30 juin 2011

6月29日 le mercredi 29 juin 2011 嫉妬 jalousie

Le mercredi 29 juin 2011
快晴。7時、20℃、55%。

12時から断水。18時半、回復し始めた。

6月27日、赤道州(キンシャサの北東、独裁者モブツの出身州)の町ゾンゴで騒ぎがあった。隣家のマンゴの樹の下で、妻が見知らぬ軍人と肩を寄せ語り合っているのを目撃した夫が、嫉妬に狂って鉈(なた、machette)でもって軍人の首を刎ねたのである。これを知ったキャンプの軍人たちが騒ぎ出したというわけである。騒ぎは半日でおさまったが。嫉妬はおそろしい。斬首してしまった男は、隣国中央アフリカ共和国(RCA)に逃げたらしい。僕もゆめゆめ奥様方と談笑などしないように気をつけなくちゃ。この事件で僕が注目するのは「問答無用」の行為と武器である。
(画像は首を刎ねられた軍人だというのだが、、、)。

日本もRDCコンゴの借金を棒引きした。世銀、IMF、フランス、米国、ベルギー、イタリア等々と歩調を合わせた。ところで、この借金は独裁者モブツの残した負の遺産である。70年代、モブツが訪日して円借款でインフラ整備をしようとした。キンシャサから大西洋のバナナ港への鉄道および港湾整備である。当時の日本として、アフリカ大陸諸国最大の円借款であった。円だから今対ドル80円として、70年代だから今返すとなるとドルで4倍になろうか。RDCコンゴはこの借金を返していない。返せなかった。しかし、返さなかった理由はだた円高になったせばかりではない。借金をして建設した見事な吊橋、「マレシャル橋」(マレシャルは元帥、モブツの称号)は、建設後30年、全く役立っていないのである。無用の長物の見本。それを今更帳消しにしてくれたところで、どれほどRDCコンゴがありがたがるか。この円借は日本外交の失敗、日本の政策の失敗でもある。RDCコンゴ側の無計画だけではない。日本は当時の国鉄や建設会社がマタディ(キンシャサの西、バ・コンゴ州)に来て仕事をした。円で政府から払われているから為替損もない商売だった。しかし、政府(外務省、大使館)はちがう。大型円借を供与しておいて、それに見合う外交的利益をなんら得ていない。その失政を日本国民に説明しているのだろうか。11億1700万ドルの棒引きをしたのだ。「コンゴが払ってくれないのだもの、棒引きするより仕方ない、先進国がみんな棒引きしている今だから目立たない」、そんな思惑がちらつく。地下資源の豊富なRDCコンゴである。30年の間なにを大使館はしていたのだろう。日本はその後、借款ではなく、無償提供しかしていない。人道的支援だから無償だというのだろうか。借金を返してくれない国だから、ODA(無償援助)をする。不思議な考え方ではないか。
(画像は「マレシャル橋」、吊橋の姿は美しいが無用の長物の典型である)。

«Afriquinfo»
Le Japon annule plus d'un milliard USD de la dette de la RDC
KINSHASA (Xinhua) - Le japon a décidé d'annuler 1, 117 milliard USD de la dette de la RDC, a annoncé le chargé d'affaires du Japon en RDC, Kazuhiko Fujita, à l'issue de la signature des documents y afférents avec le ministre des Finances, Matata Ponyo. Samedi 25 juin 2011

Cette annulation est consécutive à la bonne gestion des finances publiques du gouvernement de la RDC, a indiqué le diplomate Kazuhiko Fujita, avant d'émettre le souhait de voir la RDC continuer à fournir des efforts pour stabiliser les structures macro-économiques.

Cette dette concerne un prêt contracté par l'Etat congolais pour la construction du pont "Maréchal", traversant le fleuve Congo, dans la province du Bas-Congo, au Sud-Ouest de la RDC a-t- il indiqué.

Les Institutions de Bretton Woods, le Fonds monétaire international (FMI) et la Banque Mondiale (BM), ont effacé 10 milliards de la dette de la RDC, en juin 2010, sur un total de 13, 1 milliards USD, pour avoir atteint l'Initiative Pays pauvres très endettés (PPTE).

6月28日 le mardi 28 juin 2011 南キヴ州で洪水 inondation au Nord-Kivu

Le mardi 28 juin 2011-06-27
快晴。7時。19℃。45%。

昨夜、南キヴ州の州都ブカブBukavuで豪雨があり、死亡3名、行方不明1名がでている。南キヴ州はここカタンガ州と接しているが、RDCコンゴの東端である。タンガニーカ湖畔の都市である。ルブンバシとは気候が既に大分違う。ルブンバシはサバンナで雨季と乾季がほぼ半年毎に分かれている。今は4月中旬から入った乾季である。ブカブはちうと、年間10ヶ月雨が降る地帯に入っている。しかし、日本の梅雨とは違って、雨季とはいえ一日中雨がしとしとと降っているわけではない。雨には慣れているはずであるが、都市が膨張して麻痺しているからよく洪水被害が発生する。人災といってもいいのだが、誰も改善しようとしない。

C君を刑務所から出した。検察が係官を派遣してくれたのだが、刑務所の所長が来客中で署名をとりつけるのに2時間半かかった。僕は塀の外で待っていた。中にはいれば、スタニスラス所長が何を要求してくるかわからない、面倒を避けるために外で待機することにしたのだ。なんとか出てきたC君をつれて、シスタ・アスンタさんの修道院に立ち寄った。シスターがTシャツなどをプレゼント。セルジュ神父の待つメゾン・マガネ(サレジア会の更生施設)に向かった。C君がもらった部屋は大部屋を区切ったコーナーで、ガエタン君という青年と一緒。仲間がやってきて、毛布を持ってきてくれたり、ベッドに蚊帳をつってくれたり、洋服ダンスを空けてくれたりとC君の世話を焼く。バカンジャにいたときの旧友もマガネにいる。暖かくC君を仲間にいれてくれ、悪い誘いはしないでくれと祈るばかりである。
検察の司法官ステラ女史は、ユーゴVictor Hugoの小説『あゝ、無情(レ・ミゼラブル)に出てくる陰湿な刑事ジャヴェールJavertのような人物だ。C君の母親の友人ザイナさんに連絡して、C君が出所したことを告げ、ついては150ドル支払えといったそうだ。さらにC君には毎週火曜日に検察に出頭しなければならないと伝えてくれとも。呆れたジャヴェールの女性版だ。C君は検察に行く必要はないし、ザイナさんは一線も払う必要はない。こんなことを続けるなら、次はステラ女史を告訴してやるぞ。権利濫用と賄賂強要。

19時、停電開始。19時25分、回復。石油コンロを使わずに回復を待っていてよかった。

新しい電気コンロの火力が古いコンロに比べて全然違う。古いコンロを買いたてのころも、こんなに火力が強かったかなぁ。

韓国から経済ミッションがキンシャサに来た。カビラ大統領が去年訪韓しているので、まもなく韓国大統領もRDCコンゴに来るようだ。日本は置いてきぼりをくっている。

Une délégation d’entrepreneurs coréens à Kinshasa
Kinshasa, 24/06/2011 /
Le président de la Corée du Sud est attendu dans les tout prochains dans la capitale congolaise pour finaliser et procéder à la signature des accords de partenariat entre les deux parties.
Une délégation d’entrepreneurs de la Corée du Sud, forte de cinq personnes, est arrivée à Kinshasa, mercredi, pour une mission exploratoire d’opportunités d’investissements en République Démocratique du Congo. Elle est conduite par M. Shin Jong Kim, président directeur exécutif de la société « Coréenne ressource minérale », spécialisée dans le secteur minier et des hydrocarbures.
(以下略)

6月27日 le lundi 27 juin 2011 チェベヤ事件判決 verdict de l'Affaire Chebeya

Le lundi 27 juin 2011
快晴。7時、20℃、50%。

今朝Vodacomでネット接続契約をした。Airtelはやめた。

昨夜電気コンロが故障した。二つのプレートのうち大きな方が温まらなくなった。Sayonaというメーカ。1年間もった。今朝、ジャンボで買い換えたコンロはNakaiという。いずれも日本メーカもどき。

Cを今日刑務所から出すことができなかった。司法官ステラ女史の夫が入院したとか、ステラ女史がなお金額でごねたとか、いずれにせよ、夕方になったので、明日に結論が延ばされたのである。

南アが先日RDCコンゴと合意した協定のなかに、今年の大統領選挙に南アが投票所設営等ロジスティクの協力をするというのが盛られているようだ。

19時、停電。19時20分回復。

人権団体「声なき声」のトップ、チェベヤ氏殺害事件(2010年6月2日)の裁判の判決が1週間のびたが、6月23日キンシャサの軍事法廷で言い渡された。
警察の副長官バサナ大佐初め4人が死刑、1人が無期、3人が無罪。死刑は本来RDCコンゴ憲法で廃止になっているはず。しずれにせよ、これは1審判決で、これからが長い。また、張本人と目されるジョン・ヌンビ将軍は裁判の対象にもならなかった。
この裁判は茶番劇である。国連やEUまたアメリカから国際的圧力を受けたRDCコンゴが打った芝居である。内外に、RDCコンゴが国家として人権擁護のために厳しい姿勢をとっていると宣伝するためである。しかし、国内でも、海外でも、誰もこの判決が実行されるとは信じない。チュベヤ氏が犠牲になった以降も殺されたジャーナリストたちがいる。警察が関与した事件ではなく、警察が捜査をしない事件がある。言論の自由はあるようで、ないような、微妙な境目にこの国はあると思われる。

RDC : quatre condamnations à mort dans l'affaire Chebeya
23/06/2011 à 18h:25 Par Jeune Afrique

La cour militaire de Kinshasa a prononcé son verdict. Quatre officiers de police congolais ont été condamnés à mort pour l’assassinat de Floribert Chebeya, dont l’ex-adjoint de l'ancien chef de la police John Numbi. Un autre soldat a écopé d’une peine de perpetuité et trois autres ont été acquittés.
Après un report inexpliqué d’une semaine, le verdict est enfin tombé dans l’affaire de l’assassinat de Floribert Chebeya, militant des droits de l’homme congolais (RDC) retrouvé mort le 2 juin 2010 dans sa voiture à la périphérie de Kinshasa, et de la disparition de son chauffeur, Fidèle Bazana, dont le corps n'a jamais été retrouvé.
Quatre policiers congolais - et non pas cinq comme le réclamait le ministère public - ont été condamnés à la peine de mort. Il s’agit du colonel Daniel Mukalay, chef adjoint des services spéciaux de la police, et de trois officiers en fuite : le lieutenant-colonel Christian Ngoy, chef du bataillon d'élite Simba, le garde du corps de ce dernier, l'adjudant Jacques Mugabo, et Paul Milambwe, le chef du protocole à l'inspection générale (IG) de la police.
Réclusion à perpetuité
Le lieutenant Michel Mwila a quant à lui été condamné à la réclusion criminelle à perpétuité pour complicité dans l'assassinat de Chebeya et l'arrestation et la détention arbitraire de Fidèle Banzana. Enfin trois autres policiers présents au procès, contre lesquels une peine de 20 ans de prison avait été requise, ont été acquittés par la cour militaire de Kinshasa.
La veille de son assassinat, Chebeya s'était rendu avec son chauffeur à l'IG pour un rendez-vous avec le chef de la police congolaise, l'inspecteur général John Numbi, suspendu depuis de ses fonctions. Lequel n’a jamais été inquiété par la justice congolaise, au grand dam de toutes les associations de défense des droits de l’homme. (avec AFP)

6月26日 le dimanche 26 juin 2011 セネガル Sénégal

Le dimanche 26 juin 2011
快晴。7時、20℃、42,5%。

ネット具合悪し。繋がらないに、17時半になったら、1ヶ月の契約が切れたから更新しろというページが表示された。真っ赤なページ。厚顔無恥。サーヴィス・ゼロで金だけ取ろうということだ。Airtelでも3ヶ月契約をすれば180ドルになり月間の料金はVodacomと同額になる。しかし、不安定な接続はAirtelもVodacomも変わらないことが証明された以上、Airtelを使う理由がない。

セルジュ神父とシスター・アスンタさんと刑務所へ。「入場料」は500フラン(50円)、玄関の面会上に入ろうとしたところで、刑務所側の責任者の部屋に呼ばれた。スタニスラスという名だそうだ。所長なのか小官吏なのかわからない。ともかく大きな机とTVとラジオがある事務所を一人で占領している。そこに我々が何故呼ばれたのか不明。この男の様子はまるで映画『Midnight Express』に出てくるトルコ人の刑務所長の雰囲気。咳払いまで似ている。いやらしい。陰険きわまりない。あの映画は怖かった。
やがてやってきたCはサッカー・パンツ姿で現れた。元気そうじゃないか。刑務所があっているんじゃないか。仲間がいっぱいて楽しいのかもしれないぞ。
セルジュ神父がCと話をした。Cはバカンジャ時代のCを覚えていたし、Cも神父を知っていた。シスター・アスンタさんもCに説諭。大丈夫かな、C君。もう刑務所から出られそうだと気もそぞろになってしまったんじゃないかなぁ。セルジュ神父のところでは木工を学ぶといったけど、本気かなぁ。
スタニスラスが、「出所料金」がかかる、100ドルだと言い出した。どこまでふざけた連中なのだ。実際に出所のときに、検事に連絡して対処してもらおう。

セネガルのニュース。日本では殆どとりあげられなかったようだが、セネガルにアラブの民主革命が飛び火したといってもいい。セネガルは西アフリカにある。漁業と観光の国である。独立以来政治は安定している。カリスマ大統領であったサンゴールが長期安定政権を築いていた。サンゴールはフランス・アカデミーの会員で詩人としても世界的に有名。現大統領ワドAbdoulaye WADEにしても2期(7年と任期改定で5年)、これまでたいした政治的波乱もなかった。ところが、85歳になったワドが自分の息子を大統領選に立候補させようと画策しはじめてから事態が変わっていた。今年になって憲法を改正して、大統領・副大統領の同時選挙(米国式)にして、25%の一回得票で当選にしようとした。これが国民の反発をかって、今週木曜日の大規模な全国デモにつながった。ワドは憲法改正を撤回したしたものの、来年の再選も怪しくなってきている。諦めざるをえないだろう。
(画像はワド・セネガル大統領)

Sénégal: Wade affaibli dans la rue, l'opposition contre un nouveau mandat
De Malick Rokhy BÂ (AFP)

