10 octobre 2014

10月10日 恩師リビ先生へのオマージュ hommage à mon prof Max Aimé Ribi

Le vendredi  10 octobre 2014
5時、快晴、26℃、50%。

家のバナナがたわわに生(な)り、実の重さでバナナの木が折れた。去年もそうだった。息子クリスチャンが実を切ってくれたので、袋をかぶせて納屋にいれた。熟するのを待つ。去年より実が大きい気がする。4本のバナナの木(本当は木ではなく茎だそうだ)のうち1本しか実がならなかった。栄養がたりないのかなぁ。
バナナの房をかかえるクリスチャン君

南ア・コンゴ・日本プロジェクト(「古着、中古自転車、中古車椅子、玩具をカタンガ州の村落に贈る」で日本のご協力を仰いでいるが、コンタクト先のメイル・アドレスや担当者がわからないときがある。中古自転車、車椅子でRYさんが積極的に関係先に電話してくれた。YYさんからは、「日本カタンガ協会」会長キュングが古着の件でコンタクトしていたのはNPO「マザーズ」ではなく「マザーランド」だと教えていただいた。僕のメイルを受け取った「マザーズ」はキュング氏がリファーされていてもチンプンカンプンだったのだろう、返信がなかった。皆様、ご協力深謝いたします。

夕方5時半、突如、夕立。今日は16時に水がでたので、庭に水撒きをしたのに。恵みの雨だ。昼間は確かに重苦しい暑さだった。まだ雨季は終わっていないと思うが。直ぐに停電。

最近友人知人がよく急に亡くなるので、僕の神戸時代の恩師マックス・エメ・リビ先生をGoogleで検索した。やはり亡くなられていた。2007425日のことと知った。
1999年に沖縄大学の先生をしていた大学同期の山吉君(教育学)が突然亡くなって、彼に会いに沖縄へ飛ばなかったことを悔いた。そこで、日本に僕がいるうちにリビ先生に会わないと一生会えない気がして東京から神戸に高速バスを利用して確か20001月末に先生の見舞いに行った。入院中だと聞いたからである。甲南病院に入院されていたが、僕のことを思い出すのに時間がかかった。ベッドから起き上がれなかった。声は大きかった。「あっ、お前か、何しに来たんだ」。
95年の地震のときはスイスから安否を知るためご自宅に電話したら大阪に非難された後だったが、直ぐに避難先の先生と電話で話ができたのに。
神戸の会社の英会話教室でリビ先生に会ったのが初めてである。神戸大学と神戸商船大学の先生をしていた。鴨子ヶ原のシャレのようなお宅によく行った。風呂まで頂いたことがある。
神戸新聞1956年10月4日
棒はまだ小学校の生徒だ

この教室とは別に神戸で僕ははフランス語会話学校にも通っていた。リビ先生はフランス語も出来た。しかし、ドイツ語圏のスイス人だった。既にアルジェにいたころ一時帰国して「先生のフランス語、スイス・ドイツ語アクセントだなぁ」といったら、「なにぃ、お前のフランス語だって地中海訛りだぞ」とおっしゃってお互いに笑った。
神戸時代には僕が書いたフランス語の詩を読んでもらったり、劇作家ジャン・アヌイユの『アンチゴーヌ』を一緒に読んで指導していただいた。
僕がフランスに行くといったら「どの位行くの」と訊く、「2週間程度の見学」と答えたら、「馬鹿かお前、2週間で何が分かる、数年はパリにとどまれ」。そしてパリ大学都市のシモーヌ・ベルナションさんを紹介してくれた。シモーヌさんには散々パリでお世話になった。
僕は、リビ先生が先生などと云われて大学の先生をしていたのは隠れ蓑だと思う。彼は哲学を生活の場で実践していたのだと思う。エドニスト。若い人が好きだったから、学生相手に大学で遊んでいたのだ。
インターネット時代だから分かったのだが、リビ先生を仏文学教授として神戸大学に招聘したのは加藤一郎(ドイツ文学)だそうだ。当時(1956104日)の神戸新聞の記事を発見した。また、フランス語Googleではリビ先生が日本からフランスの作家マルセル・ジュアンドに宛てた手紙や葉書がフランス政府のジュアンド資料に収められていることも分かった。
そういえば、僕がパリにいたときにジョアンドに会うようにとの手紙を貰ったことがある。なぜか僕はジュアンドに会いに行かなかった。ジュアンド晩年の頃である。
僕は結局フランス、憧れたアルジェリア、スイス、スペインそして今コンゴと生涯の半分以上を海外で暮らすことになった。大学を卒業してから大半が外の生活である。リビ先生の一喝の所為た。
マックス・エメ・リビさんへのオマジュのためにこの項を載せる。





Aucun commentaire: