11 janvier 2010

2009年年末 fin d'année 2009

ルブンバシに到着してから、年末までを下記する。
このあと、写真を掲載する。

Le 23 décembre 2009, mardi
ルブンバシの夜があけた。
朝9時にBen Tshisenga氏(通関業者社長)とアポイントがあり、持っていたなけなしの「日本円50万をデポするので、通関手続きをすすめてくれ、東京にはドル送金を頼んでいる。円はドルが到着するまでの保証金である」と交渉、通関を進めてもらうこととした。Ben氏は今日明日中にも通関できるかもしれないと期待をもたせた。Ben氏はBiacに為替レートを問い合わせたが、マーケットがないからレートは出せないと回答されている。ネットで1ドルが91円であることを確認、やっと会社のレターヘッドつきの保証書(預り証)にサインし社判を押した。マーケットがないといっても、どこでどうドル転されるかわからない。Ben氏よ、この金は使ってくれるなよ。

Biac銀行のATMでVisaカードでの引き出しをトライするも、カードを拒否しなかったけれども、最初現金がでてこなかった。VisaではなくBiacのカードで引き出そうとした人もできていなかった。窓口できいてみるとメンテ中だから、後でまたトライしてくれという。なんで真昼間メンテナンスをするんだ。信じがたい。銀行の向かいにある喫茶レストランLa Briocheでクレープを頼み軽い昼食とする。満員。そのクレープが出てくるのに1時間かかった。その間、日誌をノートしていたので時間をもたせることができた。食事後近くのベルギー系スーパーMegastoreで水、ハム、パンなどを購入。再びBiacのATMに挑戦。テストケースなので小額である50ドルを引き出すことにした。そしてついに成功!真新しい50ドル札が出てきた。
コンゴ民主共和国(RDC=仏語、DRC=英語)の通過はコンゴフラン(FC)である。しかし、その通貨の信用力はゼロに近い。今年6月コンゴに来たときのレートは1米ドルが700FCであったが、現在900FC。2006年1月に来たときは500FCだったのだから、ここ数年で50%を遥かに超える現地通貨の下落。ATMで自国の通貨が出てこず、外国通貨が出てくるのは多分この国だけだろう。タンザニアではTシリング、ザンビアではクワチャ(ZMK)がちゃんと出てきていた。コンゴの紙幣ではATMも紙幣を勘定できないほど汚れてよれよれであることが多いのではないか。ドルがどの店でも通用する。
FC紙幣は500FC(50円)がメインで、それより大きな紙幣はない。200および100FC紙幣があるが500FC札よい更に汚い。長い間新しい紙幣を印刷していないためだろう。硬貨がない。

シスター佐野アスンタさんと連絡がとれた。午後来てくださいとの言葉に甘えて、彼女の修道院にTaxiをとばした。Chef Katanga通り713番地。
いつもの笑顔で迎えてくれたアスンタさん。この修道院にくると心が落ち着く。今日は朝から断水だそうだ。それでも出してくれたコーヒーがインスタント。これまでは教会の農園で出来たコーヒーだったのに。訊いてみると豆を挽くミルが壊れてしまって、町で探しているがまだ見つからないそうである。世界で一番美味しいアスンタさんのコーヒーだったのに残念。豆は炒って修道院に山ほどとってあるという。挽けないのである。

夕方Patrick君が修道院に迎えにきてくれた。一緒にホテルまで帰ったが、彼はイヴの準備のため忙しくKipushiの家の話など出来ず早々に帰ってしまった。日を改めてクリスマス後の週末Kipushiに一緒に出かけることにした。

ネットがダルエスサラムからルブンバシ到着まで通じなかったので、その間の日誌を少しづつ入力している。いろいろなことがあったので長くなってしまう。

Le 24 décembre 2009, mercredi
朝、停電。発電機が動いてからネットで、宇野兄が送金してくれたことを確認。友達はありがたい。銀行家だったから手続きには慣れているとはいえ、余計な仕事をしてもらうのだから恐縮である。猪野さんから宇野兄に連絡確認もとってもらった。インタネットでしか安い連絡方法がないので二重三重に連絡する。煩いだろうが勘弁してくれ。

