30 mars 2013

3月30日 アフリカの社会主義 socialisme en Afrique (Comment le Mozambique a cessé d'être marxiste)


Le samedi 30 mars 2013
7時半、快晴、24℃、62,5%。カタンガ晴れ。

明日は復活祭。4時に起きてシスタ・アスンタ佐野さんのところに行く。そこで看護士修行をしている天使大学のAさんが帰国するからだ。Aさん、ご苦労様でした。

中央アフリカ国の首都バンギは治安を取り戻せず略奪に晒されているようだ。商店や民家を襲う連中が絶えない。この現象はRDCコンゴで政変があったときも起こっている。モブツが逃げ出したとき、現大統領の父親LDカビラが暗殺されたとき、大都市(キンシャサやルブンバシ)では略奪が横行した。僕のいるキプシはルブンバシから南西に30kmだが、事情が既に異なっていて何れのときも略奪がなかった。比較的小都市であるためお互いの監視がきいていたのであろう。大都市では匿名性が犯罪を助長する。
バンギの略奪行為は軍と警察が立直るまで暫く続くだろう。

下の記事は「如何にしてモザンビークはマルクス主義者ではなくなったか」というもの。出所はBBC
モザンビークは社会主義国だったが、その体制下ですでに長期内戦が続いていた(1976年~92年)。ポルトガルから独立したのが他のアフリカ諸国よりもかなり遅れて1975年だから、独立後すぐに内戦に突入したわけだ。この内戦にはRDCコンゴの例と同じように隣接外国が介入していた。最初はローデシア(現在のジンバブウェ)、その後は南アであった。内戦が終わって民主化へとむかうのだが、複数政党の時代になっても一党独裁だったころの政党FRELIMOが圧倒的に強い。しかし、ベルリンの壁が崩される前1985年ころから既に社会主義的計画経済の修正が始まっていた。こうした傾向は同じくポルトガルから独立したアンゴラも同様の道を歩んでいる。
ソ連の崩壊はアフリカ大陸の社会主義国に直接の影響をもたらした。社会主義体制の維持ができなかった。東西対立による均衡が崩れたのである。ところが政権が交代したわけではなく、そのまま政策転換、社会主義から粗野な資本主義にさえ移行する背景には軍隊がある。軍を握っている中央政府はそのまま居座ることが出来たのである。軍は中立どころか軍と社会主義政府は一体であったし、社会主義とはいうものの、市民から起こった革命で選択した体制ではなく、一部エリート(インテリ)軍人が主導した植民地独立運動の結果としての社会主義体制であったにすぎない。だから、みんなが貧しかった時代から極端な貧富格差を生む時代を社会主義体制の中で育んできたといえる。そしてアフリカでこのごろ増えてきている「産油国化」は格差を助長している。モザンビークでは天然ガスが国家収入を2018年には劇的に買えてしまうようである。
アフリカが中産階級の厚みを増し、民主主義体制を確立するまでにはこれからも紆余曲折があろうし、長い時間がかかるであろう。
モザンビーク共和国国旗
社会主義国家の名残が国旗にはある。
アンゴラ共和国国旗
こちらも社会主義国家だった。


Comment le Mozambique a cessé d'être marxiste
Le plan d'ajustement structurel de 1987 a été une véritable aubaine pour le pays.
Dans les rues du Maputo des années 1980, les fresques murales dépeignaient la vie des paysans, travailleurs ou des soldats, poings levés et fusil AK-47 à l'épaule.

Trente ans après, les murs de la capitale du Mozambique ne sont pas moins bariolés, mais les messages de révolution sont devenus des slogans publicitaires.

Bouteilles de Coca-Cola ou diverses pubs de compagnies de téléphone décorent la ville.

«Comparer l'iconographie des murs de Maputo aujourd’hui avec celle de la fin des années 1970 donne une idée de la distance idéologique traversée par le pays», explique la BBC.

Dans les années 1980, l'hymne national parlait de faire du Mozambique «le tombeau du capitalisme et de l’exploitation».

Le tournant du marxisme à l’économie de marché s’est opéré en 1985, lorsque le Mozambique rejoint la Banque mondiale et le Font monétaire international et surtout en 1987, lorsqu’il lance son premier programme d’ajustement structurel.

«Certains ont vu ces changements comme une diversion temporaire, supposant que la marche vers une société sans classes reprendrait dans un future proche.»

C’est le contraire qui se produit. Dévaluations, fin du contrôle de prix, privatisations… en 1989, Frelimo se débarrasse de l’appellation «marxiste-léniniste».

La paix arrive. 1992 sonne la fin d’une guerre civile longue de 15 ans. Le pays est en ruine, tout est à reconstruire. Frelimo remporte les premières élections présidentielles, et toutes celles qui suivront par la suite.

Depuis, l’économie du Mozambique continue de grimper. Le pays regorge de charbon et, surtout, de réserves en gaz naturel qui pourrait faire du pays l'un des principaux producteurs de gaz liquéfié d'ici à 2018. En parallèle, les inégalités augmentent elles aussi.    

29 mars 2013

3月29日 アフリカからホワイト・ハウスに招待されるには? Chefs d’etat africains chez Obama: Ne va pas à la Maison blanche qui veut

Le vendredi 29 mars 2013
7時、快晴、23℃、67.5%。カタンガ晴れ。

今日の日経新聞電子版(速報)から、
「コンゴPKO、攻撃を容認 従来原則から踏み込む
2013/3/29 9:50

 【ニューヨーク=共同】国連安全保障理事会は28日、武装勢力の活動による混乱が続くコンゴ(旧ザイール)に展開する国連平和維持活動(PKO)の任務を拡大し、武装勢力に対する攻撃を認める決議を全会一致で採択した。PKOの任務を遂行するため、部隊への攻撃を繰り返す武装勢力に対抗し「無力化と武装解除」を行うことを目的としている。

 PKOに「平和の強制執行」の任務が与えられるのは1990年代のソマリア以来。PKOの武力行使はこれまで自衛や文民保護目的が原則だったのに比べ、踏み込んだ権限が与えられた。一部理事国の懸念もあり、決議には「例外的」「前例としない」との文言が盛り込まれた。

 決議は国連コンゴ安定化派遣団(MONUSCO)に「武装集団の拡大を防ぎ、無力化し、武装解除するため」として武力介入の部隊を設置すると規定。「目的を絞った攻撃行動を実行する」とした。」
この安保理の決定は予定通りだが、具体的にどう実施するのだろうか注目したい。どこの国の派遣軍が戦争を担うのか。日本の自衛隊は実戦を伴うので参加が出来ない筈。
武力介入が難しいときもある。たとえば北の隣国中央アフリカ国で起こったような反政府軍によるクーデタが用意された場合、政府軍に味方して反政府軍を叩くのは必ずしも国家の安定平和に寄与するわけではないのである。

この間ルブンバシの動物園に行ったとき、そういえばサーバルserval猫がいた。マリ北部奪回作戦の名前になった猫である。
マリの地元紙『L’independentランデパンダン』によれば、今年111日に始まったこの戦争で今までにフランス兵が5名、トーゴ国の兵が2名、ブルキナ・ファソ国が1名、そして当事国マリ軍の兵が63名戦死している。2月末時点でのマリ兵の戦死は37名だったので3月に入って大幅に増えたわけである。マリ兵の戦死が余り話題にならないのは西欧のメディアが報道しないからである。

米国のオバマ大統領が328日(木)ホワイト・ハウスに4人のアフリカ大陸の指導者を招いた。セネガルのマッキー・サル大統領、シエラ・レオーネのエルネスト・バイ=コロマ大統領、マラウィのジョイス・バンダ大統領、カボ・ベルデのジョゼ=マリア・ペレイラ=ネベス首相の4人である。2011年にもアフリカ大陸の国の元首を招いている。そのときはベナンのトマ・ヤイ=ボニ大統領、ギニアのアルファ・コンデ大統領、ナイジェリアのマハマドゥ・イスフ大統領、コート・ジボワールのアラサヌ・ウアタラ大統領だった。
彼らはいずれもそれぞれの国民から民主的な選挙によって選ばれた指導者たちである。小浜大統領がアフリカで訪問した国は2009年のガーナだけである。
オバマ大統領の考えは、アフリカに豪腕の指導者は不要である、しっかりした民主的体制こそが望まれるというものだ。従って、独裁者なり長期政権を誇る鉄腕指導者はホワイト・ハウスに呼ばれない。前の大統領G.W.ブッシュとは対照的に旗幟鮮明に「民主化」を前面に出した外交をしているといえる。
アフリカ大陸にはしかし招待状を受けてはないが、ボツワナ、南ア、タンザニア、ザンビア等民主的な国がある。一方、まだ独裁といわれる大統領が君臨している国々がある。僕はオバマ大統領が父の国ケニアを始め多くのアフリカ諸国を巡るべきだと思う。中東まで先日来たが、アフリカにもっと関心をもっていいのではないか。
RDCコンゴは民主的な国には数えられないだろう。しかし、東部の内戦を解決し、民主的でクリーンな選挙を実現できれば、アフリカのブラジルとなれる潜在力がある国である。ならばオバマ大統領も難民キャンプ訪問などではなく、北キヴ州の州都ゴマ市でカビラ大統領と野党のチセケディを交えた会談を開いては如何。

Chefs d’etat africains chez Obama: Ne va pas à la Maison blanche qui veut…

le jeudi 28 mars 2013 Le pays(ブルキナ・ファソの日刊紙『ル・ペイ』電子版)

Sur invitation du président américain, Barack Obama, quatre têtes couronnées d’Afrique séjournent à la Maison blanche. Il s’agit des présidents sénégalais Macky Sall, sierra-léonais Ernest Bai Koroma, malawite Joyce Banda et du Premier ministre cap-verdien José Maria Pereira Neves. Cette rencontre de Washington précède une autre, celle de 2011, où Obama recevait cette fois-là le Béninois Thomas Yayi Boni, le Guinéen Alpha Condé, le Nigérien Mahamadou Issoufou et l’Ivoirien Alassane Ouattara. Il y a suffisamment de quoi se convaincre que le locataire de la Maison blanche reste accroché à son sacrement d’Accra, proféré en juillet 2007 devant la représentation nationale ghanéenne. Une mémorable déclaration stipulant que « l’Afrique a plutôt besoin d’institutions fortes et non d’hommes forts ». Comme pour montrer tout son attachement aux principes démocratiques, à la bonne gouvernance politique et économique, Obama ne reçoit que les présidents qui sont très peu reprochables en la matière. Bien sûr, au moment où il recevait Condé de la Guinée, ce pays venait d’opérer, pour la première fois de son histoire, une alternance démocratique issue d’une élection libre et transparente. Et beaucoup plaçaient leur confiance au président guinéen alors nouvellement élu mais qui commence à décevoir aujourd’hui. Il est fort à parier que ce dernier ne foulerait plus le tapis de la Maison blanche même s’il en exprimait aujourd’hui le besoin.

Contrairement à son prédécesseur George W. Bush qui recevait souvent des présidents, toutes moralités confondues, Barack Obama, lui, ne reçoit pas de dirigeants réfractaires aux règles du jeu démocratique et à l’alternance surtout. Ne va pas chez Obama qui veut, mais qui a très peu de choses à se reprocher sur sa gestion du pouvoir d’Etat. Nombre de dirigeants africains devraient être blessés dans leur amour-propre quand ils voient les élus de Obama défiler à la Maison blanche sans eux. Leur rêve d’être reçus par le président de la première puissance mondiale, devant les paparazzis, s’étiole. Or, ce rêve, beaucoup de têtes couronnées d’Afrique le caressent, quoiqu’on dise.

Toutefois, le tout n’est pas de dérouler le tapis rouge à quelques chefs d’Etat africains et de s’accrocher aux principes démocratiques. Obama semble laisser l’essentiel qui est aussi de défendre les intérêts de l’Afrique dans le concert des nations. Il entame son dernier mandat au moment où l’économie mondiale n’offre pas de facilités d’épanouissement aux économies africaines. Sur le plan du commerce, par exemple, l’Afrique négocie en vain, la suppression des subventions des cotonculteurs américains. Des subventions qui, faut-il le rappeler, faussent les règles du commerce international. On peut comprendre aussi que certains domaines échappent au contrôle du président Obama, surtout quand il s’agit de tout ce qui touche aux intérêts des lobbys américains dont on dit qu’ils détiennent le vrai pouvoir. En tous les cas, à l’orée de son dernier mandat, les Africains attendent de Obama, mieux que des visites ciblées de quelques dirigeants africains, la défense du continent face à l’agressivité des plus forts.

28 mars 2013

3月28日 南アより怖い国? Les pays d'Afrique où l'on se tue le plus


Le jeudi 28 mars 2013
7時半、快晴、2270

ネットは昨日から普通。また始まったか、というところだ。午後一番にVodashopに出掛けてクレームしたが、例のごとく「僕の所為じゃない、わたしの所為じゃない」ということでルブンバシでもネット不通になっている、キンシャサのコンピュータの所為だから仕方ないじゃないと全く従業員は動じない。ともかく僕の家だけが不通ではないらしいから今夜か明日には回復するだろう。しかし、彼らのいうことは信じられない。もしかしたら、またまた月極め契約をキンシャサが誤って処理したのかもしれない。
1840分、ネット回復。奇跡か。と思ったのは早合点。回復したものの「超遅い」。ブログ更新ができるかどうか危ぶまれる。

隣家のエマ(エマニュエルの略)君からアボカドを10個木からもいでもらって購入。120円。

断水が続いている。24日(日)17時からだ。今日で4日目。初めてのことだ。ポンプ小屋の電気ケーブルが老朽化して断線したためというが早く直して欲しい。以前は国営ジェカミン社が水を供給していた。キプシ市のジェカミンの事業は全てKico社に移管されたとするなら水も同様な筈だがどうなっているのだろう。汲置きの水がまだあるが苦しくなってきた。と、向かいの家で水が出だした。うちも回復間近か、期待をもたせるなぁ。
10時半、先ず裏庭の蛇口から水が出始めた。早速食器を洗った。

水が来たと思ったら今度は12時半に停電。14時、電気回復。13時半、外出中に再び断水が始まったらしい。18時半、また水が出始めた。

ルブンバシでマイ・マイ騒ぎがあった23日(土)、ベルギーが圧倒的早さで報道をしていた。ベルギーは領事館をルブンバシに置いている。国連や州政府との連絡網が出来上がっている。RDCコンゴは確かにベルギーの植民地だった。それだけにRDCコンゴについてフランスでは報道されないようなことでもベルギーではニュースになる。
在ルブンバシ市のベルギー人は全てSMSで領事館から当日外出を控えるようにとの注意が発せられた。

家で車のオイル交換、フィルター交換に成功。アンドレさんがレンガに混ぜるため古いオイルが欲しいので作業をした。

南アでは交通事故死が平均11 000人に対して2011年の殺人事件は16 000人であった。それでも1994年に比べると殺人事件は半分に減っている。しかし、1日平均43人が殺されているというのは相当な数字である。南アの殺人事件が特殊であるのは、80%以上の殺人が顔見知りの間で起こった事件であるということだ。夫が妻を殺し、従業員が雇い主を殺す。友達同士の喧嘩、麻薬のディーラーたちの縄張り争いなどが主な殺人である。
アフリカ大陸にあって南アが殺人事件のトップではない。ナイジェリアの方が南アに比べて殺人事件が多い。2011年でみれば18 422人がナイジェリアでは殺されている。しかし10万人あたりの殺人数では、ナイジェリアの人口は大きいので、南アの31.8人に対して12.2人に過ぎないということになる。ナイジェリアの場合、例のイスラミストのテロ集団、バコ・ハラムが殺人事件増大に一役かったのは確かである。しかし、それだけではない、司法や警察体制の脆弱さがあるため、私刑がアフリカでは横行している。窃盗の現行犯はその場でリンチに値する。このリンチについてはRDCコンゴの例を挙げて既に説明したが、アフリカで一般的な傾向である。ナイジェリアの南部ポート・ハーコート市での例は典型的であった。PC1台と携帯電話がなくなったことを理由に、4人の学生が疑われて殺されてしまったのである。
ナイジェリアの上をいくのが、コート・ジボワールである。10万人に56.9人が殺されている。これはホンジュラス、エル・サルバドル、ジャマイカに続いて世界4位。原因は失業、貧困、大きな貧富格差、数十年続いている政争が上げられよう。この原因はアフリカでは一般的といえる。従って、一般的に平和で内戦などのない国として知られるザンビア(10万人に38)、ウガンダ(36.3人)、マラウィ(36人)などでの殺人件数が意外と多いとい結果を生んでいるのである。
世界平均は6.9人である。アフリカ大陸で平均より少ないのは北アフリカで5.9人とサハラ以南と好対照になっている。ちなみに日本は血生臭い事件がよく新聞紙上を賑わせているように見えるが0.5人である。
統計の出所はONUDCOffice des Nations unies contre la drogue et le crime、国際連合薬物犯罪事務所、本部はウィーン、英語表記はUNODC)の2012年レポート。
UNODCはオーストリアのウィーンに本部がある。
画像の国連諸機関ビルの一角。
贅沢なものだなぁ。
Les pays d'Afrique où l'on se tue le plus

L’Afrique du Sud ou le Nigeria ont mauvaise réputation, mais ils ne détiennent pas la triste palme du plus grand nombre d’assassinats.

Certes, on déplore 16.000 meurtres au pays de Jacob Zuma, pour la seule année 2011. C’est beaucoup —une moyenne de 43 morts par jour et un taux de 31,8 assassinats pour 100.000 habitants.

Mais, c’est deux fois moins qu’en 1994, trois ans après la fin officielle de l’apartheid. Le pays, alors en proie à des violences politiques, s’est peu à peu pacifié.

Particularité sud-africaine: 80% des meurtres se font entre des personnes qui se connaissent déjà, selon la police.

Des maris tuent leur femme, des employés leur patron, des amis en viennent aux armes après des soirées trop arrosées, et des dealers de drogue se disputent les territoires dans les townships du Cap.

Au Nigeria, on recense 18.422 meurtres en 2011, selon les chiffres de l'ONUDC, l'Agence des Nations unies contre le crime et le trafic de drogue (PDF), qui a compilé pour la première fois, en 2012, un rapport global sur les homicides volontaires.

Le nombre élevé d’assassinats au Nigeria reflète surtout la forte population de ce pays (162 millions d’habitants). Le taux de meurtres y est presque trois fois moins élevé (12,2 pour 100.000 habitants) qu’en Afrique du Sud.

Les attentats et les tueries perpétrées par les islamistes de la secte Boko Haram alourdissent le bilan, mais ils n’expliquent pas tout.

Nigeria: justice populaire et gangstérisme sur Facebook

La mort passe aussi par la mob justice, une justice populaire courante en Afrique. Des voleurs ou supposés voleurs sont battus à mort et/ou brûlés vifs sur les marchés ou en public.

Quatre étudiants en ont été victimes à Port Harcourt (sud du Nigeria) après la disparition d’un ordinateur et d’un téléphone portable.

Un meurtre filmé qui a choqué le pays. Facebook, un réseau social très prisé par les Nigérians, a aussi été détourné à des fins funestes.

Cynthia Osokogu, 25 ans, étudiante et commerçante à Abuja, est devenue une icône nationale au Nigeria, après avoir été dévalisée et tuée, en août, dans sa chambre d’hôtel à Lagos.

La jeune femme avait fait confiance à des amis virtuels, des étudiants avec lesquels elle chattait sur Facebook. Elle les avait laissés l’accueillir à Lagos, sans les soupçonner d’être de dangereux gangsters appâtant leurs proies sur le réseau social.


Côte d’Ivoire: troisième taux mondial de meurtres

Les bilans sont encore plus lourds ailleurs. C’est en Côte d’Ivoire que l’on se tue le plus en Afrique, avec un taux effrayant de 56,9 meurtres pour 100.000 habitants en 2011.

C’est le troisième taux de meurtre du monde, après le Honduras et le Salvador. La Côte d’Ivoire se classe juste avant la Jamaïque, un pays connu pour la violence de ses règlements de comptes.

La crise postélectorale des premiers mois de 2011 y est-elle pour beaucoup? Pas seulement. Le pays battait déjà tous les records de meurtres en Afrique en 2010, alors que les évènements les plus meurtriers de la crise (3.000 morts selon les Nations unies), ne sont intervenus qu’à partir de décembre 2010.

Le chômage des jeunes représente l’une des données du problème. L’instrumentalisation de la violence par les hommes politiques de tout bord, Alassane Ouattara comme Laurent Gbagbo, depuis plusieurs décennies, est aussi en cause.

L’ONUDC fait par ailleurs le lien entre crime, pauvreté et l’inégale répartition des richesses. Les pays d’Afrique affichant les plus faibles indicateurs de développement humain (IDH) et le plus fort coefficient de Gini (qui calcule les écarts dans les revenus) ont aussi un taux de meurtres supérieur à 20 pour 100.000 habitants. Soit deux fois plus que dans les pays d’Afrique ayant un IDH «moyen».

Pauvreté endémique et violences politiques

Voilà pourquoi les meurtres sont aussi nombreux en Zambie (38 pour 100.000 habitants), en Ouganda (36,3), au Malawi (36) et au Lesotho (35,2), alors que ces pays sont censés être en paix.

Le Lesotho, la Zambie et le Malawi ne figurent pas seulement parmi les pays les plus pauvres du monde, avec des PIB respectifs de 1.900, 1.400 et 900 dollars par habitant en 2011.

Ils sont aussi frappés par la pandémie du sida, qui n’est pas sans répercussions sur le niveau de violence.

En Ouganda, les taux de prévalence du HIV ont été maîtrisés, mais la pauvreté persiste, avec un PIB moyen de 1.400 dollars par habitants, sur fond de trafic d’armes et de rébellions sanglantes. Et la police, mal payée et corrompue, passerait plus de temps à traquer les opposants que les criminels.

La vidéo d’une arrestation musclée d’une femme politique, le 20 avril 2012, à Kampala, a provoqué des réactions outrées contre les brutalités policières. Un agent a comprimé le sein droit d’Ingrid Turinawe, présidente de la Ligue des femmes du Forum pour le changement démocratique (DCF).

Six femmes ont ensuite manifesté en soutien-gorge pour protester, avant d’être elles aussi arrêtées…

Parmi les dix pays où l’on se tue le plus en Afrique, viennent ensuite l’Afrique du Sud (31,8), le Congo Brazzaville (30,8), la République Centrafricaine (29,3), la Tanzanie (24,5) et le Soudan (24,2)…

Là encore, le mélange entre pauvreté endémique et violences politiques paraît explosif.

«Il y a du crime partout dans le monde», entend-on souvent dire dans les capitales les plus dangereuses du continent.

Pourtant, ce sont les pays situés au sud du Sahara qui s’avèrent les plus meurtriers au monde, derrière l’Asie et l’Amérique latine, avec des taux particulièrement élevés en Afrique australe (30,5 meurtres pour 100.000 habitants), orientale (21,9) et centrale (20,8), contre 15,4 en Afrique de l’Ouest et seulement 5,9 en Afrique du Nord —pour une moyenne mondiale de 6,9 meurtres pour 100.000 habitants.

Sabine Cessou

3月27日 現代重工(韓国) Hyndai Heavy Ind. (en Corée)


Le mercredi 27 mars 2013
6時、うす曇、24℃、67.5%。9時、晴れ。
17時、雨。昨日も夜ずっと雨が降っていた。

久しぶりにラファエル(床屋さん)に行った。

車のオイル交換をそろそろしないといけないので、TotalRubiaXT(5L)をオトルブンバシで2本とフィルタを仕入れた。オイルは普段駅近くのTotalのガソリン・スタンドで買っていたがオトルブンバシでも売っていた。店員によるとこちらの方が経済的なのだそうだ。

16時、ネット不通。

キヌア(フランス語はquinoa)という穀物があることを知った。サテライトTVにチャンネル『cuisine+』がある。そこでキヌアを使ったグラタンを作っていた。僕には初め「キノワkinois」と聞こえた。「キノワ」は「キンシャサ市民、キンシャサの」という意味である。キンシャサに特異な穀物があったかなぁ、と思った。調べてみるとアンデスの穀物であった。ヨーロッパでは普通に売られている穀物になったようだ。日本でも結構ポピュラーな健康食品のひとつになっているようだ。
キヌア(穀物)
韓国の現代重工がフランスの原油開発会社TotalからRDCコンゴの海底油田掘削用ステイション(プラットフォーム)建設を受注した。20億ドル。コンゴ河の河口は隣国アンゴラ、コンゴ共和国(首都ブラザビル)の沖合いと同じ油田がある。プラットフォームが完成すると日産10万バリルの原油と250M3の天然ガスが期待されるのだそうだ。既に日本の帝石が10年以上前から採掘している。
(参照)http://davidyt-etoiledafrique.blogspot.com/2012/08/87-de-nombreux-membres-dune-milice-mai.html 
海底油田開発が原油の高値安定で
採算にのるようになってから
アフリカでも各地で建設されるようになった。

26 mars 2013

3月26日 RDCコンゴ、外資導入策は? RDC : le gouvernement invite les ambassadeurs accrédités à Kinshasa à attirer les investisseurs privés


Le mardi 26 mars 2013
6時、快晴、2465

6時、ネット不通。6時半、回復。

Facebook日本語版で「いいね!」をクリックする理由は、その投稿を「見ました」という印なのだ。必ずしも記事の内容に賛成しているわけではない。ところが、ネットの接続具合が悪いと、「いいね!」をクリックしても、「いいね!を取り消す」が出てから暫くするとまた「いいね!」に戻ってしまう。

中央アフリカ国の首都バンギが反政府軍連合「セレカ」によって落城したのが一昨日日曜日。大統領ボジゼが家族とともにRDCコンゴに逃げた。バンギは地図でみるとウバンギ川を隔てて東側がRDCコンゴである。大統領だけでなく数千の中央アフリカ国民がRDCコンゴ川に逃げて難民申請をしているらしい。キンシャサ政府としては、武装していない市民は全て受け入れる方針。但し、実際は国連が難民の世話をすることになる。

中央アフリカ国の首都が陥落、反政府軍連合のジョトディアMichel Djotodia氏が国家元首になった。クーデタである。もともと逃げだしたボジゼ大統領も10年前にクーデタで政権についた人物である。この軍事政変にフランス軍は自国民保護の名目でバンギ空港を「占領」した。反政府軍と戦ったのは南アフリカ軍だけ。他の外国軍は静観した。ボジゼ大統領を必死に守ろうとした政府軍軍人はいなかった。外国(フランスや米国など)もクーデタという手段を非難しているが、積極的な政治行動も軍事行動も起こさない。マリ国北部を占領したイスラミスト勢力に対する参戦とは全く異なる。
クーデタによる人的被害が限定的であったこと、首相が残留すること、ジョトディアが軍人というよりも外務官僚出身であることなどから、ジョトディアの政策によっては早くに新体制が欧米の支持をとりつけることになろうと僕は思う。しかし、セレカも寄合所帯だから何時分裂するか分かったものではない。犠牲者はいつも国民ということになる。
中央アフリカ国反政府連合軍トップ
ジョトディア氏、大統領宣言
欧米また日本はどう対処するか

RDCコンゴ政府が在キンシャサの大使を集めて民間投資を促進するための協力を依頼した。322日(金)のことである。夕食会を企画大臣ブナバンディCélestin Vunabandi氏をホストとして開催した。
IMF統計によるとRDCコンゴへの民間投資率は17.8%だそうである。それでも過去に比べれば数パーセント改善しているのだそうであるが、世界の平均が24.5%だからまだまだ低い水準である。投資環境が整っていないから外資導入が進まない。インフラは壊滅的、税金も高いとくれば、誰が投資するか。誰もいない。それはコンゴ政府も重々承知している。
そこで、会社設立など行政の簡素化、税の軽減を進めているのだと大臣はいう。しかし、僕が思うのは、小手先の改善ではすまない、根本的な行政機構の改革が必要だということである。行政の腐敗を徹底的になくすことである。それは公務員給与の定期的な支払いを含む正常なガヴァナンスの確立である。セキュリティもそうすれば解決する。給与もなしに命をかけて国や国民を守る軍隊や警察などない。
企画大臣ブナバンディCélestin Vunabandi
(RDCコンゴ)

RDC : le gouvernement invite les ambassadeurs accrédités à Kinshasa à attirer les investisseurs privés

Le gouvernement congolais a invité tous les ambassadeurs et chefs des missions diplomatiques accrédités à Kinshasa à vendre l’image de la RDC auprès de leurs pays d’origine concernant l’amélioration des climats des affaires à Kinshasa et dans toutes les autres provinces. Au cours d’un diner qui leur a été offert vendredi 22 mars, le président du comité de pilotage pour l’amélioration du climat des affaires, le ministre du Plan, Célestin Vunabandi, a expliqué que cette démarche permettra d’attirer les investissements privés au Congo en vue d’accroître le taux d’investissements privé au Congo.
Le taux d’investissements privés est actuellement de 17,8 en RDC %. Selon les indications du Fonds monétaire international (FMI), la moyenne mondiale est de 24,5%.
Le vice-premier ministre et ministre du Budget, Daniel Mukoko Samba, a reconnu que le taux actuel des investissements privés (17,8%) est faible. mais il a signifié que ce chiffre est une avancée par rapport aux années antérieures notamment 2012 (16,3%), 2011 (13,9%) et de 2010 (15%).
A en croire le ministre Célestin Vunabandi, plusieurs facteurs découragent les investisseurs privés. Il a cité par exemple l’insécurité juridique, le taux élevé et complexe de la fiscalité et de la parafiscalité, ainsi que l’obsolescence des infrastructures pour investir en RDC.
Célestin Vunabandi a reconnu que son pays est conscient de cette situation et a souligné que le gouvernement congolais consent des efforts pour remédier à cette situation.
Il a notamment parlé de la réduction du nombre, des délais, des couts et des procédures, pour la création d’une entreprise. Selon lui, il est possible aujourd’hui d’ouvrir une entreprise en trois jours.
Célestin Vunabandi a aussi ajouté d’autres reformes en vue comme :
La réduction de 40 à 35 % de l’impôt sur le bénéfice et profit
La rationalisation des contrôles fiscaux et parafiscaux
La simplification des formalités
L’allègement des taux d’impôt et des taxes
L’élimination des tracasseries administratives

3月25日 マイ・マイ、キンシャサに軍用機で護送さる RDC: 230 miliciens «Bakata Katanga» transférés de Lubumbashi à Kinshasa


Le lundi 25 mars 2013
6時、晴れ、24℃、70%。夜のうちに雨が降ったようだ。庭が濡れている。

バーレンの宗教人(イスラムの説教師)がチュニジアの曖昧宿(maison closeつまり売春宿)で働く女性たちのことを知って、更生のためのファンドを作ったそうだ。これを聞いたチュニスの売春婦曰く「余計なお世話だわ。だいたいイスラムのお坊さんたちもうちのお客様」。

今朝ルブンバシにまたまたマイ・マイが現れたという噂がたった。確かに噂に過ぎなかったようで、噂を打ち消すためにモイーズ知事は街に出た。ルブンバシの中心街で車をおりて住民に話しかけたのである。言葉もフランス語ではなく住民と同じくスワヒリ語方言とフランス語を混ぜた。こういう住民との接し方もモイーズ知事の人気の秘密であろう。カタンガ州分離独立に反対しコンゴは一体であることを強調していた。ついでに、主食であるブカリの材料であるトウモロコシの粉が暴騰していることに触れ、緊急輸入措置をとったので来週から値が下がるだろうという発言もあった。
モイーズ知事はさらにルブンバシ郊外のルアシ区にも足を運んだ。マイ・マイが土曜早朝進入してきた地区である。そこでもマイ・マイに煽動されることがないように、噂を信じて軽挙妄動することなきようにと住民に声をかけた。
マイ・マイ事件の詳細はなかなか掴めない。報道も当局の発表も時間とともに変わっている。
23日(土)ルブンバシの国連で武装解除投降したマイ・マイ230名は25日(月)朝RDCコンゴ国軍軍用機でキンシャサに送られた。
死亡した犠牲者は23人で、そのうち国軍兵士が一人、SNCC(国鉄職員)が一人、4歳の少女が一人と当局から発表されている。マイ・マイを目撃した市民の話では死者はもっと多かったということであるが真偽の程はわからない。
マイ・マイがルブンバシに入る際に、途中からバイク・タクシの若者たちが後ろに続き、さらに他の子供や若者たちがマイ・マイを追いかけた。彼らはマイ・マイと一緒になって商店を襲ったり、通りがかりの車に投石したりと、日頃の鬱憤をはらしていた。こうしたお祭気分の「野次馬」の中から怪我人や死者が出た可能性もある。
子供たちは40名を数えたが、ユニセフの支援を受けているNPOにゆだねられたそうだ。
マイ・マイ「バカタ・カタンガ」の実態はしかし全くわかっていない。指導者が誰なのか。どこから来たのか。本当の要求は何なのか。武器(爆弾や銃など)は何処で手に入れたのか。一体誰がファイナンスしたのか。わからないことだらけである。キンシャサ政府がこれらを解明するのだろうか。カタンガ州政府に任せておいては甘いとみたのだろう。しかし、僕は国連や人権団体、欧米が監視、介入しないと真実が分からないままに非人道的な裁きが行われるのではないかと危惧する。
マイ・マイ「バカタ・カタンガ」
一昨日からいくつかの彼らの画像をブログに掲載しているが
どうみても「一揆」以上ではない。即ち革命や独立運動には程遠い。
また僕は武装強盗集団なりギャングと表現してきたが
組織だったものを感じさせない。

RDC: 230 miliciens «Bakata Katanga» transférés de Lubumbashi à Kinshasa

le 25 mars, 2013

Deux cent trente miliciens du groupe «Bakata Katanga», qui s’étaient rendus samedi à la Monusco à Lubumbashi ont été transférés à Kinshasa, ce lundi 25 mars dans la matinée, ont indiqué des sources aéroportuaires. Le bilan officiel des accrochages entre ces Maï-Maï fait état de vingt-trois morts et de plusieurs blessés. La ville est restée ce lundi dans la psychose. Les autorités ont démenti la rumeur faisant état d’une entrée imminente d’autres combattants restés en brousse.
Ces combattants ont été transportés dans deux avions de FARDC. Le premier groupe a quitté la ville de Lubumbashi aux environs de 8h15 (locales); le second, une heure après. Au total, deux cent trente miliciens ont embarqués, selon des sources aéroportuaires.
Ils avaient déjà rendus leurs armes à la Monusco/Lubumbashi lors de leur reddition samedi. Les responsables de la mission onusiennes les ont remis aux autorités de la 6eme région militaire.  Avant leur embarquement, les miliciens ont été dépouillés de de leurs amulettes, bracelets, banderoles aux couleurs de leur drapeau qui étaient noués au tour de leurs têtes.
Ils ont laissé derrière eux quarante mineurs, qui sont pour l’heure, mis à la disposition de l’ONG Reconford qu’appuie l’Unicef. Seize autres Maï-Maï, grièvement blessés, ont été admis à l’hôpital  militaire de la Rwashi. Deux autres civils, un homme et une femme blessés par balles, ont aussi été admis dans cet hôpital.
Le gouvernorat provincial assure leur prise en charge. D’autres sources ont fait état de l’existence d’autres blessés dans d’autres structures médicales de la place, sans autres précisions.
Selon des sources officielles, vingt-trois personnes sont mortes, dont vingt combattants, un militaire FARDC, un agent de la société nationale des chemins de fer (SNCC) et une fillette de quatre ans. Certains habitants de Lubumbashi estiment que «le bilan est beaucoup plus lourd », sans donner de chiffre précis.
Entre-temps, une psychose, partie de la commune de Rwashi par où les miliciens étaient entrés samedi, a vite gagné le centre ville le matin. Selon certains habitants,  des combattants de la milice «Bakata Katanga» seraient aperçus dans les environs  de la Rwashi.  Au centre-ville, certains opérateurs ont fermé  leurs commerces. Les parents se sont empressés d’aller chercher leurs enfants à l’école.
De leur côté, les autorités urbaines ont parlé d’une «simple rumeur», précisant que la situation était redevenue calme.
Le ministre de l’Intérieur, Richard Muyej, a annoncé, dimanche 24 mars à Kinshasa, l’envoi d’une mission d’enquête dans la capitale du Katanga en vue d’une «évaluation appropriée de la situation sécuritaire».
L’enquête consiste surtout à chercher à «savoir ce que [ces miliciens] voulaient, mais aussi comprendre comment ont-ils fait pour arriver jusqu’au centre ville» de Lubumbashi, a-t-il précisé, promettant de déferrer devant la justice les personnes qui se seraient compromises avec «ces délinquants armés ».
« Nous verrons bien qui a été responsable de quoi. Seule l’enquête peut nous aider à déterminer à quel niveau se trouvent les complicités. Ces gens ne sont pas venus de nulle part. Ces armes ne leur ont pas été accordées miraculeusement. Quelqu’un a dû dépenser, quelqu’un a dû penser à les doter en armes. Tout cela va être clarifié par les enquêteurs qui sont déjà au travail. Ils vont tous être transportés à Kinshasa », a déclaré pour sa part Lambert Mende, porte-parole du gouvernement congolais.