DAKAR — L'opposition et la société civile ont exhorté vendredi le président sénégalais Abdoulaye Wade à renoncer à un nouveau mandat en 2012, au lendemain d'un conflit dans la rue alors que, en privé, des proches du pouvoir jugeaient le chef de l'Etat affaibli.
Après une journée de manifestations nationales, qui ont tourné à l'émeute à Dakar, M. Wade, 85 ans, a retiré un projet de loi controversé qui aurait permis l'élection simultanée du président et du vice-président avec seulement 25 % des voix.
Les violences de jeudi avec l'attaque ou l'incendie de véhicules, édifices publics et domiciles de responsables du pouvoir, ont fait 102 blessés à Dakar dont 13 policiers, a déclaré à l'AFP une source policière. L'annonce de l'abandon du texte a ramené le calme.
Une candidature de Wade en 2012 serait "illégale, illégitime, inopportune et dangereuse pour la paix et la stabilité du Sénégal et de la sous-région", a estimé vendredi le Comité de coordination des forces vives de la nation, qui réunit opposition et société civile.
Affirmant que le chef de l'Etat a épuisé ses deux mandats légaux, le Comité regrette dans communiqué à l'AFP, "qu'il ait fallu une journée de feu et de sang, de souffrances et de violences pour que le président Wade et son gouvernement ouvrent les yeux et voient la réalité".(以下略)

25 juin 2011

6月25日 le samedi 25 juin 2011 ビルンガ国立公園再開(山岳ゴリラ) réouverture du Parc National de Virunga (gorilles de montagnes)

Le samedi 25 juin 2011
快晴。7時、20℃、50%。

ビルンガ国立公園再開へ。

以下のニュースもRDCコンゴの正常化を示す一歩といえよう。
アフリカでサファリといえば、ケニア、タンザニア、南ア、ボツワナが有名であろう。RDCコンゴはその内戦のために観光事業が大幅に遅れた。勿論観光だけではないが、安全のないところに観光客は来ない。

北キブ州といえば、ここ15年以上、危険地帯の代名詞だった。その北キブ州にビルンガ国立公園があり、山岳ゴリラの生息地として世界に名は知られていた。しかし、公園は長いこと閉鎖されていた。
カタンガ州のルブンバシからから北キブ州まで陸路いくとなると悪路の所為で今は困難だが、空路キブ州の州都ゴマ市まで行くことができる。

ビルンガ国立公園再開のニュースは、単に観光客誘致の朗報だけではなく、RDCコンゴが普通の国、平和な国となる大きな一歩である。

R.D.Congo : Rentabiliser les gorilles de la Virunga
Écrit par Corinna Leblanc-JustinDécryptagejuin 21, 2011
Après plusieurs années d’instabilité, la province du Nord-Kivu, située à l’Est de la République Démocratique du Congo (RDC), commence à renaître. La RDC a tardé à revaloriser la faune du Parc de la Virunga, le portail de la nature du Nord-Kivu, resté longtemps fermé, à cause des rébellions successives. Mais, depuis la nomination de son actuelle administration, celle-ci a décidé de le rouvrir. Venant des quatre coins de la planète, des touristes bravent le souvenir de l’insécurité pour voir quelques uns des 700 gorilles que compte la Virunga. Ce début d’affluence a donné des idées au directeur du Parc : cette activité pourrait générer beaucoup de revenus si le pays arrivait à attirer plus de touristes ; ainsi, il compte fixer l’accès pour un séjour au parc à 400 dollars américains dans l’espoir de réunir 10 000 visiteurs, ce qui équivaudrait à 4 millions de dollars américains de chiffre d’affaire. En outre, des activités accessoires comme l’escalade des volcans de la région sont aussi d’autres sources potentielles de bénéfices.
La concrétisation de ces projets repose en grande partie sur la promotion. A cet effet, un site web, gorilla.cd, a été lancé. Ce portail permet non seulement de découvrir le parc de la Virunga mais aussi de faire des dons pour la protection des gorilles et, également, de toute la biodiversité contenue dans cette aire. Les différents groupes miniers qui opèrent dans la région peuvent aussi jouer un rôle clé dans le redémarrage du tourisme de cette province.

6月24日 le vendredi 24 juin 2011 ルブンバシで第7回RDCコンゴ=南ア会議 7ème session de la grande commission mixte RDC – Afrique du Sud à Lubumbashi

Le vendredi 24 juin 2011
快晴。7時、20℃、55%。

7時20分、停電開始。8時10分回復。12時10分、再度停電。18時半に帰宅するも停電中。回復は19時25分であった。夜、電気がないとロウソクをつける。タバコを吸わなくなったからライターがない。マッチを大量に買ってきた。

明後日日曜日、セルジュ神父とともにCと刑務所で面会予定だが、その結果によっては来週告訴を取り下げるつもりだ。昨日金曜日告訴取り下げ手続きをアラン君に検察に行って調べてもらった。アラン君は金がかかるとは思っていなかった。僕は、あの悪徳検察のことだから何がしか請求してくるとは思っていた。案の定である。ステラ司法官が、告訴取下げ費用として200ドル、またC側が罰金として400ドル払えば刑務所から出すと言ったそうだ。法的根拠があるとは思えない。そこで、ルブンバシ柔道協会会長のフランクラン君に電話、彼の叔父である検事を紹介してもらい、午後のアポイントをとった。
ボボリ・エメ検事によると、1)告訴取下げ費用などはない、無料である、2)C側が罰金として単純窃盗の場合20ドルから1000ドルの範囲の罰金を支払う必要はあるが、支払い能力がない場合は刑務所で働いて国家に支払うことになる、ということがわかった。そこでステラ女史と面談しネゴをした。彼女は1)もなかなか認めようとしなかったが、法的根拠を示すことができない。そこで1)の200ドルを諦め、2)の費用を500ドルだといってきた。僕はこれを受けず、50ドルを主張。彼女は300ドルまで譲歩。そこで物別れに終わった。ボボリ検事に連絡、ステラ司法官との会談結果を報告。ボボリ検事が100ドルでセットルしてはどうかというので、その金額で了承し、ステラ司法官には検事から命令を出してもらうことになった。
しかし、こんなに苦労してCをシャバに出しても、果たしてまともに更正してくれるだろうか。「C君、頼むから真直ぐな道を歩いてくれ」。

先週16日木曜日から今週21日まで、ルブンバシで南アとの二カ国会談が行われた。第7回である。前回は2009年10月南アで行われた。
南アとの関係は極めて重要である。地理的に特にカタンガ州は近く、南アの経済力は既に鉱山開発などでRDCコンゴに及んでいるというものの、アフリカ唯一の先進国南アに期待するところは大きいのである。
RDCコンゴのカビラ大統領も閣僚をひきつれてルブンバシ入りしたし、南アのヤコブ。ズマ大統領もルブンバシに来ていた。
多くの契約を交わし、実り多い会談だったようら。

Le Chef de l’Etat préside la 7ème session de la grande commission mixte RDC – Afrique du Sud à Lubumbashi

Le Président Joseph Kabila Kabange est arrivé lundi à Lubumbashi, dans la province du Katanga, où il va présider, avec son homologue sud-africain, Jacob Zuma, la 7ème session de la grande commission mixte RDC – République sud-africaine. Ces assises qui se tiennent du 16 au 21 juin à l’hôtel Karavia, à Lubumbashi, portent essentiellement sur l’évaluation de la coopération entre Kinshasa et Pretoria dans les domaines de la défense, de la santé, de l’énergie, de l’agriculture, de la gestion de l’administration publique et des finances.
Lundi, les délégations ministérielles de la RDC et de la RSA ont examiné en plénière le rapport adopté dimanche par les experts, lequel rapport sera approuvé mardi par les Chefs d’Etat des deux pays à la clôture des travaux. Le Président Jacob Zuma arrive mardi à Lubumbashi. La partie congolaise à ces assises, dirigée par le ministre de la Coopération internationale et régionale, Raymond Tshibanda, est composée des ministres de la Fonction publique, Dieudonné Upira, de l’Agriculture, Norbert Basengezi, de l’Energie, Gilbert Tshiongo, du Portefeuille, Jeanine Mabunda, de la Santé publique, Victor Makwenge Kaput, de la Défense, Charles Mwando Nsimba, des Affaires étrangères, Alexis Thambwe Mwamba et des Finances, Matata Mponyo. La 6ème grande commission mixte RDC – RSA s’était tenue en octobre 2009, en Afrique du Sud, rappelle-t-on.

6月23日 le jeudi 23 juin 2011 ルワンダのコンゴ難民帰国へ refugiés congolais au Rwanda prêts pour le retour

Le jeudi 23 juin 2011
快晴。7時、19℃、52,5%。

8時05分、はやくも停電。10時に回復。かわりに13時から断水。18時、水が出始めた。

昨日「青年村Cité des jeunes」で買ったサラダを食べた。断水だったが、汲置きの水でざっと洗い、過マンガン酸カリウムの薄い溶液に15分浸して殺菌した。多分大丈夫だろう。生野菜を家で食べたのは初めてである。
シブレット(細いネギ)も買った。これは豚肉とキャベツと油で炒めた。ラーメンにシブレットを刻んでいれるときも、KMnO4につけて洗う。

ルワンダの難民キャンプに15年前からいる1万8000人以上のコンゴ難民がRDCコンゴに帰国できるようになった。
コンゴ人難民は、ザンビアからもアンゴラからも帰ってきている。
ルワンダにはまだこの帰国があっても3万5000人のコンゴ人難民がいる。しかし、こうして自国に帰れるということは、RDCコンゴの東部地方にも、確実に平和が訪れている証左で、戦闘が極めて限定された地域だけになってきていることを示すのである。
(画像はコンゴ人難民であふれるルワンダのキジバ難民キャンプ)

18.850 refugiés congolais au Rwanda prêts pour le retour volontaire en RDC

KINSHASA (Xinhua) - 18.850 réfugiés congolais vivant dans le camp de Kiziba, situé dans la province de l'ouest du Rwanda, à 30 kms de Kibuye, ont exprimé la volonté de retourner dans leur pays d'origine après près des 15 années passées hors de leur patrie mère, selon un communiqué parvenu dimanche à l'agence Xinhua.
(以下略。前文は「日本カタンガ協会」ブログに掲載)。

23 juin 2011

6月22日 ルブンバシ・カサパ刑務所 prison centrale Kasapa de Lubumbashi

Le mercredi 22 juin 2011
快晴。7時、19℃、50%。

ルブンバシ刑務所(正式名は「カサパ中央刑務所(prison centrale de Kasapa)でCに面会した。Cの亡くなった母親の女友達Zさんと一緒。C
は未決囚である。

東京には葛飾区小菅に拘置所がある。裁判で判決が言い渡されるまで未決囚としてここに収容される。刑務所ではない。ルブンバシに拘置所はない。判決がでるまで無罪推定ということもない。検察で起訴が決まると刑務所に身柄が移管される。刑務所がルブンバシ大学の奥の方にあることは知っていたが行ったことがなかった。
面会日と時間が決まっている。週3回、水金日曜日のみ。朝9時から16時まで。「入場料」を取られる。コンゴ人は200フラン。僕は500フラン(50円)だった。

高い塀の中に入る。面会をする場所は、玄関ホールのようなところで、入る前に、ここでも入場料500フランを請求された。。特に面会人と被告や受刑者があう部屋はない。ボデーーチェックが厳しい。ポケットにまで手を突っ込まれたのは生まれて始めてのことだ。武器や麻薬を探しているのではなくて、金を探しているのだ。5000フラン(500円以上持っていると没収されてしまう。、Cを連れて来てもらうのにまた500フラン。征服を着た看守の姿は見えない。囚人が小遣い稼ぎのためにホー
ルでうろうろしている。囚人はサンダルをはいているので、面会人と区別できる。靴を履いてきてよかった。収容されている部屋は、40~50人も入る大部屋から独房まで、金次第で選べるのだそうだ。Cは大部屋。入り口から遠いところにある建物にいるらしく、15分以上待たされた。

やつれた顔でぼろぼろのTシャツとだぶだぶの青いパンツをはいたCが部屋のチーフと称する男ジョンと一緒に現れた。囚人服はない。刑務所の中にあるNPOが古着を支給する。
チーフというと聞こえがいいが、要は牢名主(ろうなぬし)である。牢名主はさらに各棟にもいる。そしてここの刑務所全体の名主もいる。彼らは金で動く。大名主となれば見入りがいい。リンチを受けたくなければ上納金を出せというわけだ。下手に脱獄したり、恩赦があったりして外に出て失業者になるよりも、刑務所内で稼いだ方がどれほど儲かるか。この無秩序な刑務所では、タバコもアルコールも麻薬でさえ手に入る。

新入りのCは「奴隷」にされる。食事もろくに与えられず、刑務所の中にある畑で農作業をし、「先輩」や「牢名主」の命令に従わなければならない。

面会に来た人たちは、トウモロコシの粉や炭、油などを牢名主に差し出して、入所している親兄弟や友人の待遇を改善してもらう。そうしなければ、食事もとれない。面会する囚人に物品を渡しても牢名主に取り上げられてしまう。

Cは小さな声で「ごめんなさい、ごめんなさい」を繰返す。仏の顔も3度という。今回ばかりは許せなかったから告訴したのだった。結果、ここの警察や検察のいい加減さが良くわかった。全て金次第。しかも金をだしたからといってそれに見合う仕事を警察も検察もしない。裁判所も同様。正義は存在しない。

Cに「イマラ校にいたことも、青年村Cié des jeunesにいたこともないことは確かめた。正直に西カサイ州からの足取りをいえ」と詰問し、2002~2003年にかけてバカンジャ・センターにいたことをつきとめた。

バカンジャとはイジドール・バカンジャIsidore Bakanja(1885-1909)のことだ。トラピスト派に帰依して洗礼を受け、建築現場で働きながら仲間たちにキリストの教えを伝道していたが、これを嫌ったベルギー人の親方に打擲(ちょうちゃく)されたあげく殺されてしまう。ローマ教会から殉教者として福人bienheureuxに列せられた。彼の名を冠したセンターがルブンバシに2ヵ所ある。街中と「青年村」の横である。ストリート・チルドレンや恵まれない子供たちに宿舎を与え基礎教育を施している。運営はトラピストではなく「青年村」やイマラ校と同じサレジア会。

刑務所をでてからバカランジャを訪問。責任者のフィデル神父は生憎不在だったが、修道士パスカルさんがCのことを覚えていた。「大人しいがサッカーがとても上手い少年だった。兄がきて雑貨店を開くといってつれていったままその後を知らない。フランス語をよく勉強していた」。なるほど。事情を話すと、それならマゴメ・ハウスMaison Magomeの方がよかろうということになった。マゴメもサレジア会の施設だが、少年院など犯罪歴のある少年たちを対象に教科や職業の実地訓練をする施設である。さっそくマゴメのセルジュ神父に会いに行った。施設は「青年村」とバカンジャ・センタの中間にある。
セルジュ神父は僕の訪問を喜んでくれて、次の日曜日に一緒にCに会うため刑務所に行ってくれることになった。面接してCの意思を確かめようというのだ。

Cの告訴は最終的に取り下げようと思う。刑務所で何年が過ごしたとしても、更生できるとは思えない。むしろ悪い仲間が増えて、犯罪街道をまっしぐら、また刑務所に戻ってくるのがオチだ。そうした一生を送りたいか、はた、まともな人生を歩みたいか、じっくりCに考えてもらおう。


