の年齢は、多くは極めて若く(むしろ幼く)、14、15歳であった。
日本人が建設した日本人村(キャンプ)では地元の女性との生活はできなかったようだ。従って、日本人男性が、コンゴ人女性の家に通うという形態になった。子供ができても、役所への届出はしなかった(届出にお金がかかるため)。日本人との子供だったから役所に届け出なかったのではなく、村々では、届け出るほうが珍しかったのである。出生証明などが必要になったときは、都度役所で「適当に」作成されたが、父親名は日本人であった。たとえば、ケイコさんの選挙人登録カードには「フジモト」という日本名も登録されている。
子供の名前は父親が日本名をつけた。コンゴ人母親は文字が読めないケースも多く、またフランス語も話せなかった。日本人の父親がスワヒリ語を覚えた。
コンゴ人女性との関係は、日本人キャンプに妻を呼び寄せ同居していた時期には少なく、第二次シャバ戦争(1978年)で日本人妻たちが帰国したあとに増えている。従って、1982年、1983年に日本人が帰国したときには妊娠中で、父親が帰国してから生まれた子供たちもかなりいる。彼らが一番若い子供たちで今日28歳になる。
「子供たちの協会」会員は47名だが、この日は20名近い子供たちが集まった。ケイコ会長の号令ひとつで纏まりがいい。
元日本人キャンプ、コヨ知区(コヨというのはコーヨーで日本の建設会社名と今回判明した)を撮影してもらってルブンバシに帰ってきた。
(画像は持参金dot交渉のイメージ化、ネットから)。

05 mars 2011

2月27、28日 les 27 et 28 février 2011 中央選管 CENI-Commission Électorale Nationale Indépendante

Le dimanche 27 février 2011
晴。7時、気温24℃、湿度67,5%。

ネット不通かと思ったら、明日までであるはずの月ぎめが今日で終了ということのようだ。今日はネットなしとなった。明日一番で支払いをしよう。

日本からのSさん、アラン君、キュング会長等が僕の家にあつまった。昼間からアルコールが入って、僕は飲みすぎ。夜の食事もせずにベッドに倒れてしまった。

車を洗ったのだが、窓を完全に締め切っていたら、フロントガラスにひびがいった。車内温度と外気温の差が大きかったとはいえ、ガラスにひびがいるとは!
後輪右がパンクしていた。客人たちがスペアタイヤと入れ替えてくれた。

Le lundi 28 février 2011
晴。7時、気温25℃、湿度65%。

二日酔い。加えて腰が痛い。横になったら起き上がるのに一苦労する。

ネット契約支払いをアラン君がしてくれたが、電波状態悪しく10時になってやっと回復。

11月の大統領選挙に備えて選挙管理委員会CENIの委員が正式に任命された。委員長はンゴイ・ムルンダNgoy Mulunda師。きわめて現カビラ大統領に近い人物のようだ。ルブンバシ出身。中立の立場の選挙管理委員会だが、委員長の選任をみると現役の恣意的選択と思える。第二のコート・ジボワールにならないように、公平な選挙、透明な資金の動きに注意してもらいたいものである。
(画像はンゴイ・ムルンダ師)

RDC : le pasteur
Ngoy Mulunda Daniel désigné président de la Ceni

Le pasteur Ngoy Mulunda Daniel a été désigné par consensus de ses pairs , président de la Commission électorale indépendante (CENI) de la République démocratique du Congo (RDC).

L’investiture de la CENI a fait l’objet d’une audience publique samedi à la Cour Suprême de justice à Kinshasa, en vue de permettre à cette commission d’entamer ses prérogatives en perspective des élections générales attendues cette année en RDC.

A cette occasion, les membres de la CENI se sont engagés devant l’organe de la loi à n’entreprendre aucune activité incompatible avec leur mission d’organiser les élections et des référendums et garder le secret des délibérations de leurs activités.

La CENI remplace ainsi la Commission électorale indépendante ( CEI) qui a eu le mérite d’organiser les élections de 2006 et le référendum constitutionnel de 2005.