24 mars 2013

3月24日 ルブンバシに来たマイ・マイ Lubumbashi: le calme est revenu après la reddition des miliciens «Bakata Katanga» à la Monusco


Le dimanche 24 mars 2012
7時、曇り、2470。午後は快晴。

7時、ネット不通。Vodacomは電話も不通。Airtelは正常。
12時、ネット回復。

陥落寸前の中央アフリカのバンギであるが、大統領官邸付近で今朝銃撃があった模様。今1545分だが、1時間前の『ル・モンド』紙電子版では、ボジゼ大統領が逃亡、反乱軍セレカが首都を掌握したと書いている。

新ローマ法王(教皇)はフランス語ではフランソワ、イタリア語がフランチェスコ、スペイン語がフランシスコである。フランチェスコ1世と書いている日本の新聞があるが、「1世」という呼称を法王自身が拒否している。というのは既にアッシジの聖フランチェスコがいるからで、彼がフランチェスコを選んだ理由が、この聖フランシスコが1世だということだ。

昨日午前から15時ころにかけてルブンバシにマイ・マイが出没したとのことである。僕のFacebookのページには「心配ない」と投稿した。
今朝機会があったので、行きに州政府の前、帰りに国連Monuscoの前を通ってみた。Monuscoの前には56台のUNマークの入った四駆が駐車しており、中には兵隊が乗った四駆もあったが、僕は止められることもなく通過できた。要は全く静かで普段の日曜日と変わるところがなかった。もっとも今日はカトリックでは「枝の主日Dimanche des Rameaux」だから、棕櫚の枝を手に持って街を練り歩く信者たちには遭遇した。
今回のマイ・マイ騒動でマイ・マイの現実が分かってきた。武装集団には違いないが、百姓一揆の集団と考えたほうが間違いがなさそうである。どこまで不満分子で、どこまで政治集団なのか、よくわからない。
最新の記事によれば、州議会を占領しようとして軍隊に阻まれたため、国連平和維持軍Monuscoに入り、武器を捨てて、国連に彼らの行動の理解を求めたとある。
昨夜のローカルTVニュースでは、モイーズ知事とマイ・マイの話し合いがかなり詳しく放映されていた。モイーズ知事がオーナーであるニョタ(スワヒリ語で「星」)TV局だった所為もあるかもしれない。それをみていると、既に武器を捨てたマイ・マイだが、その群集は子供たちが目立つ。モイーズ知事も当惑するように子供たちを相手にまじめに対応していた。多くの子供を交えた雑多な集団を前に民主主義についてまで講義していた。子供たちは扇動されてここまで来たのに違いない。モイーズ知事は、マイ・マイの処分を司法にまかせると云っているが、子供たちはどうするのだろう。「彼らマイ・マイもコンゴ人、保護される権利がある」とモイーズ知事はいう。

マイ・マイが堂々と中心街モブツ通りを行く
ギリシャ系スーパー「プサロ」の前。
(3月23日午前)
国連関係施設が入っている囲みの内庭に陣取るマイ・マイ
既に武器を国連に預けたあとのようだ。
245人を数えるというが、中には子供がかなりいる。
「市街戦」で死者は35名ともいうが不明。
Lubumbashi: le calme est revenu après la reddition des miliciens «Bakata Katanga» à la Monusco
le 24 mars, 2013 à 7:07

La situation est redevenue calme, ce samedi 23 mars à Lubumbashi, chef-lieu du Katanga, après une matinée agitée notamment par des tirs qui retentissaient à travers le centre-ville. A la base, les Maï-Maï dénommés Bakata Katanga qui y ont fait leur entrée par la commune de la Rwashi. Selon les témoins, ces miliciens qui cherchaient à rejoindre le siège de l’Assemblée provinciale du Katanga ont été dispersés par les Forces armées de la RDC (FARDC).
Les mêmes sources affirment que parmi ces miliciens cinq ont été tués notamment au niveau du Tunnel, devant le parc hôtel, aux environs de l’auditorat militaire et au bâtiment qui abrite le service de cadastre.
Ces Maï-Maï ont alors changé de destination pour aller jusqu’aux installations de la Monusco/Lubumbashi, où ils ont cassé la barrière, avant d’entrer dans l’enceinte.
Ils ont, par la suite, rendu leurs armes au bureau de la Monusco. Il s’agit essentiellement des fusilles AK 47, des lances roquettes, des lances, des flèches, des couteaux et plusieurs armes blanches.
Un de ces combattants Bakata Katanga a exprimé leur désidérata à la Monusco:
«Nous sommes ici puisque nous ne voulons pas de cette souffrance. L’indépendance avait été obtenue en 1960 mais depuis 2010 rien ne va ici. Nous sommes fatigués d’être des esclaves. Nous sommes venus non pour nous rendre et non plus pour rendre nos armes mais pour demander à la Monusco de nous donner notre indépendance. Nous voulons que le Katanga soit un pays et que notre président soit reconnu».
Ces miliciens attendent leur transfert à l’Etat-major de la 6è région militaire au siège de la Monusco/Lubumbashi.
Ils sont accompagnés de plusieurs femmes et enfants et leur nombre peut atteindre 240, indique la police nationale congolaise (PNC). Nombreux parmi eux sont blessés.
Le gouverneur du Katanga, Moïse Katumbi Chapwe, s’est dit indigné par cette situation et il a promis de mettre ces miliciens à la disposition de la justice pour qu’ils répondent de leurs actes.
«Ils vont citer des gens que nous allons arrêter», a déclaré le gouverneur du Katanga.
Quant au bilan des tirs nourris qui crépitaient au centre ville et aux alentours des installations de la Monusco, Moïse Katumbi dit attendre le rapport de la police.
A l’entrée de ces miliciens Bakata Katanga, la panique avait gagné la ville et les commerces avaient fermé.