18時、外出から帰ってきたら停電していた。いつ停電が始まったのかは不明だが、回復したのは20時。

6月20、21日 les 20 et 21juin 2011 悪魔狩り chasse aux sorciers

le lundi 20 juin 2o11
快晴。7時、19℃、50%。

ネット、不具合。なかなか通じない。AirtelもVodacomも変わりない。Airtelも嘘つきだ。ブログが更新できない。

昼12時10分、停電開始。3月、Tさんに頂いたウドンを茹でようとしていたときだから、大慌てで石油コンロに日をつけた。12時35分、早くも回復。

どうして日本のウドンは腰があるのだろう。中国製のウドンは2分も煮るとべちゃべちゃになってしまう。用途がちがうのかもしれない。イタリアン・パスタも上等なパスタは10分以上茹でる。
昼は大抵ラーメンだ。麺つゆは簡単に作れる。ウドン用とかわりない。ただ、ラーメン用にはごま油を垂らすだけだ。味の素も醤油もルブンバシで手に入る。七味はないが、カイマンの唐辛子で代用可能。

Le mardi 21 juin 2011
快晴。7時、19℃、50%。

11時、停電。断水は免れた。電気は19時05分に回復。

RDCコンゴで子供たちがいわれのない疑いを受けて殺害されていると欧州議会で話題になった。疑いとは、前近代的な正に中世的な迷信に基づく嫌疑である。たとえば、病気で幼い妹が死んだのは兄の所為である、出産時に母親が死んだのは生まれたきた新生児の所為である、父親があるいは兄が失業しているのは子供が呪いをかけているからだ、といった類である。なんでも子供たちのが悪いのだ。子供たちは「魔法使い、悪霊」として家族から非難され、叔父叔母に殺されるのである。
バ・コンゴ州(キンシャサの西隣の州)で起きたこうした事件を捜査するように申しいれたNPOに対して警察の刑事は捜査代金として400ドルを請求したそうである。払わなければ警察は捜査を開始しない。警察は「魔女狩り」のような行為を犯罪として認識もしていない。
欧州議会にコンゴ(キンシャサ)の大使も招かれ、一度は出席を約していたがドタキャン。大使館員が来ていたが、ぶつくさと囁くばかり。
本ブログでも去年キルワに行ったときに、ドミニク君という新生児がフランシスコ会に助けられた話を書いている。シスターたちが命を拾わなかったら、ドミニク君は闇に葬られていた。これを犯罪としない、犯罪として認識しない社会風土は許容限度を超える。教会が迷信だと説教しても聞き入れない深い根がある。伝統だ、文化だなどという正当化はできない。国が殺人罪、殺人未遂罪として摘発していかなければ、何時までも子供たちの犠牲者は絶えない。
この「悪魔狩り」をアフリカの、コンゴの後進性と決め付けるのは安易に過ぎる。西欧でも星座占いが載っていない新聞雑誌を探す方が難しい。集団自殺をして教祖も死んでしまったセクトもあった。手相や占いに頼るひとも洋の東西を問わず多いのである。「悪魔狩り」も人間の弱さとして、同じ土俵で考え克服していかなければならないと僕は思うのである。
(画像は西アフリカはマリの「悪魔のマスク」)。

Les assassinats et la maltraitance impunis des enfants dits « sorciers » évoqués au Parlement européen
dimanche 19 juin 2011 Afriqu’Échos Magazine (AEM) à Bruxelles, Belgique

Un matin à Kinshasa, au pied d’un immeuble, gît, dans le sang, le corps d’une fillette de 10 ans, les mains ligotées dans le dos. Accusée de sorcellerie par sa tante, elle a été jetée du quatrième étage. Dans le Bas-Congo, une « prophétesse » angolaise a brûlé vifs quatre jeunes enfants pour les délivrer de la sorcellerie. Dans la banlieue de Kinshasa, deux adolescents ont brûlé vif un autre jeune de 8 ans accusé d’être le sorcier qui a tué leur sœur, une étudiante décédée des suites d’une courte maladie. D’autres enfants, des centaines, accusés aussi de sorcellerie subissent des sévices physiques dans les églises de réveil et finissent par passer aux « aveux » qui confortent le « pouvoir » d’obscurs pasteurs… Pas un seul auteur de ces crimes et maltraitances n’a été poursuivi par la justice congolaise. D’où l’indignation, sous forme d’interrogation, du député européen Charles Goerens « Kabila ne contrôle rien ! Contrôlerait-il encore même Kinshasa ? ». L’homme politique belge participait à la conférence sur « Les enfants accusés de sorcellerie en Afrique subsaharienne » organisée, le 15 juin dernier au Parlement européen à Bruxelles, à l’initiative de la députée Véronique De Keyser.

Comment un tel sujet a-t-il pu atterrir au Parlement européen ? Véronique De Keyser s’en explique : « Ce phénomène touche, depuis plusieurs années, nos pays européens via les citoyens européens issus de l’immigration africaine et les citoyens de la diaspora. Il s’agit d’une atteinte grave aux droits de l’enfant et aux droits de l’homme que nous ne pouvons tolérer. Il importe à l’Union européenne d’étudier le phénomène et d’apporter des solutions ». Non sans préciser qu’il ne s’agissait pas de stigmatiser particulièrement la RDC ou de jeter l’anathème sur toutes les églises de réveil. Et de fixer les contours de la rencontre : « Les dispositifs légaux et judiciaires pour la protection des enfants portent-ils spécifiquement sur ce phénomène, sont-ils applicables et appliqués ? Quel rôle pour la justice internationale en cas de carence des systèmes judiciaires nationaux ? ».

Cette problématique a attiré du monde : 140 demandes de participation pour une salle de 120 places. Des participants venus de tous horizons ont répondu au vœu de François Zimeray, ambassadeur français des droits de l’homme qui a appelé à « ne laisser aucun angle mort dans l’analyse de ce phénomène et de tant d’autres qui s’y greffent ». Universitaires, représentant de l’Unicef, journalistes et représentants des ONG congolaises et internationales s’y sont employés.

La justice congolaise demande de l’argent à une ONG pour traquer une criminelle

Accusé de sorcellerie, un enfant a été gravement brûlé par une prêtresse. Après une plainte d’une ONG, elle s’exile au Bas-Congo. Pour la traquer, la justice demande 400 dollars à l’ONG pour le transport des inspecteurs judiciaires. Le juge prévient : « Moi, je dois toucher trois fois plus… ». Les inspecteurs loupent, de justesse, la prêtresse dans un village où elle venait de brûler quatre enfants accusés de sorcellerie et qui sont morts. Ils reviennent à Kinshasa demander une nouvelle somme d’argent pour repartir dans le Bas-Congo. L’ONG va jeter l’éponge et consacrer le peu d’argent qui lui restait aux soins médicaux de l’enfant. Le même juge avait relâché, après deux petites semaines, tous les complices de la prêtresse. Idem pour les deux adolescents qui ont brûlé un enfant dans la banlieue de Kinshasa : ils sont restés à peine deux jours dans les cachots de la police.

Comment enrayer le phénomène ?

Roger Katembwe Buiki, travailleur de rue à Kinshasa, s’en prend aux pasteurs qui affirment détecter les enfants sorciers : « Il n’existe pas d’enfants sorciers, ce sont ceux qui le prétendent qui sont sorciers ». Un tel « slogan » pourrait s’avérer inefficace selon le journaliste Botowamungu Kalome : « Ce n’est pas avec un tel discours qu’on pourrait endiguer un fléau qui se nourrit des croyances séculaires présentes et vivaces dans toutes les catégories sociales. Il conviendrait d’interpeler l’État et les églises de réveil sur la légitimité et la crédibilité de ces églises pour détecter les sorciers, il faut évoquer leurs responsabilités sociales et pénales face à des agissements violents et criminels qui doivent être traités en tant que tels ». Et de supputer sur la pression qui amènerait ces dérives : « Jésus a dit que ceux qui croient en lui guériraient des malades, dans un pays où plus de 95 % de citoyens ne peuvent s’offrir un diagnostic médical efficient, les pasteurs, incapables de réaliser la promesse de Jésus, se défausseraient sur les enfants avec leurs accusations implacables, invérifiables. Dans un pays où le taux de chômage avoisine les 80 %, il se trouve hélas des fidèles pour croire qu’ils sont au chômage parce qu’envoûtés par leurs propres enfants… ».

La prévention par la sensibilisation est une option partagée par Roger Kitembwe Buiki et Mithé Osumbu, présidente de l’ONG « Oser la vie » qui agit pour le maintien des enfants stigmatisés dans leurs familles ou leur installation dans des familles d’accueil en assurant leur subsistance. Cette ONG, qui soutient 50 enfants, milite pour que ce phénomène soit considéré comme un crime contre l’humanité.

Le risible orgueil des diplomates congolais

Attendu à la conférence, Henri Mova Sakanyi, l’ambassadeur de la RDC en Belgique, a annulé sa participation au dernier moment et délégué trois diplomates restés silencieux durant toute la conférence. Des diplomates qui se sont donnés en spectacle en quittant la salle en bougonnant lorsque le député européen Charles Goerens s’est interrogé sur l’inaction du pouvoir de Kinshasa. Comme des gamins mécontents dans une cour de recréation d’une école maternelle. Un comportement qui a embarrassé les Congolais présents notamment face à la prestation remarquée d’un député-maire et d’un diplomate sénégalais qui ont su faire entendre le point de vue officiel de leur pays avec un zeste de mauvaise foi en occultant les fléaux de la prostitution infantile et des jeunes mendiants au service des chefs religieux.

« Touchée par les témoignages poignants et, en même temps, édifiée par la richesse des échanges », la députée européenne Véronique De Keyser s’est engagée à donner des prolongements concrets à cette conférence. Afriqu’Échos Magazine (AEM)

21 juin 2011

6月19日 le dimanche 19 juin 2011 ムヤンボ対モイーズ Muyambo conrte Moise

Le dimanche 19 juin 2011
快晴。7時半、19℃、50%。

11時、停電と同時に断水。21時、電気が回復。水は23時になってやっと出た。

元人権保護大臣ムヤンボがカタンガ州知事モイーズ・カトンビを、フランスのテレビ局TV5のジャーナリストのインタビュに答えて、痛烈な批判を加えたことから暴力沙汰が双方の陣営で発生した。6月14日のことである。これに憤慨したモイーズ知事の周辺の若者たちがムヤンボがオーナーであるルブンバシのTV局を襲った。これに端を発して、ムヤンボ派の若者たちも、モイーズのTV局に反撃をかけた。
モイーズは若者たちを早速抑えて、エスカレートすることを防いだが、この双方の暴力が問題化しているようだ。
要はムヤンボ元大臣によるモイーズ知事にたいする嫉妬に違いない。行き過ぎた若者たちの行動がモイーズの足を引っ張った形になっている。しかし、キンシャサの人権団体ASADHOなどは、言論の自由を暴力で反応したとしてカタンガを批判している。しかし、それはその通りだが、言葉の暴力、中傷については批判をふせている。不公平さである。
これでモイーズは益々2期目の立候補がしたくなくなるだろう。親モイーズ派の若者たちは自分たちの無責任な行動がモイーズを窮地に陥れていることを知るべきである。
(画像はムヤンボ元大臣。彼はルブンバシ空港近くの広大な土地に動物公園を作っているが、その資金がどこから出たのか不透明である、世間では、一度大臣をやれば金持ちになるといっているが真相は明らかでない)。

La Prospérité: Jean-Claude Muyambo accuse Moïse Katumbi
La Prospérité consacre sa manchette aux échauffourées survenues, mercredi 15 juin à Lubumbashi, entre les partisans du gouverneur du Katanga, Moïse Katumbi et l’ancien ministre des Affaires sociales, Jean-Claude Muyambo.
Le spectre de l’intolérance politique gagne du terrain au Katanga, commente La Prospérité. Déjà, hier, la première victime, Jean-Claude Muyambo, a échappé belle au lynchage. Le quotidien indique que le président de la Solidarité Congolaise pour la Démocratie, SCODE accuse Moïse Katumbi d’être à la base de son lynchage manqué à cause d’une interview réalisée avec le réalisateur et journaliste belge Thierry Michel. La consœur avertit que si l’on ne prend garde, un embrasement généralisé peut arriver à tout moment, en cette phase préélectorale.
Le Potentiel fait une lecture différente de ces incidents. Le quotidien indique que les Lushois étaient en colère parce que Jean-Claude Muyambo s’en était pris au gouverneur élu du Katanga avec une violence verbale assortie de diffamations en règle sur TV5 monde le mardi dernier.
La diffamation en question, constate le confrère, est passée mardi dans une émission retransmise sur TV5 monde et captée à Lubumbashi. L’invité de Thierry Michel s’est offert en spectacle en débitant des propos diffamatoires, mensongers et à la limite injurieux à l’endroit du chef de l’exécutif provincial et représentant du chef de l’Etat au Katanga. Encore une fois, note le journal, le pire a été évité grâce à l’appel au calme lancé par Moïse Katumbi Chapwe aux manifestants échaudés.
Et dans son analyse, Le Phare constate que le bâtonnier Jean-Claude MUYAMBO était loin de s’imaginer qu’il venait de déclencher la guerre des » milices » à Lubumbashi. Il s’agit là des effets du règne de l’impunité, car même si le calme est revenu hier après-midi dans la capitale du cuivre, il ne demeure pas moins vrai que les rancœurs et le désir de vengeance n’ont pas été totalement évacués. Triste dans sa plume, Le Phare fait observer qu’il suffit d’un petit rien pour que le pire survienne dès lors que l’on s’achemine vers une période très chaude.

20 juin 2011

6月17、18日 les 17 et 18 juin 2011 カバ hippopotame

Le vendredi 17 juin 2011
快晴。7時、18℃、47,5%。

知らないオバさんから電話がかかってきて、Cを助けてくれいう。Cがおばさんに窮状を訴えたようだ。逮捕されてから3週間以上が過ぎている。それまで訴えなかったというのは、警察や検察の扱いは我慢の範囲内であったということか。未決犯とはいえ検察から刑務所に送られた。これは直ぐにはシャバにでられそうにないとわかったきたのだろう。

17時55分、丁度調理中に停電。これは参った。18時35分、回復。
Le samedi 18 juin 2011
快晴。7時、18℃、50%。

カタンガ州のルアラバ川(コンゴ河の支流。支流といっても川幅は数キロにわたる場所もある)で自然保護協会がカバを1頭殺した。カバが40年前にはルブンバシの郊外カフブでもみられたことは以前書いた。レポートがあったのはブカマ市だ。漁業で有名なところで、ルブンバシから北に400キロほどの地点。カバが猟師の小船に悪さをする事件がここ4年続いていたそうだ。このカバは「ウサマ」(あのベンラディンにちなんだのだろう)と呼ばれ、去年12月には人が2名犠牲になっている。自然保護協会がカバを屠殺するのはよほどのことで例外的な措置であることはいうまでもない。
東カサイ州のンガンダジカでもカバやワニが人を襲う被害がでている。
日本ではカバといえば動物園にしかいない。カバが悪さをするなどは想像できないであろう。カバは水につかって顔を出して、口をあんぐりとあけている姿しか僕たちはみたことがない。

Katanga: l’ICCN abat un hippopotame sur la rivière Lualaba

L’Institut congolais pour la conservation de la nature (ICCN) a abattu un hippopotame, dimanche 12 juin, sur la rivière Lualaba à Bukama dans la province du Katanga. L’information livrée par les habitants de Bukama a été confirmé, ce vendredi, par l’administrateur de ce territoire.
L’hippopotame est une espèce protégée dont le braconnage, le transport, les manipulations, et parfois l’approche ou la photographie sont au moins temporairement interdits (sauf autorisation dérogatoire spéciale) sur tout ou partie de son aire de répartition.
Mais selon la législation congolaise, lorsque l’animal met en danger des vies humaines, l’ICCN a le devoir de le tuer. Si cela se passe dans un village, l’Institut négocie avec les chefs coutumiers.
Les riverains ont affirmé qu’au cours de ces quatre dernières années, l’animal, surnommé Oussama, s’est régulièrement attaqué aux embarcations naviguant sur la rivière. Il en a renversé quelques unes. Selon les mêmes sources, deux personnes ont trouvé la mort au mois de décembre 2010.
Pour échapper à cet hippopotame, les navigateurs s’informaient sur le lieu où se trouvait l’animal afin de l’éviter, ont poursuivi les mêmes sources.
L’hippopotame joue un rôle important dans l’écosystème. Lorsqu’il défèque dans un cours d’eau, celui-ci produit plus facilement des phytoplanctons, organismes appartenant au règne végétal, de taille très petite ou microscopique, qui vivent en suspension dans l’eau.
Les phytoplanctons servent de nourriture aux petits poissons.
Lire aussi sur radiookapi.net:

6月16日 le jeudi 16 juin 2011 空港利用税 taxe de fonds de développement pour les infrastructures aéroportuaires, IDEF

Le jeudi 16 juin 2011
快晴。7時、18℃、47.5%。

庭にハイビスカスが5株ある。ひとつはサロンの前の花壇で八重である。あとで買った4株は一重だ。その筈だ。そのうちの一株がやっと花をつけた。ハイビスカス(イビスキュス)は一重が好きだ。椿も一重がいい。

今日はサロンの大掃除。サロンから庭に降りられるようにした所為か土埃が積もる。掃除してからサロンをみると、余りにきれいになってしまって、僕もびっくり。でも毎日は掃除できないな。僕は怠け者だから。

18時55分、停電開始。19時35分に回復。やれやれ。

空港利用税。2009年6月、休暇と利用してルブンバシに来たとき、出国の歳に空港税をとられたので驚いた。50ドル。この50ドルのお陰か、空港警察などのタカリがなくなったと思っていた。今年ルブンバシにみえたTさんもAさんも50ドルを支払った。ドバイに4月に出たアラン君も払っている。出国税が50ドルらしい。国内線利用は10ドルである。領収書も発行される。しかし、空港当局が職員にばらまいていると思いきや、税導入以来3900万ドルが国庫に入ったのだそうである。税の使い道も、キンシャサ空港の大統領送迎館建設や地方空港の滑走路修理などにあてられているという。オカピ放送(国連がスポンサー)が当局を追求した。
RDCコンゴ全国の空港を管理運営する公社RVAも民営化されるが、先ずは経営の透明化を進めて欲しい。空港利用税の徴収、使途にしても具体的数字が示されず不透明だと僕は考える。
(画像はオカピ放送のHPから。キンシャサのンジリ空港。ここもRVAによれば、全面的に建て直されるそうだが、何時になることやら、、、。時代はコンコルドの次の世代ZEHSTで、パリ東京間が2時間半で結ばれようとしている)。

IDEF : la RVA explique l’utilisation des fonds perçus

Près de deux ans après son instauration en RDC, la taxe de fonds de développement pour les infrastructures aéroportuaires, IDEF, a produit des recettes de l’ordre de 39 millions de dollars américains. L’administrateur directeur financier de la Régie des voies aériennes, RVA, qui a donné ce chiffre mardi 14 juin au cours de l’émission Dialogue entre Congolais de Radio Okapi, a affirmé que ces fonds ont permis de démarrer la construction de certains ouvrages, notamment le pavillon présidentiel de l’aéroport international de Ndjili.
Emmanuel Mwamba Sabiti a déclaré notamment:
«Depuis 2009, la RVA a collecté au titre de l’IDEF 39 millions de dollars. Ces fonds ont servi d’abord à financer les études qui sont un préalable à tout ouvrage aéroportuaire. Il y a eu le pavillon présidentiel dont vous avez suivi l’inauguration. C’est par manque de financement que les travaux sont restés inachevés. Il y a également la piste de Moanda dont nous avons cofinancé les travaux avec Perenco. Voilà d’une façon ramassée à quoi a servi ce fonds.»
Outre ces explications, l’administrateur directeur financier de la RVA a ajouté que son entreprise devrait garantir les crédits relais obtenus auprès de différentes banques.

19 juin 2011

6月15日 le mercredi 15 juin 2011 DRC報道 mèdia sur RDC

Le mercredi 15 juin 2011
快晴。7時、19℃、50%。
外の空気が冷たいので、参考に屋外で測ってみた。14℃、47,5%とは。そりゃ、寒いのも頷ける。

セバスチャンが来て、予定の朝8時が14時にずれたが、サロンの網戸を取り替えた。これで大きな穴のあいた網戸が全て修理されたことになる。蚊はこの寒い中にもいる。

ネット情報誌『Afriarabia』にNGO「Oxfam」のコンゴ代表マルセル・ステッセルMarcel Stoessel氏とのインタヴュが乗っていた。Oxfamは世界規模のNGO。日本にも支部がある。『メディアに忘れられた戦争』というタイトルでRDCコンゴの武力闘争を語る。
「2006年9月から翌年4月までの8ヶ月間のメディアでのコンゴの武力闘争に関する報道は1327件であった。これはアフガニスタンの29987件、イラクの43589件等に比べて極端に低い数値である」。誰がどう計算したか数字の根拠がわからない。数字を拾った時点も既に5年前であって古すぎる。またアフガニスタン、イランともアメリカが参戦している戦争である。RDCコンゴの武力闘争は、背景にアメリカがちらついたとしても、アメリカが直接戦争に軍隊を送っているわけではない。この違いは大きいが、ステッセル氏はそれには言及しない。しかし、「第一に、紛争地点が辺境に偏ってきている。即ちオリエンタル州では、州都であるキサンガニ(コンゴ第3の都市)から遥かに離れたウガンダ国境の上ウエレ地方が中心になってきている。多くのジャーナリストには時間も資金もないので、陸路を数日間かけて現場まで取材できない。それに携帯のネットワークもない地点であることも屡である」。交通手段(特殊な四駆や小型飛行機かヘリコプタ)+衛星通信など自前の通信手段を用意しないと十分な報道ができない。アメリカ人がいない戦争にCNNも金をかけないだろう。人道だけではアメリカもフランスも介入しない。1994年のルワンダ虐殺は見過ごされた。紛争地帯としての南北キヴ州でも州都ゴマ市やブカブ市では戦闘がない。あるのはサバンナや森林地帯、山間部である。しかし、別の見方をすれば、紛争が僻地・辺境に追いやられている、といえるから、紛争終結が遠くないことを示唆しているのではないか。
「第2に、国内難民も親戚縁者の家庭で迎えられ、キャンプに収容される例が少なくなってきている。キャンプだとセンセイショナルで報道しやすい」。たしかに何万人もの難民がキャンプに入って生活していると、世界の目を集めることができる、しかし、これも裏をかえせば、国内難民の数がかなり限定していることを示す減少ともいえる。村々の家庭で受け入れられる難民の数は限られている。
「第3に、コンゴの武力闘争は複雑で、白黒がはっきりしない。既に15年以上にわたってドンパチをやっている。報道に飽きがきている。ドラマチックな進展がないからである」。かといって、ニュース・バリューを作るための誇大宣伝はとんでもない誤解を生むのである。たとえば、RDCコンゴでは毎日1000人以上の女性が犯されている。強姦数世界一といった報道だ。コンゴのいたるところで女性が被害にあっているように受け取られる。全くの誤解である。特に本ブログの最新号でMonuscoの役割で紹介した外国軍、とりわけウガンダ系LRAの暴行が大きく報道されたが、彼らの跋扈する地域は狭められてきている。
では、どうメディアが報道すべきか、ステッセル氏は、
「数字の裏に隠されている真の人道的意味を問い直すことだ。また既存のメディアだけに頼らず、「市民ジャーナリスト」(一般市民が現場からニュースを発信する)のメディア参加、faceboookやtwitterの利用などを積極的にとりいれることだ」という。僕はそれができれば越したことはないと賛成する。しかし、去年6月カタンガ州東北部のドゥビエに行ったときに訪れたピグミ(この場合はセミ・バントゥ)の国内難民部落のことを考えると世界のメディアに訴えるのは容易ではない。そこのピグミは、複数の巨大NPO(たとえば「国境なき医師団」)からも直接戦闘地域ではないと援助を切られたし、国連も知らないふりをしている。人道的援助を細々としているのはカトリックの「フランシスコ会」の修道女だけである。メディアに取り上げてもらうには、集団餓死や集団婦女暴行などの犠牲が必要なのだろうか。ステッセル氏の話はいちいちもっともなことが多いが、世界的規模を誇るNGO「Oxfam」自体のメディアに対する反省はなにもなかった。わがNPO「日本カタンガ協会」にいま少しの資金があれば、活動をもっと活発化できるのだが、、、。
(Oxfamは英国起源のNGO。1942年設立。活動範囲は世界に広がっている。日本事務所もある)。
RDC : Le conflit oublié des médias

La République démocratique du Congo (RDC) est-elle maudite ? Depuis plus de 15 ans cet immense pays d'Afrique centrale cumule les conflits et les drames humanitaires... dans l'indifférence générale. Pourquoi les médias internationaux sont-ils plus prompts à couvrir la guerre en Libye, le conflit en Irak ou en Afghanistan, que la catastrophe humanitaire en cours en RDC ? Explications sur un pays plongé dans un "trou noir médiatique".

Trop long, trop compliqué, trop loin, trop cher à couvrir pour les journalistes, le conflit oublié en République démocratique du Congo (RDC) ne mobilise pas les médias... et donc pas les opinions publiques. Pourtant ce vaste pays, grand comme 5 fois la France, en plein coeur de l'Afrique, est un concentré de catastrophes divers : plusieurs guerres à répétition, des millions de morts (2, 3 ou 4 millions ?), 1,7 million de réfugiés, le viol de masse utilisé comme arme de guerre, l'enrôlement de milliers d'enfants soldats, le pillage des ressources naturelles, un Etat défaillant dans le top 10 des pays les plus pauvres au monde... voici le rapide portrait de la situation en RDC. Pourtant, les médias ne semblent guère y prêter attention alors que 18.995 casques bleus de l'ONU sont sur place pour la plus importante opération de maintien de la paix au monde. Afrikarabia a demandé à Marcel Stoessel*, responsable de l'ONG Oxfam en RDC, de nous éclairer.

- Afrikarabia : Qu'est-ce qui explique l'absence de la RDC dans les médias malgré une situation humanitaire extrêmement préoccupante ?

- Marcel Stoessel : Tout d’abord, j’aimerais confirmer les deux affirmations que vous faites : une situation humanitaire préoccupante, et une certaine absence de la RDC dans les médias. Cette absence est assez choquante. Une recherche récente a montré qu’entre septembre 2006 et avril 2007, il y avait 1.327 articles référencés sur la RDC, 19.946 sur Israël et les territoires occupés, 29.987 sur l’Afghanistan, et 43.589 sur l’Iraq. Pour moi, il y a plusieurs raisons à cela :

Premièrement, la population qui souffre se trouve aujourd’hui, dans des zones très isolées du pays, comme en Haut Uélé, à Shabunda, ou à Fizi. Il est très difficile et coûteux pour les humanitaires ainsi que pour les médias d’y accéder. Les problèmes de sécurité et de logistique sont des barrières importantes. J’ai récemment visité un de nos projets humanitaires dans un village au Nord de Niangara, en Haut-Uélé (au Nord-Est de la RDC). Il nous a fallu plusieurs jours pour arriver à Niangara, et une fois sur place nous n’avons pas vu un seul véhicule de toute la journée. Souvent les journalistes n’ont pas les moyens financiers et le temps pour se déplacer dans ces zones reculées. Ils sont donc forcés de travailler dans les régions plus proches de Goma ou Bukavu (les principales villes de la région). Dans certaines zones il manque aussi de réseaux téléphoniques et il est donc difficile d’informer les journalistes sur la situation humanitaire.

Deuxièmement, les personnes déplacées vivent aujourd’hui principalement dans des familles d’accueil et non pas dans des camps de déplacés. En cas de crise, les familles congolaises accueillent très souvent leurs sœurs et frères réfugiés. Ce n’est pas une mauvaise chose, bien entendu. Mais la souffrance des personnes vivant dans des familles d’accueil est visuellement moins impressionnante que lorsqu’il s’agit de grands camps de déplacés. Il est plus "spectaculaire" pour les journalistes de faire des photos ou de tourner des vidéos dans ces immenses camps. Aujourd’hui, les femmes, les enfants et les hommes souffrent loin des caméras, mais cela ne veut pas dire que leur souffrance soit moindre.

Troisièmement, les conflits en RDC sont compliqués. Il est plus facile d’expliquer un conflit binaire « A contre B » dans un contexte comme la Libye ou en Côte d’Ivoire que de parler de la pauvreté, de la mauvaise gouvernance, de dizaines de groupes armées, des ressources naturelles, des tensions intercommunautaires... Je pense aussi qu’il y a une certaine fatigue avec la RDC, parce que la situation ne semble pas s’améliorer significativement tout au long de ces années. Pourtant, ce n’est pas vraiment exact : il y a des solutions et la situation dans certaines zones s’est améliorée ces dix dernières années. Mais il faut une analyse approfondie et surtout, il faut de la patience.

- Afrikarabia : Que faudrait-il faire pour que ce conflit soit mieux couvert par les médias ? Faut-il adopter d'autres stratégies ?

- Marcel Stoessel : Je pense qu'il faudrait sortir des statistiques et commencer par parler des êtres humains, derrière les chiffres. Il faudrait pouvoir montrer la famille qui a accueilli chez elle cinq autres familles déplacées suite à une attaque d’un groupe armé ; la responsable d’une organisation locale qui a réussi à améliorer la sécurité du village en parlant avec le commandant local de l’armée ; le staff local d’Oxfam qui doit même réparer des pistes d’atterrissage et des ponts avant de pouvoir délivrer l’assistance, etc... Le célèbre photographe de mode Rankin est déjà venu deux fois en RDC pour raconter ces histoires très humaines, très concrètes... et nous devons continuer dans cette direction. Nous avons aussi un projet de « citoyen journaliste », qui devrait permettre à ces populations enclavées de raconter directement et sans censure leur quotidien. Les réseaux sociaux comme Facebook ou Twitter ont un potentiel énorme pour mettre en contact des personnes des pays "développés" avec des Congolais. Il y a donc des solutions pour sortir du "trou noir médiatique". C’est notre devoir moral de continuer à tenter de le faire.