11時、中央郵便局やPark Hotelのあるルブンバシの中心までtaxi(2000FC=200円)で行き、ギリシャ系スーパーSparoでシャンプー等を購入、Ben氏の事務所近くを通り、電話したが、また今日中にも通関できるかもしれないというだけ。明日は祭日。年末手当を要求して先週ストまでした税官吏が溜まった書類を早くこなすだろうか僕には疑問。ただ送金されたドルが既にBiac本店までとどいていることを確認。Ben氏の口座には来週火曜日に入金になるだろうことが判明した。

ホテルにもどり軽い食事。14時半からAlain君を交えてKyungu氏とホテルで打ち合わせた。雨が降り出し、彼らは足止め。

20時。シスター・アスンタさんから紹介された聖ポール教会Eglise Saint Paulまで歩いてミサに参加。雨が降ったあとのぬかるみと水溜りを夜道でさけながら歩くのは至難。やっとついた教会は満員状態。それでも中に入ってミサに参加したが、言葉がスワヒリ語。賛美歌もちんぷんかんぷん。以前参加したカテドラルでのミサと違いコンゴ人ばかり。賛美歌に合わせて身体をゆらして、アラブの女のような叫び声をあげ、手を打ち鳴らす。映画でみたアメリカの黒人教会のシーンに似ていた。もっとおごそかで神聖なミサがいいなぁ。

教会を出てからギリシャ・レストランに。車をひろったら、なんとDavid君という運転手。神の引き合わせだ。レストランのボーイたちは僕のことを覚えていてくれて、「よく帰ってきた。今度は何時までいるんだ」と大騒ぎ。典型的なギリシャ料理、大好きなムサカがなく、ミネストローネ、ペッパー・ステーキ、小瓶のワインを注文。44ドルはやはり高い。ま、クリスマス・イヴの食事だからちょっと贅沢もしかたないか。
このレストランの一部が中国人に貸されて、中華料理もでるようになったことを初めて知った。
帰りもDavid君に送ってもらった。しかし、ホテルから教会のあったルムンバ通り、ルブンバシ大学、ギリシャ・レストランがわりと近いことがわかってきた。まだルブンバシの全体の地理が記憶にもどってこない。

Le 25 décembre 2009, vendredi
外に出ず、ダルエスサラムからの日誌を完成させた。
ホームページがこのホテルのprovidorの所為でrenewできない。この日誌をGoogleのblogに載せることにする。

15時半から2時間の散歩。歩いてみないと地理がわからない。Avenue Révolution(ホテルのあるところ)から、昨夜の教会があるルムンバ通りまで出た。そこにベルギー・サークルがあった。2006年に一度入ったことがあった。そこからRévolution通りを引き返し、通りが尽きるところまで歩く。さらに右折してGolf通りを数百メートル進んだ。そこで開いているスーパーをみつけたのでウエハースなど菓子類を求めた。この通りをまっすぐ行けばあと1000Mくらいでゴルフ場に行き着く。乗馬もできる。既に5時をまわっていたので、taxiを止めてホテルに帰着。2 000FC(200円)。
歩いている途中で雨が降ってきたので雨宿りしていると、バナナを頭に載せて売っているお姉さんがきた。雨が小降りになったところで、「いくら?」「一本200だよ」「じゃ5本ちょうだい」、バナナ一本20円だ。安いようだが良く考えてみると日本と変わりない。日本でバナナが高級果物だった時代は過去の過去である。バナナの叩き売りなど知っている人ももう少ないだろう。200FCという価格も外人価格かもしれない。

何とルブンバシにカジノが数箇所できた。なんということだ。中にはいっていないので分からないが、エビアンやDivoneのような格式はないだろう。中国人が作ったのだそうだ。中国人は賭け事も輸出するのか。Dar es Salaamにもカジノがあった。

17時過ぎCercle Belgeに行き食事。昨日はイヴで100ドルのメニューが今日はMagret de canardとクリスマスケーキで28ドル。ビールを飲んで31ドル。久しぶりのカナール(鴨)が美味かった。2006年当時のこのレストランの印象は悪かったのに今日は逆に極めてよかった。食事中に雷を伴う雨が降ってきたのでDavid君を呼んだが、30分待ってこなかったので小雨の中を走ってホテルに帰った。10分もかからずにホテルに着いてしまった。