2月24,25,26日3州の鉱山開発停止解除 l’exploitation minière de l'est de nouveau autrorisée

Le jeudi 24 février 2011
晴。7時、気温23℃、湿度65%。
昼間かなり暑くなった。午後、北の空に入道雲。18時から激しい夕立。

Le vendredi 25 février 2011
小雨。7時、気温24℃、湿度65%。
昨夜からの雨が続いている。午後から晴れ渡った。

東京からSさんがザンビア経由カスンバレサからRDCコンゴに入ってこられた。「日本カタンガ協会」のキュング会長宅に宿泊することになった。
日本から人が見えるのは本当に嬉しい。一人でも多くの日本の方々にカタンガ州を、RDCコンゴを、アフリカを知ってもらいたいからである。

Le samedi 26 février 2011
曇。7時、気温24℃、湿度67,5%。

RDCコンゴ3州の鉱山開発停止解除。去年9月9日大統領命令で金、コルタン等のレアメタルの採掘が禁止されていたが、本日から解除となった。
反乱軍や外国軍による盗掘および密輸出が彼らの資金源になっているという理由でカビラ大統領が南北キヴ州、マニエマ州について採掘禁止をしていたものだが、実際にはあまり守られず、政府軍の幹部連中も密輸出をしていた。
RDCコンゴの国際差破壊に対する示威であろう。ここ半年でコンゴ東部の軍事情勢が変わったかというとかなり疑問である。
(画像はRDCの地図だが、対象となった州が比較的よくわかる地図である)。

RDC: reprise de l'activité minière prévue

L'exploitation minière artisanale, suspendue depuis le 9 septembre 2010 dans trois provinces de l'est de RDC, sera de nouveau autorisée par un arrété publié samedi a annoncé vendredi le ministre des Mines de la République démocratique du Congo (RDC).

"Nous pouvons aujourd'hui proposer à l'autorité suprême de notre pays la levée de la mesure portant suspension de l'activité minière" au Nord-Kivu, Sud-Kivu et Maniema, a déclaré le ministre Martin Kabwelulu, à l'ouverture à Kinshasa d'un atelier de concertation avec les acteurs du secteur dans les trois provinces.

Des groupes rebelles et des milices locales toujours actifs dans le Nord et le Sud-Kivu, mais aussi des militaires congolais, sont régulièrement accusés d'exploiter illégalement les minerais dont ces provinces regorgent (cassitérite - minerai d'étain, utilisé dans la soudure-, coltan - utilisé dans les téléphones et ordinateurs portables-, or...). L'arrêt de l'exploitation minière dans les trois provinces avait été décidé le 9 septembre par le chef de l'Etat congolais Joseph Kabila. Il avait alors dénoncé l'activité de "groupes mafieux" et aussi "l'implication" d'autorités locales, provinciales, et nationales, civiles et militaires, dans le commerce illicites de minerai, qui ne profitait pas aux populations

02 mars 2011

2月23日 le mercredi 23 février 2011 カマラ・ラエ『黒人少年』 «L'enfant noirX de Camara Laye

Le mercredi 23 février 2011
曇。7時、気温22℃、湿度72.5%。

客間の内装ペンキ塗りが始まった。建具屋で今回はペンキ屋となったセバスチャンは8時半にやってきた。

南京豆とビスケットを買いに町にでて、前輪左がパンクしていることがわかった。よくパンクするよ、全く。
午後、地元キプシでパンク修理。300円。しかし、2時間も修理にかかるのか。というのも、修理したタイヤを嵌められなかったからだ。ジャッキの高さがあわなかっただけの話だが、ああでもない、こうでもないと、5人もかかって車の高さを調節したのだった。

マラ・ラエCamara Laye『黒人少年 L’enfant noir』を読み終えた。セネガルやコンゴ等アフリカ諸国で小学校高学年の読本として使用されただけあって、正当なフランス語である。少年文庫でも9歳から推薦となっている。しかし、易しいことばだけが使われているわけでないし、文法も単純過去形や接続法半過去形が頻繁に使用されていて、やはり1953年の作品だと思わせる。今の若い親には子供に文法説明ができないかもしれない。
自伝的小説で、作者の幼少時代からフランスの専門学校に留学するまでのアフリカ(ギニア)でも生活が描かれている。フランスの植民地時代である。向学心旺盛な少年は、首都コナクリから東に600kmも離れた町から、首都の高校に進学することを選び、さらに高校卒業後奨学金を得てパリに留学するのである。
この作品はフランスでまたアフリカでポピュラーになったが、厳しい批判にもさらされている。というのは、フランスの植民地政策、植民地統治を批判していないからだ。父母や大家族に守られた懐かしい幼少時代はあっても、フランス人に虐げられた農民の生活がないというわけだ。しかし、正直カマラ少年にとって、日常のアフリカ人への人種偏見を描くよりも、失われていく「アフリカらしさ」を書き残しておきたかったのではないか。少年から青年期に移行するときの割礼の儀式が2章にわたって語られるが、大きな不安から晴れて「大人になる」過程がよくわかる。もっとも割礼年齢が12歳、13歳と遅いことに驚かされた。ユダヤは乳児、アラブ人は6歳、7歳で割礼を終える。
カマラ・ラエは1960年代には亡命先のダカールで、民族学者として研究活動に入るが、『黒人少年』は民俗学的意味も歴史的にはあるといえよう。