(*) Marcel Stoessel est le directeur d'Oxfam en République démocratique du Congo depuis 2 ans et demi. Cette ONG intervient dans l'humanitaire, mais aussi dans le développement durable et les plaidoyers auprès des décideurs politiques ou économiques. En RDC, Oxfam travaille sur l'accès à l'eau, l'assainissement, l'hygiène, la sécurité alimentaire, la protection des populations et l'éducation.

Propos recueillis par Christophe Rigaud

15 juin 2011

6月14日 le mardi 14 juin 2011 LRA - Lord’s Resistance Army (Armée de Résistance du Seigneur)

Le mardi 14 juin 2011
快晴。7時、19℃、50%。
風が冷たい。

19時20分から35分まで15分間停電。このところ毎日停電がある。

今月、6月8日のMonuscoの記事でウガンダ系武装グループLRA;Lord’s Resistance Armyについて言及した。このLRAの首謀者はジョゼフ・コニJoseph Konyである。Konyが率いるLRA対策にアフリカ連合(AU、フランス語はUA)がやっと乗り出すことになった。地域介入軍Force d'Intervention Régionale (FRI)をAUで組織しようというものだ。
LRAは2008年以来、2000人を殺害し、2600人以上を誘拐、40万人がLRAから逃れるために国内外で難民となった。先週もLRAによってRDCコンゴのオリエンタル州で4人が殺され、略奪があった。ことは急を要する。AUは名前こそunion(連合)だが、欧州連合のレベルまで到達するには遥かに遠い。今年に入ってコート・ジボワールの二人の大統領問題も、リビアのカダフィの居座り問題も、AUのイニシアティブでは解決出来なかった。実効性が問われる場面である。RDCコンゴの国軍(FARDC)とMonuscoだけでなLRAの暴力(凶悪犯罪)に対処できていない。

このLRAが跋扈している地方は、カタンガ州からみれば、パリからプラハやワルシャワにも等しく、遠い遠いところでの戦闘である。この距離感が分からないと、RDCコンゴではいたるところで内戦状態だという誤解を生むのである。

(画像はジョセフ・コニ。1961年ウガンダ北部生まれ。LRAの80%が誘拐された少年たちからなる少年兵で構成されているといわれる。2005年以来、オランダはハーグの国際刑事裁判所(ICC-CPI)から訴追されている。しかし、アルカイダのベン・ラディンほどの注目を浴びていない。ウガンダの現独裁者ムセベニに反対し、聖書の教えを実施し、十戒を守る国を目指すのだそうだが、そのための少年誘拐、略奪、強姦、殺戮は到底理解し難い反人道行為である)。

RDC : Vers une force régionale d'intervention contre la LRA
La deuxième réunion des ministres de la Défense des pays victimes des exactions de l'Armée de Résistance du Seigneur (LRA) vient de décider la création d'une Force Régionale d'Intervention (FRI) contre la rébellion ougandaise de Joseph Kony. L'Union africaine (UA) et la communauté internationale devront contribuer au financement et à la mise en place de cette force.

Depuis plus de 25 ans, la LRA du rebelle ougandais Joseph Kony, terrorise les populations de République démocratique du Congo (RDC), de République Centrafricaine et du Sud-Soudan. D’après le HCR, depuis décembre 2008, la LRA a tué 2000 personnes, en a enlevé plus de 2600 et a provoqué le déplacement de 400.000 habitants au Nord et à l'Est de la RDC. Depuis plusieurs mois, les ONG font pression sur l'Union africaine (UA) pour prendre enfin le problème au sérieux.

En octobre 2010, l'Union africain avait déjà convenu d'un plan sécuritaire et humanitaire de grande ampleur. Ce week-end à Addis-Abeba, la réunion des ministres de la Défense congolais, ougandais, centrafricain et du ministre de l'Intérieur du Gouvernement du Sud Soudan va plus loin en annonçant la mise en place d'une Force d'Intervention Régionale (FRI), d'un centre des opérations (COC) et d'un mécanisme conjoint de coordination (MCC) afin lutter contre la LRA.

L'Union africaine devra mobiliser des ressources financières et logistiques pour constituer cette force. Les autres besoins de la mission seront à la charge des pays
contributeurs. Si cette réunion constitue un pas de plus vers une intervention armée contre la rébellion de Joseph Kony, le temps presse : ces cinq derniers jours, des localités de Bangadi, à 40 kilomètres de Dungu, ont été victimes d’une série d’attaques attribuées aux combattants de l’Armée de résistance du seigneur. Bilan : 4 morts et de nombreux pillages.

Christophe Rigaud

6月13日 le lundi 13 juin 2011 過マンガン酸カリウム permanganate de potacium


Le lundi 13 juin 2011
快晴、20℃、40%。

過マンガン酸カリpermanganate de potassium(KMnO4)をバスタブにいれて入浴した。Permanganateと略して呼んでいるが、permanganate(過マンガン酸塩)は爆発物らしい。過マンガン酸カリは薬屋で売っている。シスター・アスンタさんが、身体が痒いときにこれをいれて入浴するといいと教えてくれた。生野菜を食べるときも、KMnO4の薄い液につければ回虫の卵を殺せるのだそうだ。
結晶ではなく、錠剤状になったKMnO4を3つアスンタさんから頂いた。これをペットボトルにいれて水を注ぐと濃い紫の溶液ができる。バスタブにお湯を溜めてといっても1/5程度だが、コップに半分のKMnO4をいれると薄紫になる。これで腰湯、肩からお湯をかける。10分ほどするとお湯が栗色になる。溶液が酸化したためらしい。化学反応は面白い。
長ネギを洗ったときは、小さなキャップに一杯を1,5L の水で薄めた。ピンクの溶液に5分長ネギを浸してからフィルターをかけた水で濯いだ。気分の問題かもしれないが生で食べても大丈夫そうだ。
(画像は過マンガン酸カリの結晶と溶液。バスタブのお湯の色は右から3番目から2番目の間)。


19時15分から25分間停電。

6月12日 le dimanche 12 juin 2011 東カサイ州ムブジマイ Mbuji-Mayi du Kasai Oriental

Le dimanche 12 juin 2011
快晴、7時、20℃、湿度40%。
朝方、湿度40%というのは初めて。昼間ならよくある湿度。

マドンナが昨夜奇声を上げて吠えていた。目には涙、口から涎をたらたら。腰が抜けたようで、呼んでも飛んでこない。狂犬病かと疑った。予防注射は去年しているが、抗体がちゃんとできていたかどうかわからない。
それが、今日はもう元気溌剌。食欲も旺盛。昨日の症状はなんだったのだろう。
月に向かって吠えていたのか。
父親が日本人であるコンゴの青年Yさんが自宅に尋ねてきた。Yさんは30代後半、ザンビアのンドラ(Ndola、カッパベルト州の州都)に在住。コンゴの国境の町カスンバレサから車で2時間のところだ。ザンビア国籍もとって、鉱山会社相手に商社を設立した。なかなかのビジネスマン。中国系鉱山会社と今回大きな商談のためにルブンバシに来た。
父親の社会保障の書類を保存していた。写真も数枚持っている。「日本人の父親を有しコンゴに置き去られた子供たちの協会」の活動をもっと活発にしたいと僕に会いにきたのだ。日本大使館の本件担当が5月に神澤さんから渡辺さんに代わった。神澤さんがコンゴを離れたからだ。大使館は日本の法務省とはなしてくれるということであるがポジティヴな結果は期待できない。大使館の担当は別として、日本大使館にデモをするなり、大使館前でハンガー・ストライキをするなり、また州議会で委員会をつくるなどしないと先に進まないと説明。さらに、子供の権利条約や日本の民法や刑法を適用して訴訟手続きをとるのも一法であろうと話した。「子供たちの協会」のケイコ会長も、大使館との話がすすまないので、そうしたらいいか逡巡しているようだ。Yさんはキンシャサの政府筋やカタンガ州にもパイプがあるようで、ビジネスの合間に積極的に人に会い事態の打開をはかりたいといっていた。Yさんならやれるかもしれない。

20時50分、停電。国連のMonusco(コンゴ安定化ミッション)で東カサイ州に来ている日本人女性のブログを読んでいた最中だった。23時45分、やっと回復。3時間の停電、
このブログとても面白い。国連のコンゴ安定化ミッションMonuscoの東カサイ州の事務所で今年から勤務し始めた若い女性のブログである。東カサイ州は僕のいるカタンガ州の北隣。

2009年9月までは英語。2010年9月からは日本語になっている。
国連の職員には寄生虫のような連中が多いけれど、彼女は一所懸命に自分のしたいことを模索している。ブジマイMbuji Mayi(州都)に赴任。

ブジマイというのは、ルブンバシに輪をかけて無秩序に肥大した都市であるが、都市の機能が追いつくどころか完全に麻痺している。1960年独立時に5万人の人口が現在なんと200万人を超えている。そこで毎日奮闘しているメグミさんの姿が勇ましい。カタンガ州に日本人は3人いる。東カサイ州に日本人は彼女一人だろう。応援したくなる。僕に何が出来るわけでもないけれど。去年同じ国連の職員Iさんがムブジ・マイにいたという記録はあるがブログを書いていないようだ。この東カサイの知事アルフォンスAlphonse Ngoy Kasanjiもカタンガ州のモイーズと同じくビジネスマンである。ダイヤモンド商人。2000年には265,85カラットというダイヤモンドをテンダーにかけている。

14 juin 2011

6月11日 le samedi 11 juin 2011 インガ3・ダム発電 Inga 3 «Grand Inga»

Le samedi 11 juin 2011
快晴。7時、21℃、50%。

RDCコンゴは電力の輸出国である。国内の電気普及率は極めて低い。アフリカ平均が25%くらいだろうが、それよりも低いと思われる。勿論都会(キンシャサ、ルブンバシ、キサンガニ等々州都をはじめ、カタンガ州ならリカシやコルウェジなど)の場合、独立前の方がインフラはしっかりしていた。独裁者モブツの最後、1990年代でも電気を含め現在よりましなインフラだった。
以下の記事はアフリカ開発銀行(BAD)のレポートに基づくものである。BADには日本も参加している。
インガ・ダムというのが、大河コンゴの下流、キンシャサの西、バ・コンゴ州の州都マタディに近いところにある。コンゴ河の流量はアマゾンに続いて世界第2位を誇る。国際河川ではあるが、大部分がRDCコンゴの国内をぐるっと回って流れている。インガ・ダム発電はインガ1、インガ2と進んで、今、インガ3が目前に迫っている。インガ1発電所は1970年に完成、発電能力351メガワット(351 000KW)であった。インガ2はその12年後、1982年の完成で1 424MW。それから30年。インガ3(大インガ «Grand Inga»)は掛け声ばかりだった。その発電能力は最終的には45 000MWを計画している。福島原発の能力は原子炉6基で5 200 MWである。インガ3が完成した場合、エジプトのカイロまで送電することまで考えている。インガ2から南アまで送電されている。
コンゴ川の潜在的発電利用可能能力は10万MWといわれている。コンゴ河だけで、アフリカ大陸全体の電力需要を賄うことも可能なのである。日本の年間電力需要が90000億KWHらしいから、コンゴ河がフルに電力開発された場合、凡そ日本の全需要をカバーできる。それがコンゴ河である。
BADは『大インガ』も一挙にはできないから、先ずは5 000MWから始めたいようだ。
日本は、70年代にマタディに巨大な吊り橋を建設したが、この橋は実際には全く役立っていない端である。BADを通してだけでなく、日本政府が積極的に円借款を提供、この今世紀最大のプロジェクトに参加すべきであろうが、現状ではアメリカや欧州の進出を指をくわえてみている。腰抜けになった日本。このまま沈没するのか。

Inga 3: Pour la BAD, le projet aura besoin d’une mise en œuvre progressive

Le projet de la République Démocratique du Congo (RDC) de produire 40.000 mégawatts grâce à un nouveau barrage sur le fleuve Congo devrait être graduel. Ceci, afin de faciliter la récolte des fonds et en vue de s’assurer une clientèle certaine, a établi une étude commandée par la Banque africaine de développement (BAD).
Le gouvernement congolais estime avoir besoin de $22 milliards pour la construction de ce projet hydroélectrique qui permettrait d'exploiter la puissance du deuxième plus grand fleuve du monde en débit après l'Amazonie. Les travaux sur le projet du grand Inga – qui comprend $ 5,2 milliards pour la centrale électrique d'Inga 3 d’une capacité de 5000 mégawatts – est au point mort en raison d'un manque d'argent et d’un plan concret de mise en œuvre.

« Inga est un projet unique que l’on ne voit qu’une fois dans sa vie», ce qui explique pourquoi la BAD veut y apporter son soutien, a déclaré mardi, le Vic。e-président de la BAD chargé de l’Infrastructure, M. Bobby Pittman dans une interview à Lisbonne.
Le complexe d'Inga produirait presque deux fois plus d'énergie que le barrage des Trois Gorges en Chine et peut répondre à la majorité des besoins en électricité en Afrique, où moins d'un quart de la population a accès à l'électricité. Le méga projet du barrage Grand Inga concerne la construction d’un grand barrage à construire après Inga 3 [Ndlr. : In fine, le total du complexe des barrages d'Inga (parfois dénommé lui-même "Grand Inga") comprendrait 4 unités de production, pour une puissance totale de 45 275 MW (source Wikipedia)].
En 2008, la BAD a accepté de financer une étude de $ 15,7 millions sur le projet. Celle-ci est censée être clôturée d’ici la fin du mois de septembre mais, les premières conclusions de ce rapport indiquent que la construction d'Inga pourrait être mise en œuvre en plusieurs phases, a déclaré M. Pittman, sans donner plus de détails.
Selon la Banque mondiale, les cours d’eau congolais ont le potentiel de produire 100.000 mégawatts d'électricité

Pourparlers avec BHP Billiton

La RDC avait achevé la construction d’Inga 1 (une centrale de 351 MW) en 1970, et les 1424 MW de la centrale d'Inga 2 sont entrés en service 12 ans plus tard. En 2007, la BAD a accepté d’octroyer à la RDC une subvention de $58 millions pour la rénovation de ses installations.
En Octobre de l'année dernière, l’Etat congolais avait déclaré être en pourparlers "très avancés" sur le projet Inga 3 avec BHP Billiton Ltd (BHP), qui était à la recherche d'électricité pour une possible usine d'aluminium. BHP, leader mondial de la plus grande exploitation minière, avait déclaré à l'époque que les négociations au sujet de la centrale électrique et de la fonderie en étaient au « début de la phase conceptuelle. »
La BAD entend subvenir au financement pour l’exploitation du projet Inga par des entreprises privées et d'autres bailleurs de fonds multilatéraux, a affirmé le Vice-président de la BAD ; sans préciser a combien s’élèverait ce soutient financier.
La Banque africaine de développement, l’un des cinq principaux bailleurs de fonds pour des projets multilatéraux de développement dans le monde, a financé l'année dernière : des projets d'infrastructure d’une valeur de $4 milliards ; des projets d'énergie pour $ 1.4 milliards et des projets de transport pour une valeur de $1.9 milliards a déclaré la BAD dans un rapport publié hier à Lisbonne avant l’assemblée générale annuelle qui aura lieu du 9 au 10 juin.
Les revenus net de la banque ont chuté à $103,6 millions l'an dernier (comparés aux $ 107,4 millions en 2009), eu égard à l’augmentation des provisions pour créances douteuses.
Créée en 1964, la BAD compte 53 pays membres de l'Afrique et 24 en dehors du continent, y compris les États-Unis, l'Union européenne et le Japon. Le Nigeria, pays le plus peuplé d'Afrique, possède le plus d’actions.