明日土曜日税関は半日仕事をするのだそうだ。だが期待できそうにない。

家の方もはやく探さなくては。

Le 26 décembre 2009, samedi
11時、Alain君来室。通関見通しを聞いた。業者のところに寄って最新情報を訊いてくれたものの、目新しい情報がない。
Kyungu 氏は警察に僕の居住許可について聞きに行くといっているが、腰が重い。

15時過ぎ、シスター・アスンタさんのところに、6月来たときに預かっていただいた荷物のうち懐中電灯を取りにいった。日本でネットで買った地震など災害時用の懐中電灯だ。電池交換がいらない。

夕方、家の候補を探した。最初に行ったところは、塀でかこわれているものの敷地の中にコンゴの人たちの家が数軒あり、賃貸対象物件である離れもみすぼらしい。僕たちが行ったときには、まさに借り手が決まってしまった直後だという。よかった。ここは住めない。次のところは、ゴルフ地区。高級住宅街。見学できなかったが、新築に近く、securityもよさそうな物件があり、大家を直接訪ねた。ベルギー人の夫人が出てきて、保証金は3ヶ月。ただし、家賃は1 000ドルだという。家賃は500と当初聞いていた物件である。Studioで1 000ドルは高い。Alainが交渉。僕は話の外にいた。中国人とみられたかもしれない。ここの大家たちから中国人はよくみられていないようだ。値段交渉もせず、賃貸契約をしてから数十人が押し寄せてきて住み始めるらしい。コンゴ人と中国人(僕)をみて、咄嗟に1 000ドルといったのではないか。もう一度、車が出たら大家を訪問する価値があるとおもう。

夜はAlain君とベルギー協会のレストラン。ポークソテー。二人で40数ドル。Alain君に街中でPall Mallを買ってきてもらった。一箱700FC。ホテルの近所の店で1500、このCercle Belgeのバーで2800である。この価格差は説明できない。10箱で21 000フランだから23ドル以上の差がでる。

レストランから帰るとまた大雨。僕は既にホテルの部屋にいた。

Le 27 décembre 2009, dimanche
ブログ「アフリカの星」に載せる原稿を修正。Darからのドライヴィングの5日目までを公開し終えた。

昼は、雨で出られないのでホテルの食堂にトリとポテトを注文。部屋で食事。7 300FC(730円)。悪くはなかったがトリ位しか食べるものがない。

雨がやっと上がって、夜はベルギーでボロネーゼ。どうして冷えたパスタなんだろう。懐中電灯のおかげで水溜りにはまらずに歩けた。

Le 28 décembre 2009, lundi
快晴。気持ちがいい。
通関の進展が心配。
心配性かなぁ。

17日から22日までの日誌、最終号掲載終了。

11時過ぎ、Ben Tchimenga氏のオフィスのドアをたたいた。今日中に通関、3時間後には車をルブンバシの彼のオフィスの前までもってくるという。16時になっても何の知らせもない。やはりね。調子が良すぎる。カスンバレサからの高速でスピードを出されて事故でも起こされては敵わない。誰もここでは20 000ドルを保証できる奴がいない。

午後、またにわか雨。

18時、Ben氏に連絡すると、「一部サイナーがカスンバレサに不在で遅れた。16時に来たそうだから、まもなくカスンバレサを出るだろう。出たら報せる」と見え透いた御託を並べる。「夜になっても、ミリタリーのエスコートを頼んで車を送るよ」、いい加減にしろ。

ビールの値段。Simbaビールがこのホテルで1500FC(150円)、ベルギー・クラブが3 000FC。タンザニアのホテルで2 000Tsh(140円)。しかし、タンザニアのビールは500CC。コンゴは日本と同じ大瓶730CCだから、コンゴの方が安い。
ビールは地ビールのSimba(スワヒリ語でライオンの意)、Tempo(象)と、キンシャサ系のPremiumが主。2006年のときは、PremiumビールがSimbaよりも高かった。空輸していたからだろう。今はルブンバシで生産されているのでSimbaなどと同値になった。

