Le 29 juin 2010, mardi
快晴。
モエロ湖から日が昇る。宿舎の周りを散歩した。漁民の家が点々とある。漁に出ている舟は五六艘のみ。船外機をつけた舟は見当たらない。櫓を漕いでいる。
朝食後9時半出発、目的地は140キロ北北西のドゥビエ。湖に沿った道は鉱山会社が作った道。10キロも行かずに山道に入った。もっと先でドゥビエに曲がる道があるが、砂地のために避けたとはガイドをしてくれたJean-Paulの言葉。小川がたくさんあった。架かっている橋が殆ど壊れていて鉄板を敷いたり、板を渡したりと酷い状態。綱渡りである。対向車は外人の乗っていたランクルが一台だけ。上り坂のきついところもある。道は昨日より走行が難しい。日本では登山道というに相応しく、車が走る道とは思えない。山の上なのに魚網を繕っている部落が続く。モエロ湖の周りは山で囲まれているのだ。部落を通る度にアフリカの椅子や民芸品を探した。誰も伝統的な椅子を使っていない。あるのはプラスチックの椅子ばかり。それがモダンでいいと思っている。嘆かわしい。民芸品もない。昔は家財道具は村人自が自前で作ったはず、また祭のために仮面や祭事具を作成したに違いないのだが、内戦で被害にあいやる気を失くしているかに見える。あったのは杵ぐらいだが、これも彼らが作ったものかどうか怪しい。
昼丁度にルコンゾルワLukonzolwaについた。ここも湖畔の村である。キルワとドゥビエの中間。フランシスコ会の修道院がある。そこで昼食。デザートに会の農園でとれたバナナが出た。ごく太のバナナだったが味がない。これでは売り物にならないかもしれない。会の病院を見学した。ここのシスターが生まれて3ヶ月の赤ん坊を抱いている。母親は出産時に多量出血で死亡した。父親は引取りを拒否、フランシスコ会に赤子を預けた。というのは、特に母方の家族が、母親が死んだのは新生児の所為であり、そうした新生児は悪霊をもたらすからと殺害するのがこの地方の慣習だからである。一応村人もクリスチャンだけれども古くからの因習を断ち切れていない。不憫に思ってシスターが赤ん坊にドミニクと名づけて育てている。彼は自らの運命を知らずにこにこを笑みをみせていた。14時ルコンゾルワを出発。ここから湖から離れて内陸に入る。
15時に一度、ある部落を出たところで溝にはまってしまった。このときは人通りもあり数人掛りで車を押したり、タイヤの下に丸太を敷いたりして30分もかからずに抜け出した。三菱のドライヴ・シャフトPontがランクルに比べてちょっと低いらしい。砂ではなく硬く固まった土に引っかかって乗り上げてしまい動きがとれなくなったのが原因。
そして16時にもう一度同様なことで動けなくなってしまった。今度は人も来なければ車も来ない。JP君が必死になって頑張るが、なかなか出られない。何度ジャッキで後輪左を持ち上げ木や石を強いて発進をトライしたことか。その度に数センチしか前に出ない。タイヤから煙も出た。夜になり僕は車の中で寝ることを覚悟した。あと30分くらいで目的地に着けるかもしれない地点だが致し方ない。月の出が遅く、満天の星空である。乾季で寒いので虫があまり飛んでこない。JP君はしつこく奮闘。日本から持ってきた手回し式懐中電灯が活躍。そしてついに21時半、脱出に成功した。
22時ドゥビエのフランシスコ会の宿舎に入った。修道院長はテオドーラさん、ポーランド人。我々が来ることは知っていたが、夜も遅くなり、来るというのは冗談だろうと思っていたという。遅い夕食をとり部屋に案内された。Monuc(国連軍)やMSF(国境なき医師団)が泊まっていたところだ。トイレ、シャワーは外。僕はベッドと蚊帳のある部屋だったが、JP君は床にマットレス、蚊帳なしの部屋だった。停電中。食堂だけたけ昼間のソーラー発電のおかげで暗い電灯がともっていた。水は有難いことに迸り出た。この町では携帯が通じない。
シスター・アスンタ佐野さんはドゥビエに内戦前修道女看護士としてずっといた。内戦で難民となり隣国ルワンダの首都キガリに非難、さらにローマに出たが、その後またコンゴに戻ってきた。その勇気に頭が下がる。
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