Source: Bloomberg
http://www.bloomberg.com/news/2011-06-08/congo-s-inga-hydropower-project-may-need-phased-implementation-afdb-says.html
Par Mike Cohen
Traduit de l'anglais pour mediacongo.net par KD

6月9日 le jeudi 9 juin 2011 リカシ ville de Likasi

Le jeudi 9 juin 2011
快晴。6時、22℃、60%。
午後になって雨が降ったようだ。乾季だというのに。珍しい。

今日はAさんとリカシ市。Aさんは、3月にルブンバシに見えられたTさんと同じく、ワールド・ビジョン(WV)ジャパンのメンバさんでリカシの子供のスポンサーである。30歳前後の若い方。今回、僕はボランティアの通訳として参加した。
リカシまで120キロ。WVの車トヨタ・ランドクルーザはメンテが悪く60キロ以上出すと、ガタビシと振動音を出してエンジンが止まる。僕の三菱で行きたかったが、今日は全てWVの責任でAさんの世話をしなければならないちう、訳のわからない論理で、僕の車を使うことは拒否された。
Aさんがスポンサーになっている子供(女児、10歳)はトヨタ地区に住んでいる。トヨタ地区というのはトヨタの「トラック」を昔持っていた人が住んでいて、それが目印となって、「あのトヨタがある地区」ということで、それが名称になったというところ。ルブンバシのカマロンド地区のように貧しい地区だ。ケニア地区のような商業地区ではない。WVジャパンはこのトヨタ地区とカンボブ地区の地域開発に貢献している。
養鶏場、日本の方が寄付をして5万ドルで建てられたという小学校、Aさんがスポンサーになっている子の通っている小学校を訪れた。
子供の両親の家ではなく、叔母にあたる女性の家で、Aさんは初めて彼女に会った。Aさんは、筆箱、鉛筆、鉛筆削り、それらを入れる可愛いバッグそしてサッカーボールをお土産にもってきていた。女の子もサッカーをするそうて、彼女は喜んでいた。けれど寡黙。
父親はアルコールが入っていた。母親は洒落たブラウスを着て遅れて現れた。11人の子供のうち5人は既に結婚して、いえには6人の子供が残っているという。父親は鉱山会社を停年になり、農業をしている。14時過ぎ、食事のためにWVリカシ近くに移動。ニワトリと魚(ティラピア)の昼食。終始みなさん口数が少なかった。
ルブンバシに帰る前にWVリカシ事務所でかかった経費の精算。260ドルとなったが、計算根拠は今回も不透明だ。日本にはこのトヨタ地区の子供たちのスポンサーが1000人以上いる。ということは年間5000万円以上のお金がこの地区の地域開発に寄付されているということである。これは、コンゴにとってのみならず大変な額である。厳しい監視が要請される所以であるが、現在のところ、この甘い汁を吸うためWVにコンゴ人スタッフが集まっているとしか思えない。よほど腰をおちつけて、厳しい監督をしないと「食い物」にされているだけだ。

13 juin 2011

6月8日 le jeudi 8 juin 2011 コンゴ安定化ミッション groupes armés étrangers en RDC

Le mercredi 8 juin 2011
快晴。7時、21℃、60%。

チーコちゃんとマーゴちゃんがネズミを捕らえて殺した。食べてはいない。このところ台所に小さなネズミが出てきていた。二十日ネズミのような可愛いネズミだ。チーコちゃんを呼んでネズミを脅かそうかと思っていた矢先である。しかし、死体が見つかったのは彼女たちの部屋、台所ではない。違うネズミかもしれない。ネズミといってもsouris(mouse)であってratではない。

国連の「コンゴ安定化ミッション(Monusco)」の武装解除・復員・本国送還・復帰・再帰セクション(DDR/RR)部長グレゴリー氏とのインタヴュが『JA』に載った。RDCコンゴの「内戦」の現状を知るに極めて重要な内容である。日本外務省の安全情報ホームページでは知りえない情報である。以下要約してみる。
「DDR/RRの本部はゴマ市(北キヴ州の州都)にある。要員は160名。大部分がコンゴ人で構成されている。支部がカレミエ(カタンガ州等北端、タンガニーカ湖湖畔の都市、金鉱が近くにある)、、ブカブ(南キヴ州の州都)およびドゥング(オリエンタル州、州都はコンゴ河河畔のキサンガニ、対してトゥングは同州北部のスーダンおよびウガンダ国境地方)に置かれている。これらの地方に潜みあるいは戦闘行為を繰返している武装集団に対して放送や宣伝ビラ配布等を通して、戦闘行為の中止を呼びかけているのである。非政府軍(外国軍)と直接ネゴもする。
現在4つの外国武装集団がRDCコンゴの領土にいる。
1) FDLR:Democratic Liberation Forces of Rwanda。ルワンダ系(フツ系)である。94年のルワンダ虐殺事件以降の難民を含む旧ルワンダ政府軍で構成。総員2000~2500人。一番大きなグループ。
2)ADF:Allied Democratic Force。ウガンダ系。1990年代後半にコンゴに侵入してきた。イスラム原理教系。勢力は500~800人。RDCコンゴとウガンダ国境の山岳地帯で戦闘活動をしている。
3)LRA;Lord’s Resistance Army。ウガンダ系。20年来のウガンダ反政府軍。RDCコンゴに入ってきたのは2005年から。もっとも暴力的な集団。オリエンタル州だけでなく、中央アフリカや南スーダンでも戦闘。総数を掴むのは難しい。
4)FNL:Forces nationales de Libération。ブルンジ系。2010年のブルンジにおける選挙以降、RDCコンゴで武装闘争を活発化した。
コンゴ人の非政府系武装集団はこれら外国軍に参加したり、独立系として特に南北キヴ州で戦闘行為をしている。規模は4000人前後といわれる。
2002年以来DDR/ RRは24000人の外国軍を本国に帰すことに成功している。特に2009年から月平均140人以上を帰国させている」。
これからわかることは、内戦の実態は、主として外国の武装グループによるRDCコンゴ主権侵犯である。規模は相当に縮小している。戦闘がなくなるまであと一歩といえる。しかし、地道な努力が重ねられねばならない。
武装集団の実態は政治的主義主張よりも、ギャング集団といってまちがいなく、犯罪集団である。軍隊とは名ばかりなのである。

Point de la Monusco sur la situation des groupes armés étrangers et congolais avec le débat infini sur le DDRRR
Kinshasa, 06/06/2011 / Politique
Le débat sur la question du désarmement, démobilisation, rapatriement, Réintégration et réinsertion à nouveau sur la sellette à la faveur d’un point fait par la Monusco sur cette situation autour de l’activisme qui continue à être observé des groupes armés étrangers et congolais dans la partie Est de la RDC
La Section Désarmement, Démobilisation, Rapatriement, Réintégration et Réinstallation DDR/ RR) de la MONUSCO est chargée de rapatrier tous les combattants étrangers se trouvant en RDC, ainsi que d’aider le gouvernement à démobiliser les combattants congolais. Voici ci-dessous une interview exclusive d’Alex Gregory directeur de la section DDR/ RR.

1. Quels sont les dispositifs opérationnels mis en place par la section DDR / RR ?

La section DDR / RR compte environ 160 membres, dont la plupart sont des Congolais. Elle a son siège national basé à Goma, mais dispose d’équipes dans ses sites provinciaux situés à Kalemie (Katanga). « Bukavu (Sud Kivu) », Goma (Nord Kivu) et à Dungu (Province Orientale). Chacun des sites provinciaux est chargé de déployer et maintenir sur le terrain des équipes dans des sites situés dans les zones proches des endroits où opèrent les combattants. Ces sites sont presque toujours co-localisés avec les contingents militaires de la MONUSCO qui assurent la sécurité des équipes DDR/ RR et celle des ex-combattants désireux d’être démobilisés. A tout moment la section DDR/RR gère simultanément 25 sites sur le terrain.

La section DDR/RR utilise différentes méthodes de sensibilisation pour convaincre les combattants de retourner dans leur pays d’origine. La première méthode c’est l’emploi d’émissions radio diffusées au moyen de 14 stations radio FM mobiles déployées au niveau de nos sites sur le terrain. Ces radios transmettent des messages émanant des ex-combattants, des membres de leurs familles et des autorités locales, et incitant d’autres combattants à quitter la forêt et à retourner à la vie civile. Ces messages sont également diffusés sur Radio Okapi.

La section DDR/RR conçoit des dépliants contenant des messages émanant d’anciens combattants ainsi que des informations détaillées sur les processus de rapatriement et de démobilisation. Cela permet au combattant d’être mieux informé sur ce qui l’attend, et l’invite à prendre une décision éclairée concernant la prochaine étape de sa vie. Ces dépliants sont distribués soit manuellement soit largués par hélicoptère.

Cette dernière méthode permet à la campagne DDR/RR d’atteindre des zones inaccessibles par voie routière. La troisième façon de sensibiliser les combattants est de sensibiliser les communautés où ils vivent. Travailler avec les communautés locales demande du temps, mais se révèle payant sur le long terme. En matière de DDDR/RR la voix qui livre le message est souvent aussi importante que le message lui-même. C’est la raison pour laquelle nous essayons d’amener les communautés à participer autant que possible à l’effort de convaincre les combattants de regagner la vie civile.

Enfin, la section DDR/ RR mène également des négociations directes avec les combattants. Les équipes DDR/RR se sont spécialisées à développer des relations avec les combattants lorsque ceux-ci sont encore actifs. Les combattants ont souvent des préoccupations légitimes concernant leur sécurité, le sort de leurs familles et leurs futurs moyens d’existence. Ces négociations sont menées pour répondre à ces préoccupations individuelles afin de convaincre les combattants de sortir de la forêt.

2. Pouvez-vous expliquer la situation des groupes armés étrangers et congolais en RD Congo?

Oui - Il existe quatre principaux groupes armés étrangers opérant en République démocratique du Congo. Il y a d’abord les FDLR qui forment un groupe constitué d’anciens membres de l’armée et du gouvernement rwandais, mais aussi de réfugiés rwandais tous arrivés en RDC en 1994 après le génocide au Rwanda. Les FDLR représentent le plus grand groupe, dont l’effectif est estimé entre 2.000 et 2.500 combattants. Ces éléments sont présents dans les Kivu et dans certaines parties de la province du Katanga. Il y a ensuite les Forces démocratiques alliées (ADF. Allied Democratic Forces). C’est un groupe originaire d’Ouganda dont l’entrée en RDC date de la fin des années 1990. Il est d’obédience islamiste et cherche à instaurer la charia en Ouganda. Ce groupe s’entoure de beaucoup de mystère, mais nous estimons que ses forces se situent entre 500 et 800 combattants. Il opère dans la chaîne de montagnes du Rwenzori le long de la frontière avec l’Ouganda, l’est du territoire congolais de Beni.

Le troisième groupe est l’Armée de Résistance du Seigneur (LRA, Lord’s Resistance Army). Ce groupe rebelle ougandais existe depuis plus de 20, ans mais n’est entré en RDC qu’en 2005. La LRA est un groupe particulièrement violent qui a infligé des souffrances considérables aux civils dans ses zones d’opération. En RDC, la LRA est présente dans les territoires d’Uélé, en Province Orientale, mais ses éléments opèrent également dans l’est de la République centrafricaine et au Sud-Soudan. L’éloignement des ses bases fait que ce groupe soit particulièrement difficile à sensibiliser. Enfin. Il y à un groupe rebelle burundais appelé Forces nationales de Libération (FNL) qui a récemment relancé ses activités dans le Sud-Kivu.

Les FNL qui, naguère étaient intégrées dans le gouvernement et l’armée burundais, ont toutefois repris leurs activités après les élections burundaises de 2010. Les combattants congolais, eux, sont membres de différentes milices, allant de groupes d’auto défense à des groupes de bandits qui opèrent pour la plupart dans les Kivu. Il est important de comprendre que le DDR / RR ne fait qu’aider le gouvernement congolais à démobiliser les combattants congolais dont on estime qu’il reste environ 4 000 éléments dans les Kivu, 1000 d’entre eux étant membres des groupes armés étrangers tels que les FDLR or l’ADF.

3. Quels sont les succès à l’actif de la section DDR / RR en matière de rapatriement des groupes armés étrangers se trouvant en RDC ?

Depuis 2002 la section DDR/RR a rapatrié plus de 24.000 ex-combattants étrangers et membres de leurs familles dans leur pays d’origine. Le nombre de rapatriements a été presque trois fois plus élevé depuis le lancement des opérations militaires conjointes dans les Kivus, en 2009. Avant 2009 la section DDR/RR rapatriait en moyenne 50 combattants étrangers par mois aujourd’hui la moyenne mensuelle est d’environ 140. A ce chiffre s’ajoute un nombre presque égal de membres de leurs familles. La grande majorité des rapatriés est constituée de Rwandais membres des FDLR, mais il y en a également qui est issus d’autres groupes armés étrangers ainsi que des personnes étrangères qui étaient intégrées au sein des FARDC

La section DDR/RR a également aidé le gouvernement à démobiliser des milliers de combattants congolais. Le processus de DDR a connu différentes étapes au fil des ans. Aujourd’hui alors qu’on ne compte plus que 4.000 combattants congolais résiduels la section DDR/RR travaille avec le gouvernement pour mettre en place un processus approprié pour les combattants restants. Actuellement, le programme DDR/RR prend en charge environ 100 combattants congolais par mois, la plupart d’entre eux dans le Nord-Kivu.

Depuis mon arrivée il y a presque deux ans, il y a eu une amélioration générale de la situation et une réduction du nombre total de combattants illégaux en RDC. Le taux de rapatriement a aussi augmenté non seulement en nombre, mais aussi du point de vue du grade de ceux qui se rendent. Rien qu’en 2011, la section DDR/RR a rapatrié quelque 20 officiers FDLR, dont trois colonels et cinq majors : Au rythme actuel des défections les FDLR auront plus de mal à continuer d’exister qu’il y a un ou deux ans. La section DDR/RR a également favorisé les poursuites judiciaires engagées à l’encontre des dirigeants des FDLR. Grâce l’assistance apportée aux autorités allemandes et à la Cour pénale internationale, les trois plus hauts dirigeants des FDLR ont été arrêtés et sont en train d’être jugés en Europe. Leur arrestation a eu un impact significatif sur moral, la structure de commandement et le contrôle des FDLR et elles contribuent à susciter des défections incessantes au sein du groupe.

La section DDR/RR aide également les FARDC à former leurs officiers, notamment sur la façon de traiter les ex­combattants nationaux et étrangers, mais aussi sur les questions sexospécifiques et les droits de l’homme. En réduisant le nombre de combattants illégaux dans les Kivu, la section DDR / RR contribue à la restauration de la sécurité et à la création d’un environnement où le gouvernement peut reprendre le contrôle de son territoire. Ces deux éléments sont essentiels à la stabilisation du pays.

4. Quels sont les principaux défis auxquels fait face la section DDR/RR ?

La section DDR/RR a accompli ces succès en dépit de nombreux défis. Le premier défi est lié aux combattants eux-mêmes et à l’organisation qui tente de les empêcher de se rendre. Toutes les milices utilisent de la propagande pour créer la peur et la méfiance dans l’esprit des combattants afin de les empêcher de partir. Ainsi convaincre le combattant est une tache difficile.

En outre, les milices créent des barrières physiques en punissant ceux qui tentent de faire défection et parfois cette punition n’est autre que la mort. Il y a également des défis sécuritaires pour le personnel de DDR/RR. Nous représentons une menace significative pour l’existence de ces milices et, par conséquent notre relation avec eux n’est pas toujours amicale. Tenez au cours de l’année en cours un de nos sensibilisateurs a été enlevé et quelques-uns de nos membres ont été victimes d’une embuscade heureusement tout cela s’est soldé sans blessures physiques. Néanmoins le risque est là puisque la section DDRRR opère sur la ligne de front.

En outre, les groupes armés étrangers auxquels nous avons affaire se trouvent dans des zones reculées et ceux qui volontairement choisissent de se rendre au DDR/RR s’exposent à des menaces sécuritaires et à une punition de la part de leurs dirigeants. C’est là l’un des domaines où le DDR /RR doit relever d’importants défis logistiques les combattants désireux de quitter pour venir à nous doivent être rapidement retires de leur groupe. Leur extraction est rendue possible avec l’appui de la MONUSCO, qui, en dépit de ses énormes contraintes opérationnelles et ses moyens de transport et forces de sécurité mités répond, positivement à l’appel du DD/RR.

5. Pensez-vous quelle fonctionne, votre stratégie actuelle concernant les groupes armés étrangers ? Si non quelles nouvelles mesures envisagez-vous de mettre en place?

Je pense que la stratégie actuelle concernant les groupes armés étrangers fonctionne encore, mais nous devons faire mieux, nous adapter plus rapidement et plus efficacement. En élargissant notre réseau de sensibilisation et le cercle de nos partenaires, nous pouvons améliorer la livraison de nos messages de sensibilisation et notre capacité à contacter directement ces groupes armés sur le terrain. Je pense que le succès de notre stratégie est évident lorsqu’on considère le nombre mais aussi le grade de ceux qui se rendent à la MONUSCO et de plus en plus aux FARDC. Toutefois, le fait que des corn battants illégaux infligent encore peines et souffrances aux populations congolaises signifie que nous avons encore beaucoup de travail à faire.

Le Palmarès

12 juin 2011

6月7日 le mardi 7 juin 2011 外務省「海外安全ホームページ」 site du M.A.E. «overseas safety HP»

Le mardi 7 juin 2011
快晴。20℃、60%。

頻りに「大連立、大連立」という声が日本から聞こえてくる。これでは大政翼賛会ではないか。東日本大震災復興のためとはいえ、復興の方法、資金調達(増税、国際発行等)、都市計画等々で意見が政党や地方によって異なって当然ではないか。大連立内閣なんてとんでもない。民主主義を理解していない。

12日からアルバイトでキンシャサ出張の話があった。アルバイトとは日仏通訳である。それがキャンセルになった。日本からのミッションがキャンセルになったのではない。日本大使館が、いや、北澤日本大使の機転で外部から通訳を呼ぶ必要がなくなったのである。即ち、在DRCコンゴ・キンシャサ日本大使館館員が通訳をするというのである。しかも、まる4日間にわたって。これで僕の仕事は取り上げられた。
キンシャサで大使にお会いし、直接カタンガ州の現状を伝え、善処をお願いする積もりだったが不可能になった。これまでことあるごとに厳しく北澤大使を批判してきたがしっぺ返しされたのである。
外務省による「海外安全ホームページ」に「カタンガ州南部においては、2011年2月にルブンバシ空港が武装グループにより一時占拠される事案が発生しましたが、現在、全般的には比較的平穏な治安情勢にあります」とある。「空港占拠」などない。これが茶番劇、猿芝居であったことは、既にこのブログに報告しているが、「空港占拠」などというデマを飛ばす、日本大使館は誤った情報を伝えていることの反省が全くない。
http://www2.anzen.mofa.go.jp/info/pchazardspecificinfo.asp?infocode=2011T080

首都キンシャサや西隣のバ・コンゴ州にはODAが使われているが、カタンガ州にはODAも「草の根無償」もない。この不公平さ。北澤大使にはいいたいことがたくさんあった。
僕が北澤大使の立場なら、批判されても誤解を解くために批判者にあうであろう。これで批判が誤解ではないことを大使ご自身が証明したと僕は考える。
僕がアルバイトできないことで、日本政府としては、僅かだが国民の税金を節約できたわけである。そういう大義名分がある。ずいぶん有能な大使だと感服する。知りませんでした。

(画像は日本に数年前に帰国時に新聞社のインタヴューを受けたときのもの。来年停年退職される出あろう)。

6月6日 le lundi 6 juin 2011 ブラザビル熱帯森林国会議 réunion des pays forêts tropiques à Brazzaville

Le lundi 6 juin 2011
快晴。7時、20℃、57,5%。

ネット新聞『AfricaTime.com』から。
コンゴ共和国(首都ブラザビル)でこのほど、熱帯森林国会議が開催された。CO2公害をもたらしている先進工業国に対して、参加国は「もっと公害を減らすよう努力せよ」と宣言する。熱帯森林国のうち、もっとも大きな森林面積をもつのは、勿論アマゾンのあるブラジル、コンゴ盆地のRDCコンゴ(キンシャサ)そしてボルネオ・メコンである。
この会議の目的はなにか。
熱帯森林保護を前面にだしているが、要は先進国に「だから、金を出せ」というものだと僕は了解している。現在、熱帯森林をもつ国々がどんな保存保護努力をしているかは全くみえてこない。いっそのこと、熱帯森林は幾つもの国にまたがっているのだから、領土主権から切り離して、国連に新しい熱帯森林保護監視機関を創設してしまえばいいのだが、各国の利権が渦巻いて、とてもそんなことはできないだろう。
熱帯森林戦争が始まっている。

Environnement : Denis Sassou N’Guesso appelle les pays pollueurs à prendre leurs responsabilités
(Congo 06/06/2011)

Le Chef de l’Etat congolais a indiqué le 3 juin à Brazzaville que la contribution des forêts tropicales à l’équilibre écologique mondial sera efficace si les pays pollueurs prenaient leurs responsabilités en réduisant leurs émissions de gaz à effet de serre.

Il s’est exprimé à l’ouverture du sommet des Chefs d’Etat et de Gouvernement des trois bassins forestiers tropicaux du monde à savoir l’Amazonie, le Congo et le Bornéo Mékong.

«En effet, devant les grandes menaces liées au dérèglement et au changement climatiques, les forêts tropicales constituent une solution prépondérante pour la régulation du climat et l’avenir de l’humanité. A elles seules, elles séquestrent annuellement 271 millions de tonnes de carbone, soit près de la moitié des stocks mondiaux. Les préserver durablement est donc notre devoir, notre responsabilité collective pour qu’elles soient le lieu privilégié de la solidarité internationale», a déclaré Denis Sassou N’Guesso.

C’est pour la première fois que se tienne un sommet sur ces trois bassins représentant 80% des forêts tropicales du monde et 2/3 de la biodiversité terrestre. Selon le Président Sassou N’Guesso, les forêts tropicales font l’objet des enjeux écologique et socioéconomique. Au-delà de la nécessité de préservation, se trouve celle d’assurer les fonctions économiques et sociales de ces forêts.

«Le grand pari pour nous étant d’établir, toujours, un lien nécessaire et intelligent entre la ’’gestion forestière durable’’ et le développement de nos pays. Les efforts que la communauté internationale exige de nous en matière de gestion durable doivent être soutenus financièrement et matériellement, conformément au plan de Bali», a souligné le Chef de l’Etat congolais.


Les forêts de la République du Congo occupent 10% des forêts du bassin du Congo. Dans le cadre de la conservation et la gestion durable des écosystèmes forestiers, le Gouvernement congolais a entrepris une série de mesures. L’on peut énumérer l’adoption du RPP REDD+ ; la certification FSC de grandes concessions forestières sur une étendue de 2,5 millions d’hectares ; la réduction de la déforestation et l’aménagement forestier durable de 5 millions d’hectares ; la mise en place d’un système de traçabilité des bois dans le cadre des accords de partenariat avec l’Union européenne (UE).

Aussi, la législation forestière congolaise fait obligation aux sociétés d’exploitation forestière de transformer près de 80% de bois dans le pays.

Le sommet de Brazzaville a réuni les Chefs d’Etat du Congo-Brazzaville, de la République démocratique du Congo (RDC), du Gabon, de la République centrafricaine (RCA), de Guinée équatoriale, de Sao Tome et Principe et de Guyana. Les autres pays membres de cet espace ont été représentés par leurs premiers ministres et leurs ministres en charge de forêt et de l’environnement.

Les assises de la capitale congolaise devraient permettre aux pays des trois bassins forestiers tropicaux d’adopter une position commune avant la conférence des parties sur le changement climatique qui se tiendra en fin 2011 à Durban (Afrique du Sud) et le sommet de Rio (Brésil) en 2012.

Parlant au nom des pays du bassin du Congo, le Président de la RDC, Joseph kabila, a souligné les efforts des pays de la région en matière de forêt, notamment avec la mise en place de la Commission des forêts d’Afrique centrale (COMIFAC) dont son pays assure actuellement la présidence tournante.

Il a salué la tenue du sommet de Brazzaville qui selon lui devrait déboucher sur une position commune des pays des trois bassins forestiers tropicaux du monde. La RDC dont les forêts constituent 57% des forêts du bassin du Congo, dispose de 25 millions d’hectares d’aires protégées, soit 12% du territoire.

Pour sa part, le Président de Guyana, Bharrat Jagdeo, qui a parlé au nom des pays de l’Amazonie, a fait savoir que les pays pollueurs devraient honorer leurs engagements d’apporter leurs appuis financiers nécessaires à la préservation des forêts tropicales.

Vendredi 3 Juin 2011
Christian Brice Elion

6月5日 le demanche 5 juin 2011 フランス大使任期満了 dèpart de l'ambassade de la France à Kin

Le dimanche 5 juin 2011
快晴。7時、20℃、57,5%。肌寒い。一点の雲もない青空。

17時、断水。45分間。続いて19時から停電。これは20分で回復。

キンシャサ駐在のフランス大使ピエール・ジャクモが帰国する。32ヶ月の任期だった。かれが赴任した3年前のRDCコンゴと今日を比べると、内戦状態は大いに改善したようだ。RDCコンゴの東部ではなお戦闘が見られるものの、平和への努力は着実に実っているとRDCコンゴ政府の努力を認める。大使自身も東部戦闘地帯を数回視察している。日本大使が東部に行けば「何しに来たの」と政府軍にも反政府軍にもいわれるだろうし、彼が東部に行くこともありえない。難民キャンプには国連にくっついていくかもしれない。それもないだろう。ルブンバシにさえ来たことがないのだから。本省に駄目だといわれるから来ない?しかし、本省にカタンガは危険だと言わせているのは誰なのか。
大統領選挙については「如何に民主的に行われるか監視するぞ」と声を強めることを忘れない。フランスもUSA同様、民主主義外交を展開してきている。民主主義は普遍的価値だけれども、フランスはフランスにとって都合のよい民主主義を要請するのだ。しかも近年は武力も行使する。リビアやコート・ジボワールの例はRDCコンゴにとって他人ごとではない。

RDC, Pierre Jacquemot l'ambassadeur de France s'en va
03/06/2011 à 18h14

Fin mandat, le bilan dressé par l’ambassadeur de France en RDC lors d’un point de presse, donne de la matière pour une réflexion responsable. Portant notamment sur les questions sécuritaire et du processus électoral, les observations du plénipotentiaire d’un pays membre du Conseil de sécurité, réputée proche de la RDC, méritent une attention particulière. «Il existe encore un potentiel déstabilisateur à l’Est de la RDC, mais la donne n’est plus la même qu’il y a trois ans», précise Pierre Jacquemot.

Des efforts sont encore à fournir pour éteindre le brasier de l’Est. L’intensité des affrontements et du conflit est sensiblement réduite. La situation sécuritaire demeure extrêmement fragile suite à la présence de la LRA dans la Province Orientale et les FDLR dans les montagnes de l’Est. Pendant les 32 mois passés en RDC, plusieurs voyages effectués à l’Est, le diplomate français comprend les souffrances de plus d’un million de déplacés à la suite des affrontements. La France pèse de tout son poids lors des votes des résolutions sur la RDC. L’implication de la France dans le processus de reconstruction des Forces armées de la République démocratique du Congo et de la Police nationale congolaise vise justement la consolidation de la paix et de la sécurité. Par ailleurs, une coopération régionale plus agissante dans la sous-région des Grands Lacs africains pourrait résoudre beaucoup de problèmes sécuritaires. Telle est la position de la France. De même, l’axe Kinshasa – Luanda et Brazzaville – devrait bénéficier d’un regard particulier, après la normalisation avec Kigali. Quant à l’organisation des élections, le diplomate salue les efforts consentis jusque-là par les autorités congolaises. Par rapport à la tenue effective des scrutins à la date du 28 novembre prochain telle qu’annoncée par le pasteur-président de la CENI Ngoy Mulunda, l’ambassadeur de France n’émet pas un quelconque jugement : «Il ne nous appartient pas d’en douter». Pierre jacquemot se réjouit qu’en peu de temps, déjà 21 millions d’électeurs se sont enregistrés face à des prévisions de 31 millions d’enrôlés attendus. «On tiendra le délai en ce qui concerne l’enregistrement des électeurs», estime le diplomate français en fin de mandat. La comparaison avec la Côte d’Ivoire qui a mis 4 ans pour la même opération incite à l’optimisme.

Toutefois, en ami, l’ambassadeur de France pense que quatre critères devront conduire à des élections crédibles et apaisées : «la stabilité du cadre général, la non exclusion des candidats, la liberté d’expression et des réunions et l’indépendance de la CENI». Sur ces points, son pays ainsi que les autres partenaires au sein de l’Union européenne resteront «très vigilants». Pour des adieux, Pierre jacquemot ne pouvait pas dire mieux.