ルブンバシで僕の食費が上がっているのは、欧州並みのレストランに行っているためだ。Dar es Salaamには一流ホテル(Moevenpicなど)かSlipwayにしかフランス料理やイタリア料理がない。食文化が英国圏なのだ。英国の貧しい食文化の尾をひいているといえよう。フランス語圏ルブンバシにはいいレストランがいくつもある。アルジェリアでまともなレストランがなくなったのはイスラム化の影響である。昔のアルジェリアには、レストランでも家庭でもデリケートな伝統料理があったのにもう激辛か又はしつこく甘い料理しか作れなくなっていた。

Alain君から電話で明日朝カスンバレサに車をとりに行くことになった。Alain君の友人の話では手続きは終了したらしい。Ben氏のいうことを聞いて夜走ってもらうより、僕がとりに行って運転、それで事故を起こすなら諦めがつく。他人には任せられない。行きのTaxi運転手にはTchitchiさんを指定した。彼は安全運転で料金もふっかけない。本当に車を明日引いて来られることを祈ろう。

Le 29 décembre 2009, mardi
9時半すぎBenの車でカスンバレサに向かった。途中、知事が土地を買い上げることに決めたため大金持ちになったという農家によった。Benはどんな関係かその取引で10 000ドルが入ると有頂天。11時にはカスンバレサに到着。輸出入品質検査機関Bureau de Contrôleで最後の判子をもらうべく待機。
16時半まで粘って、やっと車を保税地域から出すことが出来ることになった。しかしナンバプレートなし、保険証は見当たらずという体たらく。カスンバレサでナンバプレートも保険証も直ぐ手続きが出来るというのにBenが「ルブンバシでせよ、車は自分が運転するから途中で警察の取締りがあっても大丈夫だ」と強引に車のキーを僕に渡さない。Benは来たときと同様、有料道路の代をAlain君に払わせる。細かい金がないからだって?調子が良すぎるぜ、この男。さらにあつかましく、僕のピックアップの荷台にヤギを2頭乗せ、ルブンバシの将軍に土産として持っていくのだという。確かに1頭は、将軍の館に持っていった。もう1頭は自分用で、家には犬がいるので、今殺すといって業者を探し、1件目が10ドルというと高いからと他を探しだして屠殺することに。僕は路上でヤギが殺される場面を見たくなかったので、Benから鍵を受け取ってホテルまで車を運転した。途中ポリスの尋問がなかったのは助かった。

Le 30 décembre 2009, mercredi
10時にBenの事務所。預けた50万円を返してもらった。一安心。マーケットのない円だからといって安心はできない。近くでは南アメリカでは円を売ることができる。ともかく取り返すことが出来て一安心。Benは肌身離さず円を持っていたので、金をいれた封筒が切れたといっていた。そうかねぇ。まぁ、変な気をおこさなかったのは、預り証をとっておいた効果かもしれない。

ナンバプレートの取得に120ドルと5 000FCが必要というのでAlain君に渡した。ところが1時間ほどしてvignette(納税証明チケット)が必要だ、それに200ドルかかるという。しかし、それはまもなく総額と判明。差額80ドルをAlain君にもたせた。しかしこれまでvignetteのことはきいていない。しかも、200ドルは結局、早期にナンバプレートを取得するためのsucré(飴玉、つまり賄賂)を含んでいることも分かった。
今日中にプレートを取得できると当局が約しているという。
しかし、実際にプレートを取得したのは、シスターAssuntaさんのところから帰ってきてからだった。18時半。何故途中経過を報告しないのだ。情報の重要さを全くAlain君も認識していない。結果がよければいいじゃないかということには必ずしもいかないのだよ。
で、保険証? これがまだカスンバレサから届いていない。まだ車に乗れないじゃないか!