23 mars 2013

3月23日 バンギ落城寸前(中央アフリカ) Menace Séléka en Centrafrique : panique générale à Bangui


Le samedi 23 mars 2013
7時、薄曇、2465

9時半、ネット切断。契約更新にVodacomに行く。
11時、ネット契約更新。

シネマート新宿SCREEN2  新宿区新宿3-13-3 新宿文化ビル7Fで『魔女と呼ばれた少女』が上映されている。この日本語タイトル、ちょっとセンセイショナルと言おうかアフリカ趣味である。監督はカナダ人で、英語タイトルは『War witch』。フランス語タイトルは『Rebelle』(反逆者)である。映画の主人公を演じた少女ラシェル・ムワンザRachel Mwanzaさん(15)がベルリン映画祭で銀熊を受賞したときにこのブログで話題にした。
映画『魔女と呼ばれた少女』を見たコンゴ人は殆どいないだろう。僕もこちらで見る機会はないと思う。既に少ない映画館でまともな映画がかかることはない。インドやナイジェリアの三流映画か空手などの映画しか上映されない。フランス文化センタで毎週映画の夕べがあるが、入場料が無料でも入場者が少ない。DVDになっても果たしてルブンバシのDVDレンタル店においてあるかどうか疑問である。
この映画が日本の方々のコンゴに対する誤解を助長する危険があるとしても、やはり、RDCコンゴを知ってもらうために多くの方に見て頂きたいと思う。


郵政大臣キンケイKinkey氏
(RDCコンゴ)
日本は20117月アナログ放送を停止しディジタル放送になった。方式は日本が開発したISDBである。この方式を世界に普及しようと政府が動いている。南米ではブラジルが日本方式を採用、さらに改良した方式を南米各国が採用決定している。
RDCコンゴにも総務省の方が何回もキンシャサにいらしてISDBの宣伝をしている。欧州はDVB方式で、それをアフリカに持ち込もうとしている。経済的また技術的にはISDBの方が優れていると僕は思うが、欧州は日本を目の敵にしている。日本の総務省の次官級審議官が今月もキンシャサに来られたと当地のニュースが報じている。それをみてか、欧州も21日(木)にミッションを送ってきた。
RDCコンゴは必ずしも欧州の言うことを「はいはい」と聞く国ではない。日本のODAも馬鹿にならない額である。それらを考慮してキンシャサ政府も決定するだろうが、隣国アンゴラが日本方式採用を決めたようだから、キンシャサも日本方式に傾くのではないかと期待される。

バンギが危ない。中央アフリカ国の首都が近々陥落するかもしれない。反政府連合軍セレカSelekaは一時ガボンの首都リーブルビルでの和平会談に応じ、政府に参加する方向で矛先を転じていた(先月28日のブログ参照)。そのセレカが首都バンギまで75kmと迫っている。
しかし、どうもボジゼ大統領の往生際の悪さか、ジンバブウェほどにも権力移譲を渋っているのではないかと思われる。彼は軍事的には去年の12月末時点で既に敗者であることを認識しなければならない。
中央アフリカ国の首都バンギ市
バンギ市の市街

Menace Séléka en Centrafrique : panique générale à Bangui
VENDREDI 22 MARS 2013

A la suite de la prise de Bossangoa, l’importante ville du centre-nord de la Centrafrique, fief du président Bozizé, les habitants de Bangui sont pris de panique. Selon les informations diffusées par les médias locaux, les rebelles du Séléka se trouveraient actuellement à Damara, à 75 kilomètres seulement de la capitale centrafricaine.

Le Séléka aux porte de Bangui ? L’annonce de la prise de la ville de Bossangoa sème la panique à Bangui.

« La population court dans tous les sens et se bouscule pour regagner leur domicile. Les quelques rares voitures et taxis sur les voies circulent à grande vitesse », rapporte le correspondant d’Afrik.com à Bangui, la capitale de la Centrafrique. Et d’ajouter : « C’est l’effervescence actuellement à Bangui où la population attend dans la panique et le suspens l’irruption un moment ou un autre des troupes du Séléka ». « Des informations recueillies soulignent que les mouvements ont été enregistrés au niveau de Damara, à 75 kilomètres de Bangui. Alors que les combattants rebelles, du moins ceux qui ont attaqué Bossangoa, devraient arriver sur l’axe Boali », précise-t-il.

Même les écoles ont entendu parler de cette nouvelle menace Séléka qui pèse sur Bangui. Elles ont, donc, fermé leurs portes. Les élèves des établissements scolaires qui étaient en plein cours ont été libérés d’urgence, en vue de regagner leurs parents.

Bossangoa contrôlée par le Séléka

Les troupes de la coalition Séléka contrôlent, depuis ce matin, l’importante ville du centre-nord de la Centrafrique, fief du président Bozizé, Bossangoa. Elle tombe dans les mains des rebelles un jour après la reprise des hostilités armées.

A la différence de la ville de Bouca et Batangafo, où la prise par les éléments du Séléka a duré, c’est-à-dire que les Forces armées leur ont opposé une riposte, la ville de Bossangoa serait très facilement tombée, la durée relativement courte de la coupure téléphonique avec la ville en témoigne. Par ailleurs, cette coupure des lignes téléphoniques entre Bossangoa et toute autre destination aux environs de 9 heures du matin n’a pas permis d’établir exactement les circonstances de l’entrée des combattants de la rébellion dans la ville de Bossangoa. Ce qui est sûre pour l’instant, est que la ville de Bossangoa est sous le contrôle du Séléka.

Ce matin, aux environs de 6-7 heures, il était encore possible de communiquer à destination de Bossangoa. Selon les informations recoupées à ces heures-là, les troupes du Séléka qui menaçaient, jeudi, de foncer sur Bossangoa étaient déjà en mouvement en direction de la ville très tôt dans la matinée. Or, peu de temps après, aux environs de 9 heures plus aucune communication téléphonique n’était possible et ce, jusqu’à ce vendredi. Ce qui confirme bien la chute du fief du Bozizé, notamment la ville de Benzambé qui n’est qu’à quelques kilomètres de Bossangoa.