En prenant ses fonctions à Kinshasa, le mercredi 17 septembre 2008, voilà ce qu' avait dit Pierre Jacquemot, alors nouvel ambassadeur de France en République Démocratique du Congo:
(以下略)

11 juin 2011

6月4日 le samedi 3 juin 2011 契約の透明性 transparence des contrats gouvernementaux

Le samedi 4 juin 2011
快晴。7時、21℃、60%。

誕生日。歳を重ねるのが嫌になる。サガンFrançoise Saganが云っていたように、僕は「30歳代から歳をとらない」と宣言しているものの、確実に老齢の印が肉体に現れてくる。サガンが観察したのは「年齢のない30代」というものだったので、その「その30代から、年齢のないまま歳を経る」というのが僕の宣言だった。1990年代にTVでサガンをみて、年取ったなぁとびっくりしたが、当然のこと彼女はそのとき60歳に近かったのである。僕が持っていた彼女のイメージは、お河童頭の少女の姿だったから、その乖離がショックだった。

サロンの時計が止まった。12時10分だった。それを14時45分に気づいた。電池はDuracellが入っていた。もうない。中国製のVinicに取り合えず交換した。

テニス。フランスのロラン・ガロスRoland Garrosで女子はLi, Na(李娜)が優勝した。中国だ。以前男子では、中国系アメリカ人のマイケル・チャンがロラン・ガロスで優勝しているが、彼は中国人とはいえ米国籍だ。Na Liの快挙。こういうイヴェントのときはTVが欲しいなと思う。

今夜のメニューは特別。スタートはアスパラガスとスモークト・サーモンのレモン添え。レモンはフランシスコ会の庭のレモンだ。チーズも加えた。メインはショウガ焼肉。デザートはブルーベリーのお菓子。ちょっと和洋折衷。でもショウガもお米も中国産。アフリカらしさはない。

「キンシャサ政府が鉱山、原油および森林の契約を公開」
しかし、この政府決定は将来の契約について適用されるにすぎず、政府は過去の契約の公開義務を負っていない。これからの契約を全てインタネットの鉱山省サイトに載せるというもの。
これまで契約が不透明で、腐敗の温床と見られて多くの批判を受けていた。官報でも勿論契約内容がアナウンスされるわけだが、公開しない特別条項、契約の改定などについて、特段の制限が課されているわけではない。実効性が問われると思われる。
またこの措置は、首相、鉱山大臣、エネルギー大臣、環境大臣による命令であって、国会で審議され成立した法律ではない点も弱いと考える。
(画像はRDCコンゴ首相アドルフ・ムジトAdolphe Muzito。1957年生まれ。第21代首相。大統領は現在4代目だが、首相は1960年の独立以来くrくる変わった。ムジトは2008年10月から現職。「統一ルムンバ党」のNo,2。同党の党首は前首相で、ムジノの叔父にあたるアントワヌ・ジゼンガAntoine Gizenga)。

RDC : le gouvernement rend publics les contrats miniers et forestiers
03/06/2011 à 19h:16 Par Jeune Afrique

La RDC a annoncé vendredi avoir signé un décret visant à faire publier tous les nouveaux contrats miniers, pétroliers ou forestiers. Mais rien n’oblige le gouvernement à faire la lumière sur les anciens contrats tant décriés pour leur opacité par les ONG et l’opposition.
La République démocratique du Congo (RDC) deviendrait-elle plus transparente ? C’est du moins ce que tient à proclamer le gouvernement, à quelques mois des élections générales - présidentielle et législatives - prévues en octobre 2011. La preuve, la voici : selon un décret daté du 20 mai, publié sur le site du ministère des Mines, la RDC publiera désormais ses contrats signés dans les secteurs minier, pétrolier et forestier. Chiche ?
« Tout contrat conclu entre l'État congolais ou une entreprise publique et une société nationale ou étrangère pour l'exploration ou l'exploitation des ressources minières, pétrolières ou forestières sera publié dans les soixante jours suivant son entrée vigueur », indique le décret signé par le Premier ministre et les ministres des Mines, de l'Énergie et de l'Environnement.
Accords opaques
Le Journal officiel aura pour mission de publier les contrats, comme les sites internet des ministères concernés et les quotidiens locaux. L'ONG Global Witness, qui traque la corruption partout dans le monde, ne boude pas son plaisir : elle réclamait depuis plusieurs années une telle mesure « qui pourrait contribuer à réduire la corruption dans le pays si elle est pleinement appliquée », a-t-elle commenté vendredi dans un communiqué.
Le revers de la médaille : rien ne dit que l’annonce sera suivie d’effets réellement positifs. Des clauses contractuelles secrètes peuvent être envisagées et les moyens d’évasion fiscale sont si sophistiqués que même un gouvernement fortement déterminé a du mal à éradiquer la corruption. L'ONG regrette d’ailleurs la non-publication - à ce jour - des accords opaques conclus en 2010 dans les secteurs pétrolier et miniers avec des entreprises inconnues jusque-là.
Tout pour réussir
Autre problème : les modifications au contrat mines contre infrastructures signé en 2007 entre Kinshasa et un groupement d'entreprises chinoises restent secrètes. Le montant du contrat avait été pourtant sérieusement revu à la baisse en 2009, passant de 9 à 6 milliards de dollars.
La RDC a tout pour réussir : grande comme les deux tiers de l'Europe occidentale, elle possède un tiers des réserves mondiales de cobalt, produit 18% des diamants du monde. Mais cette richesse, présente notamment au Katanga, est aussi une malédiction : dans l'est du pays, la concurrence autour des minerais, dont l'étain et le tantale (tous les deux largement employés dans le secteur de l'électronique) alimente un conflit de longue date, rappelle Global Witness. (avec AFP)

6月2、3日 les 2 et 3 juin 2011 ベルギー副首相、ルブンバシ訪問 vice-premier ministre belge à Lubumbashi

Le jeudi 2 juin 2011
快晴。7時、気温22℃、湿度60%

ワールド・ビジョン・ジャパンのMさんとゴルフ地区のホテルでお会いした。3月にWVとDRCコンゴの子供のチャイルド・スポンサーとして契約しているTさんがルブンバシに来られた。そのときのWVルブンバシの対応が不適切であったとのレポートがTさんからWVジャパンに出ていた、僕のところからもWV本部等に調査と担当者の処分を申し込んでいた。Mさんは、やはりWV\ルブンバシの責任者(無責任者)などとは全く異なる人格の方だった。WVは大組織だが、しっかりしたマニュアルをもっている。倫理規定なども整備されている。ただRDCコンゴが守っていないだけと良くわかった。
Mさんは5年以上東アフリカを担当されていたベテラン。WVルブンバシに厳しい注文を出したとおっしゃっていた。

Le vendredi 3 juin 2011
快晴、7時、気温22℃、湿度60%、

アボカドの季節は終わったようだ。残念だなぁ。

ベルギーの副首相兼外務大臣がRDCコンゴを訪問していた。72時間だが、そのうち24時間はルブンバシ訪問に当てられた。
今回のRDC公式訪問は両国の関係修復前進のためであるが、それなりの効果を挙げたようだ。ベルギー側の関心は、1)借金の棒引きとあらたな投資、2)民主的な大統領選挙である。記事にはないが、ベルギーは危険分散のために、海外パートナーを探しているもようである。英国やカナダなどとのタイアップをしながらRDC市場に慎重に投資したい意向だ。

Fin du séjour de travail en Rdc du vice-Premier ministre belge Steven Vanackere
Kinshasa, 02/06/2011 / Politique
Le vice-Premier ministre, ministre belge des Affaires étrangères, M. Steven Vanackere, a quitté Kinshasa mercredi pour Bujumbura, au Burundi, via Lubumbashi, après un séjour de travail de 72 heures en République Démocratique du Congo.
Arrivé dimanche dans la capitale congolaise, le chef de la diplomatie belge a eu d’importants contacts avec le Président de la République, Joseph Kabila, le ministre des Affaires étrangères, Alexis Thambwe Mwamba, le bureau de l’Assemblée nationale, les responsables de la Commission électorale nationale indépendante (CENI) et le ministre a.i. des Transports et des voies de communication, Martin Kabwelulu.

De toutes ces entrevues, il s’est dégagé la volonté du gouvernement belge d’accompagner la République Démocratique du Congo dans ses efforts pour le développement. La Belgique demeure attentive en l’avenir de la RDC, a affirmé Steven Vanackere à l’issue d’un entretien mardi avec Joseph Kabila.

Mais auparavant, il avait déjà signé avec son homologue congolais des Affaires étrangères un protocole de remise de dette, portant sur un montant de 23 millions d’euros, pour compenser les efforts au développement de la RDC.

Des élections, il en a été ainsi question au cours du séjour de M. Vanackere qui a confirmé le soutien de son pays à l’organisation des élections démocratiques en RDC. Il a visité quelques centres d’enrôlement et demandé à l’Assemblée nationale de multiplier des initiatives pour la tenue des élections crédibles en RDC.

Le secteur des transports a été également au centre des préoccupations de l’homme d’Etat belge, dont le pays sponsorise la modernisation du trafic urbain à Kinshasa, en partenariat avec la Société commerciale de transport et des ports (SCTP).

ACP

6月1日 le mercredi 1er juin イタリアが借金棒引き annulation des dettes par Italie

Le mercredi 1er juin 2011
快晴。7時、気温24℃、湿度60%。

6時半から停電。7時50分、回復。

検察で司法官ステラ担当官と面談。弁護士がついてきたが、アラン君の友人だというこの弁護士も、アラン君には悪いが役立たずだ。こんなのは一緒に来ないほうがまし。司法官はかなりの美人であったが、仕事とモラルは腐っていた。警察のジャン・リュックを批判しながら、ジャン・リュックと同じ質問をし同じ調書を作成した。弁護士がジャン・リュックから受け取ったCの選挙人カードを検察に提出し、Cが未成年ではないことを検察も認めた。調書作成代金は他人(弁護士)の手前、請求してこなかった。司法官は、さらに両替人や宝飾店のオーナーなどを捕らえて僕の損害を軽減することができるといったが、それには「モチベイション」として200ドルかかるという。「そら来た」と思ったから、僕は、保証のない限り一銭も払わないと伝えた。現金を両替商からxドル以上、指輪など宝石類を全部とりもどすとことを約す文書を作れといってみた。勿論検察が、あるいは担当官個人の資格でも、そんな証文を書けるわけがないことは十分僕も承知だ。だから、これは、これ以上費用をかけないことにした決意なのだ。別に言えば盗難被害を諦めるということである。シスター。アスンタさんいも相談して決めたことだ。公務員の倫理の欠如は、恥ずかしげもなく金を要求することだ。同行した弁護士も検察には捜査する金がないといって憚らない。彼のいうとおりだろう。しかし、それがどんなに恥辱であるか、もはや司直も弁護士も麻痺してしまって感じないのだ。
ともかく、少なくともCには反省してもらうために塀の中に入ってもらう。
この国の警察も司法も腐っている。それが結論。自己防衛する以外ない。

イタリアとオランダがRDCコンゴの借金帳消しに応じた。総額イタリアが7億4000万ドル、オランダが4億ドルの債権を放棄した。
先日はベルギーが7億7300万ドル、過ぐる4月にはアメリカが18億2300万ドルの帳消しをしている。
IMFや世銀は既に謝金を棒引きした。これだけ借金を軽くしてもらったRDCである。あとは新たな借金を控えて、海外投資を呼び込み、「一所懸命働く」ことだ。地下資源が豊か過ぎるほど豊かなのが不幸を呼んでいる。
30年前の中国は「眠れる獅子」と云われたが今やGNPで日本を追越した。カーニバルの山車しか取柄のなかったブラジルがGNP世界8位に浮上している。「立て、コンゴの民よ」(RDCコンゴの国歌はこの言葉から始まる)。ところが、座念ながらコンゴ人の一般国民の間にはファタリスム(諦念)が蔓延っているように思われる。チュニジアから始まったアラブ民主革命がサハラ以南のブラック・アフリカに飛び火するには時間がかかる。

Dette extérieure de la RDC : l’Italie et les Pays-Bas annulent 1140 millions USD

Les ambassadeurs d’Italie et des Pays-Bas ont signé, mardi 31 mai, avec le ministre congolais des Finances, Matata Ponyo, un accord portant respectivement annulation d’environ 740 millions et 400 millions USD.
Pour l’Italie, cette annulation représente un allègement de 100% de la dette que doit la RDC à ce pays.
Ce geste de l’Italie et la Hollande, membres du club de Paris, intervient dans le cadre de l’effacement de la totalité de la dette extérieure du pays par le club de Paris, annoncée jeudi 18 novembre 2010. Au total, 7,35 milliards Usd ont été annulés.
Cet allégement a été consécutif à l’atteinte par la RDC du point d’achèvement de l’initiative des Pays pauvres très endettés (PPTE) en fin juin 2010, qui a entraîné l’éffacement de 12 mlliards USD.
La veille, la Belgique avait, quant à elle, annulé 773 millions USD et quelques mois plutôt les Etats-Unis s’étaient livré au même exercice.
L’accord relatif à l’annulation de la totalité de la dette de la RDC vis-à-vis des Etats-Unis d’Amérique a été signé, le mardi 26 avril, à Kinshasa. Cette dette s’élevait à environ 1, 823 milliards USD.
(国連オカピ放送)

5月30、31日 les 30 e5 31 mai 20// 検察 parquet

Le lundi 30 mai 2011
快晴。7時、気温22℃、湿度60%。

弁護士が警察の担当に圧力をかけるのに、トップに面談するのはいいことだ、といっていたこともあり、警察のトップをシスター・アスンタの知人である交通警察のトップから紹介してもらって面談した。コロネル(大佐)の肩書。慇懃であった。多忙を極めているようだ。ジャン・リュックも大佐の部屋に呼び出された。しかし、この担当は、老獪というか、大佐も誤魔化されてしまうような一筋縄ではいかない男だ。捜査は続けるようなことを口先ではいっているが真意はもう違うところを彷徨っている,、と僕はみた。忙しい人物とはいえ、2時間以上待たされた挙句の、とおりいっぺんの会談であった。実りはないであろう。

19時、停電。19時15分に回復。

Le mardi 31 mai 2011
快晴。7時、気温22℃、湿度60%。これが昼になると、気温26℃、湿度50%となる。このところいつもこんな天気。

7時に起床したとき、既に停電していたが、7時半に回復。

検察からCの起訴について電話があった。起訴手続きに50ドルかかるのだそうだ。刑事事件で裁判費用が被害者に発生するとは情けない。弁護士に聞くと払う必要はないというが。また考えられないことに、Cが「自分は未成年である。また窃盗をした覚えはない、無実だ」と言い出したのだそうだ。刑務所に入るのが怖くなったのだろう。それにしてもジャン・リュックの書類が不備なようだ。どこまで被害者を馬鹿にしたら済むのだろうか。
(画像はルブンバシの裁判所。中に検察も入っている。去年2010年、独立50周年でペンキを塗りかえたので、外観は悪くない。しかし、建物の中は荒れ放題。無秩序。法を守る殿堂の雰囲気はかけらもない)。