シスターAssuntaのところで、教会の宿泊施設を明日見学することになった。40 eurosだが三食付。明日から、新年また4日の独立犠牲戦士の日と休みが続き、外での食事もままならない。引越しを考える。
Assuntaさんとベルギー人隣人宅を訪問。ご主人は近距離小型機のパイロット。かなりのお歳だろうと思われる。数日前、知事モイーズMoiseを乗せて彼の生地に送ったのだという。生地でモイーズは女房の誕生会を盛大に開いたそうだ。
このベルギー人の屋敷に猫ちゃんが2匹。黒猫とトラ。親子だそうだ。可愛い。東京まで僕と一緒にスイスから来た僕のチカちゃんは今頃どうしているのだろう。東京から佐倉に引っ越してから失踪してしまった。元気でどこかの家に飼われていればいいが。

昼、あるONGの責任者と話す。ONG設立はかなり面倒である。いくつもの機関に登録しないといけない。しかも免税措置の多くはキンシャサの機関。キンシャサに誰かいないと難しいという。しかも、早く手続きを遂行するにはsucréが必須。参るね。どこでも金だ。

Le 31 décembre 2009, jeudi
午前中、シスター・アスンタさんとサレジアンの経営するホテルとフランシスカンのそれとを訪問、サレジアンの方に決めた。50ドル。ただし3食付。静かなところで姦しい音楽がない。庭の中に、売店とガソリン・スタンドがある。駐車場も大きい。
サレジア会は日本でも有力なキリスト教の会派である。日本各地にあるサレジア高校がある。教育に熱心なイタリアのDon Boscoが19世紀に立てた会だ。名前の由来は、しかしフランスはサヴォワ地方生まれの、宗教改革時代のカトリック側の英雄、後聖人デ・サルFrançois de Salesである。

昼、ホテルにとって帰って、荷物をまとめサレジアンのところに引っ越した。車も移動。保険のことはまだ解決していなかった。

昼過ぎ、保険会社に出向いた。午前中のKyunguさんの調査でカスンバレサではそれまで付保されていなかったことが判明。Benは保険代金をごまかそうとしたようだ。通関業者への再三の催促に仕方なく今朝になって付保したことが判明。しかし、ルブンバシの保険屋は国境で作った保険証と支払い領収書がないと年間保険契約が出来ないという。なんとかしてくれという僕の嘆願に、担当のJean-Pierreさんが、カスンバレサに電話してくれて、支払い事実を確かめ、上記書類なしに保険を受け付けてくれた。賄賂なし。アランやついてきた通関業者に任せていたら今日保険契約をすることが出来なかったろう。カスンバレサでの短期(30日)契約分を差し引いて、309ドルの支払い。
外国人をみれば賄賂の額が高くなるというのも場合によりけりなのだ。税官吏の賄賂体質を決して是認しているコンゴ人ばかりではない。恥ずかしいことだと考えているコンゴ人も沢山いるのだ。それは賄賂の恩恵に浴していない立場だからという理由ではない。Alain君は賄賂に甘すぎる。

ともかくこれで安心して車を運転出来るようになった。今日保険のことが解決しないと、元旦の休み、続いて1月4日の祭日となり来週火曜日まで解決が延ばされるから後5日間少なくとも車は眠っていなければならないところだった。

15時15分、サレジアンで給油してから、アスンタさんのところに車ででかけた。彼女に車をみてもらいたかったから。彼女の修道院の前でスコール。激しかった。雨のやむまで門を開けるのを待ってもらった。車をみて、アスンタさんは喜んでくれた。

夕飯はサレジアンの宿舎の食堂。18時45分に始まる。19時過ぎに行くと誰もいなかった。その後3人ほど来た。みんな神父さん。今日は子どもたちのサッカーの試合があって教会付属の学校の生徒たちが参加したという。盛んに雨にも拘わらずいい試合だったと評価していた。食事は簡素だが割りと美味。途中でビールまででてきた。イスラムではないから種類もいいのだが、神父さんたちも飲んでいた。更に信者からワインの最入れまであったのである。神父さんたちは結構飲む。これは新発見。

部屋は、極めて清潔。このサレジアンのホテル宿舎には、デラックスな部屋もある。100から250ドル。僕の部屋は、50ドルだけれど、かなり広く大きな机が二つもある。トイレ、シャワーもついている。同じ50ドルでもトイレ、シャワーがついていない部屋もある。このぐらいの広さでコーナーに炊事施設があるstudioがみつかればそれで僕は満足だ。水もお湯も出る。電気がきれない。さすがサレジアンだなぁ。彼らはルブンバシでトップのドン・ボスコ病院、小学校と中学校も経営している。

新たな気持ちで新年をむかえることが出来そうである。

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